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2005年05月31日

夜の神宮道

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野暮用で月末になると、夜の街を車で走る。用事が済んで、時間があると、平安神宮の前に行き、そこから南に続く、「神宮道」をゆっくり行く。

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黒くそびえる大鳥居の東には、京都市美術館がひそやかにライトアップされていて幻想的だ。

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そして、三条通を越えると、街灯の明かりよりも闇のほうが濃くなり、大楠に護られた青蓮院の門に、提灯が灯っている。

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細い道は弓なりに曲がって、すぐに知恩院前で広くなる。道の端にはタクシーが何台も停まっている。別に客待ちをするでもなく、運転手さんたちの姿はあまり車内にない。時間つぶしの場所なのだろうか。
見上げれば巨大な三門は、東山に溶け込むようでいて、頭上に圧倒的な威容でのしかかってくる。

まっすぐ行けば円山公園。車では入れない。西に知恩院道を下がっていき、石畳にタイヤを揺らせて新門をくぐれば、そこは祇園。青蓮院や知恩院の静寂からすぐそばにある、盛り場の賑わい。青白い光でライトアップされている八坂神社西楼門の前を走り抜けて、一瞬の夜の散策は終わる。
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2005年05月30日

階級社会・京都

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 通り名の歌に歌われる地域を「聖域」と感じるわしには、手の届かない京都のモノが多々有る。そして日々、ひしひしと感じるのである。「この街に住む人間は、みんなあからさまに格付けがされていて、歴然たる階級社会に生きているなあ」と。
 写真は祇園のお茶屋である。まず、わしには生涯縁のない店だ。
「そんなことあらしまへんえ。一見さんお断り言うても、ちゃんと手順を踏んだら遊ぶことが出来ます。どうぞ気楽におこしやす」と、公式には言うてくれるであろう。
 大嘘である。社交辞令である。建前である。

 お茶屋遊びの平均的料金。
 三人で出かけ、舞妓さん一人、芸妓さん一人付いてもらって、懐石料理などを取り寄せ、飲み食いし、踊りなど見せてもらって午後6時か8時まで遊び、一人あたま、4万8千円。(参考・文春新書「京都 舞妓と芸妓の奥座敷」相原恭子著)・・・今は不況でだいぶ値が下がっただろうか?
 そのくらいなら払えるぞ、という人もおられるだろう。だが、一見さんお断りの壁を突破するのは並大抵ではない。名前を言えば誰も知っている大会社の社長でも、祇園のお茶屋には入れてもらえず、腹いせに宮川町で何億とばらまいた、という話がある。お店のほうが、客を選ぶのである。その基準は何一つ明らかにはされぬ。そして、花街にも格の差がある。
 そんなことは誰でも知っているので、京都では改めて話題にもならない、のだろうが。

 これもまた、名前を言えば、ある年齢以上の京都の人なら大概知っていた有名な飲食店。よくガイドブックにも載っていたのだが、いつからか店を閉めてしまい「幻の名店」となってしまった。その主人が最近漏らしたという閉店の理由。
「京都では、食い物屋は、どこまで行っても低くみられるねん。ある人にそう言われて、なんやもう、やる気がのうなってもうた」

 京都に多い和菓子屋には、三段階の格付けがあるそうである。
 ☆お餅、赤飯をメインとしながらお饅頭も売る「おもちやさん」
 ☆多種類の饅頭や餅菓子を並べる「おまんやさん」
 ☆お茶席で使う上菓子を扱う「菓子司(かしつかさ)」
 「おもちやさん」のあるじは「○○のおっちゃん」と呼ばれ、「菓子司」の経営者は××さんのご主人」と呼ばれる、そうである。(参考・淡交社「天使突抜一丁目」通崎睦美著)
 高級と低級、上品と下品、尊い者と卑しい者が、くっきりと差別されてきたのは、日本の歴史の一面であろう。
 京都の社会には歴然とその意識が残っている、とわしは言い切りたい。

 永遠に尊貴で至高の存在と思われた天皇家が東京に行ってしまい、それに連なる序列だった貴族も一緒に去り、御所は巨大な空白となった。
 残る尊きものは、門跡や大本山を頂点にする仏教寺院のヒエラルキー。
 真摯に修行に励み、宗教者として尊敬を集める僧がいる一方で、祇園をはじめとする花街の一番の上得意とされるのも、大寺院の生臭坊主だ。坊主丸儲け、というじゃありませんか。不況の中でも遊びに来てくれるお坊様は、花街の救い主だろう。しかし、本山ー末寺の上下関係、寺内の僧の階級差は、いまだに封建時代を思わせる。下っ端はもちろん祇園に遊びになど行けない。
 修行初めの下級の僧は冬でも足袋を履くのを許されない禅寺があり、足に傷を負った若い僧が、傷口から菌が入って入院。退院後も裸足でこき使われて、悪化しては入院を繰り返すので医師が何度も寺に「足袋を履かせるように」と言っても無視され、若い僧は敗血症となり、ついに死亡。江戸や明治の頃の話じゃない、つい数年前聞いたことだ。

