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小栗美作(おぐり・みまさか)・新潟の偉人
越後国高田藩(新潟県上越市)家老小栗正高の嫡子として高田に生まれる。
寛永3年(1626)‐天和元年(1681)6月22日 56歳
高田藩主松平光長の上席家老。
直江津の築港、関川の浚渫、用水の開削、たばこの改良増産、銀の発掘など卓抜した政治手腕を発揮、高田藩の最盛期をつくりあげた。
将軍親裁をへて、高田藩とりつぶしに発展した越後騒動の一方の当事者でもある。
本名は正矩、のち美作守に任ぜられ、通称が美作。妻は光長の妹。
寛文5年(1665)の地震で圧死した父の後をついで家老となり家禄1万7千石もうけつぐ。
人物手腕ともに他の重臣にぬきんで、藩政の中心にあって才腕をふるった。
その業績は、地震後の復興、直江津港の改修、中江用水などの用水開削、大潟その他の新田開発、大鹿煙草の改良増産、魚沼の銀鉱採掘など数多く、その執政15年間に藩繁栄の最盛期を現出した。
業績の一つである中江用水は、関川の水を分けて高田平野東部を28キロにわたる大用水である。
当時藩の表高26万石が内高36万石をこえているのは、美作の功業があずかって大きい。
水土を拓いた人びと―北海道から沖縄までわがふるさとの先達しかし藩政の実権をにぎる美作に対して、他の重臣の嫉視反感が強まり、さらに藩主継嗣問題がからんでいわゆる越後騒動がおき、永見大蔵、萩田主馬のお為方と美作の逆意方の争いとなり、美作は家老を辞した。
高田平野東部には関田山系から流出する小河川が数条あり、その小河川の河川用水を生かして導水した「およべ川用水」や「赤牛路用水」などの用水路が利用されていた。元来これらは水量の絶対量が少ないことから、水田開発には限界があった。
用水を充足するには関川本流から導水する手段を用いることが求められ、今他村(現・上越市三郷地区)の久右衛門は寛文年間に頸城郡の大肝煎和田七郎右衛門など頸城の12人の大肝煎とはかって、自費で中江用水の開削工事にとりかかった。しかし、資力欠乏のため工事を進めることができずに、ついに藩に助力を願い出た。
小栗美作は陳情を受けると、自ら地形と実態を視察して「富源洋々として眼底に反映す」と痛感したという。早速具体的な技術を求め、日本一の事業家河村瑞賢を江戸から招いて顧問とし、ともに苗名滝と野尻湖などの水源を踏査した。こうして瑞賢は約3か月あまり高田藩に滞在し、多くの合理的な技術的助言を行ない、西条取水口からの導水計画を推進することになった。
頸城郡奉行長尾小右衛門を水配長(ご用水の分配に関する諸問題の処理や管理にあたった役人の長)とし、高野村又右衛門を勘定書役(経理担当の役人)に命じ、水盛大工(水平を計り用水設計をする大工)に4人を任命した。
人夫賃や用材は藩費から支出し、藩の直営事業とした。なお、開削費用は藩主松平光長の御用金から2万両を支出し、各郷村の大肝煎から庄屋・村役人に至るまで、こぞってこの大事業に協力して着工した。
中江用水は、関川の水を水上村西条地内でせき止め、関川の本流を用水江に取り入れ、有田村佐内(現・上越市)で保倉川に注ぐ用水路である。また、この用水の利益を受けるのは107か村、2700ヘクタールで、その高は2万674石(約3100トン)に達している。
用水路の延長は約26キロメートルで、幅は江幅728センチメートル、両江丸(両側の土手を含めた潰地)364センチメートルずつの計1456センチメートルで、当時としては越後第一の大用水であった。また、工事の一日人夫賃は50文で、総額2万数千両を要し、およそ3年有余で完成した。まさに高田藩の総力を結集した大事業であった。とくにこの用水は、高田平野東部の小河川複合扇状地を横断して開削するので、それぞれの河川を掛樋(川や用水路を越えて水を引くための樋)によって横断する難事業であった。
新装版 列藩騒動録(上) (講談社文庫)天和元年(1681)6月22日将軍徳川綱吉の親裁で美作は切腹を命ぜられ、即日切腹、高田松平藩はとりつぶしとなった。
小栗美作は家柄家老ではあったが、政治の手腕は最もすぐれたものである。家中の評判は大いによかりそうなものであったが、そうは行かなかった。
その原囚の一つは、・・・人間の好き不好きだ。聖賢でも迫害されることをまぬがれないのである。
第二は、美作がいろいろな点において、最も恵まれた境遇にあったことだ。家中第一の家柄であり、一万七千石という第一の高禄の家である。主家の小栗家にたいする寵遇も格別なものがあった。・・・
美作は生まれつきの美男子である上に、相当なおしゃれ(当時の古文書には「きれい好き」とある)で、常に美衣をまとい、供まわりを立派にし、堂々とかまえていた。当時の武士の気風は朴実剛健を愛したから、気に入らなかったろう。「奢り者」と文書に書きのこされている。
・・・
第三に、美作が寛文3年、38の時、藩主光長の異母妹お勘と結婚したことだ。
・・・
以上のようなことで、家中の人々が美作にたいしてあまり好意を持っていないところに、決定的な事件がおこった。
美作は家老になってしばらくすると、大震災によって打撃を受けたお家の経済を立てなおすという名目で、知行制を廃して蔵米の制度にした。
・・・
美作は知恵者であり、貴族的性格であり、藩中第一の門閥家であり、首席家老だ。どうしても独裁的になる。重臣らとしては、それがにくい。萩田主馬、岡島壱岐などの重臣らはしぜん相結んだ。この人々が、美作憎しという気持で、美作のやっていることを見ると、何から何まで気に入らない。
水土を拓いた人びと―北海道から沖縄までわがふるさとの先達
1674(延宝2)年、藩主松平光長の子綱賢の死去によって後継者問題がおこり、越後騒動へと発展した。当初光長の異母弟永見長頼の遺子万徳丸を後継者と決め、元服して綱国と改めた。ところが、小栗美作は嫡子掃部を推したことから、平素反感を持つ永見大蔵や荻田主馬らが反発した。
酒井大老の斡旋によって美作は、いったん家老を辞職して和解した。しかし、四代将軍家綱が死去し、将軍継承問題の論争とも関連し、五代将軍綱吉となるや、高田藩の後継者問題は将軍親裁によって再審となり、1681(延宝9)年に美作父子は切腹、永見大蔵と荻田主馬はともにハ丈島へ流刑となり、松平光長は改易となった。
こうして越後騒動は終わったが、「江戸の敵は越後で打たれた」と後世になって語られている。
越後の穀倉地帯の一つ高田平野では、近代になって関川水系の電源開発が行なわれ、共存共栄の合理的な方法で美田を形成している。その幹線水路である中江用水は、340年前に先人小栗美作の卓越した識見と実行力によって開削されたものである。小栗美作は地域開発を推進した偉大な先駆者であり、「万代不易」の功労者である。
小栗美作住居跡碑(女性サポートセンター・新潟県上越市寺町2-20-1)
小栗美作地蔵(新潟県上越市)
小栗美作と中江用水(農林水産省)
小栗美作墓所(善導寺・新潟県上越市寺町2-5-5)




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