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2007年07月31日

「泣き虫弱虫諸葛孔明」

「生命がかかったような大事な対局のときでも、そういう、勝負とは無関係な、無意味の位置に石を打てる者は、わしの知る限り唯一人」
「ほう、それが、おそらく問題の」
 と劉備がノると、龐徳公はガッと拳を突き出して、
「ご賢察の通りだ。諸葛孔明! やつは、必要があれば(いや、べつに無くても)碁盤の外の床の上に涼しい顔をして石を並べることも厭わぬ男である

「泣き虫弱虫諸葛孔明」酒見賢一著(文藝春秋)  ISBN:9784163234908 (416323490X)

清廉潔白、冷静沈着の知将、孔明。実はものすごく、いけすかない奴だったのかも… 豊富な古典の知識と、軽妙な語り口で読み解く酒見版三国志。

吉川英治歴史時代文庫「三国志」全8巻(講談社)を読んだことがある。「序」の書き出しはこうだ。「三国志は、いうまでもなく、今から約千八百年前の古典であるが、三国志の中に活躍している登場人物は、現在でも中国大陸の至る所にそのままいるような気がする」。
日本がまだ卑弥呼の時代の昔、大陸で繰り広げられた戦闘劇は今も生き生きと光を放ち、様々な故事として生活に定着している。それは歴史としての壮大さ、ロマンの力だけではないだろう。暴れ回る英雄たちの人物の魅力、過剰なまでの強さ、過剰なまでの情熱や心意気の魅力に負うところが大きそうだ。

中でも「三顧の礼」は、一つのクライマックスともいえる著名な逸話。ここに著者はあえて疑問を差し挟む。なぜ劉備は、一見うだつの上がらない孔明に目を付けたのか、会ったこともない彼を軍師に迎えるため、三度も足を運んだのか…。ほかにも「常識」に当てはめてしまうと、英雄たちがとる行動には、どうにも納得いかないことが多すぎるぞ。
そんな疑問に対する回答は、主に三つ。「大昔だから」「中国だから」「登場人物が実は変人だから」。長編を読み進むうちに、この三つ目の理由の比重がどんどん大きくなっていき、物語は前代未聞の変わり者同士の対決劇、「三顧の礼」へとなだれ込む。

口調はあくまで講談調。難しい史書の解説なども、「のり」と「つっこみ」を間断なく繰り出してこなしていく。講談というより、なんだか人気のある塾講師みたいだ。荒唐無稽で、結構難解なところもあるが、リズムの軽さにからめとられ、思わず吹き出しながら読み進む。そんな読者も、たぶん著者も、立派に孔明の術中にはまっている。「中国の話は、何でもだいたい日本の五倍」というくだりが、妙に印象的。(2007・7)

「泣き虫弱虫諸葛孔明」 酒見賢一  本を読む女。改訂版

2007年07月31日

滝山コミューン1974(原武史)

