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2011年08月16日

カセットの音楽をPCで


 
カセットの音楽をPCで残したい!



こんにちは。ベティーです。
青春の思い出が詰まったカセットテープの音楽をパソコンで聴けたらと思ったことはありませんか?
そしてPCでいつまでも残したい。

たとえば、部屋を片付けていたら、学生の頃に録りためたカセットがごっそりと出て来ました。
「あ~、あの時、流行ってた曲だ…」なんて青春時代を懐かしんでしまいますよね。

捨てるにはもったいない。
でも、そうかと言って保存するには、かさばるんですよね。

確かに邪魔だし、でも捨てるのは寂しいし。。。
なにかいい方法ないのかな?

あなただ、そう思うでしょう?
さて、あなたは、どうしますか?
(^_^;) 

やっぱり、泣く泣く処分してしまいますか?

実は、パソコンでカセットテープの音楽を音楽データにする方法があるのですよ。
青春の思い出が詰まったカセットって、捨てられないですよね。
そこで、おすすめなのがカセットの音楽をパソコンに取り込んで保存する方法です。
デジタル音源に変換する機器を使えば意外に簡単なんです。



どうするの。。。?

1) まず、カセットデッキやラジカセなどを用意します。

2) アナログ音源をデジタル音源に変換する「アダプター」を使って、
   カセットの音楽をパソコンに取り込みます。

3) パソコンや携帯音楽プレーヤーに転送して懐かしい音楽を楽しむ。

変換用の「アダプター」は、「オーディオ・インターフェース」(USB接続)を使用すると、ノイズの影響を受けずに取り込めます。
取り込む時の「サウンドソフト」の操作方法などは、次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。

■ 『懐かしいカセットの音楽をパソコンに移す方法』

■ 『「USBオーディオ・インターフェース」をいろいろチェック』

もちろん、無料ですよ。
登録する必要もありません。
読んですぐに使えますよ。

これで、懐かしい音楽が詰まっているカセットテープをあなたのパソコンに取り込むことができますよ。
青春時代に聴いた懐かしい音楽をパソコンで楽しんでくださいね。



Good luck!

バ~♪~イ


あなたが絶対、

見たいと思っていた

面白くて実にためになるリンク





■ 『今すぐに役立つホットな生活情報』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『ブログに記事を書いてお小遣いをもらおう!』

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■ 『脳内漢字馬鹿 (2009年2月21日)』

■ 『他人の不幸は蜜の味 (2009年2月23日)』

■ 『漢字馬鹿の恋 (2009年2月25日)』

■ 『馬鹿のモデル (2009年2月27日)』

■ 『漢字馬鹿さん元気?(2009年3月25日)』




おほほほほ。。。

卑弥子でござ~♪~ますわよ。

くどいようですけれど、

また現れましたわ。

やっぱり、ベティーさん

ぱっかりに任せていると

退屈するのよねぇ~。

それで。。。つい、つい、

出て来てしまうので

ござ~♪~ますわよ。

ええっ、余計な事は言わなくてもいいから、

さっさと言いたいことを言って消えろ!

あららあああぁ~

あなたはそのような厳しいことをあたくしに

言うのでござ~♪~ますか?

いけすかないことォ~♪~

分かりましたわ。

では、今日の一言を。。。

うふふふふ。。。

Motivation is what gets you started.

Habit is what keeps you going.

--- Anonymous (詠み人知らず)




事を起こすにはやる気が必要です。

ひとたび習慣になれば、

それを続ける事ができます。


あたくしは、このように訳しました。

あなたなら、どう訳しますか?

素晴しい訳があったら教えてくださいませ。

では、今日も楽しく元気よく

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあ、バ~♪~イ。





2011年05月22日

ロマン・ロランも理解した(PART 1)

 
ロマン・ロランも理解した(PART 1)





デンマンさん。。。上の写真は花魁(おいらん)の写真ではありませんか?



そうですよ。。。よく分かりましたね?

女性の服装を見ればすぐに判るではありませんか!

うん。。。確かに、そうですよ。

あのォ〜、フランス人のロマン・ロランが日本へやって来て花魁と遊んだことがあるのですか?

いや。。。ロマン・ロランは日本に来たことはないですよ。

それなのに、どうして花魁の写真などを持ち出してきたのですか?

実は、倉田百三の『出家とその弟子』を僕は読んだのですよ。

それってぇ、ずいぶん昔の戯曲でしょう!?

あれっ。。。小百合さんは知っているのですか?

戯曲のタイトルだけは有名だから知っていますわ。 でも読んだことはありません。

僕も読む気はなかったのだけれど、たまたま、「あらすじで読む日本の名著」の中に入っていたのですよ。 その冒頭に倉田百三のことが書いてあったのですよ。


倉田百三 (1891 - 1943)



広島県生まれ。 劇作家・評論家。
旧制一高在学中に西田幾多郎に師事する。
数編のエッセーを発表するが結核を患い退学。
帰郷してキリスト教や仏教を学び、思索に励んだ。
自由な恋愛観と宗教観を描き、作品は世に評価されるに至るが、今度はカリエスで病床に臥す。
その生活の中から戯曲に『俊寛』『布施太子の入山』、感想文集『愛と認識との出発』などを生み出した。

作品の背景

病魔と闘いながらも、26歳のとき(1917年)、この戯曲を発表。
たちまちベストセラーとなり、当時の親鸞ブームを巻き起こし、大正宗教文学流行の機縁をつくった。
その反響は海外にまで及び、英訳を読んだロマン・ロランは「現代世界の宗教作品の最も純真なものの一つである」と評した。
なお、同作品は親鸞の弟子である唯円が書いた『歎異抄』に取材したものである。

(注: 赤字はデンマンが強調)




つまり、英訳を読んだロマン・ロランは「現代世界の宗教作品の最も純真なものの一つである」と評したのでデンマンさんも読む気になったのですか?



その通りですよ。 しかも、僕はかつてマンガの解説書『歎異抄』を読んで親鸞と唯円のことを記事で取り上げたことがあるのですよ。


それ程、極楽浄土が

素晴しいのなら、

なぜ今すぐに逝かないの?




唯円(ゆいえん)、今日のおまえはおかしいぞ。いったいどうしたのじゃ。



こんなことを申し上げると、もしかして聖人さまのお側(そば)におられないかもしれませんが、どうか私の心の内を聞いてくださいませ。

帰ってからではいかんのか?

いえ、意を決した今こそ、お聞きせねば!

よくよくのことじゃな。申してみよ。

私は聖人の教えを信じお念仏しております。救われるはずのない私が救われるわが身をありがたく思っております。しかし、本当にそう信じているなら踊りあがってこの上もない喜びをかみしめることでしょう。なのに私はいつまでたってもそこまでの喜びがわき上がってまいりません。さらには娑婆(しゃば)が無明(むみょう)の世界と知りながら一刻も早くお浄土へ参りたいという心が起こってこないのです!唯円は。。。唯円は。。。聖人のお側におりながら心底(しんそこ)み教えをいただいておりませぬのか?!



もはや私には阿弥陀様のお心が届いておらぬのではと毎日毎日苦しむばかりです。(号泣)

唯円よ。私もそれをいぶかしく思っておったが、そなたも同じ心であったか。

“同じ心”でございますか?

そうじゃよ。唯円よく申してくれた。ありがとうよ。

聖人さま、もったいない!

よくよく考えて見ると躍り上がるほど喜ばねばならぬことを喜ぶことのできないわが身を思うにつけ、いよいよ往生(おうじょう)が定まった身といただけるのう。

なぜでございます?!阿弥陀様のお救いにあずかりながら、それにふさわしい喜びがわいてこないのは本当に救いを求めていないからではありますまいか?

そうじゃな。それはどうしようもない恩知らずで浅ましいことじゃ。

うわぁ。。。やっぱり。。。

ここにも、そういう恩知らずがおるがな。

そんなぁ。。。聖人さまは違いますぅ。

唯円よ、悲しいのう。。。

はっ。。。?

この世におると愛憎の渦に巻き込まれ欲得にふりまわされる。右も左も煩(わずら)わしいことだらけじゃ。

ですから。。。

まあ聞きなさい。お釈迦様はそんなものを捨て去って真実に目覚めなさいとお示しくださった。



ハイ。

しかし、愛憎の中でしか生きていけないのも事実。。。誰も彼もむなしい名利(みょうり)にすがってこの世に執着(しゅうちゃく)しておる。真実、すなわち阿弥陀様のみ光、に背を向け煩悩(ぼんのう)の闇へ闇へと向かっていくのが。。。

凡夫(ぼんぷ)。。。でございますね。

そうじゃ。そのあわれな凡夫を阿弥陀さまは見捨てられたかの?

い。。。いえっ。。。あっ。。。!もしかして私が急いでお浄土にお参りしたいと思わないのは煩悩のせいだとおっしゃるのでしょうか?!

おーっ、さすがじゃ、唯円。尊いみ教えをいただきながら喜べないのは、まさしく煩悩のせいじゃ。じゃが、そんなことはずっとずっと前から阿弥陀様はお見通しじゃよ。。。よいか唯円。その凡夫だからこそ阿弥陀様の救いの目当てなのじゃ!

(ガーーン)。。。阿弥陀様は急いで参りたいとも思わない私のような迷いとまどう者こそ不憫(ふびん)と思うてくださる。。。そうですね。

のう唯円。。。私たち凡夫も娑婆という所も一筋縄(ひとすじなわ)ではいかないのじゃ。愛する者と出会(でお)うたかと思えば別れ。。。今上(こんじょう)の喜びを得たと思うたら、それ以上の苦しみがくる。。。なんとか命ながらえたと思えば老いてゆく。ただ老いるのではないぞ。病にもかかるし税金も払わにゃならん。

ホンマ、つらいですね。

しかし、お浄土は安らかな所じゃ。早く行きたくならんか?

イエ。。。ですから。。。その。。。それでも娑婆に。。。その。。。未練(みれん)が。。。

やっぱり、一筋縄ではいかないのう。。。はっはっはっ。。。

面目ありません。

いやいや。。。そういう者のための阿弥陀様の救いじゃ。おまえのように仕事も一生懸命な者ほどこの世にしがらみは多いじゃろ。

ハァ。。。

私がもし、お念仏の教えをいただいてすぐ「ああ、お浄土はすばらしい!早く参りたい!」と思ったならば、もしかして自分には煩悩はないのだろうかと、かえっていぶかしく思うのではないか。。。のう、唯円。

ハイ!

お念仏の教えをそれこそ何万遍(なんまんべん)も聞かされながら「急いでお浄土に参りたいという気持ちが起こらない」という問いは、一見お念仏をいただいていないように思えるが、お念仏をいただいたからこそ、このような浅ましい本当の自分の姿が見えてきたと思わんか?凡夫と気づいたのは阿弥陀様のみ教えが心に響(ひび)いてきたからじゃないのか。。。どうじゃ?

ああっ。。。

愛憎の煩悩に惑(まど)わされて、いそいでお浄土に参りたいという心が起こらない浅ましい身に気づくならば、その身をなげくより、そんな私を捨てずに救うという阿弥陀様の大悲(だいひ)のたのもしさを仰(あお)ぎ「わが往生は一定(いちじょう)なり」と思いとるがよい。

はい!

ありがたいのう。ナマンダブ、ナマンダブ。唯円よ。名残り惜しくも娑婆と縁がつきたその時こそ、お浄土に共に参らせてもらおうじゃないか。



ありがたいことです。聖人さま、唯円を救っていただきありがとうございます。



なにを言う。私も凡夫じゃ。救ってくださったのは阿弥陀様じゃよ。

【デンマン注: 読み易く句読点を加えてあります。
画像はすべてデンマンの趣味により加えてあります。
赤字はデンマンが強調】




199-211ページ 『漫画 歎異抄』
作: 岡橋徹栄 画: 広中建次
発行: 本願寺出版社
2003年9月30日 第二刷発行

『愛憎と極楽浄土 (2008年10月9日)』に掲載




親鸞と唯円が出てくるのでデンマンさんは読む気になったのですか?



うん。。。そういう事なのだけれど、ロマン・ロランが評した「現代世界の宗教作品の最も純真なものの一つ」とはどういうものなのか? 僕は興味が湧いてきたわけですよ。

ロマン・ロランってぇ、それほど有名な人ですか?

あれっ。。。小百合さんはロマン・ロランの作品を読んでいないのですか?

読んでませんわ。 名前がロマンチックだったので覚えていましたけれど、どのような作品を書いた人なのかも、まったく知りませんわ。 うふふふふふ。。。

そうだったのですか。。。

。。。で、デンマンさんはロマン・ロランの作品を読んだことがあるのですか?

もちろん。。。読んだことはありませんよ。 うししししし。。。

じゃあ、私と同じではありませんか!

まあ。。。そう言う事ですよね。 ロマン・ロランのことを知らずに読んでも面白くないだろうから、調べたことをここに書き出しますよ。


ロマン・ロラン(Romain Rolland)



誕生: 1866年1月29日
死没: 1944年12月30日
代表作 『ジャン・クリストフ』、『ベートーヴェンの生涯』
ノーベル文学賞(1915年度)

ロマン・ロランは、フランスの、理想主義的ヒューマニズム - 平和主義 - 反ファシズムの作家。
戦争反対を世界に叫び続け、国際的に多くの知友を持った。

級友のポール・クローデルと音楽会に通い詰め、1886年(20歳)に2年後れてエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)へ進学し、哲学と歴史を学ぶ傍ら文学・美術・音楽に没頭しピアノをよくした。1887年にはトルストイ『戦争と平和』を読んで、トルストイと文通までしている。
1889年に高師を卒業すると同時に歴史の教授資格試験に合格、1891年までローマのフランス学院へ留学する。そこでドイツの女流作家、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク(Malwida von Meysenbug(1816 - 1903))と知己となり、彼女を介してニーチェやワーグナーに関心を持つと共に、国際関係に目を開いた。

1892年(26歳)に言語学者ミシェル・ブレアルの娘クロチルド(Clotilde)と結婚するが、1901年に離婚。
1894年からアンリ4世高等中学(Lycée Henri-IV)で、翌年からルイ大王高等中学で教鞭をとる。
1895年に『近代叙情劇の起源』と『16世紀イタリア絵画の凋落』とにより文学博士の学位を取得、エコール・ノルマルの芸術史講師となった。
この頃から、戯曲や音楽評論を発表し始める。1902年からは、「社会学大学」(École des hautes étude sociales)で音楽史を担当した。

1903年(33歳)、高等師範学校時代の教え子であるシャルル・ペギーの個人雑誌『半月手帖』(Cahiers de la Quinzaine)に『ベートーヴェンの生涯』を発表。
これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め1912年に脱稿。
同じ頃にヨーロッパ各地を旅行し、シュヴァイツァー、ヴェルハーレン、R.シュトラウス、ツヴァイク、リルケ、シンクレアらと知り合う。
1910年(44歳)にレジオンドヌール勲章を受章、1912年に『ジャン・クリストフ』を脱稿すると、文学に専心すべくソルボンヌを辞しスイスの雑誌に芸術時評を書き始める。
1913年には『ジャン・クリストフ』が『アカデミー・フランセーズ文学大賞』を受賞する。

1914年8月に勃発した第一次世界大戦に対しては、たまたま滞在中のスイスから、仏独両国へ「戦闘中止」を訴える。このことから祖国への反抗と受け取られて帰国できない状態になったが、その反面アルベルト・アインシュタインやヘルマン・ヘッセ、エレン・ケイらと意を通じ合うことになる。
こうした国際的には評価される一方で、母国では好感されぬ傾向は、生涯にわたることになる。
1916年(50歳)に1915年度のノーベル文学賞を受賞。
1917年にロシア革命が勃発すると早くも支持を表明し、レーニンの死やロシア革命10周年に際してはメッセージを送った。
白色テロに反対する『国際赤色救援会』(International Red Aid)にも参加し、『ソ連邦建設科学アカデミー』の名誉会員に選ばれるなど、ソビエト連邦や共産党への共感を鮮明にした。
2度目の妻(1934年に再婚)マリー・クーダチェヴァ(Maria Koudacheva)はロランがモスクワから招いた秘書であり、再婚の翌年には夫妻同道でソ連を訪問し、マクシム・ゴーリキー宅に滞在してスターリンとも会見。

戦後の1919年(53歳)に母親が死去したことから一時パリへ戻り、1921年タゴールを迎えたりしたが、1922年、父および妹マドレーヌと共にスイスのレマン湖東岸ヴィルヌーヴ(Villeneuve))に定住。
1923年に雑誌『ヨーロッパ』(Europe)が創刊した際にはこれを援助し、ロンドンの国際ペンクラブ大会にも出席した。
翌1924年にはマサリク大統領に招かれてプラハを訪れ、ジュネーヴの国際連盟総会に出席。
その一方でムッソリーニの『ファシスト党』の暴行を非難している。
1926年、雑誌『ヨーロッパ』が生誕60年記念号を出した。
タゴールやネルーがロランの許を訪問。
1927年にはアンリ・バルビュスの反ファシズム宣言に賛同者として名を連ね、1932年にアムステルダムの『反戦全世界大会』が挙行されると、バルビュスと共に主導役となっている。

1936年にアラゴン、アンドレ・マルローらの発議、アンドレ・ジッドの司会により、生誕70年の祝賀会がパリで挙行。
レオン・ブルムの第一次人民戦線内閣の後援のもとに『七月十四日』がパリで上演され、ミヨー、オネゲルが曲を付し、ピカソが幕絵を描いた。
1938年(72歳)にスイスからフランスへ帰国し、故郷に近いヴェズレーを終生の住処とする。
ミュンヘン会談における仏英の弱腰に抗議し、1939年にナチス軍がチェコスロバキアへ侵入すると、ダラディエ首相に非難書簡を送っている。

第二次世界大戦が勃発すると、ヴェズレーはナチス占領地域内となり沈黙を強いられるものの、それでも旧友のクローデルが来訪している。1943年から病床に就き、1944年のパリの解放を知り、ソヴィエト大使館の十月革命祝賀会に出席。レジスタンス犠牲者追悼会にメッセージを送り、年末には原稿の校正を終えると永眠した。
故郷クラムシーで葬儀が行われ、近くのブレーヴ(Bréves)の墓地に埋葬された。

日本人との交流

1918年、成瀬正一が、日本人として初めて、ロランを訪れたと言われる。
1925年、高村光太郎、倉田百三、尾崎喜八、片山敏彦、高田博厚らが『ロマン・ロラン友の会』を作り、一部はロランと文通した。
1928年には中村星湖が、1929年には片山敏彦や松尾邦之助が、1930年には片山に連れられた高田博厚が、ヴィルヌーヴのロラン邸を訪ねた。
高田は翌年あらためて招かれ、ガンジーに引き合わされた。塑像作りを頼まれた。

1937年、倉田百三の『出家とその弟子』の仏語訳を松尾邦之助らが出版したときは、ロランが序文を寄せた。
みすず書房第3次全集、第43巻に訳文あり。

1971年、仏文学者の宮本正清が『ロマン・ロラン研究所』を設立し、現在に至っている。

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤字はデンマンが強調。




ノーベル賞をもらっているのですわね。。。それに、名前も日本語だとロマンチックに響くから有名なはずですわね。



たぶんねぇ。。。僕は作品は読んでいないけれど、ロマン・ロランが平和主義、戦争反対を貫いていることには好感を持っていましたよ。

。。。で、1918(大正7)年に戯曲が発表されると、たちまちベストセラーとなり、当時の親鸞ブームを巻き起こし、大正宗教文学流行の機縁をつくったと書いてありますけれど、『出家とその弟子』はどのように始まるのですか?

