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2007年02月27日

戦争を知らない…はずのない子供たち【「鎧伝サムライトルーパー MESSAGE」(1991年 サンライズ)】

 例えば、北朝鮮にしろアメリカにしろ、自国の利益を優先に考えるのは当然の話であるわけで、そこには人が考え人にしか見えない線が大地に海にはあり、それをまたいだ先の利益も求めているからこその欲求であるわけです。それを賺したり脅したりで話し合いをする事を交渉というらしいのですが、それが決裂すれば「力」によって決着を付けたがるように人とは出来ているようです。爪も牙もない人が持つ力とは一体何なのでしょうか。その結果起こることは…。言うまでもなく結果は戦争であり、その傷跡は未だに世界中に残っているわけです。
 
 未だに残る無慈悲で無感情な力は小さな子たちの未来を奪っている事実があるわけです。私たちが無益な力を放棄できる日は永遠に来ないのでしょうか。



 さて、今回は1991年に全5巻リリースされました「鎧伝サムライトルーパー MESSAGE」です。

 前作、煌輝帝伝説において、自分たちの鎧を煌輝帝と共に砕いた遼たちサムライトルーパー。しかし、その力は未だに彼らの身体に存在していた。そんな彼らも、その事を忘れるようにそれぞれの生活をしていたが、天空こと当麻の元に不穏な影が近づく。その人物は当麻を誘うように副都心の都庁に降り立った。その展望階に来た当麻は、鈴薙と言う女性から一つの話を見せられる。
 
 大戦の最中、とある社。そこには先代の天空の鎧の持ち主によって厳重に封印された鎧が収められていた。そこに降り立つカオスはその封印を解き放つ。いずれ訪れるであろう妖邪の襲来に備えて、その使い手を育てるために…。しかし、その天空の鎧のそばに鈴薙が立ち、カオスに話しかける。
 
 この鎧は使ってはならない。
 
 そう、鎧は数々の怨念を生み出していた。その強大な力は時の権力者にとって、魅力的であるのと同時に脅威でもあった。その持ち主が取り込まれようとし、同時に排除されるのは当然の話であった。
 
 そんな歴史の中で、一つの舞台劇が行われていた時代があった。現在にも残されているその文献の中身は、遼たちサムライトルーパーの歩んできた道そのものであった。つまり、彼らの痛み、苦しみは既に決定された物語として記載されており、あまつさえ、上演されていたというのだ。その事実を知った当麻は、一人、その謎を解明するべく都庁に向かったがしかし、鈴薙の手によって新たに作られた天空の鎧に封じ込められていまう。
 
 鈴薙の目的。それはわからないが、しかし、当麻に始まり伸、秀と次々新しい鎧に取り込まれていった。そして、征士が鈴薙の目の前で鎧に取り込まれた時、遼は四人のメッセージを聞いていた。そこに明確な結論はなかったが、しかし、それはわかっている話であった。
 
 そして遼は都庁に向かう。自分たちの始まりの場所に、全てを終わらせるために…いや、これからも続けていくために。手向けとして身につけられた烈火の鎧を纏い、封じられている四人に呼びかける。それは今までのように力を求めての呼びかけではなかった。
 
 
 
 本来、煌輝帝伝説で終焉を迎えるはずでした本作品は、本来、勧善懲悪の活劇物として表現されていたはずのものでした。しかし、そこに彼らトルーパーたちの基本となる心の話を織り交ぜた時、物語は力だけで全ては解決出来るものなのかと言う話になっていったわけです。その最高潮が煌輝帝伝説であったわけですが、しかし、そこで行ったことは力の放棄でしかなかったわけです。
 
 それまで心と力の葛藤に悩んでいた彼らの結論が、単純な放棄では物語として完結した事にはなりません。それでは心の力(TVシリーズで心の修行というのがとある回に出てきているのです)の意味が破綻してしまうわけです。
 
 このメッセージでは明確な敵は存在しません。故に、鎧で戦う必要は皆無であるわけです。むしろ敵は存在しているようで、していない、そんな有耶無耶さが彼ら一人一人の語りという形で物語を進ませる結果になったわけなのでしょうが、作品としては好まれなかったようです。
 
