TOP>京都の史跡

2011年12月06日

甲府城跡

山梨の旅の最後は甲府城(またの名は舞鶴城)跡です。



甲府駅北口のすぐ近くに最近復元された山手渡櫓門。
後ろのビルがお目苦しいですね。
かつてのお城の縄張りはこの辺りも含んでいて、広い城域を切断する形でJR中央本線が通されています。




JR線を跨ぐ大きな道路の跨線橋を越えて現在の城跡に行きました。
稲荷櫓も2003年に復元されたものです。





天主閣はありませんが、高い石垣が残っています。
築城は1582(天正10)年、徳川家康。続いて豊臣方、また徳川家、後に柳沢吉保も城主となり、その後は長く天領となっていました。





甲府の町のはるか上方に富士山の姿が浮かんでいました。

2011年09月04日

京都大学土木工学教室のヒマラヤ杉

以前に見た京都大学の中の建物をいくつかご紹介します。


先ずは、吉田本部構内にある工学部土木工学専攻教室の建物。
土木工学専攻は今は改組されて工学研究科社会基盤工学専攻の中に含まれています。



1917(大正6)年建築、レンガ造り2階建て。
設計は山本治兵衛・永瀬狂三。

赤いレンガに花崗岩の白い装飾が映えてきれいです。


窓も大きくとられていて明るい感じです。



裏にまわると、こんな小さな遊び心も隠されています。




裏庭にはテニスコートの跡(今は駐車場)やちょっとした和風の池と藤棚もあります。




そして、裏庭に大きくそびえる木が立っていて、



その下にあった石碑によると、何とあの琵琶湖疏水を作った田邊朔郎先生のお手植えのヒマラヤ杉だというのです。

寄贈とあるので、「お手植え」ではないかもしれませんが。



石碑の裏側。

田邊朔郎が琵琶湖疏水を作ったのはまだ東京大学の前身工部大学校卒業後間もない頃、その後年月を経て、京都大学土木工学教室で教えることになったそうなので、ここにゆかりのヒマラヤ杉があるのも納得できますが、それにしても随分大きくなったものです。



「理工科大学」の石碑も。
京大の中で一番早く創設されたのが理工科大学、1897(明治30)年9月のことです。



2011年01月18日

火除天満宮

天正七年(1579)、九州での兵乱を避けるため、大宰府から一人の老神官が菅原道真公の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりとされる。慶長二年(1592)、現在地(寺町四条下ル)に創建された。 ビルの横手を縫うように参道がある。 元治元年(1864)の蛤御門の変では、この一帯だけが、奇跡的に類焼を免れた。それ以降もたびたび火難から救われたという伝承...

2010年06月19日

伏見の戦争遺跡巡り(3)聖母学院本館

藤森神社を出て、伏見街道をさらに北上、名神高速道路の下をくぐってすぐの所に聖母女学院短期大学があります。




その本館の建物は元は陸軍第16師団司令部の庁舎で、1908(明治41)年8月の築です。



守衛さんに建物を見せてほしいと言うと、奥の方に入らないで前だけならどうぞということで、前だけ見させていただきました。



正面真ん中に玄関があり、両側に突き出した堂々とした建物です。






今は美しく修復されて回りも明るい庭で取り囲まれ、平和そのものの光景ですが、戦争中まではここが軍隊の中枢であったことを思うと重苦しい歴史を感じずにはいられません。
でも、戦争の歴史を語る遺跡がこうして学園に払い下げられて、壊されずに残されたことは本当によかったと思われます。


