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2007年04月30日

海馬(池谷裕二+糸井重里)

脳に優しい生活をしてあげたいな、という風に思ったりする。
この「脳に優しい」というのはどういうことかと言えば、脳にとって刺激的である、ということである。
脳というのはとにかく刺激を求めている器官である。人間を、壁が真っ白で何にもない部屋に数日閉じ込めると、幻聴や幻覚といった症状が出てくるらしい。これも、刺激を「おあずけ」された脳が、じゃあしゃあねぇなぁ、自分で刺激を生み出すしかないじゃんか、ってなわけでやってしまうことなのだそうだ。
とにかく、ありとあらゆることが脳への刺激になる。
ホムンクルスというものがあって、それは体のどこを動かせばより脳への影響が強いかというのを視覚的にした人形のようなものなのだけど、それによればとにかく手と舌を動かすと脳が刺激されるようだ。手と舌を動かすというと、うーむ残念ながらエッチなことが真っ先に浮かぶのだけど、まあもちろんそれだって脳への刺激は絶大でしょう。また、手を使って細かい作業をすれば呆けない、みたいなことはまあ昔からよく言われていた通り。
他にもまあなんでもいい訳で、五感を刺激するようなもの、例えば見る聞くと言ったようなことでも刺激になる。それも、今まで知らなかったものとかの方がいいのだろう。見たことのないものを見るとか、聞いたことのないようなことを聞くとか。やったことのないことをしてみるとかね。
とにかくそうやって、いろんな形で脳に刺激を与えて上げると、脳というのはどんどん進化していく。
脳細胞というのは、実際のところ減り続けている。一日一個くらいの割合で減っているようである。海馬という部分は例外的に新しい細胞が生み出されていくようだけど、基本的に脳細胞というのは一旦死滅したら再生しないのだ。
また、年齢と共に記憶力が悪くなっていくというのも正しい。物覚えが悪くなっていくのである。
しかし、だからと言って脳が成長しないわけではない。むしろ脳をうまく使えるようになるのは、30歳を過ぎてからだというのである。
脳には可塑性という特徴があって、一度覚えたことは忘れない。思い出せないことはあっても、脳の中から消えているわけではないのだ。若いうちはそうやってとにかく情報を蓄えていく時期である。
で、30歳くらいを過ぎるとどうなるかというと、情報同士の関係性を考えられるようになってくるのだそうだ。若いうちは、脳の特徴として、そういう関係性を作り出すという機能がまだまだ未発達なのだけど、年齢を重ねるにつれてそういうことが出来るようになる。もちろんそのためには、日頃から脳に刺激を与えてあげなくてはいけないのだろうけど、年齢を重ねる毎に脳をうまく使えるようになる、というのは何だか嬉しい話ではないだろうか。そういえば作家というのはデビューが遅い人がたくさんいるしなぁ、とか思ってみたり。
さてそんなわけで、脳に優しい生活(Brain Eco Life、略してBELとでも名付けましょうかね 笑)を出来ればいいと思うのだけど、僕はやっぱりダメだなぁ、とか思ってしまう。
体を動かすのは嫌いだし、好奇心はないし、新しいものも好きではない。基本的に家とバイト先を往復するだけの生活で、歩きながら本を読んでいたりもするので外の景色なんかもろくに見ていない。休みの日は一日中部屋にいるし、部屋にいてやることはいつも決まっているし、これじゃあ脳としては刺激が少なくて窮屈なんだろうな、とか思ってしまう。
まだ幻覚も幻聴もないので脳は限界じゃないってことなんだろうけど、やっぱ脳を活かすためにはどんどん刺激を送り込んでやらないといけないのだろう。そうなると、いろんな人と関わりを持って、恋愛なんかにも精を出して、バリバリ外へ出て新しいものを探し、なんていうことをしなくてはいけないんだろうけど…、いやいややっぱ無理だろうなぁ。
でもこうやって「無理」だって思うことも脳にはよくないんだよね。こうやって言葉で自分を規定してしまうと、脳というのは律儀にそれを認識するんですね。で脳というのは厄介なことに、一度認識したことは忘れることが出来なかったりするわけですね。だから、「自分はダメだ」とか「自分には無理だ」とか思ったりすると、思うだけでそれが悪い方向に影響してしまうわけで。
そういえば僕にも経験があるけど、中学生くらいの頃だったかな、僕は「世界中の人間に嫌われている」と思って生きることに決めたわけです。ざっと理由を説明すると、そう考えた方が行きやすいだろうな、って思ったからです。僕は昔から人見知りで引っ込み事案で、いつも周りからの評価にビクビクしていたような人間なわけで、だからいつも「俺って嫌われてないかな」とか、「やべぇ、今ので絶対嫌われたよ」とか、まあそんなことを思っていたわけですね。でも初めっから「世界中の人間に嫌われているんだ」と思えば、そういう一つ一つのことについてはどうでもよく思えてくると思ったんですね。まあ元から嫌われているんだからまあ気にすることないか、みたいな。
まあそんな風にして自分なりに生きやすくするために脳に暗示を掛けたんですけど、その暗示は今でも有効ですね。ほんと、ほとんど呪いみたいなものだけど、未だに僕にまとわりついていますね。まあ厄介なものでもないので僕としては重宝しているつもりですけど、脳というのは案外融通が利かないものなんだなとか思ったりします。
