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2007年07月29日

楽しませてくれる事を期待してます【「幻魔大戦(映画版)」(1983年 角川アニメーション)】

 はい、夏です。もう、今回紹介します幻魔のように、しかも定期的に迫ってくるのが〆切です。個人でしかも趣味でやっているので、それほどストレスはないだろうと思いきや、そうでもありません。実際、かなりのストレスを感じるものです。
 
だったら辞めればいいのですが、それも楽しんでいる気配がありますので、これはもうマゾっぽい感性なのかもしれません。商業的にもこんな感じってあるのでしょうかね?



 さて、今回は1983年に公開されました「幻魔大戦」です。

 あらゆる生命の完全な絶滅。それのみを求めて宇宙をさすらう破壊者「幻魔一族」。その魔の手がついに地球へと伸びてきたとき、それをいち早く察知したのは、小国の姫「ルナ」であった。彼女を乗せた飛行機は幻魔の魔の手によって落とされた巨大な隕石の落下によって破壊されてしまう。しかし、その危機を救ったのは宇宙にある善なる意識生命体「フロイ」。フロイは彼女に幻魔のビジョンを見せ、その運命を示す。それは、幻魔と戦うために生まれ変わった地球のサイオニクス戦士としての運命であった。
 
彼女が殺されそうになった原因、隕石と思われていたのは、遠い別の銀河系で同じように幻魔と戦いながらも、絶望により心を閉ざしていた戦士「ベガ」。ルナとベガの出会いは、新たなる戦いの幕開けを意味していた。
  
 とある野球部の選抜メンバー選考会。そこで華々しくアピールしていた一人の少年がいた。「東 丈」…しかし、彼がその選抜メンバーに選ばれることはなかった。自暴自棄になった彼の前に、異形の姿をしたロボットのような人間のようなモノが現れる。丈は必死に鳴って逃げるが、しかし異形は間違いなく彼を追い詰めていった。そして、その窮地にあって彼が手にしたのは、念動力=サイコキネシスであった。丈を追い詰めていたのはベガ、そして、ベガの後ろでルナは丈を見ていたのだ。
 
超能力に目覚めた丈。しかし、同時に能力を過信した丈は親友を失う事になる。目覚めた事による高揚とどれに伴う孤独。そんな不安定な日々の中、ついにルナは丈にテレパスを送る。それは、フロイから貰ったメッセージ。幻魔のイメージであった。
 
だが、そこでアクシデントは起こる。イメージの幻魔に負けたと思い込んだ丈が自分の殻に閉じこもってしまったのだ。ルナはテレパスを使い、丈の深層心理まで入っていく。それは大変危険な行為であった。しかし、彼女は言った。丈を失うわけには行かない。丈はルナによって現実に戻ってくる事ができた。
 
一端、ルナたちと別れ、家路につく丈。しかし幻魔の進行はすぐそこまで近づいてきていた。


 SF作家の平井和正氏とマンガ家である石ノ森章太郎氏の合作として始まった幻魔大戦。その1~3巻にオリジナルのストーリーを加えて完結させたのが、映画版の幻魔大戦です。記憶から引っ張り出すと、CMがガンガンに流れていました。しかし、今見ても、少し完成度が低いと思われる点が無きにしも非ず。
 
それもそのはずで、監督のりんたろう氏ですが、同時期に銀河鉄道999の映画もやっていたわけです。そんな多忙の中では…という事で999の方に力を注がれたという噂を聞いたことがありますけど、本当の所はわかりません。
 
実際には、原作の途中という事もあり、また、壮大な内容でもあった為に、削られたり足りなかったりで話の流れがいきなりわからなくなる箇所もあるのですが、それでも見れる映画ではなかったかと思います。

ただ、残念なのは、やはり人数の多さでしょうか。サイオニクス戦士が沢山出てくるのですが、その活躍の場が与えきれなかったのは尺の関係で仕方がないのかもしれません。これ以上のボリュームでやるにはOVAしかないのでしょうが、当時、当然のようにビデオは高価なものでしたので、無理な話です。
 
後年、テレビ作品としてリメイクされたわけですが、正直な感想として映画の方が面白いと思うわけです。つまるところ、原作者に画像を似せる努力よりも、マンガをアニメとして如何に加工する能力を持っているのか。それを知らしめてくれた作品の一つであると思う次第です。



 Blogのサイトを複数持つのだけでも大変だというのに、映画を連続で監督するというのは大変な労力が行った事でしょう。ただ、必要なのは出来上がる事…いえ、それは違います。商業と趣味の隔たりはやはり「儲け」そのものにあるのです。
 
その公開の結果、次回作に期待できる作品であれば、今後の儲けもネームバリューで期待できるでしょう。しかし、観客は残酷なものです。期待できなければ、まず、後ろ足で砂をかけるものです。固定ファンも確実にいるのでしょうが、やっぱり気になるのは、全体の感想。固定ファンだけで収益が得られればいいのですけど、それに甘えるといつかは持たなくなります。
 