第一幕は次のように始まるのですよ。


第一幕 日野左衛門の屋敷



左衛門の妻・お兼が息子・松若の正月の晴着を縫っている。 そこに松若が帰宅、書道の帰りに小作の子にいじめられたと嘆く。 お兼は、その原因が父・左衛門の横暴さの仕返しであることに気づき胸を痛めた。

吹雪の中、左衛門が帰宅する。 手酌で酒をチビリチビリ飲みながら、強引に小作の家の集金をしてきたことを話す。 お兼は「あなたは昔はそんな人ではなかった」と諭すが、左衛門は「今までは人がよすぎて騙された。今度は悪人になってしたたかに生きよう」と豪語する。

家の外は吹雪が続いている。 托鉢行脚中の親鸞と弟子の慈円と良寛が、左衛門の家に一夜の宿を請う。 しかし、左衛門は「あいにく私は坊さんが嫌いでしてな」と、かたくなに拒むばかりである。 仕方なく親鸞と弟子たちは戸外で石を枕に眠る。

家の中では、左衛門が夢にうなされている。 お兼が揺り動かすと、恐ろしい不気味な夢を見たという。 酔いも醒め、、ひどいことをしたと恥じた左衛門は、親鸞一行を家に招き入れる。



左衛門: どうそ、上がって下さい。 昨夜は心の中に不思議な力があって、私にそのような所業をさせてしまいました。お許しください。



親鸞: それを業(ごう)の催しというのです。 人間が罪を犯すのは皆その力に強いられているのです。 あなたはむしろ純な人です。 でも外に出されたとき、私の心は怒りと肉体的な苦痛で圧倒されそうでした。

左衛門: あなたのお話はこれまでのお坊さんと違います。 あなたは自分を悪人のようにお話されます。 ご出家、教えてください。 極楽と地獄はほんとうにあるのでしょうか。

親鸞: 私はあると信じています。 私は他の運命を傷つけたとき、、私を鞭打ってくださいと叫びたい気がするのです。 これは私の魂の実感です。 地獄はなければならぬと思いますが、同時にそこから逃れる道がなくてはならぬと思うのです。 その道は愛です。 許しです。 仏様は私たちを悪いままで助けてくださいます。 罪を許してくださいます。

左衛門: 今夜はうれしいです。 何年か私の心を去っていた平和が帰ってきたような気がします。



お兼: ほんとうにそうですわ。……ところで、あなたにはお子様がおありですか。

親鸞:はい、京に残してあります。 (松若に) おいくつにおなりかな。



松若: 十一。

親鸞: よいお子じゃの。 大きく偉くおなりなさいよ。 私は皆様をけっして忘れません。

(注: 写真とイラストはデンマン・ライブラリーから)




58 - 59ページ
『出家とその弟子』 倉田百三・著
「あらすじで読む日本の名著 No.2」
編著者: 小川義男
2003年11月13日 第2刷発行
発行所: (株)樂書館




この戯曲は史実に基づいて書かれたのですか?



いや。。。史実というよりも倉田百三が『歎異抄』を勉強して書いたのですよ。

つまり、ほぼ史実に近いのですわね?

うん。。。そう言えるかもしれないけれど、厳密には創作ですよ。


つまり、実際にあった事と言うよりも、事実がかなり脚色されているということですか?

僕は、そう思いますね。 第二幕以降を見てください。


第二幕 西の洞院御坊

15年後、左衛門の息子・松若は唯円と名を改め親鸞の弟子になっている。 秋の法然上人御法会(ごほうえ)も盛況に終わったあと、唯円が柱に身を寄せ、ぼんやり下の道を見ている。



親鸞: 唯円、そんなところでなにをしている。



唯円: ぼんやり街を通る人を見ていました。

親鸞: ここから世のさまざまな相が見られるな。 私は昔から通行人を見ていると淋しい気がしてな。

唯円: 私もさっきからそのような気がしていました。 今日もひとりでに涙が出てきました。

親鸞: 淋しいのがほんとうだよ。 淋しいときは淋しがるがいい。 運命がおまえを育てているのだよ。 ただ何事も一筋の心で、まじめにやれ。 ひねくれたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。 運命にまっすぐに向かえ。 智慧は運命だけが磨き出すのだ。 (両人しばらく沈黙。 本堂より読経の声が聞こえる)



唯円: お師匠様、あの……恋とはどのようなものでございましょうか。

親鸞: 苦しいものだよ。

唯円: 恋は罪の一つでございましょうか。

親鸞: この世で罪をつくらずに恋をすることはできないのだ。 しかし、だれも一生に一度は恋をするものだ。 人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。 まじめにこの関所にぶつかれば、人間は運命を知る。 愛を知る。 すべての智慧の芽が一時に目ざめる。




第三幕 三条木屋町・松の家の一室



親鸞の息子・善鸞は、その不幸な境遇と諸天の恵みに浴している父への反抗心から身を持ち崩し、黒染めの衣のまま遊郭・松の家に入りびたっている。 唯円は親鸞父子の和解を企てようと遊郭に親鸞を訪ね、慰め、さらに親鸞に会って懇願する。

唯円: あなたの愛にすがって頼みます。 善鸞様を許してあげてください。 善鸞様は淋しいのです。

親鸞: 人生の淋しさは、酒や女で癒されるような浅いものではないからな。 強い人はその淋しさを抱きしめて生きていかねばならぬ。 その淋しさを内容として生活を立てていかねばならぬ。 宗教生活とはそのような生活のことをいうのだ。 耽溺と信心との分かれ道はきわどいところにある。 しかし、私は許しているのだよ。 あの子を裁くものは仏様のほかはないのだ。 私は朝夕あの子のために祈ります。 ああ仏様。 どうそ、あの子を助けてやってくださいませ。




第四幕 黒谷墓地



善鸞に会いに松の家に行った唯円は、遊女かえでと出会い恋に陥ってしまう。 一年後の春の午後、二人は墓地で忍び会っている。



かえで: 私はあなたと付き合っているうち、だんだん娘らしい願いがよみがえってきました。 雨のようにあなたの情けに潤って、私の胸の願い、喜び、いのちが一時に綻(ほころ)びました。 しかし、あなたの玉のような運命を傷つけてはなりません。 私はあきらめます。 楽しい夢の思い出を守って生きてゆきます。 

唯円: 夢ではありません。 私は私たちの恋をなによりも確かに実在にしようと思っているのです。




第五幕 親鸞上人居間



僧たちは唯円に、遊女などを相手にして僧として浅ましいと責め立てる。 その声は親鸞にも届く。

親鸞: おまえたちが唯円を非難するのを聞きながら、私の罪が責められるような気がした。 しかし、裁かずに許されなければいけない。 ちょうどおまえたちが仏様に許していただいているように。 私は唯円のために祈る。 縁あらば二人を結びたまえ。

(注: 写真とイラストはデンマン・ライブラリーから)




59 - 61ページ
『出家とその弟子』 倉田百三・著
「あらすじで読む日本の名著 No.2」
編著者: 小川義男
2003年11月13日 第2刷発行
発行所: (株)樂書館




ここに描かれたことは事実というよりも創作だとデンマンさんは言うのですか?



あのねぇ、ロマン・ロランが「現代世界の宗教作品の最も純真なものの一つ」と言っている事からも明らかなように、“純粋”と言う事は世間的な汚れがないということで、現実には有り得ないと受け取ることもできる。

実際には上のようなことはなかったとデンマンさんは主張するのですか?

あったかもしれないけれど、事実は脚色されていると僕は思いますね。 終わりの第六幕を見るとその事が良く判りますよ。

 (すぐ下のページへ続く)

2011年04月10日

ミッチブーム

 
ミッチブーム




大田区南馬込(まごめ)の三島邸は、女優で演出家の長岡輝子の家から路地をひとつ隔てたところにあった。
陽光に映える三島趣味のヴィクトリア朝コロニアル様式の白亜館が新築されて以来、長岡とは、芝居でのつき合いというよりも、むしろご近所のつき合いがあった。
自決事件(昭和45年11月25日)からしばらくして、長岡は手作りの惣菜を持って三島邸を訪れた。
夜食でもともにして、母親の倭文重(しずえ)夫人を慰めるつもりだった。
「…でもね、由紀夫さんは、自分のなさりたいことはぜんぶ成し遂げて、それこそ藤原道長の歌じゃないけれど、「望月」の本望がかなった方じゃありません?…」
と長岡はたずねた。
すると倭文重は、ややあって、
「今度はじめて、やっとあの子が本当にやりたかったことができたのですから、その意味では、男子の本懐を遂げたことになります。…でも、あの子には、ふたつだけ叶わなかったことがあります。
ひとつは…ノーベル文学賞をもらえなかったことです」
「ノーベル文学賞はおれが取るぞって、意気込んでいらしたからね…」
「それが川端先生に決まったとき、弟の千之(ちあき)に向かって、大声で、くやしい!と叫んでいました。…
それと、もうひとつは、結婚問題です。本命の人と結婚できなかったんです。…お見合いをして、不成立の縁談で、唯一、心残りの方がありました…」
「それは…どなた?…」
倭文重の顔は紅潮していた。
長岡は、ひと言も聞きもらすまいと耳を傾けた。
のちに皇太子妃になられて、時とともにあの子の意中の人として消えがたくなっていったようです。もし、美智子さんと出遭っていなければ、『豊饒の海』は書かなかったでしょうし、自決することもなかったでしょう…」



「でも、どのみち畳の上では死ねなかった方よ。…どこかに死に場所を探されたでしょうけれど…」

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)




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『三島あるいは優雅なる復讐』
2010年8月26日 第1刷発行
著者: 高橋英郎
発行所: 株式会社 飛鳥新社

『アナクロニズム』に掲載
(2011年3月27日)




デンマンさん...どうしてまた亡くなった三島さんのことなど持ち出してきたのですか?



あのねぇ〜、僕は『三島あるいは優雅なる復讐』を読むまで三島さんが若かりし頃、現在の皇后である正田美智子さんと見合いをしていたという事実を知らなかった。

個人的なことですもの知らないのが当たり前ですわ。 私だって知りませんでしたわ。

でもねぇ、三島ファンならば、おそらく知っているだろうと思うのですよ。 小百合さんは三島ファンではないでしょう!?

そうですわね。 私は自決するような人はどうも。。。

うししししし。。。やっぱり、そうですか? 確かに熱烈に応戦している作家があのような事件で死んでもらっては困るからねぇ。 熱烈な三島ファンならば、自分の命のように三島さんの命も大切ですよ。 三島さんが自決したことで、実際、それまでの三島ファンの半分が熱が冷めたと言っていたそうですよ。

あの事件でそれ程変わるものですか?

あのねぇ〜、僕は三島ファンではないけれど、やっぱりあの事件には衝撃を受けましたよ。 愚かだ! 時代錯誤だ! 気が狂ってしまったのかア! 。。。と、いろいろ取りざたされたけれど、僕は雷の直撃を食らったようなショックでしたよ。 愚かだとか?時代錯誤だとか?気が狂ったとか?。。。そう言う以前の、何か。。。動物的な。。。本能的な。。。恐れ、感動、ショックでしたね。

確か。。。デンマンさんが初めて小説を読んだのは三島さんの『潮騒』だったのでしょう?

あれっ。。。小百合さんはよく知ってますねぇ〜。。。

デンマンさんが書いた次の記事を読みましたわ。




恋愛小説だとか、エロい本は身の回りに無かった。そのような本を見た事が無かったですよ。父親の本棚にあった出産の本を見たのが初めての経験でした。だから小説を初めて読んだのは中学3年生の時でしたよ。

何を読んだのですか?

三島由紀夫の『潮騒』ですよ。

本屋さんで買ったのですか?

いや、そうじゃないんですよ。僕は本を買って読むと言う事を知らない。。。。つうかあ、本を買ってまで読む気が無かったのですよ。

それで、どういうわけで『潮騒』を読む気になったのですか?

たまたま隣に座っていた同じクラスの悦子さんが読んでいた。あんまり夢中になって読んでいたものだから、一体どんな事が書いてあるのだろうかと思って、興味に駆られて盗み読みしたのがきっかけだったんですよ。

それで、その悦子さんはデンマンさんが盗み読みしたことに気づいたのですか?

そうなんですよ。気づいたのですよ。

それで。。。。?

そんなに読みたいのならば貸してあげるわ、と言ってくれたのですよ。うれしかったですよ。

それで。。。?

もちろん、あの海辺の小屋でかがり火を焚いて若い二人が裸になる。。。なんと言ってもあの場面が僕の脳裏に残りましたよ。実は、その悦子さんは僕のオナペットだったのですよ。

それで、デンマンさんは、その悦子さんに愛の告白をなさったのですか?

それが出来なかったのですよ。




『エロい文学少女』より
(2007年4月11日)




そうなのですよう。 同じクラスの悦子さんが読んでいた本が『潮騒』だったのですよ。 それを僕はこっそりと盗み読みしたようなわけです。うししししし。。。



やっぱり意中の女の子が読む本は気になりましたか?

いや。。。意中の女の子というよりも、それまでの僕は本などを読んで何が面白いのだろうか? それが小説だということも想像できなかった。 とにかく、何が面白いのか? 悦子さんは何を求めてその本を読んでいるのか? 僕は好奇心に駆られて盗み読みしたのですよ。

。。。で、読んでみて、その面白みがデンマンさんにも判ったのですか?

うん。。。なんとなくと言うか。。。やっぱり男も女も年頃になると性的なことに興味と関心を持ち始めて、性の世界に誘(いざな)われてゆくものなんだと実感しましたよ。

でも、デンマンさんは“性の世界”と言いますけれど、悦子さんには“愛の世界”だったかもしれませんわ。

いや。。。“性の世界”であれ、“愛の世界”であれ、ワクワクするもの。。。秘密めいたものに惹かれたのですよ。。。そう言えば、小百合さんも中学生の時にエマニエル夫人の映画を見たのでしたよね。

このような事になるとデンマンさんの記憶は抜群なのですわね。うふふふふふ。。。



いや。。。小百合さんだけではないですよ。 めれんげさんだって小学生の時に「チャタレー夫人の恋人」を読んでいましたからね。



読書して怒られる





2006/05/11 14:16

子供のころから、
家にはたくさんの本がありました。

わたしは江戸川乱歩の少年探偵団を、
よく読んでいたのですが、
そのうち、飽き足らなくなったのか、
親が持っていた「江戸川乱歩全集」を、
愛読するようになりました。

しかし。
その全集には、
横尾忠則氏の挿絵がついていて、
えっちなんです。
なので、親には読んじゃダメと
言われていました。
(だったら、かくしといてくれ)

わたしはこっそりかくれて、
そのえっちな江戸川乱歩の本を、
読んでいたのでした。
しょっちゅう見つかって、怒られました。

さらに。
印象的なのが
「チャタレイ夫人の恋人」です。
もちろん禁止本です。
禁止されたら、読むに決まってます。

・・・ませガキ。
・・・エロガキ。

by めれんげ




「めれんげの日記」
『だれかつっこみいれて!』より

『エロい文学少女』に掲載
(2007年4月11日)





多分、誰にでも“性の世界”や“愛の世界”を知るようになったという本や映画があるのかもしれませんわね?



僕もそのように思いますよ。

ところでミッチーブームって私は知らないのですけれど、それ程すごかったのですか?

