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2008年05月29日

「追伸」真保 裕一


「追伸」真保 裕一
271p 文藝春秋

ギリシャへ 赴任していた悟に 一緒に来るはずだった妻・奈美子から 一方的に離婚を切り出す手紙が 届いた。

なんか最後まで読んだけど、真保 裕一作品としたら すごく物足りなさを 感じてしまった。

2008年05月29日

「Carver’s Dozen」

これはなんというか、立派な人が一人もでてこない立派な小説です。

「Carver’s Dozen」レイモンド・カーヴァー著、村上春樹編・訳(中公文庫)  ISBN:9784122029576 (4122029570)

村上春樹が愛する短編、詩、エッセイを収めた「レイモンド・カーヴァー傑作選」。1編ずつ、冒頭に村上春樹の短い解説が付いていて、引用はその中の一節だ。

あらかじめ筋書きを知っていても、読んでしみじみとしたり、はっとしたりするのは何故だろう。突然、掃除機のセールスマンが家に訪ねてくる「収集」の、居心地の悪さ。名前はつけられないけれど、何か大切なものを見つけた感じがする「大聖堂」。そして何といっても、一人息子が誕生日の朝に事故に遭ってしまう夫婦を描いた、「ささやかだけれど、役に立つこと」。理不尽な人生に対する深い悲しみと、悲しいからこそ感じることができる温かさ。泣けます。本を読む楽しみを噛みしめる一冊。(2008・5)

2008年05月28日

宮部みゆき【天狗風】

空が異様な朝焼けに染まり、突風が吹き抜けたとき、江戸深川で嫁入りを控えた娘が忽然と姿を消した。父親は番屋にかけこみ、「娘が神隠しにあった」と訴えたが、娘殺しの疑いをかけられて苦境に立たされる。

南町奉行所で奉行をつとめる「御前さま」こと根岸肥前守鎮衛は、一膳飯屋「姉妹屋」の看板娘・お初を人目につかぬよう呼び出し、事の真相を調べさせる。

お初には人に見えないものが見え、人に聞こえないものが聞こえるという。その不思議な力で岡っ引きの兄・六蔵を助けながら調べを進める。しかし新たな神隠しが起こり、謎はいっそう深まってゆく。

『震える岩』につづく「霊験お初捕物控」第2弾。


天狗風―霊験お初捕物控〈2〉 (講談社文庫)天狗風―霊験お初捕物控〈2〉
(講談社文庫)

(2001/09)
宮部 みゆき

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評価=☆☆☆☆☆  (5つ星が満点)


読み始めてから、『震える岩』がシリーズ第1弾だと知りました。しかし順番が後先になっても特に差し支えなさそうです。


震える岩―霊験お初捕物控 (講談社文庫)震える岩―霊験お初捕物控 (講談社文庫)
(1997/09)
宮部 みゆき

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なんといっても超能力少女のお初ちゃんが明るくて可愛い。彼女は、物の怪と何らかの関わりを持った人を見ると、いろいろと不気味なものが見えてしまうそうです。

こんな超能力なら、ないほうが幸せかもしれませんが、見えてしまうものはどうしようもない。お初ちゃんは自分の不思議な力を前向きにとらえ、御前さまに頼まれた調べ事に駆けまわります。



お初ちゃんの家では義姉さんが一膳飯屋を切り盛りし、六蔵兄さんが岡っ引きです。

その六蔵兄さんが、事件に関わりのある人物を、やむを得ず家に連れて帰らなきゃならないことがある。その人物が暴れて客を驚かせる場合もあります。

一膳飯屋の板前さんはそういう事情を飲み込んでいて、客に「お上のお役目に関わることですので、どうぞよしなに、知らん顔をなすってください」と声をかけ、腕によりをかけた一品をお代なしでお客さんたちにふるまいます。

なんだよ、この一品で口止め料のつもりかよ、おれは黙っちゃいないぜ、なんてガタガタ抜かす輩はいません。江戸の人びとは粋でございます。



「天狗風」というタイトルから考えて、ストーリーの最終局面で超能力少女お初と天狗の一騎打ちになることは想像がつきます。超能力ものを苦手ジャンルとする私、それだけで終始する本なら途中リタイアは必須かと思われます。

しかし、これがなかなか一筋縄ではいかない厄介な事件。その中核には、人間の心の底に泥水のように溜まっている悪意や憎悪があるのでしょう。

ストーリーを追いながらディテールを堪能でき、ほどよく泣かせてくれる一冊。


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2008年05月28日

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯(ウェンディ・ムーア)

伝記によれば、江戸時代の解剖学者土井垣伊之助は、生涯で2000体を超える死体の解剖をした、とされている。しかしその生涯はちゃんとは分かっていない。彼は、その解剖の記録をまったく残さなかったようなのだ。学術的な探求から解剖を行っていたのだとすれば到底考えられない話である。
この話はその、伝記に載ることのなかった、一生を解剖に捧げたと言っても過言ではない男の、数奇な生涯の話である。

(あと一つだけなのに)
土井垣伊之助は、死体の腹を掻っ捌きながら、いつものようにそう思っていた。彼は焦っていた。どうしても見つけなくてはいけないのに、それがどうしても見つからないのだ。
彼は、腸を肝臓を子宮を膀胱を切り裂き、また肋骨を折っては肺や心臓まで切り開いて行った。後で臓器を標本にしたり、何か理屈を持って解剖に当たっているのではないことは明白だった。事実彼は生涯に一つも標本を作製しなかったし、散々切り刻んだ死体の始末は助手にやらせ興味がなかったのだ。人々は、彼が学術的な探求から死体の解剖をしているのだ、と思っていた。杉田玄白による「解体新書」が世に出始めていた頃でもあったし、死体を解剖するということについて世間の理解が若干得られているような時期だった。しかし、彼のごく近くにいた人々は彼を畏れていた。彼の近くにいたのは、医学者や解剖学者の卵であったが、彼らは一様に、伊之助の解剖についていぶかしんでいた。目的がまったく分からない中、彼らは伊之助は悪魔にとりつかれてしまったのではないか、と噂をしていた。
(早くしないと間に合わない)
伊之助は、ナイフを握る手に力を込めながら、人体の内部を引っ掻き回していた。まだメスなどない時代のことである。切れ味のいいナイフを使い、血まみれになりながら、真冬でも真夏でも解剖を続けた。真夏の解剖は地獄のようだった、と助手は証言している。あの臭いは、地獄でも嗅がせることはないだろう、と。そんな環境の中、伊之助は平然と解剖を続けるのであった。
伊之助は、死体さえ手に入ればいつどんな時でも解剖を続けたものだったが、しかし日に日に体は弱っていった。当時治療法が確立されていなかった重篤な病に冒されていたのだった。普通であれば、激しい運動や長時間の労働などは絶対にダメであった。しかし伊之助は、解剖をすることが自分の死期を早める可能性があると知った上で、それでもなお解剖を続けるのだった。
(これは生きている人間を襲うしかないのだろうか)
探せども探せども、あの一つがどうしても見つからない。6つまでは見つけたそのs戦利品は、床下に厳重に保管してある。あと一つ見つけさえすれば、自分の命は助かるはずだ。死んだ人間だけを相手に悠長に探しているわけにもいかない。もう自分の死はすぐそこまで迫っているのだ。これまで、生きている人間に手を出すのはダメだ、と思っていた。しかし、その考えを改める時期に来ているのかもしれない。
そんな野蛮な考えを抱いていた矢先の話だった。いつものように腸を漁り心臓を切り裂いていた伊之助は、肺を切り開いた時にようやくそれを見つけた。
(星が4つ。まさに四星球だ!これで7個すべて揃った!)
一部の人には説明が必要であろう。この「四星球」というのは、かの有名な漫画「ドラゴンボール」に出てくるもので、7つすべて揃えると願いが叶う、と言われているものである。7つ揃えると、神龍(シェンロン)という神様が出てきて、一つだけ願いを叶えてくれる。一星球から七星球まであり、それぞれにそれぞれの数字の分だけ星型のマークが入っている。
伊之助が探していたのはこれだった。彼はとあるきっかけで人体の解剖をした際、人間の体内から六星球を見つけたのだった。古い伝記や逸話などが好きだった彼は、後に「ドラゴンボール」という名前で有名になるこの球は、七つ集めると願いが叶うことを知っていた。そこで、解剖の度に気まぐれに探すことにしたのだ。当初は病を患っていなかったため急いで探してはいなかったのだが、病気が発覚してからは他のすべてのことを差し置いてこのドラゴンボール探しに熱中したのだった。
ようやく集め終わった伊之助は、早速神龍を呼ぶことにした。
「出でよ、神龍!」
すると巨大な龍が空を多い尽くした。神龍は言う。
「願いを一つ叶えてやろう」
伊之助は待ちに待ったこの瞬間、自分の病気を治して欲しい、と言おうと思い息を吸ったその瞬間だった。
「おなごのパンティが欲しい!」
町人の誰かがそう叫んだと伝えられている。どこにでもそういう輩はいるものである。
結局伊之助の願いは叶わず、そのショックもあったのだろう、伊之助はその直後火が消えるようにして死んだのだった。

