最近、原作付の作品がアニメになる事が非常に多く、オリジナル作品がおされ気味…と別の場所でも記載して久しいわけですが、オリジナル作品がぼちぼちと出てきている現状にうれしさを覚えます。
原作付がいけないとは言いませんが、いわゆる原作好きの方の中で、アニメ化など別媒体となった作品を楽しめない方が多いのも事実であり、そういう方は見なくても問題はないのでしょうが、しかし、話をする際に…
「アニメは駄作だから」
…と一刀両断されてしまう事がありまして、それなりに楽しめば良いのにと自分は思ってしまうわけです。
確かに、原作付のアニメの中には、現在、人気があるからそこに便乗して、という姑息さを感じるものもあります。ですがそれはそれ、そこはその媒体ならではの話としてまとめていただければ良いなと思っているわけです。
さて、今回は2001年に講談社より発行されました「攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE」です。
※1991年~2001年、ヤングマガジン、ヤングマガジン海賊版にて連載分のうち、主に1997年ヤングマガジンに連載されたのを主に掲載された冊子についてのものです。
草薙素子が人形使いとの融合を果たし、公安9課より去ってから、その子ともいえる存在はネットを飛び回りそれぞれの人生を歩んでいた。
その一つ、新巻素子と名乗っている女性は、とある会社の部長として活躍していた。あくまで会社の利益のために、そして自分のために素子は非合法すれすれの行動で実績を上げ続けてる。
…といつもならばコメントを記載するところですが、今回の話は実に話を追っかけにくいものでありまして、ココからは感想を交えたものとして記載いたします。
素子が人形使いと融合する際、人形使いはそのメリットとして素子の人間としての揺らぎを、そして素子に対するメリットとして膨大なネットの情報(正確にはネットを渡り歩く能力と言えるかもしれない。これは既存の情報だけではなく、これからも成長するであろう将来性のある情報網においての保証ともいえる内容であるとすれば、それは価値にして計り知れないものになるのだろう)を手に入れました。
人形使いの欲した揺らぎとはいわゆる生(性)と死であり、そこに至る過程で性…つまり遺伝子(ジーン)と模倣子(ミーム)を電子的情報として残すことであありました。複写である場合には同じ消去方式もしくは汚染方式によって一気に駆逐されてしまうわけですし、仮に一部の異なるものを残したとしても、それは不適切な部分として互いが互いを補完しあい、結果的には同じ事になる…つまり、人間としての揺らぎは完全な複写ではなくあらたな可能性を産むものとして認識した上で欲したわけです。
その結果、冊子では幾人かの素子が登場してきます。保守を望む素子、進化を望む素子、個人の誘惑を望む素子。それらは素子であって素子ではなく、しかし、それぞれが同じ固体からの別人である事を認識しているものであるわけです。
中には、この話の主役でもある新巻素子のように、初めて知る者も大勢いるのでしょうし、逆に彼女らをひそかに観察している素子も存在するのかもしれないのです。
ただ、彼女たち(正確には彼女という一人称かもしれないが、ここでは複数に対する言い回しとする)に共通している欲求は知る事であります。それは知識ではなく、まさに知る事を欲しているわけです。それはまるで心理を追い求める心理学者のように、真理を追い求める宗教家であるように、彼女たちは日々ネットも含めた世界を知りたがっているわけです。
物語としての結末がどうなったのかは置いておくとして(というより、攻殻機動隊ファンは是非読んで欲しいのです)、それよりもこの冊子は実際に読んでみると非常に宗教色の強い物語であると言えなくもありません。
仏教における曼荼羅世界の話が見え隠れしているように思えるわけです。
それを意図してか最初に霊能局という政府の部署も出てきますし、また、この作品に通じてゴーストという人を人たらしめている要素もあります。
人が人を物理的に成すにはかなりの部分で理解されています。しかし、最終的にそれを人としてあるための要素は未だ謎のままです。単なる電気信号と化学反応の産物であるのならば、何故、自己死という要素があるのか、それも曖昧なままでしかわからないのが現状なのです。
