図書館の前にいて、きちんと返すべき本を持っているのに、入るかどうか悩んでいる人間、というのを想像することは出来るだろうか。僕自身そんな状況に陥っていなかったとしたら、そんな状況はまず理解できなかったことだろう。図書館の前にいるなら、速やかに本を返却すればいい。それが世の中の道理であり、正しい行いである。
しかし、現実に僕は今、図書館の前でどうしようかと迷っている。最終的には本を返しに行くしかないし、それ以外の選択肢はありえない。しかし、少しでもそれを先延ばしにしてしまいたい、という思いが僕の足を押し留めるのだ。目の前にあるのが、普段僕が働いている図書館とは別だ、というのもなんとなく緊張に拍車をかけているのかもしれない。
僕がこの状況に陥ることになったきっかけは二週間前に遡る。
僕はとある大きな街にある図書館で司書をしている。館長ではないがかなり裁量権のある立場であり、比較的自由に物事を決めることが出来る。本が好きなこともあり、普段であれば自分がそんな立場でいられることは誇らしいことであるのだけれども、しかし自分がそういう立場だったからこそこんな事態を招いたのだとも言える。
二週間前の夜。閉館後、一人で残務処理をしている時のことだった。その日は夕方から雨が降り始め、だんだん強くなってきていた。どうせ仕事も溜まっていることだし、雨が落ち着くことを期待してしばらく仕事を続けてみよう、そんな風に考えて残っていたある晩のことである。
どこからか、ドンドンという鈍い音が聞こえてくる。雨の音に紛れて聞きづらいが、どうもドアか窓を叩いているように聞こえる。とりあえず様子を見ようと館内を回ってみると、一人の少女がずぶ濡れになりながら弱々しく窓を叩いているのが見えた。事情はまったくわからないが、とりあえず中に入れてやるしかない。少なくとも、その判断は間違っていなかったはずだ。
外にいる少女に入口に回るように手振りをする。鍵を開けて少女を出迎えると、その顔は真っ青で、体も小刻みに震えていた。とりあえず事情を聞くのは後にしようと決め、タオルを渡し、暖かい飲み物を出した。あまり期待はしていなかったが、事務所を漁ってみると、サンタクロースのコスチュームが出てきた。そういえば職場でクリスマスの飲み会をした時に誰かが着ていたなと思い出しながら、もしこんなものでよければ、と少女に差し出した。驚いたことに、少女はおもむろ服を着替え始めた。咄嗟に背を向けたが、少女は僕の視線など特に気にもしていないように思えた。
夜の図書館にサンタクロースの格好をした美しい少女という、何とも場違いな取り合わせに、少なからず心の高ぶりを覚えていた。だからなのかもしれない。言い訳をするつもりはないが、結局あんな決断をしてしまったのには、そんな理由もあるのかもしれないと思う。
「ここに、泊めてもらえませんか?」
少女は、結局一切の事情を口にしなかった。僕としても、あまり無理に問いつめることも出来なかった。少女の申し出には、もちろん戸惑いもした。しかし、もう僕は既に踏み込んでしまったのだという自覚もあったし、それに僕の裁量でうまく隠し通すことは出来るかもしれないとも思っていた。昼間の内は普通の来館者のように振舞えばいいし、夜は一人ぐらい何とか匿うことは出来るだろう。正しくないことは分かっていたし、バレれば大変な問題になることもきちんと理解できていたが、しかし少女の雰囲気に飲み込まれたのかもしれない、何となく気持ちが大きくなっていて、何もかも大丈夫な気がしたのだった。
それから彼女を匿う日々が続いた。危ない場面は何度かあった。残業する職員は時々いたし、また少女の生活に必要な持ち物が見つかりそうになったこともある。その度に巧いこと切り抜けながら、僕と少女の生活は続いていった。
不思議だったのは、少女が一切食事を摂らないことだった。何か食べるものを買い与えてもいらないと言うし、かと言って自分で何か買っているような様子もない。どうしているのかその時はわからなかったのだが、しかし大丈夫だというなら放っておくしかない。事実彼女は、特に衰弱することもなく、普段通り生活を続けていたのだ。