そう言えばミッチーブームの時には小百合さんはまだ生まれていなかったのですよね。 うへへへへへ。。。

そうですわ。 だから、アメリカのミッチ・ミラー合唱団のブームかと思いましたわ。

あのねぇ〜、三島さんも美智子さんと結婚できなくて残念がったように、美智子さんのブームはすごかったのですよう。


ミッチー・ブーム



ミッチー・ブームとは、正田美智子(当時)が1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけて、日本の皇太子・明仁親王(当時)と婚約して結婚することにより生じた社会現象。
民間人である美智子が、皇太子の「テニスコートでの自由恋愛」により結婚に至ったこと、美智子がカトリックのミッション系大学出身者であったことなどをマスメディアが報道し、大きな話題となる。
これを契機にテレビが普及するなど、戦後日本の経済、ファッション、マスメディアなどの領域で、社会に大きな影響を与えた。

第二次世界大戦後、1956年(昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し、景気が上昇していた中で、宮内庁は1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎の長女・美智子を皇太子妃に迎えることを可決したと発表する。
1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業していた美智子は、その年の夏、皇太子と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子は美智子の人柄に惹かれて自ら妃候補にと言及したと報道され、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、財界出身とはいえ初の平民出身皇太子妃として注目の的となった。
昭和天皇は「皇室に新しい血を」という意向だったとされている。
正田家は家柄が違い過ぎるとして当初、固辞の姿勢を見せたが、皇太子の「柳行李一つで来てください」との言葉が決め手となって決心を固めたと報道された。
しかしこの報道は事実ではなく(「ご学友」橋本明の創作)、のち2001年(平成13年)に行われた天皇の記者会見では「このようなことは私は一言も口にしませんでした」と強く否定、プライバシーと尊厳の重要性に言及し、報道のあり方に疑問を投げかけている。

美智子がテニスで着ていた白地のVネックセーターや白い服装、身につけていたヘアバンド、カメオのブローチ、ストール、白の長手袋などのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行し、ヘアバンドはミッチーバンドと名付けられている。
宮内庁で行われた11月27日の婚約記者会見で美智子が「とてもご清潔でご誠実なご立派な方で心からご信頼申し上げ」と皇太子の印象を述べた発言が大きな注目を集め、「ご清潔でご誠実」は、流行語になった。

マスメディアは「昭和のシンデレラ」あるいは「世紀のご成婚」と銘打ち、美智子の生い立ちや、皇太子との交際などを詳報、週刊誌は1956年(昭和31年)の『週刊新潮』創刊をきっかけに、1957年(昭和32年)創刊の『週刊女性』(主婦と生活社)、1958年(昭和33年)の『週刊女性自身』(光文社)、『週刊明星』(集英社)、『週刊大衆』(双葉社)、『週刊実話』などの創刊が相次ぐ「週刊誌ブーム」が起きており、週刊誌・女性週刊誌の報道競争が過熱していた。「ご成婚」は週刊誌メディアにとって格好の題材・素材となって週刊誌の売り上げが伸び、さらに週刊誌記事を通じて皇室情報が一般人に浸透することとなった。

これら社会現象は婚約発表のその年に、美智子の愛称「ミッチー」に由来して「ミッチー・ブーム」と名付けられ、以後、この呼称が社会的に定着。
同年12月1日に日本銀行が一万円券(いわゆる一万円札)を発行、股上が極端に短い新作パンティー「スキャンティー」を発表するなど女性下着ブームの火つけ役となって女性下着の歴史に画期をなしたファッションデザイナー鴨居羊子が『下着ぶんか論 解放された下着とその下着観』を上梓、インスタントラーメンの元祖チキンラーメンが発売され、またロカビリーブームが起こるなど、この年に多くの人々が景気の上昇を実感する時代を迎え、本格的な消費社会の入口にさしかかっていたことが、経済的にミッチー・ブームを支える背景となっていた。
また首都圏広域の電波送信を可能にする東京タワーが12月23日に完成、マスメディアの領域ではテレビ放送時代の幕開けの準備が整う。
このような時代背景の中で、ミッチーブームは、戦後の明るい話題として取り上げられた。

皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀翌1959年(昭和34年)4月10日の、いわゆる結婚式(「結婚の儀」「御成婚」)と、実況生中継されたパレード(ご成婚パレード)で、ミッチー・ブームは頂点に達する。
皇居から渋谷の東宮仮御所までの8.18キロを馬車、あるいはロールス・ロイスのオープンカーが目抜き通りを走るパレード沿道には、53万人の群衆が詰めかけた。

パレードに先立ち、テレビのメーカー各社は競って宣伝を行なったため消費者は実況生中継を見ようとし、テレビの売り上げが急伸、パレードの一週間前に NHK の受信契約数(いわゆる普及率)は、200万台を突破。またテレビ製造メーカー、週刊誌各社は大量消費社会へのテイクオフ(離陸)を果たし、テレビコマーシャルや週刊誌の消費が伸びる契機となった。

日本の経済、ファッション、マスメディアなどの変遷を語る上でエポックとなった空前のミッチー・ブームが起きたちょうどそのころ、日本の経済は岩戸景気に突入し、高度経済成長時代を迎える。
マスメディアはその後も彼女の皇太子妃としての生活(第一子「浩宮」誕生、第二子「礼宮」誕生、子育て)などの様子を頻繁に取り上げ、美智子妃は国民にとっての「象徴」としての役割、すなわちいわば「憧れ」の対象としての地位を確立してゆく。
政治学者の松下圭一は、これら一連の「ミッチー・ブーム」社会現象を切り口にして天皇制を分析した著作「大衆天皇制論」を1959年(昭和34年)に著している。
2005年(平成17年)出版のDVDブック「昭和ニッポン」(第8巻『美智子さまブームと東京タワー』など全24巻)を共同執筆した横浜市立大学助教授の古川隆久は、ミッチー・ブーム前後のメディアの皇室報道を検証して「逆説的ですが、民間人出身の皇太子妃が誕生したことで、国民は皇室との距離を実感してしまったのではないか」と分析している。

(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




皇室が戦後になっても日本人の身近に感じられるようになったのは民間人出身の美智子さんが皇室に入ったからだと僕も思いましたよ。



あらっ。。。デンマンさんも、そう思ったのですか?

あのねぇ〜、実は、僕の親父までが美智子ファンになってしまったのですよ。

マジで。。。?

僕も半分呆れていましたよ。 でも、三島さんまでが美智子さんに消し去りがたい魅力を感じたのだから、僕のオヤジが美智子ファンになっても特別不思議な事ではないとも思いましたね。

あのォ〜。。。、デンマンさんのお父さんってぇ黒豚トンカツを食べた時に、お店の人にも無視されたのでしょう? うふふふふふ。。。

あれっ。。。小百合さんは、そんな事まで知っているのですか?

デンマンさんが次のように話していたではありませんか!




黒豚トンカツが旨いとみえて、あのお店は混んでいたわね。 私が最初にそのお店のドアを開けて入ったのだけれど、お店の人は誰もが忙しそうに立ち働いていて私に気づかなかった様子だったわ。 次にお父ちゃん(僕のオヤジ)がお店に入ったのだけれど、お店の人は相変わらず忙しそうで、お父ちゃんにも気づかないようなのよねぇ。 でも、次にあんた(僕のことです)が入ったと思ったら、お店の奥に居る人も、ウェイトレスも、皆、声を合わせるように「らっしゃい! イラッシャイ いらっしゃい! ラッシャイ!。。。」
まるで、どこかの大旦那が入ってきたように急に態度が変わったのよ! まったくアレッて、どういうのかしら? 私はどこかの、しょうもないバアさんだと思われたらしいわ。 全く無視されたのよ。 まあ。。。私が無視されたのは分かるけれど、小学校の校長先生まで勤め上げたお父ちゃんまでが無視されたのよ。。。
あんたには不思議なオーラがあるみたいなのよねぇ〜。



お袋。。。僻(ひが)むなよ。。。商売人は誰がサイフを持っているかを見極めるカンがあるんだよ! 金を払う人に対して気持ちを込めて「いらっしゃい!」と言うんだよ。



何言ってんのよ! お金を払ったのは私なのよ。




『黒豚トンカツ(2011年3月26日)』より




そうなのですよ。。。こういう事があったのですよ。



つまり、デンマンさんのお父さんは校長先生になったけれど、あまり風采が上がらないようなタイプなのですか?

どちらかと言えば小柄で、見た目がパッとしないような。。。とりわけ人目を惹きつけるようなタイプではなかったですよ。

でも、デンマンさんだって大旦那のように見えるとは。。。私は思いませんけれど。。。うふふふふふ。。。

あのねぇ〜、相対的な問題なのですよう。 黒豚トンカツ屋に入った時に、どちらが財布を出して金を払うか? 当時の親父は退職していた。 僕はカナダからやって来て、いかにも“洋行帰り”と言った感じでしたよ。 どこかしら平均的な日本人とは違って見えたのでしょうね。 お店の人の目にはオヤジよりも僕の方が常連さんになればいいな、と見えたわけですよ。

そんな感じのデンマンさんのお父さんが美智子ファンになられたのですか?

そうなのですよ。 しかも、当時は平教員だった。 美智子さんが書いた詩を基に作曲して、自分の受け持ちのクラスの生徒に歌わせて、それをテープに吹き込んで美智子さんに贈ったという、ちょっと信じられないような事をしたのですよ。

それで美智子さんは受け取ったのですか?

それが、受け取ってテープを聴いたようなのですよう。

どうして、そのような事がデンマンさんに判るのですか?

あのねぇ〜、美智子さんの自筆の手紙ではないけれど、多分、宮内省から派遣されている秘書の方だと思うのですよ。 その人が丁寧にお礼の手紙を書いて僕のオヤジに送ってよこした。 その手紙が僕の実家の床の間に飾られて“これを家宝にするんだ”とオヤジがマジで得意になっていましたよ。

マジで。。。?

僕は大真面目ですよ。 多分、今でも床の間に飾られてると思いますよ。 今度、小百合さんが行田に来た時には僕が見せます。

でも、デンマンさんのお父さんは小学校だけしか出てないのでしょう?

そうですよ。 独学で小学校の教員免許を取った人なのです。

。。。で、音楽も独学だったのですか?

そうなのですよ。 音楽の先生になり手がないので、音楽を取ると先生になり易かった、というような話を直接オヤジから聞いたような覚えがありますよ。

ピアノはどうしたのですか?

先生の免許を取る前に、オヤジは僕の母校でもある行田市立中央小学校の給仕をしていた。 だから講堂にあるピアノを使って独学したのですよ。 そのピアノは僕が小学校に上がった時にもありました。 しかも家に帰ってくると、印刷された鍵盤を畳の上に広げて練習していたそうです。 先生になってからも。。。僕が生まれてからも、家ではよくその印刷された鍵盤の長い紙を広げて練習していました。 僕が2歳か3歳の頃、親父の真似をしてその紙を持ち出しては、同じように指を動かしていたと、お袋が面白そうに話していましたよ。

でも、音が出ないでしょう?

もちろんですよ。 要するに、指の運び方を鍵盤が印刷された長い紙の上で練習していたのですよ。

作曲まで独学ですか?

あとで親父に尋ねたら作曲は、ある先生に師事して勉強したと言ってましたよ。 その作曲家の名前までは思い出せませんが。。。

でも、どうして美智子ファンになったのですか?

あのねぇ〜、親父にとって皇室は悪いイメージだったに違いない。 昭和天皇のために戦争しなければならなかった。 死ぬ目にあったのですよう。 小学校の先生になったけれど、赤紙で召集されて満州に飛ばされましたからね。。。、それから沖縄に転戦したのです。

あの激戦地にですか。。。? よく生きていましたわね?

沖縄本島ではなく宮古島に駐屯させられたので助かったと言ってましたよ。 その時、オヤジが戦死していれば、当然、戦後に僕は生まれなかったのですよ。 宮古島では食料が無くてカタツムリを食べて生き抜いたと言ってましたね。 それだけ苦労させられたのに皇室に対して好感を持っていられたのは、やっぱり民間人の美智子さんが皇室に入ったということが大きな理由なのだと僕には思えましたね。 美智子さんの実家は小百合さんが生まれ育った館林。。。行田とは目と鼻の先ですよ。

そう言われてみるとデンマンさんにもお父さんの血が流れているのが良く分かりましたわ。

ほおォ〜。。。また、どうして。。。?

デンマンさんも独学でピアノを習って意中の人・恵美子さんの前で「乙女の祈り」を弾いて聞かせたと言っていたじゃありませんか!?

あれっ。。。小百合さんは、そんな事まで知っているのですか?

いやですわ。。。次の記事の中でデンマンさんは自慢そうに書いていたではありませんか!

『クラシック興味ある?』

(2006年6月13日)



【卑弥子の独り言】



ですってぇ〜。。。
想い返せば、あたくしも幼い時に母に言われてピアノを勉強させられたのでござ〜♪〜ますわ。
でも、音楽的な才能が無かったのだと思います。
まったく練習に興味がわかなくて、結局投げ出してしまったのですわ。
それ以来、クラシックには全く興味がもてなくなって、
音楽といえばビートルズでござ〜♪〜ましたわ。



“キャ〜 素敵ィ〜♪〜”

あなたはいかがですか?
ピアノを弾いたことがござ〜♪〜ますか?
ええっ。。。あるのォ〜。。。?
仕方なく弾かされたのでしょう!?

とにかく次回も面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。






ィ〜ハァ〜♪〜!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

黒豚トンカツが出てきましたけれど、

あたくしも日本でトンカツをいただいたことがありますわ。

美味しかったですわ。

でも、わたしはポークよりもビーフの方が好きです。

デンマンさんが久しぶりにご馳走してくれると言うので

イングリッシュベイを散歩しながら

シルビアホテルの近くの

イタリア・フランス料理専門レストランへ行きました。









デンマンさんが、何が食べたいの?ときくので、

ちょっとおねだりして仔牛と

フォアグラのローストをリクエストしました。



う〜♪〜ん。 期待していた通りですう。

仔牛は、フランス語で「ヴォー」veau、

英語では「ヴィール」vealですよね。

まだ脂肪が少なくて赤い色も薄い感じです。

特徴は香りやクセがなく、

とても柔らかいのですわ。

その分、バターなどコクのある食材と

あわせる場面が多いようです。

今回は春キャベツで包んだ乳飲仔牛と

フォアグラのローストです。

マルサラ酒とリコッタチーズのソースが

とっても合っていました。

2色のアスパラガスが添えてあって、

落ち着いた感じを与えています。

フレッシュでクセの無い乳飲仔牛に合わせるのは

贅沢にも濃厚なフォアグラですう。

やわらかな春キャベツと季節のアスパラは、

お肉とぴったりと相性が合っていましたよ。

ソースはしっかり目に全体をまとめていました。

普段、口にする機会がないヴィールと

フォアグラなので、とっても期待していました。

デンマンさんが特別に注文してくれた

カクテル「楊貴妃」が、まず出てきました。



わたしが首を長くして待っている間

デンマンさんは楊貴妃の大理石像を見るために

わざわざ中国の西安に行ったときの事を、

いろいろと話してくれました。



料理が出てくるのを待ちながら、

わたしは「楊貴妃」をチビリチビリお口に運びました。

いつものようにデンマンさんは、

かなり詳しい歴史のお話をしてくれましたが、

わたしは半分、上の空で聞いていました。

うふふふふ。。。



次に出てきたのはイタリア料理の

バヴェッティーネでした。

焼穴子、あさりと松茸に、たっぷりの

芽葱(ネギのスプラウト)があしらってありました。

食べた瞬間、京都の老舗(しにせ)で味わうような

上質の和食を連想させる優しい味わいでした。



そして、デザートにはクレームエペスでした。

クレームエペスと言うのは、

フランス・ノルマンディー地方の

生クリームの一種です。

乳酸発酵させた爽やかな

酸味と芳醇なコクが特徴です。

クリーミーなヨーグルトといった感じの味わいですわ。

エペス(epaisse)とはフランス語で

「厚い」「濃い」という意味の形容詞で、

その味わいを表現しています。

なぜか、どこか懐かしいキュートなテイストでしたわ。

フレッシュな巨峰との相性が抜群でした。

お酒を絶対に口にしないデンマンさんが、

その場の雰囲気にすっかり酔ってしまったように、

わたしにちょっとベタベタした一幕もありましたわ。



「ジューンさん、ボーイフレンドと別れてから、

寂しくない?」

「あらっ。。。、どうして別れたことを

ご存知なのですか?」

「僕は地獄耳を持っているからね、

うへへへへ。。。ちょっと、このあと、

僕のマンションに寄らない。。。?」

「ええ。。。そうしたいのですけれど。。。

わたし、明日は仕事で朝が早いのですわ」

「僕が起こしてあげるから。。。うしししし。。。」

「でも、デンマンさんのところには

目覚ましがないから、

わたし、やっぱり自分のマンションに

まっすぐに帰りますわぁ」

デンマンさんはガッカリしていましたわ。

でも、思慮分別のある心の広い方ですから、

キレることもなく、ムカつく事もなく、

私のマンションまでエスコートしてくださいました。

ただし、お休みのキスは、

かな〜♪〜りディープになって長かったのですわ。

あまり長くなるとちょっと問題ですので、

「もうやめて」と言うつもりで、

舌を咬ませてもらいましたわ。

うふふふふ。。。



ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

楽しいですから、ぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』



では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。





2011年03月15日

ルンルン気分で

 
あなたもルンルン気分で…



こんにちは。。。
ジューンです。
いい陽気になってきましたね。
あなたもルンルン気分でネットをやっていますか?



ええっ?
なかなかルンルン気分になれないの?

だったらね、わたしが良いことを教えてあげるわ。

あなたは Windows を使っているでしょう?
10人に9人までが Windows を使っているらしいわよ。
わたしもWindowsを使っています。

そういうわけで、今日はWinodws を使って
ネットでルンルン気分になるお話をしようと思うのですわ。

あなたがWindowsをスタートする時、
電源を入れると短い音楽が鳴りますよね。





このミュージックをあなた好みのルンルン気分にさせるモノに変えるのですわよ。

ええっ?どうやったら代える事が出来るの?

だから、そのお話をしようと思ったわけなのよ。

Windowsを起動すると、短い音楽が鳴ります。
他にも終了時、エラー時、新着メールの通知など、
さまざまな動作で音が鳴るように設定されています。
あなたもご存知でしょう?

