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2007年10月29日

映画化――ダン・ブラウン【天使と悪魔】

『ダ・ヴィンチ・コード』で知られるダン・ブラウンの『天使と悪魔』が映画化される。

トム・ハンクスが主役を演じ、ロン・ハワード監督がメガホンをとる。

2008年2月に撮影が始まり、2009年の夏に全米で公開される予定。


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天使と悪魔 (上) (角川文庫)天使と悪魔 (上) (角川文庫)
(2006/06/08)
ダン・ブラウン

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天使と悪魔 (中) (角川文庫)天使と悪魔 (中) (角川文庫)
(2006/06/08)
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天使と悪魔 (下) (角川文庫)天使と悪魔 (下) (角川文庫)
(2006/06/08)
ダン・ブラウン

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2007年10月29日

「ししゃも」

自分はこの町の色に染まっていくのではない。この町とともに、色を変えていくのだ。

「ししゃも」仙川環著(祥伝社) ISBN:9784396632854 (4396632851)

リストラで一流商社を辞めた恭子が、やむなく戻った北国の故郷で出合う「虹色のししゃも」。ししゃもを巡る「町おこし騒動」が始まる。

医療ミステリーのイメージがある作家としては、異色の物語。失踪事件と謎解きはあるものの、むしろ主人公の町おこしへの情熱でかき乱されてしまう、さびれた故郷の人模様がストーリーの中心。小さなセットで展開する、テレビの帯ドラマのような味わいだ。
虚勢や反発、あつれき。ささやかで平凡だけれど、人間関係のひだが細やか。(2007・9)

2007年10月28日

見城徹【編集者という病い】

角川書店で『月刊カドカワ』の編集長をつとめた後に幻冬舎を設立し、出版界に数々の伝説をつくってきた男が、自らの「病い」を語る。


編集者という病い編集者という病い
(2007/02)
見城 徹

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見城さんカッコいいです。

この本、過去の様々な記事やインタビューや文章から選んで編集しなおしたものだそうで、内容の重複もあるし、書き下ろしでないのが残念ですけれどもね。

やや自慢が入ってるのかなーっていう気もしないではありませんが、


自慢話のひとつもできない男がなんぼのもんじゃ


と私は思います。もちろん許容範囲はあって、ただ嫌味なだけで中身のない話を延々くりかえされるのは御免こうむりたい。

見城さんほどの人は自慢したっていいと思う。41歳で角川書店の取締役編集部長になり、42歳で辞めて幻冬舎を設立し、周囲から「失敗するよ」と言われながらも13冊のベストセラーをたたき出した。

先日、NHK教育テレビの番組『知るを楽しむ――人生の歩き方』でも見城さんを拝見しました。

作家や芸能人に多くの人脈をお持ちで、優秀な部下の方々に囲まれておられる。でもお仕事上の敵は多いでしょう。誤解されたり悪く言われたりもしたと思う。作家に対しても、すごく深い付き合い方をするあまり傷ついたり傷つけたりもしたでしょう。

愛犬を撫でながら遠くを見る目が深い孤独感をたたえていました。



男の孤独感は女心をひきつけます。たぶんこのかた、モテます。

でもそんじょそこらの女では埋めようのない孤独感。とくに私はヘナチョコなので全然お役に立てません。ヘタに近づくとかえってご迷惑になりそう。遠くから眺めているだけで充分でございます。



ごく個人的な話をすると、東京の老舗イタリア料理店キャンティで見城さんが「一緒に食事をした日本のきらめく才能」として多くの芸能人や作家の名を挙げておられる中に、吉川晃司の名前があったことが嬉しかった。



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2007年10月28日

永遠の出口(森絵都)

