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2005年05月27日

小京都・飯田市

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今まで、わが故郷・伊那谷という風に記してきたが、わしの実家の在所は、長野県飯田市である。
市としては長野県で最南部にあり、天竜川の西岸、木曽山脈の東、独立峰・風越山の麓の扇状地にある地方都市だ。

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1600年ごろに、京極氏が城下町を整備し、碁盤状の町並みを作り上げたので、街の風情が京都と似ることになり、いつからか「小京都」の名が冠せられることになったようである。
この写真は、飯田最古の道標で、「南は三河(=愛知県)へ、北は善光寺(=長野市)や甲斐(=山梨県)へ、西は木曽へ通じる」ということが記されている。

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道標の置かれた辺りは江戸時代の繁華街の中心で、今も土蔵を持つ古い造りの商家が結構見かけられ、城下町の風情がとどめられている。

しかし、わしが故郷を「伊那谷」と書き、飯田と書かないのは、この城下町の雰囲気の中で育ったのではないからだ。
わしの育った頃、実家は下伊那郡鼎(かなえ)町だった。飯田の街並から、松川の流れを挟んですぐ南側に位置する人口1万ばかりの小さな町。わしが京都に来てほどなく、飯田市に吸収合併されたのである。
小京都としての飯田の風情は、わしにとって「憧れのとなりまち」であって、故郷のものではないのだ。
憧れの街という点で、飯田は京都と重なっているといえるかもしれない。
だが、わしが京都に親しみを覚えたのは、飯田の街と似ていたからではない。

その理由は、再開する「流れのほとりで」で記す事になろう。

・・・って、思わせぶりでかっこつけててすみません(^^;)

2005年05月27日

京の通り名の歌「丸竹夷」

 今、保育園に通ってる息子が、さる催しで発表するために習っているのが、京の通り名の歌なのだが、まず、東西の通りの歌は「まる・たけ・えべす」である。
 あちこちで取り上げられていていまさらだが、歌詞を記してみよう。

丸 竹 夷 二 押 御池 
(まる たけ えべす に おし おいけ)
姉 三 六角 蛸 錦 
(あね さん ろっかく たこ にしき)
四 綾 仏 高 松 万 五条 
(し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう)
雪駄ちゃらちゃら 魚の棚 
(せったちゃらちゃら うおのたな)
六条 三哲 とおりすぎ 
(ろくじょう さんてつ とおりすぎ) 
七条こえれば 八 九条 
(ひっちょう こえれば はっ くじょう)
十条 東寺で とどめさす 
(じゅうじょう とうじで とどめさす)

・・・とどめを刺すんかい!(@@)と、終りまで歌ってみるとびっくりする。
 では、通り名のフルネームを列挙してみよう。

丸太町通 竹屋町通 夷川通 二条通 押小路通 御池通
姉小路(あねやこうじ)通 三条通 六角通 蛸薬師通 錦小路通
四条通 綾小路(あやのこうじ)通 仏光寺通 高辻通 松原通 万寿寺通 五条通

・・・あれ?なんか、この辺から怪しくなってくるぞ。
「雪駄ちゃらちゃら魚の棚」てのは、なんだ?!
六条通はいいとして、三哲ちゅうんは、バス停の名前にはあるが、通り名なのか?
・・・で、泥縄的にたった今調べてみたら、雪駄屋町通というのがあり、現在、一般的には「楊梅(ようばい)通」と呼ばれているらしい。
また、三哲は塩小路通がこれに該当するそうだ。

さて、続きは 七条通 八条通 九条通 十条通
東寺はお寺であって、通りの名前ではない。 

 すっかりわかったつもりでいて、この歌を解説しようとしたら、かくのごとく理解しないまま歌っていたところが判明した。「いまさら」と思っても、勉強してみるものである。
 そして、更に驚いたのだが、わしは20年以上京都にいて、やたらあちこち引越したにもかかわらず、なんと、この歌詞の範囲に住んだ事がないのである!
 息子も当然、これら通り名に日常的に縁がないので、「タコさんろっかくイカにしき」などと間違って歌っている(笑)

 通り名は南北にも当然ついていて、その歌もあるので、次回はそれをご紹介。

2005年05月25日

復帰のご報告

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また、一週間ほど故郷・伊那谷に行っていました。
山々の緑は目に沁み、谷を吹き渡る風は甘く、川の水は澄んでいました。
でもちょっと疲れて、京都に戻ってもへばっておりましたが、なんとか復活です。