一銃「伊之助の不幸」

なかなか酷い出来ですね。最近はホントこんなんしか思い浮かばないんだよなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、18世紀のイギリスに生きた、ジョン・ハンターという解剖学者の生涯を描いたノンフィクションです。このジョン・ハンターは、「ドリトル先生」や「ジキル博士とハイド氏」のモデルになった人物であると言われていて、帯の文句をそのまま写せば、
『奇人まみれの英国でも群を抜いた奇人!』
ということになるようです。
僕はこの前情報を読んで、こんな印象を抱きました。解剖医としては飛び切りの腕を持つのだけど死体にしか興味がなく、腕はいいんだけど周囲からは気味悪がられて変人扱いされている、というようなイメージです。どうでしょう、この帯の文句と、「ジキル博士とハイド氏」のモデルになったというところから、なんとなくそんなイメージを持ちませんか?
でも実際は全然違いました。このジョン・ハンターという解剖医は、まさに近代医療の基礎を作ったと言っても過言ではない男で、解剖医としてだけではなく外科医や生物学者としても一流で、また周囲の人間にはかなり慕われていて、世間的な地位もメチャクチャ高かったようです。僕のイメージとは全然違った、全然奇人じゃないがな、と思いましたが、内容は非常に面白かったですね。
ジョン・ハンターは子どもの頃は出来損ないだったのだけど、医者として活躍し、解剖学教室を開いた兄ウィリアムに誘われて彼の助手になったことが人生の転機になりました。初心者とは思えないメス捌きで完璧な解剖をして見せたジョンは、死体の調達という闇の部分も含めて、ウィリアムの助手として大いに腕を振るいました。ジョンの解剖は完璧で、技術が高かったこともあるのだけど、それ以上に観察したことしか信じない、という主義を明確に持っていたことが、後々彼を名声に導くことになります。ジョンはかなり多くの発見をすることになりますが、そのほとんどの功績はウィリアムに奪われてしまいました。
それからジョンは、外科医になります。たった200年前の話ですが、当時の医療というのは恐ろしいぐらいお粗末なもので、科学的とは言いがたい様々な治療が行われていました。蟹の目が薬であるとして処方されたり、病気は体内の体液のバランスの問題である、という古来からの学説を鵜呑みにし、まったく効果のない瀉血(血を抜くこと)を繰り返したりと言った有り様でした。免許を持った医者であろうがいかさま師であろうが与える治療に大差はなく、根拠のない迷信を信じて民間医療が大流行するようなそんな時代でした。
そんな医学界にあってジョンは、これまでのやり方というのを一切信じませんでした。彼は動物実験から始め、その後人体でも様々な実験をするようになり(自分を被験者にすることもあった)、その観察と記録によってより効果的な治療法を様々開発してきたわけです。冒頭で、膝の裏に動脈瘤が出来てしまった御者の話があるんですけど、当時この動脈瘤の手術は、足を切るというものしかありませんでした(もちろん麻酔はありません)。この動脈瘤は放って置くと死に至るようなものだったので、結局足を切るという選択をするしかなかったわけです。
しかしジョンは、足を切らなくても動脈瘤を取ることの出来る手術を生み出します。もちろん一発で見つけることが出来たわけではないですが、推論と実験と観察によって、効果的な治療法を生み出しました。
しかし当時の医学界では、こんなジョンのやり方は異端であるとされました。たまたまうまくいったのだ、というような嘲笑をされることが多く、彼は生涯多くの同業者と敵対することになりました。当時の医者は、効果があるか分からない治療や手術をしてお金を稼いでいたわけですが、しかしジョンは、なるべく治療も手術もしない、という自然治癒力に任せた医療というのを既に提案していました。もちろんこれも、当時の医学界では受け入れられないわけですが。
しかし一方で、民衆の間でのジョンの評価はどんどんと高まっていきます。ジョンに治療や手術をして欲しいとやってくる患者、またジョンの解剖学の講義を聞きたいとやってくる医者の卵などが列をなし、ジョンの名声は否が応でも高まっていきました。
そんなジョンですが、唯一趣味だったのが標本蒐集です。もちろん実益を兼ねた趣味ですが、最終的に彼は博物館まで作ってしまうほどの標本をたった一人で集めてしまいます。珍しい動物や人間の臓器などはもちろん、奇形の動物や珍しい症例の病気など様々な生物学的に有益な標本を集めた博物館であり、また、当時まだ神が世界を創り、すべての生き物は現在の形のまま生み出されたと信じられていた時に、進化論のさきがけのような主張をし、また人類の祖先は黒人だったという驚くべき意見を口にして周囲を驚かせました。
そんな、現代医学の父と言っても言いすぎではないだろうジョン・ハンターという男の、情熱に満ちた生涯を描いた作品です。
なかなか面白いノンフィクションで満足しました。当時の医療のお粗末さと、そんな環境の中で提示したジョンの画期的な治療法の数々の対比が素晴らしいと思ったし、医学の向上のためにまさに自分の人生を捧げたその生き方は賞賛に値する、と思いました。一日19時間仕事をしたそうで、それは晩年でも変わらなかったそうです。もう尋常ではないですね。また、後年は様々なところからお金が入ってきて収入的にはかなり裕福だったはずなのに、そのお金のほとんどを標本集めのために使ってしまったというのもすごいものだな、と思いました。彼は、いいところのお嬢さんと結婚したんですけど、よく結婚生活が続いたものだよなぁ、と思いました。
本作を読んで驚いたのが、解剖のための死体をいかに集めるか、という部分です。基本的には墓泥棒に頼んで持ってきてもらうわけなんだけど、時には死刑囚の死体を手に入れることもあります。
しかしこの死刑囚の死体を手に入れる話、現代人の感覚からするともう無茶苦茶なんですね。
当時死刑は公開されていたようで、周囲には死刑囚の家族や観客が大勢いるわけです。その中にもちろん解剖学者や解剖学者に雇われた人間もいるわけなんですけど、ここでちょっとしたバトルが起きるわけです。
死刑が執行された直後、解剖学者と死刑囚の家族は我先にと死体の元に走ります。解剖学者は、死者を安静に眠らせてあげたいと考える家族の手から力ずくで死体を奪うわけです。そんなんアリかよ、とか思いますけど、実際にそうやって死体集めが行われていたようですね。凄まじい光景だろうなと思います。
帯では「奇人」と紹介されていますが、読んでみるとかなり素晴らしい人物であることが分かると思います。信念を持って医学の向上に努めその生涯のすべてを捧げた男の生涯をドラマティックに描いています。なかなか面白い作品だと思います。是非読んでみてください。