脳というのはホントまだまだ全然解明されていない分野で、というか僕が生きているうちに目覚しい進歩を遂げるかどうかも怪しいような分野ですけど、でも本当に魅力的ですね。自分が物事を考えたり認識したりするその過程を探るというのは刺激的です。目覚しい進歩があるといいなと思います。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、コピーライターとして有名な糸井重里氏と、脳科学の世界ではかなり有名(らしい)、東京大学薬学部助手(助手なのに有名というのもすごいと思うけど)である池谷裕二氏との対談という形態で全編貫いた作品です。
対談の内容は、池谷氏の専門分野である脳、もっと言えば海馬を中心とした話題なのだけど、学術的な話ではなく、脳の性質から考えた人間の生き方、みたいな話に方向付けされています。
池谷氏は、自分の専門分野について平易な言葉で語ります。最新のデータなんかを交えながら、脳というもの、あるいは海馬というものについて、どこまで分かっていてどこまで分かっていないのか、こんなことも分かっていたりするんですよ、ということを話す。
それを受けて糸井氏は、なるほどそれはイメージとしてはこんな感じがしますねとか、それは人間の社会に置き換えて考えるとこんな風に言えたりしますね、という風に返す。それを受けて池谷氏も自分の考えを語り、次第に話は次のテーマに移っていく、という感じで進んでいきます。
池谷氏の「進化しすぎた脳」という本を最近読んで、その読みやすさに驚いたものですが、本作ではさらに分かりやすい感じになっています。専門的な言葉や数字なんかを完全に排除しているためで、それは対談という形態のお陰だろうな、という風に思ったりします。脳についてまったく詳しくない糸井氏という相手と面と向かって対談するわけで、分かり難い部分があると話が展開していかない。そういう意味で本作は、専門的なことについては詳しくないかもしれないけど、今の脳という研究についての大雑把なところが非常に平易で分かりやすい形で書かれていると思います。
また糸井氏の受け答えがなかなか秀逸な感じで、さすがは言葉を操る仕事をしているだけのことはあるな、と思いました。とにかく、話を広げるその矛先みたいなものが巧くて、この話題からそんな話にまで行きますか、というようなこともあったりで、すごい人だな、と思ったりしました。
本作は脳の話だったりしますが、脳の性質を知ったうえでどう行動しますかというような話にもなって、かなり実用的だったりします。脳は基本的には疲れないから疲れているのだとしたら目だとか、記憶力を伸ばせる食べ物があるとか、睡眠というのはとにかく脳にとっては大事であるとか、ちょっと寒いとかちょっとお腹が空いている方が脳が活発であるとか、普通の学術的な本であればまず載らないような情報もたくさん載っていて、そういう意味では、読んでいて面白いだけの本ではないのでかなりいいと思います。まあ読んでもなかなか取り入れることは難しいとは思いますけど。
というわけで大体作品の内容はこんな感じですが、本作を読んでとにかく僕がたまげたことを最後に書いて終わりにしようと思います。
それは、池谷裕二氏は九九の計算が出来ない、ということです。
池谷裕二氏は、東大に入る時も東大の大学院に入る時も主席だったようなのだけど、とにかくモノを覚えられない子供だったようです。子供の頃の漢字テストで100点中2点だったこともある、と明かしています。
しかし、九九も出来ないような人が理系の大学、しかもその最高峰である東京大学に入学できるとはにわかには信じられません。
しかし池谷氏は、こういうやり方で乗り切ったのだそうです。
それは、公式を覚えるのではなく常に導き出す、ということ。
僕も理系だった人間なので、いろんな数学の公式を覚えた記憶がありますが、池谷氏はそれを覚えるのではなく、問題を解く度に頭の中で導き出していた、ということです。と簡単に言っていますが、尋常ではないですよ。僕なんか、二次方程式の解の公式を完全に忘れているんですけど、これを導き出そうと思ったらかなり時間が掛かると思います。もちろん、覚えた方が遥かに楽ですが、覚えられなかった池谷氏は毎回導き出すというやり方を選択せざるおえなかったようです。
だから今でも九九は出来ないそうです。じゃあどうしているかと言えば、例えば9×8を計算する時は、一旦9×10=90として、そこから9×2=18を引いて72という答えを出すのだそうです。池谷氏は、九九をすべて覚える代わりに、10倍する・2倍する・半分にするという三つのルールだけで全部出来るということを発見し、そのやり方だけを覚えたのだそうです。なるほど、そう言われると池谷氏はすごい人間なんだなということがよくわかるなぁ、という話でした。
そんなわけで、僕はまあこういう理系的な本は好きなので結構読むのですが、この作品は理系的な本に分類していいのか悩むくらい読みやすい本です。理系の知識が0でも分かると思います。なんせ著者の一人は九九が出来ないんですから、臆することはありません!(もちろんジョークで言ってるんですよ 笑)
脳の話はちょっと興味があるけどどの本を読んでも難しそうだよなと思っている方、ちょっとまず本作を読んでみたらいいと思います。それから、同じく池谷氏が書いた「進化しすぎた脳」を読んでみましょう。どちらも無茶苦茶読みやすいのでオススメです。

