例えば、北朝鮮にしろアメリカにしろ、自国の利益を優先に考えるのは当然の話であるわけで、そこには人が考え人にしか見えない線が大地に海にはあり、それをまたいだ先の利益も求めているからこその欲求であるわけです。それを賺したり脅したりで話し合いをする事を交渉というらしいのですが、それが決裂すれば「力」によって決着を付けたがるように人とは出来ているようです。爪も牙もない人が持つ力とは一体何なのでしょうか。その結果起こることは…。言うまでもなく結果は戦争であり、その傷跡は未だに世界中に残っているわけです。
未だに残る無慈悲で無感情な力は小さな子たちの未来を奪っている事実があるわけです。私たちが無益な力を放棄できる日は永遠に来ないのでしょうか。
さて、今回は1991年に全5巻リリースされました「鎧伝サムライトルーパー MESSAGE」です。
大戦の最中、とある社。そこには先代の天空の鎧の持ち主によって厳重に封印された鎧が収められていた。そこに降り立つカオスはその封印を解き放つ。いずれ訪れるであろう妖邪の襲来に備えて、その使い手を育てるために…。しかし、その天空の鎧のそばに鈴薙が立ち、カオスに話しかける。
この鎧は使ってはならない。
そう、鎧は数々の怨念を生み出していた。その強大な力は時の権力者にとって、魅力的であるのと同時に脅威でもあった。その持ち主が取り込まれようとし、同時に排除されるのは当然の話であった。
そんな歴史の中で、一つの舞台劇が行われていた時代があった。現在にも残されているその文献の中身は、遼たちサムライトルーパーの歩んできた道そのものであった。つまり、彼らの痛み、苦しみは既に決定された物語として記載されており、あまつさえ、上演されていたというのだ。その事実を知った当麻は、一人、その謎を解明するべく都庁に向かったがしかし、鈴薙の手によって新たに作られた天空の鎧に封じ込められていまう。
鈴薙の目的。それはわからないが、しかし、当麻に始まり伸、秀と次々新しい鎧に取り込まれていった。そして、征士が鈴薙の目の前で鎧に取り込まれた時、遼は四人のメッセージを聞いていた。そこに明確な結論はなかったが、しかし、それはわかっている話であった。
そして遼は都庁に向かう。自分たちの始まりの場所に、全てを終わらせるために…いや、これからも続けていくために。手向けとして身につけられた烈火の鎧を纏い、封じられている四人に呼びかける。それは今までのように力を求めての呼びかけではなかった。
本来、煌輝帝伝説で終焉を迎えるはずでした本作品は、本来、勧善懲悪の活劇物として表現されていたはずのものでした。しかし、そこに彼らトルーパーたちの基本となる心の話を織り交ぜた時、物語は力だけで全ては解決出来るものなのかと言う話になっていったわけです。その最高潮が煌輝帝伝説であったわけですが、しかし、そこで行ったことは力の放棄でしかなかったわけです。
それまで心と力の葛藤に悩んでいた彼らの結論が、単純な放棄では物語として完結した事にはなりません。それでは心の力(TVシリーズで心の修行というのがとある回に出てきているのです)の意味が破綻してしまうわけです。
このメッセージでは明確な敵は存在しません。故に、鎧で戦う必要は皆無であるわけです。むしろ敵は存在しているようで、していない、そんな有耶無耶さが彼ら一人一人の語りという形で物語を進ませる結果になったわけなのでしょうが、作品としては好まれなかったようです。
1~4巻までは一人一人ずつ鈴薙が新しく作った鎧に封印されていきます。その目的は、その世界の中で力の象徴として描かれている鎧世界の中にいる超絶的な力の象徴である煌輝帝を再びこの世に呼ぶ事にあったわけです。この鎧世界というのは、仏教で言うところの修羅界に似ています。しかし、望むは力であり、目的は勝利(単純な破壊ではなく、勝ち続けるための力と考えた方が自然であるのです)ですが、この世においてはその絶対的な力によって無限の破壊が行えるものであり、使い方によっては世界の滅亡が可能であるわけです。