ウェンディ・ムーア「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」


解剖医ジョンハンターの数奇な生涯ハード

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯ハード

2008年05月27日

映画【手紙】

東野圭吾の同名小説を映画化。

強盗殺人の罪で服役中の剛志(玉山鉄二)は、弟の直貴(山田孝之)に小まめに手紙を書く。直貴も初めのうちは手紙に返事を書き、刑務所へ面会にも通ったが、兄の存在は就職や結婚の障りになりがちだ。

しだいに兄が疎ましくなり、将来に明るい展望を持てない直貴を、由実子(沢尻エリカ)は懸命に支える。


手紙 スタンダード版手紙 スタンダード版
(2007/04/27)
山田孝之

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手紙 (文春文庫)手紙 (文春文庫)
(2006/10)
東野 圭吾

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評価=☆☆  (5つ星が満点)


2007年の暮れにテレビで放送されたものを録画して見ました。

今でこそ株価大暴落の沢尻エリカ、このころは可愛らしいなあ――と、まずは映画の内容とは関係ないところで感心。



しかし直貴(山田孝之)がお笑い芸人をめざしたり、良家のお嬢様との結婚を本気で考えるあたりは、いささか疑問がありました。

たまたま良家のお嬢様と出会って恋におちるケースはあるでしょう。でも彼女のお父さんが、たとえどんなに善良な人であっても、彼を受け入れるかどうか悩むと思います。

それに、彼のような事情を抱えた人が、自分から進んで芸能界に身を置こうと考えるものかなあ……。

どうも私には、直貴があえて自分を傷つけているかのように思えます。



ラストシーンでは玉山鉄二の抑えた演技がなかなか良くて、不覚にもホロリとさせられました。彼も辛い。悲しい。

もちろん被害者の遺族だって辛いし悲しい。



で、「だからどうなの?」と思うわけです。両方とも辛く悲しい。それはわかった。

だから……どうします?

だから「犯罪をなくそう!」ってことですか? それじゃ交通安全の標語だ。「なくそう!」だけで犯罪をなくせたら警察なんか要りません。


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2008年05月26日

ファストフードが世界を食いつくす(エリック・シュローサー)

科学技術の進歩は著しく、それは食品の世界においても同じことである。
アメリカのニューハンプシャー州で、「ロストビーフ」というファストフード店がオープンした。この店は開店するや大繁盛し、またたくまにアメリカ全土にチェーン展開することになった。
その秘密は、値段の異常な安さにあった。
ロストビーフのハンバーガーは、なんと一つ10セント、日本円にしておよそ10円程度という破格の値段だったのだ。この値段設定に子ども達が飛びついた。有名なハンバーガーチェーンのどこよりも安い。それにそこそこ美味しい。ファストフードをこよなく愛するアメリカの子ども達は、すぐさまロストビーフへと乗り換えた。
しかし、もちろん大人は不信感を抱く。どんな風にすれば、ハンバーガーをたったの10セントで販売することが出来るのだろうか。恐らく何かが間違っている。しかし彼らも、ロストビーフのハンバーガーは美味しいと感じていた。何が使われているのか分からない不安は確かにある。しかし安くて美味しいものを食べられるなら問題ないと、彼らも目をつぶってしまったのだった。
この驚異のハンバーガーを実現したのは、ドイツの科学者が開発したある食品にある。
それは、科学者の間では「食用粘土」と呼ばれるものであった。
ドイツの科学者グループは、粘土から食肉に近い食感と味をを生み出すことに成功したのだ。これに香料を加えることで、食肉とほぼ変わらない製品を作り出すことが出来るようになった。もちろん、ロストビーフ社はこの事実を巧みに隠している。ダミーの食肉工場を持っているし、偽りの報告書をいくつも書いてこれをごまかしている。消費者は、食肉と食用粘土の違いなど分かるわけがない。むしろ、細菌に汚染される心配が皆無なのでより安全であるとさえ言えるかもしれない。また、脂肪分も含まれていないので、肥満問題を解消することも出来るかもしれない。しかしもちろんロストビーフ社は、自分達が粘土を食わされていると知って喜ぶ消費者がいないということは分かっている。徹底的に隠すつもりだ。
ロストビーフ社は、第二のアイデアも持っている。それは、食用プラスティックからフライドポテトを作る計画で、既に実現に向けて動き出しているという。

一銃「ロストビーフ」

ショートショートがまったく思い浮かびませんですねぇ。困った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、世界に急速に広がっていった、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどのいわゆるファストフード業界を調べ、その業界が生み出す悪循環について警鐘を鳴らしている本です。
著者は、マクドナルドなどの最終小売店についてだけではなく、ファストフード業界に肉やポテトを卸す業界や、安全基準を満たさない肉を出し続ける精肉業界と、その業界と癒着し続ける代議士達、あるいは大手ファストフード企業が展開するコマーシャルまで、ファストフード業界を取り巻く様々な状況を取材し、それらについて書いています。
本作を読むと、ファストフード業界の卑劣なやり方が浮き彫りになってきます。小売店ではティーンエイジャーを雇い酷使する。残業代を払わないようにするため、多くのスタッフを雇い、それぞれのスタッフの週労働時間が30時間以内になるように調整する。政府に圧力を掛けて、ティーンエイジャーの最低賃金を上げないように働きかける。強盗などに狙われる可能性が高い状況を放置している。なんとしてでも労働組合を作らせないように働きかけ、どうしてもその動きを止められなそうな時には無理矢理店を閉店に追い込むこともする。
ファストフード業界の宣伝もなかなかあくどい。彼らは、学校内部に広告を出す、という手法を確立した。多くの場合、子どもから搾取しているという批判を受けるが、しかし彼らは子どもを標的にするのが売上を伸ばすのに最も手っ取り早いということを知っている。
精肉加工工場での現状もなかなか酷いものだ。とにかく生産性を上げるために、ものすごいスピードでの処理を要求される。そのため、事故が多発する。腕や指を欠損するなど日常茶飯事で、死亡事故だって頻発する。しかし、よほどのことがない限り、現場監督は怪我人を病院にはいかせない。事故率が自身の査定に響く給与体系になっているからだ。散々言いくるめて酷使するだけ酷使し、もう使えないと分かったら捨てる。事故の記録もごまかし、外部からの監査を欺いている。
農業従事者も悲惨な目に遭っている。現在食品業界というのは、一部の超大手企業のほぼ寡占という状況になっており、そのため値段を不当に引き下げられている。農業従事者は現在、超大手企業の傘下となるか、あるいは土地を手放すかのどちらかの選択を強いられることになっている。
衛生基準も酷いものである。精肉業界は政府と癒着し、細菌に感染している精肉であっても、うまくごまかして回収しないことも多い。そもそも法律上、政府は精肉業界に対して回収を強制することが出来ない仕組みになっているのだ。安全対策を実施しようという試みも何度もされようとしたが、その度に大手各社が反発し実行に移されることはなかった。現在でもアメリカの精肉の安全性は著しく低く、毎年病原菌の感染により多くの人が死んでいる。
そんな、ありとあらゆる産業の構造を変えてしまったファストフード業界の影響力と現状について書かれている作品です。
本作は、どうも僕にはあんまりな作品でした。僕が思うに、本作は構成があんまりよくないんだと思うんです。僕は編集者ではないので、どこをどうしたらよくなるのかという提案は出来ないんですけど、でも読んでて何だか分かりづらいんです。
各章毎にいろんなテーマで話を進めていくんだけど、それぞれの章で結局何を問題としているのかがイマイチ見えてこないような気がするんですね。僕の理解力の問題かもしれないけど、一つのテーマに対して周辺的なことを書きすぎているということ、そして革新となる事柄を章の前半に配置していないことがわかりづらさの原因ではないか、と思うんですけどどうでしょうか。
一方で評価できるなと思うのは、具体例がかなり詳細に載っているということです。精肉加工工場における事故や、小売店での犯罪などいろんな点で、著者は被害者などの実名を出してその被害を詳細に書いています。これは綿密な取材をしないと書けないことだと思うので、その点はかなり評価できるのではないかな、という風に思いました。実際、多くの名前のある個人がファストフード業界の犠牲者であるということが分かる内容で、悪くないと思いました。
本作はある意味で、現在結構議論されている格差社会的な問題に警鐘を鳴らしている作品でもあるのだと思います。アメリカと日本では状況に違いはあるでしょうが、似たような構造的な問題を抱えているのではないかな、という気がします。まあ僕も、週一でマクドナルドに行きますし、これからもその習慣が変わることはないでしょうけど、でもやっぱり、これだけあくどい企業ってのはいかんよなぁ、って思いながら食べると思います。結局食べるのかよ、って感じですけどね。

