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2007年12月02日

幻獣ムベンベを追え(高野秀行)

やりたいことというのは、いつやっても楽しいということは決してない。
例えば子供の頃、いろいろ夢みたいなものを持っていたのではないかと思う。それが将来の夢という形であれば、いつか実現すればいいというものであると思う。しかし中にはそうでないものもある。
例えば、ケーキを1ホール丸々食べたい、という夢を持っていたとしよう。これはなかなか子供の頃は実現することは出来ない。親が1ホール丸々自分のために買って来てくれれば別だが、そんなことはなかなかない。自分で買おうにも、なかなかそれだけのお金はないし、それだけのお金があってもケーキ1ホールに使ってしまうのはもったいないと思ってしまう。だから子供のうちにこれを経験することはなかなか出来ないものだ。
しかし、大人になって自分で生活するようになれば、恐らく誰でも実現できるだろうと思う。ケーキ屋に行って、自分で買って来て食べればいい。お金にもかなり余裕があることだろう。何の問題もなく実現できてしまう。
しかし、大人になってから実現できたそれは、やはり何となく味気ないものになってしまうような気が僕にはするのだ。やっぱりそれは、是非とも子供の内に叶えておきたかった夢なのだ。夢というのは、叶えばいいというものではなく、いつどのようなタイミングで叶うかということも非常に重要になってくる。
結局のところそれは、どれだけハードルが高く見えるのか、ということと関係してくるのだと思う。子供の頃にケーキ1ホールというのはとんでもなくハードルが高いものだ。しかし大人になるとそのハードルはぐんと下がる。そうなると、達成した喜びというのもかなり減ってしまう。そういうことなのだろうと思う。
そもそも、何かやりたいと思うようなことは、それが出来ない環境の中で生まれる感情である。出来ないけどなんとか実現しようとするからこそ面白いのであり、それが簡単に出来るようになってしまってからでは、もはややりたいという気持ちも薄れてしまうものだろう。
さてまた、やりたいことというのはいつでもやれるわけでもないものである。先ほどは大人になればすぐ出来る話を書いたけど、今度はその逆である。
大人になるということは余分なものをいろいろと抱えるということである。まるで脂肪のように、僕らの体にまとわりついて離れない。
それは、常識だったり家族だったり自立だったり責任だったり会社だったりとまあいろいろあるのだけど、とにかくそういう様々なものが僕らにベタベタとくっついてくる。
僕はとにかくそういうものが全然ダメな人間で、そういうものからとにかく逃げようと努力しながら生きてきたのだけど、やっぱり逃げ切れるものではないなとも思う。僕は大学も辞めて普通の社会人の道も捨て家族とも疎遠になり自発的に人と交流を持つことをせずふらふらとバイトをしながら日々だらだら本を読んでいるようなダメ人間なのだけど、それでもそういう常識だとか自立だとか責任だとか言ったものからは完全に逃れることは出来ていないと思う。これは本当に難しくて、日本で生きている限り恐らく振り切ることは出来ないだろう。最近出た新書で、「日本を降りる若者たち」というのがあって、要するに日本を出て外国に「外こもり」する若者について書いた本らしいのだけど(未読です)、そういう風にして日本を降りでもしない限り、恐らく振り切ることは出来ないだろうと思います。
そういう大人になるとぶよぶよ纏わりついてくるようなものたちは、まさに脂肪のように僕らの動きを制限します。常識的に考えて常に正しい行動を取ることを求められるものだし、自立することが求められるので何でもかんでも自分でやらないといけなくなります。言動に責任を取れるようにしなくてはいけないし、何よりも会社や家族に迷惑を掛けないことが求められるわけです。これらをすべて満たしながら、なおかつ自分のやりたいことをやるというのは、本当に困難であると言わざるおえません。
まあかと言ってじゃあ子供の頃はどうかと言えば、これもなかなか難しいものです。一番の問題はお金で、とにかく何をするにもお金がありません。まあ昨今の子供は、一人っ子であることもあって小遣いが多かったり、あるいは株をやったり援助交際をやったりカツアゲをしたりで収入源があってかなりお金を持っているのかもしれないのだけど、まあそういうのはまだ特殊でしょう。大抵の子供は金欠にあえいでいるはずです。
それにまた、子供というのは責任が取れない存在でもあって、親が責任を取れる範囲でしか行動をすることが出来ないという制限もあります。親がどれだけ懐が広いのかによっても制限されてしまうわけです。
