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2007年04月30日

半村良「戦国自衛隊」★★★★☆

大規模演習に参加するために設置された自衛隊の補給部隊が、
突如起きた嵐に巻き込まれタイムスリップしてしまうことから始まる戦国物語。
下の画像はなにやらカッコイイが、私が読んだのは
デビルマンでおなじみ永井豪のイラスト付きの方。
漫画化したゆえの縁らしいのだが、この人の絵だと濃すぎる気がします。
侍は野武士か野盗に、自衛隊はヤクザな傭兵部隊に見えてしまいましたw

お話の方は、アマゾンの書評にもあるけど、ハリウッドなら大変な戦闘シーンを作って、
それだけでも一つのエンタテイメントに仕上げることのできる素材を
ここまであっさりと進めてしまう流れにはもったいなさと言うか、
もう少し彼らを活躍させて欲しいというか、少し惜しい気もする。
でも最近、この「惜しい」と思わせる作品こそが面白いと思えるようになってきた。気がする。
100%完全に書き込まれた世界だと、読み手の感情のやりどころが無い感じがしてくる。
もちろんソレが面白い場合もあるわけだけど、
作者の考え方が私の理想の方向に進んだ場合はそのほうが楽しめるかもしれない。
とはいえそんなことはめったにありえないわけで。

んー、我ながらよくわからない文章だ。



半村 良 / 角川書店(2005/01)
Amazonランキング:135235位
Amazonおすすめ度:

2007年04月30日

変身(嶽本野ばら)