今回の内容とは全然関係のない話になってしまうのだけど(まあ無理矢理なんとか結び付けようとはしてみようと思いますけど。どうなりますか)、今日ずっと見ていたテレビ番組の話を書こうと思います。
それは、爆笑問題とビートたけしが司会の番組で、『責任』というキーワードを元に、いろんな社会的な問題を考えてみよう、というような番組でした。
そこでは、学校の責任が扱われ、亀田三兄弟の話題が取り上げられ、今の子供達のあり方を問い、またメディアの現状について討論をしたりしていました。また、責任感テストなるものをやっていて、自分がどのくらい責任感のある人間なのかということが判定できる、というような番組でした。
さてそもそも『責任』というのは一体何だろうか、と考えたわけです。漠然とした問いで、僕だって別に何か答えがあるわけでもないのだけど、でもそもそも『責任』ってなんだろう、って思いました。
僕らは、社会というものの中で生きています。そこではありとあらゆるものに取り巻かれ、ありとあらゆるものが隣同士になっています。また様々なルールが決められ、そのルールを守るように言われます。窮屈ではあるけれども、しかし人間が長い年月を掛けて、より生きやすいシステムを模索した結果、今あるような社会というものが生まれたわけです。
基本的に『責任』という言葉は、この社会とセットになる言葉ではないかと僕は思うわけです。僕が言う社会というのは国とか法律とかそういう大きなものだけではなく、家族とか友人とか、要するに自分を取り巻くものすべて、というような意味合いですけど、その社会というものの中で生きる上で『責任』というものは意味を持ってくるのだと思うわけです。
今日やっていたテレビ番組でも、この社会に対する『責任』というものを扱っていました。社会というものがどんどん高度に、そして複雑になっていくにつれて、『責任』という言葉の持つ意味もどんどんと変わっていきます。それが今、学校という場で、あるいは若者のあり方そのものに如実に現れ、また企業の不祥事とそのトップの辞任や、あるいは亀田三兄弟や何とかっていう横綱などの追求というものに関わっていき、また、『責任を取ること』と『責任を回避すること』が論じられ、またメディアはどうあるべきかということが議論されるわけです。
ただその番組をぼーっとしながら見ていて、僕はふと感じたわけです。
『責任』という言葉は、本当に社会に対してのものだけなのだろうか、と。
社会に対して『責任』を果たしていればいいのか、あるいは社会の『責任』から逃れることだけが悪なのか。
もう一つだけ、『責任』という言葉が対するべき存在があるような気がしました。
それは、『自分自身』です。
僕がこれまで言ってきた社会に対する『責任』というのは要するに、関係性の問題だったわけです。人間関係の中に生じる『責任』であり、他人の存在があるからこそ発生する『責任』でもあります。
しかし、それだけでは満足ではないような気がしました。
もちろん『自分自身』というのも社会の中に含まれはします。しかし、『自分自身』とは関係性で結ばれているわけではなく、存在そのものとして繋がっているわけです。存在に対しての『責任』というのもあるはずだし、それも考えなくてはいけないのではないか、という風に思いました。
では、『自分自身』に対する『責任』とは要するに何でしょうか。
それは、『自分自身と寄り添う』ということではないかと思います。『自分自身を見極める』と言ってもいいし、『自分自身を信じる』と言ってもいいと思うのだけど、要するに『自分自身』の存在を正確に把握するということではないのかな、という気がします。
僕らは意外と、『自分自身』のことを知っているようでいて知らなかったりします。自分を過信しすぎてヘマをしたり、自分のことを信じ切れなくて何かを逃したりと、そんなことばかり繰り返しながら生きているわけです。
僕はこの、『自分自身』の『責任』というのが、社会に対する『責任』というものと表裏を成すのではないかと思っているわけです。
今世の中は、モラルが低下しているだの人を信じていないだのとまあいろいろと言われていて、結局その話は社会的な『責任』を果たせない人間が多いという結論に向くのだと思うのだけど、しかしそれは同時に、『自分自身』への『責任』が果たせていないからではないか、という気もするわけです。『自分自身』を巧く見極めることの出来ない人間が多すぎて、『自分自身』を信じきれない人が多すぎて、『自分自身』と寄り添えない人が多すぎて、それで社会的な『責任』も果たせていないのではないかな、という感じがします。
昔がどうだったか、正直僕は知りません。しかし僕の中でのイメージでは、昔の人は大抵『自分自身』のことをそれなりにきちんと把握できていたのではないか、という気がします。どれくらいの人間で、何が出来て何が出来なくて、何を信じていて何を信じていなくて、というようなことを自分でちゃんと持っていたのではないかという気がします。