少女は、とにかくたくさんの本を読んだ。しかし、彼女が本を読む姿を目にしたことは一度もない。私が本を読んでいる姿を見ないで欲しいと言われていたし、少女も隠れて読むようにしていたからだ。昼間はどうしていたのかと言えば、図鑑や絵本を読んでいた。図鑑や絵本を読むのは見られていても大丈夫だ、と少女は言った。何のことかよくわからなかったが、特に少女のやることに口を挟むようなことはしなかった。
少女は夜様々な本を読んでいるようで、読んだ本の内容についてよく僕に語って聞かせた。少女の読む本は、ほとんど誰も読まないようなマイナーと言っていい本に限られていた。一年に一回借り出されるかどうか、というような本ばかりを読んでいたのだ。面白いのか、と聞くと面白くないと答える。じゃあ何で読んでるんだと聞いても答えない。まったくわけがわからない。
少女は一度読んだ本の内容は完璧に覚えてしまえるらしい。今となっては納得出来る話だが、その時はすごい記憶力だなと思ったものだ。
ある夜のことである。いつものように少女はどこかで読書をし、僕は事務所で仕事をしていた。そしてトイレに行こうとして、偶然彼女が本を読んでいる光景を目にしてしまったのだ。
あれほど驚いたことはかつてなかったと言ってもいいすぎではないだろう。
少女は本を開いて文字を目で追っているのだが、その文字が少女の目に吸い込まれていくのである。何がどうなっているのかわからなかったし、自分が寝ぼけているのだとも思った。その日はとりあえず何も見なかったことにして、とりあえず家に帰って寝てしまうことにした。
翌日、少女がこれまで読んでいた本を片っ端からチェックしてみると、なんとその本からすべての文字が消えていたのだ。まったくの白紙であり、まるで本としての体裁を保っていなかったのである。
僕は茫然とするしかなかった。とりあえず夜になるのを待って、少女の言い分を聞くことなく少女を追い出した。もう二度と来るな、と言い含めて。少女もどうして追い出されることになったのか思いあたるようで、また別のところを探すかと言ったような雰囲気を漂わせながら去って行った。
今から考えてみれば、あれが少女にとっての食事なのだろう。文字を食べることでしか生きていくことが出来ないのだ。しかし、日々本を買ってそれを食べていくのではなかなか大変である。だから図書館に狙いを定めて放浪しているのかもしれない。
そんなわけで僕は、見知らぬ土地の図書館の前にいる。既に偽名でカードを作り、数日前にその図書館から本を借り出していた。やることは単純だ。その図書館で借りた本と少女に白紙にされた本を入れ替えるのだ。整理番号を入れ替えたりするのが厄介だが、しかしやるしかない。僕の手の中にあるのは、中身が白紙の本なのだ。返却してもバレないだろうか、と不安になる。なかなか中に入る勇気が出ない。
しかし考えてみればあの少女も不幸なものだ。人とは違う生き方を余儀なくされ、人とは違う選択をしなくてはいけない。図書館の本をダメにするのは勘弁して欲しいものだが、同情の余地はあるなと思う。
さて、ぐずぐずしてても仕方ない。僕は意を決して図書館の入り口をくぐる。
一銃「図書館に住むことになる少女の話」
そろそろ内容に入ろうと思います。
僕は幼い頃に両親を事故で失い、残った唯一の血縁が伯父だけだった。伯父は音楽団に所属し、あちこちを転々としていたからなかなか会えなかったけど、それでも僕と世界を唯一結ぶ絆だったのだ。
その伯父が死んでしまった。人類が初めて月を歩いた夏だった。大学生だった僕は打ちひしがれ、すべてに無気力になった。それから僕は、何もせずに暮らすことを選択した。
幸い両親の事故の際の保証金が残っている。それを食いつぶしながら、僕は伯父がくれた大量の本を読みながら暮した。しかしそれも限界に近づき、いつしか部屋を終われ、外で暮らすようになる。やがて餓死寸前になるが、幸いそこで友人に救出された。