伏見街道のこのあたりは深草直違橋(すじかいばし)何丁目と呼ばれていて、直違橋という小さな橋もありました。「すじかいばし」ってなんていい地名でしょう。

ここからは京阪藤森駅がすぐ近く、そこから京阪に乗って帰ってきました。

2010年06月15日

伏見の戦争遺跡巡り(2)伏見街道に沿って

京都教育大附属高校にある旧陸軍第16師団輜重部隊遺跡を後にして東へ移動、師団街道を越えて、


疏水を越え、京阪電車の踏み切りを越え、伏見街道を北に向かいました。



街道の東側にあるのは、藤森神社。
勝ち馬の神様ということで、戦争に向かう兵士達もここにお参りして行きました。

この神社の東側一帯の丘陵にも16師団の施設が広がっていたということです。ということは、今の京都教育大学の敷地のあたりでしょうか。

藤森神社の境内にもいくつか戦争遺跡がありました。


白松。白皮松。白骨松とも呼ばれる変わった葉の色をした松の木です。
昭和10年頃第16師団長が就任の記念に植えたものだそうです。





北門のあたりにある「京都歩兵聯隊跡」碑。

第16師団は中国の南京、徐州、武漢、フィリピンのバターン戦、レイテ戦などに参加し、現地の人々にも大きな被害を与えたあと、最後には全滅しました。この碑は戦後、生き残った人達によって建立されたものです。




伏見街道を更に北に進むと、こんなお風呂屋さんの看板も。
「軍人湯」。

2010年06月14日

伏見の戦争遺跡巡り(1)旧陸軍第16師団輜重部隊遺構

伏見区の京都市消防学校跡地にあった旧陸軍第16師団輜重(しちょう)部隊の遺構が保存されることになり、式典と現地見学会が5月29日(土)に行われたので、参加してきました。



京阪墨染駅から西へ少し歩いたところに京都教育大学附属高校へ入る道があり、そのあたりが最近まで消防学校があったところで、元はこの一帯が陸軍第16師団輜重部隊の跡地です。
この道の途中左側に門柱と歩哨舎があります。



たくさんの人が集まって移設保存された経過や説明を聞いていました。



この門は部隊の裏門にあたるそうです。



門の番をする歩哨兵が詰めていた歩哨舎。

これらは木の陰に埋もれていたのが最近発見されましたが、消防学校が南区鳥羽に移転することになり、取り壊されそうになっていました。市民団体の「元陸軍第16師団輜重部隊の遺跡を保存する会」が京都市に保存を訴えましたが、消防学校跡地は民間に売却され、現地での保存はできなくなったので、会が遺跡を譲り受けて隣の教育大附属高校の敷地内に移設して保存されることになったものです。移設費や記念碑の設置等は市民の寄付金でまかなわれました。

戦争のあったことを伝える貴重な遺跡が市民の力で保存できることになったことは画期的なことです。

しかし、京都市は保存のためとして、門柱と歩哨舎を土中に埋めたため、門柱のレンガはバラバラになってしまい、裏側のレンガの多くは新しいもので復元するしかありませんでした。







伏見区深草一帯に残る戦争遺跡は陸軍第16師団関連のものが多く、師団は明治末期に創設され、太平洋戦争末期にフィリピンレイテ島で壊滅しました。輜重部隊は戦地で兵士に弾薬や食糧を補給するところで、1944年には作家の水上勉も入隊して、馬より以下の扱いを受けた軍隊の生活を作品に書いています。

式典には元輜重部隊の兵士だった方も何人か参加しておられました。



こちらは高校の敷地内に残る数少ない遺構の一つ、厩舎かなんかの跡らしいです。

2010年05月22日

大阪城内の戦争遺跡(旧第4師団司令部)

大阪城の天主閣前にあるレンガ造りの大きな建物。
天守閣の上からも南西の方向に見下ろすことができます。





戦前は旧第4師団司令部。戦中は中部軍管区司令部庁舎。戦後は米軍が接収、その後大阪市警、大阪府警、大阪市立博物館として使用されていましたが、今は使われていません。








1931(昭和6)年に大阪城天守が再建された際に、市民からの募金のうち80万円で司令部庁舎を建設し軍に寄付したそうです。設計は第四師団の経理部により、重厚なロマネスク様式です。

戦争遺跡としても、近代建築としても、残して歴史を伝えていってもらいたいものです。

2010年05月11日

京都 上京 京都御所 その四

京都 上京Nikon D300SIGMA 10-20mm F4-5.6 EX DC /HSM ←一日一回クリックしていただければ、嬉しいです。京都御所京都一空間が抜けているところだと思います。 ...

2010年05月10日

京都 上京 京都御所 その三

京都 上京Nikon D300SIGMA 10-20mm F4-5.6 EX DC /HSM ←一日一回クリックしていただければ、嬉しいです。日曜日は母の日でしたね。 ...




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