どの音も別の音に代える事が出来るのですよ。
ここでは、起動時の音を鳴らないようにしたり、別の音に変更する方法を説明します。
ここでお話しすることはWindows XPの場合です。

では、次の手順に従って代えてくださいね。

1) 「スタート」→「コントロール パネル」をクリックします。

2) 「サウンドとオーディオ デバイス」のアイコンを
   ダブルクリックします。

3) 「サウンド」タブをクリックして、
   「Windows の起動」など設定を
   変更したいイベントとして選択します。

4) イベントの音を変更する場合は、
   プルダウンメニューから任意の音を
   選択します。
   音が鳴らないようにするには、
   「(なし)」を選択します。

5) 再生ボタンを押して、
   どんな音を選択したのか確認します。

6) よければ「OK」をクリックして設定完了です。

どうですか?
簡単でしょう?

イベントの音を選択する際に、「参照」ボタンをクリックして、
プルダウンメニューにない .wav 形式のサウンドファイルを選択することもできますよ。
つまり、あなたが作った音楽を選択することも出来ます。
試しにやってみてくださいね。

ところで話は変わりますが、あなたはブログをやっていますか?
ホムペを持っていますか?
訪問者が少ないと悩んでいませんか?

アクセスアップを考えているならば、ぜひ次の掲示板をのぞいてくださいね。

■ 『アクセスアップのための掲示板』
 


とにかくね、上のリンクをクリックして覗いてみるだけの価値がありますよ。
もちろん、無料です。
登録する必要もありません。
ごゆっくり。。。
では。。。



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『立派な反面教師 (2009年5月29日)』

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『原人ブームと漢字馬鹿 (2009年6月5日)』

『また、オマエか! (2009年7月3日)』

『成りすまし馬鹿 (2009年7月5日)』

『スカンクと宮本武蔵 (2009年7月6日)』

『絶望的な愚か者 (2009年7月7日)』




おほほほほ。。。。

また現れて、

くどいようでござ〜♪〜ますけれど。。。

あたくしは寒さに負けずに、

萌え萌えになって

踊りまくろうと思っているのですわ。

だから、あたくしも愛と生命の躍動のために、

美味しいものをたくさん食べて

エネルギーを蓄えようとしているのでござ〜♪〜ますのよ。

そう言う訳で、食欲は大いにござ〜♪〜ますわよォ〜。



あたくしは柿の葉ずしが大好物なのですわよ。

ええっ?マツタケご飯じゃなかったのかって。。。?

そうなのよ。良く覚えているわねぇ〜。

マツタケご飯も大好物なのよ。

でも、柿の葉ずしも大好物なのよゥ。

あなたも作ってみてね。

ええっ?

良い材料が手に入らないのォ〜?

心配する事は無いのでござ〜♪〜ますのよゥ!

貴方もこうしてネットをやって、

あたくしの記事を読んでいるのですから、

クリックするだけで、

すべての材料が手に入るのですわよ!

産地直送の食材が手に入れたかったら、

ぜひ次のリンクをクリックしてくださいね。

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でも、食べすぎて太らないようにね。。。

ところで、あなたも笑って

ルンルン気分になってみませんか?

そういうサイトがあるのよ。

次のリンクをクリックして覗いてみてね。

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ええっ?どんな面白いことがあるのかって。。。?



どう?この二人が誰だか分かるでしょう?

おほほほほほ。。。

面白いでしょう?

じゃあ、また上のサイトでお会いしましょうね。

貴方、ホントに見てね?

ダメよ!そうやって生返事ばかりして、

この場をうまく誤魔化そうなんてぇ〜

そういうコスイ考え方は、お止めになった方が

良いのでござ〜♪〜ますわよゥ〜。

見てよね。お願いねぇ。

うふふふふふ。。。。

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。






2011年02月12日

夢とロマンの横浜散歩 (PART 1)

 
夢とロマンの横浜散歩(PART 1)







Subj:小百合さん、おはよう!

元気でバレンタインを迎えてね。

きゃはははは。。。


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: 08/02/2011 6:12:12 PM
Pacific Standard Time
日本時間:2月9日(水曜日)午前11時12分
 

小百合さん元気?
今年初めての風邪を引きましたよ。
んもお~~
外に出る機会が多くなると、やっぱり風邪を引きやすくなるんだよね。
去年の12月29日から、ほぼ毎日のようにバンクーバー図書館へ歩いて通っているんだよ。

1月30日の日曜日にも図書館へ行きました。
ロビーが2階にあってエスカレーターの後ろの方に長机に10台ばかりネットに接続可能なパソコンが置いてある。
2階には他に20台ほど同じようなパソコンが配置されている。



7階建ての図書館だから、ネットができるパソコンはすべての階を合わせれば210台ほどになる。
だから、予約しなくても、ぶらりと訪ねて空いているパソコンを見つけるのはそれほど難しい事ではない。

1月30日には長机の片側に5台並んでいる、ちょうど真ん中が空いていたので、そこに座った。
見れば向かい側のパソコンも空いていた。
記事を書き始めたら、そのうち向かい側に大きなカナダ人の女が現れた。



身長が180センチで体重が少なくとも80キロはあるプロレスラーのような女です。
これで長机の10台はすべてふさがれたことになる。

おおおォ~ すっげぇ~ と感心して見ていたら、この女がすごいセキをし始めたのですよう。
体を震わせ、周りの空気も振動させるようなすごいセキです!
僕はモニターに隠れるようにして、この大女のセキをかわしました。

ところが、まったく遠慮のない大女で、立て続けにセキをしまくる!
モニターに隠れるようにしたって、風邪のウィルスはこの女の吐き出した飛沫に乗って長机の周りの空気に浮遊している。
これはヤバイ!

女は1時間ほどネットをやって帰って行ったけれど、僕はさらに1時間続けたから、2時間の間に風邪のウィルスの飛沫を吸い込んだに違いない。

翌日、案の定、喉のあたりが可笑しい。
僕の場合、これまでの風は鼻から来て喉に来るのだけれど、
あの大女の風邪は喉に直接来た。

あの長机に座っていた10人のうち、彼女を除いた9人は、まず間違いなく彼女から風邪を移されたに違いない。
とにかく、タチの悪い風邪を移されましたよ!

僕は薬は一切買わない主義。
もう30年も医者にかかったことがないし薬を飲んだこともない。
栄養のあるものを食べて十分に休養をとる。
これに尽きる!
そう思っているので、風邪退治の食糧を買いに近くのジョーのスーパーマーケットに行きました。
目に付いたのが安売りのMINI Ravioliの缶詰。



425 gram Cdn$1.00
(425グラム カナダ1ドル 日本円で約83円)

MINI Ravioli
Beef Ravioli in
tomato & meat sauce
PRODUCT OF U.S.A.

MINI Ravioli
Ravioli au bœuf en
sauce tomate & viande
PRODUCT DES É-U.A.

(英語・フランス語2ヶ国語表記)



www.chefboyardee.ca

カレーパウダーとガーリックパウダーをたっぷり入れてホットで辛いスープにしようと思い立ったのでした。
もちろん、辛過ぎないように蜂蜜を加えてみました。
そして卵を2つ落として卵とじにしてみました。
これが効きましたよ。

2缶買ってきたので2度作り、4回に分けて食べた。
あの大女のように図書館を揺るがせるような大きなセキはついに出なかった。

充分に睡眠をとっているので、あれから毎日図書館に通っているけれど、回復に向かっています。
喉の辺りがまだすっきりとしないので完治していないけれど、あの大女の酷い風邪は何とか退治できたと思っているのですよう。
きゃははははは。。。



軽井沢タリアセン夫人もタチの悪い風邪にかからないようにルンルン気分でバレンタインデーを迎えてね。
じゃあ、バ~~イ!






デンマンさん。。。風邪を引いたのを向かい側に座ったプロレスラーの女のせいにしていますけれど、薄着で外に出たのではないですか?



いや。。。薄着ではありませんでしたよ。 暖かい格好をして出かけたのですよ。

熱い辛いラヴィオリ・スープ仕立ての玉子とじを食べるのも結構ですけれど、スキーズボンでも買って、暖かくしてお散歩してくださいね。

はい、はい、はい。。。でも、今年はすでに風邪の免疫がついたから、もうタチの悪い風邪にかからないと思いますよ。

そのように過信するのは良くありませんわ。 常に新しいタイプの風邪が出回りますわ。。。で、また夢で横浜を散歩したのですか?

良く分かりますねぇ~。。。



■ 『パリの空の下で』

(2010年12月1日)





Subj:小百合さん、おはよう!

夕べ小百合さんの夢を見ましたよう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: 28/11/2010 5:29:09 PM
Pacific Standard Time
日本時間:11月29日(月)午前10時29分
 



パリの夢を見たと言って記事を書いたでしょう?



小百合さんは良く覚えていますねぇ~。。。

つまり、デンマンさんは記事にするネタに困っているのですわね?

いや。。。決してそう言う訳ではありません。 記事のネタなら数え切れないほど転がっているものですよう。

それで横浜のどこへ行ったのですか?

BankART1929ですよう。 


BankART1929





BankART1929は、横浜市が推進する、歴史的建造物や港湾施設等を文化芸術に活用しながら、都心部再生の起点にしていこうとする文化芸術創造の実験プログラムのひとつである。

BankART(バンカート)は旧第一銀行横浜支店(BankART1929 Yokohama)と旧富士銀行横浜支店(BankART1929 馬車道)ふたつの建物を芸術文化に利用するという意味を込めた造語。
ちなみにその舞台となる旧第一銀行と旧富士銀行の建物はどちらも1929年に建てられた。
世界恐慌の始まったこの年はニューヨーク近代美術館(MOMA)が設立された年。
どちらの建物も古代ローマのトスカナ地方独自の建築物の様式「トスカナ式」でつくられている。
 
2003年3月に実験事業としてスタートし、2006年度からは本格事業へと移行。
旧第一銀行を活用した「BankART 1929 Yokohama」と旧富士銀行横浜支店(BankART1929 馬車道)の二カ所を拠点(スペース)として活動していたが、2004年12月31日に「BankART1929 馬車道」の活用は終了、2009年3月31日に「BankART 1929 Yokohama」の活用は終了。
現在は日本郵船の湾岸倉庫を利用した「BankART Studio NYK」を主な拠点として活動を行っている。

また、2006年7月には主にアーティストインレジデンス機能をもつBankART桜荘がオープンしている(2010年4月30日、活動終了)。

BankART妻有は、2006年の大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレに出品されたBankARTが運営(管理)している農家である。

BankART1929ではアートイベントの企画・運営事業以外にも様々な取り組みを行っている。
範囲はアート、建築、パフォーマンス、音楽、会議他あらゆるジャンルに渡る。
スタジオ、スクール、出版、カフェパブ、ブックショップ、コンテンツ制作をベースにしながら、主催、コーディネート事業等、年間650本以上の事業を活発に行っている。

2ヶ月単位でアーティストに制作スペースを貸し出し、2週間に一度程度の一般公開を行っている「アーティストインスタジオ」や、2ヶ月で8コマを基本単位に各ジャンルの第一線で活躍する人たちを講師に迎えて開催している「BankARTスクール」。

その他、アート関係の本やスクール講師の著作などの芸術書籍を扱うBankARTショップの運営に加え、展覧会の内容を出版事業へと展開したり、横浜の地ビールメーカー「横浜ビール」とBankARTを利用するアーティストのタイアップによるオリジナルブランドの開発も行うなど、コンテンツ制作事業も行っている。
これらの事業の売り上げはBankART1929の運営資金として活用されている。

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




なぜBankART1929なのですか?



ローマに居るような気分を味わったのですよ。 バンクーバー図書館はローマのコロシアムを思い出させる建物ですよう。





分かるでしょう? BankART1929は比較的小さな建物なんだけれど、壮大なバルコニーと4本のトスカナ式の列柱の迫力はコロシアムにも匹敵しますよ。



。。。で、中に入ってみたのですか?

もちろんですよ。







こうして仲良く小百合さんとコーヒーを飲んだのですよ。



中にはコーヒーショップがあるのですか?

いや、ありません。 セルフサービスのコーヒーカウンターがあるだけです。

無料ですか?

もちろん二人で200円のカンパをしましたよう。 うししししし。。。

その後、どこに行かれたのですか?

横浜へ言って山手を見ないでは帰れないので、小百合さんと自家製のケーキを食べようと「えの木てい」へ行ったのですよう。





日に照り映える真っ白い外壁。 赤い洋瓦の屋根。 ワインカラーの軒周り。 窓縁とのコントラスト。 テラスに小百合さんと座りながら自家製ケーキを食べて紅茶を楽しんで僕は満足しましたよう。



デンマンさんは何が何でもロマンチックに演出しないと気がすまないのですわね。

そう思いますか?

ちょっとわざとらしいですわ。

あのねぇ、夢を見る時ぐらい僕の自由にさせてくださいよう。 うしししし。。。 それで、さらにロマンチックに盛り上げようと僕は小百合さんを中区日本大通にある「Alte Liebe(古い恋人)」へ連れて行ったのですよ。







あらっ。。。なんだか素敵なお店ですわね。



そうでしょう?!。。。クラシック音楽を生(なま)で聴けるのですよ。

デンマンさんは、いつからクラシック音楽にハマッタのですか?

いや。。。別にクラシック音楽にハマッタわけではないけれど、たまには小百合さんと格調高く横浜でクラシック音楽を聴きながらディナーを楽しみたいなあああァ、と思ったわけですよ。 うししししし。。。







あらっ。。。マジでクラシック音楽を聴かせるのですか?



もちろんですよ。 室内はウィーンの工房が手がけたというインテリアで占められているのですよう。 なんとなくオーストリアの音楽の都に居るような気分に浸れるのです。 しかも、ヨーロッパから招いた音楽家たちによる生演奏ですよ。

これがデンマンさんの夢のメイン・イヴェントなのですか?

いや。。。違うのですよう。 次の写真を見てください。





あらっ。。。学校のようですわね?



そうです。 山手にある「横浜共立学園」の本校舎ですよ。

どうして学校などを持ち出してきたのですか?

あのねぇ~、この校舎を設計したのが、なんとヴォーリズさんなのですよ。


ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

William Merrell Vories




1880年10月28日 - 1964年5月7日

アメリカのカンザス州レブンワース生まれ。
日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家。
建築家でありながら、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。
そしてまたYMCA活動を通し、また「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事した。
よく「宣教師」と紹介されるが、彼はプロの牧師ではなくキリスト教徒伝道者である。
讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かった。

英語教師として来日後、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。
学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、その種類も様式も多彩である。
1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。
「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落である。

近江商人発祥地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動したことから、「青い目の近江商人」と称された。
また太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。

略歴

1880年 - 米国カンザス州レブンワースで生まれる。

1802年 - この頃から教会の礼拝に出席するようになり、後日、幼児洗礼を受ける。

1900年 - イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始する。
当初は建築家志望でマサチューセッツ工科大学への入学が決定していたが、家庭の経済状況を考えて近くのコロラドカレッジに入学している。

1905年 - 滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日する。

1919年 - 子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。

1920年 - ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立する。

1941年 - 日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称する。

1945年 - マッカーサーと近衛文麿との仲介工作をおこなう。

1951年 - 藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、「失敗者の自叙伝」を「湖畔の声」に連載(1957年まで)。

1957年 - くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入る。

1958年 - 近江八幡市名誉市民第1号に選ばれる。

1961年 - 黄綬褒章を受章(建築業界における功績による)。

1964年 - 近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現ヴォーリズ記念館)2階の自室にて永眠。83歳。近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬が行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)に収められる。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章する。

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。もしかして「睡鳩荘」を設計したヴォーリズさんと同一人物ですか?



そうですよ。 偶然と言えば偶然だけれど。。。偶然と言うには。。。

やっぱり、偶然ですわよう。

小百合さんは冷静に考えすぎるのですよう。。。もう少しロマンチックに考えてみたらどうですか?

私は専業主婦ですから、どうしても毎日の日常茶飯事に追い回されてロマンチックどころではありませんわ。

だから、惰性の日常から自分を見つめ直す意味でも夢を見るのですよう。

デンマンさんのようにですか?

そうです。 うしししし。。。そう言っても小百合さんはすぐに夢を見るわけにも行かないだろうから、小百合さんのために懐かしいメールを持ち出しますよ。 読んでみてください。

 (すぐ下のページへ続く)

2011年02月12日

夢とロマンの横浜散歩 (PART 2)

 
夢とロマンの横浜散歩(PART 2)




う~♪~ん!。。。

読み応えがありましたよう!

小百合さんが軽井沢で

十分に楽しんできたことが

良く分かりますよう。

「私の軽井沢物語」も読んだしね。





投稿日時: 2008/08/22 12:30 (ロンドン時間)
日本時間: 8月22日 午後8時30分
バンクーバー時間: 8月22日 午前4時30分





朝吹 登水子さん の「私の軽井沢物語」は
23年くらい前 に出版だったかな?
私が20歳 ?