まあ子供の場合、やる子はやるという感じで、例えば前にテレビで見たことがあるのは、小学六年生の女の子が会社を興した、という話です。何でもある商品を発明したらしく、その商品を作って売る会社まで作ってしまったらしいのです。もちろん家族の協力あってのことなんでしょうけど、すげーなとか思いました。とは言え、そんなことが出来る子供も本当に少ないと言えるでしょう。
だから僕は本当に思うのだけど、やりたいことをやるのはタイミングが重要だよなということです。僕の場合、やりたいことというのは本当にないので実感としては乏しいのですけど、でも本作のような本を読んだりするとやっぱり思います。本作では、大学の探検部のメンバーで、コンゴというアフリカの小国で、ムベンベという幻獣を探そうとする話なのだけど、これは本当にタイミングがばっちりと合っていたからこそ実現できたのだろうと思うわけです。
まず探検部が刺激的な活動を求めていたということ。最近どうもこじんまりとした活動ばかりに終始していた感があったわけです。そこに、ムベンベという幻獣についての情報を持ってきた高野と高橋という男が出てくる。そしてその話に乗っかってくる連中がどんどん増えてくる。コンゴという国はなかなか外国人を入れたがらないのだけど、しかし入国も許可された。いろんな企業がスポンサーになってくれた。行ったら行ったで、メンバーそれぞれが個性的な役割を果たして、結果オーライでいろんな物事がそれなりにうまくまとまった。
というような流れが出来たからこそ、このムベンベ探しの冒険というのが実現したわけです。恐らく高野氏が今現在大学生だったとしたら、このムベンベ探しは実現しないのではないかと思います。というのも、この計画に名乗りを挙げそうな心意気のある若者がいなそうな気がするからです。とにかく仲間に恵まれたというのが一番のポイントだったかもしれません。
大抵やりたいことというのは実現しないまま終わってしまうような気がします。世の中では、やりたいと思い続ければいつかは実現する、みたいな綿菓子みたいなふわふわしたメッセージが流れることがよくありますが、それは成功者が話をしているからそうなるだけの話で、じゃあその影にどれだけ挫折した人がいるんだよ、と僕はいつも思うわけですけど、とにかくやりたいことを実現するのは難しいです。ただそれでもやりたいことがあるなら、それに向かって無理矢理にでも前進するしかありません。最近の若者はそういう熱さを持っていない人が多いような気がしますが、どうせ無理だろという諦めみたいなものがあるのかもしれません。まあこれだけ荒んだ社会なら仕方ないのかもしれませんけどね。いくらでも夢を持つことが出来た時代に生まれたというのもまた、彼らの成功の要因だったのかもしれません。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、その後日本で唯一の<辺境ライター>になる高野秀行の初の著作です。これは著者がまだ早稲田大学の学生だった頃に、当時在籍していた探検部のメンバーで行ったムベンベ探しの顛末を一冊の本にまとめたものです。
当時探検部では、もっと探検という名に相応しいことをしようではないか、という空気がありました。小っちゃいことじゃなくて、これぞ探検だ!と言えるものをやろうと。そこに、ムベンベの情報を手にした高野と高橋が演説を打ちます。コンゴまでムベンベを探しに行こうではないか!
ムベンベというのは、コンゴのテレ湖に棲むと言われている謎の生き物で、過去二度ほど調査隊が組まれたことがあります。その時にそのムベンベの姿を目撃したという話もあり、また現地の人も度々見かけているというのです。しかし何しろコンゴという国がまだよく分かっていない国であり、さらにその奥地にあるというテレ湖については正直全然何も分かっていないというようなありさまです。まさに秘境と言ってもよく、そんなところになら未知の生物もまだ残っていそうではないか、と思われたのだ。
高野と高橋はその後探検部内に「コンゴ・ドラゴン・プロジェクト(CDP)」を立ち上げ、本格的にコンゴ行きへ向けて準備をしていくことになる。探検部ないでメンバーを募り(また探検部外からも参加者が出てくるのだが)、日本で手にすることが可能なコンゴやムベンベに関する情報をとにかく集めた。しかし日本ではどうしても情報が少ない。そこでフランス語の本を集めて(コンゴはかつてフランスの植民地だったらしい)辞書を片手になんとか読み込んでいく。それでもコンゴやムベンベについてはよく分からない。とにかく情報が少なすぎるのである。