 
 この話、政治に似ているような気がしますね。今回の場合は参議院選挙の結果、どのように政局が変わるにしても、結局、支持を得る為には誠実にして確実な結果を出すのが一番。政治家は言ってしまえば、国の監督。楽しませてくれることを期待する国民という観客をどれだけ満足させる事ができるのか…うーんこれは、大変な努力を求めるものですねぇ。
 
ま、そのために前払いで視聴料という名の税金を払っているのですから当然といえば、当然ですね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年07月22日

リメイク作品がいけない!…わけじゃない【「エメラルドドラゴン(PCエンジン版)」(1994年頃 アルファ・システム/NECホームエレクトロニクス)】

 最近のリメイク品。特にロボットジャンルにおいては不満いっぱいの感じです。一言で言えば、何故にあれだけつまらないのか。一つは話数が短い!一つは玩具展開をしていない!一つは現在の作画技術は間違いなく昔よりも下がっている!という感じなのでしょう。これでDVDを買ってくれなんて甘い事を言っていてはいけません。オリジナルではなく、リメイクなのです。特に昔の作品を知っている方にアピールするのであれば、それなりではいけないのです。もっと、当時の魂を思い起こさせるような展開にしなければね。

暴走しかけているのでクールダウンしまして、確かに、アニメ作品の深夜枠移動やWOWOWなどの衛星番組への移行は放送権料の安さを狙ったものでしょうが、それ以前に昔のように玩具として出さなくなった玩具業界にも問題があるのではないのかと思っている最中、今度はリメイク版の嵐です。こうなると、嵐というよりも荒らしと書いた方が良いのではないのかと思うほどです。

人間性のあるドラマのような作品も確かに必要なのですが、ロボットでもスーパーロボットのような荒唐無稽な作品は必要なのです。グレンラガンはそういう意味では楽しいのですが、しかし、やはり王道というには少し足りないと思う次第。スーパーロボット大戦に出てくるようなスーパーロボットの出現は今後、リメイク以外にありえないんでしょうかね。

ただ、リメイクがいけないというわけではないのです。

上にも記載しました通り、やるのならばオリジナル以上の情熱を持って制作してほしいわけですが、情熱だけあっても仕方がなく、やはりそれなり以上の実力と資金は準備もしてほしいものです。できなければ、オリジナルを作っていた方がマシなわけで、その方がソレから以降の展開も見えてくるものなのです。

まぁ、同人やっている立場から言わせて貰えば、二次創作なめるなという事でしょうかね。

特にそれを商業でやるっていうのなら、尚更の話。誤魔化しがあっちゃいけんのですよ。それは結局、信用を落とす結果になりますし、それ以降、作れなくなる可能性が出てくるわけです。作る以上はしっかりと最後まで気を抜かずにやってほしいものなのです。


 さて、今回は1994年頃にPCエンジン版として発売されました「エメラルドドラゴン(PCエンジン版)」です。

 聖地イシュ・バーン。そこはかつて人間とドラゴンが共存する理想郷であった…ドラゴンに呪いがかけられるその日までは。その呪いとはドラゴンがそのままの姿でいる限り、必ず絶命する強力なもので、結果、彼らは新しき国ドラグリアに移り住む事になった。
 
それから2000年の後、ドラグリアの近くで船が難破し、その中から一人の少女が助け出される。しかし、その少女の記憶はなくなっており、自分の名前すら覚えてはいなかった。ドラゴンは大変な長寿であるが故に子供が出来にくく、一族にいる子供を大切にする。それはドラゴンだけではなく、他の生命であっても同じ事。もちろん、人間の子供とて例外ではない。記憶のなくしたその少女は長老である白龍によって「清き者」の意味である「タムリン」という名前をつけられ、大切に育てられた。
 
しかし、龍の年月と人の年月はやはり異なるもの。日々成長する中で美しい娘に成長していくタムリンは、やはり人の世界で暮らす事に幸せがあるのではないのか。そう考えた白龍はタムリンに人間の世界へ帰る様に促す。それに反対するのは、タムリンと仲良く成長してきたブルードラゴンの青年アトルシャンであった。白龍に抗議に向かおうとするアトルシャンをタムリンは引き止める。それはドラゴンよりも短命である人の子、タムリンがアトルシャンを思っての決断でもあった。決意が固い事を知ったアトルシャンは、自分の角を自らの手でへし折り、それを手渡した。
 
いつか、自分の助けが必要になったら、この角で作った角笛を吹いてくれ。どこだろうと必ず助けに行く…それが約束であった。

そして、タムリンがイシュ・バーンに旅立ってから数年後、アトルシャンは角笛の音を聞くことになる。それは間違いなくタムリンからの助けを呼ぶメッセージであった。そして、若きブルードラゴン、アトルシャンの旅立ちが始まる。だが、その時、その向こうにある邪悪な野望をアトルシャンはまだ知りえなかった。