 1~4巻までは一人一人ずつ鈴薙が新しく作った鎧に封印されていきます。その目的は、その世界の中で力の象徴として描かれている鎧世界の中にいる超絶的な力の象徴である煌輝帝を再びこの世に呼ぶ事にあったわけです。この鎧世界というのは、仏教で言うところの修羅界に似ています。しかし、望むは力であり、目的は勝利(単純な破壊ではなく、勝ち続けるための力と考えた方が自然であるのです)ですが、この世においてはその絶対的な力によって無限の破壊が行えるものであり、使い方によっては世界の滅亡が可能であるわけです。
 
 力とは簡単に誰でも持つことの出来るものです。18歳になれば、車を運転する事も可能になるわけですが、その車という力も間違えた操作をすれば、人を傷つける凶器になります。それと何も変わらないわけですが、その力を制するための心についての話をこのシリーズではしているという事なのです。
 
 ですが、単に押さえつけると言う話ではなく、力は力として存在し、それをどう制していくのかという事に話は向かっていきました。それまでの鎧の持ち主は封じる事を、排除する事を懸命に行っていたわけですが、主人公たちは鎧(正確には鎧の力)と共にあっても、それを無用に使うことなく日々を進んでいく事を決めたわけです。
 
 排除すれば、そこまでで終わりのような気がしますが、結局は目を背けただけとも映るかもしれないのです。問題として存在する様々な「何か」を真正面から受け止め、それをどのように解決していくのかを模倣する。物語は終了しましたが、その命題にどのように答えていくのかは、視聴者がそれぞれに考えていくものであるというメッセージがそこにあるように思うわけです。



 前回にも記載しましたが、ヒーロー系における力の葛藤というのは、少し前の作風には良く出てくる命題でした。それ以前は勧善懲悪の図式が出ていましたから単純に正義の力を求めるだけでよかったのですが、勧善懲悪が崩れた際に起こる、正義の建前と本音によって、力は単純な行為とその結果になり、場合によっては力を捨てる事に正義を見た作品もあったわけです。ここは、戦争放棄を謳っている日本にあっているのかもしれませんが、しかし、実際には力は放棄しただけでは消滅しないという事が昨今の情勢からもわかってきた話であるのです。
 
 恐らく戦争というのは、第二次世界大戦が終わって後60年以上経った現在でも世界で起こっているものですし、その影響と言うのが一つ世界を動かしている要因であるのは間違いありません。その原因が宗教であろうと資源であろうと、結果、力を振るうことは人の決めた事であり、それを止めるのもまた人でしか出来ないという事になります。
 
 これは宗教ではなく、厳密にして原則な話であるわけです。どのような媒体でもかまいません。ただ人として、限りある大地に立つ人として何が出来、どうするべきなのかを考える必要性はあるのではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年02月20日

様々な「話」を理解するという事。【「鎧伝サムライトルーパー 煌輝帝伝説」(1989~1990年 サンライズ)】

 とあるきっかけで遅ればせながらアニメ版の「げんしけん」を見ているわけですが、その中に、オタクの青年と付き合っている普通の女性がいます。恐らくは、テレビなどで映っているアキバのオタクたちを見て鼻で笑うか気味悪がるか、そういう女性です。しかし、彼氏はオタクの巣窟にいるものですから、毎日が不機嫌であるわけです。
 
 さて、彼女は何故不機嫌なのでしょうか。
 
 それは、彼氏のいるその世界に自分の中に共通点がない(と思い込んでいる)からです。実際、これにはおかしな点があります。何故ならば、人に自分の価値観を求めるに当たり、その動機として常識を使うからです。常識とは何なんでしょう。その世界(といっても自分の周り、おおよそ見える範囲内の矮小な世界)にとっては、自分の常識が絶対であり、それを覆す事は世界の崩壊を促すからです。
 
 これはオタクの世界にも言える話ですし、それだけではなく他の世界でもいえる話です。大きく括ってしまえば、日本の常識は世界の非常識、という事も言えるわけです。では、常識って何なのでしょうか。大辞林にはこのように記載されています。
 
 「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力」…しかし、もう一つの方が納得のいく意味ではないのでしょうか。「「共通感覚」に同じ」。
 
 これは得心の行く話です。共通感覚。そう、常識というのは共通感覚であり、その世界における当たり前の話であるわけです。となれば、共通感覚というのは人が文字や言葉、身振り手振りで伝えあう事=コミュニケーションによって培われていくという事になるわけです。
 