一方で、機材や医療品なんかも方々から集めた。水中音波探知機や高指向性マイク、ビデオカメラやトランシーバーなどの高性能な機材を、松下電器やソニーといった大企業と交渉して手に入れ、また専門家に話を聞いて必要だと思われる医療品を確保する。また動物学者に話を聞いたところ、コンゴでの生物の生態は未だによく分かっていないので、どんな生き物でも持ち帰ったら価値があるとのことなので、メンバーの一人は標本のやり方を学んだりもした。さらに最大の難関であるコンゴへの入国の交渉も続け、なんとか許可を得ることが出来た。
さてこれでやっとコンゴに行ける!ムベンベを探しに行けるぞ!探検部のメンバーは意気揚揚とコンゴへと向かうのだが、まあもちろんトラブルは尽きないのである。
という話です。
これまで読んだ高野秀行の作品の中では一番落ち着きのある(破天荒さに欠ける)作品ではありましたが、それでも充分に面白い作品だなと思いました。
とにかくすごいなと思ったのは、やはり著者である高野秀行ですね。当時大学生だったとは思えないほどの行動力と交渉力には本当にお見事というしかありません。
まずムベンベを探しに行こうと言った言い出しっぺであるし、もちろんCDPのリーダーです。コンゴという国と交渉したり、また企業と交渉して機材を揃えたりなんていうことも、なかなか出来るものではないと思います。しかし何よりも僕がすごいなと思ったのは、高野氏がフランス語を学ぶ件です。
ムベンベを探しに本格的に行動をするようになったのだけど、そもそもコンゴという国は公用語がフランス語である。高野氏は辞書さえあればフランス語は読めたが、会話はさっぱりダメだった。フランス語で会話が出来るようにならなくては、と思った高野氏はどうしたか。
ちょうど乗っていた電車で隣に座っていた女性がたまたまフランス人であることに気づいたので、その女性にフランス語を教えてもらえるように頼み込んだ、というのである。
このフランス語を学ぶ件は、本作の中でもたった10行程度しか触れられていないのだけど、これは凄くないか?と僕は思いました。だって、電車の中のまったく見知らぬ人に突然フランス語を教えて欲しい、と頼み込むわけです。普通の日本人ならまず無理でしょう。電車の中にいる見知らぬ人に、煙草を一本くれというのだってほぼ無理でしょう(まあ僕は煙草は吸いませんけど)。有名人とかであればまだ声を掛けられるかもしれないけど、ホントこの行動力には凄まじいものがあるなと僕は思いました。
あともう一つすごいなと思ったことが、コンゴに行ってからのある決断に関する話です。
コンゴのテレ湖に着くや、田村というメンバーの一人が恐らくマラリアであると思われる病気に罹ります。結局田村はテレ湖にいる間ずっとマラリアに苦しむことになるのですが、そこで高野氏を初めメンバーの誰も帰ろうという決断を下さないというのがすごいなと思いました。
テレ湖というのはとにかく一番近い村からも相当離れている場所で、もちろん医療機関なんか全然ありません。だから選択肢としては、テレ湖での調査をすべて諦めて田村を医療機関に入れる(様々な要因があって、田村だけを医療機関に入れるという選択肢は取れないわけです)か、あるいは田村には薬などを与えて何とか頑張ってもらうという二つの選択肢しかありません。
その中でメンバーは後者を選ぶわけです。これはちょっとすごいなと思いましたね。薄情というのでは決してないと思います。それよりも、テレ湖での調査をどうしても続けたい、どうしても諦め切れないという執念みたいなものが異常に強かったということなんだと思います。それにしても、マラリアで死ぬかもしれないメンバーをそのまま放置して(時々薬を与えるだけで、誰も話相手になってあげなかったらしい。田村も、あまりに日々ぼーっと湖を眺めているだけなので、一週間ぐらいで考えることもなくなってしまった、と述懐しているほど)、自分達はムベンベの調査を続ける神経というのもなんかすごいなと思いました。
また他のメンバーもなかなかすごくて、企業に機材を提供してもらう際、ソニーは広報の段階で断られたのだけど、当時会長だった井深大に直訴し許諾をもらったとか、楽天的なメンバーの中にあって唯一細かなところにまで気を配る男とか、コンゴ人に「あいつは宇宙人だよ」とまで言わしめた変人であるとか、とにかくどのメンバーもひと言で言えば「濃い」です。そんな奴等が10数人からいるわけで、とんでもない探検隊だなという感じです。
しかし本当にやりたいことを無邪気に実現しちゃったという部分ではとにかくすごいです。とにかくすごい。現地で様々なトラブルに見舞われるのだけど、それを高野が現地の言葉を操って無理矢理押さえ込んだりする。そうやってなんとかやりたいことを完遂させる。その真っ直ぐな熱みたいなものは羨ましいなと思いました。
現代では失われつつあるものが本作には残っているような気がします。まあそれを取り戻したいかは別として、是非読んで欲しいと思います。冒険魂に火がつくかもしれません。