追記)amazonでのカスタマーレビューでは、非常に評価が高いです。

エリック・シュローサー「ファストフードが世界を食いつくす」


ファストフードが世界を食いつくすハード

ファストフードが世界を食いつくすハード

2008年05月26日

「必要悪 バブル、官僚、裏社会に生きる」田中 森一 、 宮崎 学


「必要悪 バブル、官僚、裏社会に生きる」田中 森一 、 宮崎 学
248p 扶桑社

「闇の守護神」田中守一と「突破者」宮崎学の対談。

すごい。
裏社会の話。
実名 バンバン出て、そうか〜〜って 感じ。
この前読んだ、「歪んだ正義―特捜検察の語られざる真相」宮本 雅史と 一緒に〜おすすめ

2008年05月25日

スカイクロラオフィシャルガイド "Surface"(中央公論新社編)

クロウはだだっ広い平原に立っている。彼は、時間さえあればいつでもここに来る。そして、周りに人を寄せ付けない、神聖とも言える雰囲気を漂わせながら、長いことそこに立ち続けているのだ。時々何かを期待するように空を見上げる以外、身じろぎもしない。
そして私は、そんなクロウを遠目に見ている。私も、なるべくここに来て、クロウのことを見るようにしている。私は、クロウが何をしたいのか知っている。何故立ち続けているのか知っている。そして、私はクロウを裏切っている。その事実のために、私はクロウにあまり近づくことが出来ないでいる。
私たちは、二つの種に分けることが出来る。それは、空を飛ぶ種と飛べない種である。この世界には、その二種類の人間がいる。
これはすべて、先天的なものに依存する、と言われている。生まれつき、飛べる者は飛べるし、飛べない者は飛べない。もちろん、例外がないとは言わない。生まれつき飛べなかったものが、何かのきっかけで飛べるようになった、という報告は確かに存在する。しかし一方で科学者は、それは先天的な能力が眠っていただけである、と指摘する。すなわちこの飛ぶ能力は、決して後天的に身につけることは出来ない、ということだ。まだその議論に決着がついているわけではないが、私も概ねその意見が正しいのだろう、と思っている。
クロウと私が住んでいる国は、風の国、とも呼ばれている。これには二つの意味があるとされている。
一つは、その名の通り、吹き付ける風が強いことに由来している。一年中、どこかしらから強く数が吹くこの国は、まさに風の国という名が相応しい国である。
そしてもう一つは、飛ぶ人間の出生率が世界中で最も高い、ということに由来する。理由は定かではないが、この国に生まれた人間が飛ぶ能力を持っている割合はかなり高い。一般に、飛ぶ者と飛べない物の割合は五分五分であるといわれている。しかし私たちの国では、その比は8:2ほどにもなる。この異常とも思える飛ぶ能力を持つ者の出生率のために、風の国と称されている。
そんな国であるから、飛ぶ能力を持つ者の力が強い。飛ぶ能力を持たないものが肩身の狭い思いをすることも度々である。国民の8割が飛ぶ能力を持つものであるから、この状況を社会問題だと認識する人間も少ない。飛ぶ能力を持たない者は、この国では生きづらいのだ。
そして、クロウは不幸にも、飛ぶ能力を持たずに生まれてきてしまった一人だった。
クロウは、そんな自分を認めることが出来ないでいる。幼馴染みである私にはそのことは手にとるように分かる。どうして飛ぶ能力を持って生まれなかったのか、両親と喧嘩したという話も聞いたことがある。この国で、飛ぶ能力を持たない者は確かに少数派であるが、その中でもクロウは、切実に飛ぶ能力を求めている男なのである。
だから彼は、こうして平原で佇んでいる。数少ない、後天的に飛ぶ能力を獲得した物の多くが、広い空間で飛びたいと願った時に飛ぶことが出来た、と証言しているのだ。私は正直、そんな証言を信じるのは止めた方がいいと思っている。でも、そんなことクロウには言えない。愛するクロウを絶望させるようなことは、私にはどうしても言えない。それなら、たとえそれが望みのないものであっても、希望を持って生きていく方が幸せなのではないかと思う。
クロウは、当然今日も飛ぶことは出来なかった。そのとぼとぼとした後ろ姿を見るのは辛い。クロウも、私には見られたくないだろうから、声を掛けたりはしない。
かつてクロウに聞かれたことがある。
「お前は飛べない自分のことを悔しいと思ったことはないのか?」
私は、そう口にしたクロウの目を見ることが出来ない。私は真剣に見つめているだろうクロウの視線を巧みに避けながら答える。
「ないわ。クロウだって、飛べなくたってどうってことないのよ。飛べるだけが能力じゃないんだから」
私はそうクロウに言葉を返す。
嘘だった。私はこうやってクロウに嘘をつき続けている。たぶんこれからもずっと。その罪悪感が私を苦しめる。
私は、空を飛ぶことが出来る。8割の方の人間なのだ。ただ、子どもの頃からクロウが空を飛べないことで悩んでいることを知っていた。そして、私は彼のことが好きだった。だから嘘をついた。子どもの時は、些細な嘘だと思った。私も飛べないの。一緒だね。ただクロウに近づきたかっただけだ。仲間だと思ってもらえたら、それでよかったのだ。そのせいで、まさか未来の自分がこんなに苦労するなんて思いもしなかった。
クロウはとぼとぼと歩きながら家を目指す。自転車や車に乗ることも出来るが、それらは飛べない者であるという烙印そのものだった。飛べるものは、移動するのも空を飛ぶからだ。彼は人から飛べない者と思われるのが悔しくて、自転車や車を使うことはないのだった。
クロウが切り立った崖沿いの道を歩いている時だった。突然、地をつんざくような轟音と共に、地面が激しく揺れ出したのだ。
(地震!)
私は咄嗟にクロウの方に目をやった。すると、山側から巨大な岩が転がり落ちてくるのが目に入った。そのまま行けば、クロウが押しつぶされてしまうのは間違いなかった。私が空を飛んでいけば、まだクロウを救うことが出来る。でも、そんなことをすれば、私は永遠にクロウを失うことになるだろう。本当は空を飛べるのに、飛べないと嘘をついて自分のことをあざ笑っていたんだろうと思われるに違いない。でも、このままじゃあクロウは間違いなく死んでしまう。
私は決心した。空を飛び、クロウの元へと向かう。クロウの背中側から回ってクロウを抱き締め、そしてそのまま空へ飛び去って行く。
「お願い!振り向かないで!」
クロウは声で私だと分かったことだろう。そして、私がずっと嘘をつき続けてきたことも悟っただろう。これですべては終わってしまった。私は、クロウを抱き締めたまま、涙を流し続けた。
クロウ、さようなら。

