
通り名の歌に歌われる地域を「聖域」と感じるわしには、手の届かない京都のモノが多々有る。そして日々、ひしひしと感じるのである。「この街に住む人間は、みんなあからさまに格付けがされていて、歴然たる階級社会に生きているなあ」と。
写真は祇園のお茶屋である。まず、わしには生涯縁のない店だ。
「そんなことあらしまへんえ。一見さんお断り言うても、ちゃんと手順を踏んだら遊ぶことが出来ます。どうぞ気楽におこしやす」と、公式には言うてくれるであろう。
大嘘である。社交辞令である。建前である。
お茶屋遊びの平均的料金。
三人で出かけ、舞妓さん一人、芸妓さん一人付いてもらって、懐石料理などを取り寄せ、飲み食いし、踊りなど見せてもらって午後6時か8時まで遊び、一人あたま、4万8千円。(参考・文春新書「京都 舞妓と芸妓の奥座敷」相原恭子著)・・・今は不況でだいぶ値が下がっただろうか?
そのくらいなら払えるぞ、という人もおられるだろう。だが、一見さんお断りの壁を突破するのは並大抵ではない。名前を言えば誰も知っている大会社の社長でも、祇園のお茶屋には入れてもらえず、腹いせに宮川町で何億とばらまいた、という話がある。お店のほうが、客を選ぶのである。その基準は何一つ明らかにはされぬ。そして、花街にも格の差がある。
そんなことは誰でも知っているので、京都では改めて話題にもならない、のだろうが。
これもまた、名前を言えば、ある年齢以上の京都の人なら大概知っていた有名な飲食店。よくガイドブックにも載っていたのだが、いつからか店を閉めてしまい「幻の名店」となってしまった。その主人が最近漏らしたという閉店の理由。
「京都では、食い物屋は、どこまで行っても低くみられるねん。ある人にそう言われて、なんやもう、やる気がのうなってもうた」
京都に多い和菓子屋には、三段階の格付けがあるそうである。
☆お餅、赤飯をメインとしながらお饅頭も売る「おもちやさん」
☆多種類の饅頭や餅菓子を並べる「おまんやさん」
☆お茶席で使う上菓子を扱う「菓子司(かしつかさ)」
「おもちやさん」のあるじは「○○のおっちゃん」と呼ばれ、「菓子司」の経営者は××さんのご主人」と呼ばれる、そうである。(参考・淡交社「天使突抜一丁目」通崎睦美著)
高級と低級、上品と下品、尊い者と卑しい者が、くっきりと差別されてきたのは、日本の歴史の一面であろう。
京都の社会には歴然とその意識が残っている、とわしは言い切りたい。
永遠に尊貴で至高の存在と思われた天皇家が東京に行ってしまい、それに連なる序列だった貴族も一緒に去り、御所は巨大な空白となった。
残る尊きものは、門跡や大本山を頂点にする仏教寺院のヒエラルキー。
真摯に修行に励み、宗教者として尊敬を集める僧がいる一方で、祇園をはじめとする花街の一番の上得意とされるのも、大寺院の生臭坊主だ。坊主丸儲け、というじゃありませんか。不況の中でも遊びに来てくれるお坊様は、花街の救い主だろう。しかし、本山ー末寺の上下関係、寺内の僧の階級差は、いまだに封建時代を思わせる。下っ端はもちろん祇園に遊びになど行けない。
修行初めの下級の僧は冬でも足袋を履くのを許されない禅寺があり、足に傷を負った若い僧が、傷口から菌が入って入院。退院後も裸足でこき使われて、悪化しては入院を繰り返すので医師が何度も寺に「足袋を履かせるように」と言っても無視され、若い僧は敗血症となり、ついに死亡。江戸や明治の頃の話じゃない、つい数年前聞いたことだ。
神社の御神体がなんであるか、あえて覗く人は少ないように、京都に関してはわかっていても話題にされないことが一杯ある。
わしは、ヨソサンで、そういう空気が読めないので、時として壁にぶつかり、大いなる違和感に悩むのである。
でも、本当は京都の人は皆、知っているのだ。
日本が平等な社会でもなんでもなく、上に甘く、下に厳しい階級社会であること。京都にはそれがあからさまに見えること。
京都では、市長選挙で、政党では日本共産党だけが推薦する候補が、政財官界代表の候補と大接戦を演じるという、まあ、日本の他の大都市では信じられないことが起こるのである。自分がどういう階級に所属していて、その利益に寄与してくれるのがどんな政治家か、よくわかるのである。
そういう京都に、わしは激しく違和感を覚えつつ、熱烈に愛する。ここは、世界のどことも違う、まちだから。
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