地理的、場所の名前、軽井沢を好きでない人にはつまらないかも。
登場人物も 有名な人ではあるけれど昔の人で こんがらがって 読みずらいかもね。

でも 名前をみて ん~ あの人の家系のお祖父さんかも?
とかと想像して 話を頭に入れていきました。

翻訳(フランスの本)をしていたそうですが、そっちは 全然 覗こうと思いません。

本は小説でなく まったく あの方の思い出をそのまま 本にしてあった。
軽井沢はまだ120年ぐらいの歴史です。
その前の武士の時代のちょんまげの所は知ろうと思いません。


(アレキサンダー・クロフト・ショー)


(日本聖公会・ショー記念礼拝堂)

1886年 ショー氏が軽井沢を避暑地として 暮らし始めた明治から 自分なりに 知りつくしたかったのです。
本の中で初めて 聞いた場所 知った事が新鮮で 次の日はその場所に 行ったりと…
楽しかったですよ。





横浜のニュー グランドホテル が軽井沢にあって演奏会や ダンスパーティ が開かれていた。
そんな大昔に 朝吹さんは青春時代を軽井沢で過ごせた。
なんて 幸運な人。

戦争で 大変な食糧難の時も流通の悪い
軽井沢で疎開した不幸な場面も読んだ。


僕も調べてみましたよう。
朝吹 登水子さんがどんな本を書いていたのかと思って。。。
僕は、彼女の本は一冊も読んでないのですよう。
名前は聞いたり見たりしたことはあったのに。。。

もしかすると、知らずにこの人の訳した本を読んでいたかもしれません。
僕はフランス文学にかぶれていた事もありましたから。。。

調べた後『本と映画』のサイトで次の記事を書きました。
読んでみてね。

■ 『私の軽井沢物語 - 朝吹登水子』
   (2008年8月20日)




本を読み終えた日 ちょうど諏訪神社の花火の日
夜8時でなく 夕方はやく 4時ごろ行きました。



仙台の七夕のように ストリートを全部飾った、派手さもなく、隅田川の花火のように 広い河原でみる ワイドな花火でなく、神社の庭 入口 鳥居にかけて 並ぶ 夜店30軒ぐらい。
昔の町のお祭りって感じがした。

諏訪神社は軽井沢の中で 別荘地帯と違う日本的な場所と言ってた 気がする。
それを 確かめたくて4時頃行った。

確かに ケヤキ イチョウ 桜 ブナ科の大木でミズナラ。
言われてみれば 本当だ。
一人では 手で囲えない 3人位かな~。
きっと 樹齢200年もっと?
軽井沢の避暑地が始まる前から そこに立っていたでしょう。


うん、うん、うん。。。
小百合さんって、結構、好奇心が旺盛なんだよねえ~♪~。
中学生のときに『エマニエル夫人』を観たほどだからね。。。



うしししし。。。


でもねぇ、人間って、男も女も、年齢に関係なく好奇心が旺盛じゃないとダメだ!と言うのが僕の持論ですよう。
一生なんて短いものです!
どうせ、この世に生まれたからには、せいぜい広い世界を見て、いろいろな事を経験して満足して死んでゆきたいものです。

そうでないならば、生まれてすぐに死んでしまったのと変わりがないのですよう。

どちらの人生を選ぶか?
決まってますよね。
好奇心旺盛で、さまざまな人と出会い、世界のさまざまな場所で人生を楽しむ。
それこそ人間らしい人生だと僕は信じていますよう!

僕と小百合さんの出会いは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州のバーナビーの“山の家”でした。







もしも、小百合さんが小さな小さな女の子で、
好奇心もなく栃木県の田舎しか知らない女の子だったら、
僕との出会いはなかったのですよね。

そういう意味でも、小百合さんの好奇心と行動力は、実に素晴しいのですよう。
そうです!

小百合さんは朝吹登水子さんに勝るとも劣らないほど素晴しいのですよう!



小百合さん万歳!



夢とロマンの女神、万歳!


そうです!そうですよゥ!

これが偽(いつわ)らざるデンマンの気持ちですう~♪~。






本の事で勉強になった なんて 子供みたいな事
私が言って、
デンマンさんが 「何が?」と検索している
と思いました。 


そうですよう。ずいぶんと調べてみました。








朝吹さんの 別荘を塩沢湖のほとりに移築したそうです。
睡鳩荘(すいきゅうそう)
本にでてくる リビングや イスに会えると
うれしい 気持ちですが…
次回いきます。
長々 ごめんね。


うん、うん、うん。。。そうですか?
小百合さんと一緒に行ってみたいですね。



投稿日時: 2008/08/22 12:51 (ロンドン時間)
日本時間: 8月22日 午後8時51分
バンクーバー時間: 8月22日 午前4時51分




こんなの ブログに引用しなくて いいですよ。
知ってる人は大勢で、
私なんて 知ってる場面 まだまだ・・・・

同年代で軽井沢の本を出してる人います。
びくつきながら 読みました。
自分は軽井沢に居ていいのかな~? と…。


人それぞれですからねぇ~。
他の人と比べる必要はないですよう。

でも、小百合さんを一人の女として見て、
これまでの小百合さんの歩いて来た世界を見れば、
決して他の女性と比べても見劣りがしないのですよう!





『エマニエル夫人』を観てタイのバンコクにも出かけたし、
アメリカにも、そしてカナダにもやって来た。





そして、バーナビーの山の家で僕との出会いがあった!
うしししし。。。


お互いに世界が広がったという意味で素晴しい事ですよう。
小百合さんも、そう思いませんか?

だから、その感激をネットでこうして永遠のものにするのですゥ!
うしししし。。。

誰がなんと言おうが、バカだチョンだ!いいきなものだ!と言われようが
踊った方が楽しいのですよう!



えらいやっちゃ♪、えらいこっちゃ♪、

よいよいよいよいィ~♪~ 

踊るアホ~にィ♪、見るアホ~♪

同じアホなら踊りゃにゃソン損~♪~

えらいやっちゃ♪、えらいこっちゃ♪、

よいよいよいよいィ~♪~ 




そういうわけですから、小百合さんの感想文も引用させてくださいね。



では、今日も一日
暑さにめげずに
元気よくネットサーフィンしてね!








投稿日時: 2008/08/22 23:15 (ロンドン時間)
日本時間: 8月23日 午前7時15分
バンクーバー時間: 8月22日 午後3時15分

『軽井沢物語』より
(2008年8月26日)




小百合さんも日常茶飯事の生活から離れて時には『私の軽井沢物語』を手にしたこともあったのですよう。



そうですわね。。。考えてみたら、最近、いろいろと忙しくって本を読むどころではありませんでしたわ。

そうでしょう?。。。だから、たまには数年前のメールを取り出してきて読むのも無駄ではないですよ。

つまり、この事をデンマンさんは言いたかったのですか?

いや、違うのですよ。 僕はラフカディオ・ハーンのことで小百合さんと話したことを思い出したのですよ。



 
デンマンさんは小泉八雲にハマッてしまったのですか?



最近読んだ本の中では、最も興味深い人物なのですよう。

どういうところが。。。?

日本人の女性と結婚して、しかも日本に帰化した。それも明治29(1896)年1月に帰化したのですよう。。。日清戦争が終わった翌年のことですよ。 外国人が日本に帰化して、現在、日本人の間で知られている人物は、おそらく小泉八雲以外に居ないのではないか? 小百合さんは小泉八雲以外の人物を知っていますか?

いいえ。。。知りませんわ。

当時は人種差別が当たり前のような時代だったから、日本人の女性と正式に結婚するだけでも変わり者と思われていたのに、白人とは文化的にも人種的にも一段も二段も低いと見なされていた日本人が住む日本に帰化するなんて例外中の例外だと思いますよ。

つまり、小泉八雲は仲間から村八分にされてしまったのですか?

実際に仲間から排斥されたわけではないけれど、それ以来、八雲の外国人仲間との交際範囲が急に狭くなったそうですよ。

八雲が、そういう“変人”だから、デンマンさんは逆に興味を持つのですか?

そうですよ。。。僕は人生の半分以上を海外で暮らしてきましたからね。 だから、小泉八雲の気持ちや考え方に共感する部分がかなりありますよう。

たとえば、どんなところですか?

共感するというより、まず感心するのは、当時、日本は西洋文化の全盛時代だったのに小泉八雲は人種差別を越えて、数段低いと見なされていた日本文化を見下すこともなく、日本人以上に日本人になってしまったところがあった。

たとえば。。。?

明治25(1892)年2月12日、八雲はチェンバレン氏に次のような手紙を書いているのですよ。




セツ夫人と

私が次のように申しあげるのをお聞きになったら、貴男はさぞ、ぞっとなさるでしょう。 つまり私には洗練された音楽的感覚というものが全然ないので、ワーグナーや知的な音楽を楽しみことが出来ないということです。 音楽的感覚というものは、勉強と機会によって徐々に習得されねばならないと聞いております。 これだけ申しあげてしまったのですから、もう少し申しあげましょう。

私は、日本人のプロの音楽、即ち、声楽を好きになれないのです。 私は、農民の震える声が、時々奇妙に絶叫するかのように破裂し、各所で途切れてメロディが小間切れになる、あの長く尾を引く哀調が好きなんです。 私は、これら歌の中には、非常に美しい、蝉や野鳥の歌さながらに、自然に思われる強烈なものを感じます。

(中略)

農民の歌には、庶民の心が感じられますが軍歌にはそれがありません。




232 - 233ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社




この手紙に、八雲が日本人以上に日本人になってしまったところがあるのですか?



だってぇ、そうでしょう。。。とにかく明治時代になると文明開化で、日本的なものが見捨てられて、何でもかんでも西洋的なものを貴重なものとして受け入れていたのですよう。 チョンマゲは切るし、刀は駄目だということになり、猫もミーちゃんハーちゃんも西洋的なものを真似して着るようになった。 鹿鳴館などは、その最たるものですよう。 いわゆる日本の上流社会の人たちがドレスや燕尾服を着て社交ダンスを踊ったりした。 イギリスの大衆新聞などでは、日本人が猿真似していると馬鹿にしていた。

つまり、そのような西洋志向な風潮の中で八雲が農民の間で歌われている民謡に、素晴らしいものを感じていることに、デンマンさんは感動したのですか?

そうですよう。 日本人が日本の伝統的なものを捨てて、何でもかんでも西洋的なものを真似しようとしているときに、八雲は日本の素晴らしいものを見い出していた。

それは、外国人にとって日本の風物や伝統的なものが珍しいと思える程度のことではないのですか?

あのねぇ~、確かに外国人にとって日本の浮世絵とか民謡などは珍しいでしょう。 でもねぇ、同じ外人でも、たいていの人はチェンバレン氏のように考えていたようです。 彼は次のように書いてるのですよう。


もしミューズィックという美しい言葉を、東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げることまで意味するほど低下させて用いなければならぬとするならば、日本には神話時代から音楽が存在したと考えてもよい。

 (中略)

日本はいつの日にか、新しい第九交響曲を持って世界の人たちを魅了することがあるであろうか。 それとも、ただ俗悪な歌曲に沈溺して終わるであろうか。 著者はここに大胆な予想をするつもりはないが、期待されるところはきわめて少ないといわざるをえない。 イタリアの洗練された享楽主義も、ドイツ人の心からの誠実さも、スラヴ人の元気にあふれた感激性も、この国の人々の魂には根をおろそうとは思われないのである。




233ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社




要するに、東洋音楽は、雑音以外の何ものでもない。 日本人には高尚な音楽は無縁だと言っているのです。



つまり、日本の音楽を理解する点でも八雲は例外中の例外だったとデンマンさんは信じているのですか?

そうですよう。 とにかく、たいていの外人が、日本の文化や日本人の知的レベルが西洋人、西洋文化と比べると数段低いと見下していたのですよう。

でも、文明開化で、西洋文化を吸収し、西洋に追いついて追い越せという日本人の熱意があったから、日本は昭和時代になって西洋社会と肩を並べて、やがて経済大国にもなったのでしょう?

そうです。。。僕が言いたいことは、日本には伝統的なものでも素晴らしいものがあった。 それにもかかわらず、西洋文化なら、何でも素晴らしいと思い込んで、日本的なものを何でも捨てて、西洋的なものを貪欲に吸収した。

でも、浮世絵などは、フランス人の画家などによって見出されたでしょう?

確かに、そうです。 でもねぇ、それは例外ですよう。 日本の音楽などは、チェンバレン氏が書いているように、楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げたりする俗悪なものと考えられて、まったく無視されたようなものですよう。

だけど、民族的な音楽は特に理解するのが難しいのではありませんか?




『ミューズィック』より
(2011年1月8日)




どうしてまた、小泉八雲のことなどを思い出したのですか?



あのねぇ~、小泉八雲以外の帰化人で日本語の名前を持っている人が僕の記憶から脱落していたのですよう。 そう言う時にヴォーリズさんに出くわした。

日本国籍を取得して、ヴォーリズさんは一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名したのですわね。

そうなのですよ。 僕はまったく知りませんでした。

私もヴォーリズさんに一柳米来留という日本名があるということを知りませんでしたわ。

米来留(めれる)という名前は「米国より来(きた)りて留(とど)まる」という洒落だというのですから、ヴォーリズさんはユーモアのある楽しい人だったのでしょうね。

つまり、その事が言いたかったのですか?

違いますよう。

いったい何が言いたいのですか?

あのねぇ~、僕と小百合さんはヴォーリズさんが設計した「睡鳩荘」へ足を運んだのですよう。 しかも、その「睡鳩荘」は軽井沢タリアセンに移築された後だった。

だから。。。?

小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」としてブログにデヴューした記念すべきイヴェントだったのですよう。 つまり、横浜の山手にも、軽井沢にもヴォーリズさんの作品が残っていることは単なる偶然ではないのですよう。 実は、小百合さんと僕をそのような形で引き合わせてくれたのですよう。

それはコジツケですわ。

いや。。。違います。。。ロマンですよう。 うししししし。。。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
こじつけですわよう!
あなただって、そう思うでしょう?

ところで、「睡鳩荘」が気に入っていたという朝吹登水子さんは、女子学習院を中退ののち、1936年にフランスに渡り、ブッフェモン女学校、パリ大学ソルボンヌに学んでいます。
それに、2度目のご主人はフランス人です。

朝吹さんは外国の大使や公使の方々とも、対等にお付き合いができるように頑張ったようでござ~♪~ますわ。
おそらく、他の華族のお嬢様方たちには真似のできなかった事だったのかもしれません。
そう言う点で朝吹さんが劣等感を克服したとも考えられます。

その総決算として晩年に、自伝三部作を書き上げたのかもしれませんわ。
でも、上流階級に育った、その生い立ちに憧れを抱く者もあったけれど反感も抱かれた、と書かれています。
なぜなのでしょうか?

とにかく、面白いお話が続きそうですわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。



 
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■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』



■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に別荘を持つことを

夢見る小百合さんの物語』


■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

 『あなたもワクワクする新世代のブログ』



■ 『バンクーバーの寒中水泳』




こんにちは。ジューンです。

どこの国にも“上流社会”と言うものが存在するようです。

昔は貴族とか華族と言われた人たちが居ましたが、

最近ではほとんどの社会で、

そのような制度はなくなりました。

それに変わって登場したのが

“セレブ”だとか“ハイソサイエティー”でしょうか?

つまり、有名人だとかお金持ちの集まりです。

でも、果たして、それが上流社会と言えるのでしょうか?

あなたは、どう思いますか?


 
ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

暑さを笑って吹き飛ばしたかったら

ぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』



では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。





2011年01月08日

ミューズィック (PART 1)

 
 
ミューズィック(PART 1)

  

 
 




Subj:小百合さん、おはよう!

夕べ小百合さんの夢を見ましたよう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: 28/11/2010 5:29:09 PM
Pacific Standard Time
日本時間:11月29日(月)午前10時29分
 
 


パリのセーヌ川の右岸を小百合さんと一緒に歩いているのです。
空は抜けるように青くて
どこからともなくイヴ・モンタンの歌う「枯れ葉」が聞こえてくるのですよう。
もう、僕は感激ですよう!



「シャンソン - 枯葉」

ロマンチックでもあり、またメランコリックでもあり、
何とも言えなく いいですよねぇ~。

僕は、当然、小百合さんの腰に手を回すのですよう。
うししししし。。。

「デンマンさん!くすぐったいから、お尻に手を当てないでねぇ~」
小百合さんは、半分白けたように僕を見つめて、そう言うのですよう。
でも、僕は何と言われようと、もう、うれしくて、うれしくて仕方がないのですよう。
パリのセーヌ川のプロムナードを小百合さんと一緒に散歩しているのですからねぇ。
これ以上のロマンはないのではないかと、僕はもうウキウキ、ドキドキ、ウハウハしているのです。
きゃはははは。。。

夢を見ているのに、僕自身はマジで現実のつもりなのですよう。
夢を見ているなんて、僕自身は少しも思っていない!
そのくせ、夢の中で、「これは夢じゃないの!?」
そう思っているのだから、今から思い出すと、しまりのない夢でしたよう。

「小百合さん、せっかくパリにやって来たのだから、この辺で Hよりも感じるハグをしませんか?」
僕が、そう言うと、小百合さんはニッコリするのだけれど、僕が抱きしめようとすると、するりと僕の腕から抜け出てしまうのですよう。
「小百合さん。。。そのように恥ずかしがらなくてもいいではありませんか? 僕も小百合さんもパリに居るのですから。。。さあ、記念に心を込めてハグしましょうね」
僕がそう言うと、小百合さんは、ちょっとムカついて言うのですよう。

「デンマンさん! 日本人の団体の観光客の人たちがジロジロ見てるわ。 ほら、あそこ。。。だから、おやめになってぇ~」
小百合さんの指差す方を見ると、旗を振っている添乗員の後を、山梨県の山奥の方からやって来た、団体のおじさん、おばさんたちが、僕と小百合さんを確かにジロジロ見てるのですよう。

やっぱり、パリも日本人の観光客の人たちで、ごった返しているのですよう。うもお~~。

「あらっ。。。デンマンさん。。。こんな所にインドカレーのお店がありますわ」
小百合さんが、そう言ったので指差す方を見ると、なんと、利根川を渡った所にある千代田町の本場のインドカレーの店があるではないですか!
小百合さんは、パリでも本場のインドカレーが食べられると、大喜びで店の中に入ってしまいました。



パリに来てまでインドカレーはねえだろう!?

僕は、カレーを食べ飽きているので心の中で、そう叫びましたよう。
でも、小百合さんが店の中に入ってしまったので、僕が一人で外に居るのもバカバカしいので、仕方なく入りましたよう。
そしたら、なんと千代田町のあの店に居たナナさんが居るではありませんか!
ナナさんは、インド生まれインド育ちなのに、日本語がうまいのですよう。
小百合さんと楽しそうに再会を喜び合っているではありませんか!