 というわけで、自分の中でリメイク版を要望したいソフトの一つであります「エメラルドドラゴン」です。今回掲載しておりますのは、PCエンジン版です。元々、パソコンソフトで出た作品でありますが、私的にはこのPCエンジン版が一番面白かったので、これを選びました。

アトルシャンの旅立ちまで記載しましたが、この話、ドラマCDとしても展開しておりまして、その声優さんが実に豪華であります。ただ、実は声優さんが起用されたのはその前に発売されましたFM TOWNS版でして、このPCエンジン版では大幅に変わってしまったのですが、そちらも豪華なのですよ。

当時のゲームではまだ一般的ではなかったフル画面におけるアニメーション(といっても今から見ればパラパラ漫画のようですが)に驚きで、それが声優さんの声にあわせて動くなんていうのは感動ものでした(別の機会の話にりますが、PCエンジン版のパトレイバーも面白かったのですよ)。その原画には木村明弘さん(今、月刊コミック電撃大王でスーパーロボット大戦OG ディバインウォーズ連載中)が起用されておりまして、大変に美しい絵柄でした。

PCエンジンはCD-ROMでしたから、音楽もOPや移動画面などは通常の音楽…つまりは電子的なピコピコ音ではないのも感動でした。フルボイスではないのですが当時としては画期的なものなのです。ロード時間が遅いのでPCエンジン自体を敬遠しているゲームファンも大勢いたのですが、それでもやる価値はありと思っていました。


 今でも、ゲームの本体、そしてソフトはありますので設置すればプレイ可能です。しかしそれよりも、やはりリメイク希望!ですね。今人気の声優さんが起用されるのでしょうが、原画が木村さんであれば何の問題もありません。現在はメディアワークスがその版権の統括をしているそうなので、やってもらえないものでしょうかねー。絶対に何としても買いますよ。

物語はものすごくオーソドックスな物語です。しかし、ソレが良い。最近、ロードオブザリングやダレン・ジャンなどの作品が日本でも当たり前に見られるようになったからこそ、こうしたオーソドックスなファンタジー物が良いと思うようになりました。確かに、小難しい専門用語や独自の設定も楽しいのですが、やはり根本を忘れてはいけません。こうした作品にも慣れ親しむ事で、そうした今風の作品もより楽しめるのではないのかと思うわけです。

んー時間が出来たら、もう一度やってみよーっと。


 リメイク作品自体にそれほど違和感は感じません。例えば、声優が変わっていようとも、作画が変わっていようとも、それはそれで受け入れる事が出来ます。その理由は一度流れを切った作品は例え続きであろうともやはり異なるものであるからです。例えば、第一期を放送し、DVDなどの発売やインターネットラジオでおまけ話をつけ、そしてそれらの終了までに第二期を始める。これはぶった切っているとはしません。完全にぶった切っている作品として例に挙げるのならば「ガイキング」や「ジーグ」「星矢」などがそれにあたります。

特に、何年も経ってしまった作品に関して、そのリメイク版を作る際に、かつて人気のあった元作品にあやかろうとしている傾向が多分にあるわけですが、それでしたら作る意味はありません。また、リメイク作品では、往々にして前作のイメージを大幅に崩す事になるのですが、それならば作る必要はありません。

その昔、セルに起こす為に一枚ずつ描いていた雰囲気を壊してまでリメイクする必要はないと言う事なのです。

ですが、声優さんはそう考えないのです。ゲームのスーパーロボット大戦をやったからかもしれませんが、やはり当時のままでいられるほど人間は高等に出来ていないのです。その当時の声をそのまま出す。これは特に修練を詰まれた声優さんであればあるほど難しい話なのです。となれば、それを聞いて育っていた当時の人にしてみれば、違和感を感じて当然の話。だからこそ、あえて新規の配役でやる事に違和感を感じないというわけなのです(実際、知り合いの人とその昔、スパロボ…確か第4次のSをやった時に、「こんなにうまくなかったよね」と話した事があります)。

リメイクをするのであれば、それは今の時代の話。やはり、今という規制のかかる作品が出来上がるわけですから、全てが当時のまま…というわけには行かない話なのでしょう。
 
 
しかし、それにつけても、「星矢」に関しては言いたい事があるとすれば、何故に最初からアニメ化しなかったのでしょうかね。それぞれの括りごとでOVA化すれば良いじゃないですか完全な新規作品として。CDドラマで済まそうという浅はかさが本来期待できるはずの作品を駄目にしたと思えるのです。

私としては「サムライトルーパー」のリメイク版を見てみたいです。でも、かつての声優さんを必ず!とかは思いません。今のサムライトルーパーを見て、それで一喜一憂したいのです。ただ、昔も見ていたのだよというある意味のアドバンテージを持って見るのは間違いない話なのですが、それでも頭から批判はしないでしょう。

なぜなら、それは昔見たトルーパーではなく、今の世代に向けたトルーパーであるからなのです。それが面白ければより楽しめますしね。本当にリメイクしてくんないかなぁ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年07月15日