高野秀行「幻獣ムベンベを追え」


幻獣ムベンベを追え文庫

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2007年10月21日

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寮美千子『ラジオスターレストラン』
少年ユーリとイオは、星祭の夜に不思議な体験をする。
絶滅したはずの牙虎。
謎の博士がいる電波天文台。
パラレルワールドが始まる。

尚、ユーリ少年は『小惑星美術館』と『星兎』にも登場。
特に『小惑星美術館』は対の作品。
同時期に読むと世界が広がります。

小惑星美術館 (貘の図書館)星兎

読み終わって、考えていることが全て詰まってると思いました。最後に一文にうるっときました。個人個人の物語のような気がします。

以下ネタバレがあります。
先入観なしに読みたい方はここまで。



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寮美千子『小惑星美術館』
12歳の少年、ユーリはオートバイ事故にあった直後、地面がめくれ上がった世界にいた。
ユーリは小惑星美術館にいくことになる。
そこには完璧に計算された世界があった。

尚、ユーリ少年は『星兎』と『ラジオスターレストラン』にも登場するので、こちらも同時に読むと世界が広がります。
特に『ラジオスターレストラン』は対の作品。

星兎ラジオスター レストラン

初めて読んだのに、妙に懐かしくて初めてという気がしませんでした。
後半、ユーリに託されたことは夢で見た気がします。

以下ネタばれがあります。
先入観なしに読みたい方はここまで。



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2007年10月21日

少年と兎の話 星兎

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 レビュー

寮美千子『星兎』
少年ユーリは、兎と出会った。
ユーリと兎の物語が始まる。

歩いて話す兎といえば『不思議の国のアリス』が思い浮かぶけど、どちらかというと出会ったことが大切なので『星の王子さま』に似ている気がしました。
最後の一文にほろりときました。
人との邂逅。
本との邂逅。

尚、少年ユーリは『小惑星美術館』『ラジオスターレストラン』にも登場。
併せて読むと世界が広がります。

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2007年09月28日

瀬戸内寂聴【晴美と寂聴のすべて】

出奔、妻子ある男性との恋愛、精力的な作家活動、そして出家と、激しい人生を自らのエッセイでたどる本。


晴美と寂聴のすべて 1 一九二二~一九七五年 (1) (集英社文庫 せ 1-35)晴美と寂聴のすべて (1) (集英社文庫 せ 1-35)
(2007/07)
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晴美と寂聴のすべて (2) (集英社文庫 (せ1-36))晴美と寂聴のすべて (2) (集英社文庫 せ 1-36)
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先日、『文藝春秋』で石原慎太郎都知事と瀬戸内寂聴先生の対談を読みました。