誰かに何かを伝えるために必要なものってなんなんだろうか。
僕はずっと、「力」だと思っていた。どんな形のものでもいい。権力や立場や、容姿や人気や、金や実績でも、とにかくどんなものでもいい、「力」のあるものの意見が通るし、「力」がなければ伝わるものも伝わらないのだ、と。
実際世の中は、「力」のある人間の意見によって支配されている。何らかの形で発言力を持った一部の人間が、その発言力をフルに活用して自分の意見を通そうとするそのあり方で、世界というのは動いているものだ。
だから僕は、「力」さえあればどんな意見でも通るものだろう、と思っていたし、「力」がなければどんな意見も通らないとまあそんな風に思っていたのだ。
しかし、最近違うかもしれないな、という風にも思う。
「力」を持った人間の意見は確かに通りやすい。しかし、自分の望んだ意見が通るのかといえば、それは違うのかもしれないと思うようになった。
「力」を持った人間が通すことの出来る意見は、自分が望んだ意見ではなく、あの人はこう望んでいるのだろう、と周りが考えた意見なのだ、ということだ。恐らく「力」を持つということは、そういうことなのだろうな、と思うのだ。
僕は昔から、お金持ちにはなりたくないな、と思っていた。それだけではなく、偉い人にもなりたくないし、権力だとか地位だとかも全然いらないな、と思っていたのである。それをきちんと言葉で説明できてこなかったのだけど、恐らく昔から悟っていたのだろう。「力」を持つことは、自分の意見を引っ込めなくてはいけない人生である、ということに。
最近読んだ本に、高田純次の「適当論」という新書があるが、その中で高田純次はこんな風なことを書いていた。中華料理屋に言って、その時餃子が食べたくても、なんとなくメニューの中で一番高い物を頼まなくてはいけない雰囲気になったりする、と。
結局そういうことなんだろうな、と思うのだ。自分の意見を引っ込めてまで、「力」を持っている自分というものを優先させなくてはいけない。その生き方を肯定できる人間は恐らく世の中にはたくさんいるのだろうけど、少なくとも僕には無理だと思う。窮屈すぎると思うのだ。
容姿がいい、というのも恐らく似たようなものだろうな、と思うのだ。僕は生まれてこの方かっこいいとかなんとか言われたことのない人間なのでまあよくわからないが、かっこいい人間にも相応の悩みがあると思うのだ。それはきっと、自分の意見が通らないということに関係する悩みであるような気がするのだ。かっこいいということがフィルターになって、思っていること、伝えたいことが伝わらないということはきっと多いだろうと思うのだ。
それは綺麗な女性でも同じことが言えるだろう。誰でも綺麗な女性に憧れるものだろうが、しかしそれにも相応の悩みがある。綺麗であるという壁が、言葉を遮断するのである。
朝起きてみたら超美男子に生まれ変わっていたとしたら、それはまあ人生が変わるだろう。たぶんいろんなことがうまく言って人生がより楽しくなるかもしれないとは思う。しかしそれと同時に失わなくてはならないものも多いはずだ。超美男子に生まれ変わることで誰にも理解されなくなってしまうのならば、まあ今のままでいいかな、という風にも思わないでもない。
今の世の中、容姿が「力」であることは間違いないし、容姿がいいことが人生において有利であることもまず間違いないと思う。それでも僕は、度を超えた美男子にはなりたくないものだな、という風に思ったりする。まあなれるわけがないのでそんな心配はしなくていいのだけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
俺は売れない漫画家だ。漫画家と言っても、雑誌の連載を持っているわけでも、コミケで同人誌を売っているわけでもない。自費出版で作った漫画をストリートで売っているのだ。ほとんど売れないのだけど。これまでに買ってくれたのは、自称ゲロ子という、非常に不細工な女だけである。
もちろんそれだけでは生計が成り立たないので、コンビニの深夜アルバイトをしている。しかしもう30歳を超えているのだ。漫画への情熱は変わらずあるのだけど、商業誌との相性が悪い。なかなか採用されないのだ。
まあそんないつもと変わらぬ日常だったはずの俺の人生は、ある朝とんでもない形でひっくり返る。
朝起きたら、超美男子に変身していたのだ。