オリジナルとパロディの境界【「電人ファウスト」(1995年頃 上山徹郎/小学館)】

 もう少しで同人誌の一大イベントが行われるわけですが、その大半はやはり問題を抱えたまま開催されるわけです。何の事かと言えばキャラクターや作品の権利の話です。私自身も長年参加していますから、そう人の事をいえたものではありません。しかし、やはり考えてしまうのが、作品の在りようというものです。

エロであろうとなかろうと、パロディ系の全ては「他人のふんどしで相撲を取っている」わけでして、しかし、問題はそうした中で多少なりとも利益を得ているという事です。

同人誌のパロディに関しては、その元となるものの人気がなければ、まず売れるものではありません。もちろん、それだけではないのですが、大概はそうです。これを否定してしまっては、毎回のように大勢を占めるジャンル(作品)が変わってくる(変動する)理由にはなりません。

となれば、その作品のパロディ=二次作品の売り上げは全体でどれぐらいになるのでしょうか。

これを狙っていない会社はまずありませんが、同時に会社としてはその作品の品性を問わなくてはなりません。ここが同人誌を作っているもしくは買っている人との考え方の違いになってくるわけです。

その作品が好きだから、そのキャラクターが好きだから…という言い訳でやっている人が大半なのでしょうが、それは全く理由にはならない話です。問題は、その会社で管理しているキャラクターを利用して利益を得ているという事が問題なのです。

 ですが、パロディの話をすると言う事は、必ずオリジナルの話になってくるのですが、これがまた難しい線引きになってくるわけです。今の世の中において完全なオリジナルはまず作れないでしょう。作れたとしても、その世界が浸透する前に作者は亡くなってしまうかもしれません。

例えばロボットというものを使う以上、それは何かの模倣でしかありませんし、それはサイボーグでもアンドロイドでも同じ事なのです。

 どこまでをパロディと言い、何をしてオリジナルというのか。万人に説明でき、納得させられるほどの明確な答えは残念な事に誰も持っていないのが現状であるようです。


 さて、今回は1995年頃に小学館ころころコミックで連載されました「電人ファウスト」です。

 とある工業用ロボット工場で爆発事故が起こる。その際に、九体のロボットがその場から逃げ出している。とある目的のために…。

東京秋葉原のゲームセンターに一人の少女がいた。名を暁光寺留詩葉。しかし、今、彼女に魔の手が迫っている事を彼女自身も知る由もない。その魔の手が留詩葉を確保しようとしたその時、一台のバイクが店内に飛び込み、あろう事か留詩葉を手にかけようとした者を銃で撃った。

その勢いのまま、留詩葉を乗せて店を出たその人物…いや、人型のロボットは留詩葉と共に電気店に入る。そこにあるテレビの外部端子に自分の指から出したプラグを差し込む。すると画面に男性の姿が映し出された。それは留詩葉の父であった。

「今からお前の周りに九体のロボットが現れるが、決して捕まってはいけない」

彼女を連れ出したロボットの名はファウスト。父である三太が留詩葉を守るために送り込んだロボットであった。

そして、彼女を狙うのもまたロボット。しかも、そのロボットは三太のすぐ近くにいた。人間により近く作られたロボット、エンジェル。彼女は三太を父と呼び甘える。それを許していた三太であったが、しかし、エンジェルには不満があった。より人間に近しいながらも、硬い身体は彼女の求めるものではなかった。そこで三太の娘である留詩葉に目をつける。

彼女の脳の一部とエンジェルの端末を交換し、エンジェルは留詩葉の身体を奪い、そして三太の本当の娘になろうとしていた。

一度はエンジェルが画像でありながらも直接、留詩葉の前に現れるが、そのとんでもない提案も留詩葉は断固拒否、そして三太にあわせろと言う。それに不満を持ったエンジェルは今まで穏便に行ってきた確保をやめ、強引にでも留詩葉を奪ってくるように、手下とした九体のロボットに命じた。

一人の少女を巡ったロボットバトルが始まる。それは同時に、留詩葉の父探しの旅の始まりでもあった。


 今ならば、そこらここらにありそうな話ですが、しかし、その内容たるや今の作品としても十分に通用するものです。子供向けの作品であるために、漫画としての組み立て方は大変、活劇的にしてあります。しかし、その設定からすれば、今、アニメにしてくれと言いたくなりそうなほどの面白みがたっぷり含まれています。

残念な事に、この物語自体、連載当時は完結しませんでした。しかも、複線をはったまま終わってしまった…なんとも残念な話です。

ファウスト自体の設定で、実はファウストには人の脳髄が使われていたという話があるのですが、恐らくエンジェルとの対峙した際にそうした話が出てくるのではないのかとさえ、予想できるものでした。もちろん、それを対象となる年齢の子供が理解できるのかと言われれば難しいのかもしれません。


作品自体が何かの影響を受けているとすれば、それは石ノ森作品であるのでしょう。ファウストが純粋なロボットではなく、サイボーグのような存在として「009」でしょうし、ロボットから人間になりたいという願望は「ロボット刑事」の臭いを感じます。これをどう評価するのかはそれを読んだ人によるのでしょうが、私的にはうまくインスパイアされていると思います。