石原都知事から「なんで出家したの?」と何気ない調子で質問があっても、寂聴先生からは明快な返答がない。私はたまたま買い置いていた【晴美と寂聴のすべて】を読めば出家をめぐる事情が何かわかるだろうと思っていたんです。


が……


「出家の動機など、これこれですと誰が示せるだろう。私の生きて来た五十年の歳月のすべてに、出家の動機の仏縁は御仏の手でひそかに結びつけられていたのであろう」


と先生は書いておられまして、凡夫のわたくしは頭(こうべ)を垂れるばかりでございました……。

そりゃそうだよね。出家だもの。仏の道に入るんだもの。これは個人の心の問題であって、マスコミが記事にしやすいような、とっても分かりやすい動機など存在するはずがない。



で、出家した後に名前が「晴美」から「寂聴」に変わるわけですが、人柄は出家の前も後も変わらないみたいですね。とにかく直情的というか、思い立ったら行動せずにはいられないかた。

変わったのはその「情」が向かう方向だけなのでしょう。出家前は男性に向かい、出家後は世のため人のために尽くす方向へ突き進んでいらっしゃる。

エネルギーの爆発力は凄まじいものがおありです。

それだけにエッセイの内容は面白いです。「読み応えがある」という意味でも「笑える」という意味でも面白い。



2007年の今は85歳となられ、目の手術をお受けになったとも聞きますが、いつまでもお元気でいていただきたいと心から思います。



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2007年09月09日

本屋大賞 東京タワー

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
リリー・フランキー

扶桑社 2005-06-28
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レビュー

リリー・フランキー『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』。
両親は別居。ボクはオカンと二人暮し。つましくてもオカンは料理を毎日作り、ぬか漬けが食卓にある生活。
ボクは高校を卒業し、大学進学で上京。
東京での生活と家族を綴った自伝小説。

図書館で予約して5ヶ月でようやく順番が回ってきました。本屋大賞を受賞し、ベストセラーになり、映画化、ドラマ化した原作。
読後感はオカンの愛は温かかった。
温かいから涙が溢れてくる。
だからといって泣けるだけではないものがあった。
それは、読んだ人はこの本を閉じ、自分が育った家庭環境を想いだすから。
ぬか漬けはわたしにとっても母の味。市販のものはどうしても口に合わないことが多い。実家からぬか床を分けてもらい、母の味を再現。子供のころから馴染んだ味は懐かしさがある。ただ、そのぬか床は管理ができない時があり今はない。実家のぬか床は母が他界後も父が管理して生きている。実家で食事する時は必ずそのぬか漬けがある。
また、オカンが病を患い、戸惑うボク。
この感情もよく分る。どこかで受け止めねばならないと思っても現実を見ることができなくて、毎日泣いていた。
前世紀のことなので消化はしている。
誰にでも訪れること。
それが世代的に少し早かった。
本の中でもそのことは触れている。


・・・・空を見上げようかな。

2007年05月30日

ゆっくり歩け、空を見ろ(そのまんま東)