池谷裕二+糸井重里「海馬」


海馬文庫

海馬文庫

2007年04月29日

涼宮ハルヒの憂鬱(谷川流)

そういえばふと思い出したので、本作の内容とはまったく関係ないことをまずは。
今日は昭和の日ですね。今年からみどりの日ではなくて昭和の日になりました。それとあと一つ、今日は中原中也の誕生日だったりします。しかも生誕百年です。おめでたいですね。
さてそんなわけで。
なんか面白いことないかなぁ、と僕らはいつだって思っていたりしますね。でも、その「面白いことって何よ?」って聞かれると、はっきりと分かっていなかったりもします。なんとなく面白いと思えること、としか答えようがありません。
世の中にはそういうものはたくさんあって、そのものが現れればそれが面白いかどうか判断できるのに、それが現れないうちにこれということは出来ない、みたいな奴です。僕の場合で言えば本ですね。僕は、その本に出会えばそれが面白いかどうか判断できるけれども、しかしその本がどんなものであるか出会う前に表現できない、というような感じです。
さて世の中には、自分の人生はなんと面白いことで満ち満ちているのでしょう。毎日ハッピーでございますことよ、なんていう人間は果たしているものだろうか?
いたとしたらそいつを万力で締め付けて身長を半分にしてやりたいところだけど、実際問題まあいないでしょうね。どれだけ恵まれた人間であろうとも、現状に完全に満足してしまえばそこで終わりであるということは知っています。たとえどれだけ面白いことが身の回りで起こっても、いやいやこんなのはまだ序の口です、きっと世の中にはまだまだ面白いことはたくさんあるし、わたし諦めませんわ、みたいなまあそんな風に思うのが普通だったりするのかな、とか思います。
例えば、イメージだけで言えば芸能人って毎日すっごく楽しそうに生きている感じがしますよね。華やかな世界だし、毎日ありえないことが起こっても不思議ではないし、刺激的な毎日かもしれません。でもまあいろんな断片の話を聞くに、そこまで刺激的な日常ではないようですね。まあそうなんでしょうけど、あれだけ非日常の世界にいる人でもそこまで面白い生き方をすることは出来ないわけですから、人生って難しいものだよな、とか思いますね。
僕の場合は、まあ人生を諦めているというか、完全に諦めきっているような人間なので、自分の周囲では特に面白いことなんて起こらないだろうし、まあそれを期待することもしないようにしよう、とか思って生きています。きっとこのままつまらない人生を送るのだろうし、まあそれならそれで仕方ないか、とか思います。本当は自分からもっとアクティブに動けば、犬もあるけば棒に当たる的な感じで面白いことに出会えたりするのかもしれないのだけど、でも出会えないかもしれないわけで、それって徒労だよなぁ、とか思ってしまうようなダレた人間なわけです。
でもやっぱ思うんですよね。自分の中で何が面白いのかっていうのがちゃんとはっきり分かっていないと、結局のところ面白いことなんかには出会えないんではないかって。
僕はあまりにも興味の幅が少ない人間で、時々何かの偶然であるかのように変なところに興味のあるものを見つけたりするんですけど、そんな人間の場合そもそも、「何か面白いことないかなぁ」とか思っても当たる確率は低そうです。そうではなく興味の幅が広い人だって、それでも自分が思い求めているものの輪郭をある程度はっきりさせておかなくては手に入るものも手に入らないのかもしれません。「よりよいもの」を追い求めているとい姿勢では、何か面白いことがあっても「まだまだ面白いことがあるかもしれない」と言ってそれを手放してしまうこともあるかもしれないし、そもそもレーダーに引っかからない可能性もあったりするでしょうね。
でもまあ、「私にとってはこれこそが面白いことだ!」と明確に決めすぎてしまうのもどうかと思ったり…。それが、あまりにも現実には起こらなそうなことだったらなおさら…。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
俺はまあどこにでもいるただの高校生だ。というか、つい最近高校生になったばかり。もう平凡でなんでもないような、間違っても物語の主人公になったりするはずのないような、そんな高校生だったはずなのである。