 さて、最初の話、彼女は何故不機嫌なのでしょうか。
 
 答えは、コミュニケーションを培う事によって自分の世界が壊れるのを恐れているという至極単純にして明快な話になったわけです。これは何も、この物語特有の話ではありません。例えば、団塊の世代が今の若者に対して理解を示せない事にもいえる話ですし、その逆も然りなのです。
 
 自分が自分の世界を保つというのは非常に困難な話です。たとえ譲れない根本であったとしても、それは容易に破壊される可能性もあるわけです。今、受け入れる側の話だけをしていますが、それこそ、送り手にも同じことが言えるわけです。理解されないから相手に不可・劣化の烙印を押すのは如何なものなのでしょうか。
 
 受けるにせよ、話すにせよ、一歩引いた場所から相手の様子を見つつ酌み交わす。それは遠慮ではなく思いやりというものです。年齢も性別も関係ありません。言葉を繰る人と言う生き物が出来る不器用でも暖かいコミュニケーションであるのです。



 さて、今回は1989年から全4巻でリリースされました「鎧伝サムライトルーパー 煌輝帝伝説」です。



 眩しい光の下、彼らは思い思いの生活を楽しんでいた。だが、ただ一人、全ての始まりである新宿に向かう少年の姿があった。烈火の鎧を身に纏う遼は、鎧から何かしらの異変を感じ取っていたのだ。時、同じく、新宿では突如として吹き荒れた熱風と共に、サバンナの蜃気楼が見えていた。そして、ビルに絡みつくようなジャングルの幻想。更に、人々が避難した街中に立つ遼の前に、あるか遠いあるはずのない砂漠から一人の人影が近づいてくる。
 
 海辺でその異変を知った秀と伸は急いで新宿へと向かい、同じ時、軽井沢の避暑地へ純の宿題を見に来ていた当麻もナスティたちと一緒に向かっていた。遼と同じように鎧から異変を知った征士も、同じように新宿に向かっている。何かに導かれるように、サムライトルーパーは同じ場所に集結しつつあった。
 
 その新宿では遼がサバンナからの人影に翻弄されていた。アンダーギアを纏い、尋常ならざる力を持った遼。その速度は車でもぴったりと追いつくのは難しいが、しかし、その人影は吸い付くようについてきた。しかも、生身で。その人影が自分と同じぐらいの少年である事をそのとき初めて知るのだった。
 
 少年はその手に持つ巨大なブーメランを、そして自分の肉体を駆使して遼を追い詰めていく。しかし、そこに当麻が、征士が合流する。そんな彼らに対してサバンナからの少年は、何かジェスチャーをする。鎧を、纏え。そう解釈した三人は鎧を身につける…しかし、サバンナの少年はそれを見て不快とも取れる表情をする。
 
 遅れて秀と伸も合流する。鎧をまとって戦う相手を見た伸は相手が生身である事に驚愕する。しかし、それ以上に驚いたのは、鎧をまとった仲間を見た時であった。まるで、それが妖邪のように見えたのだ。しかし、相手の力量を知った伸は秀と共に武装して加勢する。
 
 鎧を身にまとった五人でも生身である少年には歯が立たない。ついに、当麻は天空の矢を少年に向かって放った…しかし、それを素手で掴み、しかも投げ返した。驚く五人の前で更に少年は驚きの行動にでる。
 
 天の太陽に仰ぎ、祈るように、踊るように、そして何かを叫ぶ。
 
 その声に踊りにこたえるように、少年の下に出現し、その身を覆ったのは、五人も良く知る鎧であった…いや、その形は知るものの、色はまるで正反対であった。遼の纏う白い鎧、煌輝帝の鎧。そう少年の纏ったのは黒い煌輝帝の鎧であったのだ。
 
 
 
 完全なテレビ版の続編として、そして、一応の完結編として製作されたのがこの煌輝帝伝説でした。実際には、その後、もう一つのOVAで完結するわけですが、その話はまた次回という事で。
 
 さて、サバンナからきた少年ですが、彼の名はムカラといい、第一巻のサブタイトル(太陽のムカラ)にもなっています。顔立ちは遼によく似た少年で、遼も設定上では野生児であったわけですが、それに輪をかけた野生児となっています。
 