今の世の中というのは、情報が多すぎて、僕らは日々ありとあらゆる価値観にさらされ続けます。その情報の多さに、現代を生きる僕らは、どんどんと『自分自身』を見失い続けているのではないかな、と思いました。
社会的な『責任』を果たすことはもちろん必要だし重要だと思います。しかしまずは、『自分自身』への『責任』について考えてみてはどうでしょうか?向き合って飼いならして落ち着いて、そうしてからようやく僕らは、社会的な『責任』を果たす存在になるのではないかと思いました。
子供というのは要するに、その過程を経る期間であるとも言えるかもしれません。社会的な『責任』を果たす大人になるために、『自分自身』と向き合う時間が子供時代であるのかもしれません。
現代は、環境のせいなのかあるいは大人のせいなのか、子供が『自分自身』となかなか向き合うことの出来ない世の中なのだろうな、と思います。もっと傷ついて、もっと考えて、もっと諦めて、そうやって『自分自身』の大きさを知悉して初めて大人になるのではないでしょうか。
僕は子供時代のことをほとんど覚えていません。高校の頃までの人間関係や出来事などはほとんど忘れてしまっています。僕は子供時代に、『自分自身』と向き合って、『自分自身』への『責任』を果たしたのでしょうか?碌でもない大人になってしまった今では、もはや『自分自身』と向き合うだけの勇気はなかなか出てこないわけですけど…。
やっぱり本作の内容とはあんまり関係のない話のまま終わりました。そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、紀子という一人の少女の小学三年生から高校三年生までの九年間を描いた作品です。
紀子という少女は、どの年代でもどこにでもいる普通の少女です。中学時代ちょっとだけグレ掛かったものの、基本的には平凡でどこにでもいるようなありきたりな少女です。
しかしそんな平凡な少女でも、印象に残る出来事、些細なことだけど気に掛かる思い出、つまらないと言って切り捨てることの出来ないゴタゴタなんかがあります。黒魔女のように恐ろしい担任もいたし、恋のドキドキもあった。初めて男の子と付き合ったり、その恋愛にボロボロにされたり、初めてアルバイトをしたりもした。両親の不仲にヒヤヒヤしたり、友人とのいろんな関係もあった。そんな、人から見れば小さな、でも本人としては大きな出来事を通じて、紀子という少女は少しずつ大人になっていく。その過程を、繊細な視点で追いかけながらも、時代背景も映し出しながら一人の少女の人生の一瞬を鮮やかに切り取っていく…。
というような話です。
なるほど、なかなかいい話だと思いました。
本作は、ハラハラするような展開があるわけでもなく、驚くべき結末を迎えたりするわけでもない、どちらかと言えば平凡な話の連続なのだけど、しかし書き手が巧いとそういう平凡な話でもここまで読ませるものなのだな、と思いました。
なんというか、少女というのを巧く映し出しているのだな、という感じでした。微妙な友人関係だったり、思春期特有のあり方だったり、一向に定まることのない生き方だったりするところに、紀子という少女の少女としての不安定さが描き出されていて、その巧さに惹かれて読んでしまう作品でした。
構成としては連作短編集に近い感じになっていて、それぞれの時代毎に章が分かれ、それぞれで印象的なエピソードを中心にその時代を描き出す、という形態です。ちょっとした冒険に少女のドキドキを感じたり、初めての恋愛のふがいなさを一緒に噛みしめたり、何もしたくないっていう諦念みたいなものに共感できたりと、まあ僕とは性別が違うのだけど、いろんな話の中でこの少女に寄り添うことが出来る感じがあって、なかなかよかったな、と思います。
主人公だけではなく他のキャラクターもなかなか巧い造型で、しかも何が巧いかと言えばキャラクターをキャラクターによって際立たせているのではないというところです。よく『キャラクター小説』と言われるような小説があって、特徴的な喋り方とか奇行なんかによってキャラクターを定めて面白く描くような小説があるけど、そういう感じではありません。口癖があるわけでも、変な行動をするわけでもなく、誰もが地に足をつけたようなキャラクターなのだけど、しかしストーリーの中で着実な役割(なんか変な表現ですけど)をこなしているために、そのストーリーの合間からキャラクター性が浮かび上がってくるというような感じでした。キャラクターがストーリーから浮いて独立しているのではなく、キャラクターがストーリーに寄り添う形で存在を確立していて、これはかなり筆力がないと出来ないのではないか、という感じがしました。
僕としては森絵都の作品なら「DIVE!!」の方に遥かに軍配を上げますが、しかし本作もなかなかいい作品です。しっとりとした風合いがあって、ゆっくりと少しずつ読み進めていくのに合うような作品だと思いました。
女性が読んだら、自分にもこんな時代があった、とより共感することの出来る作品なのかもしれません。派手さはないですけど、落ち着いたいい作品だと思います。読んでみてください。