それからの俺の人生は、まるでジェットコースターの如く変遷していった。ストリートで売っている漫画が一気に捌け、商業誌での連載もスタート、一躍人気漫画家への階段を駆け上がり、生活は一変。すべてが順風満帆で人生絶好調…。
…のはずだったのだけど、なんだろう、あれほど漫画へ情熱を傾けていたはずの俺は、一体どこへ行ってしまったのだろう…。
というような話です。
嶽本野ばらの作品は、こういう感じの作品が多い気がします。ストリートで自分の信念を持ってある活動をしていたのだけど、何かのきっかけでそれがブレイクし時の人になる。有名になったはいいけども、どうにも初めの自分の信念は踏みにじられているような気がして…。
というような話ですね。
ま嶽本野ばらのパターンなんでしょうが、不思議と作品毎に特色があって、まあ似たようなパターンの作品を読んでも、そこそこ飽きないように工夫されています。
本作もそのよくあるパターンの作品ですが、朝起きたら美男子になっていた、というカフカの「変身」ばりの設定の妙と、美男子になったのだから少女漫画的に一気にサクセスだぜ!…というわけでもなくいろんな屈折があったりで、なかなか面白い作品にまとまっているかな、という感じです。
本作を読んで、本当に伝えたいことというのは伝わらないのだろうな、と改めて思いました。それも、不特定多数の顔の見えない誰かに向かって何かを伝えるというのはほとんど不可能なんだろうな、ということです。
本作の主人公も、情熱と信念を持って、全員には伝わらないだろうけどきっと伝わる人はいるはずだと信じて漫画を書き続けるのだけど、結局彼の想いは一人を除いて誰にも伝わらないわけで、まあそんなもんだろうな、という感じがします。
日本という国に特有なのかどうなのかわからないけど、とにかく一時のブームに流される人間が多すぎて、それがいろんなものをメチャメチャにしていくような気がします。韓国ドラマがいいとなればブームになり、mixiがいいとなればブームになり、「白夜行」のドラマがブームになったりするわけです。別に韓国ドラマやmixiや「白夜行」がダメだと言いたいわけではありません。でもそうやって何でもかんでもブームにしてしまうことで、本当に大切なもの、本当に伝えたいことがどんどんと消えてしまって、万人受けするようなメッセージ性のないありふれたものが世の中にどんどんと積もっていくような気がして、そういうのは厭だよなとか思ったりします。
僕だって書店員として売上を伸ばさなくてはいけないわけで、ブームに乗っかって売れる本を売り場に置いたりするわけで、まあ同罪なのかもしれないけど、でも本当はブームに乗っかる人間を相手にしたくないなぁ、なんていう傲慢な考えがあったりとかします。
でも芸術を含めてありとあらゆるものは、基本的に経済活動の元に成り立っているわけで、売れなければどうしようもないわけです。内容がいいとか思想が素晴らしいとか、どれだけ他にアピールポイントがあっても、売れなければどうしようもないわけです。それも同時に分かっているからこそ、こそばゆいというか歯がゆいというか、そんな気持ちになってしまうのだろうな、と思ったりします。
話を変えて、本作の中で主人公が、美男子になったために何人かの女性と付き合うようになるのだけど、でも悉く失敗に終わるわけです。その理由を読んでいると、やっぱ恋愛ってめんどくさいよなぁ、とか思ってしまったりします。
なんというか、何かしてもダメだし、何もしなくてもダメだし、じゃあどうすればいいわけ、みたいな感じになりますね。僕としては、本作の中で主人公にあれこれと文句をいう女性よりも、主人公の意見に賛成してしまうような人間なので、恋愛ってやっぱ難しいのだろうな、と思います。百年の恋も冷めるような、という形容がありますが、恋愛というのは本当に幻想に幻想を重ねた上で成り立っていて、いつ崩れてもおかしくない書割りなのだろうな、と思ったりしてしまいます。女性って、やっぱ恐いですね。
嶽本野ばらの作品にほとんどと言って出てくる洋服の話ですが、今回はそれがかなり抑えられていて(いつもは洋服の話がメインだったりするけど、今回はそんなことはない)、正直ファッションに疎い僕としてはよかったな、と思います。いつも横文字のブランド名が出てきてうんざりしていた人(がいるかどうか分からないけど)も、本作は割といいかもしれません。とにかくさくっと読めるエンターテイメントで、まあ軽く読むには面白いと思います。としまえんにも行ってみたくなりましたしね。