 基本的には無口で強く、しかしセリフは変身と叫び声、あとは最後にナリアという幼馴染の少女に声をかけるのみと、まるでボトムズのキリコみたい(彼もその当時は「何?」「フィアナ」「うむ」という三つしかセリフがなくても成立したと揶揄されたキャラ)でした。鎧と纏う際にトルーパーたちは武装と叫んで舞踏のように踊るのですが、そこはアメリカでそれもおかしいのだろうとして、祈りのような踊りになったのでしょう。その印象が強く、OVAキャラの割りにはすんなりとトルーパーの世界に入ってきたように見えました。
 
 基本的には、TV版では設定のみになっていた鎧世界の話にスポットを置き、鎧と心の有り様を示そうとしたようですが、どうにも四巻では説明しきれない部分があったのでしょうか。最後に何故、遼たちとムカラが戦う事になったのかが、よく考えないと理解できなくなってしまっていました。また、現実世界と鎧の有り様についても話がなされなかったので、結局は黒い煌輝帝も何のために出てきたのか、ストーリー的には不明な状況になったとも言えるわけです(その補完をしたのがメッセージであるわけです)。
 
 要は力と力のぶつかり合いは、予想以上に被害を出すものであるとのメッセージを組ませたかったのかもしれません。それは今までも数多くのアニメで取り上げられてきた命題ともいえるものですが、それをうまく表現しきった作品は現実にあるとはいえないのではないのでしょうか。この煌輝帝伝説もその命題をこなせなかった作品であるのはいたし方のない現実なのでしょう。ただ、だからと言って、そうした事を考えずにこうした作品を作る事は出来ない話です。戦いを一つのテーマにしている以上、必ず通る道であるわけですが、果敢に挑戦したその姿勢には共感が持てると思うのです。
 
 そして、その挑戦は一年の期間をあけて「メッセージ」として登場する事になります(続く)



 いわゆる同人誌バブルと揶揄される作品として知られるわけですが、商業における二次商品の価値を知らしめた作品でもあるとも言えるのです。恐らく、この作品(もちろん、その前にあった聖闘士 星矢、キャプテン翼も含めてです)がなければ、現在のアキバにおける萌え産業もなかったものと思われるのです。
 
 それまでの二次産業と言えば玩具が主流でした。いえ、これは間違いですね。おおよそ原作付きではないアニメや特撮に関しては、玩具が一次産業であり、その玩具を売る媒体としての特撮でありアニメであるわけです。しかし、特にアニメに関しては、グッズと呼ばれる商品の出現により、単なるなりきり玩具だけではなく、まるでアイドルグッズと同じ様相の商品が数多も出現してくるようになりました。いわゆる、アニメイト商品やブロッコリー商品など今も脈々と続く商品は、そうした媒体も商品としてなりえる結果をしめしたと言えるわけです。
 
 現在では、メイド喫茶やネットアイドルなど、少しずつ形態を変化させているわけですが、この先2年で新しい何かが出てくる可能性もあるわけです。もしかすれば、それは萌えに変わる新しい「何か」かもしれないわけで、その時、例えばアキバはどのように変化するのか一つの楽しみであると思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年02月13日

最近で印象に残った作品…ウ~ン?【「鎧伝サムライトルーパー外伝」(1989年 サンライズ)】

 仮面ライダー電王のレビューに関しては、KLEINES HUTTEというBlogで記載しようかと思います。という事で、こちらではちょっと別の話を。
 
 最近、見たアニメの中で大変に面白かったのは、ガン×ソードなのですが、ではそれ以外は見ていなかったかと言うと、そうでもなく、結構しっかりと最後まで見ていたりします。しかし、印象に残らないのが多数であると言えるわけで、昨日もDVDの確認をしていたら…「あー、こんなのあったなぁー」という感じのものが多数あったわけです。
 
 何故にそうした印象になってしまうのでしょうか。それは、どこかで見た事のあるものだから、それとも作画や声優が下手であったから、物語をまとめきれなかったから…恐らくどれも違うのでしょう。強いて言うとすれば情熱を感じないからです。
 
 私が苦手としているジャンルで萌え系があります。おそらくそうなのであろうアニメで「ねぎま」というものがありますが、ふっと見てみると面白さが感じられるわけです。そこにはこだわりを感じます。キャラ同士の交流は良くわからないのですが、魔法を使うシーンに関しては良い意味でのバンク使用であると思います。
 