早すぎた傑作であるのではないのか、私はそう感じてならないのです。


 今は昔、と言う言葉がありますが、それを持ってしても問題になるのが著作権ではないのでしょうか。しかし、その問題の根底にあるのは、あくまで第三者が著作権を問題にする事が多いと言う事です。これは、未だ法の整備がなされていない現状を如実に表しており、結果、混乱を招く事になっているわけです。

中国の遊園地におけるキャラクター騒動もそうですが、あまり下手な言い訳をしない、させないためにも、著作権が誰のために、何の為にあるのかを今一度はっきりさせ、何をして商業とするのかを明確にするべきではないのかと思うのです。

ただし、日本のアニメや漫画にいたっては、模倣がその文化を育ててきた経緯もあることを忘れてはいけません。権利は当然主張するべきものでしょうが、利益がその先にあってはならないのです。利益を重んじるばかりに権利を死守するのではなく、権利を主張した結果に利益が得られることが一番の理想とするものではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年07月08日

作品の良し悪し【「カレイドスター/新たなる翼」(2003~2004年 GONZO/テレビ東京)】

 二次創作者から見た良い作品の条件とは、やはり物語が見えてくること…いえ、それだけではなく、その物語の先が全く見えない事も良い作品の条件であると考えます。もちろん、その両方には作品が面白いと感じる事が重要なわけですが、それは当たり前すぎるので、省きます。

何故なら、どうして面白いかというのは、その人の感性によることが大きいからです。

となれば、もし、全ての人が面白いと思う作品が作れたら、それは無条件に至上の作品という事になるのでしょうか。それは、二次創作のネタが浮かぶもの、もしくは全く浮かばない完成されたもの…その答えはそうした作品が出てこないとわからないのでしょうが、しかし、これだけは言えます。

その作品を読んだ人の感想は違うかもしれません。しかし、同じ感動は共有できるのであろうと。


 さて、今回は2003~2004年にテレビ東京系列で放送されました「カレイドスター/新たなる翼」です。

 アメリカにある一大エンターテインメント集団・カレイドステージ。そこでは歌劇、サーカス、マジックを組み合わせた、それまでにはないそこにしかないエンターテインメントを提供していた。しかし、華やかに見える大舞台の影では大勢のスタッフが走り回り、そして数多くの俳優が互いに競い合い舞台を成していた。

そんな過酷な中に憧れを持って突入してきた苗木野そらは当初より遅刻。それを、今の中心人物であるレイラ・ハミルトンに指摘され、入団すら出来ない状況になった。しかし、カレイドステージのオーナーでもあるカロス・永戸はそんなそらに何かを感じてならなかった。紆余曲折ではあったが、何とかカレイドステージに入団できたそらは努力に努力を重ね、次第に主役も出来るようになっていった。

しかし、その中、カロスの親友の息子であったユーリ・キリアンがカロスを追い出し、実質的にカレイドステージのオーナーになってしまう。だが、それはユーリを通じて儲けのみを狙っていた資産家の思惑があった。

そうした思惑は次第にカレイドステージ自体を疲弊させ、ついには売却問題にまで発展する。だが、それを救う手立てが一つだけあるという。結果的にステージによっての失敗は、ステージでしか返せない…カロスは幻の大技の完成をレイラとそらに託した。

だが、幻の大技はカロスにとってはトラウマな技でもあった。ユーリの父でもあり、カロスの親友でもあるアーロン・ブラスはこの大技を行うも失敗、結果死亡してしまったからだ。ユーリは自分でも出来ない技をそらと行おうとするレイラを必死に止めようとする。だが、レイラはそれを跳ね除けた。失敗を恐れるものに成功はありえないと。

幻の大技の特訓は熾烈を極めた。その最中、無理な減量がたたってか、レイラは怪我をしてしまう。その怪我を隠してまで特訓を続けるレイラ。一方のそらはレイラからも何も言われず、遅々として進展しない自分の成果に苛立ち自暴自棄になる。しかし、見えない場所で努力するレイラの姿にそらは自分を取り戻し、ついに、幻の大技は完成を見る。

レイラの肩に問題がある、が、レイラはそれを止める理由とはしなかった。そして幕は上がる…結果、幻の大技は成功するも、レイラの肩はカレイドステージに上がれるようなものではなくなり、夢をそらに託して去っていく事になる。

 第一部でもある、幻の大技までの話は、そらがカレイドステージで憧れであったレイラ・ハミルトンとの対等な競演をするまでになる話でした。それまでの確執や陰謀などを考えると、本当によくやってきたという演出がなされています。

尺の関係だと思うのですが、時折、そらの強運によって救われる演出があったわけですが、しかし、それも次第に出てこなくなっていきました。最後の方では、レイラがクローズアップされる回が多くなり、後々思えば、世代交代の演出がうまく成されたのではないのかと思っていました。ですが、それは第二部で叩き折られる結果になるわけです。