学校とはおかしなところである。
僕はどうしても学校というところにあまり馴染めなかった印象がある。別に友達がいなかったわけでも勉強がつまらなかったわけでもないのだが、学校というのは僕に違和感を与える場所だったというような質感が残っているのである。
やはりそれは、同じ年の子供たちが集団となって集っているというその異常さによるのであると思うのだ。
もちろん、ただ集っているだけなら問題ない。そういう場所は、学校でなくても他の場所でもあっただろう。塾にしてもそうだし、僕は別にやってなかったが習い事の場だってそうだろう。
学校が特殊であるのは、集団をより集団らしくしようという意識があるからだと僕は思うのだ。
分かりやすい例で言えば、行進だとか、「起立、気をつけ、礼」と言ったような行動に現れる。動きを統制しよう、という発想である。チャイムが鳴れば席につくように、廊下は走らないように。もちろん当然のルールであるのだが、その当然の範囲が学校というのは多少広かった印象がある。こんなことまで統制しなくてはいけないのか、というようなことが多かったような気がするのだ。
行動だけではない。
読書感想文を書くということにしても、授業で積極的な挙手を求めるということにしても、とにかく皆で同じ方向を向き進んでいこうという意識がそこにはある。たとえその方向に疑問を感じたとしても、それを止めるものはいない。子供はまだ幼すぎて判断に自信が持てないし、教師はそもそも思考を停止しているからである。
集団をより集団らしくする。
それは即ち、僕の中で宗教団体や軍隊と言ったものにイメージが直結する。学校は、個性を伸ばす場としてではなく、個性を埋没させ同じ方向に向かわせる場であるというイメージだ。それが僕には強い違和感を抱かせた。子供の頃も、その違和感を言葉にすることは出来なかったにしろ、違和感そのものは感じていたのではないかと僕は思う。
それは結局、教育とは一体なんなのかという疑問に直結するのだ。
僕の中でのイメージは、教育というのは個々の道を押し広げてあげるというイメージである。北に向かおうとしている子供がいれば北側を歩きやすくする、南へ向かう子供がいれば南側を歩きやすくする。もちろん全生徒にそれをやるのは無理だろうとは思うのだが、しかし理想としては教育というのはそうあるべきではないかと思う。
しかし実際は、子供を皆同じ方向に歩かせようという教育が成り立ってしまっている。皆で北に向かって歩きましょう。ほらほら、南に行くのは間違ってますよ、東に行くのは危ないですよ、西に行くのはもう少し大人になってからにしましょうね。そんなことをいいながら、全員を北に向かって誘導するのが、これまで行われてきた教育というものの正体ではないかと思うのである。
教育の場、即ち学校というのは、世間からいささか孤立したところにある。常識からも家庭からも僅かに距離を置いたところにあるような気がする。だからこそ、学校における異常さというものはなかなか気づかれにくい。そうやってこれまでも、学校という場が形成されてきたのである。
教育は時代を映す鏡であると思う。学校も時代によって大きく変化してきたことだろう。どの時代の教育が正しかったのかという議論も難しいだろう。これからも教育は変わっていくことだろう。恐らく、誰も教育の正しい姿というものを知らないままで。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、著者が子供の頃に住んでいた東京都の久留米一帯に存在した滝山団地と、その滝山団地が出来たことによって生徒数が急増した第七小学校についての記録である。
著者が描こうとする目標は、「滝山コミューン」についてである。
これは著者が便宜上そう呼ぶことにしたものであって、恐らく正式な名前がついているわけではない。著者が「滝山コミューン」という名称で何を指しているのかと言えば、1974年前後、第七小学校を舞台にした、滝山団地の保護者らを巻き込んだ、ある教育的改革のことを指している。PTAと学校が一体となって、当時広く信奉されていたある教育理論について実践していったその集団を「滝山コミューン」と呼んでいる。
ではそのある教育理論とは何か。
それは、全国生活指導研究協議会(全生研)が唱えた「学級集団づくり」というものである。
全生研は、日教組(僕はこの日教組というのが何なのかよく知らないけど)から派生した民間教育研究団体である。その全生研が唱えた「学級集団づくり」という指導方法が、第七小学校において、片山という教師を中心にして、というか片山という教師のほぼ独裁という形で実践されていった。
片山は4年5組のクラス担任となり、以後6年5組までクラス替えのない持ち上がりの同じクラスをずっと担当することになる。片山は、「学級集団づくり」で唱えられている指導を実践し、5組を学年全体のリーダー的な組にし、また6年の時には学校全体をも支配する大きな権力を持つに至ったのである。
では「学級集団づくり」とはどんな指導であるのか。
それは、一言で言ってしまえば、生徒が生徒を監視するシステム、というものである。
教室内に班を設け、常日頃からその班単位で競争をさせる。競争の結果最下位であった班は「ボロ班」と呼ばれ蔑まれる、という、今考えれば恐ろしい仕組みで成り立っていたものである。今こんなことをすれば、恐らくPTAから多大な文句がくるだろう。しかし当時は、そのPTAが片山の指導を支持した。
本作のスタンスは、そんな「滝山コミューン」の形成に至る過程を時代背景まで描写しながらつぶさに追っていくと共に、小学生であった著者がその「滝山コミューン」に感じたありあまる違和感について綴ったものになっています。
本作はちょっとどうも僕には難しい本で、さながら国語の教科書に載っていた評論文を読んでいるような感じでした。ところどころ文章が難解であるし、引用された文章はもっと意味が分からない。ちょくちょく関係のないところ(著者としては時代背景を描いているつもりなのだけどけど、僕には脱線にしか思えなかった)へと飛び、本筋が何なのかを見失いそうになったりという感じでした。ホント文章は、「傍線①の指している内容は何か」という問題文になりそうなくらい、ちょっと僕には合わない、評論文のような感じでした。
本作を読んでとにかく思ったことは、よくもまあそんな昔のことを覚えているなぁ、ということです。著者は今40代だそうですが、小学校の頃と言えば30年も前の話です。それを、さも昨日の出来事であるかのように描写しているわけです。この記憶力にはちょっと驚きますね。時々、「これこれだったかは思い出せない」みたいな記述があるのだけど、いやいやそもそもこれだけ覚えてられるなら充分でしょう、と思いました。固有名詞なんかは後々調べれば分かったかもしれないけど、学校の中での人の動き、誰がどんなことを喋ったか、というようなことも、まるでビデオカメラに撮って保存しておいたのではないかと思えるくらい詳細に書いていて、すごいなと思いました。
本作では、小学生だった著者が当時の学校のあり方に疑問を抱くというスタイルですけど、僕もその当時の学校にいたとしたら大きく違和感を感じただろうなと思います。もちろん、当時の教育に対して否定的な著者の一方的な文章しか読んでいないので、当時の学校教育について即断することは出来ないにせよ、本作で描かれていることが概ね正しいのであれば、ちょっとそれはあまりに異常だなという感想です。だって、小学生なのに、クラスで何か係を決める時に方針演説をするのである。例えばあるレクリエーションがあって、その係が「レク班」「歌声班」「日直班」とある。そしてクラスにはなんと、4つの班があるのだ。
これはどういうことかと言えば、班の数より係の数を減らすことで競争原理を組み込もうとしているのだ。係を得られない班は「ボロ班」と呼ばれる。そうならないためにも方針演説でいかにいいアピールをすることが出来るかが重要だ。しかし、小学生にこんなことをやらせてどうなるんだろう、という気がする。ちょっとおかしいと思う。
本作は、何故か知らないけどちょっと話題作っぽかったので読んでみたのだけど、とにかく、1974年当時の学校の雰囲気というものを何らかの形で知っている人でないとちょっと読むのはきついのでないかと思います。著者の学校と同じようなことが行われていたにしろいないにしろ、同時代の学校の雰囲気を知っている人であれば比較しながら読むことが出来ると思います。でも僕みたいに、そもそも当時の学校についてまるで知識のない人間が読んでも、あんまり得るものはないなぁ、という感じでした。
また、全体的に、著者の個人的な回想録という向きが強くて、有名人ならともかく特に名前も知らない人の回想録なんか読んでもなぁ、みたいな感じはあります。全然知らない人のアルバムを見てるような感じです。
まあそういう意味で、本作をオススメ出来る対象は結構限られてくるような気がします。僕自身は、あんまりオススメはしません。

