自分の世界が歪んでいるかどうかを判定するにはどうすればいいだろう。
それは、他人と比較すればいい。簡単だ。
他人と自分を比較する。より多くの他人の人生のサンプルを集め、自分の人生とつき合わせてみる。自分が他人のサンプルに割と近ければ正常、割と遠ければ異常。ただそれだけ。うん、シンプル。
と簡単にいけばいいのだけど、そうもいかないのだ。人間、なかなかそこまでの客観性を確保することは難しい。
即ち、自分が正しい、という絶対的で主観的な判断にどうしても囚われてしまうのだ。
世の中にはいろんな精神障害の形があるのだが、僕が今思い出せるもので有名なものは、病名は忘れたが、身近な人間、例えば両親などが別の人間に乗っ取られてしまい別人になっている、と錯覚する病気である。そういう錯覚に囚われた場合、両親がいくらその患者に説明をしても、患者は相手を両親だと認めない。姿かたちは両親に間違いないけど、中身は別人に代わってしまっている、と主張するのだ。
もちろん、両親の姿かたちだけ変わらずに中身だけ代わるなんてことはありえるわけがない。つまりそれは患者の妄想でしかないのだが、しかし患者からしてみればそれは紛れもない真実なのである。自分の考えていることが絶対的に正しい。周りの人間がどう言おうが、聞く耳を持たない。
今僕はこうして、精神障害という極端な例を出したけれども、しかし身近でも結構こうした歪みは存在するように思う。
例えば僕の話だが、僕は中学の頃からずっと、世界中の人間に嫌われている、と思って生きてきたし、今でもそう思っている。というか、そう思うことにしたのだ。まあ自分なりの理由はあるのだが、それを言っても大抵の人には理解されないので省略しよう。
普通の人からすれば、世界中の人間に嫌われているなんていうのはただの妄想にしか聞こえないだろう。しかし僕の中でそれは絶対的な真実、というか寧ろ前提くらいの地位を占めている。僕の行動をあらゆる意味で制限する。明らかに歪んでいるが、しかし僕はこの考えを捨てる気はないし(そもそも今となってはなかなか捨てられるものでもないが)、これで正しいと思っている。
こういう風に、どちらが歪んでいるのか明白である場合はまだいい。先の精神障害にしても僕の場合にしても、歪んでいるのがどちらなのかは明白だ。
しかし世の中にはそうでないケースもある。
例えばその一番の例が宗教だろう。
僕は殊更に宗教を非難するつもりもないけど、しかし宗教を迎合する気もない。ということだけまず書いておこうと思います。
どんな形の宗教でもいいのだけど、それを信じているはやはりある狭い考えに支配されている。それはある意味で歪みとしか表現しようのないものだが、しかし数の論理というものがある。それを信じているものが多ければ、その歪みが正常な形に見えてくることもある。宗教というのはそういうもので、それを信じている者と信じていない者とでは、どちらが歪んでいるのかなかなかわかりづらい。
最近では、エホバの証人の話題がよくニュースになる。他人の血を入れるわけにはいかない、という宗教上の理由があるのだろう、手術になっても輸血を拒むのだそうだ。僕からそればそれは歪んでいる風にしか見えないが、しかしそれを信じている人間がたくさんいることを考えると、歪みがどちらに発生しているのかわからない。
他にも、例えば戦争がある。これも、もはやどちらが歪んでいるのか判断できるものではないだろう。どちらも歪んでいるという可能性だってある。
そもそも人間の生き方には、絶対的な基準みたいなものは存在しないのだ。こういう生き方をすれば間違いなく幸せである、不幸も災厄も一切起こらず、平和で穏やかな一生を過ごすことが出来ます、なんてモデルは絶対に存在しない。絶対的な基準がないのに、歪みを検出できるわけがない。あくまでもそれは相対的なもので、相対的にどのくらい歪んでいるか、というだけの話なのだ。どちらも共に歪んでいたとして、しかし相対的にはどちらか一方だけが歪んでいるということになる。そうして僕たちは日々、正常と異常とを区別しているに過ぎないのだ。
人生で何が幸せかって、自分の人生の歪みを自覚しないで一生を過ごすことが出来ることではないか、と思ったりする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
御園マユを尾行することにした。マユはクラスで一番の美人さんで、でも学校ではいつも寝てて無愛想。まあとりあえず尾行だ。
マユの部屋につくと、うんやっぱりだ。マユはやっぱり誘拐犯だったのか。
今僕のいる街では二つの大きな事件が起こっている。連続殺人事件と誘拐事件だ。その片割れ、誘拐事件の方の犯人が、我がクラスメイトで美人なマユである、とそういうことだ。
「まーちゃん」
とりあえずマユの部屋で彼女をそう呼んでみる。
「みぃ、くん?」
マユがようやく僕に反応する。そうだ、ぼくはみーくんだよ。
そうして、僕とマユと誘拐されちゃった可愛そうな子供たちとの共同生活が始まる。
あぁそうだ、今度マユに、何であの子達誘拐したのかって聞いとかないと…。
というような話です。
本作は、第13回電撃小説大賞の選考会で物議を醸し、醸したまんまなんの賞も取らないままでデビューとなった作品です。ネットでこの本の評判を知り、読んでみる気になりました。
本作はライトノベルですが、挿絵らしい挿絵はほとんどありません。前に読んだ電撃文庫の「ミミズクと夜の王」もそうでしたが、最近電撃文庫はこうした挿絵なしの小説らしい小説もどんどん出していくようになったみたいです。有川浩を初め、電撃発の単行本作家みたいなのも出てきて、結構新しい展開になってきている気がします。
で本作ですが、これがなかなか面白いと思いました。ネットの書評でも触れられていましたが、西尾維新の<戯言>シリーズに非常によく似ている感じを受けました。まあもちろん、<戯言>シリーズの方がはるかにレベルは高いんですけど。
この表現はどうかな、と思うような箇所もたくさんあるけど、でもテンポのいい文章で綴られた作品で、「嘘だけど」というセリフがいろんなところに挟み込まれています。口癖でしょうね。いろいろあって世間をうまくやりすごすために嘘を多用するようになった少年と、いろいろあって心が壊れてしまった少女の話です。
話としてはミステリで、最後になるほどという展開が待っているわけですが、そこだけでなく全体的なリズムみたいなものがやっぱりいいかなという気がしました。舞城王太郎風の無茶苦茶なストーリー展開と、西尾維新的な幻術的な言葉遊びを組み合わせたような作風で、僕は結構面白いなと思いました。特に、自虐的でシニカルな一人称の語り口調がなかなか好きです。
ネタバレになるので詳しくは書けませんが、最後にみーくんは、このまま僕でいるべきか、あるいはぼくに戻るべきか、と悩む場面があります。僕ならどうするかなぁ、とか思いますけど、でもやっぱそもそもまーちゃんみたいなキャラクターを許容できないだろうな、という風に思います。そういえば、みーくんとまーちゃんの関係は、<戯言>シリーズのいーくんと玖渚の関係に似てるなとちょっと思いました。
ストーリー自体はそこまで奇抜なものでもないとは思いますが、キャラクターと語り口調の文章で結構読ませる作品だなと思います。普通のライトノベルというものをあんまり読んだことはないですけど、でも普通のライトノベルよりは若干読む価値はあるんではないかと思います。ミステリが好きな人ならちょっと手を出してみてもいいかもしれない、と思ったりします。どうでしょうか?
そういえば、カバーを外すと、裏側はなかなか面白いことになっています。そもそも、表紙と裏表紙の絵の関係が面白いですね。
入間人間「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」
嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん文庫
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