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2007年06月24日

虚構の向こうにある真実【「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」(2004年 プロダクションI・G/攻殻機動隊製作委員会)】

 現実は時として希薄な状況を作り出すものです。それを容易に感じ取れる方法、それはテレビを見ることでしょう。テレビの向こうに起こっていることは事実であるのかもしれません。しかし、それを事実と立証できる方法はあまりにも少なく、また難しいものです。

だから逆に言えばあり得ないこともあり得ないと立証する事が難しいのでしょう。それを冤罪というわけですが…。

そこにある問題は、決して人事ではなく、そして遠くにあるものではないのです。テレビの虚構が現実になるとき、それが幸せならばいざしらず、不幸せならば、どう理解するべきなのでしょうか。

その答えはその時にしか出せないものかもしれません。


 さて、今回は2004年にスカイパーフェクTVにて公開開始されました「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」です。

 TVシリーズ前作の続編として製作された2nd GIGは、基本的な設定は当然継承しつる、しかし、最終ボスはあえて設定しないまま話を進めていくドラマ性の強い作品といえます。前作では明確な笑い男という存在があったのに対し、今作における個別の11人はその存在自体がありながらも存在しない…テレビドラマの登場人物のような形を取っています。


その事件は、自衛隊の訓練から始まる。訓練中に戦闘ヘリ・ジガバチのパイロットが死亡。しかし、電脳は生きている為に防衛プログラムが働き、帰還命令に従わないという事故が発生する。秘密裏に解決を模索している中、公安9課課長・荒巻は、その事件を嗅ぎつけ、同期に接触する。情報を聞き出し、9課に戻ろうとする荒巻の前に一人の男が声をかけた。

合田一人・内閣情報庁戦略影響調査会議代表補佐官という肩書きを持つ彼は、今起こっている事件に対しての秘策があるという。しかし、その条件として一切の命令を自分が出すというものであった。合田の指令下に一時的に入り、無事、ジガバチの帰還を成した素子たちであったが、素直に喜べるものではなかった。

その当時の日本は、戦後における難民問題が国の財政を圧迫しており、同時にそれを排除しようとする動きがある。しかし、政府…特に現政権のトップである総理大臣・茅葺よう子は特別救済法の立法を、自分の公約としていた。


 この物語の中核にある難民問題は、実の所、今の日本にも無関係とはいえない話であるわけです。正確には単なる難民問題ではなく、移民問題とした方がいいのではないのでしょうか。日本は国外からすれば先進国として知られているわけですが、しかし、その先進国でありながらも、現在、海外からの労働力を求める声は日増しに上がってきており、代わりに日本国籍にある者の労働力がそがれていくという問題に直面しています。

おおよそ、日本国内の労働力にて賄いきれない場合であるのならば、海外にその労働力を求めるのも当然の話でしょうが、企業がもとめるのは、既に能力のある労働者か、もしくは賃金の低い初心者であるわけです。

そこまではっきりと描かれているわけではないのですが、しかし、この作品の中にも浮浪者は数多く存在し、そこから格差社会である事も容易に想像できるわけです。


 難民は九州地区の出島に隔離されており、そこから出てくることはまずあり得ない。ならば、と難民たちが動き出したのは、出島自体を独立させるというものであった。そのために、動き出したのは、かつて難民救済を非難し自決騒動を起こした個別の11人と名乗った上の一人、クゼ・ヒデオである。

彼は、自身の義体と頭脳を駆使し、電脳化している難民の意識を自分にリンクさせ一つとさせていた。それによって、暴動を起こさせることなく、纏め上げていた。だが、その無線通信は妨害電波によって遮断される。リンクが切れた難民たちは、恐怖からデマを信じ、自分から発砲を始めてしまう。

当初、ありえるはずのなかった暴動が現実化してしまい、それを抑える為に行動するクゼ。そのクゼを抑える為に素子たちは出島に侵入する。


 上に記載しませんでしたが、当初は核という武力によって独立を果たそうとしていました。これも現実世界にリンクしたものです。しかし、その核が偽物であったとわかった時、誰がという重要な部分を除いて、クゼは全てを理解したようです。そしてクゼ自身が選んだ選択は、素子にとって以外なものであったのです。

