僕はマンションに住んでいる。それは、どの街にでもある、どんな場所にでもある、普通のマンションを思い浮かべていただければいい。階数や部屋番号を特定する必要はないのだが、6階の618号室である。
外廊下の端から端までドアがずらりと並び、当然のことながらその内の一つが僕の部屋のドアとなる。
さて、今僕は自分の部屋のドアの前に立っているわけだ。
もしドアノブを握り、それを手前に引くなら、普段僕が見慣れた部屋がそこに展開されることだろう。入ったところに小さな沓脱ぎがあり、フローリングの廊下が続く。右手にトイレと風呂と洗面台があり、左手に小さなキッチンがある。そして奥に一部屋あるだけのワンルームマンションである。
片付けの出来ていない汚い部屋だ。床にはゴミが散乱し、テレビのリモコンやら敷きっぱなしの布団やらがある。冷蔵庫やパソコンやオーディオやテレビや扇風機やギターや本なんかが部屋中にあって、見た目よりかなり狭く見える。窓に掛かっているカーテンだけが何故か高級そうで、部屋全体から浮いてしまっている。
ドアを開ければ、そんな部屋を目にすることになるのは明白だ。これまでこのドアを何度開いてきたというのだろうか。その度に、僕はまったく同じ部屋を見てきたのだ。そこに、違う部屋が展開しているなどということはもちろんありえない。
しかし、じゃあ、今こうしてドアが閉まっている時、部屋の内部はどうなっているのだろうか。本当に、僕がドアを開けた時に見る部屋の光景と同じ姿であり続けているのだろうか。それとも、僕が見ている部屋の光景は僕が見ている時だけに存在するのであって、僕が見ていない時はまったく別の姿になっていたりするのではないだろうか。
物理の世界には、量子論というかなり変わった分野がある。詳しいことはもちろん僕も知らないけど、その量子論の世界では奇妙な現象が次々に起こるのだという。
その中に、状態の収縮と呼ばれるものがある。
量子論では、例えば電子などの粒子は、位置を正確に確定することが出来ない、としている。それは、確率的にどこにあると主張できるだけである、と。
しかし、もしその粒子を観測した場合、僕らはその粒子が空間上のある一点を占めていることを知る。観測する前は確率的にしか知ることの出来なかった粒子の位置が、観測することによって一点に決まるのである。
これが状態の収縮と言われる。
僕の部屋も、こうではないという根拠はどこにもないのではないか。僕がドアを開ければ、部屋の姿は僕が普段見ている状態に収縮する。しかし、僕が見ていない時は、様々な姿に移り変わっているのではないか。少なくとも、そうではないと否定することは出来ない。何故なら、僕が『見る』ことで状態の収縮が起こるのだから、僕にはいつも見ている姿しか見ることが出来ないはずだ。
でも例えばこう考えたらどうなるだろう。僕の部屋に泥棒が侵入したとする。泥棒が入ったという痕跡を一切残すことなく(つまり何も盗むことも残すこともなく)立ち去ったとしよう。これは要するに、僕が泥棒に入られたと確信出来る根拠はない、即ち泥棒が僕の部屋を『見た』と確信できないということである。
その時、その泥棒は一体どんな部屋の姿を見るのだろうか。状態の収縮は、個人によって差があるのだろうか。もし僕が永遠に気づかない形で誰か別の人が僕の部屋を『見た』時、それが僕が普段見ているのと同じ姿であると確信出来る理由は一つもない。泥棒は僕が普段見ている部屋とはほんの僅か違った部屋、あるいはまったく違ってしまった部屋を見ているかもしれない。
あるいは、こういう風に考えることは出来ないだろうか。
僕の部屋には、僕が見ていない時だけ存在している住人がいるかもしれない、という発想だ。つまり僕らは、こうしてドアを挟んで向き合っているなんていう可能性だってあるかもしれない。
僕が観測するまで部屋の姿が確定ではないのなら、その僕が普段見ている部屋ではない部屋に住む住人を仮定しても一向におかしくはないかもしれない。その住人は、僕の分身と考えることは可能なのだろうか?あるいは僕とはまったく無関係な存在なのだろうか。ただ一つ言えることは、その存在とは永遠に友達になることは出来ないということだ。僕が観測することで状態の収縮が起こり、その結果その存在は消えてしまうのだから。
しかし、ならばこうも考えることが出来る。部屋の向こうに、僕が永遠に接触することの出来ない住人の存在(Aと名付けることにしよう)を仮定するのなら、その住人からしてみれば状態の収縮によって消えるのは僕の方だ。
つまり、Aの視点から見てみよう。Aは僕が部屋を観測していない時だけ僕の部屋に住んでいる。僕が部屋のドアを開けると、Aの視点からではどうなるだろうか。結局、Aの視点からすれば、Aのいる世界は消えることなくそのまま続いて行くのだろう。そうでなければ整合性が取れない。即ち、Aの視点から考えた時に消えるのは僕の方なのだ。