原武史「滝山コミューン1974」


滝山コミューン1974ハード

滝山コミューン1974ハード

2007年07月30日

「ペンギンの憂鬱」アンドレイ・クルコフ/沼田恭子訳

ペンギンの憂鬱
ペンギンの憂鬱
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 2,100
  • 発売日: 2004/09/29
  • 売上ランキング: 76240
  • おすすめ度 4.5


売れない小説家ヴィクトルは、動物園からもらってきたペンギンのミーシャと
二人で暮らしている。そんな彼に奇妙な仕事の依頼が来た。まだ生きている有名人の、
追悼文を書く仕事だ。新聞記事を見ながらめぼしい人々を追悼する詩的な文章を
綴っていたら、ある時ミーシャという男(<ペンギンじゃないミーシャ>)が訪ねてきて、
友達の追悼文を書いてくれと言う。彼は何度か家にくるようになり、
ペンギンがいるからと4歳の娘のソーニャも連れてくる。
ある頃から、追悼文に書かれた人達が本当に何人か死んでしまい、文章は日の目を見るが、
<ペンギンじゃないミーシャ>は行方をくらました。娘のソーニャをヴィクトルに預けたまま。
少女と男とペンギンの奇妙な生活が始まる。
そしてヴィクトルの周辺では何かが起こっているのだが・・・

新潮クレストブックス、装丁がオシャレだし前から気になってて、特に一番かわいいと
思ったのがこの「ペンギンの憂鬱」。タイトルもかわいいし、とそんな動機で
前から気になってた本。やっと読むことができました。

2007年07月30日

小松左京「猫の首」★★★☆☆

ある生き物が大繁殖し、知能を持ち、人間よりも巨大な勢力となってしまった世界。
猫をかくまった男がどんな目にあわされてしまうのか。
表題作「猫の首」をはじめとして、純粋なSFというよりも、
オチがSFテイストな噺の雰囲気の8作品を収録。絶版。


日本脱出
拾われた男
女のような悪魔
異次元結婚
Mは2度泣く
出来てしまった機械
猫の首
大阪の穴




小松 左京 / 集英社(1982/01)
Amazonランキング:1122217位
Amazonおすすめ度:

2007年07月30日

北村薫【玻璃(はり)の天】

花村商事の社長令嬢「花村英子」が美しき才媛の運転手「別宮みつ子」を従え、昭和初期の帝都をゆく。

花村家の人脈と別宮の博学をもってすれば、どんな事件も一挙に解決。


玻璃の天 玻璃の天
北村 薫 (2007/04)
文藝春秋

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……「どんな事件も」という部分は大げさに過ぎるかもしれませんわ。ほほほほほ。

世間を騒がすような重大事件が発生すれば、いくら別宮みつ子が有能とはいえ、警察を呼ぶだろうと思われます。

そうすると別宮が解決すべき「事件」は、英子お嬢様の周辺に起こる出来事で、警察が関与しないこと、あるいは上流階級の人々が警察の関与を避けて内々に処理したいことに限定されてまいります。

そのうえ英子お嬢様はまだ学校に通っていらっしゃる。通学の手段は別宮が運転するフォード。もちろんご学友の皆様方も大半がお車でご通学なさっていらっしゃいます。

三越デパート、図書館、資生堂パーラー、お稽古事、お友達のお宅へのご訪問……何事においても英子お嬢様のような上流階級の方々は、お一人で行動なさることがございません。

つまり、ガードの堅固なお嬢様方の周辺では、解決に頭を抱えるような厄介な問題が起こりにくいのでございます。



せいぜい、ご学友が殿方からラブレターをもらって困惑しているとか、恋に焦がれるあまり殿方と駆け落ちしたという程度のこと。

ご訪問先で不幸にして人が死ぬところをご覧になったとなると、英子お嬢様のショックはさぞ大きいかと存じますが、それとて英子お嬢様ご自身が狙われたり手をくだしたりしたわけではございません。

警察の捜査に協力はしても、お嬢様が事件に深く立ち入って2時間ドラマのごとく謎を解明してみせる必要があるとは思えないのでございます。そして「謎を解明する」と申しましても、すべては別宮みつ子のお膳立てがあってのこと。お嬢様お一人では解明など望むべくもないのでございます。

思わず


お嬢様は早くお家にお帰りなさい


――そう申し上げたくなるのでございます。



事件の種類が最初から限定された中で、お嬢様が事件に関わらねばならぬ「理由」を提示し、トリックを明かし、変化をつけながら物語を展開していくご苦労は察するに余りあるのでございますが、ご苦労の大きさに比して、面白味は薄いのではないかと思わざるを得ないのでございます。

わがまま勝手な読者のたわごととお聞き流しくださいませ。



花村英子に超能力があってさ、別宮みつ子を従えて、帝都に巣くう魔物を倒す、みたいな話だったら面白いかもね――って、それじゃあ【帝都物語】みたいになっちゃうよ〜。


帝都物語〈第壱番〉 (角川文庫) 帝都物語〈第壱番〉 (角川文庫)
荒俣 宏 (1995/05)
角川書店

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2007年07月30日

ジブリ占いをやってみた。

名前と生年月日を入力して占う「ジブリ占い」をやってみました。

http://u-maker.com/2918.html



ジブリのキャラクターだったら、私は「ナウシカ」になりたいのですが……


ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」 ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」
宮崎 駿 (2003/10/31)
徳間書店

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結果。


「ぱんどらさんは


アシタカ


です!


