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2006年07月11日

乙女の祈りと愚かなラクガキスト


 

乙女の祈りと愚かなラクガキスト



おととい(7月9日)、僕がSO-NETのブログに書いた記事(『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』)にコメントをもらいました。
もし、あなたが僕のブログの常連ならば分かると思いますが、
他のブログと比べて、僕のブログには極めてコメントの数が少ないのですよね。
なぜか?

なぜなら、これから示す“痛いコメント”ほど僕が熱中して夢中になって厳しい批判をするからです。
これを“誹謗中傷”と受け止めてしまう人が実に多いのですよ。
そのようなわけで、僕に噛み付かれると、もう懲りて2度とコメントを書かない人が多いのです。
しかし、僕は決して誹謗中傷しているわけではないのですよ。

“病んでいる日本”を少しでも良くしたいと思う“自国愛”があるからこそ、
僕は“病んでいる日本”に住んでいる“病んでいる未熟者”に対して
寅さんのような優しい心を持って批判しているつもりなんですよ。
うへへへへ。。。。(でも、マジだよォ〜!)

前置きはこのぐらいにして、その病んでいる未熟者が書いてくれたコメントを次に示します。



愚痴ばっかですねここ
不満を他人に押し付けても何も変わらないでしょう
一番腹を立てているのがあなた自身だとは記事の多さを見れば分かります

でもね、自国嫌悪は他人を悪く言ったところで何も変わりませんよ
あなたのような人は腐るほどいます
似た例で言えば都会に出てきた地方の人が
故郷の人へ威張っているようなものでしょうか。

みな自分の顔の醜さを呪う代わりに良く似た親兄弟を呪って自分を忘れたつもりになっているだけなんです
鏡の前の自分に同じ事を言える人でなければこの国は良くはなりません

しかしあなたは海外に移住している身なのでしょう
にもかかわらず心は未だに日本から自立できていないのですか?
きっと現地の人とのコミュニケーションが上手く行っていないのでしょう

友達や悩みを打ち明ける人がいれば
わざわざ遠く離れた故郷の人へ向けてこんなブログを作ることはないでしょうからね。

by きくま (2006-07-09 16:00)


この極めて人間的に未熟なラクガキストがいかに愚か者か?。。。と言うことをここでじっくりと批判しようと思います。
まず、この愚か者がコメントを書いてくれた僕の記事の要点をここに書き出したいと思います。


なぜこのようなことを書く気になったのか?
それは、僕とクラシックの関係を象徴しているように思えたからです。
それを敷衍(ふえん)すれば、クラシックと民謡の関係もうまく説明できるのではないのか?


私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。


ここで僕は、上の太田さんの言葉をもう一度噛み締めてみたのです。

僕は6月13に日に書いた記事(『ん? クラシック興味ある?』)の中で次のように述べました。


“たかが音楽、されど音楽、

 それ以上でも以下でもない。”


。。。だと、僕も思いますね。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。



ここで、もう一度恵美子さんに登場してもらいますが、
僕は、クラシックが何たるものか?と分からないうちに恵美子さんが演奏した“乙女の祈り”を聴いて感動したんです。
もちろん、可愛いと思っていた恵美子さんが弾いたから、中学生の僕は、なおいっそう感動したのです。

僕がピアノを独習で習い始めたのは、この経験があったからで、それがクラシックであったからではないのです。
いづれにしても、一つの曲がある人物によって演奏された事で僕に感動を引き起こした。
その感動が、僕をピアノに近づけさせた。
恵美子さんに会いたいからピアノを弾き始めたわけじゃない。
なぜなら、恵美子さんに会ったのはあの時が初めで最後。
僕の演奏を聴いてもらった事で僕の“片思い”は完結したのです。
でも、それからも、僕は時々“乙女の祈り”を弾いたものでした。

あの感動を自分のものにしたいから。。。

しかし、今の僕はすっかり忘れていて、この曲を弾く事さえできないんですよね。
あれだけハマッた“乙女の祈り”だったのに。。。

つまり僕にとって。。。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。

現在、“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのですよ。懐かしいとは思いますが。。。
しかし、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられます。

『ん? クラシック興味ある?』より


あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
なぜなのか?
“昔の民衆の創造性”とは、具体的にどのようなものなのか?

その答えを見出すために、僕は“津軽じょんがら節”の成り立ちを遡(さかのぼ)って行ったのです。

津軽じょんがら節は津軽民謡の代名詞のようなものですが、
元は新潟・十日町市の「新保広大寺」という唄だと言われています。

これは広大寺の和尚・白岩亮端の時代に起きた農地の耕作権をめぐる土地争いが原因で、
広大寺の和尚を追い出すために歌った「悪口唄」でした。
それが越後で大流行し、やがて越後瞽女(ごぜ)のレパートリーとなります。
これが全国に流行するのですが、それが津軽化したものが「じょんがら節」です。

津軽でも民衆の心に長く記憶される事件が起こりました。
慶長2(1597)年、南津軽郡浅瀬石城主・千徳政氏が、大浦為信に滅ぼされたのです。
しかし、政氏の死後も為信は追討をやめず、ついに政氏の墓まで暴こうとします。



その戦いで炎上した千徳氏の菩提寺・神宗寺の僧・常椽(じょうえん)は、
それを抗議する意味をこめて本尊を背負って、
上川原に身を投げたと言います。すさまじい話なんですよね。
こうした悲劇を歌った口説節が、じょんがら節であると言います。

つまり、民衆の中から沸き起こった歌なんですよね。
11代にわたって津軽の東の山根に繁栄した千徳家が滅亡。
落城とともに神社・仏閣がすべて焼き払われる。

この時千徳家代々の菩提寺である神宗寺に奉仕していた常椽和尚が、
先祖代々の位牌を背負って逃げた。
ところが、捕らえられそうになったので
白岩の断崖から浅瀬石川(上川原)に身を投じて一生を終えたのです。

年を経た夏に、川原で遊んでいた子供達が常椽和尚の変わり果てた遺体を砂の中にみつけ、
村人が相談して墓をつくり、ねんごろに弔ったと言われています。
その後、その場所を常椽川原(じょうえんがわら)と呼ぶようになったそうです。
それから毎年、お盆には常椽川原に集まり供養をし、
代々の城主をはじめ先祖の霊を慰め、
常椽和尚を偲ぶために即興で歌われたのが「津軽じょんがら節」の始まりだと言われています。

常椽川原もいつしか上川原(じょうがわら)となり、更には「じょんがら」と言われるようになったわけです。

つまり、“民衆の創造性”から生まれた唄というものは、
もともとのクラシックのようにorder-madeではなかったのですよね。
民衆の中から沸き起こった歌。
血と汗と涙。。。
そのような苦労の中で民衆の口により歌い継がれて現在の我々にまで知られるようになった。

現在の僕が、あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
それは、やはり、この唄が血と汗と涙の中で民衆によって受け継がれてきたからではないのか?

芸能プロダクションがミーハーの歌手を育てて広めたわけでもない。
そうやって金儲けをするために歌われてきたわけではない。
テレビやラジオで宣伝して広めたわけでもない。
演奏会や、音楽会を開いて広めたわけでもない。
紅白歌合戦があったわけでもない。
レコード会社が儲かるからと言ってレコードに録音したわけでもない。


私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。


つまり、太田さんが言うところのこの汚染されきった世界こそ、
すぐ上に書いた芸能プロダクションであり、
テレビやラジオの功利主義であり、
演奏会や音楽会の商業主義であり、
紅白歌合戦と言う馬鹿騒ぎであり、
レコード会社の儲け主義ではないだろうか?

僕が“津軽じょんがら節”を聴いて魂をゆさぶられるのは、
“民衆の創造性”に僕の心の琴線が触れたからだと僕は信じています。

本尊を背負って、上川原に身を投げた常椽(じょうえん)和尚の無念な気持ち。
その和尚に同情を寄せる村人たち。
その中で和尚を悼(いた)み偲ぶ唄が生まれ、その悲劇と共に民衆に歌い継がれてゆく。
僕は、このような悲劇のことは何も知らない。
しかし、その悲劇性と、農民の気持ちが、この歌の響きの中に、旋律の中に込められている。
そして、その唄が津軽三味線で奏(かな)でられるとき、僕の魂をゆさぶる。

そういうことだと思うのですが。。。
あなたはどう思いますか?

『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』より


愚か者の“きくま”は僕のブログの記事の多さだけに圧倒されて、記事をよく読んでいないのですよね。
僕のどの記事を読んでも分かりますが、僕は“愚痴”など書いていませんよ。
ブログでは、愚痴など書くな!。。。と言っているほどですよ。

『ブロガーの条件とは。。。。?』
上の記事の中で“小額2年生”のえっけん君がブログに“愚痴”を書いているのを批判して
僕ははっきりとブログは愚痴を書くことが目的ではないこと、
もし愚痴を書きたいのなら、一人だけで読むような日記帳につけるべきだと言うことを書いているんですよ。

その僕が“愚痴”を書いているわけがない。
つまり、上の記事でさえ、愚かで未熟な“きくま”は良く読んでおらず、まったく理解していない!
だから、トンチンカンなコメントを書いてしまう!
自分で“病んでいる自分”を曝(さら)け出してしまっている! 
そのことに、愚か者の“きくま”は全く気づいてもいない!

