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8人に1人が苦しんでいる!「うつ」にまつわる24の誤解
“イライラ”は、「ウツ」が悪化している兆候なのか?
――「うつ」にまつわる誤解 その(8)
「うつ」でも、単に落ち込んでしまう状態だけでなく、イライラや怒りっぽさが現れてくることがあります。
そこで今回は、そのような状態のからくりや意味について考えてみたいと思います。
◇イライラと自己嫌悪の悪循環に…
「まったく、ちゃんとマナー守れよな!」
朝の通勤時、Nさんは最近やけに、他人の行動が気になるようになりました。うっかりすると後先考えずに喧嘩でもしかねないピリピリした状態になってしまっているのが、自分でも心配です。
Nさんは、これまでに「うつ」で休職療養をしたこともありますが、今ではある程度回復したので、通院治療を受けながらも、職場には1年ほど前から復帰しています。
ピリピリした状態は、徐々に職場内でも現われるようになってきました。仕事を要領よく押しつけてくる同僚や、よく考えもせずに業務を丸投げしてくる上司に対して、以前にも増して苛立つようになり、近頃では抑えが利かなくなって、時には声を荒げて反発するようにもなったのです。
周囲の人たちが、そんな状態のNさんを奇異な目で見るようになってきていることは、彼自身も重々感じてはいるのですが、どうにも自分でコントロールが利かない状態になってしまいました。
Nさんは、怒りっぽくなってしまった自分を「感情もコントロールできないなんて、最低な人間だ」と思い、すっかり自己嫌悪に陥るようになりました。しかしいくら反省してみても、次の日にはまた同じようにイライラしてしまいます。
「また調子が悪くなってきているのかも知れない……」
このところ寝つきも悪くなってきていて、Nさんは自分の状態がとても心配です。
◇イライラはなぜ起こるのか?
Nさんのように、「うつ」の経過中にイライラしやすい状態が現われることは、決して珍しくありません。
「最近、イライラするようになってしまったんです」という言葉をクライアント(患者さん)が口にすると、治療場面においても大抵の場合は、これを「衝動性の亢進」「情動が不安定になった」として、悪化の兆候と捉えられてしまうことが多いようです。
しかし、この状態をどう捉えるのかによって、その後の経過がまったく変わってくるので、私は治療上とても重要な局面だと考えます。
まずは次の【図1】を使って、感情について考えてみることにしましょう。
【図1】感情の井戸(省略)
これは、私が「感情の井戸」と名づけているものですが、第1回で登場した「頭・心・身体」の図のバリエーションです。
理性の場である「頭」は、「心」との間にある蓋を閉じて、感情のコントロールをしばしば行ないます。
現代人は、かなり慢性的にこの蓋を閉めている状態になっていることが多いのですが、この図のように、抑えられて出られずにいる感情は、「怒」「哀」「喜」「楽」の順番で溜まっているイメージで捉えられます。
一般的には感情を「喜怒哀楽」という順番で言うわけですが、私が臨床的に多くのケースを観察した結果、どうもこのような順番になっていると考えられるのです(詳しくは拙著『「普通がいい」という病』【講談社現代新書】をご参照ください)。
◇「怒り」を抑えることのデメリット
この「怒」「哀」「喜」「楽」という順番が、とても重要なポイントになります。特に上の二つの感情は、俗に「ネガティブ(マイナス)な感情」と言われているもので、一番上にあるのが「怒」です。
ですから、「心」がエネルギーを回復し、「頭」の過剰なコントロールに反発して感情を出そうとしてくる際に、最も初めに顔を出そうとしてくるのが「怒り」の感情ということになります。
「怒」のボールは、「頭」が閉めている蓋に抗して、これを押し上げようとしてきます。これが、イライラの状態です。いわば、火山が噴火する前に起こる地震のようなものです。
ですから、このイライラを悪化の兆候と見て、ひたすら感情のコントロールを強化する方向で治療を行なってしまうと、せっかく開こうとする蓋を再び閉めることになり、「心」が回復しようとする芽を摘んでしまうわけです。
しかし、「怒り」は大抵の場合、抑えるべき感情と捉えられているものですし、やたらにまき散らしてしまえば厄介なトラブルの元にもなることは否めません。そこで、この感情解放の初期段階をうまく経過させるには、ある種のコツが必要になってきます。
◇「ポジティブ思考」が長続きしない理由
