TOP>2006年05月
我らがマリーンズの小野晋吾投手は、スワローズとの交流戦首位決戦で5安打1失点という好投で完投勝利を挙げました。
現在の行徳から船橋・習志野にかけての湾岸は、過去に塩田として栄えたところだ.
三田浜楽園や船橋市役所の場所も、明治初めに三田浜塩田として開拓された場所だ.
1880(明治13)年ごろの船橋海岸.

江戸時代前期は、行徳の塩浜地区の塩田が全盛期となっていて、本行徳(ほんぎょうとく)・妙典(みょうでん)をあわせ200町歩(約200ha)以上の塩田があったとされる.
江戸時代中期になると、瀬戸内海沿岸地域の播磨(兵庫)・備前・備中(岡山)・備後・安芸(広島)・周防・長門(山口)・阿波(徳島)・讃岐(香川)・伊予(愛媛)の十国からの、品質の高い塩が大量に入ってくるようになる.
これらの塩を十州塩(じゅっしゅうえん)といい、その塩を運んだ道(川)を塩の道といった.
1924(大正13)年ごろの船橋海岸.

行徳の塩の作り方は、砂に何度も海水を掛け、しだいに塩分濃度を上げていき、最後にその水を塩釜に入れて焼き立てて塩を作る.
多量に使われる松などのマキは、千葉各地から舟で運ばれてきた.
行徳の塩は、瀬戸内海の塩よりも距離的には有利だったものの、十州塩に比べればはるかに品質が良くなかった.
江戸幕府は、生命維持に必要な塩の補給路をが絶たれてしまった場合のリスクを考え、軍事上の観点から江戸に近い行徳地区を重要な地として保護していた.
しかし、塩田の寿命は約50年といわれ、しだいに効率が悪くなってくる.
古くなった塩田は、古浜(こはま)や荒浜(あらはま)などと呼び、田畑に変わっていった.
そのため、別の場所に塩田を開くことが必要で、新たにつくられた塩田を新浜(にいはま)と呼び、現在も地名として残っている.
しだいに行徳地区の塩田は衰退していき、幕末期には船橋側の原木・二俣方面へと塩田は東へ移っていった.
合わせて人々も移動していったと思われる.
1947(昭和22)年ごろの船橋市湊町(当時は船橋町九日市浜田)の三田浜楽園.現在の船橋市役所の場所は池になっていた.

三田浜塩田は、1880(明治13)年に仁礼景範によって始められた.
1905(明治38)年からは2代目の小川紋蔵、1918(大正7)年からは3代目の平田章千代が経営をした.
塩田の面積は26町7反(約26ha)で、塩を焼くための塩釜は13釜もあり、使用人は男性2600人・女性200人も働いていた.
三田浜塩田は1929(昭和4)年に廃業となる.