もののけ姫―完全版 (1) (アニメージュコミックススペシャル―フィルム・コミック) もののけ姫―完全版 (1) (アニメージュコミックススペシャル―フィルム・コミック)
アニメージュ編集部 (2000/06)
徳間書店

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アシタカさんのあなたは、自分をあまり飾らず、ありのままの姿を表現するタイプ。嫌いなものは嫌いだし、怒りたいときは怒る。打算的に行動することが出来ない、いわゆる世渡り下手。しかし逆にそういった態度が大物っぽくもあります。軽い流行に乗るのが好きではなく、しっかりと自分の好みを持っています。表現力を求められる芸術的な分野で力を発揮できます。何事も曇りなき眼で見極めてください」



たしかに「自分の好み」を持ってるわ〜。「怒りたいときに怒る世渡り下手」も自覚症状あり、だし。

インターネットのこういう占いはお遊びと分かっているものの、意外に自分の本質を突かれたような気がするのは何故かしら。

2007年07月30日

神田川デイズ

神田川デイズ 神田川デイズ
豊島 ミホ (2007/05)
角川書店
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豊島さん初読みです。
以前から評判のいい豊島さん、だけど高校生モノなんだよねとなぜか手にとらず、
「神田川デイズ」は大学生の話というのでようやく手にしたのでした。
東京にあるとある大学が舞台。
2部があったり、学部も多そうで大きな有名大学だと思われる。
連作短編となっていて、いずれの主人公も冴えない大学生活を送っている。
地方からでてきて、大学生になればなにかが変わると願っているけど実際は
そうでもなくモンモンとすごしているのです。
あぁそれぞれにこうやって悩んで、はじけていくんだよね。
微妙に登場人物がリンクしていて、あっこの二人付き合うことになったのね。などと微笑ましい。
そう微笑ましいのよね、皆。
だけど星子ちゃんだけは最初と最後の印象がかなり違ってくる。
なにも苦労のないかわいらしい子と思っていたのに。
彼女はこれからも応援したい人物ですね。

2007年07月30日

数学ガール(結城浩)

僕は結構数学が好きである。
まあ好きであることと得意であることは、残念ながら必ずしも一致しない。確かに学生時代の数学の成績は決して悪いものではなかったし、むしろいいと言ってもよかったレベルだと思う。しかしそれは、受験数学を解くための知識であり、数学を解いていたというものではない。受験数学も確かに面白い。けれど、数学はもっと面白いのである。
僕がどれだけ数学が好きかということを証明しよう。
僕は今年の一月にエジプトへ旅行に行ったのだけど、飛行機に乗っている時間が片道で15時間とかそんなレベルであった。僕は本を読むのが好きだけど、15時間もあったら最低でも3冊は読める。行き帰りのことを考えると、最低でも6冊の本が必要になる。これは結構荷物になるなぁと思って諦めたのだ。
そこで僕が考えた作戦が、数学の問題集を持っていく、というものだった。講談社ブルーバックス新書から出ている「入試数学伝説の良問100」という本を買い、ノートとペンを持って機内で数学の問題を解いていたのである。もちろん僕は、既に二次方程式の解の公式すら忘れているというくらい知識的には難アリの状態ではあっために、問題自体はほとんど解けなかったのだけど、しかし数学の問題を考えるというのはやはり娯楽であるなぁ、と僕は思ったものだ。
ちなみにこの問題集は、我が家にある友人がやってきた時にも活躍をした。同じく割と数学が好きなやつで、借りてきたDVDで映画を見ながら同時に数学の問題を解いている内に、そのうち映画を完全に放り出して数学の問題を解いていたこともある。
また僕は今、毎日数学のサイトを見ている。
僕が見ているのは、「数学の部屋」というサイトの掲示板と、「高校数学良問」というサイトの二つである。どちらも相応にレベルが高く、ほとんどの問題は自力では解けない。解けたとしても正確な論証は出来ないのだけど、しかしこういう面白い問題が存在すること、そしてそれに対するエレガントな解答、さらにそんな問題を鮮やかに解くことが出来る人がいるということそのものが、本当に素晴らしいことであると思うのだ。
とにかくこれらのサイトを見ていて思うのは、世の中には恐るべき人がたくさんいるという事実である。とにかく、僕なんかからすれば何をとっかかりにしてやり始めればいいのかさっぱりお手上げであるという問題も、実にエレガントに解いてしまう人間がたくさんいるものである。
以前「数学の部屋」の掲示板に、こういう問題が分からないんですけど分かる方いますか?という投稿があった。

(√2+1)^500
((ルート2プラス1)の500乗)
の少数点第150位の数字を求めよ。

問題自体は誰でも理解できるだろう。(√2+1)という数字を500回掛け合わせた時、その小数第150位の数字は何か、という問題である。問題文の意味だけなら小学生でも分かる問題だ。
しかし、これを解かなくてはいけないとなると、何からやり始めればいいのかさっぱり分からないということになる。2乗や3乗の数字を実際に計算してみて傾向を知るとか、無理矢理500回掛け合わせる計算を手計算で何とか頑張る、くらいしか方針が立たない。
解答は実に素晴らしいものに仕上がっている。