だとすれば、僕の存在というのは一体どうなるのだろうか。僕は、僕の観測できる世界ではきちんと存在している。それだけは間違いない。しかし一方で僕の存在していない世界が無限にあって、当然のことながらその世界に僕は関わることは出来ない。これは一体何を意味するのだろうか。
いずれにしても、僕は部屋に入るためにドアを開けないわけにはいかない。そして開ければそこに見慣れた部屋の姿を確かに見ることになるだろう。重要な問題は、そこに何か不都合があるだろうか、ということで、観測されない世界についてあれこれ考える必要は、日常生活の中ではないのかもしれない。
一銃「量子論的僕の部屋」
最近どうもショートショートを思いつけなくなっています。かなり苦しいですねぇ。半年で止めちゃおうかなぁ、とか思い始めてますが、どうなることやら。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、物理の中でもかなり異常に思える分野である量子力学の、その異常とも思える最たるものの解釈に挑んだ作品です。
量子力学というのは、これがなければ精密機械を作ることは出来ないというほど実用的で信頼の置ける物理の一分野なのですが、同時にそれは、僕らの通常の概念をいとも簡単に打ち破ってしまうほど奇妙な結論や解釈に満ちた分野でもあります。
その中で、本作で扱われているのは、
①量子の非局所性
②状態の収縮
という二つについて、これまでどんな説が唱えられてきたのか、そして著者が最も有力だと考える「多世界解釈」ではどういう風に解釈することが出来るのか、というようなことについて書かれています。
というわけで、この二つについての説明をまずしようと思います。ただ、僕の理解力には限界があるので、僕の分かる範囲での説明ということになります。何か間違いがあったら、すいません。
まず①の量子の非局所性についてです。これまで量子論の世界では、②を説明するために様々なアイデアが出されましたが、しかしそのどれもが①を説明するのに不十分だったわけです。唯一多世界解釈のみが、①も含めて説明可能だという点で、多世界解釈は有力だと言われています。
さてこの量子の非局所性というのは、一対の量子(光子や電子など何でもいいんでしょうけど、ここでは光子で説明します)についての実験によって既に明らかにされているものです。
二つの光子A・Bが正面衝突して、互いに自分が飛んできた方向に跳ね飛ばされる、ということを考えます。さて、充分時間が経った後に、光子Aの偏光という性質を測定することにします。この偏光というのは、垂直や水平など、角度によって表される量なんですけど、光子Aの偏光をある時刻Tに測定したところ、垂直だったとしましょう。
すると奇妙なことに、光子Aの偏光を測定した時間Tの瞬間に、光子Bの偏光も垂直に決定するわけです。例えば時刻Tに光子の偏光が水平だったら、まさにその瞬間に光子Bの偏光も水平になるし、時刻Tに光子Aの偏光が角度θだけずれていれば、その瞬間光子Bの偏光も角度θだけずれていることになるわけです。
これがどう奇妙なのかというと、光子A・Bが光速以上のスピードで情報のやりとりをしているように見えることです。光子Aの偏光が観測されたまさにその瞬間に光子Bの偏光が決定しているとなれば、光子AとBが光速を超える情報の伝達をしていなければ説明がつかなくなります。一般性相対性理論によれば、光速を超えるスピードは存在しないわけで、アインシュタインはこの、光子同士が光速を超えたスピードで情報伝達をしているように見える非局所性を以って、量子力学は間違っている、と主張したわけです。
これが、量子力学の中で解釈の難しい量子の非局所性です。
さてもう一方である②の状態の収縮について説明しましょう。これは上記のショートショートでも少しだけ触れましたが、出来は相変わらず悪いですね。
この状態の収縮については、量子力学がその当初から抱える不思議な現象だったわけです。
この状態の収縮について最も有名な話が、「シュレディンガーの猫」と呼ばれるものですね。
ある一定の時間内にランダムな確率で毒ガスが発生するような仕組みを備えた箱の中に猫を入れます。この仕組みは完全にランダムなので、ある一定時間後に毒ガスが発生している確率は五分五分です。この箱をある一定時間後に開けたとすれば、そこには死んでいる猫か生きている猫のどちらかが観測されることになります。では、箱を開けるまでは箱の中の状態はどうなっているでしょうか。
量子力学的発想では、この箱の中の猫は、生きている状態と死んでいる状態が交じり合った状態にある、とされます(しかし一般に量子力学は電子などのミクロの世界にしか適応出来ないので、猫などのマクロな話ではこれは成立しません。しかしシュレディンガーは、もし量子力学が正しいとすれば最終的にはマクロな世界にも適応できる理論になるべきであり、だとすればこのような猫のパラドックスが生まれてしまうことになる、という主張をしたかったようです)。観測することによって、その交じり合った状態から『状態の収縮』が起こり、観測者にはある一つの結果が示される、というプロセスです。この、観測によって状態が一つに定まるように見える不思議な現象を、『状態の収縮』と呼ぶわけです。