まったく愚かで未熟者だとしか言いようがないのですよ。
そういうわけで、初めて“きくま”の書いたコメントを読んだ時に、
僕は次のような返信を書いたわけです。



きくまよ!
オマエはよほどの愚か者だね?
これまで僕とまともにコメントをやり取りした人は、すべてブログのURLか
ホムペのURLを書いているんだよ!
ところがオマエにはURLが書けない!
なぜか?

しっかりとした自分の意見を持ってないからだよ!
責任を持って正々堂々と僕とコメントを交わすことができない!
初めから、自分の意見に自信が持てないので、書けないんだよなァ〜。
初めから逃げ腰じゃないか!
オマエ、へっぴり腰だよ!
みっともないよ!
しっかりとURLを書くんだよ!
小学3年生の正義君だってURLを書いてくれたんだよ!
ところが、きくまよ!いい年したオマエには書けない!
恥ずかしくないのか?

オマエは、まともな事を言っているつもりだろうけれど、
読解力が中学1年生なみだよ。
僕の記事もじっくり読まずに、
僕が書いたことを理解できずに
下らない事を書いている!

オマエの書いた稚拙なコメントを10年たってからオマエが読めば、
死ぬほど恥ずかしい思いをするに違いない!
オマエの書いたコメントは、愚かなコメントと言うより他に言いようがないよ!
なぜか?

僕のこれまでの記事を読んでいないじゃないか!
“敵を知り己を知れば百戦危うからず”
愚かなきくまよ!
オマエは自分のことも良くわかっていないばかりか
僕のこともほとんど理解していない。
そんなことで批判が書けるわけがないんだよ!
批判する姿勢も態度もできてないじゃないかァ〜!

オマエはそれ程の愚か者だけれど、
僕に対して、まともな批判ができないことが自分で良く分かっている。
だから、URLが書けない!

いい年したオマエのような奴が
中学生並みの読解力しか持たず、
しっかりとした自分の意見も持たず、
駄々をこねて
オマエこそ、ただ愚痴を書いているに過ぎない。

全く批判になってないじゃないか!

きくまよ!
オマエ、まず、自分と言うものを冷静に見つめたらどうなの?
2ちゃんねるで下らない事を書いているミーハーとオマエは全く変わりがないんだよ!
オマエが2ちゃんねるで生まれ育ったような人間だということも実に良く分かるよ!
オマエの稚拙なコメントは、公衆便所の壁に落書きしているのと全く変わりがないからだよ!
覆面しながら、公衆便所の糞と小便にまみれて、
駄々をこねて、URLも書けずに、愚痴を書いているのがオマエ自身なんだよ!

何をほざこうが、オマエにURLが書けないという事がとりもなおさず、
オマエ自身が人間としての未熟な所をさらけ出しているんだよ!
きくまよ!
僕がわざわざ日本向けに書いているのは、
オマエのように未熟なまま成人になってしまった愚か者が
現在の病める日本を放置しているからなんだよ!

つまりね、愚かなオマエのようにURLが書けない!
近代市民の最低条件は“自分”を持つと言うことだよ!
年金をごまかすような駄目な政治家に向かって、
1対1で正々堂々と意見を言える人間になる必要があるよなあああああ!

ところが、きくまよ!
オマエには、まともに正々堂々と意見を交わすだけの気構えがない!
勇気がない!
覆面したまま、こそこそと、しかも全く的外れなことを書きなぐっている!
全くトンチンカンなコメントだけしか書けない!

オマエの文章を読んですぐに分かることは、
オマエがこれまでに全く海外を自分の足で歩いていないということだよ!
自分の目で海外を見ていない!
海外に住んでいるたくさんの人と言葉を交わしたこともない!

愚かなオマエは、自分では国際人のつもりになっているのかもしれないけれど、
オマエの稚拙なコメントを読むと、
まさにオマエが島国根性に凝り固まった井の中の蛙だということが、
オマエの稚拙な短い文章から実によく読み取れる!

きくまよ!
オマエ、少しはハンセ〜して味噌汁で顔を洗って出直してきたらどうなの?
今度書くときには、せめて高校1年生レベルに知的程度を上げて、
少なくともURLをしっかりと書いてコメントを書いてくださいね。

愚かなきくまよ!頼むよ!
オマエの愚かな批判にもなっていない文章にまともな反論が書けないよ!
僕にまともな反論を書かせてくれるためにも、きくまよ!
今度書くときには、僕の記事をしっかりと読んで、それからコメントを書いてくれると僕は助かるよ。

こうしてネチケットの基本から
オマエに書かなければならない!
オマエがいい年をした
成人にもかかわらず、
オマエの知的レベルが中学校1年生レベルだというところにオマエの問題がある。

きくまよ!
十分に反省してから、しっかりとURLを書いてコメントを書くんだよ!
いいね。
そうかい、そうかい、
少しは分かってくれたかい。
きっと、寅さんも
喜んでくれていると思うよ。
うへへへへ。。。

僕も、オマエが少しは反省する気になっているのでうれしいよ。
じゃあね。
馬鹿な真似をいつまでも続けているんじゃないよ!
わかったね。
じゃあ、あばよ!

by denman (2006-07-09 20:34)

『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』のコメント欄より


体だけは成人になったけれど、心も精神も、中学校1年生並みの愚かで未熟な“きくま”になぜ僕がこれだけの時間をつぎ込むのか?

それは、僕が提唱している“Grassroots Net Politics”を僕は自分で実践しているからです。
僕は病める日本を良くしたい!
しかし、国会議員になって年金をごまかすようなアホで自分勝手な愚かな議員たちと国政をやるなんて馬鹿なことはとてもできない。
時間の無駄です!

日本を良くすると言った所で一朝一夕にできるわけがない!
僕のできることは、このような愚かで未熟者の“きくま”を相手に、
まともな事を書いているつもりになっている“きくま”が、実は愚かで未熟な人間であること、
島国根性に凝り固まった井の中の蛙であること、そのことを知ってもらうと言うことです。

一人でもいい!
愚かで未熟な人間がそのことに気づいて、少しでも愚かな自分を振り返ってみることができるなら、
“病んでいる日本”は確実に、その一人の愚か者が愚かだと気づいた時点で良くなる方向に向かうからです。

僕もそのようにして未熟な自分に気づいて海外に出て行ったのですよ。

ところが、愚かな“きくま”はまだ自分が愚かだと言うこと、未熟者だと言うことに気づいていない!
その証拠が、上で引用した“きくま”の稚拙な文章です!

10年後に読むなら、間違いなく死ぬほど恥ずかしい思いをするに違いない!
僕は自分が愚か者だと気づき、未熟者だと気づいた時点で、
もっともっと自分を知ろう、世界を知ろう。。。、と30カ国近い放浪の旅に出た!

ところが、もっと愚かで未熟者の“きくま”はどうか?
相変わらず島国根性に凝り固まって、井の中の蛙のままでいる。
僕のたくさんの記事を読んでもいなければ、
この愚か者がコメントを付けた記事さえ理解できていない!

その証拠が、愚かな“きくま”が書いてくれたコメントです。

馬鹿とハサミの使いよう!

うへへへへ。。。。

もちろん、この場合の馬鹿は“きくま”ですよ。

こういう愚か者にならないように、あなたも僕も気をつけることにしましょうね。

人の振り見て我が振り直せ!

うひひひひ。。。

もちろん、悪い見本を示しているのは“きくま”ですよ!
僕ではないですよ!

この記事を読んで、あなたは、僕の“良いところ”ときくまの“悪いところ”をじっくりと考えて、
もし、その気があったらコメントを書いてくださいね。

じゃあね。



ィ〜ハァ〜♪〜!

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では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

2006年07月09日

ん? クラシックと津軽じょんがら節?


 

ん? クラシックと

津軽じょんがら節?




クラシックというのは当然の事ですが大衆音楽ではないですよね。
では大衆音楽というのはどのようなものなのか?
まず民謡があげられるでしょうね。

つまり文字通り英語で訳せば“folk song”ということになりますよね。
“民の歌”です。

でも、“歌”と“謡”の違いとは?
歌はあなたにも分かりきっていますよね。
歌謡曲の“歌”です。
でも、この“歌謡曲”の中にも“謡”が含まれています。

この“謡”とはいったい何なのか?
実は僕も詳しく知りません。
“謡”と聞いて、すぐに連想したのがテレビの大河ドラマで見たシーンです。

織田信長が桶狭間の合戦に出陣する前に、
例の“人間〜♪〜五十年〜♪〜。。。”と歌いだして踊るあの謡曲のことでした。
これを歌い終わるや、死を覚悟して奇襲に望むというものでした。
現在の我々には、あまり縁のない、あの唸(うな)るように歌う謡曲です。

ちょっとネットで調べたら次のように説明されていました。


謡とは。。。
歌舞劇である「能」のセリフとコーラス部分を独自の節に合わせて歌うもので、
古くから稽古事として人気を博しています。

『1から始める謡』より


つまり、「能」のセリフとコーラス部分を独自の節に合わせて歌うものの事です。

つまり民謡とは、民話や当時の事件や出来事を物語風にして独自の節に合わせて歌うもののようです。

では、クラシックとは何だろう?