(1+√2)^n=a[n]+b[n]√2 (a,bは自然数)とすると
(1-√2)^n=a[n]-b[n]√2
a[500]-b[500]√2=(1-√2)^500>0
また (√2-1)^3=5√2-7<1/10 なので
(∵(7+1/10)^2=7.1^2=50.41>50=(5√2)^2)
a[500]-b[500]√2=(1-√2)^500=(√2-1)^500
={(√2-1)^3}^166・(3-2√2)<(1/10)^166
よってb[500]√2は、自然数であるa[500]よりわずかに小さい数(差は1/10^166未満)であり、(1+√2)^500=a[500]+b[500]√2 は小数点以下に9が少なくとも166個並ぶ。
よって小数第150位の数字は9。

どうだろうか。つまり(1+√2)の500乗について考えるのではなく、(1-√2)の500乗について考えるのである。それによって、500乗した時の整数部分とルートの部分の差について考える。その差を出してみると、500乗したときのルートの部分は、整数部分よりもほんの少しだけ小さいということがわかる。この「ほんの少しだけ」というのがどれくらいであるかといえば、0.1を166乗したよりも小さい、ということだ。0.1を166乗した数というのは小数点以下に0がずっと並ぶということであり、ルートの部分が整数部分より0.1を166乗した数よりほんの少し小さいということは、つまり小数点150位の数字は9であるということになるのである。
確かに、解答は理解することが出来る。しかし、どうやったらこんな解答を導き出すことが出来るのか、ということが僕には不可解であり、また数学の魅力でもある。
過去の偉人の歴史を知ることも非常に楽しい。
確かガウスだったと思うけど、当時の天才数学者であったガウスは小学生の頃、先生に1から1000までの数字を全部足し算するように言われる。もちろん先生としては、その計算には時間が掛かるだろうということで出した問題だ。しかしガウスはその問題を一瞬にして解いてしまう。この話は有名だから知っているだろうけど、1と1000を足す、2と999を足す、3と998を足す…ということを続けると、1001という数字が500個出来る。だから総和は500500である。
もちろんこんなことは今では誰だって出来る。しかし小学生の時に教えられもしないうちからこんな解法を見つけ出すことが出来るものだろうか?その過程に見せられてしまうのである。
数学というのはとにかく美しさを追求する。とにかく数学というのはシンプルであり整然としていて、そこには必ず美が存在する。誰もがその美しさを求めて数式を操る。
そして何より、数学というのは完璧な体系である。数学的に証明されたことはどんなことがあっても覆ることはない。例えば他の分野ではそんなことはない。物理や化学の世界で今信じられている理論も、もしかしたら明日にでも覆るかもしれない。また歴史なんかは常に改変されていると言ってもいいだろう。
数学だけが、常に完璧である。不完全性定理なんてものが存在して、どんなことをしても完璧な数学的体系を作り出すことは出来ないということが証明されてしまったが、しかしそれが数学の完璧性を奪うわけではない。数学は完璧であり、どこまでも美しい。
例えば異星人とのコンタクトがあるとする。僕らが使っているどんな言葉も相手には通じないし、ジェスチャーも通らない。しかし、数学の体系だけは宇宙のどこでも同じである。確かに異星人には「1」という数字の意味は分からないかもしれないが、しかし図示された円の意味は分かるだろう。数学だけが、唯一言葉を超えてコミュニケーションを取ることが出来る分野なのである。
受験数学に追われて数学に嫌気が指してしまうのはもったいない。数学の奥深さ、そして美しさを、もっと多くの人に(というかまずは自分が)理解してくれればいいなと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
主人公であるぼくは高校生になった。彼の趣味は、数式を展開すること。つまり数学だ。中学時代も、ずっと図書室にこもっては数学的な思索にふけっていた。
同じクラスにミルカという少女がいる。とにかく数学のことになると彼女はすごい。勝手にぼくのノートに書き込みをしたり突然講義を始めたりするところがあるけれども、しかしミルカとの数学談義にはいつも引き込まれる。
二年になる。ぼくはある後輩の女の子から手紙をもらう。そこには、数学のことをいろいろ聞きたい、教えてもらえないですか、というようなことが書いてあった。
彼女の名はテトラ。数学はまだまだ勉強し始めで疑問だらけだけど、でもきちんと勉強したいという意欲の伝わってくる子だ。分からないところがあればすぐに聞くという姿勢もいい。
ぼくはこうして、ミルカとテトラという女性と数学を介した交流を続けることになる…。
というような話です。
本作は小説ではありません。純粋に数学の本です。もともとウェブで連載されていたものを本にまとめたもののようですが、いや~、ホント面白い本でした。数学がちょっとでも好きだという人にはかなりオススメできます。
本作で触れられる話題はかなり多岐に渡っていて、何か統一性があるというわけではありません。ミルカが唐突に話し出すトピック、テトラが分からないところを質問するケース、また数学の村木先生が出してくれる興味深い問題を三人で解くケース。あるいは主人公が独自に思索に入るケース。いろいろである。
内容は、冒頭でも書かれているように、小学生にも分かるものから大学生にも難しいものまで様々である。大別すれば、テトラからの質問に答える部分は小学生にも理解できる話で、ミルカや村木先生が出してくる話はかなり難解なものが多いという感じです。
本作を読んで一番驚いたのは、フィボナッチ数列の一般項を求めることが出来るのだ、という事実です。
フィボナッチ数列というのは有名な数列で、
0、1、1、2、3、5、8、13、21、…
というように続いていく数列のことです。数字の並びをよく見れば規則性に気づくと思いますが、前の項とその前の項を足したものが数列として続いていきます。
0+1=1
1+1=2
1+2=3
2+3=5
3+5=8