2005年05月15日

魔王の城・・・じゃないよ

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ちょっとおどろおどろしい感じなのだが、これは、京都市役所の夜景である。
はるか昔、わしは労働者として、5月1日のメーデーに、市役所前広場に行った。
何をするのかとまごまごしていると、労働組合の大先輩の女史が、
「なめられたらあかんで!」と叫び、バルコニーにいる市長に向かって、デモンストレーションするやりかたを教えてくれたものだった。
ううむ、あのバルコニーは、支配者が民衆を見下ろすものだったのだな!と思った(^^)

sunaさんの「見たままに切り取る京都」が、京都市役所を取り上げていたのに、古い記憶を呼び覚まされました。

2005年05月15日

鯉料理が結ぶ京都と伊那谷

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写真は、GWに帰省したときに食べた、伊那谷の郷土料理・鯉の旨煮である。
山国である長野県では、宴席のメインディッシュとして、鯉が用いられてきた。
特に鯉を筒切りにして砂糖・醤油・酒・味醂で煮付けたこの料理、はらわたの美味さがこたえられない。
海産物がたやすく手に入るようになった今でも、鯉の味は、信州人のDNAに訴えるものがある・・・といったら大げさかな。

海から遠い地、ということでは、いにしえの京都も同じであった。
ゆえに、京都の伝統的料理では、鯉は最上のランク付けをされているのである!
伊那谷と同じなのである!
オスを洗いにし、腹子を持つメスを、鯉こくや、飴煮にするという。
宮廷料理である「有職」、その食の儀式である「式包丁」で扱う、やんごとなき魚が、鯉なのである。

2005年05月12日

惜春譜

春も過ぎて、はや初夏の気配にある中、まだお見せしてなかった花や風景を、まとめて載せておきます。

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新緑遊行(あそび)と特別名宝展、を開催していた東福寺で、たった一本咲いていた八重桜。4月22日撮影。

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うちのごく近所、農業用水のほとりに咲いていたツツジ。5月2日撮影

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これもご近所のお宅で、見事に煉瓦塀を覆っていたモッコウバラ。5月2日撮影

2005年05月10日

わが谷は花の園

ゴールデンウィークに、わが故郷・伊那谷に家族を連れて帰省した。
谷は花と新緑で輝いていた。

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伊那谷有数の古刹・開善寺では、300株に及ぶ牡丹の花が真っ盛り。
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大きな藤棚もあって、無数の花房が垂れていた。近くの屋台から、おでんやカキ氷を買って、藤の花を見ながらのんびり味わった。

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三門は室町時代初期の中央(つまり京都)の建築様式を、今に伝えるそうである。江戸時代に楼上に樹が倒れて、二階部分を失ったものの、多くの戦乱・火災を耐えて来た。虫食いだらけの柱と装飾のない木組だが、荘厳である。少し前はシャクナゲの花に囲まれていたようだ。

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実家の近所の田は、一面のレンゲ。見はるかす南アルプスには残雪。

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リンゴ園には白い花が咲き、八重桜もまだ残り、桐の樹には紫の花。庭木のハナミズキもさやかに開いて、風越山は花の園を見下ろしていた。


2005年05月02日

小説「流れのほとりで」第十一回

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 怒号する沢井に向かって、その息が掛かるほどに顔を近づけた英輔は、ささやいた。
「恩田の奥さんの、美沙子さんはな・・・市田柿を知ってたよ」
「はあ?なんのことやねん」
「おれの生まれ育った家、お前の田舎のうち、美沙子さんの実家。天竜川を挟んで、三つをつなぐと綺麗に正三角形になるんだ。美沙子さんは、おれたちと同郷なんだよ」
「それが、なんやちゅうのや」
 顔をそむける沢井に、英輔は噛み締めるように言った。
「おれと美沙子さんは、京都を見る目が似てた。おれたちの、ふるさとは、どうしようもなく変わって行ってしまってるけど、京都は辛うじて変わらずにいる。だから、京都を守りたいと思うんだ」
「寝言抜かしてる場合か・・・」
喚きかけた沢井の胸倉を、英輔は掴んだ。
「お前は、京都弁らしいものを身に付けて、地元の人間みたいな顔をしてるけど、おれと同じで、どうしようもなくヨソサンなんだよ。ワルぶって、金儲けに走って、いつか後悔する時が来るぞ。ヨソサンだから、平気で京都壊しをしたんだって、ずるい京都人に、責任を全部押し付けられて、スケープゴートにされるんだ、わからないのか?」
「けっ!!」
 沢井は力まかせに、英輔の手をもぎ離し、唾を吐いた。そのまま、英輔に背を向けて門に向かって歩いていく。
「お前に説教されるほど、落ちぶれたくないわ。時間の無駄やった」
捨て台詞を残して、沢井の姿は寺町通りに消えた。