 前作は病気、今作は軍事。いずれも日本にしてみれば、重要となる案件であるのは間違いありません。現在、日本には武力は存在しません。自衛隊はあくまで防衛力であり武力ではないというのが法的見解であるわけです。しかし、隣国…いえ、世界をみればどれだけの武力が散らばっているのでしょうか。日本はそれでも「戦争は起こるはずがない」と言っています。

しかし、現実を見てください。実際に戦争は今、この瞬間も起こっているのです。

軍事力を持つことがアジアに対する刺激であるというのならば、その相手の持つ軍というのは如何なるものなのでしょう。あまり、気持ちの良い話ではないのですが、しかし、いつか…いえ、今でも避けられない問題、それをテーマとしている作品ではないのかと思うのです。


 去る6/21の記事にイラク特別措置法が成立したと記載されています。この特別措置法は間違いなく戦争の続きが未だに成されているという証拠であり、そこに大国の意思が未だに介入しているという現状を示しているものでもあります。

戦後六十数年という言葉が使われるわけですが、未だに戦争は続いています。

ただ、それらは形を変え、状況を変えて続いているだけであり、それが露呈した状態になれば、イラクのように全ての命を無駄にする破壊行動へとなっていくわけです。


我々日本人は六十数年前に自衛以外の暴力を放棄した民族であるはずです。なのに、どうして戦争の加担をしているのでしょうか。その疑問に答えれる政治家は恐らく一人もいないのでしょうし、そうした政治家を選び続けている国民もまた同罪なのかもしれないのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年06月17日

悪い行動の模倣をさせないためには【「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」(2002年 プロダクションI・G/攻殻機動隊製作委員会】

 最近、模倣について考えるわけですが、その一番の模倣というのは、親⇒子ではないのかと思うわけです。親というのはある特定の存在ではなく、今の世の中からすれば、大人という括りで考える方が良いのかも知れません。それだけネットワークの汎用性が高まってきたとも言え、同時に情報の希薄さが増してきたともいえるわけです。

情報がその価値をなくす瞬間というのはいつの事なのでしょうか。それは人に知られたときその瞬間であると聞いた事があります。

なるほど、最近の事件を振り返れば、それが言える事例の多い事。知らなければ、わからない事件が多すぎるわけです。年金問題にしても、企業のリコール問題にしても、結局、誠実をなくして真実を封印してしまった故に事件が起こってしまったと言えなくもありません。

そう考えると、一つの考えが生じてきます。何故、最近、若者による詐欺事件が増加しているのか。

昨今、ニュースで流れている事件の中で、特に金銭や利益に関する事件において、その当事者は必ず言い訳から行動します。そして、その言い訳が通り、何もお咎めがない場合、その事件は風化していくわけです。オレオレ詐欺に始まる若者の詐欺行為はこうした「ばれなければ良い、ばれても言い訳で逃げられる」という心理から起こしているのではないのでしょうか。

そう考えると、そうした犯罪は模倣犯によるものが大半でオリジナルは存在しない=撲滅する事が難しい犯罪であると納得してしまうわけです。

数多くの模倣犯が生まれていく現代犯罪。どこでその勢いを止めるべきか…それよりもどうやって止めるべきか、大人の姿勢が問われているような気がします。



 さて、今回は2002年にスカイパーフェクTVで初公開されました「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」です。

 基本的な時代設定や人物設定は押井氏の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を習っている事から割愛するとして、その大きな変更ははやはり物語の中核を担っていく事になる「笑い男」と言う存在なのでしょう。
 
 
 
 大手マイクロマシンメーカーに対する脅迫およびサイバーテロに関する事件を通称「笑い男事件」という。その発生は2024年。セラノゲミクス社社長誘拐から端を発したその事件である。しかし、後にわかる事であるが、誘拐を除く、その一連の同一名称の事件は、その事件の通称となった「笑い男」という名称に至るまで、犯人の望むものではなかった事がわかる。

電脳化する事によって発症する「電脳硬化症」は新たなる不治の病として人々から恐れられることになるが、それを緩和させる薬の認可に関する不正行為が事件の発端であり、結果それが裏金につながっている事も、後々わかってくる。
 