「ナナさん、いつパリに支店を出したの?」
「あらっ。。。デンマンさんもパリにやって来たのですか? パリのこのお店が本店で、日本の千代田町にあるお店の方が支店なのですわよう」
相変わらず愛嬌があって、ニコニコと笑顔を振りまいている様子は、インドの「愛の女神」かと思うほど、彼女の愛の精神が伝わってきますよう。

「デンマンさん。。。あの時は“激辛”を食べたのに、あまり辛くはないと言ってましたよね。 だから、今日は“超激辛”を食べてみてくださいな」
もう、こうなったら、“超激辛”でも、“めちゃ超激辛”でも、ナナさんの薦める物を何でも食べようと思いました。

その時、近くのテーブルで食べている女性二人が楽しそうに笑いながら僕を見ているのに気づいたのですよう。
なんと、ブルックリンのマリアさんと、カナダのマルサの女・ナンシーさんですよう。
いくらなんでも、これはできすぎているよ!

パリに千代田町のインドカレーの店があり、
しかも、ナナさんが居るのは偶然としても、
こともあろうに、ブルックリンのマリアさんが居るのは偶然にしてはできすぎている。
さらに、小百合さんがパリにやって来たのをかぎつけて、カナダのマルサの女・ナンシーさんまでがパリにやって来たなんて、絶対に信じられない。

「小百合さん。。。これは絶対に夢だよう! 夢か現実か?見極めるために、ちょっと僕のほっぺたをつねってみてよ」
僕は小百合さんに向かって、そう言ったのです。
「分かりましたわ」 小百合さんは、そう言うと思いっきり僕のほっぺたをつねったのですよう。んもお~~。。。
その痛さで目が覚めたと言う訳です。
うしししし。。。

考えてみたら、小百合さんにメールを書いてまで話すような夢ではなかったですよね。(爆笑)

でも、夢の中で小百合さんに会えてうれしかったですよう。
小百合さんも、軽井沢タリアセン夫人になりきって、たまには僕の夢でも見てね。
きゃはははは。。。

じゃあねぇ。
 





『パリの空の下で (2010年12月1日)』より




デンマンさん。。。去年のメールなどを持ち出してきて、何を始めるつもりなのですか?



あのねぇ~、たまたま上のメールを読んだのですよう。 急に懐かしくなってね。

懐かしくなったも何も、まだ1ヶ月ほど前のメールではありませんか!?

そうですよう。 でもねぇ、『小泉八雲と日本』を読んでいたら、偶然と言うには、ちょっと不思議なのだけれど、やっぱり音楽のことが出てきたのですよう。

それは、不思議でも何でもなくて、ただの偶然ですわ。

小百合さんは、まったく夢もロマンもないような味気ないことを言うのですね。

だってぇ~、夢のような事を書いてメールを寄越すのですもの。。。ちょっとうんざりしたというか、げっそりしましたわ。

そんな事はないでしょう。。。面白かったでしょう?

別に、それほど面白いとは思いませんでしたわ。 夢の話など、本人以外は、さして面白くないものですわ。。。それで、見慣れない『ミューズィック』などというタイトルを貼り付けて、デンマンさんは一体何を始めるのですか?

あのねぇ、すでに書いたように、最近、僕は『小泉八雲と日本』を読んでいるのですよ。





上のリストの中のどの本ですか?



13番ですよう。

でも、もうずいぶん前のリストですわ。

僕は、また借りてきたのですよう。

確かに、近頃、デンマンさんの記事の中に、その本からの引用が多いですわね。 デンマンさんは小泉八雲にハマッてしまったのですか?

最近読んだ本の中では、最も興味深い人物なのですよう。

どういうところが。。。?

日本人の女性と結婚して、しかも日本に帰化した。それも明治29(1896)年1月に帰化したのですよう。。。日清戦争が終わった翌年のことですよ。 外国人が日本に帰化して、現在、日本人の間で知られている人物は、おそらく小泉八雲以外に居ないのではないか? 小百合さんは小泉八雲以外の人物を知っていますか?

いいえ。。。知りませんわ。

当時は人種差別が当たり前のような時代だったから、日本人の女性と正式に結婚するだけでも変わり者と思われていたのに、白人とは文化的にも人種的にも一段も二段も低いと見なされていた日本人が住む日本に帰化するなんて例外中の例外だと思いますよ。

つまり、小泉八雲は仲間から村八分にされてしまったのですか?

実際に仲間から排斥されたわけではないけれど、それ以来、八雲の外国人仲間との交際範囲が急に狭くなったそうですよ。

八雲が、そういう“変人”だから、デンマンさんは逆に興味を持つのですか?

そうですよ。。。僕は人生の半分以上を海外で暮らしてきましたからね。 だから、小泉八雲の気持ちや考え方に共感する部分がかなりありますよう。

たとえば、どんなところですか?

共感するというより、まず感心するのは、当時、日本は西洋文化の全盛時代だったのに小泉八雲は人種差別を越えて、数段低いと見なされていた日本文化を見下すこともなく、日本人以上に日本人になってしまったところがあった。

たとえば。。。?

明治25(1892)年2月12日、八雲はチェンバレン氏に次のような手紙を書いているのですよ。


私が次のように申しあげるのをお聞きになったら、貴男はさぞ、ぞっとなさるでしょう。 つまり私には洗練された音楽的感覚というものが全然ないので、ワーグナーや知的な音楽を楽しみことが出来ないということです。 音楽的感覚というものは、勉強と機会によって徐々に習得されねばならないと聞いております。 これだけ申しあげてしまったのですから、もう少し申しあげましょう。

私は、日本人のプロの音楽、即ち、声楽を好きになれないのです。 私は、農民の震える声が、時々奇妙に絶叫するかのように破裂し、各所で途切れてメロディが小間切れになる、あの長く尾を引く哀調が好きなんです。 私は、これら歌の中には、非常に美しい、蝉や野鳥の歌さながらに、自然に思われる強烈なものを感じます。

(中略)

農民の歌には、庶民の心が感じられますが軍歌にはそれがありません。




232 - 233ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社




この手紙に、八雲が日本人以上に日本人になってしまったところがあるのですか?



だってぇ、そうでしょう。。。とにかく明治時代になると文明開化で、日本的なものが見捨てられて、何でもかんでも西洋的なものを貴重なものとして受け入れていたのですよう。 チョンマゲは切るし、刀は駄目だということになり、猫もミーちゃんハーちゃんも西洋的なものを真似して着るようになった。 鹿鳴館などは、その最たるものですよう。 いわゆる日本の上流社会の人たちがドレスや燕尾服を着て社交ダンスを踊ったりした。 イギリスの大衆新聞などでは、日本人が猿真似していると馬鹿にしていた。

つまり、そのような西洋志向な風潮の中で八雲が農民の間で歌われている民謡に、素晴らしいものを感じていることに、デンマンさんは感動したのですか?

そうですよう。 日本人が日本の伝統的なものを捨てて、何でもかんでも西洋的なものを真似しようとしているときに、八雲は日本の素晴らしいものを見い出していた。

それは、外国人にとって日本の風物や伝統的なものが珍しいと思える程度のことではないのですか?

あのねぇ~、確かに外国人にとって日本の浮世絵とか民謡などは珍しいでしょう。 でもねぇ、同じ外人でも、たいていの人はチェンバレン氏のように考えていたようです。 彼は次のように書いてるのですよう。


もしミューズィックという美しい言葉を、東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げることまで意味するほど低下させて用いなければならぬとするならば、日本には神話時代から音楽が存在したと考えてもよい。

 (中略)

日本はいつの日にか、新しい第九交響曲を持って世界の人たちを魅了することがあるであろうか。 それとも、ただ俗悪な歌曲に沈溺して終わるであろうか。 著者はここに大胆な予想をするつもりはないが、期待されるところはきわめて少ないといわざるをえない。 イタリアの洗練された享楽主義も、ドイツ人の心からの誠実さも、スラヴ人の元気にあふれた感激性も、この国の人々の魂には根をおろそうとは思われないのである。




233ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社




要するに、東洋音楽は、雑音以外の何ものでもない。 日本人には高尚な音楽は無縁だと言っているのです。



つまり、日本の音楽を理解する点でも八雲は例外中の例外だったとデンマンさんは信じているのですか?

そうですよう。 とにかく、たいていの外人が、日本の文化や日本人の知的レベルが西洋人、西洋文化と比べると数段低いと見下していたのですよう。

でも、文明開化で、西洋文化を吸収し、西洋に追いついて追い越せという日本人の熱意があったから、日本は昭和時代になって西洋社会と肩を並べて、やがて経済大国にもなったのでしょう?

そうです。。。僕が言いたいことは、日本には伝統的なものでも素晴らしいものがあった。 それにもかかわらず、西洋文化なら、何でも素晴らしいと思い込んで、日本的なものを何でも捨てて、西洋的なものを貪欲に吸収した。

でも、浮世絵などは、フランス人の画家などによって見出されたでしょう?

確かに、そうです。 でもねぇ、それは例外ですよう。 日本の音楽などは、チェンバレン氏が書いているように、楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げたりする俗悪なものと考えられて、まったく無視されたようなものですよう。

だけど、民族的な音楽は特に理解するのが難しいのではありませんか?

うん、うん、うん。。。民族に特有な音楽。。。たとえば民謡などがありますよう。。。民謡の良さを日本人のように聞いて理解するのは難しいでしょうね。。。音楽は世界共通の言葉などではないと、かつて太田将宏さんも書いていました。


音楽は、世界共通の言語か?



音楽は、けっして、世界共通の言語などではない。
異なる時代にも亘る言語ですらなかった。
それでは、ヨーロッパ音楽の伝統とは、そもそも、いったい何であったのだろうか。

小澤征爾が言っていたことであるが、彼が若い頃、東洋人がヨーロッパの音楽をする意味、可能性について問われたとき
(そういうことを聞く田舎者が
 世界のどこにもいるものである。)、
音楽は、世界の共通の言語であるからと、
(当たり障り無く)返事をしていたところが、近頃では、
何か自分が壮大な実験をしているのではないか、と思うようになってきたそうである。

壮大な実験、これは、彼だけのことではないであろう。
ようやく我々が西洋音楽を扱うことに関して
欧米(を超える)水準に達した今日の、この倦怠は何であろう。
かといっても、我々が邦楽に戻るなどとは、
一般的にいって、非現実的であり、できない相談である。
バスク語を話せ、と言われた方が、まだしも抵抗が少ないのではないか。

(中略)

いつだったか、小澤征爾と H.V.Karajanの指揮する M.Ravel の “Bolero” を聞き比べたことがあった。
小澤の演奏は、英語で言う too square であったが、Karajanのそれは、なんとも sexyで妖艶ですらあった。
フランス人でもないのに。
やはり、小澤のような指揮者でさえ日本人では及びがたいところが今なおある。

(中略)

わたしは、何々至上主義、といったものが嫌いである。
例えば、恋愛至上主義。
大体、恋愛感情などというものは、ある年頃の男女が肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか。
そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。
長い間、生活を共にしていて、まだ互いにsexualityを感じたとしたならば、それは近親相姦に近くはないか。

J.S.Bach は、
前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、
私はここを書いていて、少し、困っているが。

芸術至上主義も同じ。
人生は芸術を演出する時空ではない。

(注: イラストはデンマンが貼り付けました。改行を加えて読みやすくしてあります。)




pages 5 & 6
『間奏曲集 (主題なき変奏) その2』 
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年6月




『お願い、骨まで愛して』に掲載
(2006年10月15日)




でもねぇ、すべての人々とは言わないけれど、八雲のような、ある一部の人にとっては、民族特有の民謡といえども理解できるのですよう。



どうして、デンマンさんに、それが分かるのですか?

あのねぇ~、僕は音楽が専門ではない。 また、音楽は好きだけれど、クラシックは苦手ですよう。 さらに、八雲のように洗練された音楽的感覚というものがないので、ワーグナーやほとんどのクラシックを素直に楽しむことが出来ないのですよう。 でもねぇ、次の文章を読むと八雲が日本の民謡を理解できる素養や感性があったことが、僕にも理解できるのですよう。


神戸で、盲目の門(かど)つけが八雲邸で三味線を弾きながら唄を歌うが、その時に、

「醜い不恰好(ぶかっこう)の唇から奇蹟のような声、即ち、心にしみ通るような甘さをもった若く、深味のある、名状しがたいほどの感動を与える声が、さざ波を打って迸(ほとばし)り出た。一見物人は、『女か、それとも森の妖精か』とたずねた。 だが彼女は、ただの女だ。 恐らく西洋の音譜には書かれていない、非常に細かい節(ふし)で、セミや藪(やぶ)うぐいすから習った声で歌った。 そして彼女が歌っていると、聞いている人々は黙って泣きはじめた。 私には言葉の意味は、はっきり分からなかった。 だが私は、日本の生活の悲しみや、苦しみが彼女の声とともに私の心の中に入り込んでくるのを感じた。 それは決してこの世にはない何物かを悲し気に求めているものであった」

と述べて、名もなき流しの唄歌いの旋律に、人間自然の原点とも言うべき真・美を見出している。

民俗音楽については、八雲はチェンバレンより一歩先を歩いていた。 在米当時、既にこの道のエキスパートであった。 音楽評論家クレイビールと一緒に、世界の民族音楽を収集したり、西インド諸島でも採集した民謡を、『西インド諸島の2年間』に掲載している。 ニューオリンズ万博時、出版した案内書にも、クレオールのリトル・ソングが書かれている。

 (中略)

またチェンバレンは、八雲が文中に日本語の感嘆詞「アラッ」や、擬声語の「ピチャ、ピチャ」、その他日本人の生活感覚を表現する言葉「甚よ、甚よ!こっちへ来い こっちへ来い」 「あのね!卵はありませんか」などを、ローマ字化することに批判的だったが、これはハーンが日本語でなければ日本人の感覚が伝わらぬものとして使ったものだった。 かくて対立は年の経過と共に深まる。




234 - 235ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社




つまり、デンマンさんにも八雲のように民謡を理解できる素養や感性があると、言いたいのですか?



うしししし。。。小百合さんが僕の言いたいことを言ってくれましたよ。 そうですよう。 僕はかつて記事の中で次のように書いたことがあるのですよう。




クラシックというのは当然の事ですが大衆音楽ではないですよね。
では大衆音楽というのはどのようなものなのか?
まず民謡があげられるでしょうね。

つまり文字通り英語で訳せば“folk song”ということになりますよね。
“民の歌”です。

でも、“歌”と“謡”の違いとは?
歌はあなたにも分かりきっていますよね。
歌謡曲の“歌”です。
でも、この“歌謡曲”の中にも“謡”が含まれています。

この“謡”とはいったい何なのか?
実は僕も詳しく知りません。
“謡”と聞いて、すぐに連想したのがテレビの大河ドラマで見たシーンです。

織田信長が桶狭間の合戦に出陣する前に、
例の“人間~♪~五十年~♪~。。。”と歌いだして踊るあの謡曲のことでした。
これを歌い終わるや、死を覚悟して奇襲に望むというものでした。
現在の我々には、あまり縁のない、あの唸(うな)るように歌う謡曲です。

ちょっとネットで調べたら次のように説明されていました。


謡とは。。。
歌舞劇である「能」のセリフとコーラス部分を独自の節に合わせて歌うもので、古くから稽古事として人気を博しています。




『1から始める謡』より


つまり、「能」のセリフとコーラス部分を独自の節に合わせて歌うものの事です。

つまり民謡とは、民話や当時の事件や出来事を物語風にして独自の節に合わせて歌うもののようです。

では、クラシックとは何だろう?

ここで、太田将宏さんの本から引用します。


そもそも、昔は、作曲された音楽はorder-madeであったのだ。
それが不特定多数の市民が対象とされるようになって、音楽はprêt à porterとなった。
作曲と演奏が分離、分業になったのは、このころではなかったか。
その方が生産、販売共に効率が良かったのであろう。

現代では、音楽は大量生産され有料、無料で配布されている。
身尺に合わないready-madeのお仕着せに、どのような音楽を聴いてもambivalentな気持ちがするのは、私だけではあるまい。

それはまた、一つ一つの製品に限った話ではない。
私は、演奏会や音楽会を提供する側、製品に付加価値をつけようとする側のarrangement、

つまりprogrameについても同様に感じる故に、めったに演奏会場に足をはこばないのである。
そうした違和感は、皮肉なことではあるが、自分で選択した音楽を、自分で配列した順序でレコードで聴けば、幾分かは軽減される事に私は気がついた。
それ以上を求めるのならば、自作自演をして、つまり自分で作曲をして自分で演奏して自分で耳を傾けるしか手が無いであろう。

私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。
だから、私は久しくPacific231に対しても反感すら持っていた。

Arthur Honegger (1892-1955)自身はこの作品について、彼はこの曲で内燃機関の騒音を模倣しようとしたのではなく、むしろ視覚的印象や身体的快感を表現した、と語っていた。




page 69
『前奏曲集 作品1の1』
(あるアマチュアの覚書)
著者: 太田将宏




つまり、クラシックというのは、
昔、ヨーロッパのお金持ちの貴族や王族が
お抱え“音楽士”に作らせた曲だったわけですよね。
当然の事ですが、その“音楽士”は注文してくれた紳士の好みに合った曲を作るはずです。

要するに大衆向けの曲を作るのではなく、
その注文主の好みに合った、趣味に合った、感性に合った曲を作る。
まさに、order-madeだったわけでしょうね。

だから、ある人のorder-madeの服を僕が身につけた場合、袖が長すぎたり、襟首が窮屈だったりしますよね。
僕は、このことを考えた時に、どうしてクラシックが僕のオツムの中に感覚的にすっきりと入ってこなかったのかが理解できたよう気がしました。

要するに、クラシックとはヨーロッパの貴族の感覚と好みに合わせて作った服のようなものです。
そんな服を僕が着たとて身尺に合わないことなど分かりきっていますよね。
まずダブダブだろうと思います。
江戸時代に和服だけしか来たことがない日本人が初めて洋服を身に着けるようなものですよ。

ところが、日本人の中には、いかにもクラシックが分かっているような気になって“高尚な気分”に浸(ひた)っている“文化的田舎者”がたくさん居るように思います。
たとえば、ウィーン・フィルハーモ二ーが演奏するモーツァルトの曲の演奏会が東京オペラシティコンサートホールであるとします。
2万円の特別席を予約した。

何のためか?