森絵都「永遠の出口」


永遠の出口文庫

永遠の出口文庫

2007年10月26日

月光ゲーム(有栖川有栖)

本格ミステリという小説のジャンルがある。探偵が出てきて、アリバイだのダイイングメッセージだの密室だのと言ったものが出てきて、まあ人が死ぬような話である。最近では『ミステリ』という言葉はほぼ『エンターテイメント』と同義になっているけれども、『本格ミステリ』と呼ばれる場合、そう言ったジャンルを指すことになる。
さて本格ミステリはよく、リアリティに欠けるという批判がされる。大体こう言った内容だ。
『何でわざわざトリックなんかを使って人を殺すのか』
『身近で人が死んでいるのに探偵の真似事なんかするだろうか』
『証拠もないのに探偵にトリックを見破られたからと言って犯人が自白するのはおかしい』
などである。
これらの批判について、そんなことを言ったら小説として成り立たないではないか、という返しをすることも出来る。要するに小説というのは、何を書いてもいいわけで、リアリティを追求するだけが小説ではないはずだ、と。
しかしそうではなく、そもそも僕にはそういった批判自体がどうもなぁ、という感じがするのだ。
僕らは普通に生きていれば、殺人事件なんかにはそう遭遇することはない。まして、本格ミステリではよくクローズドサークルという特殊な状況が描かれるのだけど(要するに、嵐の山荘モノと言われるやつで、何らかの事情で外界と連絡が断たれてしまった状況で殺人事件が起こる。警察が介入出来ず、しかし犯人は間違いなくその集団の中にいるという状況を作れるので、本格ミステリでは比較的多用される)、普通に生きていればクローズドサークルで起こる殺人事件なんかにはまず遭遇しないだろう。
であれば、そういう状況下で人がどう行動するかについて、リアリティもへったくれもないだろう、と僕なんかは思うのだ。わざわざそんな批判をしてまで本格ミステリを貶める必要もないんじゃないかな、と思ったりするのである。
正直僕も、クローズドサークルでの殺人事件に実際巻き込まれたら、自分がどう行動するかわからない。
例えば自分が犯人でも被害者でもなかった場合、その場で友人を失った哀しみにくれるのか、あるいは犯人を見つけ出してやろうと探偵の真似事をするのか、正直分からない。あるいは何もしないかもしれない。僕は多少ミステリを読んでいるので(ただ犯人が分かった試しはないのだけど)、真相を究明したいと思うかもしれない。しかし一方で、どうせ何も分かりはしないのだからおとなしくしていようと思うかもしれない。あるいは、犯人を指摘するのではなく、次の殺人が起きないような手立てを打とうとするかもしれない。正直言って、そういう状況になってみないと分からない。
また自分が犯人の側だとしても同じである。よく、何で犯人が限定されてしまうようなクローズドサークル内で殺人事件なんか起こすのか、というような批判がある。そうじゃなくて、例えば離島に旅行に行っているのならば、そこから東京なりどこなりにでも戻ってから、東京で殺した方が発覚し難いだろう、と。