しばらく友人宅に落ち着いたが、それから僕は仕事を探すことにした。見つけたのは奇妙な仕事だった。ある体の不自由な老人の相手をする仕事だった。老人との奇妙な時間を過ごすうちに、僕は自らの家系の謎に辿り着くことになるのだが…。
というような話です。
外国人作家の作品は結構苦手なんですけど、何だかんだでポールオースターは結構読んでます。これまで本作を含めて四作読みましたが、その中で本作が一番いいと思いました。
とにかく話自体が非常に分かりやすいですね。これまでの作品も結構面白かったんですけど、でも話は何だか奇妙なものだったり曖昧なものだったりして掴み所に欠ける部分がありました。それは決して欠点ではないのだけど、でも小説として読む時にちょっとした壁になりうる類のものなわけです。
でも本作は、その壁がない、非常に分かりやすい話です。話自体を要約すれば、まさに裏表紙の内容紹介通りであって、話の流れも明確だし、何がどうなっているのかもすごく分かりやすいわけです。まずそこがすごく馴染みやすかったですね。
あと、ストーリーは大まかに言って三つに分かれているんですけど、そのどのパートも特徴的な印象を残す運びで面白いです。冒頭は、伯父を亡くした主人公がいかに絶望しいかに人生を捨て始めるかを緻密に描いていて、それが最終的に餓死寸前というところまでいってしまいます。真ん中では、奇妙な老人が出てきます。とにかくこの老人が強烈で、冒頭とは違った印象になります。さらに最後のパートでは、主人公の家系の謎が明かされることになります。
それぞれがかなり偶然によって繋がっていて、到底現実には起こり得ないだろうと思わせる話です。特に最後の家系の謎に至る偶然なんかはちょっと無理がありすぎるんじゃないかなとか思ったりします。でも読んでいると、そのありえなさを敢えて隠していないような雰囲気を感じます。ありえないことを積み重ねてありえない話を生み出してみました。お気に召さないならそれでも構いません。何だかそんな雰囲気を感じるんです。敢えてリアリティーみたいなものを追い求めようとしていないところがいいなと思いました。
それでいて一方では、細かい部分の描写はかなりしっかりしているわけです。なんというか、最低限なりたちうることだけは示していますよ、と言った感じで、そのバランスがすごくいいなと思いました。
個人的にはキティとミセス・ヒュームがいいなと思いました。キティというのは主人公が付き合うことになる彼女なんだけど、何だかしっかりしていて前向きで、すごく印象のいい女の子でした。こんな子に好かれた主人公は羨ましいですね。
ミセス・ヒュームは、主人公が相手をすることになる老人の生活全般の世話をずっとしている女性です。かなり気難しい老人なんですが、それをかなりうまいこと操っているところなんかすごいなと思いました。僕なら主人公と同じで、あんな老人とずっと一緒に暮すことなんかできないだろうな、と思ったりしますが、ミセス・ヒュームはどんなに罵倒されても大らかな気持ちでお世話を続けるわけなんですね。すばらしい女性です。
どちらもストーリー上は脇役ですけど、なかなか印象に残る二人でした。
伯父が死んでからの主人公のめまぐるしく変化する人生を丁寧に緻密に描き取った作品です。かなり面白く読めました。魅力的な登場人物と偶然に作用された様々な出来事、そして染み込むように入り込んでくる語りがなかなか素晴らしい作品だと思います。ポール・オースターの作品を全部読んでいるわけではないんですけど、でもポール・オースターの作品を一番初めに読むならこれがいいんじゃないかなと思ったりします。ちょっと長いかもしれないけど、是非是非読んでみてください。
ポール・オースター「ムーン・パレス」
ムーンパレス文庫
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