しかし、「笑い男」が問題としたのは、社会正義ではなく結果、自己の電脳硬化症からの不安によるものである事は、多く語られていない。ただ、恐らく彼がそのことを知らなかったとして、しかし、それでも尚、生き続けたいと望んでいたとしたら、それはやはり同じ事件を起こした可能性もまた捨てきれるものではない。
 
結果的に問題定義されるべきは、役人の認可申請において、利益供与があったという不正が働いた事であろう。これは昔から行われてきた薬害となんら代わりがないと「笑い男」も指摘している。
 
更なる問題は、「笑い男」が唯一人に限定されなかった故に起こった「模倣犯」の存在である。先にもあったように、「笑い男」が起こした犯罪は、セラノゲノミクス社社長の誘拐・監禁だけである。それ以降のもの全てが模倣犯であり、恐らく、プロファイルも成り立たない状況が続くことによって、解決の方向性が大きく失われた事は間違いない話である。
 
そして、その決定的な模倣が警察庁長官殺人未遂事件である。長く沈黙を守っていた「笑い男」が再び世に出てきた事も話題になったが、しかし、その矛先がマイクロマシンではなく問題のある態度・対応をしてきた警察庁に向けられることによって、それまでの模倣が模倣であった事を再認識させる結果となる。
 
そして登場する「笑い男」。結果的に彼はあくまで電脳硬化症における薬害を追い求めていただけであった。その不明瞭な犯罪者の尻馬に乗った形で様々な犯罪が成されていった事になる。

当然、それら事件が片付いた時、「笑い男」であった彼は覚悟する。だが、公安9課の課長でもある荒巻は驚きの提案をする。

「公安9課の9人目のメンバーにならないか」

だが、かれは断る。

「僕、野球が苦手なんです」

それは、彼が残したメッセージ=左利き用のキャッチャーミットと同じメッセージのようであった。だが、荒巻は確信したように話す。これからも変わりなく犯罪の芽を摘んでいく、それだけだ…と。

 上記に記載しましたとおり、この笑い男は原作にも出てこないキャラクターです。しかし、これは人形使いのインスパイアであるのは間違いない話です。人形使いは人形を自分の手足として使いました。笑い男はそれこそ、自分の分身として他の人物を使っているわけではありませんが、そうした模倣犯を多く作り上げた、偽笑い男も存在したわけです。しかし、彼もオリジナルが存在しなければ、同じように存在していませんから、ある意味操り人形と同じと言えるわけです。

また、最後で素子は笑い男である少年と記憶をリンクさせます。もちろん、それは不正の証拠を素子に公表して欲しいという気持ちからなのですが、その際の表現は原作における素子と人形使いの融合、そしてタチコマが自分の存在を理解して結局記録できていない際に用いられた表現に似ていたのです。

また、笑い男事件は実際にあった数多くの難事件を参考にしていると言います。そうした事柄をうまくミックスした結果。似て非なる新たなキャラ「笑い男」が完成したといえるわけです。


こうした手法はこの先のシリーズでも数多く使われていきます。良い意味でのインスパイア作品としてお手本になるのではないかと思うのです。



 今年の仮面ライダーのある話数で、主人公に取り付いている怪人が犯罪紛いの行動をした事で主人公を怒らせたときに、大声で謝るという場面がありました。見ていて、非常に気持ちの良い場面でもあり、子供に見て欲しい場面でもありました。それだけではなく、その子の親にも一緒に見てもらい、どうして誤ったのかを話し合って欲しいとも思ったのです。

例えば、介護事業における虚偽請求においての謝罪会見、はたまた、英会話学校における説明不足問題においての記者会見において、確かに彼等経営陣は頭を下げていました。しかし、その姿を見て、誠意のあるものかと言われれば、決してそうは思えません。とりあえず頭を下げ置けば問題はない。場合によってはこれで終わらせる事ができるという計算の上での謝罪と感じたのです。