ただそういう状況だけでもないだろう。例えばXさんはAさんを殺そうと思っている。ただAさんが死んだということだけははっきりと痕跡を残したい、つまりAさんを殺したいのだけど死体を隠匿するわけにはいかない、という状況だとしよう。だとすれば殺す場所にさほど大差があるとも思えない。離島で殺そうが東京で殺そうが誰かに目撃される可能性はあるし、どちらかと言えば離島で殺す方が目撃者が少ない可能性だってある。離島で殺す場合、もちろん容疑者が限定されてしまうという危険性はあるのだけど、しかしうまくやれば、誰かに罪を着せたり、あるいは自分だけは犯行が不可能だったと証言してもらえるような状況を作り出すことだって出来るかもしれない。ハイリスクだが、しかしうまくやればハイリターンでもあるのだ。人を殺すという重大事だからこそ、賭けてみる価値はあるのかもしれない。
それに、そもそも人を殺すというのはとんでもないことなのである。僕はもちろん人を殺したことなんてないから分からないけど、しかしふとある一線を超えてしまった時に殺意が完成するのかもしれない。だとしたら、そこがクローズドサークルであるかどうかに関係なく、突発的に殺意が訪れてしまえばもう仕方ない。
確かに僕だって、本格ミステリにリアリティがあるとは思っていない。そもそもそういうクローズドサークルのような状況にはなかなかならないし、わざわざ苦労して密室なんかを作って何の意味があるだろうとも思う。登場人物が死んだ人間をさほど嘆き哀しんでいないようにも思うし、最後犯人があっさりと犯行を自白してしまうのもどうかなと思わないでもない。しかしまあそういう部分はそれとして、でも僕は本格ミステリにリアリティがないという批判はしたくない。誰もそういう状況に陥ったことがないのであれば、そういう状況で人間がどう行動するかなんて誰にも分からないのである。
まあこういうのは理屈ではないわけで、本格ミステリがダメだという人にはまあ生理的にダメなんだろうな、とも思う。別に無理矢理本格小説を読んで欲しいと思っているわけでもないのだけど、しかし他のジャンルに比べて一際批判が厳しいジャンルであるように思うので、なんとなく擁護してみたりしました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、綾辻行人と並んで本格ミステリを成熟させた(だろう)有栖川有栖のデビュー作です。
舞台は矢吹山のキャンプ場。今は小康状態を保っているものの、10年前には小規模の噴火が起き、200年前には大噴火を経験したこともある火山である。
さてそこに大学生ばかりの四つのグループがほぼ同じ時にキャンプを張ることになった。
物語の語り部は、英都大学の推理小説研究会に所属する有栖川有栖。推理小説研究会のメンバーは4人で、江神さんという部長が本作の探偵役である。
他には、雄林大学の男女混成の7人グループと、同じく雄林大学の男ばかりの3人グループ、そして神南学院短期大学の女子ばかりの3人グループの17人の大所帯である。
彼等はすぐに意気投合し、料理の役割分担をしたりキャンプファイアーをやったりと楽しく時を過ごしていた。
しかし三日目の夜、彼等を悲劇が襲う。
なんと矢吹山が200年ぶりに大噴火を起こしたのだ。灰と瓦礫が散乱する中、どうにか一人の死亡者も出さずに噴火を乗り切った彼等は、しかし土砂崩れのためにそのキャンプ場に閉じ込められることになった。食料を切り詰め、救助が来るのをひたすら待つことにする。
