「旬のさかなのしゃぶしゃぶ」
カンパチは笠沙町野間池の美代丸水産さんの、養殖カンパチ。
「養殖」といっても、外海に面した野間池のきれいな海の中で大切に丁寧意に育てられ、まさに、今が旬!!
とれたてを活け〆
「生きのよさ」を保つ「神経抜き」をします。
そして、さばいて刺身にしたものを、串にさします。
脂がのって、光ってます。
昆布入りのお湯で、かる~く「しゃぶしゃぶ」
まだ、半生くらいがBEST。
そして「笠沙のしおっ」をぱらぱらして、「しおっ しゃぶ」が実はとってもおいしかったです。
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「旬のさかなのしゃぶしゃぶ」
カンパチは笠沙町野間池の美代丸水産さんの、養殖カンパチ。
「養殖」といっても、外海に面した野間池のきれいな海の中で大切に丁寧意に育てられ、まさに、今が旬!!
とれたてを活け〆
「生きのよさ」を保つ「神経抜き」をします。
そして、さばいて刺身にしたものを、串にさします。
脂がのって、光ってます。
昆布入りのお湯で、かる~く「しゃぶしゃぶ」
まだ、半生くらいがBEST。
そして「笠沙のしおっ」をぱらぱらして、「しおっ しゃぶ」が実はとってもおいしかったです。






今年も、熊本県菊池水源村の陽子さんにお願いして、無農薬の梅干しと赤シソに「笠沙のしおっ」で、昔ながらのてづくり梅干しをつけてもらいました。
とってもきれいな色の、「しょっぱおいしい」梅干し。
この、シソを加工して「笠沙のしおっ」とブレンドして新商品になりました♪

「笠沙のしおっ 梅シソいり」
いわゆる 「ゆかり」の完全手づくりなのですが、「ゆかり」」は某食品会社の商品名なので、使えません。

本当に、気が遠くなるほど手間と時間がかかるわりに、生産量がほんのちょっぴりなので、販売先は「笠沙恵比寿」さんのほか、限られてます。
しかも、「できたっひこっ」(鹿児島弁で、できただけ)

梅干しの「汁」で、今年の新ショウガを漬けこみました。
地元物産館から地元の方が作っているショウガを買ってきて、皮をむいて一晩塩漬けした後、真っ赤な「梅酢」に漬け込みます。

上に梅干しの赤シソを広げ、ふたのようにしてから器のふたをします。
年明けくらいから、自家製紅ショウガとして食べれます。♪
●【つかこうへいさん肺がんで死去、62歳】日刊スポーツ
「蒲田行進曲」「熱海殺人事件」など反権力や社会的弱者を題材にした作品を数多く発表、戦後の演劇界を代表する劇作家、演出家で作家のつかこうへい(本名金峰雄=キム・ボンウン)さんが10日午前10時55分、肺がんのため千葉県鴨川市の病院で死去した。62歳。福岡県出身。葬儀・告別式は近親者で済ませた。
今年1月、肺がんであることを公表。病院で治療を続けながら演出の指示を出し、最後まで舞台への意欲を見せていた。
もうずっと前に行った記事です・・・
この日は
ソウタの保育参観の日。
午後から全くのフリーだったので
ちょいと足を伸ばしてみようということになり
南さつま市加世田にあります
Cafe Aoba さんに 行ってきました
南さつま市加世田高橋1934-108