大人がそう感じるのです。感受性のより高い子供がそう受け止められるのかと言われれば、恐らくそうではないのでしょう。

謝る事は大事な事です。しかし、どうして謝っているのに、言い訳をするのでしょうか。問題部分の指摘に対して反省しているのであれば、それは真摯に受け入れるべきなのです。言い訳は全て謝罪を駄目にしてしまうものです。

もちろん、言い訳するにたる証拠が揃えられ、さらに、その指摘に関しては反撃する覚悟があるのであれば、そうした主張は行われるべきものです。そう、無条件に謝罪を受け入れるのではなく、本当に行ったわけではないのであれば、それは釈明し反論するべきなのです。

釈明もしない、反論もしない、証拠もない。それで言い訳ばかりしているのでは心象も良くありませんし、何より、自分だけではなく、関わっている人全てに迷惑がかかるのです。


 そうした行動を今の世の中、子供もしっかり見ています。それが大人の示すべき道ではないのは当然の話。自分の利益ばかりを追求すれば、それを模倣した次の世代が出てくるのは必然なのです。

それで良いのか、今一度、自分たちの行動を省みて、心に問いかけてみる事が必要ではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年06月10日

節度のある依存とは【「イノセンス」(2004年 東宝/Production I.G】

 少し前に柔らかな皮膚を持つ子供ロボットが登場した話をしましたが、考えてみれば、日本ぐらいなんでしょう人型ロボットに興味を示しているのは。何故ならば、人の形を成したのは神であるとしている宗教を信仰している方々には、人間をこしらえるなどというのは論外な話であり、神を冒涜する行為でもあるからです。

しかし、人の欠損している部分を補う技術に長けているのは、以外にも日本よりも海外であったりするわけですが、それは許認可の話もあるので、一概には言えませんが、しかしやはり宗教が絡んでいる部分が大きいと言えなくも無いのです。

その昔、人が人ならざる姿をしていない場合、それは信仰心不足として処分の対象になりました。それは歴史としてあった話です。現在ではおよそ許されぬ行為が行われていた…それは即ち、自分たちが生き残るための手段であったともいえます。

ですが、生命の設計図である遺伝子の解明が実際になされ始めたとき、人は何故病気になるのかという事も理解し始めて来たわけです。より完全な人は、即ち神の模倣品からの逸脱を目指しているとも言えなくも無いのです。


人が目指しているのは一体何であるのか、そして神は一体何であったのか。今、人類はその岐路に立たされているのかもしれないのです。



 さて、今回は2004年に公開されました「イノセンス」です。

 公安9課から草薙素子が去ってから三年後。巷では、愛玩用アンドロイド=ガイノイドによる暴走事件が多発していた。その被害者のには政府関係者も含まれている。公安9課はその事件の担当となり、バトーはトグサと供に、事件の捜査へと向かう。
 
しかし、バトーは捜査に乗り気ではない…というよりも全てのことに意味を見出せずにいた。その原因は素子の存在である。恐らく、愛情に極々近しいその感情を自分でもどうしようもない事に、もはや無気力感を感じていた。だからと言って捜査に手を抜くわけにもいかない。トグサと供に、警察から探りを入れにいく。
 
警察にある解析室では、問題のアンドロイドが解析されていた。その担当官は言う。彼女たちは自殺しようとしていた…アンドロイドが自殺するという表現にトグサは否定する。自殺すると言う表現はアンドロイドには適切ではない、自壊というべきではないのか。だが、担当官は続ける。彼女たちにはまず必要はないであろう機能がつけられている…そして、彼女たちが残した言葉「死にたい…」。バトーは繰り返されるその遺言のレコーダーを止めると、礼を言いその場から離れていった。
 
 その中さらに別の事件が発生する。その凄惨な事件現場でバトーは一枚のホログラムカードを見つける。その少女が記録されたカードが気になるのか。カードを胸に忍ばせ、その事件現場も離れる。
 
その帰り、バトーは飼っている犬のためにドックフードを購入し、イシカワに送ってもらう。バトー自身はイシカワ自体にも、セーフハウスを隠しているつもりであったが、しかし、確実に誰かにバトーの行動はトレースされていた。だが、イシカワが何を言おうとも聞き入れるつもりのないバトーには、気づくはずもなく。結果、後日、ショッピングセンター内、一人で大立ち回りを演じた結果、イシカワに取り押さえられる事になる。
 