と言った具合です。
僕はこのフィボナッチ数列自体は知っていましたが、まさかこの一般項を求めることが出来るとは思っていなかったのでかなり驚きました。
このフィボナッチ数列の一般項を求めるために概略をざっと書きましょう。
使うのは、母関数という概念です。
フィボナッチ数列は、
0、1、1、2、3、5、8、13、21、…
と続いていくわけですけど、この各項を係数に持つような関数を母関数として定義するわけです。この母関数をF(x)と置くと、
F(x)=0・x+1・x2(xの二乗)+1・x3+2・x4+…
となります。
ここからはちょっと簡単に説明するのは難しいのでざっと書きますが、この母関数の閉じた式(つまり…の部分のない式ということ)をまずは求め、それをさらに無限級数で表す。その無限級数のxnの項の係数Fnが、フィボナッチ数列の一般項ということになる。
ホント、数式を使わないで概略だけを文章で書くのは本当に難しいのだけど、これはホントにすごい。数列を関数として見るという発想も素晴らしいし、その関数を展開していくことで一般項が求められるなんてすごいと思いました。
一般項にはなんとルートの数なんかを含む大仰な式になっていて、整数の数列なのに一般項にルートなんだ、とそういう意味でもすごいなと思いました。
本作を読んで感じるのは、数学というのは答えは一つだけど、解き方は無限に存在するんだな、ということです。
後半で、分割数というものに関する問題を村木先生から出されるのだけど、これに対する三者の取り組みが全然違っていて面白い。もちろんミルカの解法がもっともエレガントで素晴らしいのだけど、さらにミルカは驚くべきことをする。主人公のぼくが途中で行き詰まった解法を発展させ、また別の道筋を見つけ出してしまうのである。数式を追っていくのは確かに結構大変だけど、でもちょっとワクワクするような展開でした。
また、数学というのは発想が本当に大事なのだなということも思いました。
主人公のぼくがテトラにsinxのテイラー展開についてひとしきり講義をした翌日、テトラは驚くべきことを口にするわけです。なんと、sinxを因数分解しよう、というのです。もちろんテトラだけの知識ではこの話は行き詰まってしまうのですが、ミルカの手助けもあって、このsinxの因数分解の話から驚くべき結論が導き出されてしまいます。しかもそれは、あの偉大な数学者であるオイラーの解法であるというのです。主人公のぼくさえ、sinxを因数分解しようなんて発想はしなかったわけで、とにかく知識や計算力が欠けていても、きらめくような発想さえあれば数学は光り輝くのだなという感じがしました。
本作ではミルカとテトラという二人の女の子が出てくるのだけど、この二人のキャラが非常にいいですね。まさにツンデレとドジっ娘という感じで、萌え的な要素もばっちりです。
ミルカはメガネを掛けた才女という感じで、いつもクールなのだけど、主人公のぼくがテトラと仲良くしているのを見ると足を踏んづけるみたいなところがあったりします。
テトラは元気っ娘でいつもはしゃいでいるような子で、完全な妹キャラです。数学の話があんまり分からなくても、この二人のキャラを追っているだけで充分楽しめるかもしれません。
とにかく、少しでも数学が好きという人にはオススメ出来る作品です。難しい話もありますが、基本的に優しく描かれているので大丈夫だと思います。読んでみてください。

結城浩「数学ガール」


数学ガールハード

数学ガールハード

2007年07月29日

酒見賢一「陋巷に在り6 劇の巻」★★★☆☆

豫では騒乱が発生し、子貢率いる魯の軍と公山不紐の費軍が激突する。

それにしても子貢がお馬鹿過ぎる。
最初の一撃は良かったのだが、その後は部下の報告は聞かず、
戦局を読む事もできず、立て直し始めた自軍に再び混乱を与え、
将が他の人間であればもっとましな展開になっていたことが予想されるほどの
最悪の方向に全力疾走をしてしまう。

前半の?と顔回のあたりで久々に顔回が力をか発揮し騒乱を収束させたり、
定公を狙う公山不紐に立ちはだかる孔子はなかなかの見所なのだが、
やはり全体的には小正卯に踊らされている。
早くこのフラストレーションを開放させるシーンを読みたい。


酒見 賢一 / 新潮社(1996/04)
Amazonランキング:916780位
Amazonおすすめ度:

2007年07月29日

生物と無生物のあいだ(分伸一)