しかし翌朝、さらなる悲劇が襲う。なんと、メンバーの一人がナイフで刺されて死んでいるのが見つかったのだ。明らかに殺人事件であり、間違いなくこの中に犯人がいるのだ。
死体の傍らには「Y」と思しき文字が。ダイイングメッセージである。推理小説研究会の面々はそれぞれに知恵を絞るが、しかしアリバイを持つ者は誰もおらず、動機も皆目わからず進展しない。
その後次の犠牲者が現れ…。
というような話です。
本作は20年近く前に出版された本なのですが、今でも充分読むに耐える作品になっていると僕は思います。もちろん、全体的には何となく古臭さを感じるストーリーではありますが、しかし読みやすい文章と軽快な感じのストーリー運びで、20年も前に出版されたという感じはそこまでしません。
しかし、火山でクローズドサークルを作るとはかなり大胆な発想だな、と思いました。地震とか孤島とか雪の山荘なんかはよくあるけど、火山というのはたぶん初めて読みました。別に物語上火山である必然性は特にないと思うんですけど、しかし火山という設定を巧みに使っていると思いました。火山の噴火と殺人犯という二つの要素が、登場人物達を疲弊させイライラさせていく感じがなかなか巧く描かれているような感じです。また、噴火の度に逃げ惑うパニック感みたいなものもなかなかのものだと思いました。
本筋であるミステリの部分も、解決まで読むとなるほどという感じがしました。ストーリーを読んでいると、こんなので犯人を特定できるんだろうか、という感じがずっとしていました。というのも、誰も確たるアリバイもないし、初めて会った者同士で動機になりそうなものも思い浮かばない。ダイイングメッセージである「Y」もどうにでも解釈出来る代物で、また科学的な捜査はまったくない。遺留品や証拠物件はあるけど、それにしたって大した手掛かりになるとも思えない。そんな状況から、なるほど論理的に犯人を導き出せるものなのだな、と思いました。もちろん、多少牽強付会な部分はないでもないかなと思いましたけど、しかし全体的には巧くまとめたと思います。いろんな伏線が張られていくわけですけど、なかなか巧いものだと思いました。
ただ、探偵役である江神の存在感がちょっと薄すぎたかなという気はします。そういうキャラクターの探偵なんだろうとは思うのだけど、しかしストーリー全体を通してどうも江神の探偵としての印象が薄いです。江神はかなりリーダーシップを取って集団をまとめているので、そのリーダー的な素質みたいなものはかなり垣間見ることが出来たわけですけど、しかし探偵的だったのはラストの解決の部分だけという感じでした。そこがちょっと物足りないと言えば物足りなかったかなという気がします。
というわけで、有栖川有栖はこれからもちょっと読んでみてもいいかなと思わせる作家になりました。最近では、この「月光ゲーム」のシリーズの長編第四作目である「女王国の城」が出て、なんとかそこまで辿り着けたらいいかなと思っています。また、火村という犯罪心理学者が探偵役である別シリーズも読んでみたい気がします。本作も、目新しさはないしちょっと時代遅れだと感じる人もいるかもしれないけど、でも落ち着いたなかなかしっかりとした作品だと思います。本格ミステリが好きなら、読んでみるといいと思います。