 
 物語はこの後、バトーが暴力団に向かって自前の重火器を乱射したり、また、調査に向かったハッカーの家で電脳迷路に陥れられたりと映像的にはかなり見ごたえのある場面が出てきます。
 
バトーが主役であるこの物語は、前作に位置づけられる、GOHST IN THE SHELL/攻殻機動隊を見ていた方がわかりやすいのかもしれませんが、お勧めするのは、やはり原作の漫画版です。この一連のシリーズはいい意味で原作の要素をきちんと使っており、また、それを独自の解釈、さらには時代にあわせた設定の更新を行い、製作されています。その意味では、原作をしっかり読み、前作を見ていれば、イノセンスの流れをつかむのに、それほど苦労しなくても済むのではないのかと思います。
 
原作だけで掴みにくいその理由は、バトーの心理とそれを基にした行動でしょう。
 
映画のバトーは素子に依存しています。だからこそ、自分の前から消えた素子の事をいつでも考えてしまうのです。それは、素子がガイノイドで現れた際によく表現されています。その安心感はまるでスーパーマンが現れたかのような安心感であり、探していた恋人が現れたかのような高揚感でもあるように感じます。
 
つまり、この物語というのは、あくまで恋物語であり、そして命の物語であるという事なのです。そこに、電脳世界があり、銃撃戦があり。もし、それがアニメではなく特撮であったとしても表現出来る物語であるともいえます。あくまで人の物語であり、単なるバイオレンスでもサスペンスでもないわけなのですから。
 
 
 前作もそうですが、イノセンスも観れば観るほど、新たな発見が出来る物語であると思います。ですが、その発見は必ずしも、監督である押井氏と同じであるのかどうか。それは些細な事なのかもしれません。何故なら、結局はその答えは物語として観るバトーたちにしかわからない事なのかもしれないのですから。



 神様っていると思いますか?

 そんな質問をする必要もないと思います。神様というのは、少なくとも存在し、こちらを見ている存在であるわけです。それは何故か。そうでなければ、私たちは生きていけないからです。

何のことを言っているのかといえば、それは自然そのものの話です。例えば、人は沢山の犠牲の上で生活をしています。命というもので考えていけば、一日生きていくだけでどれだけの犠牲を必要としているのか想像もつきません。つまり、それら一つ一つが神であるともいえます。

ただし、神が依存する相手であれば…という意味も含めての話です。


神様に依存するという事に関しては、宗教が明確ではないのでしょうか。宗教が存在するから神がいる場合もあるわけですが、しかし、大多数は神がいて、宗教が存在するわけです。宗教にはルールが存在します。そのルールというのが戒律です。戒律を破れば、罰が与えられます。罰はイヤですから戒律を守るわけです。最終的には、神の身元へいけるように努力していくわけですが、それが宗教における道徳であるともいえるわけです。

道徳と常識は異なります。しかし、どちらも絶対的に不変なものではありません。ただ、常識が時と場所によって変化するものであるのに対して、道徳の根本は変わりないものです。それは迷惑をかけないという事です。ただし、何が迷惑なのかは、時と場所によって変わっていきます。


最近の日本人に道徳が足りないといわれるのは、結局、こうした共通して依存するものがなくなったからなのかもしれません。その代わり、学歴やネットなどに依存する人が多くなっている現状から見れば、依存したがりの人は多くいるという事になります。

何に依存するのか、それはその人の問題であるのかもしれませんが、しかし、依存しすぎるというのは中毒になる事であるとも言えます。

中毒になれば抜け出すことは難しく、場合によっては周りに多大な迷惑をかける事になりかねません。人も金も趣味も、自分のできる範囲で収めておくのが一番良い依存であるとわかっているのではないのでしょうか。

ただ、自分にとって良い依存は中々抜けられないのもまた事実であるわけです。自戒も込めて思う事は、もう少し、自身に対する節度を学ぶ必要があるという事なのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年06月03日

記憶と記録=心と脳…感情のプログラム【「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」(1995年 Production I.G/講談社、バンダイビジュアル】