いやしかし、俺の高校生活は、ある女によってあっさりとわけの分からない方向に捻じ曲げられていくのである。
その名も、涼宮ハルヒ。
たまたま俺の真後ろの席だったというだけで、他に理由はない。一度話し掛けたことがきっかけで少しずつ会話をするようになった。
その高校は四つの中学から人が集まってきていたのだが、ハルヒと同じ中学だったという連中からは驚かれた。あいつがあんなに人と会話をしているのを初めて見た、というのだ。それから俺は、ハルヒの中学時代の奇行を知ることになり、なるほどちょっと距離を置いたほうがいいやつなのかもしれないなぁ、でも見てくれだけは可愛いんだけどなぁ、とか思っていた矢先。
ハルヒは新しい部活を作ることに決めたと言って俺を巻き込んだ。私は部室と部員を集めるから、あんたは書類をちゃんとしといて、とこうだ。
それから、長門有希という新入生一人しか所属していない文芸部の部室を奪い、また超ド級に可愛らしい朝比奈みくるという一学年上の先輩を拉致してきては部員にし、また謎の転校生だ!と騒いでは小泉一樹というその転校生を部員にしたりした。
さて、入学当初の自己紹介で「ただの人間には興味がありません。この中に、宇宙人、未来人、超能力者がいたらあたしのところに来なさい。以上」という、超電波な自己紹介をしたハルヒ。部活にするのに必要最低限な5人のメンバーを揃えたハルヒは、「SOS団」と勝手に名付けたその部活の目的を高らかにこう言ってのけた。
「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶことよ!」
そうやってハルヒに一方的に引きずられる毎日ではあったが、しかし実はハルヒというのはとんでもない人物であることが明らかになったりして…。
というような話です。
さてこの涼宮ハルヒという作品は、アニメ化されたことをきっかけにして爆発的に人気が拡大した作品で、本もメチャクチャ売れます。最新刊がつい一ヶ月くらい前に発売されたのだけど、今年(つまり1月から)の文庫の当店での売上で現在トップを独走と言った感じです。ホント、ありえないくらい売れている作品です。
まあなのでさすがに読んでみようかなと思ってみたりしたわけです。
で、なかなか面白いかな、と思いました。いや、内容はライトノベルらしくくだらないし馬鹿馬鹿しいしアホみたいなもんなんだけど、まあこれはこれでアリだったりするかな、という感じですね。
世の中には「萌え属性」なんていう言葉があって、僕は詳しく知らないのだけど、とにかくどんなものに萌えるか、という意味のようです。この「萌え属性」にはいまや様々なものがあり、「ツンデレ」「眼鏡」「メイド」「コスプレ」とかまあいろいろあったりするわけです。
で本作はその「萌え属性」みたいなものがかなりわんさか出てきます。ハルヒは「ツンデレ」だし(まあデレの部分は良く判らないけど)、長門は「眼鏡」だし、朝比奈は「メイド」とか「コスプレ」です。だから要するに、いろんな男が持っている「萌え属性」を比較的満遍なく満たしているというところが、まあ本作が人気の理由だったりするかもしれないな、と思ったりします。まあ僕は、「眼鏡萌え」だったりしますけどね。
物語としては、なんていうんでしょうね、とにかく特別なことは何も起こらないのに時間だけが過ぎていく感じで、でもまあ読んでて面白かったりします。ハルヒがとにかく暴走して物語を引っ張り、一方でハルヒは何も知らずに蚊帳の外、脇役であるはずの俺が一転主人公ですかみたいな感じになって、それにいろんな小ネタがプラスされてひっちゃかめっちゃかになっていくという辺りが面白いような気がします。朝比奈さんのコスプレなんかはかなりいいし、長門が本好きというのもいいし、何よりもハルヒの暴れっぷりは読んでいて爽快な感じもします。
なるほど確かにこの作品、アニメにしたら面白いような気もします。まあ見ることはないでしょうが。
というわけで、まあ読める程度には面白いと思います。でも女性にはどうでしょうね。男が読んだらそこそこ面白いとは思いますけど。わかりません。まあライトノベルを読んでみようかと思っている人にはいいのかもしれませんね。

谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」


涼宮ハルヒの憂鬱文庫

涼宮ハルヒの憂鬱文庫

2007年04月29日

2007年4月のマイ・ベスト本

あまり多くは本を読めなかった4月。

ちょっと少ない中から選ぶ2007年4月のマイベスト。



蜂谷涼【蛍火】です。ちょっと泣いた。



蛍火 蛍火
蜂谷 涼 (2004/06)
講談社

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2007年04月29日

世界のトンデモ法大全(知的好奇心研究会)

日本の法律の元となっているのは、確かドイツのなんとかっていう法律だったかな。ワイマールとかなんとか。でもあれは憲法だっけ。憲法もまあ法律だけど。でも憲法ってそういえば、GHQとかが作ったんだったような…。とまた浅薄で中途半端な知識を晒してみる。
しかしまあ思うのだ。真似したのがドイツの法律でよかったな、と。これがアメリカの法律とかだったら…。想像しただけでも恐ろしいものだ。
バイト先に法律の勉強をしている人がいるのだが、その人と少しだけ法律の話をしたことがある。
日本の刑法というのは、曖昧な解釈ができてはいけないのだそうだ。
まあそれはそうだろうと思う。解釈の余地があれば、同じ状況でも違う罰則というようなことになってしまうだろう。こういう場合はこう、という風に明確にしておかなくてはいけないのだろう。まあその人曰く、刑法はかなり厳密だけど、民法は例外が結構ある、というようなことを言っていたけど。
ただ考えてみると、曖昧な解釈を許さない条文というのはかなり難しいのではないか、と思ってしまうのだ。
例えば憲法九条は有名だけど、あれをどう解釈しようかみたいな話で結構いろいろ揉めたりしているのだろう。憲法だってきっときっちり作られているのだろうけど、それでも解釈の余地は出てきてしまうものだ。まあ人間がひねくれているというのもあるのだろうけど。
人を殺した場合はこういう罰則、みたいな条文があるとしよう。でも例えば正当防衛だったらどうなのか。正当防衛というのはどういうことをいうのか。また親を殺した場合はどうか。ただ殺すのではなく拷問みたいにいたぶったりしたらどうか。殺すつもりはなかったのだとしたら…。
みたいな風にいろんな場合を想定することが出来る。世の中には犯罪は山ほどあるわけで、そのそれぞれの犯罪にいろんな場合があるわけで、それを他と矛盾しないように整合性を保って作るというのは、まあ並大抵のものではないな、と思ったりします。
さてまあ日本はそんな風に、まあたぶんそこそこきっちり作られているのだろうけども、では世界に目をむけたらどうなのかというと、これがもうもの凄いことになっているのだ。
整合性とか曖昧な解釈を許さないとかいう前に、それって法律ですか?と聞きたくなるようなものがわんさかある。特にアメリカは州ごとに法律が違うからすごい。なんというか、まともな人間が法律を作っているのだろうか、と疑いたくなってしまうものばかりである。
と言っても恐らくイメージは出来ないだろうから、本作に載っていたぶっ飛んでいる法律をいろいろ載せてみようと思います。

