思い立ったがすぐに行動してしまうのは私の悪いくせでもあり、みんなをびっくりさせました。
もちろん仕事中のしろさんにも「今から佐賀に行こうと思うんだけど」とブログを書く直前にメールを送り、「ブログに書いていたような淡い期待を持たないのならば」という条件付きで行ってもいいよという言葉を貰いました。
それから妹にメールで「私も行こうかと思うんだけど」と送ったら「いいよー」とあっさり来たので、突然で悪いんだけど今から行くと母に電話をした次第。
動けると思った時しか動けない自分の病状もあり、前もって計画を立てるとそれがプレッシャーになりその日までが完全に鬱状態に陥る私は「今日がどうか」でしか行動が出来ません。
「明日がどうか」はもう不明で、だからどうしても突然になってしまいます。
どうしようかなと今回の行動も3日程前から頭の中で考えてはいたけれど、予め連絡することは出来ずにいました。
妹が母宅に行った後、広島に来て1泊するとわかっていながらも私が佐賀へ向かったのには理由がいくつかありました。
まずは、親子3人で食卓を囲んだ時どんな雰囲気なんだろうということ。それはどういうものなんだろうという「夢の世界」を体験してみたいという気持ち。
それから、妹がもうビザが発行され次第タイへ飛ぶので当分会えないという理由。発言が変わった妹を少しでも長く見ていたいという気持ち。
もうひとつは、次があるかどうかわからないということ。妹のタイ滞在期間は5年以上10年以内というもので、その間誰かが欠ける可能性が無いとは言えないから。
「ちょっと行って来る」と記事をアップした後に、それまで何ともなかったのに両手両足がぶるぶる震えだし立っていることも困難でどうしようかと思ったけど、行くと既に連絡までしているので自宅から最寄駅までタクシーで移動しました。
妹は結婚が決まって以降、時々話す中でこの家庭での疲弊をつぶやくようになっていました。
私が中学の頃から働き始め、それ以降も家にいる時間など無い程にずっと働き詰めだった時間に、妹が受けてきた母からの依存はあまりにも大きく、ひどく重荷であったと言います。
私が生きるために働き、家を開けていた時間に、どんな生活がなされていたのか。
あれだけ一身に母の愛情を受けて育った妹も、早々と20歳で家を出て、旦那さんと出会うまでの15年間、ずっと一人暮らしをしていました。
私が東京での一人暮らしをやめ、しろさんのいる大阪に移った頃から自活を始めています。
逃げたかったと言った一言がとても気になっていました。
そして、長野に引っ越した時、実家のあった地元からやっと出られたととても喜んでいた事も。
虐待を受けていた私の立場と、正反対の妹の立場。
あれだけ愛されていたのだからすくすくまっすぐ育っているはずだと思っていた私ですがそうではなく、妹は「おかしい家庭」と感じていたことをそれまでの会話の中で知り、妹が母とどんな接し方をするのかを見たいと思いました。
でも、虐待を見ていた可能性は否定できないのだから、何か傷を受けていても不思議はないだろう程度にしか私は考えていませんでした。
しかし以前のように母に優しく、気を遣い、丁寧で、何でも受け入れ「うん、わかった。ありがとう。」とにこにこする妹の姿はどこにもありませんでした。
母は持ち帰らせたい産地のぶどうや好物を手土産としてごっそり用意して嬉しそうに手渡そうとしていましたが、妹は「いらねーよ!」と感情をあらわにことごとく断っていました。
それでも「せっかく用意したのに」と何度も食い下がる母に、「いらねーって言ってんだろ」と。
さすがにこれはヤバいと思い、「持って帰った方がいいんじゃないの?」と妹に耳打ちしたら、「そうだね、これ以上面倒くさいから後で駅で捨てればいいや」と私に言い放ちました。
母はめげずにあれやこれやとお茶菓子を出し、妹にしつこく勧めまくります。
何もいらないと言っている妹に、じゃこれは?と次々と出てくるわ出てくるわ。
「しつけーんだよ!いらねーって言ってんのわかんねーのか!」と、また妹の逆鱗に触れ…。
驚きです。まさかの展開。いい子で、仲良し母子はどこへ行ったんだ?この子は誰?という程。
私よりも早く博多に着いていたにも関わらずホテル泊を選んだ妹は、「なるべく長居したくないけど、一応挨拶しとかなきゃかわいそうじゃん」と話していたのはこういうことだったのか。
やっと吐き出せるようになったのか。ずっとがまんしていたのか。
妹も、苦しんでいたんだろうと思った。健全な家庭に育っていないのは同じこと。
親の言葉にしゅんとなる私と、これでもかという程どうにかして切って捨てようとする妹。