 順調に成果を上げていくカレイドステージ。そこに新人俳優としてメイ・ウォン、そして助っ人としてレオン・オズワルドが参入してくる。

メイは元々フィギュア出身であったが、その身体能力はカレイドステージでも通用するものであった。しかも、メイが入団してきたときには憧れのレイラはすでにおらず、その最後のパートナーとされたそらに敵意むき出しできつく当たっていった。

サーカス界の貴公子と言われるレオンは、数多のサーカス団から呼ばれるほどの腕の持ち主…しかし、そこでパートナーとなった相手を潰していく事でも有名なプレイヤーであった。だが、レオンの起用は正解でそれまで出来なかった演出が出来るようになっていく。

そんな中、カレイドステージにも大切な日が刻々と近づいてくる。三年に一度のサーカスフェスティバルの開催であった。前回の優勝者であるレイラとユーリには優先的に参加できるチケットがそれぞれに配られている。そのチケットを賭け、メイとそらはレオンのパートナーになるべく争っていく。結果、レオンが選んだのはメイであった。

しかし、チケットはまだ一枚存在する。それはユーリであった。ユーリを追いかけパリに降り立つそら。そこでユーリと再開し、サーカスフェスティバルに一緒に出てくださいと頼む。そこでユーリはそらに提案する。天使の技をやってみないか…。

天使の技はそれまで誰も完成させたことのない技。それを完成させれば、フェスティバルでの優勝は間違いないだろうという事であった。天使の技を特訓するそら。そしてフェスティバル当日…そらは自分の考えていた以上の光景をそこに見る。

自分の夢をかなえるという事は誰かの夢を潰す事…フェスティバルで感じたそらのその思いは、カレイドステージからそらを離れさせることになった。つまり契約解雇となる。そして日本に帰ってきたそらは魂の抜けたような生活を送る事になる。だが、そんな時、日本にいる友人から「そらは凄い」と言われる。だが、そこでそらは思う、自分の夢とは一体何なのだろう…。

そして思い出す、初めてカレイドステージを見たあの日のことを…更に、今は提供側にいるそらは思う。共演者も、観客も、みんなが楽しめるステージにすれば良い。それがそらの新しい一歩となった。


 カレイドステージに帰ってきたそらを待っていたのは、雑用であった。しかし、それもそらは楽しむ。まずは自分のやれることをやろうと思ったからだ。その間にもカレイドステージはレオンとメイを中心に新しい作品を提供する事となる…が、その時、雑用であるそらに声がかかる。メイは争いたくないというそらがどう出てくるのか…どう演技するのかを期待していた。しかし、そらはそれを断った。

その事でメイにも、そして久々に姿をみせたレイラにも軽蔑されてしまうそら。だが、レオンは違っていた。レオンはそらに言う、自分のパートナーになれ…。その鬼気迫る状況から逃げ出そうとしたそらは車にひかれそうになるが、レオンが身体を張って助ける。その時、レオンの口から出てきたのはそらではなく、ソフィーであった。

そしてついに事件は起きる。新しい舞台でレオンは半ば強制的にそらをステージにあげる。しかし、雑用であると認識しているそらはそのステージから逃げるように退散していく。その姿が自分からソフィーが離れていくように見えたレオンは無謀にもバーから飛び出し、そして落下。大怪我をするはめになった。

レオンの怪我でカレイドステージは休業となり、その間、出稼ぎをする事になった先で、そらたちはレオンの過去を知る事になる。レオンの言うソフィーはレオンの妹であった事。そして、レオンとソフィーが天使の技を特訓していた事。そしてソフィーも信じていた争いのないステージの事。そらは改めてそのステージを実現させる決意をする。


 そしてついにそらはレオンの元、完璧な天使の技を完成させるべく特訓を開始する。しかし、バランスの悪いそらでは天使の技を完成させることは出来ない…そう考えたレオンはバランスを力でねじ伏せる特訓を始める。そのまがい物にそらは疑問を持ちつつも、レオンに言うとおりに特訓は続いていった。

その最中、彼女が帰ってくる…レイラ・ハミルトン。彼女はステージに残してきたもののためにカレイドステージへ戻ってきたのだ。そして、カロスに話す。天使の技でそらと対決する。

天使の技のお披露目ともなる舞台「白鳥の湖」。大体の構想がまとまりつつあるなか中、カロスは言う「オデットのオーディションを行う」。そしてそらとレオンの相手はレイラとユーリであった。天使の技が完成に近づいているのはそらだけではなかったのだ。そしてオーディションが始まる。

天使の技を見事に見につけたレイラの演技。それはとても肩を負傷しカレイドステージを去った者の演技とは思えないほどの見事なものであった。一方そらも、それに負けないほどの演技であったが、レイラのそれとは何か違っていた。そしてそれはレイラも感じていたのだ。