「生後30日以内なら自分の子どもを捨ててもいい(ニュージャージー州)」

「犯罪を行うときは防弾チョッキ禁止(ニュージャージー州)」

「図書館の本の返却遅れ、一ヶ月以下の禁固刑(ユタ州)」

「市バスの制服にポケットをつけてはいけない(カリフォルニア州)」

「女性のオーガズム中に銃を撃ってはいけない(ウィスコンシン州)」

「ベッドとベッドの間でのセックスは違法(サウスダコタ州)」

「日曜日に夫が妻にキスをするのは違法(コネチカット州)」

「女性は救急車に乗っている時にセックスをしてはならない(ユタ州)」

「女性に下ネタを使うときには事前了承が必要(サウスカロライナ州)」

「飼い犬とは一日二時間過ごすこと(ドイツ)」

「空港で亀のレースを開催してはならない(ミシシッピ州)」

「どんな犬でもロープウェイでは大人料金を払わなくてはいけないが、犬がロープウェイに乗るのは違法である(コロラド州)」

「女性はズボンを穿いてはならない(アリゾナ州)」

「ネイティブ・アメリカンと通りでトランプをしてはならない(アリゾナ州)」

「日曜日の午後に離婚歴のある独身女性をパラシュートで投下してはならない(フロリダ州)」

「午前七時から午後七時まで床屋はタマネギを食べてはならない(ネブラスカ州)」

「火事場での食事は違法(イリノイ州)」

「牛乳を飲まないことは違法(ユタ州)」

さてどうであろうか。無茶苦茶を通り越して笑えてこないだろうか。
本作にはアメリカ以外の法律もそこそこ載っているのだが、しかし大半がアメリカの法律になっている。州ごとにバラバラなのは分かるが、そもそもそんな法律どうして出来たわけ?と聞きたくなるものばかりだ。特に「パラシュート」の話は意味不明すぎる。
さらに意味不明なのは「ロープウェイ」の話だ。ロープウェイに犬が乗ることが違法なら、そもそも大人料金を払わなくてはいけないという部分はいらないじゃないか!どういうことでしょうね。違法であることを覚悟で犬を乗せたいという飼い主が現れた時のことを想定しているんでしょうか…。
本作を読んでいると思うのが、外国には行きたくないなぁ、ということである。とにかく、何をしたら捕まってしまうのかが分からないのだ。シンガポールでは唾を吐いただけで捕まるというのは有名だが、イタリアでは領収書をもらわないと捕まるというのは初めて聞いた。他にもオーストラリアでは野外で火を使ってはいけないようだし(山火事防止のため)、借りた本を返さなかったばかりに捕まるところもあるのだ。恐ろしい。またキリスト教が多いアメリカだからか、キリスト教の安息日である日曜日にしてはいけないことというのがたくさんあるようだ。日曜日には、歩きながら歌を歌ってはいけないし、車を買ってはいけないし、ドミノをしてもいけないのである。平日はいいのに日曜日はダメという法律。なんでしょうね、ホント。
まあそんなわけで本作は、字もすごく大きくてスラスラ読めて、内容もまあ面白いと思うので、さくっと読むにはなかなかいい本だと思います。トイレに置いておいて、毎回行く度に一項目読む、みたいなのでもいいかもです。どうでしょうか。

知的好奇心研究会「世界のトンデモ法大全」


世界のトンデモ法大全文庫

世界のトンデモ法大全文庫

2007年04月27日

H.G.ウェルズ「透明人間」★★★★☆

久々の海外SFモノ。
そういえば私がSFに嵌ったのは、ヴェルヌやウェルズからだった。
と言うわけで原点回帰な気分のこの一冊。
むかーしに読んだはずがほとんど内容を覚えていなかったのが悲しい。

透明になる方法を発見した科学者が、透明になることによって
人間性を失い狂気に取り付かれていく様子を描いた一冊。
確かに、人と違う力を手に入れたら普通は暗黒面に落ちちゃうよなぁ。
(暗黒面=スターウォーズでジェダイの騎士が落ちるとベイダーとかになっちゃう
スパーダーマン3もそんな感じの内容っぽいし。

一緒に買ってきた「透明人間の告白」にも期待。
読み始めるのがだいぶ先になりそうだけど。


H.G. ウェルズ, 雨沢 泰 / 偕成社(2003/06)
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Amazonおすすめ度:

2007年04月27日

ヴァシィ章絵【ワーホリ任侠伝】

これは一言で言えば、

ワーホリ+任侠

である。タイトルそのままやん、と思われるだろうけど、とにかく

想定外の迫力

で、結末が近づくにつれてページをめくる速度がどんどん上がる。



でも最初はタイトルだけを見て、もっと軽い小説かと思っていた。はっきり言えば、「な〜にがワーホリだよ」とナメていた。ナメきっていた。

私は「ワーホリ」という略語が嫌いだ。正しくは

ワーキングホリデー

である。



以下は、「ワーホリすごく楽しかった〜♪」とおっしゃるかたは読まないでください。

私はワーホリ否定派ですが、皆様の楽しい思い出を否定したくはありませんので……





というわけで。

ワーキングホリデービザで海外へ行き、「アルバイト+観光+語学の鍛錬」という3つの美味しさでエンジョイすることを、世間では「ワーホリ」と略して呼ぶ。

ただしワーホリ制度を利用するには年齢制限がある。おそらく中学生では無理だし、30歳を過ぎたら完全にアウトである。渡航先によって若干の違いがあるらしい。(興味がある人はご自分で調べてみよう)

その渡航先も制限されている。日本政府とワーホリ協定を結んでいる国だけ。オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国、フランス、ドイツ、イギリス、アイルランド。



私は英会話スクールに通っていたとき、ワーホリ志望の男性・女性に何人も会った。みんな真面目だし、いい人だし、一緒に酒を飲むと楽しかった。

しかし、この人たちがオーストラリアを「オース」、ニュージーランドを「ニュージー」と略すことに激しい違和感をおぼえた。

「なぜ英会話を習ってるの?」
「あのね、あたし会社を辞めて、ワーホリでオースに行きたいの」

ワーキングホリデーという言葉は長いから、まあ「ワーホリ」は許そう。私もさっきからワーホリ、ワーホリ書いてるし。

しかし「オーストラリア」とか「ニュージーランド」ぐらいは、ちゃんと言おうよ。略語を使う人には、「あたしはその業界のことをよく知ってるの。事情通なのよ〜〜〜」という意識があるようで、どうも私は苦手だ。