ここで、太田将宏さんの本から引用します。


そもそも、昔は、作曲された音楽はorder-madeであったのだ。
それが不特定多数の市民が対象とされるようになって、
音楽はprêt à porterとなった。
作曲と演奏が分離、分業になったのは、このころではなかったか。
その方が生産、販売共に効率が良かったのであろう。

現代では、音楽は大量生産され有料、無料で配布されている。
身尺に合わないready-madeのお仕着せに、
どのような音楽を聴いてもambivalentな気持ちがするのは、
私だけではあるまい。

それはまた、一つ一つの製品に限った話ではない。
私は、演奏会や音楽会を提供する側、
製品に付加価値をつけようとする側のarrangement、

つまりprogrameについても同様に感じる故に、
めったに演奏会場に足をはこばないのである。
そうした違和感は、皮肉なことではあるが、自分で選択した音楽を、
自分で配列した順序でレコードで聴けば、幾分かは軽減される事に私は気がついた。
それ以上を求めるのならば、自作自演をして、
つまり自分で作曲をして自分で演奏して自分で耳を傾けるしか手が無いであろう。

私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。
だから、私は久しくPacific231に対しても反感すら持っていた。

Arthur Honegger (1892−1955)自身はこの作品について、
彼はこの曲で内燃機関の騒音を模倣しようとしたのではなく、
むしろ視覚的印象や身体的快感を表現した、と語っていた。




page 69 『前奏曲集 (あるアマチュアの覚書) 作品1の1』より





つまり、クラシックというのは、
昔、ヨーロッパのお金持ちの貴族や王族が
お抱え“音楽士”に作らせた曲だったわけですよね。
当然の事ですが、その“音楽士”は注文してくれた紳士の好みに合った曲を作るはずです。

要するに大衆向けの曲を作るのではなく、
その注文主の好みに合った、趣味に合った、感性に合った曲を作る。
まさに、order-madeだったわけでしょうね。

だから、ある人のorder-madeの服を僕が身につけた場合、
袖が長すぎたり、襟首が窮屈だったりしますよね。
僕は、このことを考えた時に、どうしてクラシックが
僕のオツムの中に感覚的にすっきりと入ってこなかったのかが理解できたよう気がしました。

要するに、クラシックとはヨーロッパの貴族の感覚と好みに合わせて作った服のようなものです。
そんな服を僕が着たとて身尺に合わないことなど分かりきっていますよね。
まずダブダブだろうと思います。
江戸時代に和服だけしか来たことがない日本人が初めて洋服を身に着けるようなものですよ。

ところが、日本人の中には、いかにもクラシックが分かっているような気になって
“高尚な気分”に浸(ひた)っている“文化的田舎者”がたくさん居るように思います。
たとえば、ウィーン・フィルハーモ二ーが演奏するモーツァルトの曲の演奏会が
東京オペラシティコンサートホールであるとします。
2万円の特別席を予約した。

何のためか?

この特別席を予約した28才の山田太郎君は26才の花子さんに
自分の“文化的な面”を印象付けるために4万円を支払ったのです。
つまり、4万円のデートです。



太郎君はモーツアルトが分かっているわけでもない。
クラシックを聴くなんて1年に1度か2度です。
それも、たまたまテレビでやっていたベートンベンの第五を見るようなものです。
最後まで見ないで途中でサッカーの実況放送にチャンネルを切り替えてしまいました。

花子さんだって、モーツアルトが分かっているわけじゃない。
でも、モーツアルトの名前には、いかにも“文化的な香り”が漂っている。
演奏会に行くなんて花子さんには経験が無い!
しかも、モーツァルトの曲を世界でも有名なウィーン・フィルハーモ二ーが演奏する。
東京オペラシティコンサートホールへ行くなんてカッコイイ。
しかも、モーツァルトという名前が“高尚”である。

最高級のGUCCIの香水をつけるような、なんとも言えない文化的な香りが漂っている。

もちろん、それが太郎君の思惑(おもわく)なのです。
そうやって、太郎君が花子さんとのデートを演出したわけです。
つまり、たくさんの人が東京オペラシティコンサートホールへ高い入場料を払って聴きに行った。
しかし、そのうちの一体何人が本当にクラシックを理解して聴きに行ったのか?

たぶん、80%の入場者は太郎君のような“下心”を持って
相手を誘って出かけて行ったのではないでしょうか?
腹の中では、音楽なんかどうでも良いと思っているのですよね。
うへへへへ。。。

こういう考え方をするのは、僕がクラシックが分からないので、ひがんでいるのでしょうか?
それで、このような心の曲がったことを書いているのでしょうか?
あなたはどう思いますか?

ところで、演奏会で思い出しましたよ。
僕にも似たような思い出があるのです。
でも、状況はまったく違うものでした。
誘ったのは僕の方ではなく、女性から誘われたのです。うへへへへ。。。。

。。。と言っても、鼻の下を伸ばすような話ではないんですよ。残念ながら。。。

当時、ぼくは“ナショナルソフト”という
松下通信工業が100%出資していたソフトウェアの子会社で働いていました。
日本が経済大国に向かって伸びている時だったので、ソフトウェア業界は人手不足でした。

そのようなわけで、僕はその会社にストレートで引きぬかれて、
“無試験”で松下産業の正社員となり、
出向で松下通信工業に配属され、
そのまた出向でナショナルソフトに出向いて働いていたのです。
この“ナショナルソフト”は間もなく“パナファコム”に吸収合併されてなくなりますが。。。

僕を誘った女性は松島優子(仮名)さんでした。
僕よりも1年前に入社した早稲田大学の理工学部数学科を卒業した人でした。
どちらかと言えば目立たない地味な人でした。
“お友達と一緒に見に行くつもりが、急に行けなくなったのだけれど、一緒に行きませんか?”
当日そのように言われたんですよ。

もちろん、僕が“お目当て”で、そのような手の込んだことをする人か?と言えば、
決してそのようなレンゲさんタイプの女性ではないんですよ。
確か神奈川県民ホールだったと思います。
当時そのホールはできて間もなかったと思います。
海岸通りにありました。
今、ネットで調べたら次のように出ていました。




神奈川県民ホールは1975年に全国屈指の大型文化施設として、
県立音楽堂は1954年、日本初の本格的音楽専用ホールとして誕生。
以来国際レベルの音楽や舞台芸術など、多彩なプログラムを提供しております。


間違いなく、県民ホールです。
ただ、ハンガリー国立フィルハーモ二ーだったか?ウィーン・フィルハーモ二ーだったか?
とにかく有名な交響楽団で指揮者も有名な人だったですよ。カラヤンだったろうか?
調べてみたけれど、そこまでは分かりませんでした。

僕はクラシックにハマッテいたわけではありません。
でも6月13に日に書いた記事(『ん? クラシック興味ある?』)の中で述べたように、クラシックとまったく無縁であったわけでもありません。
有名なフィルハーモニーの演奏を聴きに行くと言うよりも、
優子さんに誘われたと言うことが僕には“衝撃的”なことだった。
仕事が終わる頃に誘われたのでした。
彼女の方が1年先輩のわけですし、それまで親しく話しをしたと言うわけでもない。
でも、優子さんにまったく関心が無かったか。。。?と言えば、やはり関心がありましたよね。

当時、同期に入社した女性が3人居ました。
東京学芸大学を出た良子(仮名)さん、
学習院を出た淳子(仮名)さん、
それに横浜国立大を出た小百合(仮名)さん。
この中で最も僕と気が合って、よく話をしたのは良子さんでした。

この3人は、どちらかと言えば、まだ子供っぽいところがあって、
僕もけっこう馬鹿やるほうですから、面白おかしく楽しくやっていましたよね。
でも、優子さんは1年先輩だと言うだけなのに、“お姉さん”という印象を与える人でした。
とっつきにくいと言うわけではない。
でも、ベラベラ話をすることもないし、
ゲラゲラ笑うことも無く、おっとりとして、地味で静かな人でした。

そういう人から誘われたわけですよね。やっぱり、意外というか。。。どうして。。。?
“ん? 僕とですか。。。?”
“ええ、他に用事でも。。。?”
“いや、別に。。。”



そういうわけで、その日残業もせずに優子さんと東横線の綱島駅から出かけたわけです。
でも、無料の残業食は松下通信工業のカフェテリアで食べてから出かけたように記憶しています。

。。。で、あまり話をしない人かと思っていたけれど、
話し始めれば、優子さんはいろいろと話題の豊富な人でした。
話をしていても、話題に事欠かなかったし、きまづい沈黙などまったくありませんでしたね。

でも不思議なことに音楽のことはほとんど話さなかったですね。
意識して話さなかったわけではなく、話題が音楽とは関わりの無い方向に行っていたと言うことです。
優子さんが常に“お姉さん”のように、おっとりと構えていたので僕も気楽に話をすることができました。
その時の曲目が何であったのか、まったく記憶にありません。
そういうわけですから、曲を聴いた感動もまったく無い!
きれいサッパリ音楽の思い出はまったく無いんですよね。
今、振り返ってみても、自分で馬鹿らしくなるほど、音楽の記憶がまったく無い!