一銃「クロウ、さようなら」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣の「スカイクロラ」シリーズを原作として映画化される、押井守監督作品「スカイクロラ」のオフィシャル公式ガイドブックです。
内容としては、メインとなるのは二つの対談でしょうか。森博嗣×京極夏彦と、押井守×よしもとばなな、というものです。その他、森博嗣や押井守と関係のある何人かの人に行ったインタビューや、スカイクロラの設定原画などが載っています。
まあこういう本にありがちではありますが、実際大した内容ではないですね。まあ、よほど森博嗣が好きか、「スカイクロラ」という作品が好きか、押井守作品が好きかという人の一部が買うような本だろうな、と思いました。
本作では、映画で使われる絵が結構載っているんですけど、なかなかすごいですね。僕はそもそもあんまり映画を観ないし、押井守作品も観たことがないので他の何かと比較してものをいうことは出来ませんけど、CGの出来みたいなものがすごいと思いました。普段映画は観ない僕ですが、この「スカイクロラ」は元々観ようかと思っていたわけです。それが本作を読んで、さらに観たいという気になりましたね。
あと、森博嗣の写真をちゃんと見たことがないので、それが見られるという利点もあるでしょうか。名刺交換会とか、行こうと思えば行けるところでやってたこともあったんですけど、結局行かなかったんですよねぇ。出不精はダメですねぇ。
インタビューとかいくつかありますが、一番気になったのは佐伯日菜子という女優へのインタビューです。この女優は、押井守監督作品である「真・女立喰師列伝」に主演した人みたいなんですけど、ちょっとその作品を見てみたいな、と思いました。なんか面白そうですね。
さてオフィシャルガイドは夏にもまた出るようです。よく分かりませんが、この「スカイクロラ」という映画に関してはかなりの宣伝費を使っているイメージがありますねぇ。グッズなんかもかなり充実しているようです。まあ僕としては、映画がヒットして本がバンバン売れてくれればとりあえずオッケーなんですけどね。期待してますよ~、森博嗣×押井守!

中央公論新社編「The Sky Cralers Official Guide "Surface"」


The Sky Cralers Official Guide  Surfaceハード

The Sky Cralers Official Guide "Surface"ハード

2008年05月25日

MAMA(紅玉いづき)

久しぶりに見つけた。
「君には、私の助けが必要みたいだね」
相手は、私に気づくと、そして私の姿を目にすると、声にならない悲鳴を上げて逃げていった。
(君のこと助けてあげられたのにね)
私は、逃げられることには慣れている。もう傷つくようなことはない。それでも、助けてあげられる誰かを救うことが出来ないことに対して、鋭い痛みを感じる。
(逃げなくてもよかったのにね)
その思いは同時に、かつての自分への姿を呼び覚ますことになる。

私は生まれつき耳の機能に障害を持っていた。赤ん坊の頃は周囲の大人も気づかなかったそうだ。耳の機能というのは確かに、外から見てあまり分かるものでもない。私がちゃんと障害を持っていると分かったのは、4歳ぐらいのことだったそうだ。
生まれつき耳が聞こえづらいという障害だった。まったく聞こえないというのでもないのだが、水の中での話し声を聞くみたいにくぐもって聞こえた。耳が聞こえないことが不自由だったのかどうか、私にはよくわからなかった。生まれついてからずっとそうだったから、何かと比較することが出来なかったのだ。
幸い両親は、障害を持った子どもでも十分に愛情を注いでくれた。内心はどうだったのかわからない。それでも、ちゃんとした子どもとして育ててくれた両親には感謝をしている。
だから、今の姿は両親には見せることが出来ない。私にとってこの姿は神聖なものだけど、それを両親に理解してもらうのか難しいだろう。
私が心の中で師と呼ぶようになったあの人と出会ったのは、私が18歳になるかならないかという頃だったと思う。
その時の状況を、私はどうしても正確に思い出すことが出来ない。夢だったのではないか、というのは確信を持って否定できるが、しかしそのあまりの頼りなさは夢だと言われても信じてしまいそうになるほどだった。
周りを木に取り囲まれた場所だった、と思う。何故自分がそんな場所にいたのか、そこにどうやって辿り着いたのか、そこで何をしていたのか。私には一向に分からない。風に揺られる木の葉と不愉快に響く葉ずりの音が、辺りを一層不気味に演出していた。
そこで私は、あの人と対面しているのだった。
「俺の姿を見ても逃げないんだね」
あの人は一番初めにそう言った。いや、正確に言うなら、私が覚えているあの人の第一声がそれだったのだ。その言葉は、何故か私の耳に鮮明に届いた。耳の機能が回復したのかとも思ったけどそうでもないようだった。あの人の声だけが、私の耳に馴染むのだ。
あの人は、確かに恐ろしい姿をしていた。右足と左手がなく、また体中に手術跡のような傷があった。そして何よりも不気味だったのが顔だった。目と鼻がなく、歯もほとんど存在していなかった。頭髪もなく、その頭蓋には痛ましいほどの傷がついていたのだった。
それでも、怖いとは思わなかった。あの人の声がそうさせたのかもしれない。不思議と、私の心は平静だった。
「怖くはないわ。私も不思議だけれど」
あの人は笑ったようだった。口の動きだけではそうと断言することは難しいけど、確かに笑ったように私には見えた。
「君のことを助けてあげるよ」
あの人はそう言うと、自分の両耳を引きちぎった。両手に耳を持ったまま、私の方に近づいてくる。
「君は耳が聞こえないんだろう。僕の耳をあげるよ」
そう言うとあの人は、私の耳を引きちぎり、代わりに自分の耳をつけた。その瞬間、まるで何かのスイッチを入れたかのように、私は音を感じた。まるで嘘みたいだった。世界が音に満ちていることも初めて知った。こんなにも騒がしいだなんて思ってもみなかった。私は完全に耳の機能を取り戻したのだった。
「ありがとう」
私はあの人にそう言った。しかし、どうしてかあの人の声だけもう聞くことが出来なくなっていた。あの人は、何やら口を動かして私に何かを伝えようとしていたけれども、その声は私の耳にはどうしても届かないのだった。
そして次に気づいた時には、私は自分の部屋のベッドに横になっていた。すべては夢なのだろうか、と思った。しかし、私の耳の機能は完璧にだった。あの人から耳をもらったからに違いない。私は両親にこのことを告げた。両親は大いに喜んでくれたのだった。
それから私はずっと、普通の女性として生きてきた。
34歳になった私は、癌を宣告された。突然のことだった。手術でも回復の見込みは薄いと言われ、私はある一つのことを決心した。
夜私は病院を抜け出し、そのまま二度と戻らなかった。
何をすればいいかは分かっていた。自分にその能力があるのかどうか自信はなかったけど、それでも、正しいことをしていれば大丈夫だ、と言い聞かせた。
目の見えない少女を見つけた。私は彼女に近寄って行き、
「君を助けてあげる」
と言った。自分の目を彼女にあげた。彼女は目が見えるようになったようだった。
それから私は、命の続く限り自分の体の一部を人に与え続けている。私の姿はどんどん醜くなっていき、それにつれて私を見て逃げる人も多くなっていった。しかし私はめげることはなかった。私の心の師であるあの人のようになりたい、と願っているのだ。
私は、まだ両耳を残している。この両耳を手放すのは最後にしたい、と思っている。