もちろん私は「オースなんて言うな!」などと言わずに黙っていた。「ワーホリなんて会社を辞めてまで行く価値があるか?」とも思ったが、それも黙っていた。だってその女性は行くつもりで着々と準備してるんだもの。私の出る幕はない。

しかし、しかし……だ。

いくら海外でアルバイトと言っても、オーストラリアの土産物屋で日本人観光客を相手にしていては、英語の鍛錬にならない。(英語がそれほど堪能でない状態で行くのだから、あまり複雑な仕事はできるはずがない)

現地の語学学校に行くとしても、たかだか滞在期間は1年やそこらだ。(ワーホリビザは特殊なので、あまり長くは滞在できないらしい)

まぁ、ただの観光旅行で行くよりは、アルバイトしながら学校へ行くのだから、少しは実になる部分もあるだろう。

しかし、例えば日本とは比較にならないほどカリキュラムが厳しいアメリカあたりの大学へ「留学」して、大量の宿題と英語の濁流に耐えながら勉強するのと、「ワーホリでオースに行く♪」のとは、天と地ほどの違いがあるのだ。

ワーホリで海外に行ったぐらいで、通訳や翻訳の仕事ができるわけじゃないし。(興味がある人はご自分で調べてみよう)



とにかくワーホリには良い印象がない私。「ワーホリに向けて頑張りまーす♪」みたいな純朴なOLの物語だったら、とっとと図書館に返しちゃうからね!

……などと思いながら読み始めたが、主人公の「ヒナコ」は、そんなヤワなタマじゃないのだ。

大手商社に勤めるヒナコは、男性社員のセクハラ大馬鹿野郎をうまくかわし、金曜の夜には「クラブ活動」にいそしむ。ワーホリの資金を貯めるため、ちょっと危険なアルバイトを始める。

やがて日本にいられないヤバい事情ができ、ヒナコは半ば押し出されるようにしてニュージーランドへ向かうのだ。

まあムチャクチャである。

正直、ヒナコにはあまり同情できない。夜のクラブ活動にしても、ヤバいアルバイトにしても、肌の露出の多い服を「カワイイ」と言って好んで着る趣味にしても、「そこまでして無駄に色香をまきちらさなくてもいいのに……」と思う。

これからワーホリで海外へ行く皆さんは、ヒナコの真似をしてはいけない。

でも、ヒナコのようなたくましさや行動力や機転は、あっても無駄にならない。

「オース」の彼女はこの本を読んだだろうか?



ワーホリ任侠伝 ワーホリ任侠伝
ヴァシィ 章絵 (2006/10/20)
講談社

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2007年04月27日

「愛国の作法」姜 尚中


「愛国の作法」姜 尚中
205p 朝日新聞社

目次
第1章 なぜいま「愛国」なのか
第2章 国家とは何か
第3章 日本という「国格」
第4章 愛国の作法
むすびにかえて―「愛国」の彼方に

ほんとうに国を 愛するとはどういうことか。
まず、『国家』とは というとこらから言及。

しかし、なんだか違う。
そうなの?ホント?
著者の言ってることに 反発、ツッコミを 入れながら読む。
それは 私の偏見からなのか?

いろんな人の文章を引用して書いているが、そのつぎはぎは、自分の好みで、パッチワークして つなぎ合わせる。
すると 自分の好きな作品は 完成するが、果たして それは…

要するに、彼の好きな 思想なわけね。
でも それは…彼が 好きなだけだよね。

朝日新書だもんな。

2007年04月26日

柴崎友香【その街の今は】

タイトルだけではどういう話か皆目わからないが、まず最初に、

「百田さんて、どのぐらい合コン行ってはるの?」

というセリフで大まかに察せられる状況がある。



20代後半の女性たちが、夜の大阪の街角で、合コン帰りに「まともな男がいなくて、さんざんだった!」などと感想を話し合っている。

主人公の「歌ちゃん」は、じつは仕事もうまくいっておらず、まもなく30歳になることだし、どうにかせなあかん……と思っているが、あまり焦燥感がない。

関西弁の、棘のない角田光代みたいだ。



しかし既婚なのに合コンへ行く男って、なにを考えてるんだろうね――と歌ちゃんたちも怒っているんだが、そもそも「合コン」とは大学生の用語であった。

サークルで新入生を歓迎する「新歓コンパ」があり、わが母校では「クラス」のことを「グループ」と言っていたから「グループコンパ」もあり、でも「合コン」はなかった。学生には男子も女子もいたから、合コンすなわち「合同コンパ」をする必要がなかったからだ。男子学生ばかりの大学だと、女子大学と合同コンパを開催するのだけれども。