 神社の御神体がなんであるか、あえて覗く人は少ないように、京都に関してはわかっていても話題にされないことが一杯ある。
 わしは、ヨソサンで、そういう空気が読めないので、時として壁にぶつかり、大いなる違和感に悩むのである。
 でも、本当は京都の人は皆、知っているのだ。
 日本が平等な社会でもなんでもなく、上に甘く、下に厳しい階級社会であること。京都にはそれがあからさまに見えること。
 京都では、市長選挙で、政党では日本共産党だけが推薦する候補が、政財官界代表の候補と大接戦を演じるという、まあ、日本の他の大都市では信じられないことが起こるのである。自分がどういう階級に所属していて、その利益に寄与してくれるのがどんな政治家か、よくわかるのである。

 そういう京都に、わしは激しく違和感を覚えつつ、熱烈に愛する。ここは、世界のどことも違う、まちだから。

2005年05月29日

京の通り名の歌「寺御幸」

 京の通り名の歌は、江戸時代の文献にも載っているそうであるが、幾つかのバージョンがあるのは、Bachさんのご指摘どおり。メロディーもきっといろいろあるのではないかと思われる。

 さて、南北のほうの歌は「てら・ごこ」である。

寺 御幸 麩屋 富 柳 堺
(てら ごこう ふや とみ やなぎ さかい)
高 間 東 車屋町
(たか あい ひがし くるまやちょう)
烏 両替 室 衣 
(からす りょうがえ むろ ころも)
新町 釜座 西 小川
(しんまち かまんざ にし おがわ)
油 醒井で 堀川の水
(あぶら さめがいで ほりかわのみず)
葭屋 猪 黒 大宮へ
(よしや いの くろ おおみやへ)
松 日暮に 智恵光院
(まつ ひぐらしに ちえこういん)
浄福 千本 はては西陣
(じょうふく せんぼん はてはにしじん)

 こっちの歌は、「丸竹夷」に比べて知名度が低く、わしもラジオで聞くまで知らなかった。ちょっと前まで、京都銀行のCMでよく流れていたのである。
 ではこれも、通り名のフルネームを記す。読み仮名を書いてない場合「町」は「まち」と読む。

寺町通 御幸町通 麩屋町(ふやちょう)通 富小路(とみのこうじ)通 柳馬場(やなぎのばんば)通 堺町通
高倉通 間之町通 東洞院(ひがしのとういん)通 車屋町(くるまやちょう)通
烏丸(からすま)通 両替町(りょうがえちょう)通 室町通 衣棚(ころもたな)通
新町通 釜座(かまんざ)通 西洞院(にしのとういん)通 小川通
油小路(あぶらのこうじ)通 醒井(さめがい)通 堀川通
葭屋町通 猪熊通 黒門通 大宮通
松屋町通 日暮(ひぐらし)通 智恵光院通
浄福寺(じょうふくじ)通 千本通

西陣は通り名でなく、地域の名称で、応仁の乱で西軍が陣を敷いたことから付けられている。
このところの歌詞、「はては西陣」でなく、「さては西陣」と歌うバージョンもあるらしい。

 その西陣の隅っこに住んでいたことはあるが、こっちの歌の範囲からも、わしははじき出されてる(苦笑)。
 それはなぜかと考えてみる。真っ先に浮かぶ理由は、このエリアは家賃が高いのである。代々ここで暮らしている住民の比率が高いので、ヨソサン向けの賃貸物件が少ないし、なにより都市の中心なので地価が格段に上なのだろう。
 そして、昔ながらの京都の町家暮らしは、ご近所付き合いのしきたりが高度で複雑で、よそ者はびびってしまうのである。
 旅行者や、一時の滞在者である学生に対してはおおらかに接する京都の人々も、ご近所さんになると、厳しいチェックの目を向けてくる、様な気がする(^^;)
 それでも最近は、このエリアにもマンションは林立し、町屋暮らしに憧れて東京からやってきはる方も増え、ヨソサンの流入は激しいに違いないが、わしにはいまだ、一種の「聖域」みたいな感じが抜けないのである。

2005年05月27日

小京都・飯田市

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今まで、わが故郷・伊那谷という風に記してきたが、わしの実家の在所は、長野県飯田市である。
市としては長野県で最南部にあり、天竜川の西岸、木曽山脈の東、独立峰・風越山の麓の扇状地にある地方都市だ。

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1600年ごろに、京極氏が城下町を整備し、碁盤状の町並みを作り上げたので、街の風情が京都と似ることになり、いつからか「小京都」の名が冠せられることになったようである。
この写真は、飯田最古の道標で、「南は三河(=愛知県)へ、北は善光寺(=長野市)や甲斐(=山梨県)へ、西は木曽へ通じる」ということが記されている。

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道標の置かれた辺りは江戸時代の繁華街の中心で、今も土蔵を持つ古い造りの商家が結構見かけられ、城下町の風情がとどめられている。

しかし、わしが故郷を「伊那谷」と書き、飯田と書かないのは、この城下町の雰囲気の中で育ったのではないからだ。
わしの育った頃、実家は下伊那郡鼎(かなえ)町だった。飯田の街並から、松川の流れを挟んですぐ南側に位置する人口1万ばかりの小さな町。わしが京都に来てほどなく、飯田市に吸収合併されたのである。
小京都としての飯田の風情は、わしにとって「憧れのとなりまち」であって、故郷のものではないのだ。
憧れの街という点で、飯田は京都と重なっているといえるかもしれない。
だが、わしが京都に親しみを覚えたのは、飯田の街と似ていたからではない。

その理由は、再開する「流れのほとりで」で記す事になろう。

・・・って、思わせぶりでかっこつけててすみません(^^;)

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