こんな素敵なとこにあります

店内もとっても素敵

だから・・・

こんな美味しそうな&実際美味しいケーキを前に
おとなしくできるはずもなく・・・
本当に全部食べられそうになったので
取り上げました。
ところ、
ギャン泣きされました
当たり前ですがね。
もっとゆっくりしたかったのに
そそくさと店を後にしました・・・
旦那と
「今度は2人で来ようね」
なーんて話しましたが
またしばらくは無理でしょう。。。
飲みにも行きたいーーー!!!
(お酒が飲みたいというより
飲み屋の雰囲気が好き)
さてさて、大切な人との間に、隙間風が吹いた時、そして、寂しい時、実は「大切な働き」をするものがあります。
だから、電気全盛の今でも、私達の心に住みついているのです。 古代エジプトでは、永遠の命を願う、ミイラ作成などで古くから「ミツロウが使われていました。
あの、2300年前のツタンカーメンの王墓からは燭台が発見されています。
永遠の幸せを祈るため、玄室を照らしていた事でしょう。
そして、紀元前3世紀の現在のイタリアの一部の遺跡から燭台の絵が出土しています。
確実に、この時代にろうそくがあった。また、シルクロードをはるかに離れた、中国の遺跡でも燭台が出土しています。
もう、貴重品だったロウソクは、世界に炎の揺らめきとともに広がっていきました。
欧州では、ガス灯の登場する19世紀まで、室内の主な照明として用いられた。キリスト教の典礼で必ず使われる「宗教儀式の道具」としても重要でした。
このため、修道院などでミツバチを飼い、巣板から「蜜ろうそく」を生産することが行われていました。
華麗なるシャンデリアは、本来、「ろうそく」のためのもの。
その後、マッコウクジラの脳油を原料とするものが高級品とされ、19世紀にはアメリカ合衆国を中心に盛んに捕鯨が行われました。
今では反捕鯨といいつつ、捕鯨大国だったのでした。
そんな中、日本でろうそくが最初に登場したのは奈良時代の事。しかし、当時のろうそくは中国から輸入された蜜ろうそくでした。
もちろん、超超高級品!!
仏教の伝来とともにやってきました。
平安時代になり、「蜜ろうそく」に代わって、「松脂ろうそく」の製造が始まり、その後、いわゆる「和ろうそく」と呼ばれる、「はぜの蝋やうるしの蝋」などを使ったものに変わり、江戸時代にはろうそくと松ヤニと混ぜてハードワックスにして広まっていきましたが、それでも貴重品であるのは変
わりませんでした。
商人にとっては重要な交易品であり、産地では特産品でした。
また、江戸時代には木蝋の原料となるハゼノキが琉球から伝わりました。
和ろうそくは、各地の文化や伝統を融合し進化を続けたのでした。
外出用の提灯のための需要が増えたこともあって、和ろうそくの生産量が増えていきました。
この時代から夜の町をほのかに照らしていたのです。
和ろうそくは裸で使うより、いわゆる提灯などに入れて使うことが多かったので、蝋が減っても炎の高さが変わりにくいように上の方が太く作られていました。
これがいまも「和ろうそく」の特徴的な形となっています。
現在のろうそくは厳密に言うと、「石油」からつくられているので「ろうそく」ではないと言えますね。
炎もやはり違うのです。
「和ろうそく」は外国でも驚嘆を持って評価されています。
イギリスの電気関係の研究で輝かしい研究を残し、偉大なる靴屋の息子から一流の科学者になった、あのマイケルファラデー(1791−1867)も「和ろうそく」に驚嘆しています。
1861年、日本はお江戸様の時代のファラデーの名著「ロウソクの科学」では・・・。
どうやら鎖国が解かれたこの時代、はるばる大西洋・インド洋(まだ太平洋航路は整備されていない)を超えて、お土産としてもらった「和ろうそく」。
東洋の神秘の国「ジパング」の「和ろうそく」に彼は驚いたのでした。
「和ロウソク」は芯に穴があいているので、「炎」に常に空気が供給されるしくみになっていました。そのため、炎の燃え方もよく、当時の先進文明だった「はず」の「西洋のロウソク」よりも不完全
燃焼が少ない・・・。
しかも、芯は、和紙、真綿、灯芯の3つからできていて、灯芯は刈り取った藺草を濡らして一本一本手作業で抜き取るという日本ならではの丁寧な仕事は、産業革命盛んな世界の大英帝国でもマネができない先進的なろうそくであると愛情を示しています。
「東洋の炎のマジック」は実は世界でも通用するものなのでした。
「和ろうそく」の安らぎの炎に魅せられた彼は、「炎」の持つ、大切さ、美しさ、怖さを理解していた数少ない、平和を愛する科学者でした。激しい戦いで「ナイチンゲール」も活躍した「クリミア戦争」において、「化学兵器」の製作を政府から依頼された時、机を叩いて「つくることは容易だが、絶対に手を貸さないぞ!」と言ったといいます。
和ろうそくには美しい絵柄が書かれています。これも、日本の「炎」に対する暖かい気持ちが表れています。
北国では冬が長く、お花も少なかったので、貴重なろうそくに絵柄を書いて、大切な祖先に供えました。
この繊細な柄には、みんなが「輪」になって、「暖かく安らかに」という職人の願いがこもっています。
さて、「昇愛子」さんは、そんな「和ろうそく」の伝統を引き継ぐ、鹿児島の若く美しく輝く、新鋭の「和ろうそく」職人さんです。
彼女の実演の様子を「稲音館」さんが紹介しておられますが、実に緻密、かつ伝統を元にして、更に「新しい炎と温まる柄を・・・」と製作にいそしんでいます。
さて、この「和ロウソク」。
確かに「アクセサリー類」のように、「その場」で身につけたりできるものではありません。
美しいけれど、縁遠い感じがしますか?
また、どうしても「柄が美しく精密なため」、炎をつけることにためらいを感じる向きもあるのかもしれません。
「昇愛子」さんも「ぜひ柄だけでなく、炎に親しんでほしい・・・」という想いがおありのようです。
実は、ファラデーも魅せられた、それこそが、「和ろうそく」の魅力なのですね。
「たった一つ」「その一本しかない」「和ろうそく」のオリジナルの柄と炎は・・・。
アクセサリー以上の温かさと輝きを、見る人の心に伝える力があります。
「潮風」は、たくさんの漁師達が旅立っていった・・・そして、二度とは戻らなかった・・・。
また、「黎明の志」を持って、幕末の嵐の中、遠く西洋に旅立った若者達が見た・・・。
その岬に、想いを馳せて、「昇愛子」さんの「和ろうそく」を立ててみました。

で、「輪」になって、炎を見つめてください。
「知覧」・・・鹿児島県でも、古い町並みが残る事で有名で、また、悲しい特攻隊の歴史が残る街。
被っていました。 昭和三十九年九月、岩崎グループの傘下となっていた、南薩鉄道は、三州自動車に吸収合併して、鹿児島交通となっていました。もう、鹿児島交通の鉄道部門は、当時の費用で、年間三千万円程度の赤字をでした。