嶽本野ばら「変身」


変身ハード

変身ハード

2007年04月30日

「みずうみ」

男は何気なくホールトマトの空き缶を拾って道の端に置いた。角を曲がると、一メートルほどの間隔をあけて、十数個の空き缶が点々と落ちていた。どの缶も、拾ってほしいといいたげに、赤いトマトの絵柄をこちらへ向けている。

「みずうみ」いしいしんじ著(河出書房新社) ISBN:9784309018096 (4309018092)

月に一度、あふれる不思議な村の湖。その水が思い出させる、人々の永遠に失ってしまった過去、そしてこれから起こること。

「文藝」発表の第一章に、書き下ろしの第二章、第三章を加えた。第一章の民話的な湖のエピソードが、第二章の月に一度、身体が伸び縮みするタクシードライバーの話、そして第三章の作家夫婦の話へと、微妙に形を変えつつ繰り返される。人生のすべては、奇跡のような偶然の連続であり、しかしそれは、きっと何かの必然で結びあっているのだ。

うまく言えないけれど、著者は新しい地平に立ったように感じた。これまでの長編の筋立ては少年の成長物語が多く、どことも特定されない欧州風の町で展開していた。そのため、いくらか残酷な場面を含んでいても、夢のある読後感を残していたように思う。
しかし本作の第三章は、そうした童話的世界とはっきり一線を画した。なにしろ舞台は松本、浅草、ニューヨーク、キューバなど実在の地名で、一見、作家とその妻、翻訳家の友人らの日常生活を描いている。登場人物の生年まで記してある。