量子力学には他にも様々に奇妙な解釈があるわけですが、この量子の非局所性と状態の収縮は中でもかなり難しい解釈問題であり、特に状態の収縮についてはこれまでも様々な解釈が試みられたわけです。
その中で最も古いのが、コペンハーゲン解釈と呼ばれるものです。これは、観測するまで物事は不確定なのだから、それについて深く考えちゃいかん、というようなものです。つまり状態の収縮なんてものは考えないようにしよう、というようなものです。これは量子力学の誕生初期にかなり流行った考え方だったようです。物理学者の態度としてどうかなと思ったりはしますけど、しかしこの量子力学というのは、現実をうまく説明することは出来るけど感覚的には受け入れがたいという理論だったわけで、こういう思考停止も仕方なかったのかもしれない、と思います。
また、ガイド波理論というのも登場しました。これは、この世に存在する粒子はすべて、ガイド波という波を引き連れている、というものです。粒子はガイド波によって空間を移動するわけですが、このガイド波というのは粒子を運ぶという以外の性質を一切持たず、他の一切と相互作用はしません。そして粒子が観測されると、その粒子はガイド波からたたき出され、その結果状態の収縮が起こる、というものでした。
しかし、ガイド波理論もコペンハーゲン解釈も、結局は①の量子の非局所性を説明することが出来ずにいました。状態の収縮を引き起こす何らかの未発見の物理法則があるのだ、という解釈もあるようですが、それでも①を説明することは困難ではないか、と思われているようです。
そこで登場するのが、現在最も有力ではないかと思われている(少なくとも著者はそう思っている)、「多世界解釈」というものです。これはSFを読んでいる人には馴染み深いだろ「並行世界」を基本的には同じ発想で、つまりこの世の中には、自分が住んでいるのとは別の世界が並行してたくさん存在するのだ、という解釈です。物理学者が提唱するような理屈ではないように思われるかもしれませんが、しかしこれが最も有力なわけです。
ではまずこれによって、②の状態の収縮がどう説明されるのかを書きましょう。
多世界解釈によれば、状態の収縮は起こらないことになります。相互反応によっていくつかの「持続的なパターン」が生まれ、それぞれが「一貫した歴史」を持つ、と説明されるわけです。要するに、ありえる可能性すべてが実際に並行世界として存在し、僕らはその一つを見ているにすぎない、という解釈です。この解釈により、状態の収縮という不気味な発想は不要になるわけです。
では、多世界解釈によって、①の量子の非局所性はどのように解釈されるのでしょうか。
光子同士が衝突して正反対の方向に飛んで行く、という実験の話を思い出してください。ここで非局所性の不可思議なところは、超光速の情報伝達は不可能なはずなのに、光子Aの偏光を観測したまさにその瞬間に光子Bの偏光も決定されているように見える、ということでした。しかし多世界解釈ではこういう風になります。
光子同士は、相互作用によってエンタングルメントという状態になっています。これは要するに、光子A・Bの偏光が同じである、ということです。光子同士は相互作用(衝突)によって、この偏光が同じであるという情報のみを共有することになります。
さてこの状態で、光子Aの偏光を測定するとどうなるでしょうか。光子Aの偏光が垂直であったら、エンタングルメントしているわけですから、光子Bの偏光ももちろん垂直です。光子Aの偏光が水平だったら、同じく光子Bの偏光も水平なわけです。
多世界解釈のでは、この(光子A:光子B)=(垂直:垂直)と言う状態と、(光子A:光子B)=(水平:水平)という状態が同時に存在する、と解釈するわけです。僕らはその一方の世界を観測しているに過ぎない、と。こう解釈することで、超光速の情報伝達は不要になります。量子の非局所性というのは、観測する前には光子の偏光が決まっていない、という前提の元に生まれる問題です。観測する前に光子の偏光が決まっていなければ、光子Aの偏光を測定したまさにその瞬間に光子Bと情報伝達を行い、その結果光子Bの偏光を決定しなくてはいけないということになるからです。
しかし多世界解釈では、光子の偏光は元から決まっている、とします。ただし、(垂直:垂直)(水平:水平)(角度θ:角度θ)などの状態がすべて同時に存在している、と考えるわけです。光子の偏光は元から決まっているわけなので、超光速の情報伝達は不要です。ただ僕らは、その元から決まっている偏光の組み合わせのどれかを観測しているにすぎない、というわけです。
この辺りの話が、本作でのメインになります。