自分でチケットを買って行くのなら、音楽を聴きに行くと言うつもりにもなったのでしょうが、
誘われて音楽を聴きに行く。
はっきり言って、当時僕にとってクラシックなんてどうでも良かったですからね。

なぜ、出かける気になったのか?
意外にも優子さんに誘われたと言うことと、この人ってどういう人なんだろうか?
それだけが動機だったと言っていいのです。

ただはっきりと記憶に残っているのは、演奏会が終わった後、
僕は夜食をとろうと言い出して彼女を誘ったのです。
それまで、僕は1円も出していませんでしたから、
お礼を兼ねて食事でも。。。というつもりでした。
当時、僕は松下通信工業の男子寮に居ました。
門限は12時ですが、僕の部屋は1階にありましたから12時を過ぎても問題は無いんですよ。
窓から入れますから。。。

彼女は自宅から通っていました。
つまり、両親の家から通っていました。
“もう、遅いから家に帰りますわ。また別の機会に。。。”
良家の子女の“たしなみ”。。。
そういう事が、ごく普通に守られていた時代だったんですよね。

もちろん、食事をしてから温泉マークに行くことなど僕は考えてもいませんでしたよ。
そういう考え方が全くオツムに思い浮かばなかったのか?
それは考えとしてそういうこともあるよなあああ〜。。。とは思いましたよ。
しかし、考えることと、実際に行動を起こすこととは、全く次元の違う話です。

あなたと僕が思うことをすべて実行にうつしただけでも、
この地球上は私生児であふれかえってしまいますからね。

優子さんと個人的に話したことは、それが初めで最後でした。
僕は間もなく会社をやめて海外に出てゆきましたから。。。
“別の機会”は、あれから20年以上になりますが、まだありません。

上の記事の中で書いた恵美子さんの場合もそうですが、
僕と音楽との思い出には必ずと言っていいほど女性がつきものなんですよ。
ところが、なぜか最初で最後。。。と言うことになっているケースがほとんどなんですよね。
女性と音楽。。。
ロマンの題材としては面白いのですが、
音楽に関する限り、女性がつきものであるにもかかわらず僕には女性との縁が無いのです。

なぜこのようなことを書く気になったのか?
それは、僕とクラシックの関係を象徴しているように思えたからです。
それを敷衍(ふえん)すれば、クラシックと民謡の関係もうまく説明できるのではないのか?


私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。


ここで僕は、上の太田さんの言葉をもう一度噛み締めてみたのです。

僕は6月13に日に書いた記事(『ん? クラシック興味ある?』)の中で次のように述べました。


“たかが音楽、されど音楽、

 それ以上でも以下でもない。”


。。。だと、僕も思いますね。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。



ここで、もう一度恵美子さんに登場してもらいますが、
僕は、クラシックが何たるものか?と分からないうちに恵美子さんが演奏した“乙女の祈り”を聴いて感動したんです。
もちろん、可愛いと思っていた恵美子さんが弾いたから、中学生の僕は、なおいっそう感動したのです。

僕がピアノを独習で習い始めたのは、この経験があったからで、それがクラシックであったからではないのです。
いづれにしても、一つの曲がある人物によって演奏された事で僕に感動を引き起こした。
その感動が、僕をピアノに近づけさせた。
恵美子さんに会いたいからピアノを弾き始めたわけじゃない。
なぜなら、恵美子さんに会ったのはあの時が初めで最後。
僕の演奏を聴いてもらった事で僕の“片思い”は完結したのです。
でも、それからも、僕は時々“乙女の祈り”を弾いたものでした。

あの感動を自分のものにしたいから。。。

しかし、今の僕はすっかり忘れていて、この曲を弾く事さえできないんですよね。
あれだけハマッた“乙女の祈り”だったのに。。。

つまり僕にとって。。。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。

現在、“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのですよ。懐かしいとは思いますが。。。
しかし、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられます。

『ん? クラシック興味ある?』より


あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
なぜなのか?
“昔の民衆の創造性”とは、具体的にどのようなものなのか?

その答えを見出すために、僕は“津軽じょんがら節”の成り立ちを遡(さかのぼ)って行ったのです。

津軽じょんがら節は津軽民謡の代名詞のようなものですが、
元は新潟・十日町市の「新保広大寺」という唄だと言われています。

これは広大寺の和尚・白岩亮端の時代に起きた農地の耕作権をめぐる土地争いが原因で、
広大寺の和尚を追い出すために歌った「悪口唄」でした。
それが越後で大流行し、やがて越後瞽女(ごぜ)のレパートリーとなります。
これが全国に流行するのですが、それが津軽化したものが「じょんがら節」です。

津軽でも民衆の心に長く記憶される事件が起こりました。
慶長2(1597)年、南津軽郡浅瀬石城主・千徳政氏が、大浦為信に滅ぼされたのです。
しかし、政氏の死後も為信は追討をやめず、ついに政氏の墓まで暴こうとします。



その戦いで炎上した千徳氏の菩提寺・神宗寺の僧・常椽(じょうえん)は、
それを抗議する意味をこめて本尊を背負って、
上川原に身を投げたと言います。すさまじい話なんですよね。
こうした悲劇を歌った口説節が、じょんがら節であると言います。

つまり、民衆の中から沸き起こった歌なんですよね。
11代にわたって津軽の東の山根に繁栄した千徳家が滅亡。
落城とともに神社・仏閣がすべて焼き払われる。

この時千徳家代々の菩提寺である神宗寺に奉仕していた常椽和尚が、
先祖代々の位牌を背負って逃げた。
ところが、捕らえられそうになったので
白岩の断崖から浅瀬石川(上川原)に身を投じて一生を終えたのです。

年を経た夏に、川原で遊んでいた子供達が常椽和尚の変わり果てた遺体を砂の中にみつけ、
村人が相談して墓をつくり、ねんごろに弔ったと言われています。
その後、その場所を常椽川原(じょうえんがわら)と呼ぶようになったそうです。
それから毎年、お盆には常椽川原に集まり供養をし、
代々の城主をはじめ先祖の霊を慰め、
常椽和尚を偲ぶために即興で歌われたのが「津軽じょんがら節」の始まりだと言われています。

常椽川原もいつしか上川原(じょうがわら)となり、更には「じょんがら」と言われるようになったわけです。

つまり、“民衆の創造性”から生まれた唄というものは、
もともとのクラシックのようにorder-madeではなかったのですよね。
民衆の中から沸き起こった歌。
血と汗と涙。。。
そのような苦労の中で民衆の口により歌い継がれて現在の我々にまで知られるようになった。

現在の僕が、あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
それは、やはり、この唄が血と汗と涙の中で民衆によって受け継がれてきたからではないのか?

芸能プロダクションがミーハーの歌手を育てて広めたわけでもない。
そうやって金儲けをするために歌われてきたわけではない。
テレビやラジオで宣伝して広めたわけでもない。
演奏会や、音楽会を開いて広めたわけでもない。
紅白歌合戦があったわけでもない。
レコード会社が儲かるからと言ってレコードに録音したわけでもない。


私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。


つまり、太田さんが言うところのこの汚染されきった世界こそ、
すぐ上に書いた芸能プロダクションであり、
テレビやラジオの功利主義であり、
演奏会や音楽会の商業主義であり、
紅白歌合戦と言う馬鹿騒ぎであり、
レコード会社の儲け主義ではないだろうか?

僕が“津軽じょんがら節”を聴いて魂をゆさぶられるのは、
“民衆の創造性”に僕の心の琴線が触れたからだと僕は信じています。

本尊を背負って、上川原に身を投げた常椽(じょうえん)和尚の無念な気持ち。
その和尚に同情を寄せる村人たち。
その中で和尚を悼(いた)み偲ぶ唄が生まれ、その悲劇と共に民衆に歌い継がれてゆく。
僕は、このような悲劇のことは何も知らない。
しかし、その悲劇性と、農民の気持ちが、この歌の響きの中に、旋律の中に込められている。
そして、その唄が津軽三味線で奏(かな)でられるとき、僕の魂をゆさぶる。

そういうことだと思うのですが。。。
あなたはどう思いますか?

次のリンクをクリックして、そのサワリだけでも“津軽じょんがら節”を聴いてみてください。
『津軽じょんがら節』

では。。。



ィ〜ハァ〜♪〜!

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■ 『日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』



では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

2006年03月23日

ココログが無料になったのを知ってますか?




ココログが無料になったのを

知ってますか?




そうなんですよ!

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では、今日も元気に楽しく

ネットサーフィンを楽しんでくださいね。


2006年02月19日

ピカソの絵を批判できないとブログは書けません




ピカソの絵を批判できないとブログは書けません



あなたはどのようにピカソを批判しますか?
ピカソの絵を見たことがありますか? 

ええっ? 絵なんて見たって金にならない? 

でもね、ピカソの絵を批判できないとブログは書けませんよ。
どうしてだか分かる? 
ん? じゃあね、ちょっとこれ読んでみて。。。

あなたはこれまでに絵を書いたことがあるでしょう?
小学生の時には「図画」とか「図工」と呼ばれた時間がありましたよね。
時には学校の近くの小川や野原に写生に出かけたことを僕は良く覚えていますよ。
僕は絵を書くことが好きでした。
あなたはどうでしたか?

