今日は大晦日。昔と同じように、実家で紅白を見ています。
でも、昔とは全く違ってしまいました。四年前には、両親と年末年始を楽しんでいました。三年前には、母は入院していて寂しい大晦日でしたが、家にいなくても母は生きていてくれました。一昨年は母が死んでしまい、父と二人だけの寂しい大晦日でした。その父まで死んでしまい、昨年と今年は独りぼっちです。家族揃って年末年始を過ごした最後の時間は、既に四年前のことになってしまいました。
紅白歌合戦で、「千の風になって」が流れていました。有り体に申し上げれば、私はこの歌に違和感を覚えます。この件に関しては、人生感は人それぞれですので、自説をヒトに押し付ける権利など私には無いし、逆もまた然りなので反論もまっぴら御免なのですが、私自身としては、この歌で心は癒されません。
私が両親の墓参りに行く際には、両親に会いたいから墓参りに行くのに、「そこに私はいません」では悲しいです。父と母に会いたい・・・「お父さん、お母さん」と話しかけながら思いきり泣きたい。だからお墓参りするのに、「そこに私はいません」では悲しいです。だから私はこの歌で癒されることがないのです。
でも、独りぼっちになっちゃって、独りぼっちで生きていて、墓参りしていない多くの時間では、「風になっているよ」というのは、もしもそれが「肉体は消えても、いつも両親の魂はそばにいてくれる」という意味ならば癒されます。結局、遺族としての私の悲しいわがままなのでしょう。墓参りに行ったらお墓の中に、墓参りしていないときにはそこの場所に、いつでもどこでも、両親の魂にそばにいて欲しいのです。
いずれにせよ、「千の風になって」には私は違和感を覚えます。日本人の死生観が変わって来たような気もいたします。ただ、繰り返しになりますが、私は誰かにこの自説を押しつける権利はありませんし、逆に、誰も、逆の意見を私に押しつける権利はなく、そんなことはまっぴら御免です。ですから、当日記に対しては「議論」や「意見」の類のコメントである場合にはご遠慮下さるようお願いします。
実証科学の法則は実験・観察で決着がつく限り一つですが(ただし、その代わり、実証科学においては「まだ間違っていない仮説モデル」はあっても「正しい仮説モデル」などというものは無い)、正義だの道徳などというものに属する命題は、「実験・観察事実での反証可能性がない」という意味において、そのどれもが正しいです。故に実証科学とは異なり、ヒトの頭数だけ「正しい」答が存在することになります。答は一つだけど正しい答はない(=単に、実験・観察事実でまだ反証されず、まだ間違っていないだけの)実証科学と、答はヒトの頭数だけ存在するけどそのどれもが正しい「例えば正義や道徳のように、実験・観察事実での反証可能性がない、実証科学の守備範囲外の世界」の二種類の命題が世の中にはあります(実際にはその中間の領域の命題もありますので、相当乱暴に単純化した二分法ですが)。反証可能性がない命題においては、答はヒトの頭数だけあるものなので、誰かが誰かに自説を押しつける権利はありません。だからこそ、「押しつけたくないし、押しつけられたくもない」ので、私の思いに同意は不要ですし、反対意見もご遠慮いただきたい訳です。「ヒトはヒト、自分は自分」という訳です。
紅白歌合戦に話を戻せば、SPEEDが復活していて、大好きな上原多香子が綺麗だなぁ、と思いました。懐かしい歌も多いですね。かつては紅白で昔の歌を歌う歌手に対しては「今の力ではない」として私は批判的だったのですが、両親を失って独りぼっちになってしまって悲しく寂しい私にとっては、このため、昔の歌を聴くと、両親が生きていてくれた頃を思い出せるので、「悲しいけれど、ありがたく嬉しい」です。今では私も、紅白歌合戦に懐メロが登場することに賛成に変わってしまいました。
両親の死を嘆き続けている私は他人の死にも神経過敏に心がシンクロし易くなっているので、今年(二〇〇八年)死んだ緒形拳の写真と、遺作になったドラマの歌・平原綾香の「ノクターン」が流れた時には感情移入して、とても悲しかったです(だから感動できて、良かったです)。
あぁ・・・悲しいなぁ・・・。父も母も、もうこの世にいない。売れ残りの私には新たな家族もいない。この冬は経済不況で家さえ失っている人達さえいる状況下では、暖かな部屋で紅白歌合戦を見ていられるだけでも贅沢なことなので、悲しがっているのはわがままな話なのかもしれませんが、でも、やはり、悲しさと孤独感と寂寥感は深いです。
追伸 家や職を失った方々が、来年は良い状況になって欲しいなぁ、と思います。暖かい家があって、家族がいて、(孤独な私も含めて)みんな来年こそは、もっと良い年になりますように。
追伸 : 家族が欲しいよー!、暖かな家庭が欲しいよー!
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