「怒り」を抑えているものは、「怒り」をネガティブと捉える道徳的な価値判断や、人間関係への配慮が主なものでしょう。しかし、先ほどの図で示したように、ネガティブな感情が出られなければポジティブな感情も出られません。世に言う「ポジティブ思考」というものが長続きしない訳は、ここにあるのです。
そもそも感情をネガティブ/ポジティブに分ける二元論的判断のところに根源的な問題があるのではないかと私は考えています。コンピューター的な性質の「頭」は、コンピューターが1/0の二進法を基礎にして作られているように、二元論的判断を思考の基本要素としているので、どうしてもこのようなことが起こりやすいわけです。
本来「怒り」は、ネガティブというレッテルで差別されるべきものではありません。
不当なもの、理不尽なもの、愛のないもの、侵害的なもの等に対して自然に「心」から生み出されてくる感情が「怒り」なのであり、人類の歴史を見ても、革新的な試みは常に、旧態依然としたものへの「怒り」が基になって成し遂げられてきました。「怒り」は、閉塞的状況を打開する創造的エネルギーの発露でもあるのです。
もちろん、巷で目にする「怒り」には、自分勝手な欲望が満たされないために出てくる未熟なものや、古い怒りが溜め込まれ腐敗して八つ当たり的にぶちまけられるもの等々、質の悪い「怒り」がかなり見受けられます。
しかしながら、その面だけを見て「怒り」をネガティブと誤解してしまうと、「怒り」の持つ大切な意義を見落とし、その力を生かすことができなくなってしまいます。
◇「怒り」とどう付き合うか?
これは「うつ」に限らないことですが、「怒り」の扱いが不適切なために、「怒り」の悪循環に陥っている方がよくあります。
生み出された時には鮮度の良いもっともな「怒り」であったはずのものが、「怒り」を抑える習慣によって溜め込まれて腐敗し、それが溜まり溜まって圧力が高まり、ひょんなきっかけから不適切な場面で暴発してしまう。それを本人はいたく後悔しますが、それゆえ再び感情の蓋を強固に閉めてしまって、また「怒り」が充満しやすい状態を作ってしまう。これが、悪循環の構造なのです。
アルコールで蓋が緩んだ時に暴発すると「酒乱(病的酩酊)」ということになりますし、親密な人間関係の場面でコントロールが緩んで暴発する場合には「DV(家庭内暴力)」の形をとるかもしれません。
このような悪循環から抜けるためにも、「怒り」をただ蓋をしてごまかすのでなく、自分自身が「怒り」を受容しどう処理できるのかが大切なことになります。
「怒り」を自分で受容することと、やみくもに外部にまき散らすことは違うことです。「怒り」の受容とは、「心」から出てくる「怒り」を、「頭」が共感し承認することなのであって、言動として外に表すかどうかは、まったく別の「社会性」の次元の問題なのです。
そうは言っても、溜め込まれて充満している「怒り」を扱う場合には、「社会性」を吹っ飛ばして暴発する危険性もありますから、専門家のサポートも重要になってきます。
◇「心の吐き出しノート」をつけてみる
しかし、自分自身でできる工夫の一つとして、私はよく「心の吐き出しノート」というものを勧めることがあります。
これは、決して誰にも見せてはならないノートです。しかし、そこには遠慮なくどんな罵詈雑言を書いてもよいことにするのです。書きたい時には、何ページでもよいからスッキリするまで書くようにします。もちろん、日記ではないので、書きたくない時に書く必要はありません。モヤモヤ・イライラ・ムシャクシャした時に、これを一人で誰にも邪魔されない状況で行なう習慣をつけるのです。
「書く」という行為は、必ず「頭」の協力を必要とするものです。そのため、実際に感情を文字にして吐き出す作業に着手することは容易ではありません。しかし、徐々にこれができるようになってきますと、自ずと「心」と「頭」の間の蓋が開き、両者に協働的な関係が作られていくようになります。
「怒り」を力づくで鎮圧するのではなく、このように自分で受容する方法で解決しますと、「頭」と「心」の関係に本質的な変化が生じます。つまり、「頭」が独裁的に「心=身体」をコントロールするという病的な構造が解消されるわけです。
ともすれば悪者扱いされてしまう「怒り」も、見方を変え、扱い方を工夫することにより、ジェットエンジンのような力強さで見事な働きを示すものにもなり得るのです。
次回は、休職している人が「一日も早く職場に戻りたい」と思うことについて、考えてみましょう。
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