毒になる親は、なにも虐待する親ばかりではないのだと目の当たりにした気分。
結婚が決まって以降母に対する発言がぼろぼろと変わって来たのは気にはなっていたけれど、結婚をし、ある意味母から一線を引くことが出来、嫌な思い出しかない地元を離れたどころか今度は国外に移住し簡単には行き来出来ない距離になり、しょっちゅう送られてきていたらしい母からの愛の宅急便も送られてくることは無くなり、ほぼ完全に逃れられます。
父のお参りもさっと手を合わせただけで出てきたのも、一応行っとかなきゃというだけだったんだなとわかりました。
妹はすべきことだけは必ずします。心の中がどうであろうと筋道だけは絶対に通します。
せねばならないことをこれでやり終え、ノルマを果たしたという感じでしょうか。
ぶどうは結局広島まで持ち帰り、妹の居候先である友人宅に送りました。
自らの手で食べ物を捨てる気にはなれません。
食べる物にあれだけ困った生活をしていた経験が甦ります。
佐賀へ行った理由の、親子3人で食卓を囲んだらどんな雰囲気なんだろうという分は果たせませんでした。
妹が午前10時半頃母宅に到着してから約1時間程しか3人で居る時間はなかったので。
その1時間の中で、前述したぶどうや茶菓子のやりとりが繰り広げられていました。
母はその後すぐに従妹のお姉さんを呼び出し、車を出させて食事〜叔母さんの家〜母宅〜駅までをずっとお姉さんも同行しており、「母と娘たち」が会話をすることはもうありませんでした。
妹の気持ちはともかくとして、母も次にいつ妹と会えるかわからないのだから昼食なんて家で取り、滞在時間をフルに妹とじっくり過ごす時間として大事にすればよかったのになとも思います。
このたった5時間半の滞在で、あと次は10年後かもしれないのですから。
最後の理由である、次があるかどうかわからないという理由。
これは家族が揃い、その中に自分がいる機会がまた今度あるかといえば全く保障は無いと思ったからこの機会に合わせて母宅へ行く事を決意しました。
私がまだ何も気づかずに何も考えずにいた頃、突然に事件に遭い精神病院に入院しました。
それは人から受けた被害によるものでのうつ病の発症であり、自分の幼少時の出来事がこんなにも根強く潜在し、これだけの影響を与えていたとは全く思いもしていませんでした。
解離性同一性障害だと診断を受けたのも、2年ほど前のことです。
その入院中に父は亡くなりました。
私は余命を聞いても会いたくなくて、顔も見たくないと思う程度でしかありませんでした。
しかし今は自分に向き合おうとする以前に突然死なれ、自分を振り返ろうにも会って顔を見ることさえ出来無い事に悔いています。問いたいことを問う事も出来ません。
死んだから罪が消えるわけではなく、受けた傷は生々しく残っているのです。
去年の母宅訪問は「違うよね?私の記憶が間違っていて、本当は愛されているんだよね?」という気持ちを確認したくて行きました。
今年は自分の記憶をよりリアルにしたかったのと「家族の姿」を見たかったのがメインでした。
思いがけないところで「小さな私の写真」とも出会い、温泉では幼児や少女のしぐさや裸体を目の当たりにし、虐待がリアルなものとして浮かびあがり、新たな感情が芽生えました。
意外にも妹ではなく、私を歓迎した叔母という存在もいました。これには驚きました。
萎縮していた私にとって戸惑いでしかなく、親から植え付けられていたものとは違っていました。
複雑な心境ですが・・。
あわただしく過ぎて、自分がしなければならない記憶と感情の整理がまだ出来ていません。
帰って来てからは、何時間か掛けて記事を作成する以外は寝込んでいます。
これからゆっくり向き合ってみようと思っています。
前回、前々回と記事を書き続けてきましたが、この出来事記事はあくまで「出来事」であり、あくまでも自分のことしか考えずに書いた記事でした。
いつものように読み手がいることを考えながらではなく、記録として書きました。
フラバや辛くなってしまった方もいらっしゃったかもしれません。
ごめんなさい。
これらの記事を書くことで私にとって詳細な記録となりましたが、特にこの記事は「こだま」に2時間程乗車していた間に妹の愚痴に合わせ、その時自分がいくつで何をしていた頃だったのかをそれぞれ妹に聞きながら並べていく事が出来ました。
妹とふたりで過ごした時間も、とても貴重でした。
ぶるぶる震えながらでも、行ってよかった旅でした。
応援してね
にほんブログ村
人気ブログランキング
BlogPeopleブログランキング




日時 