絵を書いたことなら誰でもあると思いますから、分かりやすいので絵を取り上げて話します。
絵を書いてみると、なかなか思ったように書けないものですよね。
目の前の木や花や石や動物が自分で描きたいように、なかなか描けない。
もう、じれったくなる事があるでしょう。

つまり、自分ではこのように描きたいと思っているのに、思った色がなかなか出てこない。
どうしても、家の形が目の前の家と違っている。
奥行きが表せなかったりして、いい加減イヤになってしまう事もあるでしょう。

つまり、図画用紙に書かれている物は描いている人の頭の中にあるものとは違っている。
もちろん、現実の家や、木や、花とも違っている。



ところで、あなたが友達の描いた絵を見るとき、
上手いとか、へたくそだとか、あなたは言葉で技量を言い表しますよね。
また、描いてある物の意味をさぐろうとします。
馬とか犬が描いてあれば、その馬が生き生きと描いてあるとか、
馬の耳が長すぎるとか、かなり具体的に批評が出来ます。
しかし、その馬とか犬の感情となると、見る人によってだいぶ違ってきますよね。

写生画の場合、批評する事は比較的簡単ですが、
抽象画となると、これはなかなか難しい。
なぜなら、具象的でない絵画を見るとき、
見るという行為は個性と文化的バックグラウンドを通してしか見ることができない。

例えば、ピカソのグロテスクな人物画を見るとき、
スペイン人、アメリカ人、日本人、アメリカインディアンの見方はまず違いますよ。
なぜなら、文化的バックグラウンドが違っているからです。
同じ絵を見ているのに日本人の受け止め方とアメリカ人の受け止め方が違うのは、
あなたにも良く理解できると思います。

つまり、生まれも育ちも全く違う。話す言葉さえ違う。
つまり文化が違うんだから、見方が違っても当然です。
でも、全く同じピカソのグロテスクな人物画を見ているのに、
受け止め方がアメリカ人と日本人では全く違うと言う事を考えてみてください。

これは文化的なバックグラウンドが違うと言う事で理解できます。
では、同じ日本人同士ではどうか?
文化的バックグラウンドはほぼ同じです。あまり大きな違いはありません。
同じ日本語を話します。同じ風土で育ってきています。



でも、あなたと僕がピカソのグロテスクな人物画を見たら、
感想はだいぶ違うと思いますね。
なぜか?
個性が違います。

つまり、全く同じ絵が、見る人によって違ってしまう。
つまり、ピカソの絵を見るとき、個性と文化的バックグラウンドを前提としてしか絵を見ることができません。
あなたの心の中にある印象とか、感想とか批判というのは、絵そのものではありえない!
絵とあなたの頭がベッドインして作った子供みたいなものです。そう思いませんか?

つまり、批判や批評をする時というのは絵の本質は、絵そのものからあなたの頭の中に移動してきますよね。
ピカソはどうしてこのようなグロテスクな人物を描いたのだろうか?
と、あなたは考える。
なんでこんな作品を作ったのだろう?
あなたは、一生懸命にあなたの頭で考える。
あなたの個性と、文化的バックグラウンドを基にして。

じっくり見ながら考えて、あなたはその絵の意味する事をあなたなりに分かったような気がする。
絵の本質に迫った気がしてくる。
でも、あなたは知っているはずです。
描いたのはピカソなんだから、いくら考えたって、ピカソがどのような気持ちで、
どのような目的で描いたか?なんて分かりっこない!
でも、見て考える、という行為は、ちょうど好きな音楽を聴くように、
作者がどのような気持ちで作ろうが、関係ないんですね。
つまり、音楽を聴いて作曲家になったような気分が味わえて
いい気持ちで聞けたらそれで充分満足できる。

つまり、絵の本質も音楽の本質も、見る人聴く人の方に移ってゆく。
それでいいと思うんですね。
でも中には作者、作曲家の本質にこだわる人も居る。
そういう人はどうするのか?
インタビューするわけですよね。
ピカソに尋ねるわけです。

それで「批評」を書く。
こういう人たちの事を「批評家」「評論家」というんでしょうね。
作品の本質を「あちらがわ」、つまり作者の方に求める。

でも「批判」するというのは、つまり、作品を語るということは、
つねに自分のバックグラウンドと自分の個性、自分自身を語るということです。


例えば、ヒトラー総統の前を行進するドイツ軍のパレードを映画で見るとします。
一糸乱れぬ軍隊行進。
制服もパリッとして、なかなかかっこいい!
旧ドイツ軍、凄い!

しかし、現在、自由主義に生きている我われがあんな行進をしたいか?
見るのはいいけれど、やるのはめっそうもない、というのが答えではないですか?
全体主義や旧日本帝国のような軍国主義には戻りたくない。
どうしても窮屈な感じで、あんなロボットのような行進など
やれ、と言われてもやりたくないでしょう。

つまり、あの第三帝国のすばらしさを伝えようとして作ったドイツ軍パレードの映画の監督は
テーマを現在の我われには届けることが出来ない。
私たちは、まずそのテーマに到達できない。そうすることの意味を見出せないかもしれない。
つまり、感想、印象、批判は作った人間とは全く無関係ということを知らざるを得ない。

絵を描いたり、絵を見たり、映画を作ったり、映画を観たりするということは孤独な行為です。
なぜか?
作り手や隣で見ている人と感想を共有できないからです。
突き詰めて言えば、個性や文化的バックグラウンドは一人一人皆違うからです。

でも、その孤独な行為をがまんできず、言語化して他の人と共有しようとする。
それが作者に向いている場合、批判、
観客に向いている場合、批評と呼ばれるわけです。

自分が思ったことが自分だけのものだと無意識的に気づいているので、
他の人と一般化する時に批評という言葉が使われます。
だから、批評家とか評論家と呼ばれる人たちが居ます。

そういうわけで、批判すると言う時、あなたは自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語らなければならない。
そうでない限り批判とは言えない。
ところが、これまで僕が日本のサイトで読んだコメントには批判らしきものがあまりないんですよね。

これはどうした事か?
つまり、語るべき文化的バックグラウンドと自分の個性がないのではないか?
あるのなら、そのことが語れないのではないか?
語り方を知らないのではないか?
僕は、日本のサイトでネットをやるようになってから、そう、しみじみと感じましたね。

じゃあ、オマエはどうなのか?
とあなたは僕に尋ねるかもしれない。

僕のブログの記事を見てください。
どれも長い。
なぜか?
僕は自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語っているからですよ。

出来たら、あなたもそうしてください。
2行から10行の文章で
あなたは自分自身を語ることができますか?

批判できない人についての記事をもっと読みたい人は次のリンクをクリックしてくださいね。
面白い話がたくさん詰まっていますよ。

『批判、批評、誹謗、中傷とは?あなたは批判がどういうことだか分かっていますか?』



あなたが絶対、

見たいと思っていた

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2005年11月14日

コメントを書くなら、しっかりと内容のある文章を書いてくださいね。



コメントを書くなら、

しっかりと内容のある文章を書いてくださいね。


『あるビジネス・ブログのプロバイダーが次の下着の写真を取り除かないとブログを削除すると言います』

僕が書いた上の記事に対して3つのコメントをもらいました。
そのうちの2つは同一人物の書いたものです。
次のようなものでした。


きもいって

by あ at 2005-11-10 (Thu) 23:07



消えてくれ

by あ at 2005-11-10 (Thu) 23:08


本人は身元が分からないと思って、こういういい加減で無責任な事を書いているんですよね。
でもね、この稚拙で幼稚な公衆便所の落書きを書いた人物のIPが分かり、身元が判明したらどうする気なんですかね。
ところで、この愚か者の身元を突き止めるのは難しい事ではないんですよ。


どうだい、お父さんはね、オマエと同じ年頃の頃、こういう愚かな事を書いていたんだよ。

だから分かるだろ、オマエもお父さんと同じで愚かな子供なんだよ。



そうだね、お父さんも、こういう馬鹿なことを書いていたんだね。

どうして僕が馬鹿だか、これを読んで初めてよく分かったよ。

“この親ありてこの子あり”

学校の先生がそういうことを言っていたよ。

この事だったんだね。


こういうメールがあなたのパソコンに送られないためにも、
1行じゃなくて、せめて高校生程度の文章を書いてくださいね。
これでは小学校1年生と言われても仕方が無いですよね。へへへ。。。

ところで、あなたはどのようにピカソを批判しますか?

あなたはこれまでに絵を書いたことがあるでしょう?
小学生の時には「図画」とか「図工」と呼ばれた時間がありましたよね。
時には学校の近くの小川や野原に写生に出かけたことを僕は良く覚えていますよ。
僕は絵を書くことが好きでした。
あなたはどうでしたか?

絵を書いたことなら誰でもあると思いますから、分かりやすいので絵を取り上げて話します。
絵を書いてみると、なかなか思ったように書けないものですよね。
目の前の木や花や石や動物が自分で描きたいように、なかなか描けない。
もう、じれったくなる事があるでしょう。
つまり、自分ではこのように描きたいと思っているのに、思った色がなかなか出てこない。
どうしても、家の形が目の前の家と違っている。
奥行きが表せなかったりして、いい加減イヤになってしまう事もあるでしょう。

つまり、図画用紙に書かれている物は描いている人の頭の中にあるものとは違っている。
もちろん、現実の家や、木や、花とも違っている。

ところで、あなたが友達の描いた絵を見るとき、
上手いとか、へたくそだとか、あなたは言葉で技量を言い表しますよね。
また、描いてある物の意味をさぐろうとします。
馬とか犬が描いてあれば、その馬が生き生きと描いてあるとか、
馬の耳が長すぎるとか、かなり具体的に批評が出来ます。
しかし、その馬とか犬の感情となると、見る人によってだいぶ違ってきますよね。

写生画の場合、批評する事は比較的簡単ですが、
抽象画となると、これはなかなか難しい。
なぜなら、具象的でない絵画を見るとき、
見るという行為は個性と文化的バックグラウンドを通してしか見ることができない。

例えば、ピカソのグロテスクな人物画を見るとき、
スペイン人、アメリカ人、日本人、アメリカインディアンの見方はまず違いますよ。
なぜなら、文化的バックグラウンドが違っているからです。
同じ絵を見ているのに日本人の受け止め方とアメリカ人の受け止め方が違うのは、
あなたにも良く理解できると思います。

つまり、生まれも育ちも全く違う。話す言葉さえ違う。
つまり文化が違うんだから、見方が違っても当然です。
でも、全く同じピカソのグロテスクな人物画を見ているのに、
受け止め方がアメリカ人と日本人では全く違うと言う事を考えてみてください。

これは文化的なバックグラウンドが違うと言う事で理解できます。
では、同じ日本人同士ではどうか?
文化的バックグラウンドはほぼ同じです。あまり大きな違いはありません。
同じ日本語を話します。同じ風土で育ってきています。

でも、あなたと僕がピカソのグロテスクな人物画を見たら、
感想はだいぶ違うと思いますね。
なぜか?
個性が違います。

つまり、全く同じ絵が、見る人によって違ってしまう。
つまり、ピカソの絵を見るとき、個性と文化的バックグラウンドを前提としてしか絵を見ることができません。
あなたの心の中にある印象とか、感想とか批判というのは、絵そのものではありえない!
絵とあなたの頭がベッドインして作った子供みたいなものです。そう思いませんか?