 何回かお話していると思いますが、今回もロボットの話です。

 NHKのニュースで、3~4歳の理解力を持つ、ロボットが紹介されていました。皮膚もあり、表情も言葉は話せませんが、声を出す事もできます。問題は、自律的に動く事ができない事、先ほども記載しましたが言葉を話せない事。表情も人間のような複雑な表情筋があるわけではないので、無表情に近くなってしまう事。しかし、こうした事は技術が進めばすぐに解決していく問題なのです。

 恐らく、一番の問題となるのは「感情」そして「感性」です。

 人には二つの記憶する場所があります。物理的な話ではないのですが、一つは脳もう一つは心です。これは私の見解なのですが、記録と言うものは脳に、記憶というものは心に残るものであると考えています。
記録はそれこそ機械的なことです。つまり重複した経験や初見した経験がそこに整理整頓されていって、予測が可能になると思うわけです。これがあるからこそ、人は出来るだけ間違いの無い行動をとり、構想を練る事ができるわけです。
一方、記憶は感動と恐怖によるスナップ写真であると考えています。写真とは実際にその場を記録したものですが、その場そのものではありません。そこにあった状況を記録しているものです。それを見ると人は想像します。旅行などのスナップ写真で実に鮮やかなものがあるのですが、それはそう撮れるような技術をもって写しているわけです。もちろん、その場の状況がそれだけの写真となる素質を持っているわけですが、素質はあくまで素質。言い換えれば宝石ではなく原石です。
原石は磨かれれば光り輝きますが、その原型は留めていません。写真も似たようなもので、写真に撮られたものはすでに宝石であるわけです。その原石はその場のその時にしかないのですから、原石はないに等しく、しかも写真に収められた段階ですでに研磨された状態になっているのです。

 つまり、感動したものが記憶の中でより美しくなるのも、恐怖が記憶の中でより恐ろしく感じるのも、それが心の中で磨かれた記録であるという事になります。これは実に複雑怪奇と言える事ではないのでしょうか。

 現在、こうした感情をプログラム化しようと研究しているグループがあります。今までのロボットは一定の条件を元に、あらかじめプログラムされたデータを模倣しているにすぎません。しかし、感情はそんな単純な話ではありません。何故なら、人が十人存在すれば、それだけ感動できるものも、恐怖するものも変わってくるからです。
つまり、プログラムしようとしているのは、そのロボット独自の心であると言っても過言ではないのです。

 もしこの技術が成功すれば、そのロボット独自の感性が生まれてくる事でしょう。その一つは善と悪です。しかし、その事は一つの問題を同時に投げかける事になると思うのです。


 さて、今回は1995年に公開されました「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」です。

 吾が舞えば(あがまえば) 麗し女(くはしめ) 酔いにけり(よいにけり) 吾が舞えば(あがまえば) 照る月(てるつき) 響むなり(とよむなり) 結婚に(よわいに) 神降りて(あみあまくだりて) 夜は開け(よはあけ) 鵺鳥(ぬえどり) 鳴く(なく) 遠神恵賜(とおかみえみため)

 この有名すぎるほどの歌が流れる劇場版の攻殻機動隊は、原作が最初にそれを作った料理人の味を、まさに自分に合わせるために作ったはずが万人に受けた料理ではないのだろうかと思うのです。監督であります、押井氏は原作を知りつつも、それに甘んじることなく自分の作品として作り上げていく監督で、有名な作品といいますか、まさに代表作とされているのが「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」です。あれも原作ファンの中に物議を放り込んだ作品としても有名で、しかし良作であるのは間違いない作品であるわけです。

 この攻殻機動隊も同じように原作を知りつつも、その中身…特にキャラクターを大きく変えた作品であるといえるのです。


 原作から見ていて当初、違和感を覚えたのは、草薙素子、バトー、荒巻の三名です。そう、主要キャラクターに大変な違和感を覚えてしまった作品であるのです。それは何故か…。