天使の心…天使の技がみせたのは一人一人が持つ天使の心を呼び覚ます事であった。その人が一番に持つ、楽しい思い出…争いもなくわくわくと胸躍らせたときの思い出を呼び覚ます心。それをそらは技を通じて与えていたのだ。共演者まで観客にしてしまうそらの演技にレイラは敗北を認める。レイラの忘れ物というのは、全力でそらにぶつかり負けるという事であった。それは、そらがレイラを超えた事でもあり、それまでレイラにもたれかかっていたそらの心が卒業した証でもあった。

全ては決まり、いよいよ天使の技を見せ場とする新作「白鳥の湖」の初日公演が幕を上げる事となった…。


 第二部でそらはレイラとの対決をし超えていきます。それは決して蹴落とすものではなく、追い越していくものであり、その瞬間、そらはレイラの夢から誇りとなったのです。


 スポ魂物というのは数多くありますが、今ではその様相も変わってきたものです。このカレイドスターもその変わって来た中に入るのかと思いきや、やっていることは巨人の星の強制ギプスとなんら代わりがないものでした。つまり、正当なスポ魂路線を最終的に歩んできたともいえます。

作品自体は二部からの盛り上がりがあったそうですが、恐らくは、二部を見た人が再度一部を見て更に盛り上がっていったというのが正しいのかもしれません。また、最終的にどのようになってくのかわかっているのに、それでももう一度見直してしまうほどの魅力をこの作品は持っています。単なるサクセスストーリーというだけではなく、また、単なる根性物というだけの話ではないのです。

最終的にそらは真のカレイドスターになれたのでしょうか。それはわかりません。何故なら、物語上そらはレイラの言われた自身の最後を見せていないからです。それは後ろから来る新たなカレイドスターに対して時がきたら全力で戦い、そして敗れる事。当然そらの話は今尚続いているのでしょうから、そんな最後の話などあるわけないのです。

ですが、一視聴者からすれば、いずれ彼女もそうなっていくのだろうという予感はあります。その話を見ることは叶わないのでしょうが、それはそれ。それまでのそらの話を見ていればおのずと予想できそうなもの。あとはそれを自分なりに纏め上げれば良いのではないのでしょうか。

はまると案外癖になってしまう作品、それがカレイドスターであったように思えるのです。



 上記文章の最後に二次創作のススメのような記載の仕方をしていますが、どうにもそれが難しくなりそうな世の中が来るかもしれません。いわゆる著作権法に関係することですが、確かに、現状の同人誌がそのまま良い物かと言われれば疑問が残ります。それを儲けにできるからと言う理由で助長している商業も賢いとは言えません。

やおい、今で言うBLは1980年ぐらいから活発になってきました。一時期はコミックマーケットに男子がいなくなるのではと囁かれた時代もあったほどです。しかし、バブル崩壊後はむしろ男側の活性化によって萌え現象が起こり、以降、エロ系が台頭してくる事になります。つまり、コミックマーケット開催日全てにおいて、エロがない日がなくなってしまったわけです。

人が性を欲する事が当然あるべき事です。それをあるキャラクターに投影する事もわからなくもありませんが、しかし、それだけで終始しているようでは結局ポルノ雑誌となんら代わりがないのです。

厳しい言い方をしますと、それは一過性のものであり、結局、キャラクターの衰退をもたらすものであるのです。

キャラクターにも生活がありますから性と死があって当然なのですが、それだけを誇張する昨今の同人誌系は、今の過激な表現が好まれる世の中の代弁者であると思えてなりません。

私自身はエロはパロディではないと思っています。それは一つの根本的活動のものであり、人の仕組みに代わりがない以上、キャラクターが代わったとしてもやることは同じ。つまり、マンネリであるとからです。

パロディにマンネリはありません。マンネリだとしてもその先に新しい表現が見えれば、それはマンネリではなくなり定番に変わったという事になるからなのです。しかし、定番における前と先は同じものではなく、別の存在です。つまり定番とは期待の現れであり、マンネリは繰り返しの作業という事なるわけです。


話が少しずれますが、同人誌がここまで成長した背景には、一つの勘違いがあります。それは作品を愛しているという事です。ですが、作家の中には、それは陵辱されていると感じている方が見えるわけで、それが規制のきっかけにもなっているわけです。

大きな渦は結局、大きすぎると身の破滅を迎えるだけです。暴走するのはかまいませんが、二次創作活動が続けられるためにもその方向性だけは間違えないようにと参加者の一人として願うばかりです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年07月01日

蓮の葉が池を半分に覆う日【「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society」(2006年 プロダクションI・G/攻殻機動隊製作委員会)】

 社会保険庁問題、農水省問題、おおよそ、政府に関連した問題は国民の生活に関係していながらも、その実態がわかりにくい事とそれすらも議員たちの票獲得のネタにされていまいそうなご時勢に、大半の国民は辟易しているのではないのかと思うわけです。

ただ、それがわかっていながらも、政治に無関心であるのは、やはり宗教観の統一、もしくは政治的思想の周知徹底が成されていないからかもしれません。

自由という言葉を履き違えた人々によって、この国はどこに向かっていくのか…一人一人が考えていく必要があるのではないかと思うのです。


 さて、今回は2006年にスカイパーフェクTVにて公開開始されました「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society」です。