現実的な設定だから、読む者は自らの体験を重ねやすいし、作家の体験も想像してしまう。だからといって、イメージは小さくまとまっていない。ギリシャ神話やら古代隕石のクレーターやら、シーン一つ一つが鮮やかだ。それだけ作家のイマジネーションの力が、タフだということだろうか。時空は伸び縮みし、ねじれてつながる。

決して読みやすくはないかもしれない。それなのに、引き込まれる物語だ。(2007・4)

『みずうみ』 いしいしんじ  ペチカの本棚

2007年04月30日

帰りたくない!(茶木則雄)

ギャンブルに面白さというものが、僕には全然わからない。
まあ僕が知っているギャンブルと言えば、麻雀をほんの少しだけやったことがあるという程度のものであるが、きっと僕には向かないだろうなぁ、と思った。友人には、「お前はちゃんとやれば強くなる」とかなんとか言われるのだけど(僕は割とそういうことを言われる傾向があって、将棋や麻雀はちゃんとやれば絶対強くなると言われるのだけど、しかし恐らくそんなことはないだろう。買いかぶりすぎである)、まあそもそも麻雀そのものというよりも、お金を掛けて何かをするということにそこまで燃えないのである。
というので思い出したが、そういえば高校生の頃、トランプの「大富豪」というのが周囲で流行っていた。休み時間になれば、誰かがどこからともなくトランプを出してきては、大富豪が開催されるのである。一応小金を掛けてやっていたので、あれも一種のギャンブルだったのだろうけど、当時の僕としてはお金を掛けていることよりも、大富豪というゲームそのものが面白かったわけで、だから正確にはギャンブルにはまっていたわけではない、と僕は主張したい。
友人にも何人か、そこそこギャンブルにはまっている人間というのがいる。麻雀というのは、何故か大学生にもなるといつの間にか誰もがルールを覚えるようになるものなのだが(不思議なものだ。麻雀と言えば、伊坂幸太郎の「砂漠」を思い出す)、まあ中には競馬に傾倒する人間もいれば、パチンコに傾倒する人間もいる。僕からすれば、一体何がきっかけでそういったギャンブルにはまるのか理解が出来ないのだが、まあ少なくない数のギャンブラーというのがやはりいるものである。
ギャンブルと言ってすぐにイメージ出来るのが、コミックの「カイジ」である。絵は無茶苦茶下手なのに内容は無茶苦茶面白いので一時期読み耽っていたのだが、あれもギャンブルをテーマにした漫画であった。
その「カイジ」の一番初めの話に、「限定じゃんけん」というギャンブルがあった。これは、グー・チョキ・パーのカードを各4枚ずつ計12枚(確か)を渡され、それを使って会場内にいる人間とじゃんけんをする。参加者は皆星を三つ渡され、じゃんけんに勝てばその星を相手からもらえる、というルールだ。星を一定数集めることが出来れば抜けることが出来るが、手持ちのカードをなくさなくてはいけない、というようなルールだったと思う。
非常に単純なルールであるのだが、これが非常に奥の深いギャンブルで、その展開には目を見張ったものである。よくもまあこんなことを考えるものだと呆れながらも感心して読んでいたのであるが、やはり僕の場合、それがギャンブルであるということは特に問題ないな、と思うのだ。つまり、その「限定じゃんけん」というものが「カイジ」という漫画の中ではギャンブルとして扱われていて、何かを賭けることで成立しているのであるが、しかし僕は、それが何かを賭けるわけではないただのゲームであっても面白いだろうな、と思えてしまうのだ。
たぶんギャンブラーとそうでない人間との差はここなのだろう。お金(でなくてもいいのだが)を賭けているかどうか、という部分でやる気が決まるのである。
僕としては別に、麻雀をゲームとして(つまりお金を掛けないで)やっても十分に面白いと思うのだが、しかし大抵の人間はそうは思わない。麻雀はお金を賭けないと燃えないらしいのだ。別にそれでお金を稼ごうなどと思っているわけでもないらしいので、余計意味不明である。
より分からないのは競馬やパチンコである。麻雀は、まだゲームとして面白いと思えなくもないのでいいのだが、しかし競馬は馬が走っているのを見るだけだし、パチンコは玉が飛んでいるのを見るだけである。一体何が面白いのか分からない。じゃあやっぱりお金を稼ぐつもりなのかと言えば、いやいやああいうものは100%胴元が儲かるように出来ているわけで、トータルで負け越すのは目に見えているわけである。
それでも人々はギャンブルを止めようとはしないし、むしろどんどんとはまっていくのである。たぶん僕には一生理解できないことだろう。
そういえば思い出したが、一度だけパチンコをやってみたことがある。確か3000円くらい使ったような気がするが、まあ予想通り面白くなかった。まあパチンコにはまっている人からすれば、3000くらいじゃパチンコの面白さなんかわからないよ、とでも言われそうであるが。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、かつて「ブックサカイ深夜プラス1」という書店で店長をしており、その後書店員を止めてフリーの売文業に転向し、その後千葉のときわ書房本店でまた書店員としての生活に戻った茶木則雄のエッセイです。
茶木則雄と言えば「このミステリーがすごい!」の座談会なんかでも有名で、僕も名前くらいは知っていたんですけど、どんな人かはもちろん知りませんでした。このエッセイを読んでとにかく思ったのは、ぶっ飛んでいる人だなぁ、ということです。
本作は、「本の雑誌」という雑誌に連載していたもので(本書の単行本が出たのが10年くらい前だから、連載はそれよりももう少し前でしょう)、基本的には本の話題を綴ったエッセイ…であるべきなんだろうけど、しかし実態はまったく違うものになっています。
もちろん本の話題がないわけではないのですが、それはあくまでも前フリやオチみたいな使われ方をしていて、メインは茶木則雄とその家族の奮闘記、みたいな内容になっています。
とにかく茶木則雄という人はギャンブル好きだそうで、お金があればギャンブルに使ってしまうという、僕からすれば理解できない人間なんですが、とにかくギャンブル絡みの話が多い。失敗ばかりしているのだからいい加減学習すればいいのに、とか思うのだが、しかしそれはギャンブラーに言っても仕方ないことのようである。
それに輪を掛けてすごいのが、家族との関係である。子供よりも遊びを優先してしまうなんてのは序の口で、連載の中で奥さんを「邪魔だ」とか「鬱陶しい」とか言っているのだ。すごいものである。「家庭は冷え切っている」などと堂々と書いてしまう。そんなことが書けるくらいなら本当は仲がいいのだろう、とか思うのだがどうもそんなことはないらしく、茶木vs妻のバトルはもの凄いものがある。あくまでも本作に書かれていることが真実であるとしてだが(しかし解説氏は、本作に書かれていることはほとんど真実だと太鼓判を押している)、ありとあらゆる局面で茶木vs妻のバトルが現れ、そのことごとくに茶木は惨敗を喫しているのである。哀れ…と思わなくもないが、しかし妻の主張がほぼ完全に正しいと思われるので、身から出た錆、自業自得としか言いようがない、というのが本音である。
子供との戯れも時々描かれるのだが、この子供が泣かせるのである。父親はギャンブル狂で、家庭は万年貧乏であるので、子供は旅行にも連れて行ってもらえないし遊びにも連れて行ってもらえない。ゲームも買ってもらえないのである。
しかし茶木家の子供は菩薩のように優しく、例えばこんな話があった。
運良くゲームのソフトが当たったのだが、しかし本体がない。買って欲しいと母親に頼んだが、貧乏だからダメだと言われた。父親はフリーになったばかりでお金がないから健気にも買って欲しいとは言ってこない。息子はどうしているかと言えば、母親の仕事をこまめに手伝っては、ちまちまと貯金をしているのである。
ある日いろいろあって父親と息子が銭湯に行った時のこと。息子はこんなことを言うのだ。