一銃「あげるわ」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、中編と短編で構成されています。

「MAMA」
海沿いの王国であるガーダルシア。その国には、サルバドールと呼ばれる魔術師集団が国を治めていた。その純血の子どもであるトトは、しかし残念ながら魔術の能力には恵まれなかった。
サルバドールの落ちこぼれ、とさえ言われるトトは、このままではサルバドールを追い出されてしまう、と思った。母親と喧嘩した夜、咄嗟に逃げ込んだ神殿の書庫で、トトは人喰いの魔物であるアベルダインと出会った。
アベルダインは、数百年前からそこに封印されていた。耳だけが欠損しており、それを埋めるために人をおびき寄せる、と言われており、神殿の書庫には近づくなと言われていたのだ。
トトはアベルダインと出会い、そして両耳を失った。その代わりにトトは、アベルダインを使い魔として持つことになり…

「AND」
怪盗であるダミアンは、ガーダルシアにあるサルバドールの宮殿に忍び込んだ。サルバドールの秘宝を盗み出すためだった。そこで手に入れたのは、赤い石の耳飾りだった。
その部屋の主であるティーランに見つかり覚悟を決めたが、しかし彼女はおかしなことを言う。その耳飾りはサルバドールのものではないのです。あなたの手で、元の持ち主に返してはもらえませんか…。

というような話です。
紅玉いづきは、「ミミズクと夜の王」で電撃大賞を受賞しデビュー。その作品でかなり多方面で評価された作家で、本作は二作目に当たる作品です。
正直に言うと、期待外れだったな、という感じです。
「MAMA」も「AND」も、あんまり面白くはなかったですね。「ミミスク~」はかなり泣かせる話でしたが、本作はあんまりこれと言って褒めるところがない話でした。
「MAMA」の方はまだ悪くはないかな、という感じはあります。落ちこぼれだったトトが、成り行きで最強の魔術を持つ魔物を使い魔として持つことになる話ですが、トトとアベルダインの歪んだ関係性がまあ読めなくもないかな、という感じでした。
でも「AND」の方はちょっと退屈でしたね。イマイチどんな話だったのかもよくわかりませんでした。
ただ、この作家は筆力はあるな、と思いました。本作はあんまり面白くないと思いましたが、でも著者の作家としての力量は感じられました。ベースとなる部分はちゃんとしている感じがするので、物語とうまく波長が合えばいい作品が書けるような気がします。
紅玉いづきという作家は、有川浩や桜庭一樹みたいに一般小説の方にも行きそうな感じがしますね。まあそう簡単にはいかないかもしれませんが、そんな可能性を秘めた作家ではあると思いました。本作はあんまりオススメ出来ませんが、紅玉いづきという作家はもう少し追いかけてみてもいいかな、と思いました。

紅玉いづき「MAMA」


MAMA文庫

MAMA文庫

2008年05月25日

量子力学の解釈問題(コリン・ブルース)

僕はマンションに住んでいる。それは、どの街にでもある、どんな場所にでもある、普通のマンションを思い浮かべていただければいい。階数や部屋番号を特定する必要はないのだが、6階の618号室である。
外廊下の端から端までドアがずらりと並び、当然のことながらその内の一つが僕の部屋のドアとなる。
さて、今僕は自分の部屋のドアの前に立っているわけだ。
もしドアノブを握り、それを手前に引くなら、普段僕が見慣れた部屋がそこに展開されることだろう。入ったところに小さな沓脱ぎがあり、フローリングの廊下が続く。右手にトイレと風呂と洗面台があり、左手に小さなキッチンがある。そして奥に一部屋あるだけのワンルームマンションである。
片付けの出来ていない汚い部屋だ。床にはゴミが散乱し、テレビのリモコンやら敷きっぱなしの布団やらがある。冷蔵庫やパソコンやオーディオやテレビや扇風機やギターや本なんかが部屋中にあって、見た目よりかなり狭く見える。窓に掛かっているカーテンだけが何故か高級そうで、部屋全体から浮いてしまっている。
ドアを開ければ、そんな部屋を目にすることになるのは明白だ。これまでこのドアを何度開いてきたというのだろうか。その度に、僕はまったく同じ部屋を見てきたのだ。そこに、違う部屋が展開しているなどということはもちろんありえない。
しかし、じゃあ、今こうしてドアが閉まっている時、部屋の内部はどうなっているのだろうか。本当に、僕がドアを開けた時に見る部屋の光景と同じ姿であり続けているのだろうか。それとも、僕が見ている部屋の光景は僕が見ている時だけに存在するのであって、僕が見ていない時はまったく別の姿になっていたりするのではないだろうか。
物理の世界には、量子論というかなり変わった分野がある。詳しいことはもちろん僕も知らないけど、その量子論の世界では奇妙な現象が次々に起こるのだという。
その中に、状態の収縮と呼ばれるものがある。
量子論では、例えば電子などの粒子は、位置を正確に確定することが出来ない、としている。それは、確率的にどこにあると主張できるだけである、と。
しかし、もしその粒子を観測した場合、僕らはその粒子が空間上のある一点を占めていることを知る。観測する前は確率的にしか知ることの出来なかった粒子の位置が、観測することによって一点に決まるのである。
これが状態の収縮と言われる。
僕の部屋も、こうではないという根拠はどこにもないのではないか。僕がドアを開ければ、部屋の姿は僕が普段見ている状態に収縮する。しかし、僕が見ていない時は、様々な姿に移り変わっているのではないか。少なくとも、そうではないと否定することは出来ない。何故なら、僕が『見る』ことで状態の収縮が起こるのだから、僕にはいつも見ている姿しか見ることが出来ないはずだ。
でも例えばこう考えたらどうなるだろう。僕の部屋に泥棒が侵入したとする。泥棒が入ったという痕跡を一切残すことなく(つまり何も盗むことも残すこともなく)立ち去ったとしよう。これは要するに、僕が泥棒に入られたと確信出来る根拠はない、即ち泥棒が僕の部屋を『見た』と確信できないということである。
その時、その泥棒は一体どんな部屋の姿を見るのだろうか。状態の収縮は、個人によって差があるのだろうか。もし僕が永遠に気づかない形で誰か別の人が僕の部屋を『見た』時、それが僕が普段見ているのと同じ姿であると確信出来る理由は一つもない。泥棒は僕が普段見ている部屋とはほんの僅か違った部屋、あるいはまったく違ってしまった部屋を見ているかもしれない。
あるいは、こういう風に考えることは出来ないだろうか。
僕の部屋には、僕が見ていない時だけ存在している住人がいるかもしれない、という発想だ。つまり僕らは、こうしてドアを挟んで向き合っているなんていう可能性だってあるかもしれない。
僕が観測するまで部屋の姿が確定ではないのなら、その僕が普段見ている部屋ではない部屋に住む住人を仮定しても一向におかしくはないかもしれない。その住人は、僕の分身と考えることは可能なのだろうか?あるいは僕とはまったく無関係な存在なのだろうか。ただ一つ言えることは、その存在とは永遠に友達になることは出来ないということだ。僕が観測することで状態の収縮が起こり、その結果その存在は消えてしまうのだから。
しかし、ならばこうも考えることが出来る。部屋の向こうに、僕が永遠に接触することの出来ない住人の存在(Aと名付けることにしよう)を仮定するのなら、その住人からしてみれば状態の収縮によって消えるのは僕の方だ。
つまり、Aの視点から見てみよう。Aは僕が部屋を観測していない時だけ僕の部屋に住んでいる。僕が部屋のドアを開けると、Aの視点からではどうなるだろうか。結局、Aの視点からすれば、Aのいる世界は消えることなくそのまま続いて行くのだろう。そうでなければ整合性が取れない。即ち、Aの視点から考えた時に消えるのは僕の方なのだ。
だとすれば、僕の存在というのは一体どうなるのだろうか。僕は、僕の観測できる世界ではきちんと存在している。それだけは間違いない。しかし一方で僕の存在していない世界が無限にあって、当然のことながらその世界に僕は関わることは出来ない。これは一体何を意味するのだろうか。
いずれにしても、僕は部屋に入るためにドアを開けないわけにはいかない。そして開ければそこに見慣れた部屋の姿を確かに見ることになるだろう。重要な問題は、そこに何か不都合があるだろうか、ということで、観測されない世界についてあれこれ考える必要は、日常生活の中ではないのかもしれない。