※最近の研究では、人間の生物としての成長は三〇代に終了しており、その後は生命としての死を迎えているとの研究結果もあります。人生五十年、下天のうちにくらむれば…というのは案外嘘ではないのですね。
結果的に話として完結しているわけではなく、これからも先に続いていくという形で終わっています。言い換えれば、あとはファンの中で新しい攻殻の世界が出てくるまで、勝手に思い描いていても良いとも言えるのではないのでしょうか。
※ちなみに、この冊子を見ると、最新のアニメであるSolid State Societyの話もより面白く見ることが出来るのではないのかと思う次第です。
さて、アニメと漫画、小説やドラマ、それぞれの媒体を原作とした作品を別の媒体で提供する場合、どうして面白みが薄れていく作品が多いのでしょうか。答えは、「もともと、その作品は原作とされる媒体で楽しめるように作ったから」です。
つまり、小説を漫画化にした場合、小説における文字の表現をそのように絵とするのか。同じように漫画をアニメ化にした場合、行間にあるはずの絵をどのように動画とするのか。つまりは、イメージの差というものになるわけです。
言い換えれば、つまらないという話は受け手のイメージよりも送り手のイメージもしくは表現が下回っているからこその感想ではないのかとも言えるわけです。
原作で人気があるからアニメでもうまくいく…そんなはずはありません。別媒体で行う以上、そこに原作者が絡んでいようとも、原作者の手で行わないとなればそれは別作品であるわけです。言ってしまえばパロディ作品であるわけですね。となれば、その責任は原作者に一切なく、面白くするのもつまらなくするのも、その媒体の製作者の双肩にかかっていると言える訳です。
ただし、受け手は幾百、幾千あるわけですから、それを全て満足させるというのは神がかり的な作業になるわけで、そうすると商業的には狂ってくるものです。つまりはそこが具合の良し悪しと言う事で、いかにして商業的に成功させるのか=どこまで原作に従事するのかという事になってくるわけです。
利益があがらないと次の作品ができませんからね。ボランティアではないという事なのです。
ともあれ、原作付であろうともなかろうとも、送り手の技術が高く必要であるのは間違いはありません。これからも研鑽して面白い作品を見せてほしいものです。
そんなこんなで本日はここまで。
原作付がいけないとは言いませんが、いわゆる原作好きの方の中で、アニメ化など別媒体となった作品を楽しめない方が多いのも事実であり、そういう方は見なくても問題はないのでしょうが、しかし、話をする際に…
「アニメは駄作だから」
…と一刀両断されてしまう事がありまして、それなりに楽しめば良いのにと自分は思ってしまうわけです。
確かに、原作付のアニメの中には、現在、人気があるからそこに便乗して、という姑息さを感じるものもあります。ですがそれはそれ、そこはその媒体ならではの話としてまとめていただければ良いなと思っているわけです。
さて、今回は2001年に講談社より発行されました「攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE」です。
※1991年~2001年、ヤングマガジン、ヤングマガジン海賊版にて連載分のうち、主に1997年ヤングマガジンに連載されたのを主に掲載された冊子についてのものです。

草薙素子が人形使いとの融合を果たし、公安9課より去ってから、その子ともいえる存在はネットを飛び回りそれぞれの人生を歩んでいた。
その一つ、新巻素子と名乗っている女性は、とある会社の部長として活躍していた。あくまで会社の利益のために、そして自分のために素子は非合法すれすれの行動で実績を上げ続けてる。
…といつもならばコメントを記載するところですが、今回の話は実に話を追っかけにくいものでありまして、ココからは感想を交えたものとして記載いたします。
素子が人形使いと融合する際、人形使いはそのメリットとして素子の人間としての揺らぎを、そして素子に対するメリットとして膨大なネットの情報(正確にはネットを渡り歩く能力と言えるかもしれない。これは既存の情報だけではなく、これからも成長するであろう将来性のある情報網においての保証ともいえる内容であるとすれば、それは価値にして計り知れないものになるのだろう)を手に入れました。