『「ねぇ、お父ちゃん」首まで浸かり、ゆでダコのようになった息子が言った。「ぼくねえ、もう六千円も貯めたんだよ。凄いでしょ」うん。「もっともっといっぱい貯めてさあ、ニンテンドウ64買ってェ、もしお金があまったらァ、お父ちゃんにも何か買ってあげるね。今日いっぱい遊んでくれたから」』

なんといい息子ではないか。息子は日々父親から散々な目に遭わされているのに(相撲ごっこをして前歯を折ったり、甘いと騙してキムチを食べさせたり)、たった数時間サッカーをして銭湯に連れて行っただけで、頑張って貯めたお金を使って何か買ってあげるというのだ。
素晴らしい息子ではないか。親がダメでも(笑)子は育つものなのだなぁ、と感心してしまった。
まあそんなわけで、書店員のエッセイではあるが、内容はほぼ本とは関係ない。本の話題も出てくるのだが、いかんせん連載が10年以上前なので、出てくる本が古い古い。それに、外国人ミステリーがほとんどなので、外国人作家の小説を読まない僕としてはそれらの本の話題はとんと分からない。
しかしそれでも、本作はエッセイとして十分面白いと思う。家庭の恥部を前面に晒すことで自虐的な笑いを取っているが、しかし悲壮的な感じには決してならず笑い飛ばせるのである。まあだから、誰が読んでも面白いであろう。結婚している殿方諸君が読めば…どうだろう。僕は読んではいないが、ブログ本で有名になりドラマにもなった「実録鬼嫁日記」のような感じではないか、と思ったりもする。読んでみたら面白いと思います。

茶木則雄「帰りたくない!」


帰りたくない!文庫

帰りたくない!文庫

2007年04月30日

憲法九条を世界遺産に(太田光+中沢新一)