 ある意味、これでTV版の攻殻機動隊はやることはやりつくした感があります。これ以上は原作イメージからの著しい逸脱が起こる可能性があるからです…というよりも、これまでに、幾人もの「人形使い」を題材にしてきたわけですが、それが攻殻機動隊の根本的物語であると設定されてしまいました。もし、他のテーマで作品を存続させるにせよ、世間一般の技術革新、なにより、見る側の消化が必要になってくるのでしょう。


 長崎で起こった核流入事件と難民の暴動後、公安9課より草薙素子の姿は消えた。その位置の後釜として荒巻が指名したのは、トグサであった。それまで身体の大半が生身のままであったトグサは、全身義体となり、あくまで公務のために自身を動かしていた。一方で、素子が行方不明になり精神的な不安定に陥った人物がいる。バトーである。トグサに不満があるわけではないのだが、しかし、彼の元で動くよりも、恐らく素子の絡んでいそうな事件を独自の捜査として動いていく。そんなバラバラな状態が続いていた。

そんな中、ある筋よりテロ勃発の可能性がある情報が飛び込んでくる。その情報にある要注意人物が空港で立てこもる事から物語は始まっていく。だが、その人物は結局、トグサたちの目の前で自殺を遂げる。「傀儡廻」の言葉を残して。

やはり独自で捜査を続けるバトーは、恐らくそのテロに関わっているであろう人物の自殺現場にいた。そこに荒巻から連絡が入る。とある場所へ行き、人物の確保をしろという命令であった。

バトーが指示された場所に到着すると、何やら爆発音が聞こえてくる。ウチコマに指示し、潜入を試みると、そこに一人の女性が大型重機と格闘していた。ウチコマが外から破壊したドアから外へ逃げる、それを追うバトー。バトーにはそれが誰なのかわかっていた。

「少佐なのか…」

それは少佐が操る義体であったのだ。二人を追いかけてくる重機…しかし、様子がおかしい。中で操縦していた人物は荒巻が確保するように命令した人物であったが、すでに絶命していた。素子は、その場所で何かを確保したようだが、詳しい説明はない。ただ一言…

「ソリッドステイトには近づくな」

…その言葉だけを残して去っていった。


 今回の核になる「ソリッドステイト」は、実に今の日本にこそ必要な機器ではないのかと思わせるものであり、何とも嫌味なシステムであるともいえます。その詳しい内容は作品を見ていただくとして、しかし、実際の話ではそれが電脳化されているかどうかの違いだけであり、実際には似たようなシステムが施行されているというのは、感覚でも感じている人が多いのではないのでしょうか。

ただ、今の日本には「今」に重点を置く傾向があるようになり、「未来」を無視し「過去」を軽視し、結果、そのソリッドステイトのような搾取だけを行う法律が出来そうで見ていて怖くなってきました。

その反面、たしかに、自分の死んだ後までも社会に介入を望むという事の気持ち=忘れられたくはないという事に近しいのでしょうか。その気持ちもわかる反面、やはり「老兵はただ静かにさりゆくのみ」という美しい言葉を忘れて欲しくないという事も思う次第なのです。


 物語は以降、少子化問題、虐待、教育、管理…それら現代にもはびこる問題を攻殻の世界に組み立てなおし進んでいきます。ですが、公安9課が知りたいのは、その目的であるわけです。もちろん、素子もそれを誰が考え出したのか、何故実行したのかを知りたがっています。

そして、ついに犯人と思しき人物が素子たちの前に現れるのですが…。

いい意味でのどんでん返しは是非、作品を見てください。


 今月、選挙です。自分の地区から誰がでるのか。また、その時に投票できるのか、しっかり理解できていますか?

 わからないように政治をしている政治家、むずかしいように仕事をしている官僚たちにも問題があるのは間違いありませんが、わからないからそのままにしてきた国民にも問題がないと言えなくもないのです。

少子高齢化時代になり、さらに日本の人口が減少している中、日本国における大事な資源、人材の育成を放棄してきた責任は政府だけにあるのではないのです。右肩上がりの成長など、資源小国の日本においてはありえない事。今まで日本が成長してきた大きな要因は、技術継承、つまりは人材教育そのものにあったのです。

理解している人材、もしくは資金の安い人材だけを欲する企業ばかりでは、日本の財源は益々乏しくなり、結果破綻する日もそう遠い話ではないのです。

 
一日で二倍に増える蓮の葉が浮いている池があり、一枚の蓮の葉がその池いっぱいに埋め尽くすまでに、100日必要だとして、池の半分まで蓮の葉が増えるのに、何日かかるのでしょうか。
 

まだ、池に余裕があると思っていると、あくる日には手の施しようがなくなる…それが今の日本ではないのでしょうか。自分だけが考えても仕方がないのではなく、自分も考えなくてはいけない…そうスイッチするべき時は、もう過ぎているように思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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