つまり、批判や批評をする時というのは絵の本質は、絵そのものからあなたの頭の中に移動してきますよね。
ピカソはどうしてこのようなグロテスクな人物を描いたのだろうか?
と、あなたは考える。
なんでこんな作品を作ったのだろう?
あなたは、一生懸命にあなたの頭で考える。
あなたの個性と、文化的バックグラウンドを基にして。

じっくり見ながら考えて、あなたはその絵の意味する事をあなたなりに分かったような気がする。
絵の本質に迫った気がしてくる。
でも、あなたは知っているはずです。
描いたのはピカソなんだから、いくら考えたって、ピカソがどのような気持ちで、
どのような目的で描いたか?なんて分かりっこない!
でも、見て考える、という行為は、ちょうど好きな音楽を聴くように、
作者がどのような気持ちで作ろうが、関係ないんですね。
つまり、音楽を聴いて作曲家になったような気分が味わえて
いい気持ちで聞けたらそれで充分満足できる。

つまり、絵の本質も音楽の本質も、見る人聴く人の方に移ってゆく。
それでいいと思うんですね。
でも中には作者、作曲家の本質にこだわる人も居る。
そういう人はどうするのか?
インタビューするわけですよね。
ピカソに尋ねるわけです。

それで「批評」を書く。
こういう人たちの事を「批評家」「評論家」というんでしょうね。
作品の本質を「あちらがわ」、つまり作者の方に求める。

でも「批判」するというのは、つまり、作品を語るということは、
つねに自分のバックグラウンドと自分の個性、自分自身を語るということです。

例えば、ヒトラー総統の前を行進するドイツ軍のパレードを映画で見るとします。
一糸乱れぬ軍隊行進。
制服もパリッとして、なかなかかっこいい!
旧ドイツ軍、凄い!

しかし、現在、自由主義に生きている我われがあんな行進をしたいか?
見るのはいいけれど、やるのはめっそうもない、というのが答えではないですか?
全体主義や旧日本帝国のような軍国主義には戻りたくない。
どうしても窮屈な感じで、あんなロボットのような行進など
やれ、と言われてもやりたくないでしょう。

つまり、あの第三帝国のすばらしさを伝えようとして作ったドイツ軍パレードの映画の監督は
テーマを現在の我われには届けることが出来ない。
私たちは、まずそのテーマに到達できない。そうすることの意味を見出せないかもしれない。
つまり、感想、印象、批判は作った人間とは全く無関係ということを知らざるを得ない。

絵を描いたり、絵を見たり、映画を作ったり、映画を観たりするということは孤独な行為です。
なぜか?
作り手や隣で見ている人と感想を共有できないからです。
突き詰めて言えば、個性や文化的バックグラウンドは一人一人皆違うからです。

でも、その孤独な行為をがまんできず、言語化して他の人と共有しようとする。
それが作者に向いている場合、批判、
観客に向いている場合、批評と呼ばれるわけです。

自分が思ったことが自分だけのものだと無意識的に気づいているので、
他の人と一般化する時に批評という言葉が使われます。
だから、批評家とか評論家と呼ばれる人たちが居ます。

そういうわけで、批判すると言う時、あなたは自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語らなければならない。
そうでない限り批判とは言えない。

この上で示した1行のコメントは批判じゃなくて、公衆便所の落書きです。

これはどうした事か?
つまり、語るべき文化的バックグラウンドと自分の個性がないのではないか?
あるのなら、そのことが語れないのではないか?
語り方を知らないのではないか?
欧米のサイトで18年やってから、日本のサイトで3年ほどですが僕は、そう、しみじみと感じましたね。

じゃあ、オマエはどうなのか?
とあなたは僕に尋ねるかもしれない。

僕のブログの記事を見てください。
どれも長い。
なぜか?
僕は自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語っているからですよ。

出来たら、あなたもそうしてください。
1行から3行の文章で
あなたは自分自身を語ることができますか?






批判できない人についての記事をもっと読みたい人は次のリンクをクリックしてくださいね。
面白い話がたくさん詰まっていますよ。

http://barclay.worldfreeweb.com/renge/tree.php?all=1602


2005年08月25日

ニュージーランドのNanaさん、こんにちは!


ニュージーランドのNanaさん、

こんにちは!




はじめまして。

文章の書き方がすごく面白くて

惹かれてしまいました♪

私はにゅーじらんどにすんでいる

Nanaというものです。

ハワイ→オーストラリア→ニュージーと小さいころから

住む場所変わりまくっていますが、

やっぱり素が日本人のせいか、

日本の童謡、歌など心にしみますね。

Nana at 2005/08/23 08:47


Nanaさん、コメントありがとね。
オーストラリアとニュージーランドに居る日本人は意外に多いんですねェ〜。
僕はネットで少なくとも10人と知り合いましたよ。

Nanaさんがコメントをつけた記事
『オーストラリアのブリスベンでデザインを勉強しているアミサさん』
の中に出てくるアミサさんもそのうちの一人です。

おそらくNanaさんはアミサさんと同世代ではないでしょうか?
僕はそんな印象を持ちましたよ。
小さい頃から英語圏に居るようですから、もう完全にbilingualでしょうね。
その才能を生かして、ぜひ将来国際舞台で活躍してくださいね。

日本の童謡はいいですよね。
僕も上の記事の中で書きましたよ。


先日、たまたま、この近くのショッピングモールへ行ったんですよ。
そしたら、“夕焼け小焼けの赤とんぼ。。。”という日本の童謡のメロディーが流れてきましてね。。。。
それに、気付いた時、僕は思わず立ち止まって聞き惚れましたね。
涙がにじんでくるほど感動しました。
日本の童謡はすばらしいと思いますね。
そして、自分の生まれ育ったふるさとはやはり懐かしいですよ。。。




また、このようなのどかな日本の風景などを写真で見ると、
日本はいいなあアアア、と思いますねェ。

実は、僕は日本の歌謡曲だとか演歌だとか流行歌、ポップスは全く駄目なんですよ。
まともに歌える歌なんて1曲もありません。
とにかく、紅白歌合戦をもう30年間見ていませんからね。
全く日本の歌は僕の心に訴えて来ません。

ただ、童謡だけは別ですね。
もう、じ〜〜〜んとしてしまうほど感動する事がありますよ。
小さい時に聴いた歌だから、それだけ“純真な心”に染み付いているのでしょうねェ〜。

「三つ子の魂百まで」と言いますからね。
小さいときの性格は年をとっても変わらないように、
小さいときに耳に親しんだ童謡は、久しぶりに聞いても心にジ〜〜んと染み込んできますよ。

それにしてもお褒めのコメントをいただいちゃって、うれしいですよ。


文章の書き方がすごく面白くて
惹かれてしまいました♪


僕は国語が苦手でした。
だから、作文の時間はイヤだったですね。
こうして書けるようになったのは、英語を勉強するようになってからです。
英語の作文をどうしても書かねばならなくなって、かなり時間を割いて勉強するようになってから、
文章を書くことが苦手ではなくなったですよ。
もちろん、うまい文章を書けるか?と言うと全く別問題ですが。。。

でもNanaさんに上のようなコメントをもらうと、国語の時間に100点をもらったような気がしましたよ。
なるべく自分で楽しめるような文章を書くように努めています。
へたくそだと言われても、少なくとも自分が楽しんで書いたのなら、
それだけで充分に意味のあることですからね。

ただし、自分だけ楽しんでも、他の人に面白くなかったら、いづれ読んでくれる人が居なくなってしまいますからね。
他の人が読んでも、面白い文章、楽しい文章、心に残る文章。。。。
そういう風に考えると、なかなか難しいですよね。
だから、そんなに堅苦しく考えず、まずは自分が楽しめるように書いています。

そういうわけですから、Nanaさんに上のように言われるとメチャうれしいですよ。
もう、ルンルン気分でスキップしたくなります。



では、Nanaさん、これからもニュージーランドでがんばってくださいね。
気が向いたら、またコメント書いてください。
じゃあね。


2005年07月23日

紫外線からあなたを守っていますか?


紫外線からあなたを守っていますか?



家の外に限らず、車や電車に乗ったり室内にいても、窓際ではかなり強い紫外線を浴びています。
日頃から紫外線対策を習慣付けておかないと、うっかり日焼けをしてしまうのですよね。
ひと頃は日焼けすることがナウいことでしたけれど、最近は日焼けの“被害”が話題になるようになりました。
あなたも、そう思いませんか?

