「…前園佐知子さんは、有機リン酸系の農薬の摂取により死亡しました。自宅の冷蔵庫にあったオレンジジュースに混入されたとみられています。」
そのニュースを聞いて私はすっかり怖くなってしまった。冷蔵庫の中のものに毒が入っているかもしれない。可能性はものすごく低いだろうが、でも決してありえないわけではない。そう考えると、冷蔵庫の中にあるものを食べることが出来なくなってしまった。そのせいで、一時拒食症のようになってしまい、ノイローゼ気味になった。
そんな風に考えるようになったのには、夫の浮気がある。夫はまだ隠し通せていると思っているようだが、私はもう確信していた。最近の夫の素振りから、その浮気はかなり本気であり、私の存在を疎ましく感じている様が感じられる。もちろん、気のせいかもしれない。しかしそんなこともあって、もしかしたら夫が毒を仕込むかもしれない、という妄想に発展してしまうのだった。
その広告を見つけたのはそんなタイミングであり、私にとってはすごくタイミングのいい話だった。
友人宅に遊びに行った時のことだ。その友人はケーキを焼くのが趣味で、時々人を集めてお茶会のようなことをする。その集まりに呼ばれたのだ。
友人の旦那は薬品などを開発している会社に勤めていて、その関係もあってか自宅には普通の人が購読しないような雑誌が置かれていた。何気なく開いたその雑誌の広告に、ある程度の毒薬であれば判別可能な試薬が載っていたのだった。その試薬を一滴垂らすだけで、ある程度の種類の毒薬であれば混入しているかどうかは判別可能だという。しかもその試薬自体は口に入れても問題のないもので、食品に入れても問題ないということだった。
そこで私はさっそくそれを取り寄せ、日々食品に垂らすようになった。もちろん、気にしすぎだろう。しばらくして気が済んだら止めればいい。試薬を入れて毒薬の有無を確認すれば食事も普通に摂れるようになってきた。ノイローゼからも回復しつつあるようだし、私はまた前のような穏やかな生活を取り戻すことが出来るようになった。
男は帰宅すると、床の上に倒れている妻の姿を見つけた。
(まああっさりとしたものだな)
男は計画通りにことが進んだことに満足し、警察と救急車を呼んだ。
(これでやっとアイツと一緒になれる。長かったな)
男はテーブルの上にあった小瓶を手に取ると、中身をトイレに捨てた。
(まさか試薬の方に毒が入ってるとはこいつも思わなかっただろうな)
一銃「毒殺」
書いている途中で、『試薬の中に毒を入れたら、試薬がそれに反応して毒が入ってることがバレバレじゃん』とか思ったけど、時間がなかったのでそのままにしました。これぐらいのことは書き始める前に思いつかないとダメですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
専業主婦の恭子はある日一人の女性から電話を受ける。夫の子供を身篭った、夫はあなたとは離婚するつもりだという内容で、夫の不倫相手からのものだった。恭子は頭に血が上り、咄嗟に計画を練って不倫相手を毒殺することに成功する。
しかしその後何日過ぎても、自分が殺した不倫相手が妊娠していたという事実が報道されることはなかった。まさか自分が殺した女性は妊娠していなかったのだろうか。そもそも私が殺した相手は、本当に夫の不倫相手だったのだろうか…。
疑心暗鬼になる恭子だったが、警察からの追及を予想してありとあらゆる手を尽くすと共に、警察から情報を引き出そうと奔走する。
一方で警察は、被害者の不透明な金の流れに着目し捜査を続けていた。しかし刑事の戸田は、現場の不自然さや犯人が取ったかもしれない謎の行動から、捜査本部の方針とは違った形で捜査を続けていた。早い時期に、犯人は恭子ではないかと当たりをつけていた戸田は、恭子を追い詰めるべく執念で捜査を続けるのだが…。
というような話です。
本作はついちょっと前、米倉涼子が主演でドラマ化されたこともあって大きく話題になりましたね。一時期各書店でも大々的に展開されていたはずの本で、かくいう僕ももちろん店頭で大きく並べていましたし、今も平積みで積んでいます。
僕は正直、世間的に売れている本との相性ってあんまりよくないんですよね。これまでも世間的に話題になって売れた作品を結構読んで来ましたけど、そのほとんどが僕には大した作品だとは思えなくて、内容と売上は関係ないのか、あるいは僕の読書傾向が世間と違うのか、まあそんな風に思っていました。
でも本作はかなり面白かったですね。世間的にヒットした作品の中では、珍しく僕にも合う作品でした。
本作は、解説でも書かれているように、全体のプロット的には特に目新しい部分があるわけではないです。犯人視点と刑事視点という二元中継もよくあるし、男女のいざこざが殺人に展開するというのもよくあるし、刑事が足をすり減らすというタイプの警察小説もよくあります。