力とは簡単に誰でも持つことの出来るものです。18歳になれば、車を運転する事も可能になるわけですが、その車という力も間違えた操作をすれば、人を傷つける凶器になります。それと何も変わらないわけですが、その力を制するための心についての話をこのシリーズではしているという事なのです。
ですが、単に押さえつけると言う話ではなく、力は力として存在し、それをどう制していくのかという事に話は向かっていきました。それまでの鎧の持ち主は封じる事を、排除する事を懸命に行っていたわけですが、主人公たちは鎧(正確には鎧の力)と共にあっても、それを無用に使うことなく日々を進んでいく事を決めたわけです。
排除すれば、そこまでで終わりのような気がしますが、結局は目を背けただけとも映るかもしれないのです。問題として存在する様々な「何か」を真正面から受け止め、それをどのように解決していくのかを模倣する。物語は終了しましたが、その命題にどのように答えていくのかは、視聴者がそれぞれに考えていくものであるというメッセージがそこにあるように思うわけです。
前回にも記載しましたが、ヒーロー系における力の葛藤というのは、少し前の作風には良く出てくる命題でした。それ以前は勧善懲悪の図式が出ていましたから単純に正義の力を求めるだけでよかったのですが、勧善懲悪が崩れた際に起こる、正義の建前と本音によって、力は単純な行為とその結果になり、場合によっては力を捨てる事に正義を見た作品もあったわけです。ここは、戦争放棄を謳っている日本にあっているのかもしれませんが、しかし、実際には力は放棄しただけでは消滅しないという事が昨今の情勢からもわかってきた話であるのです。
恐らく戦争というのは、第二次世界大戦が終わって後60年以上経った現在でも世界で起こっているものですし、その影響と言うのが一つ世界を動かしている要因であるのは間違いありません。その原因が宗教であろうと資源であろうと、結果、力を振るうことは人の決めた事であり、それを止めるのもまた人でしか出来ないという事になります。
これは宗教ではなく、厳密にして原則な話であるわけです。どのような媒体でもかまいません。ただ人として、限りある大地に立つ人として何が出来、どうするべきなのかを考える必要性はあるのではないのでしょうか。
そんなこんなで本日はここまで。
未だに残る無慈悲で無感情な力は小さな子たちの未来を奪っている事実があるわけです。私たちが無益な力を放棄できる日は永遠に来ないのでしょうか。
さて、今回は1991年に全5巻リリースされました「鎧伝サムライトルーパー MESSAGE」です。

大戦の最中、とある社。そこには先代の天空の鎧の持ち主によって厳重に封印された鎧が収められていた。そこに降り立つカオスはその封印を解き放つ。いずれ訪れるであろう妖邪の襲来に備えて、その使い手を育てるために…。しかし、その天空の鎧のそばに鈴薙が立ち、カオスに話しかける。
この鎧は使ってはならない。
そう、鎧は数々の怨念を生み出していた。その強大な力は時の権力者にとって、魅力的であるのと同時に脅威でもあった。その持ち主が取り込まれようとし、同時に排除されるのは当然の話であった。
そんな歴史の中で、一つの舞台劇が行われていた時代があった。現在にも残されているその文献の中身は、遼たちサムライトルーパーの歩んできた道そのものであった。つまり、彼らの痛み、苦しみは既に決定された物語として記載されており、あまつさえ、上演されていたというのだ。その事実を知った当麻は、一人、その謎を解明するべく都庁に向かったがしかし、鈴薙の手によって新たに作られた天空の鎧に封じ込められていまう。
鈴薙の目的。それはわからないが、しかし、当麻に始まり伸、秀と次々新しい鎧に取り込まれていった。そして、征士が鈴薙の目の前で鎧に取り込まれた時、遼は四人のメッセージを聞いていた。そこに明確な結論はなかったが、しかし、それはわかっている話であった。