生物とはなんだろう、という一見簡単そうな問いかけが存在する。
あなたなら、どう答えるだろうか?
なかなか一息で説明しきるのは難しいことに気づくのではないか。呼吸をしている、子孫を残す、心臓が機能している。どういう表現をしても、どうもすっきりしない。こう考えて初めて、「生き物であるということとは一体どういうことなのだろうか?」という疑問を真剣に考えるようになる。
安心していただきたい。
生物学の世界ですら、まだ正確な記述は存在しないようだ。生物学の世界では、未だに「生き物であるとはどういうことなのか?」ということを明快に答えるすべを持たない。
デオキシリボ核酸、通称DNAという存在がある。現代人であればおしなべて知っている知識だろう。それがどんなものでどんな役割をするのか正確に答えられなくても、DNAという名前と簡単な機能くらいは答えられるはずだ。
DNAは生物学の世界での大発見であり、この存在を認識することでありとあらゆることが変わった。それまで、野生の生き物を追い掛け回してその生態を研究していた分野であった生物学は、DNAを解明しまたDNAを操作すると言ったやり方でアプローチする手法に変化していった。
生物を、DNAによって規定する定義というものがある。
「生命とは、自己複製を行うシステムである」
つまり、DNAを有し、自己複製を繰り返すシステムすべてを生命であると定義づけようという一つの流れがあった。
昔何かの本で、「生き物はDNAを運ぶ乗り物でしかない」というような表現を見たことがある。つまり生きていることは、即ち自らの持つDNAを次世代に繋げるための器でしかない、というような意味だ。生きていることの一つの帰結として自己複製というシステムは存在し、これによって生命を定義付けることが出来るのではないかというのが二十世紀の生物学がたどり着いた一つの答えである。
しかし、それだけで答えとするのにはどうにも不具合がある。
ウイルスという存在がある。今でこそ電子顕微鏡の存在によってその存在は容易に確認できるようになったが、昔の光学式の顕微鏡では捉えられないほど小さなものである。ありとあらゆる病気を発症するこのウイルスは、しかし生命かどうかの境界線に存在する。
ウイルスは、自己複製能力を持つ。自分自身をDNAによってどんどんと増殖することが出来る。これは即ち、二十世紀の生物学がたどり着いた結論によれば、ウイルスを生命であると呼んでいいということになる。
しかしウイルスというのは、この自己複製能力以外の部分を見ると、どうにも物質に近い振る舞いをするのである。栄養を摂取しない、呼吸もしない、二酸化炭素を出すことも、老廃物を排泄することもしない。一切の代謝を行っていないのである。
またウイルスを純粋な状態で精製し、特殊な条件の元で濃縮すると「結晶化」する。これは、普通の生命ではありえない。
このようにウイルスという存在は、自己複製能力を有することを生命の定義に据えた場合に非常に都合の悪い振舞い方をするものなのである。まあ世の中には、植物でもあり動物でもあるという「ミドリムシ」みたいな生き物もいるわけで、ウイルスも、生物でもあり無生物でもあるとすればいいのかもしれないが、どうもそれもおかしな話である。
自己複製能力の存在が生命の定義の根幹を成すことは間違いないだろう。しかし我々の認識には何かが欠けているのである。
著者は言う。砂浜を歩いていると、小石や貝殻を見つけることが出来る。小石を見て僕らは、それが無生物であると瞬時に判断することが出来る。一方で貝殻の方は、こちらも無生物であることには違いないが、しかしかつて生物であったということをこれまた一瞬のうちに判断することが出来る。僕らは意識的にか無意識的にか、ある物体が生物であるか無生物であるかという判断を瞬時にしているのである。
その際、僕らが一体意識していることは何なのだろうか。生命とは、一体どのように定義されるべきものなのだろうか。
本作では、その生命の定義をすることを目指して話が進んでいく。
本作は大きく二つに分けることが出来ると思う。
前半部分は、これまでの生物学の概要を一気に説明していると考えていただければいい。DNAが発見されるまでの生物学とはどんなだったのか、DNAはいかにして発見されたのか、あるいはそれにまつわるどんなドラマが存在するのか、DNAが発見されたことでどのような変化が起こったのか。そういった、DNAと生物学との関わりを中心にして、生物学という歩みそのものを記述した部分である。
後半になると、著者独自の研究の話に移っていく。生命とは何であるかという本質に迫るべく、これまで著者が行ってきた研究に触れつつ話が進んでいくのだが、その前に一つの考えが提示される。それが、
「生命とは、動的平衡にある流れである」
という考えである。
聞いたことがあるかもしれないが、人間の細胞というのは絶えず入れ替わっており、数年もすれば元々あった細胞は一つ残らず消えてしまうという。しかし、そうやって個々の細胞は消えていっても、枠組みとしての生命は変わらずそこに残り続ける。生命というのは、完成されたレゴブロックのようなものではなく、構成要素を絶えず入れ替えながら動的に平衡状態を保っている、とそういう意味である。
著者は、生命というのが自己複製能力を有する存在であるのと同時に、この動的平衡状態にある存在であるということも生命の定義として適切ではないだろうかと考えている。
著者が行ってきたある実験について書こうと思う。それは、膵臓に関する実験であった。
膵臓という器官は消化酵素を生み出す場所であり、つまりそれは、膵臓内の細胞で生み出された消化酵素が、何らかの手段によって細胞の外側に放出されている、ということである。
しかし、細胞を覆う細胞膜は、非常に安定した物質で、通常の状態であれば外側と内側の間で物質のやり取りなどすることはない。そんなことが頻繁に行われれば、細胞間は非常に不安定な状態になってしまうだろう。
では膵臓の細胞は一体どのようにして生み出した消化構想を細胞の外側に放出しているのか。