有栖川有栖「月光ゲーム」


月光ゲーム文庫

月光ゲーム文庫

2007年10月26日

ちんぷんかん

ちんぷんかん ちんぷんかん
畠中 恵 (2007/06)
新潮社
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ご存知「しゃばけ」シリーズの最新刊です。
とうとう若だんなの一太郎が、三途の川まで行ってしまいます〜。
今までは布団の中からでも一太郎が、あれやこれやと推理したり活躍していたのですが
今回はなんだか他の人が主人公のような、そんな気がしました。
特に最後、別れを感じさせすこしばかりしんみりさせられました。
元気になってとは言わないが、現状維持で過ごして欲しいです、若だんな。

2007年10月25日

「若冲になったアメリカ人 ジョー・D・プライス物語 」ジョー・プライス 、 山下 裕二


「若冲になったアメリカ人 ジョー・D・プライス物語 」ジョー・プライス 、 山下 裕二
274p 小学館
若冲の絵のコレクターとして世界的に 有名なジョー・プライス氏のこれまでの半生を インタビュー形式でまとめた一冊。

アメリカって やはり いろんな人が いるんだなぁと思う。


田舎のアメリカの心優しい人(それは、「ABCDJ」のジャックや、プライス氏のお兄さんや お母さんなんだけど)の話を、知った。

インタビュー形式なので 読みやすかった。

2007年10月24日

酒見賢一「陋巷に在り9 眩の巻」★★★★☆

とうとうようやく「しよう」の媚術に打ち勝った顔回。
しかし皆様ぼろぼろでこの巻ではお休み。
一方で孔子の三都毀壊も最終段階に。

ファンタジーと史実と作者注が入り混じって
だんだんわけがわからなくなってきたような気もしますが。
はたして年内に全巻読み通すことができるのか?


酒見 賢一 / 新潮社(1998/08)
Amazonランキング:721134位
Amazonおすすめ度:

2007年10月24日

恩田陸【Q&A】

郊外の巨大ショッピングセンターで災害が起こった。火事か? 有毒ガスか? 悲鳴を上げて逃げまどう人々。携帯電話が通じない。渋滞する道路。センター周辺は騒然とした空気に包まれる。

この一件で多数の被害者が出た。では加害者は誰か。原因は何か。

関係者に問いかけられる質問とその答えから、目に見えぬ悪鬼の姿が浮き彫りにされていく。


Q&AQ&A
(2007/04)
恩田 陸

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この本、いかがでした?

「ひとことで言えば『不穏』ですね。小説としては面白いです。でも読後に腹の底がザワザワして……」

妄想キャスティングできそうですか?

「難しいです。『ショッピングセンターで何が起こったのか』が気になって、どんどん先を読みたくなりました。関係者の一問一答から役者さんの顔をイメージしている余裕はありません。どの人物が主人公なのかもよく分からないし」

質問する人が主人公ではないのですか?

「うーん。答える人たちの氏名や職業は明かされますが、質問する人は誰だか分からない。途中で入れ替わってるようだし。人というより影がいくつも現れたり消えたりする感じ。人の気配はあっても目鼻が見えません」

結末はどうですか? 恩田さんの作品は結末で「ありゃりゃ」と思う人と、「これでいい」という人と、分かれることが多いですよね。

「私はこれでいいと思います。現実にありそうな怖さに満ちた作品だから、ラストは現実ばなれしてないと、怖くて眠れません。リアリティを求める人は小説じゃなくて、ルポルタージュや新聞を読めばいいんです」

ははは。怖がりなのか強気なのかよくわからない人ですねえ。作品中で印象に残った言葉はありますか?

「関係者の一人が、初めてショッピングセンターを見たとき『なんだかこの店、墓石みたいだな』って思った、と言うところですね」

ぱんどらさんは郊外型の巨大商業施設をよく利用しますか?

「いいえ。あんまり広すぎて、どこに何があるか分からなくて不便だし、都会のデパートと違ってゆっくり品物を見る気がしない。落ちつかないんですよ。早く用事を済ませて家に帰ろうって思います」

墓石だと思いますか?

「いやー墓石とは言わないけど、派手に看板とか出てるわりに、うら寂しいというか。とくに夜には行きたくないですね。宮城県南部の某商業施設に行ったときは驚きました。建物の裏にまわると山があって、夜空に月がポッカリ浮かんでて、タヌキでも出るかと思った」

あれ? お住まいは宮城県北部でしょう。ジ○○コ、ありますよね? わざわざ県南に行ったんですか?