この特別席を予約した28才の山田太郎君は26才の花子さんに自分の“文化的な面”を印象付けるために4万円を支払ったのです。
つまり、4万円のデートです。


 (すぐ下のページへ続く)

2011年01月08日

ミューズィック (PART 2)

 
ミューズィック(PART 2)




太郎君はモーツアルトが分かっているわけでもない。
クラシックを聴くなんて1年に1度か2度です。
それも、たまたまテレビでやっていたベートンベンの第五を見るようなものです。
最後まで見ないで途中でサッカーの実況放送にチャンネルを切り替えてしまいました。

花子さんだって、モーツアルトが分かっているわけじゃない。
でも、モーツアルトの名前には、いかにも“文化的な香り”が漂っている。
演奏会に行くなんて花子さんには経験が無い!
しかも、モーツァルトの曲を世界でも有名なウィーン・フィルハーモ二ーが演奏する。
東京オペラシティコンサートホールへ行くなんてカッコイイ。
しかも、モーツァルトという名前が“高尚”である。

最高級のGUCCIの香水をつけるような、なんとも言えない文化的な香りが漂っている。

もちろん、それが太郎君の思惑(おもわく)なのです。
そうやって、太郎君が花子さんとのデートを演出したわけです。
つまり、たくさんの人が東京オペラシティコンサートホールへ高い入場料を払って聴きに行った。
しかし、そのうちの一体何人が本当にクラシックを理解して聴きに行ったのか?

たぶん、80%の入場者は太郎君のような“下心”を持って相手を誘って出かけて行ったのではないでしょうか?
腹の中では、音楽なんかどうでも良いと思っているのですよね。
うへへへへ。。。

こういう考え方をするのは、僕がクラシックが分からないので、ひがんでいるのでしょうか?
それで、このような心の曲がったことを書いているのでしょうか?
あなたはどう思いますか?

ところで、演奏会で思い出しましたよ。
僕にも似たような思い出があるのです。
でも、状況はまったく違うものでした。
誘ったのは僕の方ではなく、女性から誘われたのです。うへへへへ。。。。

。。。と言っても、鼻の下を伸ばすような話ではないんですよ。残念ながら。。。

当時、ぼくは“ナショナルソフト”という
松下通信工業が100%出資していたソフトウェアの子会社で働いていました。
日本が経済大国に向かって伸びている時だったので、ソフトウェア業界は人手不足でした。

そのようなわけで、僕はその会社にストレートで引きぬかれて、“無試験”で松下産業の正社員となり、
出向で松下通信工業に配属され、
そのまた出向でナショナルソフトに出向いて働いていたのです。
この“ナショナルソフト”は間もなく“パナファコム”に吸収合併されてなくなりますが。。。

僕を誘った女性は松島優子(仮名)さんでした。
僕よりも1年前に入社した早稲田大学の理工学部数学科を卒業した人でした。
どちらかと言えば目立たない地味な人でした。
“お友達と一緒に見に行くつもりが、急に行けなくなったのだけれど、一緒に行きませんか?”
当日そのように言われたんですよ。

もちろん、僕が“お目当て”で、そのような手の込んだことをする人か?と言えば、決してそのようなレンゲさんタイプの女性ではないんですよ。
確か神奈川県民ホールだったと思います。
当時そのホールはできて間もなかったと思います。
海岸通りにありました。
今、ネットで調べたら次のように出ていました。




神奈川県民ホールは1975年に全国屈指の大型文化施設として、県立音楽堂は1954年、日本初の本格的音楽専用ホールとして誕生。
以来国際レベルの音楽や舞台芸術など、多彩なプログラムを提供しております。


間違いなく、県民ホールです。
ただ、ハンガリー国立フィルハーモ二ーだったか?
ウィーン・フィルハーモ二ーだったか?
とにかく有名な交響楽団で指揮者も有名な人だったですよ。
カラヤンだったろうか?
調べてみたけれど、そこまでは分かりませんでした。

僕はクラシックにハマッテいたわけではありません。
でも(2006年)6月13に日に書いた記事(『ん? クラシック興味ある?』)の中で述べたように、クラシックとまったく無縁であったわけでもありません。
有名なフィルハーモニーの演奏を聴きに行くと言うよりも、
優子さんに誘われたと言うことが僕には“衝撃的”なことだった。
仕事が終わる頃に誘われたのでした。
彼女の方が1年先輩のわけですし、それまで親しく話しをしたと言うわけでもない。
でも、優子さんにまったく関心が無かったか。。。?と言えば、やはり関心がありましたよね。

当時、同期に入社した女性が3人居ました。
東京学芸大学を出た良子(仮名)さん、
学習院を出た淳子(仮名)さん、
それに横浜国立大を出た小百合(仮名)さん。
この中で最も僕と気が合って、よく話をしたのは良子さんでした。

この3人は、どちらかと言えば、まだ子供っぽいところがあって、僕もけっこう馬鹿やるほうですから、面白おかしく楽しくやっていましたよね。
でも、優子さんは1年先輩だと言うだけなのに、“お姉さん”という印象を与える人でした。
とっつきにくいと言うわけではない。
でも、ベラベラ話をすることもないし、
ゲラゲラ笑うことも無く、おっとりとして、地味で静かな人でした。

そういう人から誘われたわけですよね。やっぱり、意外というか。。。

“ん? 僕とですか。。。?”
“ええ、他に用事でも。。。?”
“いや、別に。。。”



そういうわけで、その日残業もせずに優子さんと東横線の綱島駅から出かけたわけです。
でも、無料の残業食は松下通信工業のカフェテリアで食べてから出かけたように記憶しています。

。。。で、あまり話をしない人かと思っていたけれど、話し始めれば、優子さんはいろいろと話題の豊富な人でした。
話をしていても、話題に事欠かなかったし、きまづい沈黙などまったくありませんでしたね。

でも不思議なことに音楽のことはほとんど話さなかったですね。
意識して話さなかったわけではなく、話題が音楽とは関わりの無い方向に行っていたと言うことです。
優子さんが常に“お姉さん”のように、おっとりと構えていたので僕も気楽に話をすることができました。
その時の曲目が何であったのか、まったく記憶にありません。
そういうわけですから、曲を聴いた感動もまったく無い!
きれいサッパリ音楽の思い出はまったく無いんですよね。
今、振り返ってみても、自分で馬鹿らしくなるほど、音楽の記憶がまったく無い!

自分でチケットを買って行くのなら、音楽を聴きに行くと言うつもりにもなったのでしょうが、誘われて音楽を聴きに行く。
はっきり言って、当時僕にとってクラシックなんてどうでも良かったですからね。

なぜ、出かける気になったのか?
意外にも優子さんに誘われたと言うことと、この人ってどういう人なんだろうか?
それだけが動機だったと言っていいのです。

ただはっきりと記憶に残っているのは、演奏会が終わった後、僕は夜食をとろうと言い出して彼女を誘ったのです。
それまで、僕は1円も出していませんでしたから、
お礼を兼ねて食事でも。。。というつもりでした。
当時、僕は松下通信工業の男子寮に居ました。
門限は12時ですが、僕の部屋は1階にありましたから12時を過ぎても問題は無いんですよ。
窓から入れますから。。。

彼女は自宅から通っていました。
つまり、両親の家から通っていました。
“もう、遅いから家に帰りますわ。また別の機会に。。。”
良家の子女の“たしなみ”。。。
そういう事が、ごく普通に守られていた時代だったんですよね。

もちろん、食事をしてから温泉マークに行くことなど僕は考えてもいませんでしたよ。
そういう考え方が全くオツムに思い浮かばなかったのか?
それは考えとしてそういうこともあるよなあああ~。。。とは思いましたよ。
しかし、考えることと、実際に行動を起こすこととは、全く次元の違う話です。

あなたと僕が思うことをすべて実行にうつしただけでも、この地球上は私生児であふれかえってしまいますからね。

優子さんと個人的に話したことは、それが初めで最後でした。
僕は間もなく会社をやめて海外に出てゆきましたから。。。
“別の機会”は、あれから20年以上になりますが、まだありません。

上の記事の中で書いた恵美子さんの場合もそうですが、僕と音楽との思い出には必ずと言っていいほど女性がつきものなんですよ。
ところが、なぜか最初で最後。。。と言うことになっているケースがほとんどなんですよね。
女性と音楽。。。
ロマンの題材としては面白いのですが、
音楽に関する限り、女性がつきものであるにもかかわらず僕には女性との縁が無いのです。

なぜこのようなことを書く気になったのか?
それは、僕とクラシックの関係を象徴しているように思えたからです。
それを敷衍(ふえん)すれば、クラシックと民謡の関係もうまく説明できるのではないのか?


私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。


ここで僕は、上の太田さんの言葉をもう一度噛み締めてみたのです。

僕は(2006年)6月13に日に書いた記事(『ん? クラシック興味ある?』)の中で次のように述べました。


“たかが音楽、されど音楽、

 それ以上でも以下でもない。”


。。。だと、僕も思いますね。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。



ここで、もう一度恵美子さんに登場してもらいますが、
僕は、クラシックが何たるものか?と分からないうちに恵美子さんが演奏した“乙女の祈り”を聴いて感動したんです。
もちろん、可愛いと思っていた恵美子さんが弾いたから、中学生の僕は、なおいっそう感動したのです。

僕がピアノを独習で習い始めたのは、この経験があったからで、それがクラシックであったからではないのです。
いづれにしても、一つの曲がある人物によって演奏された事で僕に感動を引き起こした。
その感動が、僕をピアノに近づけさせた。
恵美子さんに会いたいからピアノを弾き始めたわけじゃない。
なぜなら、恵美子さんに会ったのはあの時が初めで最後。
僕の演奏を聴いてもらった事で僕の“片思い”は完結したのです。
でも、それからも、僕は時々“乙女の祈り”を弾いたものでした。

あの感動を自分のものにしたいから。。。

しかし、今の僕はすっかり忘れていて、この曲を弾く事さえできないんですよね。
あれだけハマッた“乙女の祈り”だったのに。。。

つまり僕にとって。。。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。

現在、“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのですよ。懐かしいとは思いますが。。。
しかし、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられます。




『ん? クラシック興味ある?』より


あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
なぜなのか?
“昔の民衆の創造性”とは、具体的にどのようなものなのか?

その答えを見出すために、僕は“津軽じょんがら節”の成り立ちを遡(さかのぼ)って行ったのです。

津軽じょんがら節は津軽民謡の代名詞のようなものですが、
元は新潟・十日町市の「新保広大寺」という唄だと言われています。

これは広大寺の和尚・白岩亮端の時代に起きた農地の耕作権をめぐる土地争いが原因で、広大寺の和尚を追い出すために歌った「悪口唄」でした。
それが越後で大流行し、やがて越後瞽女(ごぜ)のレパートリーとなります。
これが全国に流行するのですが、それが津軽化したものが「じょんがら節」です。

津軽でも民衆の心に長く記憶される事件が起こりました。
慶長2(1597)年、南津軽郡浅瀬石城主・千徳政氏が、大浦為信に滅ぼされたのです。
しかし、政氏の死後も為信は追討をやめず、ついに政氏の墓まで暴こうとします。



その戦いで炎上した千徳氏の菩提寺・神宗寺の僧・常椽(じょうえん)は、それを抗議する意味をこめて本尊を背負って、上川原に身を投げたと言います。
すさまじい話なんですよね。
こうした悲劇を歌った口説節が、じょんがら節であると言います。

つまり、民衆の中から沸き起こった歌なんですよね。
11代にわたって津軽の東の山根に繁栄した千徳家が滅亡。
落城とともに神社・仏閣がすべて焼き払われる。

この時千徳家代々の菩提寺である神宗寺に奉仕していた常椽和尚が、先祖代々の位牌を背負って逃げた。
ところが、捕らえられそうになったので白岩の断崖から浅瀬石川(上川原)に身を投じて一生を終えたのです。

年を経た夏に、川原で遊んでいた子供達が常椽和尚の変わり果てた遺体を砂の中にみつけ、村人が相談して墓をつくり、ねんごろに弔ったと言われています。
その後、その場所を常椽川原(じょうえんがわら)と呼ぶようになったそうです。
それから毎年、お盆には常椽川原に集まり供養をし、代々の城主をはじめ先祖の霊を慰め、常椽和尚を偲ぶために即興で歌われたのが「津軽じょんがら節」の始まりだと言われています。

常椽川原もいつしか上川原(じょうがわら)となり、更には「じょんがら」と言われるようになったわけです。

つまり、“民衆の創造性”から生まれた唄というものは、もともとのクラシックのようにorder-madeではなかったのですよね。
民衆の中から沸き起こった歌。
血と汗と涙。。。
そのような苦労の中で民衆の口により歌い継がれて現在の我々にまで知られるようになった。

現在の僕が、あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
それは、やはり、この唄が血と汗と涙の中で民衆によって受け継がれてきたからではないのか?

芸能プロダクションがミーハーの歌手を育てて広めたわけでもない。
そうやって金儲けをするために歌われてきたわけではない。
テレビやラジオで宣伝して広めたわけでもない。
演奏会や、音楽会を開いて広めたわけでもない。
紅白歌合戦があったわけでもない。
レコード会社が儲かるからと言ってレコードに録音したわけでもない。


私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。


つまり、太田さんが言うところのこの汚染されきった世界こそ、すぐ上に書いた芸能プロダクションであり、
テレビやラジオの功利主義であり、
演奏会や音楽会の商業主義であり、
紅白歌合戦と言う馬鹿騒ぎであり、
レコード会社の儲け主義ではないだろうか?

僕が“津軽じょんがら節”を聴いて魂をゆさぶられるのは、“民衆の創造性”に僕の心の琴線が触れたからだと僕は信じています。

本尊を背負って、上川原に身を投げた常椽(じょうえん)和尚の無念な気持ち。
その和尚に同情を寄せる村人たち。
その中で和尚を悼(いた)み偲ぶ唄が生まれ、その悲劇と共に民衆に歌い継がれてゆく。
僕は、このような悲劇のことは何も知らない。
しかし、その悲劇性と、農民の気持ちが、この歌の響きの中に、旋律の中に込められている。
そして、その唄が津軽三味線で奏(かな)でられるとき、僕の魂をゆさぶる。

そういうことだと思うのですが。。。
あなたはどう思いますか?

次のリンクをクリックして、“津軽じょんがら節”を聴いてみてください。



『津軽じょんがら節』

では。。。




『ん? クラシックと津軽じょんがら節?』より
(2006年7月9日)




デンマンさん。。。それらしい事を長々と引用していますけれど、結局、優子さんにコンサートに誘われたことを書きたかったのでしょう?



あれっ。。。やだなあああァ~。。。小百合さんまでが、レンゲさんのように僻(ひが)むのですか?

いいえ。。。別に僻んでいるわけではありませんわ。

僕は、ただ、八雲のように民謡を充分に理解できる素養と感性があることを言いたかったまでですよ。 うへへへへへ。。。

ただ気になることがひとつありますわ。

なんですか?

横浜国立大学を卒業した小百合さんが出てくるでしょう。。。どうして他の名前にしなかったのですか? 私と混同されてしまいますわ。

あのねぇ~、上の記事は2006年に書いたのですよう。 当時、『小百合物語』を書くつもりはなかったから、何の気なしに小百合という仮名にしたのですよう。

デンマンさんもサユリストなのですか?

いや、サユリストはサユリストでも『小百合物語』を愛するサユリストですよう。 思い返してみれば、ずっと以前から無意識のうちに『小百合物語』を書きたいと思う気持ちが潜んでいたのかもしれませんね。 うしししし。。。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
小百合さんが呆れていますわよう。
日本人であれば、日本の民謡を理解できる素養も感性もあるのでござ~♪~ますわ。
あなただって持っているでしょう?

ええっ。。。?
あなたには『津軽じょんがら節』のような日本の民謡を理解する素養も感性もないの?
どうしてよう?
ビートルズやローリングストーンズの方がいいのォ~?

あたくしも、実は、ジョンレノンの熱狂的なファンなのでござ~♪~ますわよう。
うふふふふふ。。。


 
 
キャ~ ビートルズ!
 
 
すてきィ~♪~!

 
 
そうよねぇ。 日本の民謡って、かな~♪~りダサいところがありますわよね。
そうですわ。。。そうですわよう。。。
やっぱり、ビートルズはいいのですわよう。
うふふふふ。。。

とにかく、次回も興味深い話題になるはずですわ。
だから、あなたもどうか読みに戻ってきてくださいませぇ。
じゃあねぇ~。。。



 
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こんにちはジューンです。

文明開化のお話が出てきました。

愛(いと)しいという言葉は昔にもあったようですが、

愛(あい)すると言う用法はなかったようです。

日本では“恋しい”という言葉を使っていたのです。

英語圏でしばしば使われる

I love you. という言い方は

明治時代の文明開化の時に

イギリスからその概念“love(愛)”

を輸入したそうです。

だから、今でも愛を告白する時に、

日本人の男性は

次のように言うと思います。

「僕は君が好きだよ」

「僕はきみに惚れてしまったんだ」

「僕はきみに恋してしまったようだよう」

デンマンさんに尋ねたら、日本で暮らしている頃、

女性に対して「好きだ」と言ったことはあるけれど、

「愛している」といった事は一度もなかったそうです。

あなたはどうですか?



ところで、デンマンさんがレンゲさんの記事を集めて

一つにまとめました。

もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

■ 『最近のレンゲ物語 特集』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。





2010年12月04日

カセットの音楽をPCで残したい!


 
カセットの音楽をPCで残したい!



こんにちは。ベティーです。
青春の思い出が詰まったカセットテープの音楽をパソコンで聴けたらと思ったことはありませんか?
そしてPCでいつまでも残したい。

たとえば、部屋を片付けていたら、学生の頃に録りためたカセットがごっそりと出て来ました。
「あ~、あの時、流行ってた曲だ…」なんて青春時代を懐かしんでしまいますよね。

捨てるにはもったいない。
でも、そうかと言って保存するには、かさばるんですよね。

確かに邪魔だし、でも捨てるのは寂しいし。。。
なにかいい方法ないのかな?