親との関係だったら、僕だってそうは負けてはいないと思う。
もう既にこの感想で何度も書いているけども、また書いてしまおう。
僕は今では、親とはほとんど連絡を取っていない。時々ポツリと父親からメールが来るくらいで、それに僕もポツリとした返事を返すくらいである。母親とのやり取りはない。最後に母親と何らかのやり取りを交わしたのは、去年の夏くらいの祖父の葬式のために地元に戻った時である。ここ5年間くらいで、母とやり取りを交わしたのはその時くらいではないだろうか。
僕にはいまいち、家族というものの存在が理解できないでいるのだ。もしかしたら今後、万が一にも結婚するようなことがあり、自分自身の家族を持つようなことがあれば何らかの形で理解できたりすることなのかもしれないが、しかし物心ついた頃から今現在まで、家族のありがたみやその確かさみたいなものについて何か意味のあることを感じたことは一度もない。
出来るだけ家族とは深入りしたくはなかったし、出来る限り関わりたくないと思っていた。
特別何があったというわけではなかったと思う。確かに子供の頃、両親はよく喧嘩をしていた。子供の判断であったのでなんとも言えないが、僕にはその喧嘩は、母親が理不尽な理由で父親を一方的に責めているように感じられた。もしかしたら僕が知らないなんらの事情があったのかもしれないが、その印象が消えることは決してないだろう。
しかし、僕への接し方は普通だったし、あるいは普通以上に優しいものであったかもしれない。僕には妹と弟がいるのだが、恐らく僕が一番ちゃんと扱われていたと思うし、恐らく何らかの形で期待をしていたのではなかったかと思う。つまり、僕自身親に何か厭なことをされたということは決してなかったということである。
しかしそれでも僕は、気づけば親のことが嫌いだった。
それは、単純な反抗期というものとは違うように今でも思う。というか表面上、僕には反抗期はなかったはずだ。親に反抗したことはほとんどないし、親の前では幾重にも仮面を被ってはいい子を演じていた自信がある。後年、子供の頃から親のことが嫌いだったと両親に告白したのだが、心底驚いたような顔をしていたものだ。
ただ反抗したかったから嫌いになったというような単純なものではない。僕は冷静に自分自身の内面を見据え、本当の意味で親のことが嫌いであるということを何度も確認したくらいである。そうやって僕は、ゆっくりとしかし確実に、内心では親への態度を硬化させていったのだ。
今では当時のことを振り返ることはほとんどないが、しかし考えてみると、僕は○○(母の名前)と○○(父の名前)が嫌いだったというのではなく、親という存在そのものを嫌悪していたのだろう、と思うようになった。僕の両親と、親ではない別の形で知り合っていたとしたら、恐らく嫌いになることはなかったのではないか、と思う。○○と○○が残念ながら僕の両親であったがために、僕は彼等を嫌いになってしまったのだろうな、と。
僕にとって家族というのは、どうしても近すぎる存在なのである。生きてきた背景も年齢も価値観も積み重ねてきたものもすべて違うのに、ただ血が繋がっているというだけで近い関係にまとめられてしまうことにどうしても僕は納得がいかないのだ。僕にとって家族というのは、いつまでも分かり合うことが出来ない永遠の他人でしかないのに、社会が勝手に親族という括りでまとめあげてしまうのだ。恐らく僕はそれに反発したかったのだし、今でも反発し続けているのだろうと思う。人間の関係性は、与えられるものでは決してないのだということを、なんとか証明しようとしているのかもしれない。
そう考えると、多少ではあるが両親に申し訳ないという気持ちも生まれてくる。はっきり言ってしまえば、僕の子供じみた張り合いのせいで、僕は両親と対峙しているということになる。こんな馬鹿馬鹿しいことに巻き込んでしまうのは、悪いのかもしれない。しかし、僕にはそれを改善しようという意思は全然ないし、どうやったって親を好きになったり近い存在であると認識することは出来ないのである。まあ運が悪かったと思って諦めてもらうしかない。
親とこのままの関係を続けていってもどこにもたどり着かないことは分かっている。それでも僕は、このままの道をまっすぐ進み続けることだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、そのまんま東が「僕」という一人称で書いた自伝的小説です。長いこと会っていない父親を探しに行くというのが大筋の話です。
僕はある日、ニュースに自分の名前が出てきて大層驚いた。そのニュースは、とある風俗店で未成年が働いていたというものだったが、その風俗店に通っていたということで僕の名前が出たのだ。
以来僕の居場所はなくなった。家に帰ればマスコミが寄ってくるのでホテルを転々とした。母や姉にこれでもかと詰られた。仕事もこなくなった。ただ街をあてどもなく歩くしかなかった。
父親を探しに行こうか。
ふと思ったことだった。今息子が8歳になった。父親と離れ離れになったのも8歳の頃だった。今息子が自分を見たら、それは僕が父親を見るようなものなのだろうか。そんな連想もあった。
飛行機に乗り、故郷である宮崎へと向かった。父親の足跡を辿りながら、僕は子供の頃を思い出していた。
土地を持っていたために裕福であった父親と、その「妾」として生きていくことを決めた母、そして僕と姉の生活だった。
世話好きで話が面白く、山に詳しかった父。お金はあるのにいつも下女のような格好で生活をしていた母。父に気に入られていた姉。そして僕。金銭的には裕福であったが何故か余裕のなかった日々。両親の激しい喧嘩。妾という立場の母と、妾の子という立場の自分。そうした果てにあった、父親との別離。
今の自分を乗り越えるためには、父親を探し出して殺すしかない。そう決意し、宮崎の地を駆け回る…。
というような話です。
僕は正直、かなりキワモノの本かと思っていたんですけど、全然そんなことはなく、むしろ結構レベルの高い小説だなと思いました。例えば芸人が書いた本ということで比較をすれば、千原ジュニアの「14歳」や品川ヒロシの「ドロップ」なんかよりは全然いいと思います。まあ、劇団ひとりの「陰日向に咲く」にはやはり劣ると思いますが。
また、自分の過去を親というテーマで自伝的に語るという構成が、リリー・フランキーの「東京タワー」に少し似てるなという風にも思いました。もちろん「東京タワー」には及ばないですけど、でもなかなかいい作品だと思います。
ほとんど回想がメインの小説なのだけど、その回想部分が非常にいい雰囲気をかもし出している作品です。一つ一つの出来事が非常に繊細に描かれていて、一つ一つのエピソード自体はなんということもないのだけど、それらをいくつもいくつも積み上げていって当時のことを描き出しているうちに、次第に過去が現在を侵食してくるようなそんな感触がありました。それくらい細かなエピソードをいくつも積み上げていて、しかもそれら一つ一つのエピソードについて、自分がどう感じたのかということを丁寧に描写していて、なかなかのものだなと思いました。
しかしまあ思うことは、よくもまあそんなに昔のことを覚えているな、ということです。本作は恐らく自伝的な小説であって、書いてあることも概ね実際のことなんだろうと思うんですが、昔のことなどからきし忘れてしまっている僕としては驚くばかりです。まあもしかしたらほとんど創作だったりするのかもしれないけど、でもそれだったらそっちの方がさらにすごいですね。普通に作家としてやっていけると思います。
また文章そのものがなかなかうまくて、びっくりしました。的確に物事を表現しているなと思わせる文章が多くて、しかも無駄がないな、と思いました。作家以外の人が書いた小説というのは、話自体は面白くても文章が結構致命的だったりするんだけど、本作は全然そんなことがなくて僕はうまいな、と思いました。まあ、心のどこかで、芸人の文章にしてはうまいな、とか思っているのかもしれませんけど。
あと読んでいて、あぁこれは僕と同じだなと感じた部分があるので抜き出して書いてみます。