「友達と一緒でしたから。映画を観ようってことで」

大型スーパーマーケットに映画館が併設されているところは多いですね。買い物もレジャーも一箇所で済んで便利でしょう。

「だけど、そういう施設のせいで昔からの商店街は完全にさびれました。地方の経済をおかしくしたのは、ああいう商業施設じゃないですかね」

中規模の街に住んでいるから、そんなことが言えるんです。ジ○○コ以外のお店もありますよね? もっと田舎のほうはお店が少ないから、大きな商業施設ができて有難いとお思いのかたも多いでしょう。

「それはそうですけど……。駅の自転車置き場で高校生のものらしい自転車が並んでるのを見ると、どれも色や型が同じなんです。みんなジ○○コで同じ自転車を買うんじゃないでしょうか。どこの家でも冷蔵庫にジ○○コの自社ブランド『ト○プバ○ュー』の牛乳とか冷凍食品とかが入ってるのかな、なんて想像したりしてね。これで病院や葬祭会館が併設されたら、まさに『ゆりかごから墓場まで』ですよ」

ぱんどらさんのご職業は何ですか? 小売店を経営なさってます?

「いえ、会社員ですけど。それが何か?」

あなたが巨大商業施設に対して肯定的な見方をしないのは、なにか個人的なわだかまりでもあるせいかと思いまして。たとえば巨大商業施設のせいでお店の経営がふるわないとか。

「そんなものはありませんよ」

宮城県南部の某商業施設に行ったとき、一緒だったお友達は男性ですか? 女性ですか?

「え? ああ、男性です」

そのかたとは今もお付き合いしてらっしゃる?

「いいえ。あのとき映画を観て……その後ぐらいから関係がギクシャクしちゃって。映画の感想が彼と私とで大きく違うのも気になってました。それに二人でいても自分のスケジュールだけは絶対に守りたい人で、携帯電話のアラーム音が鳴るんです。落ちつかなかったなぁ」

アラーム音ではなくメール着信音だったかもしれませんね。

「私以外の女性からのメール? ははは。いま思えばそういう可能性もありますね。なぜアラーム音だと決めてかかってたのかな」

現実を認めるのが怖かったからじゃないですか?

「そうかなあ……」

彼が本当に他の女性と関係があっても、あなたが失恋するとは限らない。彼にちゃんと愛情を注ぎ、落ちついて構えていれば、そちらの女性が身を引くこともありますよ。たとえあなたが失恋しても、「お幸せに」と言ってきれいに別れられるんじゃないですか?

「そうですね。自分に自信がなかったというか。最初から『どうせ私は……』みたいな感じで付き合ってたかもしれません。映画の感想だって人それぞれ違って当たり前ですし」

うら寂しいとか落ちつかないとか、それは商業施設のことじゃなくて、あなた自身の心だったかもしれませんね。被害者意識をあんまり肥え太らせないほうがいいですよ。

「この本の登場人物みたいに、あるところでは被害者なのに別のところで加害者になっちゃうかもしれませんよね」

ところで血に染まった縫いぐるみを持ってた女の子は、どこへ行ったんでしょう?

「どこでしょうね。みんなの被害者意識が一斉にあの女の子へ向けられる危険性が示唆されてましたけど……」

悪鬼は人の心の中に棲んでいるのかもしれませんね。

「なんだか寒気がします」

それは本のせいじゃなくて風邪かもしれませんよ。

「何事も思い込みは禁物ですね」



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2007年10月24日

音楽監修は細野晴臣 主題歌はHASYMO エクスマキナ

『エクスマキナ』鑑賞。
音楽監修は細野晴臣。
主題歌はHASYMO(細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一)。
音楽を劇場で聴いたらどう感じるのだろうと思っていた。前半、映像より音楽に気持ちが集中している。決して音楽が全面に出ているわけはありません。ただ、カラダに染み込んでいる音楽反応センサーが作動。それは序盤だけでした。中盤の見せ場から鼓動がドクドク。速くなる脈拍に音楽のリズムが一体となり、昂揚していた。映画でこのようなことが起きたのは、多分初めて。
映像はCG技術の発達は日進月歩。滑らかで素早い動き。アニメ映画と思えない実写のようなカメラワークを感じる。
『アップルシード』の続編ですが、世界感が同じなパート2でした。
ここからは物語についての感想。
ネタバレしているので、先入観なしで観たい方はここまで。



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