あなただ、そう思うでしょう?
さて、あなたは、どうしますか?
(^_^;) 

やっぱり、泣く泣く処分してしまいますか?

実は、パソコンでカセットテープの音楽を音楽データにする方法があるのですよ。
青春の思い出が詰まったカセットって、捨てられないですよね。
そこで、おすすめなのがカセットの音楽をパソコンに取り込んで保存する方法です。
デジタル音源に変換する機器を使えば意外に簡単なんです。



どうするの。。。?

1) まず、カセットデッキやラジカセなどを用意します。

2) アナログ音源をデジタル音源に変換する「アダプター」を使って、
   カセットの音楽をパソコンに取り込みます。

3) パソコンや携帯音楽プレーヤーに転送して懐かしい音楽を楽しむ。

変換用の「アダプター」は、「オーディオ・インターフェース」(USB接続)を使用すると、ノイズの影響を受けずに取り込めます。
取り込む時の「サウンドソフト」の操作方法などは、次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。

■ 『懐かしいカセットの音楽をパソコンに移す方法』

■ 『「USBオーディオ・インターフェース」をいろいろチェック』

もちろん、無料ですよ。
登録する必要もありません。
読んですぐに使えますよ。

これで、懐かしい音楽が詰まっているカセットテープをあなたのパソコンに取り込むことができますよ。
青春時代に聴いた懐かしい音楽をパソコンで楽しんでくださいね。



Good luck!

バ~♪~イ


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おほほほほ。。。

卑弥子でござ~♪~ますわよ。

くどいようですけれど、

また現れましたわ。

やっぱり、ベティーさん

ぱっかりに任せていると

退屈するのよねぇ~。

それで。。。つい、つい、

出て来てしまうので

ござ~♪~ますわよ。

ええっ、余計な事は言わなくてもいいから、

さっさと言いたいことを言って消えろ!

あららあああぁ~

あなたはそのような厳しいことをあたくしに

言うのでござ~♪~ますか?

いけすかないことォ~♪~

分かりましたわ。

では、今日の一言を。。。

うふふふふ。。。

Motivation is what gets you started.

Habit is what keeps you going.

--- Anonymous (詠み人知らず)




事を起こすにはやる気が必要です。

ひとたび習慣になれば、

それを続ける事ができます。


あたくしは、このように訳しました。

あなたなら、どう訳しますか?

素晴しい訳があったら教えてくださいませ。

では、今日も楽しく元気よく

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあ、バ~♪~イ。





2010年11月10日

ベートーベン白熱教室

 
ベートーベン白熱教室




Ludwig van Beethoven

(1770-1827)




L.v.Beethoven の“ Fidelio”(Op.72)は、初演の当時から幾多の論議を呼んできた。それがとりもなおさず、この四つの序曲を持つ彼の唯一のオペラが、ほかならぬBeethovenの作品であるが故であることは、とかく忘れられがちであるのではないであろうか。

その議論のひとつに、夫婦愛などをテーマとしたオペラが成功するはずがない、というのがあった。(中略)しかし、たとえ登場人物が夫婦ではなかったとしても、恋人同士であったとしても、話の筋道は大体つくであろうのに、それを、ことさらに、夫婦とした台本を使用したところに、私は、むしろ、Beethovenの破天荒な意思、意欲を感じるのである。(中略)

この作品は良い作品ではあるが、それでも、W.A.Mozartのオペラに較べれば、太陽を前にした星である、ということを誰かが言っていた。(中略)それはそうであろう。舞台は、貴族の館などではなくして、監獄の中での出来事である。何も、Beethovenの作品に、Mozartの音楽を聴こうとすることもなかろう。そんな風な聴き方は、Mozartだって野暮だと言うであろうし。

第三に、これは、この作品に限らないが、Beethovenの声楽の扱い方に対する批判が後をたたないことである。しかし、思い切って乱暴に言ってしまえば、彼は、彼のやり方で人声を扱ったまでで。それはそれで完成されたものではなかったか、と私は思うのである。

 (中略)

抑圧からの開放。これは、常に現代的、現在的である。ただ、その開放がDon Fernandoの鶴の一声では成らぬことを知るのには、人類は、未だ、一世紀余りを要した。さもなくば、この作品中にDon Fernandoのせいにはすまい。そもそも、彼といえども、なんらの見通しのない時代には、強固の意志に貫かれた、信仰にも近いような信念なくしては、理想などは持ち得ないではないか。その意味では、共和主義者Beethovenは古典であった

現代であること、現代人であることは、必ずしも幸いなことではない。今、ソヴィエト社会主義連邦共和国や東欧諸国で起きている事態、あれは何であろうか。この様にして、この二十世紀最大の実験は無に帰するのであろうか。それでは、革命に血を流した勇敢なる闘士は浮かばれないであろう。それこそ、Stalinismeによる犬死に、それで終わるのであろうか。

犬死、と言えば、先の太平洋戦争で散った兵士の死もまた、すべて犬死であった。遺族は、それぞれに、戦死者に何らかの意味を見出したいと思い、それもまた当然すぎる心情ではあるが、私は、敢えて言いたい、それは犬死であったと。それである故にこそ、その無意味な悲惨を繰り返してはならない、と。犬死と言う認識ではなかったら、その悲惨さは権力に媚びる圧力団体に堕落しているではないか。

言うべきことが言える間に、言うべきことは、きちんと言う、それしかできない私である。また、私は共産主義者でもないが、それを強調するまでもあるまい。

それにしても、私の知る限り、Beethovenの失恋の相手は、貴族の令嬢ばかりであった。奇妙な共和主義者ではあった、と思わざるを得ない。しかしながら、彼のmessageは、いまだ有効である。




出典:13−14ページ 『間奏曲集ー主題なき変奏』(作品2)
著者:太田将宏 初版:1994年1月 改定:2006年6月
Les Interludes - Variations sans Sujet - Opus 2
by Masahiro Ota

デンマン注:写真はデンマンが貼り付けました。強調のための赤字もデンマンが施(ほどこ)しました。




デンマンさん。。。ベートーベンのことなど引用して、あんさんは何を言おうとしてはるの?



うん。。。よう聞いてくれた。わては日本帰省の10月24日に、たまたまNHK教育テレビの『白熱教室JAPAN』と言う番組を観たのやァ。

その番組でベートーベンが取り上げられたん?

そうなのやァ。

。。。で、その事と上の引用した文章が関係あるの?

太田さんは次のように書いている。

抑圧からの開放。

これは、常に現代的、

現在的である。


これが、あんさんにとって感動的な文章やの?

そうや。ベートーベンもナポレオンの出現によって抑圧からの開放を感じ取ったのやァ。それはベートーベンの作品にも表現されている。

そう言われてみると『英雄』という曲がありましたなァ。あれはナポレオンのことでしたん?

そういうことになっておるでぇ。。。

あんさんは、その事が言いたかったん?

そうやァ。。。でも、そればかりではあらへん。番組の中でもパネリストが太田さんの書いているような事を言うてたのやァ。


何故、ひとは、L.v.Beethovenは、旋律を書けなかった、などと言うのだろう。もっとも高橋悠治は、Beethovenは、それを書けば書けた、と書いていたけれども。

確かに、“Simphonie in d-moll”(Op.125)の最終楽章の旋律は、いただけない。とてもではないけれど、素面では人前には持ち出せないような代物だ。だから、それは、sempre pianoで、おずおずと導入される。ただし、このやり方は効果的で、この旋律が、静かに美しく流れるのは、認めざるを得ない。しかし、ここだけである。後は、とりわけ、これが咆哮するようになると、いかにもいただけない。

(中略)

さらに困ったことがある。この楽章の出だしのRecitativeによって否定された先行三楽章に成り代わって出てきたはずのこの旋律が、散々、オーケストラによって鼻ずらを引き廻された挙句、とどのつまりはBaritonの気張った声によって、またまた否定されるのである。すると、誰だって、まともに聴いていた人は、自分は、今まで何を聴いていたのだろう、と一瞬、眩暈(めまい)がするような戸惑いを感じるはずだ、と私は思うのであるが、誰も、それを言わない。それどころか、W.Furtwänglerは、他の作曲家の作品とは異なり、Beethovenの音楽は、自分が今、どこにいるのかが常に明瞭である、と言っていたほどである。

例は、いちいち書かないが、Beethovenの作品には、こうした二重否定だけではなく、二重肯定も散見されるのである




出典:47ページ 『間奏曲集ー主題なき変奏』(作品2)
著者:太田将宏 初版:1994年1月 改定:2006年6月
Les Interludes - Variations sans Sujet - Opus 2
by Masahiro Ota

デンマン注:強調のための赤字もデンマンが施(ほどこ)しました。




要するに、ベートーベンの作品には二重否定だけでなく二重肯定も見られると書いてるねん。



その事がどうやと、あんさんは言わはるの?

否定されなければならない事をどうして作品の中に書くのか?肯定されることだけを書けばええやんか!?。。。それが、わてが初めて上の文章を読んだときの反応やったのやァ。NHKの番組の中でも作曲家の坂本龍一さんが、その否定の箇所をいくつか演奏して見せていた。

それで、あんさんはどうやと思いはったん?

ベートーベンはナポレオンの出現によって抑圧が解放されると思って狂喜した。ところが、やがてナポレオンが皇帝になってしまった。それで失望してしまったのやァ。つまり、その狂喜と失望が作品の中で肯定と否定になって表現されているのではないか!?。。。そう思ったのやァ。

そやけど、太田さんは次のように書いてますやん。

彼といえども、

なんらの見通しのない時代には、

強固の意志に貫かれた、

信仰にも近いような信念なくしては、

理想などは持ち得ないではないか。

その意味では、共和主義者Beethovenは

古典であった




つまり、ベートーベンは強固な意志に貫かれた信仰にも近い信念を持って共和主義に徹していたと言うことですやろう?



太田さんは、そう信じたのかも知れへん。でもなァ、人間は100%揺ぎ無い信念など持つことができへん。そやから太田さんかて次のように書いている。

Beethovenの失恋の相手は、

貴族の令嬢ばかりであった。

奇妙な共和主義者ではあった


要するに、ベートーベンは共和主義と貴族の令嬢の間で振り子のように揺れていたと、あんさんは言わはるの?

あのなァ、人間は不完全な生き物なのやァ。そやから、めれちゃんだってベートーベンのように揺れることがあるねん。

わたしもペートーベンのように否定と肯定の間で振り子のように揺れることがあると、あんさんは言わはるの?

そうやァ。めれちゃんも否定と肯定の間で激しく揺れたことがあったのやでぇ〜。。。

ホンマかいなァ〜?

めれちゃんが書いた絶交状と、その後で仲直りしようとする詩を読むと、その振り子の振幅の激しさが手に取るように分かるのやァ!


じいさん、

永久に近づくな。




めれんげは自分の思うままに
詩を書きたいのだ
自由に心のままに。

ネガティブな詩だってある。
そこに喰らい付いてきて、
気持ちの悪い文章を書くじいさん。
アンタは本当に面倒くさい奴だ。

アクセス禁止にしたところで、
どうせipを偽装するんだろうな。

ハッキリ言う。
一度はアンタと和解したが、
そんなことはもう、決してありえない。
なぜかと言うと、
めれんげの気持ちをわかったつもりで、
見当違いのコメントを書いて
わたしのブログを汚すからだ。

何より許せないのは、
アンタの「言葉泥棒」だ。
都合のいいところだけ抜き出して、
さも、アンタと通じ合っているような
文章を垂れ流していることだ。

それに、何年も前の文章を
いつまで使い続けるつもりなんだ。
わたしはいつまでも
同じ所に立ち止まっているわけではない。
アンタが同じネタを使っていることで、
アンタの進歩のなさを露呈しているんだ。

気持ち悪い「愛のコラボ」ってなんだ?
それも結局は、アンタの脳内で
わたしの創作を侮辱しているってことだ。

アンタとわたしとではレベルが違う。
アンタは人の書いたものなしでは、
何も書けない貧困な人間だ。
クリエイティビティもないくせに、
「文学的素養」について語るな。
わたしが心の底から苦心して
絞り出した言葉を
アンタはのうのうと使いまわして
さも自分が知識人であるように装っているだけだ。

そして、さもしいアンタは、
他人を馬鹿呼ばわりして、
自分のブログのネタとして使う。
オリジナリティもないアンタには、
自分で何かを創りだす能力なんて
ないからだろうな。

じいさん。
アンタは自分が思う以上に、
ネットの中で、飽きられているぞ。
アンタに構ってくれた人たちは、
もうアンタになんて目もくれていないだろう?
それはアンタの薄っぺらさを
みんなが気付いたからだ。


わたしはアンタにつきまとわれているから、
こんな文章を書かざるを得ない。

とにかく一言言いたいのは、
「死ぬまでわたしに関わるな。
ネタにもするな」

ということだ。

by merange (めれんげ)

October 05, 2009 19:36




『極私的詩集 永久に近づくな』より

『相手にされない成りすまし馬鹿』に掲載
(2009年11月22日)




これがめれちゃんの書いた絶交状やがなァ。



あんさんは、私が書いた絶交状まで大切に保存してはるの?

そうやァ。。。こないな記事を書く時に、ごっつう参考になることがあるさかになァ。うしししし。。。

。。。で、わたしが仲直りしたいと言う詩ってどれやのォ〜?

めれちゃんは次のように書いてたでぇ。。。



あなたはわたしに

愛されている

 
 

 
 
とってもうれしかったよ
あなたのくれた言葉が
わたしの気持ちが伝わってることが
涙が出るくらいうれしかったよ

あなたはわたしに愛されているって
ちゃんとわかってくれてたんだね
たくさんの出来事にうずもれても
この気持ちが光ってることを
あなたは知ってくれている

少ない言葉たちの中から
宝物を拾いあげてくれて
本当にありがとう

ほら、また涙が出てきちゃったよ
  
 
by めれんげ
 
2010.02.13 Saturday 12:11




『即興の詩 あなたはわたしに愛されている』より

『愛の涙 (2010年2月16日)』に掲載



小さな赤い花
 
 

 
 
わたしをあなたの庭に咲く

小さな赤い花にしてください

そして、お水を注ぎながら

何かお話を聞かせてください

わたしは何も言えないけれど

あなたの言葉を聞きながら

いろんなことを思うのです

あなたに愛されるように

いつまでも綺麗に

咲いています

だからわたしのことを

忘れずにいてください

 

by merange (めれんげ)

2010.02.19 Friday 10:24




『即興の詩 小さな赤い花』より

『永遠の愛のコラボ』に掲載




あんさんは、わたしが書いたものはすべて、あんさんのことを思って書いたと妄想してはるの?



妄想ではあらへん。めれちゃんの『即興の詩』サイトで最初の詩から順々に読んでゆけば上の詩に登場する相手は、わて以外に考えられへん。

それが、あんさんの独断と偏見ですねん。

めれちゃん。。。悪あがきは止めた方がええでぇ。。。自分に素直になることが大切なのやァ。。。めれちゃんかて、よう分かっておるはずや。

それで上の絶交状と詩を持ち出してきて、あんさんは何を言おうとしてるん?。。。あんさんは、もしかしてベートーベンも、わたしのように境界性人格障害(ボダ)を患っていたと、言わはるのォ〜?

うへへへへへ。。。その可能性が無いとは言えへんでぇ〜。

マジで。。。?

あのなァ〜、わてのこれまでの経験に従うと、アホにボダはおらへんのやァ。めれちゃんは知能指数が140もあるねん。ベートーベンかてぇ、楽聖と言われるほどやからなァ、音楽の天才やがなァ。そやからベートーベンがボダやったとしても不思議ではないねん。


【レンゲの独り言】



ですってぇ〜。。。
否定と肯定を繰り返すことが境界性人格障害の決定要因だということをデンマンさんはおっしゃっていますが、ただその事一つだけをとって決めることはできないと思いますわ。

実は、あたしもボダを患っていたのです。
だから、今まで好きだった人のことが急に嫌いになったりすることがあるのを事実として認識しているつもりです。
第三者から見ると全く理不尽な事としか思えないことでもボダを患っている人には当然のことのように思えるのです。

ボダを克服するのに、あたしは15年と言う長い年月がかかりました。
ボダは治らないと言うお医者さんも居ますが、私自身は治るものだと信じています。
不治の病も、やがては治療法が見つかるものですわ。

とにかく、次回も面白い話題が続きます。
あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてくださいね。
では。。。




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こんにちは。ジューンです。

わたしの身の回りにも

ボダを患っている人が居ますわ。

どうしたらボダだと分かるの?

そういう疑問を持ったなら、

次のことを考えてみてください。


<< 境界性人格障害の判断基準 >>



■ 対人関係が不安定だ。
  理想化とこき下ろしの両極端を揺れ動く。

■ 衝動性が強い。浪費、薬物乱用、過食、無謀運転、
  見境なしのセックスなどに陥る。
  衝動的に不倫に走ったりする。

■ 感情が不安定だ。
  強い不快、イライラ、不安などに悩まされる。

■ 自分ではコントロールできない
  不適切なほどの強い怒りが起こる。

■ 自殺の振る舞いや自傷行為などを繰り返す。

■ 自分自身に対するイメージが不安定。
  自己同一性の顕著な混乱が見られる。

■ 慢性的な空虚感、退屈さがある。

■ 見捨てられる不安とそれを避けようとする
  行為を繰り返す。

■ 妄想観念や解離性障害
  (記憶喪失や現実感の喪失など)がある。

上の9つの項目のうち、5つ以上当てはまると境界性人格障害と診断される可能性が高い。


あなたにも思い当たることがありますか?

ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

もし、時間があったら覗いてくださいね。



『あなたが笑って幸せになるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。



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