この仕組みの説明をするのはなかなか面倒なのでここではしないが、実に生命というのは素晴らしい仕組みでもってこの問題を解決している。つまり、内側の内側は外側であるというトポロジー的な発想でそれを実現しているのだけど、見事であるとしか言いようがない。
さて著者の実験の本質的なところはここからである。
著者のグループは、この膵臓で行われている一連のやり取りに関して、どんなタンパク質が関与しているのかを突き止めることが目的であった。そのためにありとあらゆる手段を講じて研究を重ね、ようやく、GP2と名付けたあるタンパク質が、この一連のやり取りに重要な意味を持つタンパク質だろうというところまで推定できるようになった。
さてここからである。
DNAが発見されて以来その技術は凄まじい進歩を遂げ、細かな手順は書かないが、要するにそのGP2というタンパク質を一切持つことのないマウスを人工的に作り出すことが出来るのである。著者のグループの仮説は、GP2というタンパク質が膵臓の一連のやり取りに深く関わっているのだから、GP2のないマウスを生み出せば膵臓の機能に著しい欠陥が生じるだろう、というものだった。
しかしその仮説は大いに裏切られることになる。
なんとそのGP2を一切持つことのないマウスは、しかし通常のマウスとほとんど変わらない状態で生育を続けたのである。
これは一体どういうことだろうか?
実際のところ、GP2が膵臓のそのやり取りに重要なタンパク質であるということは間違いない。しかし、それがないマウスを生み出してもまったく問題はないのである。
ここに、生命という存在のダイナミズムが存在し、つまりこれこそが、生命が持っている動的平衡のお陰なのである。
生命というのは、時間によって縛られたある一定の方向を持つシステムである。これを少しだけ折り紙に譬えることにしよう。
折り紙で鶴を折る手順というのは決まっていて、基本的にそのどの手順を飛ばしてしまっても鶴は完成しない。
しかし生命の場合、そうではない。鶴を折るためのある手順を完全に忘れてしまったとして、しかし生命はその手順抜きで完成形である鶴にまでたどり着く別の経路を見つけ出すのである。
これは即ち、GP2が存在しない、つまりある手順が一つ抜け落ちたとしても、それを除いた形で完成形にまでたどり着くことが出来ることを意味しており、これこそが生命の持つ動的平衡状態ということである。
著者は、生命とは、動的平衡にある流れである、という一つの定義を提示して見せた。もちろんこれで終わりではないし、この定義が完全に正しいのかという議論はこれからなされるのであろう。生命とは何かという問いに答えはないのかもしれないが、これからも生物学者はその問いを考え続けていくことだろう。
というような内容です。
最近売れている新書で、気になったので買ってみました。
まず他のこういうサイエンス系の本と違うのは、文章です。理系的な、堅い感じではありません。帯で茂木健一郎が、「詩的な感性」という表現をしているけれども、まさにそういったある種の感性の元に文章が描かれているという感じがします。短い章の合間合間に、唐突に流れとは関係なさそうな話が出てきたりするのだけど、そういう描写が小説を読んでいるような感じですらあります。著者が以前研究をしていたニューヨークの様子、かつての母校の様子、人物や建物の描写。こういったものが、どことなく繊細な文章によって紡がれている感じがします。
もちろん、本書の根幹である生物学の話の部分では論理的な文章です。しかし、比喩がなかなかうまく、しかも素人に分かるように易しく説明しようという意識を垣間見ることが出来て、非常に読みやすい本だなと思いました。
生命とは何か、という、素人からすれば既に答えが出ているのではないかと思わせるような、生物学の根本をつくような疑問を提示した作品なのだけど、後半で著者が提示する「動的平衡」という話は本当になるほどという感じがしました。著者の比喩では、波打ち際にある砂で出来たお城だったのだけど、とにかく生命の細胞というのは常に入れ替わる、入れ替わるのに全体としての平衡は保たれる。それはすなわち、ジグソーパズルのようなものである、という説明も非常に分かりやすかったし、何故細胞をこれほどまでにすぐ入れ替えなくてはいけないのかという問いに、エントロピー増大の法則から逃れるためにはこれしかやりようがないという説明もなるほどなという感じがしました。
本作はサイエンスミステリーという形で紹介されていますが、科学そのものについての話だけでなく、人物の話もいろいろ載っていて面白いなと思います。
一番驚いたのが、野口英世の話です。著者は、かつて野口英世が在籍していたアメリカの研究室で研究を続けていたのだけど、そこで野口英世の評価があまりにも低いことを知ります。理由を知ればまあなるほどという感じがするのですが、僕らはどうもそういう事実を知らないできています。お札の肖像画にもなってますし。これはちょっと驚きました。
また、DNA発見を巡って様々な人が様々な形で関わっていたのだということを指摘する部分も、科学の世界もやっぱり完全にフェアというわけにはいかないのだなぁ、という風に思わされました。
また、サーファーにして生物学者という人物が出てきたり、あるいはピアニストにして実験技師である男との交流が描かれたりと、そういう部分でもなかなか面白い作品だな、と思いました。
所々難しい話がないでもないですが、でも基本的には文系の人でも読める本だと思います。というか僕は、人生の中で生物学を選択したことが一度もないので生物に関する知識はほぼゼロなんですけど、それでも全然読めたので大丈夫だと思います。生命とは何かという、単純なようでいて奥の深い問いを考えることで、科学の奥深さについて知ることが出来る一冊になっています。なかなか面白いいい作品と思うので、是非読んでみてください。

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」


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