しかし、ホント難しい本でした。本作は、訳者のあとがきでも触れられていますが、読者の側に量子力学の基本的な知識が備わっている、という前提で話が始まります。もちろんかなり省いているわけではないですけど、やはり読むには量子力学の前提的な知識は持っていないとなかなか厳しいだろうと思います。ただその量子力学の前提となる知識もなかなか難しかったりするので、ハードルの高い分野だよなぁ、といつも思います。ちなみに、僕にしても量子力学については前提となる話さえきちんと分かっているとは言いがたいです。当然のことですけど。
多世界解釈という話も知っていましたが、非局所性と状態の収縮をどのように説明するのか、という点については知らなかったので面白かったです。特に非局所性を多世界解釈で解釈出来るというのは、なかなか目から鱗っていう感じでした。
多世界解釈にもまだ解決すべき点があるようですが、しかしその点についてはもはや難しすぎてイマイチ理解することが出来ませんでした。とにかく量子論というのはなかなか実験の難しい分野で、自然哲学的な思考に進みがちなので、非常に理解が難しくなっていきますね。多世界解釈の問題の一つに、「眠り姫問題」というのがあって、これは非常に面白いと思いました。少しだけ説明します。
あなたは被験者となって科学者の実験に付き合います。科学者はあなたに説明をします。あなたにこれから眠り薬を飲んでもらいます。それから私は、これから100個の数字の書かれたルーレットを回します。ある特定の数字(例えば0)以外の数字が出れば、あなたを起こして実験終了となります。しかし、もし0が出れば、あなたを起こすたびに眠り薬を渡し(この眠り薬は、起きている時の記憶さえ消去してしまうものです)、それを一万回繰り返してからあなたを殺します。
さてあなたは実験前に、この実験は99/100の確率で死ぬことはない、と理解して臨みます(ルーレットの数字は全部で100個であり、その内0が出なければあなたは死ぬことはないのだから)。しかし起こされた回数ベースで考えた場合、あなたが死ぬ確率は10000/10099(実験のありうる総数は、0が出た場合あなたを起こす回数である一万回と、0以外の数字が出た場合あなたを起こす99回の和であり、その内あなたが死ぬのは、0が出たときに起こされる一万回のケースである)であるからほとんど死ぬしかないのではないか、と考えることも出来る。これが多世界解釈においてどう問題なのかはイマイチよく理解できなかったのだけど、発生確率をいかに結びつけるか、というような解釈の部分での問題のようです。
本作はまた、多世界解釈以外のものについてもかなり詳しく描かれます。コペンハーゲン解釈にしてもガイド波理論にしても、またペンローズという天才物理学者の解釈にしても、結構詳しく描かれます。まだ実際にどれが正しいのか分かっていないわけで、他の理論について知ることももちろん有益です。
しかし、先ほども書きましたけど、量子力学というのは実験によって証明するのが非常に難しい分野なんですね。それはペンローズの解釈にしてもそうで、ペンローズは自分の解釈の正しさを証明する実験を日々考えてはいるようですが、しかしどれも現実的には難しいものばかりなんだそうです。多世界解釈にしても、並行世界を利用しているようにしか見えない実験、というのが行われているわけですが、しかしそれだけを取って多世界解釈が正しいということは出来ないようです。ならどういう形でこの論争に終止符が打たれるのか、難しいだろうな、と思いました。
でも、過去にも似たような論争があり、それが実験によって証明されたわけです。マクスウェルは、光は電磁波の一種であると論じましたが、そうなると一つ問題が起こることになります。波というのは伝播するための物質を必要とするわけで、では真空であるはずの宇宙空間を光が伝播できるのは何故だろう、というものです。
当時、エーテルという物質が考えられました。宇宙にはエーテルという物質が満たされていて、これが光を伝播させるのである、と。しかしこれは、後にノーベル賞を受賞することになる(確かそうだったはず)実験によって、エーテルの不在が証明されました。その後アインシュタインが相対性理論を発表し、それにより光が伝播のために物質を必要とせず空間を移動することが示されたのでした。
恐らく長い年月が経ってから今の論争を見返せば、エーテル論争のように見えるのだろうな、と思います。僕らは宇宙空間にエーテルなんてないことを知っているからこそ、当時のエーテル論争が奇妙に思えますけど、後世僕らも同じように見られるんだろうな、と思います。何らかの形でこの解釈問題に終止符が打たれたら、かつてこんな論争があったんだよ、という風に科学史に書かれることになるでしょうね。
まあそんなわけで、未だに決着のついていない量子力学の解釈問題について、決して分かりやすくはないけど魅力溢れる形で描いている作品だと思います。実際結構難しいですけど、量子力学に興味のある人は読んでみたら面白いと思います。
コリン・ブルース「量子力学の解釈問題」
量子力学の解釈問題新書
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