朝、身支度を整える時に日焼け止めを塗るのも良いかもしれません。
顔だけでなく、腕などの露出している部分はもちろん、首やうなじなども忘れないようにね。
汗をかけば日焼け止めも取れてしまうため、数時間ごとに塗りなおすのが良いんですって。
また、紫外線量は曇りの日でも、晴れの日の6割程度もあると言われています。
天気に関係なく毎日塗ったほうが良いのですね。

日焼け止めを選ぶときの目安になるのが「SPF値」と「PA値」なんですよ。知っていますか?
すぐに赤くなって皮がむけたり、皮膚がんを引き起こす可能性のある紫外線Bを防ぐ指標がSPFです。
数値が高いほど、紫外線をブロックしている時間が長いことを意味しています。

私たちが最も浴びている紫外線Aを防ぐのがPA値です。
プラス(+)の数による三段階表示がされてます。
効果が最もあるのは「+++」と記されています。
日焼けによるダメージの大きい方が海やプールに出かける時には「SPF30」「PA+++」というように、両方の値が高いものを選ぶと良いのです。
ただし、肌に合う合わないものもあるので、腕などに少量塗ってかぶれないか確認してから使ったほうがいいですよ。

帽子やサングラス、日傘も、紫外線対策の強い味方です。
日焼けを避けるだけでなく、白内障や熱中症予防にもなります。
帽子は顔に浴びる紫外線の約60%をカットできるのです。
知ってましたか?
つばが7cm以上のものが良いのだそうです。
日中、外を歩くときは薄手のカーディガンを羽織るなど、肌の露出が少ない物を身につけると良いですよ。
ストッキングを履く場合はUVカット効果のあるものがよいでしょう。

日焼けしにくい肌作ることも重要なんですね。
シミやソバ.カスの原因となるメラニン色素の生成を抑制するビタミンCや、抗酸化作用のあるポリフェノールなどを積極的に摂ることも大切です。
紫外線によるダメージを受けにくくなると言われています。
体の中と外の両方でケアすれば、紫外線は大幅にブロックできますよ。

ええっ?かさかさ肌に悩んでいるのですか?
紫外線とは直接関係ないですね。
でも、乾燥肌が気になる人は次のリンクをクリックしてみたらよいですよ。

http://barclay.e-city.tv/health/index.html#dryskin

あなたもきっと、大和撫子のすばらしいお肌を手に入れることが出来るでしょう。
では、頑張ってくださいね。
元気にこの夏を乗りきってくださいね。
Good luck!

2005年06月30日

とてもユニークな高校があるのを知っていますか?

とてもユニークな高校があるのを知っていますか?



『音楽・芸能』など、自分の夢に真っ直ぐ進みながら『高校が卒業』できる夢のような全く新しい学びの場があります。
日本初のシステム『音楽・芸能』+『高校卒業資格』それが東京自由学園です。
講師たちが全員現役のアーティストだから在校生、卒業生も続々デビューしています。
そんなアーティストから直接レッスンが受けられるチャンスがあります。

Q 音楽が大好きなので東京自由学園に入学したいのですが、中学時代から、あまり勉強が好きではありません。高校の勉強についていけるか心配です。

A 心配ありません。本校では、確実に3年間で高校を卒業できるよう、レポートの指導や、期末の試験対策を個々の生徒のペースに合わせて、丁寧に指導しています。また、わからないことがあったら、各学科の先生がすぐに対応してくれます。

Q 規則の厳しい高校がイヤで自主退学しました。出席日数も足りませんでした。こんな私でも大丈夫でしょうか?

A 大丈夫です。本校は出席日数による制限、髪形、服装などに関する校則は一切ありません。ありのままのあなたのペースで高卒資格取得ができるよう、ムリなくバックアップします。

Q 現在、全日制高校2年生に在学中ですが、退学をしてから入学手続きをしなければならないのでしょうか?

A 転入学できます。現在高校に在籍していれば、たとえ休学中でも転入学できます。今までに取得した単位を活かすことができるので、1からやり直す必要はありません。

Q 地方から子供を上京させて、通学させたいのですが、一人暮らしをさせるのが心配です。

A 学生寮があります。親元を離れて一人暮らしを始める学生のために、指定学生寮を用意しております。必要な家具や電化製品、食事もついていますし、学園の友人が一緒ですので、遠方からの状況でも心配ありません。

Q 高校中退後すぐに就職したため、何年も勉強していないのですが大丈夫でしょうか?

A 心配ありません。本校の特色である能力に合わせた個人別カリキュラム作成のためムリなく学習できます。どうしても登校できない場合はその期間内、在宅学習課題を用意します。

Q 将来音楽の道に進みたいので、入学を希望しているのですが、今まであまり楽器を練習したことがありません。大丈夫でしょうか?

A 心配ありません。本校では他の専門学校よりも、より丁寧な指導と、完成されたカリキュラムで、楽器が初めての生徒でも3年間で基礎から応用までしっかりと学習し、習得できるシステムです。

Q 学費の分割納入は可能ですか?

A 分割をご希望の方には信販会社のクレジットを扱っております。詳しくは入学係までお問合せください。

もっと詳しく知りたいのですが。。。。

それなら説明会もあります。
体験入学で実際に生のレッスンを体験してみることもできますよ。
まず、次のリンクをクリックして資料(無料)を取り寄せてじっくり読んでみてください。

http://barclay.e-city.tv/learn/index2.html#tokyojiyu

2005年06月13日

あなたはどのようにピカソを批判しますか?

あなたはどのようにピカソを批判しますか?



あなたはこれまでに絵を書いたことがあるでしょう?
小学生の時には「図画」とか「図工」と呼ばれた時間がありましたよね。
時には学校の近くの小川や野原に写生に出かけたことを僕は良く覚えていますよ。
僕は絵を書くことが好きでした。
あなたはどうでしたか?

絵を書いたことなら誰でもあると思いますから、分かりやすいので絵を取り上げて話します。
絵を書いてみると、なかなか思ったように書けないものですよね。
目の前の木や花や石や動物が自分で描きたいように、なかなか描けない。
もう、じれったくなる事があるでしょう。
つまり、自分ではこのように描きたいと思っているのに、思った色がなかなか出てこない。
どうしても、家の形が目の前の家と違っている。
奥行きが表せなかったりして、いい加減イヤになってしまう事もあるでしょう。

つまり、図画用紙に書かれている物は描いている人の頭の中にあるものとは違っている。
もちろん、現実の家や、木や、花とも違っている。

ところで、あなたが友達の描いた絵を見るとき、
上手いとか、へたくそだとか、あなたは言葉で技量を言い表しますよね。
また、描いてある物の意味をさぐろうとします。
馬とか犬が描いてあれば、その馬が生き生きと描いてあるとか、
馬の耳が長すぎるとか、かなり具体的に批評が出来ます。
しかし、その馬とか犬の感情となると、見る人によってだいぶ違ってきますよね。

写生画の場合、批評する事は比較的簡単ですが、
抽象画となると、これはなかなか難しい。
なぜなら、具象的でない絵画を見るとき、
見るという行為は個性と文化的バックグラウンドを通してしか見ることができない。

例えば、ピカソのグロテスクな人物画を見るとき、
スペイン人、アメリカ人、日本人、アメリカインディアンの見方はまず違いますよ。
なぜなら、文化的バックグラウンドが違っているからです。
同じ絵を見ているのに日本人の受け止め方とアメリカ人の受け止め方が違うのは、
あなたにも良く理解できると思います。

つまり、生まれも育ちも全く違う。話す言葉さえ違う。
つまり文化が違うんだから、見方が違っても当然です。
でも、全く同じピカソのグロテスクな人物画を見ているのに、
受け止め方がアメリカ人と日本人では全く違うと言う事を考えてみてください。

これは文化的なバックグラウンドが違うと言う事で理解できます。
では、同じ日本人同士ではどうか?
文化的バックグラウンドはほぼ同じです。あまり大きな違いはありません。
同じ日本語を話します。同じ風土で育ってきています。

でも、あなたと僕がピカソのグロテスクな人物画を見たら、
感想はだいぶ違うと思いますね。
なぜか?
個性が違います。

つまり、全く同じ絵が、見る人によって違ってしまう。
つまり、ピカソの絵を見るとき、個性と文化的バックグラウンドを前提としてしか絵を見ることができません。
あなたの心の中にある印象とか、感想とか批判というのは、絵そのものではありえない!
絵とあなたの頭がベッドインして作った子供みたいなものです。そう思いませんか?

つまり、批判や批評をする時というのは絵の本質は、絵そのものからあなたの頭の中に移動してきますよね。
ピカソはどうしてこのようなグロテスクな人物を描いたのだろうか?
と、あなたは考える。
なんでこんな作品を作ったのだろう?
あなたは、一生懸命にあなたの頭で考える。
あなたの個性と、文化的バックグラウンドを基にして。

じっくり見ながら考えて、あなたはその絵の意味する事をあなたなりに分かったような気がする。
絵の本質に迫った気がしてくる。
でも、あなたは知っているはずです。
描いたのはピカソなんだから、いくら考えたって、ピカソがどのような気持ちで、
どのような目的で描いたか?なんて分かりっこない!
でも、見て考える、という行為は、ちょうど好きな音楽を聴くように、
作者がどのような気持ちで作ろうが、関係ないんですね。
つまり、音楽を聴いて作曲家になったような気分が味わえて
いい気持ちで聞けたらそれで充分満足できる。

つまり、絵の本質も音楽の本質も、見る人聴く人の方に移ってゆく。
それでいいと思うんですね。
でも中には作者、作曲家の本質にこだわる人も居る。
そういう人はどうするのか?
インタビューするわけですよね。
ピカソに尋ねるわけです。

それで「批評」を書く。
こういう人たちの事を「批評家」「評論家」というんでしょうね。
作品の本質を「あちらがわ」、つまり作者の方に求める。

でも「批判」するというのは、つまり、作品を語るということは、
つねに自分のバックグラウンドと自分の個性、自分自身を語るということです。

例えば、ヒトラー総統の前を行進するドイツ軍のパレードを映画で見るとします。
一糸乱れぬ軍隊行進。
制服もパリッとして、なかなかかっこいい!
旧ドイツ軍、凄い!