 別にディズニーのように全てを描けという事もなく、むしろ、日本のアニメーションに関してはバンクフィルムを上手に使うのが良いと思うのです。それはよく言っている話なのですが、時代劇における殺陣と同じように、また水戸黄門の印籠と同じように、締めとして使われているのが適切であるわけです。例えば、エルドランシリーズや勇者シリーズなどの必殺技、例えば、魔女っ子系の変身シーン。これらの作画や演出がキチンとしていれば、締める要素の一つは十分満たされているわけなのです。
 
 他にも、ストーリーとしての流れの要素的な締めというのは連続物でも重要なわけですが、(例えば、おジャ魔女どれみドッカ~ン!の40話「どれみと魔女をやめた魔女」は魔女という存在に関する事を主人公に教える重要な話であり、これがあったからこそ、その後の話が締まったとも言え、結果的にそれまでの全体における話のまとまりがとれたとも言えるわけです)そのような全体を活かす為にも、部分の重要性を見せて欲しいと思うのです。
 
 単に綺麗な作画であっても、そこに締めがなければだだ流れの物語になるわけですから、それは作品として不出来であると言えるわけです。ならば、多少作画が崩れていようとも、締まりのある情熱的な作品を見たいと思うのです。



 さて、今回は1989年に全二巻リリースされました「鎧伝サムライトルーパー外伝」です。


 テレビで大好評であったサムライトルーパーのOVA第一弾としてリリースされたものです。内容的にはテレビ版での敵であった、アラゴや妖邪界は一切出てこず、舞台も日本からアメリカに移りました。
 
 日本・新宿。主人公の一人である真田遼の誕生会。そこにくるはずの伊達征士の姿はなく、しかも、遠く離れたニューヨークで征士の鎧が出現し、人々を襲っているいう。遼はただ一人でニューヨークへ向かうつもりであったが、皆の気持ちは同じ、残りの仲間たちもニューヨークへと向かった。ニューヨークでは確かに不可思議な鎧が街中で暴れていると言う事実があり、それを秀麗黄、羽柴当麻も目撃する。合流した遼と毛利伸はヨロイギアを武装し、誰も纏っていない光輪の鎧と対峙する。その鎧から煙のように何かが立ち上り、そこに現れたのは屍解仙となのる妖術使いであった。
 
 
 
 外伝という様相を持ちながらも、その内容にテレビとのつながりは一切なく、おまけのような感じで発売されたと当時は思っていたわけですが、考え直してみれば、玩具の売上げが振るわなかったがしかし、キャラクターとしての人気が高かった番組においての映像=ビデオ発売としての力を試したのではないのかと思っているのです。その大きな理由は、その後に煌輝帝伝説というOVAが発売されるのですが、こちらは明らかにテレビがあってのOVAとなっており、また、大々的に販促活動を行ったからです。先に手ごたえを感じなければ、例え人気があったとしてもこれだけの行動には出れなかったのでしょう。
 
 内容的にはドラマCDでも十分可能な内容を一つのOVAとして発売した事が、今更ながらこの作品の強さを感じてなりません。というよりも、むしろ、当初はスタッフがファンに対する贈り物的な感じがしてなりませんでした。それほど、キャラクターに重点を置かれている作りになっているわけです。
 
 最終的には鎧をまとって戦うわけですが、特に下巻に関しては終盤の戦いもそれほどしっかりとしたものではなく、バンクフィルムを利用し、その間を埋めたりエフェクトをかけたりしたもので「戦い」というものにはそれほど重点を置いていない作りになっています。鎧をまとう前のアンダーギアの戦いには力を入れていましたけど。
 
 
 
 この頃のトルーパーは終わって尚、その盛り上がりに終わりが見えないほどのもので、この外伝からメッセージまで販促活動しての試写会が東京だけではなく名古屋や大阪でも行われていました。当時、試写会を見に行っている訳ですが、その大半が女性…というよりも男性を見つけるのに困難な状況であったのを覚えています。当時もそうですがトルーパーで男性ファンは珍しいと言われたものです。
 
 そしてなんと4ヵ月後に、早くもOVA第二弾が発馬される事になりました。それが煌輝帝伝説です(つづく)



 今、様々なアイデアの出尽くした感のあるアニメ・特撮・漫画業界ですが、しかし、そのアイデアは案外外の世界にあるものです。ガンダムなどの特定のブランドに捕らわれている感のアニメ業界ですが、さて、衝撃的なアイデアは誰が突きつけるのか楽しみな事です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年02月06日