でも、そういうよくある小説の型を使いながら、非常に読ませる作品を書くんですね。
まず設定が非常に面白いですね。恭子は夫の子供を妊娠したと告げた女性を殺すのだけど、実際彼女は妊娠していなかった。ただ嘘をついただけなのか?あるいは私は騙されたのだろうか?という設定で、これはかなり読者を惹き付けますね。物語のあらゆる状況も、この設定を巧く活かすように整えられていて、この小説の核となる部分がかなり魅力的で面白いなと思いました。
この設定で小説を書く上で非常に巧かったのが、犯人側と警察側両方の視点から物語を描いたことですね。倒叙型という形ですけど、これによって恭子側と警察側でいろんな食い違いが起こるんです。恭子の側からは事件はこういう風に見えているけど、警察の側からはこんな風に見えている。そのズレが、本作の登場人物には初めの内はわからなくて、ただ読者だけがわかるという感じが面白いんですよね。
それにさらに面白い点が、犯人の恭子と刑事の戸田の戦いの構図ですね。恭子というのは非常の頭のいい女性で咄嗟に計画を立てた犯行ではあったけれども、容易には追及できないような形で犯行を遂げます。一見すると、恭子の犯行には穴がないように思えます。完全犯罪に近い、と言っていいでしょう。
しかし、足で捜査するというベテラン刑事である戸田は、そんな完璧に近い恭子の計画を少しずつ打ち砕いていくことになるわけです。この過程は遅々としていて、恭子が犯人であることを知っている読者からすれば多少じれったい感じもしますけど、ただ戸田がそうして執念深く捜査を続けることで、逆に恭子の頭の良さが引き立っていくという構図になっていて、面白いと思いました。
恭子と戸田のバトルは二転三転し、最後までもつれ込んでいきます。結局どっちが勝ったと言えるでしょうか。それは読んだ人それぞれの意見ということで。
後半の展開なんかはなかなかお見事で、まさかこんなことが起こりうるとは、という感じですね。もしかしたら本作全体を通じて、現実にはありえないような描写や展開があるかもしれないけど、まあたとえそういう部分があっても(特にそのまさかの展開の部分は現実感が薄いかもしれませんが)、それでも本作の面白さは衰えないだろうなと思います。
松本清張の作品はほとんど読んだことはありませんが、本作は松本清張のようなミステリだと評されます。恐らく、戸田のような執念深い刑事が出てくるからそんな風に評価されるのだと思いますが、かといって古臭いわけではなく、どんな世代の人でも面白く読める作品だと思います。
ただ一点、僕がどうしても納得できない点があります。
本作では、恭子の犯行の動機について繰り返し語られます。読者からすれば、恭子が受けた電話の内容を知っているわけで、恭子の動機についてはそれなりに理解できますが、恭子以外の人には、浮気相手から電話があったというだけで殺意が芽生えるというのが理解できないわけで、そこが何度も追及されることになります。けど、結局恭子は最後まで適当にはぐらかしてかわしてしまうんですね。
でもこれっておかしくないかな、と僕は思うんです。ちょっとだけネタバレになりますけど(大した内容ではありません)、本作で警察は、恭子の不妊治療に関して一切捜査をしていません。冒頭で恭子は不妊治療をしていたという描写があり、また戸田も捜査の途中で、恭子は不妊だったのではないか、という疑問を抱いています。であれば、恭子が行っていた産婦人科医と特定し何らかの捜査をするのは当然のような気がするんですけど、どうでしょうか?僕は、どうして刑事が誰もその捜査をしないのかが不思議でした。特にあれほど執拗な捜査をしていた戸田が、この点だけ失念したようになっているのは解せないなぁ、と思います。まあでも本作で僕が不満に思う点はそれぐらいで、後は全体的に非常に面白かったと思います。
文章も読みやすいし、テンポもいいです。二転三転する展開は読み応えがあるし、倒叙型のミステリとしての完成度も高いと思います。新人の、しかも60歳を超えてのデビュー作というのがビックリですね。
もう一つビックリといえば、本作は元々自費出版で出されたんですよね。自費出版というのはもちろん、著者自らがお金を出して本を出版することです。僕としては、これぐらいのレベルの作品だったら、どこかの新人賞に出せば受賞できたと思うんですけど、何故かそうはしなかったんですね。
それからその自費出版された本に幻冬舎という出版社が目をつけ単行本として改めて出版し、それからドラマ化に合わせて文庫化したわけです。自費出版から有名になった作家に山田悠介がいますけど、かなり珍しい形でのデビューだと言えるでしょう。
まあそんなわけで、読んでみる価値のある作品だと思います。長いですけど読みやすい作品で、面白いと思います。是非読んでみてください。
天野節子「氷の華」
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