しかし、現在、自由主義に生きている我われがあんな行進をしたいか?
見るのはいいけれど、やるのはめっそうもない、というのが答えではないですか?
全体主義や旧日本帝国のような軍国主義には戻りたくない。
どうしても窮屈な感じで、あんなロボットのような行進など
やれ、と言われてもやりたくないでしょう。

つまり、あの第三帝国のすばらしさを伝えようとして作ったドイツ軍パレードの映画の監督は
テーマを現在の我われには届けることが出来ない。
私たちは、まずそのテーマに到達できない。そうすることの意味を見出せないかもしれない。
つまり、感想、印象、批判は作った人間とは全く無関係ということを知らざるを得ない。

絵を描いたり、絵を見たり、映画を作ったり、映画を観たりするということは孤独な行為です。
なぜか?
作り手や隣で見ている人と感想を共有できないからです。
突き詰めて言えば、個性や文化的バックグラウンドは一人一人皆違うからです。

でも、その孤独な行為をがまんできず、言語化して他の人と共有しようとする。
それが作者に向いている場合、批判、
観客に向いている場合、批評と呼ばれるわけです。

自分が思ったことが自分だけのものだと無意識的に気づいているので、
他の人と一般化する時に批評という言葉が使われます。
だから、批評家とか評論家と呼ばれる人たちが居ます。

そういうわけで、批判すると言う時、あなたは自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語らなければならない。
そうでない限り批判とは言えない。
ところが、これまで僕がFC2で読んだコメントは批判らしきものが一つもないんですね。

これはどうした事か?
つまり、語るべき文化的バックグラウンドと自分の個性がないのではないか?
あるのなら、そのことが語れないのではないか?
語り方を知らないのではないか?
FC2に来て僕は、そう、しみじみと感じましたね。

じゃあ、オマエはどうなのか?
とあなたは僕に尋ねるかもしれない。

僕のブログの記事を見てください。
どれも長い。
なぜか?
僕は自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語っているからですよ。

出来たら、あなたもそうしてください。
2行から10行の文章で
あなたは自分自身を語ることができますか?




批判できない人についての記事をもっと読みたい人は次のリンクをクリックしてくださいね。
面白い話がたくさん詰まっていますよ。

http://barclay.c-f-h.com/renge/tree.php?all=1602

2005年03月16日

批評と批判

あなたはこれまでに絵を書いたことがあるでしょう?
小学生の時には「図画」とか「図工」と呼ばれた時間がありましたよね。
時には学校の近くの小川や野原に写生に出かけたことを僕は良く覚えていますよ。
僕は絵を書くことが好きでした。
あなたはどうでしたか?

絵を書いたことなら誰でもあると思いますから、分かりやすいので絵を取り上げて話します。
絵を書いてみると、なかなか思ったように書けないものですよね。
目の前の木や花や石や動物が自分で描きたいように、なかなか描けない。
もう、じれったくなる事があるでしょう。
つまり、自分ではこのように描きたいと思っているのに、思った色がなかなか出てこない。
どうしても、家の形が目の前の家と違っている。
奥行きが表せなかったりして、いい加減イヤになってしまう事もあるでしょう。

つまり、図画用紙に書かれている物は描いている人の頭の中にあるものとは違っている。
もちろん、現実の家や、木や、花とも違っている。

ところで、あなたが友達の描いた絵を見るとき、
上手いとか、へたくそだとか、あなたは言葉で技量を言い表しますよね。
また、描いてある物の意味をさぐろうとします。
馬とか犬が描いてあれば、その馬が生き生きと描いてあるとか、
馬の耳が長すぎるとか、かなり具体的に批評が出来ます。
しかし、その馬とか犬の感情となると、見る人によってだいぶ違ってきますよね。

写生画の場合、批評する事は比較的簡単ですが、
抽象画となると、これはなかなか難しい。
なぜなら、具象的でない絵画を見るとき、
見るという行為は個性と文化的バックグラウンドを通してしか見ることができない。

例えば、ピカソのグロテスクな人物画を見るとき、
スペイン人、アメリカ人、日本人、アメリカインディアンの見方はまず違いますよ。
なぜなら、文化的バックグラウンドが違っているからです。
同じ絵を見ているのに日本人の受け止め方とアメリカ人の受け止め方が違うのは、
あなたにも良く理解できると思います。

つまり、生まれも育ちも全く違う。話す言葉さえ違う。
つまり文化が違うんだから、見方が違っても当然です。
でも、全く同じピカソのグロテスクな人物画を見ているのに、
受け止め方がアメリカ人と日本人では全く違うと言う事を考えてみてください。

これは文化的なバックグラウンドが違うと言う事で理解できます。
では、同じ日本人同士ではどうか?
文化的バックグラウンドはほぼ同じです。あまり大きな違いはありません。
同じ日本語を話します。同じ風土で育ってきています。

でも、あなたと僕がピカソのグロテスクな人物画を見たら、
感想はだいぶ違うと思いますね。
なぜか?
個性が違います。

つまり、全く同じ絵が、見る人によって違ってしまう。
つまり、ピカソの絵を見るとき、個性と文化的バックグラウンドを前提としてしか絵を見ることができません。
あなたの心の中にある印象とか、感想とか批判というのは、絵そのものではありえない!
絵とあなたの頭がベッドインして作った子供みたいなものです。そう思いませんか?

つまり、批判や批評をする時というのは絵の本質は、絵そのものからあなたの頭の中に移動してきますよね。
ピカソはどうしてこのようなグロテスクな人物を描いたのだろうか?
と、あなたは考える。
なんでこんな作品を作ったのだろう?
あなたは、一生懸命にあなたの頭で考える。
あなたの個性と、文化的バックグラウンドを基にして。

じっくり見ながら考えて、あなたはその絵の意味する事をあなたなりに分かったような気がする。
絵の本質に迫った気がしてくる。
でも、あなたは知っているはずです。
描いたのはピカソなんだから、いくら考えたって、ピカソがどのような気持ちで、
どのような目的で描いたか?なんて分かりっこない!
でも、見て考える、という行為は、ちょうど好きな音楽を聴くように、
作者がどのような気持ちで作ろうが、関係ないんですね。
つまり、音楽を聴いて作曲家になったような気分が味わえて
いい気持ちで聞けたらそれで充分満足できる。

つまり、絵の本質も音楽の本質も、見る人聴く人の方に移ってゆく。
それでいいと思うんですね。
でも中には作者、作曲家の本質にこだわる人も居る。
そういう人はどうするのか?
インタビューするわけですよね。
ピカソに尋ねるわけです。

それで「批評」を書く。
こういう人たちの事を「批評家」「評論家」というんでしょうね。
作品の本質を「あちらがわ」、つまり作者の方に求める。

でも「批判」するというのは、つまり、作品を語るということは、
つねに自分のバックグラウンドと自分の個性、自分自身を語るということです。

例えば、ヒトラー総統の前を行進するドイツ軍のパレードを映画で見るとします。
一糸乱れぬ軍隊行進。
制服もパリッとして、なかなかかっこいい!
旧ドイツ軍、凄い!

しかし、現在、自由主義に生きている我われがあんな行進をしたいか?
見るのはいいけれど、やるのはめっそうもない、というのが答えではないですか?
全体主義や旧日本帝国のような軍国主義には戻りたくない。
どうしても窮屈な感じで、あんなロボットのような行進など
やれ、と言われてもやりたくないでしょう。

つまり、あの第三帝国のすばらしさを伝えようとして作ったドイツ軍パレードの映画の監督は
テーマを現在の我われには届けることが出来ない。
私たちは、まずそのテーマに到達できない。そうすることの意味を見出せないかもしれない。
つまり、感想、印象、批判は作った人間とは全く無関係ということを知らざるを得ない。

絵を描いたり、絵を見たり、映画を作ったり、映画を観たりするということは孤独な行為です。
なぜか?
作り手や隣で見ている人と感想を共有できないからです。
突き詰めて言えば、個性や文化的バックグラウンドは一人一人皆違うからです。

でも、その孤独な行為をがまんできず、言語化して他の人と共有しようとする。
それが作者に向いている場合、批判、
観客に向いている場合、批評と呼ばれるわけです。

自分が思ったことが自分だけのものだと無意識的に気づいているので、
他の人と一般化する時に批評という言葉が使われます。
だから、批評家とか評論家と呼ばれる人たちが居ます。

そういうわけで、批判すると言う時、あなたは自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語らなければならない。
そうでない限り批判とは言えない。
ところが、これまで僕がFC2で読んだコメントは批判らしきものが一つもないんですね。

これはどうした事か?
つまり、語るべき文化的バックグラウンドと自分の個性がないのではないか?
あるのなら、そのことが語れないのではないか?
語り方を知らないのではないか?
FC2に来て僕は、そう、しみじみと感じましたね。

じゃあ、オマエはどうなのか?
とあなたは僕に尋ねるかもしれない。

僕の日記の記事を見てください。
どれも長い。
なぜか?
僕は自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語っているからですよ。

出来たら、あなたもそうしてください。
2行から10行の文章で
あなたは自分自身を語ることができますか?