一銃「量子論的僕の部屋」

最近どうもショートショートを思いつけなくなっています。かなり苦しいですねぇ。半年で止めちゃおうかなぁ、とか思い始めてますが、どうなることやら。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、物理の中でもかなり異常に思える分野である量子力学の、その異常とも思える最たるものの解釈に挑んだ作品です。
量子力学というのは、これがなければ精密機械を作ることは出来ないというほど実用的で信頼の置ける物理の一分野なのですが、同時にそれは、僕らの通常の概念をいとも簡単に打ち破ってしまうほど奇妙な結論や解釈に満ちた分野でもあります。
その中で、本作で扱われているのは、

①量子の非局所性
②状態の収縮

という二つについて、これまでどんな説が唱えられてきたのか、そして著者が最も有力だと考える「多世界解釈」ではどういう風に解釈することが出来るのか、というようなことについて書かれています。
というわけで、この二つについての説明をまずしようと思います。ただ、僕の理解力には限界があるので、僕の分かる範囲での説明ということになります。何か間違いがあったら、すいません。
まず①の量子の非局所性についてです。これまで量子論の世界では、②を説明するために様々なアイデアが出されましたが、しかしそのどれもが①を説明するのに不十分だったわけです。唯一多世界解釈のみが、①も含めて説明可能だという点で、多世界解釈は有力だと言われています。
さてこの量子の非局所性というのは、一対の量子(光子や電子など何でもいいんでしょうけど、ここでは光子で説明します)についての実験によって既に明らかにされているものです。
二つの光子A・Bが正面衝突して、互いに自分が飛んできた方向に跳ね飛ばされる、ということを考えます。さて、充分時間が経った後に、光子Aの偏光という性質を測定することにします。この偏光というのは、垂直や水平など、角度によって表される量なんですけど、光子Aの偏光をある時刻Tに測定したところ、垂直だったとしましょう。
すると奇妙なことに、光子Aの偏光を測定した時間Tの瞬間に、光子Bの偏光も垂直に決定するわけです。例えば時刻Tに光子の偏光が水平だったら、まさにその瞬間に光子Bの偏光も水平になるし、時刻Tに光子Aの偏光が角度θだけずれていれば、その瞬間光子Bの偏光も角度θだけずれていることになるわけです。
これがどう奇妙なのかというと、光子A・Bが光速以上のスピードで情報のやりとりをしているように見えることです。光子Aの偏光が観測されたまさにその瞬間に光子Bの偏光が決定しているとなれば、光子AとBが光速を超える情報の伝達をしていなければ説明がつかなくなります。一般性相対性理論によれば、光速を超えるスピードは存在しないわけで、アインシュタインはこの、光子同士が光速を超えたスピードで情報伝達をしているように見える非局所性を以って、量子力学は間違っている、と主張したわけです。
これが、量子力学の中で解釈の難しい量子の非局所性です。
さてもう一方である②の状態の収縮について説明しましょう。これは上記のショートショートでも少しだけ触れましたが、出来は相変わらず悪いですね。
この状態の収縮については、量子力学がその当初から抱える不思議な現象だったわけです。
この状態の収縮について最も有名な話が、「シュレディンガーの猫」と呼ばれるものですね。
ある一定の時間内にランダムな確率で毒ガスが発生するような仕組みを備えた箱の中に猫を入れます。この仕組みは完全にランダムなので、ある一定時間後に毒ガスが発生している確率は五分五分です。この箱をある一定時間後に開けたとすれば、そこには死んでいる猫か生きている猫のどちらかが観測されることになります。では、箱を開けるまでは箱の中の状態はどうなっているでしょうか。
量子力学的発想では、この箱の中の猫は、生きている状態と死んでいる状態が交じり合った状態にある、とされます(しかし一般に量子力学は電子などのミクロの世界にしか適応出来ないので、猫などのマクロな話ではこれは成立しません。しかしシュレディンガーは、もし量子力学が正しいとすれば最終的にはマクロな世界にも適応できる理論になるべきであり、だとすればこのような猫のパラドックスが生まれてしまうことになる、という主張をしたかったようです)。観測することによって、その交じり合った状態から『状態の収縮』が起こり、観測者にはある一つの結果が示される、というプロセスです。この、観測によって状態が一つに定まるように見える不思議な現象を、『状態の収縮』と呼ぶわけです。
量子力学には他にも様々に奇妙な解釈があるわけですが、この量子の非局所性と状態の収縮は中でもかなり難しい解釈問題であり、特に状態の収縮についてはこれまでも様々な解釈が試みられたわけです。
その中で最も古いのが、コペンハーゲン解釈と呼ばれるものです。これは、観測するまで物事は不確定なのだから、それについて深く考えちゃいかん、というようなものです。つまり状態の収縮なんてものは考えないようにしよう、というようなものです。これは量子力学の誕生初期にかなり流行った考え方だったようです。物理学者の態度としてどうかなと思ったりはしますけど、しかしこの量子力学というのは、現実をうまく説明することは出来るけど感覚的には受け入れがたいという理論だったわけで、こういう思考停止も仕方なかったのかもしれない、と思います。
また、ガイド波理論というのも登場しました。これは、この世に存在する粒子はすべて、ガイド波という波を引き連れている、というものです。粒子はガイド波によって空間を移動するわけですが、このガイド波というのは粒子を運ぶという以外の性質を一切持たず、他の一切と相互作用はしません。そして粒子が観測されると、その粒子はガイド波からたたき出され、その結果状態の収縮が起こる、というものでした。
しかし、ガイド波理論もコペンハーゲン解釈も、結局は①の量子の非局所性を説明することが出来ずにいました。状態の収縮を引き起こす何らかの未発見の物理法則があるのだ、という解釈もあるようですが、それでも①を説明することは困難ではないか、と思われているようです。
そこで登場するのが、現在最も有力ではないかと思われている(少なくとも著者はそう思っている)、「多世界解釈」というものです。これはSFを読んでいる人には馴染み深いだろ「並行世界」を基本的には同じ発想で、つまりこの世の中には、自分が住んでいるのとは別の世界が並行してたくさん存在するのだ、という解釈です。物理学者が提唱するような理屈ではないように思われるかもしれませんが、しかしこれが最も有力なわけです。
ではまずこれによって、②の状態の収縮がどう説明されるのかを書きましょう。
多世界解釈によれば、状態の収縮は起こらないことになります。相互反応によっていくつかの「持続的なパターン」が生まれ、それぞれが「一貫した歴史」を持つ、と説明されるわけです。要するに、ありえる可能性すべてが実際に並行世界として存在し、僕らはその一つを見ているにすぎない、という解釈です。この解釈により、状態の収縮という不気味な発想は不要になるわけです。
では、多世界解釈によって、①の量子の非局所性はどのように解釈されるのでしょうか。