『僕はこの頃、外敵から自分を守る手段として、成績優秀というバリアを張ることを決めていた。有無を言わせない圧倒的成績がきっと僕を守ってくれるに違いないと信じていた。「たなか」の姉さんたちの匂いのように。
お陰で、国家の子を育成しようとするだけの無能な教師達は、僕に有能とか俊才とかいう称号を持ちきれない程与えてくれたが、代わりに僕は幾つか重要なものを無くした。具体的に言えば、澄んだ空を謳歌する気持ちとか風を素直に感じる心とか人の死を心から悼むといった、抽象的だけど何かまっすぐなもの…上手く説明できないが、周りの「風景」とかそういったものを感じる心だった。』

なるほど、と思いました。確かにそうだ、と僕も思いました。
かつては芸人として、そして今では知事として活躍しているわけですが、その陰にこれだけの少年時代があったのかという感じがします。感動というのとは少し違うけど、じわじわとした何かが押し寄せてくるようなそんな作品だと思いました。薄い本だし、結構オススメです。読んでみてください。
それにしても一番納得いかないのは本作の装丁です。帯がある状態ならいいんだけど、帯を外した時の本のマヌケさといったら…。これはちょっと失敗でしょう。

そのまんま東「ゆっくり歩け、空を見ろ」


ゆっくり歩け、空を見ろ文庫

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