人形使いの欲した揺らぎとはいわゆる生(性)と死であり、そこに至る過程で性…つまり遺伝子(ジーン)と模倣子(ミーム)を電子的情報として残すことであありました。複写である場合には同じ消去方式もしくは汚染方式によって一気に駆逐されてしまうわけですし、仮に一部の異なるものを残したとしても、それは不適切な部分として互いが互いを補完しあい、結果的には同じ事になる…つまり、人間としての揺らぎは完全な複写ではなくあらたな可能性を産むものとして認識した上で欲したわけです。
その結果、冊子では幾人かの素子が登場してきます。保守を望む素子、進化を望む素子、個人の誘惑を望む素子。それらは素子であって素子ではなく、しかし、それぞれが同じ固体からの別人である事を認識しているものであるわけです。
中には、この話の主役でもある新巻素子のように、初めて知る者も大勢いるのでしょうし、逆に彼女らをひそかに観察している素子も存在するのかもしれないのです。
ただ、彼女たち(正確には彼女という一人称かもしれないが、ここでは複数に対する言い回しとする)に共通している欲求は知る事であります。それは知識ではなく、まさに知る事を欲しているわけです。それはまるで心理を追い求める心理学者のように、真理を追い求める宗教家であるように、彼女たちは日々ネットも含めた世界を知りたがっているわけです。
物語としての結末がどうなったのかは置いておくとして(というより、攻殻機動隊ファンは是非読んで欲しいのです)、それよりもこの冊子は実際に読んでみると非常に宗教色の強い物語であると言えなくもありません。
仏教における曼荼羅世界の話が見え隠れしているように思えるわけです。
それを意図してか最初に霊能局という政府の部署も出てきますし、また、この作品に通じてゴーストという人を人たらしめている要素もあります。
人が人を物理的に成すにはかなりの部分で理解されています。しかし、最終的にそれを人としてあるための要素は未だ謎のままです。単なる電気信号と化学反応の産物であるのならば、何故、自己死という要素があるのか、それも曖昧なままでしかわからないのが現状なのです。
※最近の研究では、人間の生物としての成長は三〇代に終了しており、その後は生命としての死を迎えているとの研究結果もあります。人生五十年、下天のうちにくらむれば…というのは案外嘘ではないのですね。
結果的に話として完結しているわけではなく、これからも先に続いていくという形で終わっています。言い換えれば、あとはファンの中で新しい攻殻の世界が出てくるまで、勝手に思い描いていても良いとも言えるのではないのでしょうか。
※ちなみに、この冊子を見ると、最新のアニメであるSolid State Societyの話もより面白く見ることが出来るのではないのかと思う次第です。
さて、アニメと漫画、小説やドラマ、それぞれの媒体を原作とした作品を別の媒体で提供する場合、どうして面白みが薄れていく作品が多いのでしょうか。答えは、「もともと、その作品は原作とされる媒体で楽しめるように作ったから」です。
つまり、小説を漫画化にした場合、小説における文字の表現をそのように絵とするのか。同じように漫画をアニメ化にした場合、行間にあるはずの絵をどのように動画とするのか。つまりは、イメージの差というものになるわけです。
言い換えれば、つまらないという話は受け手のイメージよりも送り手のイメージもしくは表現が下回っているからこその感想ではないのかとも言えるわけです。
原作で人気があるからアニメでもうまくいく…そんなはずはありません。別媒体で行う以上、そこに原作者が絡んでいようとも、原作者の手で行わないとなればそれは別作品であるわけです。言ってしまえばパロディ作品であるわけですね。となれば、その責任は原作者に一切なく、面白くするのもつまらなくするのも、その媒体の製作者の双肩にかかっていると言える訳です。
ただし、受け手は幾百、幾千あるわけですから、それを全て満足させるというのは神がかり的な作業になるわけで、そうすると商業的には狂ってくるものです。つまりはそこが具合の良し悪しと言う事で、いかにして商業的に成功させるのか=どこまで原作に従事するのかという事になってくるわけです。
利益があがらないと次の作品ができませんからね。ボランティアではないという事なのです。
ともあれ、原作付であろうともなかろうとも、送り手の技術が高く必要であるのは間違いはありません。これからも研鑽して面白い作品を見せてほしいものです。
そんなこんなで本日はここまで。