そして遼は都庁に向かう。自分たちの始まりの場所に、全てを終わらせるために…いや、これからも続けていくために。手向けとして身につけられた烈火の鎧を纏い、封じられている四人に呼びかける。それは今までのように力を求めての呼びかけではなかった。
本来、煌輝帝伝説で終焉を迎えるはずでした本作品は、本来、勧善懲悪の活劇物として表現されていたはずのものでした。しかし、そこに彼らトルーパーたちの基本となる心の話を織り交ぜた時、物語は力だけで全ては解決出来るものなのかと言う話になっていったわけです。その最高潮が煌輝帝伝説であったわけですが、しかし、そこで行ったことは力の放棄でしかなかったわけです。
それまで心と力の葛藤に悩んでいた彼らの結論が、単純な放棄では物語として完結した事にはなりません。それでは心の力(TVシリーズで心の修行というのがとある回に出てきているのです)の意味が破綻してしまうわけです。
このメッセージでは明確な敵は存在しません。故に、鎧で戦う必要は皆無であるわけです。むしろ敵は存在しているようで、していない、そんな有耶無耶さが彼ら一人一人の語りという形で物語を進ませる結果になったわけなのでしょうが、作品としては好まれなかったようです。
1~4巻までは一人一人ずつ鈴薙が新しく作った鎧に封印されていきます。その目的は、その世界の中で力の象徴として描かれている鎧世界の中にいる超絶的な力の象徴である煌輝帝を再びこの世に呼ぶ事にあったわけです。この鎧世界というのは、仏教で言うところの修羅界に似ています。しかし、望むは力であり、目的は勝利(単純な破壊ではなく、勝ち続けるための力と考えた方が自然であるのです)ですが、この世においてはその絶対的な力によって無限の破壊が行えるものであり、使い方によっては世界の滅亡が可能であるわけです。
力とは簡単に誰でも持つことの出来るものです。18歳になれば、車を運転する事も可能になるわけですが、その車という力も間違えた操作をすれば、人を傷つける凶器になります。それと何も変わらないわけですが、その力を制するための心についての話をこのシリーズではしているという事なのです。
ですが、単に押さえつけると言う話ではなく、力は力として存在し、それをどう制していくのかという事に話は向かっていきました。それまでの鎧の持ち主は封じる事を、排除する事を懸命に行っていたわけですが、主人公たちは鎧(正確には鎧の力)と共にあっても、それを無用に使うことなく日々を進んでいく事を決めたわけです。
排除すれば、そこまでで終わりのような気がしますが、結局は目を背けただけとも映るかもしれないのです。問題として存在する様々な「何か」を真正面から受け止め、それをどのように解決していくのかを模倣する。物語は終了しましたが、その命題にどのように答えていくのかは、視聴者がそれぞれに考えていくものであるというメッセージがそこにあるように思うわけです。
前回にも記載しましたが、ヒーロー系における力の葛藤というのは、少し前の作風には良く出てくる命題でした。それ以前は勧善懲悪の図式が出ていましたから単純に正義の力を求めるだけでよかったのですが、勧善懲悪が崩れた際に起こる、正義の建前と本音によって、力は単純な行為とその結果になり、場合によっては力を捨てる事に正義を見た作品もあったわけです。ここは、戦争放棄を謳っている日本にあっているのかもしれませんが、しかし、実際には力は放棄しただけでは消滅しないという事が昨今の情勢からもわかってきた話であるのです。
恐らく戦争というのは、第二次世界大戦が終わって後60年以上経った現在でも世界で起こっているものですし、その影響と言うのが一つ世界を動かしている要因であるのは間違いありません。その原因が宗教であろうと資源であろうと、結果、力を振るうことは人の決めた事であり、それを止めるのもまた人でしか出来ないという事になります。
これは宗教ではなく、厳密にして原則な話であるわけです。どのような媒体でもかまいません。ただ人として、限りある大地に立つ人として何が出来、どうするべきなのかを考える必要性はあるのではないのでしょうか。
そんなこんなで本日はここまで。