 殴られて痛む頬を、寒風になぶらせながら、英輔は裏通りを行く。煤け、壁土も剥がれて老朽化している町家が目に留まった。二階の虫籠窓(むしこまど)の隙間に、小さな人形がある。瓦土で焼かれた鍾馗(しょうき)だ。魔除けのために、京町家にはよく庇のうえに見かける。おそらく、家の者にも忘れられているであろう埃だらけの鍾馗が、みじめな自分の姿に重なって見えて、英輔は深く嘆息した。

2005年05月02日

晩春の勧修寺

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桜の時期に行き損ねた、山科区の勧修寺(かじゅうじ)に、ようやく行くことができた。
ここ、地名は同じ字で「かんしゅうじ」と読むが、お寺の名前は「かじゅうじ」という、ややこしいところ。
連休の合間、観光バスもいなくて静かな境内。門をくぐるとすぐ右手に、江戸時代に明正天皇(日本に数少ない女帝です)の御所の建物を移したという宸殿がある。

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日本の宮殿建築らしい清々しさは、新緑によく似合うが、向かって左手には、カエデの赤い新芽が紅葉まがいで、秋の景色も同時に見れて、お得な気分(笑)

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宸殿の裏には書院が続き、書院の前の枯山水庭に、水戸光圀寄進という、勧修寺型燈籠が、樹齢750年のハイビャクシンの樹に埋もれるように立っている。
とは言っても、水戸のご老公が、助さん格さんに背負わせて水戸から運んできたわけではないので、誤解のないように(笑)

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枯山水から南へ芝生が続き、その端には観音堂がなかなか美しい姿を見せていた。

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そして、勧修寺の中心ともいえるのが、平安時代に築かれたという庭園。
池泉舟遊式といい、平安貴族が池に舟を浮かべて、詩歌管絃の宴にふけるための庭である。池は「氷室の池」と呼ばれていて、平安時代には1月2日にここの氷を割って宮中に献上し、その厚さで豊作か凶作か占っていたとのこと。
カキツバタが咲き始め、池のほとりには藤棚もあった。もうすこしして、スイレンが花開くと見事だろう。

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池にはたくさんの鯉が泳いで、産卵なのか、浅瀬でもがいている魚もいた。そして、池の中ノ島には、沢山のサギが巣を掛けて子育て中。写真は左から、ゴイサギ、アオサギ、そしてチュウサギかコサギとみられる白鷲(足先が黄色かったらコサギとわかるんだけど)。

☆pastorellaさんの「Day Wind -京都散歩-」には、山科・勧修寺の、桜の時の様子が載っています。氷室の池の周りや、サギのコロニーのことも詳しく書かれています。

☆piitaさんの「京都あちらこちら」では、勧修寺の沿革や紅葉の景色も見ることができます。

2005年05月01日

きらめく水辺

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あまりに急に夏のような暑さになって、ほとぼりを冷ましに向かうのは水辺である。
子供は靴と靴下を脱ぎ捨てて、まっしぐらに流れに足を踏み込むのである。
4月29日、京都府立伏見港公園。

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北から流れてきてここで宇治川と合流する水は、元をたどれば琵琶湖疏水なのである。しかしこの辺りでは「宇治川派流」と呼ぶ。なぜかというと、昔は宇治川のほうが水位が高く、なんと南側から伏見の町へ流れ込んでいたからだそうだ。
流れには、江戸時代の水運をしのぶ十石舟、三十石舟が観光客を乗せて行き交っていたが、子供はあまり興味を示さず、ひたすら水と戯れ、カワニナ(細長い淡水産巻貝)を拾い集めていた。300個くらいは集めていたと思う(笑)

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暑さは変わらず、4月30日も水遊びへ。
左京区の高野川、高野橋と蓼倉橋の中間にある、亀の飛び石。
出町の三角州の下にもあるが、高野川のは、ほんとうに地元の子供たちの遊び場である。
わが息子はいきなり跳び移り損ねてぐしょ濡れ。でも笑ってそのまま遊べるほどに暑い日差しだった。

きらめく思い出は、存外こんな、観光地でもテーマパークでもない場所で作られていったりするのだろう。

☆sunaさんの「見たままに切り取る京都」では、鴨川畔 川端東一条・亀の飛び石について触れられています。

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