少し期待感がもてる…かも【「機甲界ガリアン 鉄の紋章」(1986年 サンライズ)】

 仮面ライダーの新しいのが始まりましたが、平成ライダー(クウガと響鬼前半を除きます。でも、これらの作品の方が私は好きです)の中ではメリハリが利いていて面白いというのがまずもっての感想です。なるほど、確かにうわさで聞いていたアニメでの仮面ライダーという状況が見え隠れしておりますが、それはそれ。やはり、実写で動いている方が面白いという事なのでしょうか。またこれは暫くしてからレビューでもしてみたいものです。



 さて、今回は1986年にリリースされました「機甲界ガリアン 鉄の紋章」です。


 前回、紹介しましたテレビ版とは異なり、設定を再構成し物語を一から作り直した作品で、その出だしからして異なります。マーダルは各地を放浪し、そしてある場所にたどり着く。そこは湖、その端を矢にくくりつけた火によって爆薬に点火し爆破すると、水が徐々に引いていく。すると、そこに現れるのは数々の岩の柱であった。その一つを持っている剣で叩き割る。岩が割れていき、中から出現したのは巨大な鉄の蛇神であった。その掘り起こされた巨人たちを駆使し、マーダルは世界統一を成していく。
 
 しかし、そんなマーダルの勢力に抵抗し続ける部族、鳥一族。その根城もいよいよ陥落のときを向かえる。子がいなかったマーダルは三人の養子を迎え入れていた。長兄、ハイ・シャルタット。次兄、ジョルディ。長女、チュルル。ハイ・シャルタットは銀色の飛行兵で、ジョルディも専用の人馬兵でそれぞれの部隊を引き鳥一族の谷に攻め入る。
 
 結果的に鳥一族を事実上壊滅したマーダル軍は、自国の城へと帰参していく。その戦いの中、ハイ・シャルタットは一つの幻影を見る。自分は父王であるマーダルを殺すというものであった。それは城に戻っても変わらず続いており、しかも、ひどくなっていった。ある夜。ハイ・シャルタットは何かに導かれるようにある場所に行く。そこには蛇の下半身も持つ強力な巨人、邪神兵があった。それに魅入られるように仰ぎ見るハイ・シャルタットの背後から近づくのは父王であるマーダル、しかし、マーダルが諭すように声をかけるもハイ・シャルタットは自身の剣でマーダルを刺し貫く。あたかも、彼の見た幻影の通りに。
 
 邪神兵の狂気に魅入られたハイ・シャルタットは、邪神兵に乗り込み、城をそして他の巨人を破壊し始める。それを止めようとしたジョルディとチュルルもハイ・シャルタットによって一命を落とそうしていた…その刹那、遥か遠くより放たれた光がジョルディたちを包み込んだ。
 
 その光がジョルディたちを連れ去ったその場に、突如竜巻が起こり、その中から深紅の鉄巨人が現れる。その中にいるのはジョルディであった。
 
 
 
 話的にはかなりかいつまんでいますし、前後している部分もあります。
 
 何が違うといえば、マーダル陛下は全く違います。鉄の紋章のマーダルはアズベスでありまして、テレビ版のマーダル陛下は出てきません。また、ハイ・シャルタットとジョルディが兄弟であることも違いますし、異星人話も出てきません。何より、巨人たちの話がほとんどされないまま、話は進んでいくわけです。
 
 また、ガリアンをはじめとする機甲兵のデザインもより甲冑に近いものとなっています。それに、テレビ版でありました、アグネシウムアローは廃止。代わりに鉄棒が射出されました。何より、機甲兵がそれほど強くはなく、戦いようによっては人でも十分に対応できるようになっています。
 
 話としてはかなり長くなりそうなものを無理やり一話分とした感があり、行間を読むぐらいでは理解できない部分もあるわけですが、それよりも世界観を楽しむ話としては面白いのではないのでしょうか。



 最近、ワンコインアイテムとして発売されました鉄の紋章ですが、ガレージキットとしても、そこそこの人気がある作品です。プラモデルとして発売されない関係でしょうが、かなり細かいデザインとなっているからこそ見栄えもよく作る楽しさに飾る楽しさがあると思うわけです。
 
 だた、やはりOVAとして一話完結で製作されるよりも、12話ぐらいの長期にわたって展開してほしかった作品であるのは間違いなく、リメイクされないかと願っている作品であります。というよりも、パロディとして書くか?という気持ちになってはいますけど、どうなる事やら。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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