僕はとにかく、個性の強い人間が好きである。
僕の中で「個性が強い」というのはどういうことかと言えば、自分の考えやスタイルを明確に持っていて、それを積極的に表に出している、あるいは表に出そうとしていなくても滲み出てしまう人、のことである。
例えばだけど、ヒトラーとか僕はすごいと思う。ヒトラーについて詳しく知っているわけではないのだけど、彼は自分の考えを明確に持っていたし、またそれを積極的に表に出していたわけだ。別にヒトラーの考えが正しいと思っているわけではない。というか、まあやっぱりヒトラーは間違っていたのだろうけど、でも考えやスタイルが正しいか間違っているかということは僕にとってはどうでもいいのだ。その人が何らかの考えやスタイルを明確に持ってさえいればいい。
何故そういう人に憧れるかと言えば、やはり僕自身がそういう人間ではないからだろうな、と思う。
僕にはとにかく、主義や主張なんかはまるでない。自分以外の周囲はどうでもいいと思っているし、世界に対して発信したいと思っているようなことも何一つない。些細なことでさえ自分の考えを持つことが出来なくて、何一つ自分を表現することが出来ない。どんな問題に対しても特別な意見はないし、どんなことが起ころうとも明確な主張はない。自分の力で周囲を変えたいと思うこともないのだ。
だからこそ、自分自身をきちんと持っている人間というのは素晴らしいと思う。それが正しいかどうかは僕としては関係ない。たとえ間違っていたとしても、それを正しいと信じて主張し続けることが出来る人というのは素晴らしい。
小泉元首相なんかもそういう人間で、言っていることは明らかにおかしいような気がするのだけど、でも自信を持ってそれを主張している姿は素晴らしいと思う。ある意味で羨ましい。そういう人間になりたいと思うことも多い。
僕の中では、太田光という芸人もその一人だ。別に太田光のファンというわけでもないし、詳しいことも知っているわけではないのだが、彼はあらゆる問題に対して自分の意見や主張を持っている。そのそれぞれが正しいのかどうか僕には判断できないのだけど、しかしそれを主張出来るということがかっこいいし、素晴らしいことだと思うのだ。
その太田光は、憲法九条の改変に反対をしている。つまり現行の憲法九条を守ろうという立場である。
僕はその意見が正しいのかどうかさっぱりわからない。言ってしまえば僕にはまるで興味のない問題であって、正直憲法九条がどうなろうがまあ僕としてはどっちでもいいかな、という具合である。
しかし本作を読んで、少し前にバイト先の人と話したある会話を思い出した。
その時は、女性天皇についての話をしていたのだ。僕としては、まあ女性が天皇になろうがどうなろうがまあ別にどうでもいいか、という感じではあるのだが、その人は、女性が天皇になるのはまあ仕方がないとしても、女系天皇だけは許してはいけない、と主張した。天皇の歴史は2000年の重みがあるのだ、と。伝統というのはそれだけで価値のあるもので、意味があるかどうかは別として簡単に変えてはいけないのだ、というような主張だった。まあその人としても、本気でそう考えているわけではなく、どちらかといえばそうだ、という話だったのだけど。
それを思い出して、明らかに間違っているのならともかく、明確な間違いもないのにあっさりと変えてしまうのもどうなのかな、という気になった。まあどっちでもいいというのは変わらないのだけど。
護憲派と改憲派がどんなやり取りをしているのか僕は知らないしまったく興味はないのだけど、しかし本質とはかけ離れたところで議論をしているのだろうな、と思う。
僕は、憲法九条の問題なんかシンプルだと思うのだ。結局のところ、変えたって変えなくたって大差はない、だったら変えなくてもいいじゃないか、という内容を、いろんな理屈をつけて難しく話をしているだけのような気がするのだ。違うかもしれないが、そんな印象がある。
まあ結局のところ、現行の憲法九条が正しいあり方なのかは、変えてみなくては分からないのだ。変えてみてダメだったら現行のままの方が正しいし、変えてみてよくなれば現行のものが間違っているということになる。変えもしないのに憲法九条の正しさを議論することは出来ない。議論できないなら放置すればいいではないか、とまあそんな風に思う。どうだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、お笑い芸人である太田光と、その太田氏のメル友であり、太田氏が「思想界の巨人」と呼ぶ中沢新一が、憲法九条をいかにして守るか、という話を対談形式で載せている本です。
とは言うものの、僕の印象では本作は、憲法九条の話ではなく、日本人論という感じがします。つまり、日本人とはこういう生き物だ、という話をいろいろとして、その上で、だから憲法九条を残そうではないか、というところに繋げるという感じで、全体の6割近くは日本人論なんじゃないかなぁ、と僕は勝手にそう思いました。
だから、憲法の議論みたいなものはあんまりないような気がします。二人とも憲法九条を残そうという意思は明確なわけで、そこを深く掘り下げるのではなく、じゃあなんで憲法九条は日本人にとって大切なのか、残す上でどういうことを考えるべきなのか、というところをスタートにするために、話がどんどんと日本人論みたいな方向に進んでいくのではないかな、という風に感じました。
だから、憲法九条をどうしても残そうという二人の意思みたいなものは伝わってくるんですけど、でも根本的なところが議論にならないからその辺はちょっと消化不良だなという気がします。
でも一方で、もしこの対談が護憲派vs改憲派の対談であったとしたら、表面ばかりを突付きあうことになって本作のような深い日本人論を基礎にした話にはならなかっただろうから、まあどっちもどっちという気はするのですが。
しかしこの「憲法九条を世界遺産に」というフレーズは太田が考えたようなんですが、このフレーズはすごいと思いましたね。びしっと本質が伝わってくるという感じで、フレーズとして見事です。やはり言葉を武器に勝負しているからですかね、こういう言語感覚は冴えているのかもしれません。
読む前に予想した通り、全般的には僕にはあまり興味の持てない話でした。まあ、憲法九条とかどうでもいいと思っているから仕方ないんですけどね。なんか少しでも関心のある人にはいいかもしれません。護憲派も改憲派も、まあ一読してみたら面白いかもですね。どうでしょう。あんまりオススメはしないですけど。どっちだよ、って感じですね。

太田光+中沢新一「憲法九条を世界遺産に」


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