最近、大学生の合コン事情はどうだか知らないが、社会人が「男性と女性の出会い」を目的におこなうものも「合コン」と呼ぶようだ。

さらに拡大解釈して、既婚者だけど若い女性と楽しいひと時を……と考える輩もいるのだろう。

なにを考えてるのか――というか、なにも考えていないのだろう。



で、歌ちゃんは友達と別の店へ飲みに行く、そこで知人男性と出会い、しこたま飲んで酔う。翌日には完全に記憶をなくす。

それをきっかけに淡々とした関係が始まる。



でも恋愛話がメインではない。歌ちゃんは「この街」をすごく愛している。そして「この街」を愛する人たちが歌ちゃんの周りには沢山いる。そういう話。

この男もベタついたところがなくて、けっこうイイやつ。

薄味だけど、けっこういい話。


その街の今は その街の今は
柴崎 友香 (2006/09/28)
新潮社

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2007年04月26日

瀬戸内寂聴【孤高の人】

いきなり個人的な意見で恐縮ですが。

女流作家

と呼べるかたは瀬戸内寂聴先生あたりが最後ではないだろうか。

いまも「女性の作家」は何人もいるが、「女流作家」とは違う気がする。



寂聴先生が得度なさる以前、まだ豊かな黒髪があり、「晴美」と名乗っておられた時代は、たくさんの「女流作家」が活躍していた。

なにがどう「女性の作家」と違うのか。



女流作家は自分の作品以上に

自分の人生がドラマチック

なのである。

もちろん寂聴先生の人生も劇的で、宮沢りえがドラマで演じたほどだ。



いまの作家の皆さんは……まあ世の中全体が「個人情報を必要以上に出さない」という風潮だから、私も詳しくは知らないが、ドラマチックな人生を送っている人を、あまり見かけない。

それに作家の平均年齢が下がっていて、「普通に大学まで進学し、ある日いきなり小説を書いてみました」みたいな人が多いみたい。結婚・離婚・激しい恋愛などを経験する前に、作家になっちゃってるのね。

でも普通に生きるのが悪いこととは思わない。かつての女流作家たちは自分の激しい人生を小説のネタとしてきたけど、そればっかりが小説を書く方法ではないだろう。



本書は寂聴先生がお若い頃に交流があったという、ロシア文学者の湯浅芳子先生について書いてある。

まず表紙をひらくと、お二人の写真がある。寂聴先生の顔はテレビで見たことがあるから知っているけど、花のように可愛らしい若い頃のお顔には、失礼ながら驚いた。

そして湯浅先生のほうは、女性だけれども男性的な装いである。



このかたは同性愛者だそうだ。

ビアンの作家といえば中山可穂が思い浮かぶが、それよりもずっと以前に、こういう文学者がいたのだ。

今でこそ同性愛と聞いて「まあ、そういう人もいるだろう」ぐらいに受け流すことはできるが、私が生まれるよりも遥か昔の話だ。世間の風あたりの強さ、なんて月並みな言葉が思い浮かぶ。

しかし同性愛を公言してはばからない。そして一人の女流作家と激しい恋に落ちるが、幸せな日々は長く続かない。やがて恋が破綻し、その後はずっと傷心を抱えたまま生きることになる。

恋でも、友達づきあいでも、食べるものでも、文学に対する考え方においても、ご自分が「これ」と思ったものに心を傾け、それ以外はバッサリ切って捨てる。

同性愛かノーマルかに関わらず、本書に登場する女流作家はみな、そんな感じだ。

だから孤独だ。



ドラマチックな人生は、確かにカッコいいと言えばカッコいいのだけど、ドラマチックな人生を生きている当人には、胸から血が吹き出るほどに辛いことが沢山あるはず。

かといって可哀想と言うのも違う気がするし。

いろいろ考えているとコメントのしようがないけれど、そんなふうにしか生きてこれなかった「女流作家」の典型みたいな人がここにいる。



孤高の人 孤高の人
瀬戸内 寂聴 (1997/11)
筑摩書房

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2007年04月26日

皆川博子【死の泉】

ものすご〜〜〜〜〜〜〜〜く長いです。しかも2段組。



ものすごく大ざっぱにまとめてしまうと、復讐譚というのかな。

出てくるのはナチスドイツだったりカストラートだったり、美声を持つ双子の兄弟だったり。

それと、表紙が2枚に奥付が2枚ついてます。



「なんのこっちゃ」とお思いのかたは読んでみて。

好きな人はとことん好きな作品。



私は今ひとつでした。

けっこう興味をひかれるけど、全体的には「あれっ? うーん……」という感じ。



連休も迫ってますし、お好きな方はごゆっくりお楽しみあれ。


死の泉 死の泉
皆川 博子 (1997/10)
早川書房

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