光子同士が衝突して正反対の方向に飛んで行く、という実験の話を思い出してください。ここで非局所性の不可思議なところは、超光速の情報伝達は不可能なはずなのに、光子Aの偏光を観測したまさにその瞬間に光子Bの偏光も決定されているように見える、ということでした。しかし多世界解釈ではこういう風になります。
光子同士は、相互作用によってエンタングルメントという状態になっています。これは要するに、光子A・Bの偏光が同じである、ということです。光子同士は相互作用(衝突)によって、この偏光が同じであるという情報のみを共有することになります。
さてこの状態で、光子Aの偏光を測定するとどうなるでしょうか。光子Aの偏光が垂直であったら、エンタングルメントしているわけですから、光子Bの偏光ももちろん垂直です。光子Aの偏光が水平だったら、同じく光子Bの偏光も水平なわけです。
多世界解釈のでは、この(光子A:光子B)=(垂直:垂直)と言う状態と、(光子A:光子B)=(水平:水平)という状態が同時に存在する、と解釈するわけです。僕らはその一方の世界を観測しているに過ぎない、と。こう解釈することで、超光速の情報伝達は不要になります。量子の非局所性というのは、観測する前には光子の偏光が決まっていない、という前提の元に生まれる問題です。観測する前に光子の偏光が決まっていなければ、光子Aの偏光を測定したまさにその瞬間に光子Bと情報伝達を行い、その結果光子Bの偏光を決定しなくてはいけないということになるからです。
しかし多世界解釈では、光子の偏光は元から決まっている、とします。ただし、(垂直:垂直)(水平:水平)(角度θ:角度θ)などの状態がすべて同時に存在している、と考えるわけです。光子の偏光は元から決まっているわけなので、超光速の情報伝達は不要です。ただ僕らは、その元から決まっている偏光の組み合わせのどれかを観測しているにすぎない、というわけです。
この辺りの話が、本作でのメインになります。
しかし、ホント難しい本でした。本作は、訳者のあとがきでも触れられていますが、読者の側に量子力学の基本的な知識が備わっている、という前提で話が始まります。もちろんかなり省いているわけではないですけど、やはり読むには量子力学の前提的な知識は持っていないとなかなか厳しいだろうと思います。ただその量子力学の前提となる知識もなかなか難しかったりするので、ハードルの高い分野だよなぁ、といつも思います。ちなみに、僕にしても量子力学については前提となる話さえきちんと分かっているとは言いがたいです。当然のことですけど。
多世界解釈という話も知っていましたが、非局所性と状態の収縮をどのように説明するのか、という点については知らなかったので面白かったです。特に非局所性を多世界解釈で解釈出来るというのは、なかなか目から鱗っていう感じでした。
多世界解釈にもまだ解決すべき点があるようですが、しかしその点についてはもはや難しすぎてイマイチ理解することが出来ませんでした。とにかく量子論というのはなかなか実験の難しい分野で、自然哲学的な思考に進みがちなので、非常に理解が難しくなっていきますね。多世界解釈の問題の一つに、「眠り姫問題」というのがあって、これは非常に面白いと思いました。少しだけ説明します。
あなたは被験者となって科学者の実験に付き合います。科学者はあなたに説明をします。あなたにこれから眠り薬を飲んでもらいます。それから私は、これから100個の数字の書かれたルーレットを回します。ある特定の数字(例えば0)以外の数字が出れば、あなたを起こして実験終了となります。しかし、もし0が出れば、あなたを起こすたびに眠り薬を渡し(この眠り薬は、起きている時の記憶さえ消去してしまうものです)、それを一万回繰り返してからあなたを殺します。
さてあなたは実験前に、この実験は99/100の確率で死ぬことはない、と理解して臨みます(ルーレットの数字は全部で100個であり、その内0が出なければあなたは死ぬことはないのだから)。しかし起こされた回数ベースで考えた場合、あなたが死ぬ確率は10000/10099(実験のありうる総数は、0が出た場合あなたを起こす回数である一万回と、0以外の数字が出た場合あなたを起こす99回の和であり、その内あなたが死ぬのは、0が出たときに起こされる一万回のケースである)であるからほとんど死ぬしかないのではないか、と考えることも出来る。これが多世界解釈においてどう問題なのかはイマイチよく理解できなかったのだけど、発生確率をいかに結びつけるか、というような解釈の部分での問題のようです。
本作はまた、多世界解釈以外のものについてもかなり詳しく描かれます。コペンハーゲン解釈にしてもガイド波理論にしても、またペンローズという天才物理学者の解釈にしても、結構詳しく描かれます。まだ実際にどれが正しいのか分かっていないわけで、他の理論について知ることももちろん有益です。
しかし、先ほども書きましたけど、量子力学というのは実験によって証明するのが非常に難しい分野なんですね。それはペンローズの解釈にしてもそうで、ペンローズは自分の解釈の正しさを証明する実験を日々考えてはいるようですが、しかしどれも現実的には難しいものばかりなんだそうです。多世界解釈にしても、並行世界を利用しているようにしか見えない実験、というのが行われているわけですが、しかしそれだけを取って多世界解釈が正しいということは出来ないようです。ならどういう形でこの論争に終止符が打たれるのか、難しいだろうな、と思いました。
でも、過去にも似たような論争があり、それが実験によって証明されたわけです。マクスウェルは、光は電磁波の一種であると論じましたが、そうなると一つ問題が起こることになります。波というのは伝播するための物質を必要とするわけで、では真空であるはずの宇宙空間を光が伝播できるのは何故だろう、というものです。
当時、エーテルという物質が考えられました。宇宙にはエーテルという物質が満たされていて、これが光を伝播させるのである、と。しかしこれは、後にノーベル賞を受賞することになる(確かそうだったはず)実験によって、エーテルの不在が証明されました。その後アインシュタインが相対性理論を発表し、それにより光が伝播のために物質を必要とせず空間を移動することが示されたのでした。
恐らく長い年月が経ってから今の論争を見返せば、エーテル論争のように見えるのだろうな、と思います。僕らは宇宙空間にエーテルなんてないことを知っているからこそ、当時のエーテル論争が奇妙に思えますけど、後世僕らも同じように見られるんだろうな、と思います。何らかの形でこの解釈問題に終止符が打たれたら、かつてこんな論争があったんだよ、という風に科学史に書かれることになるでしょうね。
まあそんなわけで、未だに決着のついていない量子力学の解釈問題について、決して分かりやすくはないけど魅力溢れる形で描いている作品だと思います。実際結構難しいですけど、量子力学に興味のある人は読んでみたら面白いと思います。

コリン・ブルース「量子力学の解釈問題」


量子力学の解釈問題新書

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