 素子は原作からして生にしがみつくキャラではありません。しかし、死に救いを求めているわけでもなく、真実のみを求めているわけで、故に正義という真実に対する悪が明らかに行われている、もしくは行われようとしている事を制止するために攻勢の組織を切望していたわけです。同じように、仕事に対しては率先的であっても、私的な部分では何かに依存したがっている女性。それが劇場版の素子であった印象があるのです。ただ、彼女の依存したがっていたものは、恐らくおいそれと与える事のできないものであったようで、それをある意味かなえたのは、人形使いだけであったようです。

 バトーの原作の違いは一目瞭然、素子への依存度です。愛情のように見えなくも無いのですが、その表現の下手な所をみると、むしろ、犬のようにも見えます。だからこそ、第二作目のイノセンスではあれほど気の抜けたバトーが出てくるようになったわけです。この素子への依存はその後製作されるTV版にも受け継がれているものです。ある意味、攻殻機動隊の核となる一つの物語といえるのかもしれません。

 荒巻は老人の様相が強くなっています。自発的に行動するというよりも、状況を的確に見極め指示する立場をより強調しているともいえます。原作でもTV版でも、自発的な行動が目立ったわけですが、劇場版ではそうではありません。少し生に落胆しているかのような余生短い老人の最後の一花を咲かせようとしている風にも見えるのです。

 トグサに関しても、その立ち位置が変更されているわけですが、それはこの上記三名につられて変わってしまったという事、そしてその声優でもある山寺氏の声質の影響もあって、原作などよりも活躍するキャラとなっていました。原作では攻殻機動隊2でやっと一人前になっていったようですけど。


 原作そのままではないのは、当然物語にも言えることですが、しかし、何回見ても原作者であります士朗氏の影響が色濃く残っているといいますか、その世界設定には驚かされるばかりです。原作の初出が1989年。単行本化が1991年。先見の明があったというのは、正にこのことなのでしょう。今、この世界観であっても、それほどの遜色はなく、また荒唐無稽すぎる話でもないわけです。

 劇場版でメインになるのは原作での終わり付近の話「人形使い」です。

 限りなく人間に近い人形であり人間ではない存在に魂は存在するのか。原作では、人形使いと素子が一つとなることで、素子の目に天使の足と羽が見えたような絵が描かれていましたが、劇場版では、天から羽が振ってくる事でその表現としていました。そして、結果として、魂の答えは何も出さないまま、物当たりは終わっていきます。それは可能性の話であり、結果ではないという事なのかもしれません。
(結果というのは、物語の…ではなく、魂とは何であるのか、その答えはという事に対する結果であります)

 素子は結局、9課を抜け、広大なネットの海へと旅立っていきました。そしてイノセンスに舞台を移していくわけです。


 日本での興行は振るわなかったらしいのですが、海外での評価がすこぶる良く、世界に押井の名を更に広げる作品となったという事は改めて記載する事でもないかもしれません。


 この物語でロボットと言えばタチコマに人形使い(としているが正確にはプログラムであるために厳密にはロボットとは言えない。しかし、この世界におけるロボットの定義は今の世界よりも広がっていると解釈するので、今回はロボットという言葉を使っています)なのですが、彼らを人との大きな違いはゴーストが存在するかどうかという事です。

 人は生まれながらに魂を持っています。少なくとも、有機的化合物によって動いている存在であるにせよ、単なる物体ではないという事です。ですが、魂というものは不可視である以上、その存在は仮定でしかありません。
 
 ただ、もし、感情のプログラムが本当に完成すれば人は人を介さずして魂を現存できるかもしれないのです。ただ、その時、そのロボットは大変なトラウマを抱えてしまうかもしれません。それは人の感情を持ちながらも人ではない自分へのコンプレックスです。それは童話にあるピノキオが持っていたトラウマである事と同じなのでしょう。

 …とここまで記載してふと気づいたのですが、んー取り上げる作品を間違えたのかもしれませんね。石ノ森先生のキカイダーやロボット刑事のときに取り上げればよかったのかも…。しかし、タチコマもそうですが、こうした物語の際に「心」という問題は切り離せないのは当然の話。それは人に返ってくる問題であるからなのです。

 人の心が失われているという今、感動と恐怖、それが希薄になっているのかもしれないと、ふと思ってしまいます。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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