この「脳に優しい」というのはどういうことかと言えば、脳にとって刺激的である、ということである。
脳というのはとにかく刺激を求めている器官である。人間を、壁が真っ白で何にもない部屋に数日閉じ込めると、幻聴や幻覚といった症状が出てくるらしい。これも、刺激を「おあずけ」された脳が、じゃあしゃあねぇなぁ、自分で刺激を生み出すしかないじゃんか、ってなわけでやってしまうことなのだそうだ。
とにかく、ありとあらゆることが脳への刺激になる。
ホムンクルスというものがあって、それは体のどこを動かせばより脳への影響が強いかというのを視覚的にした人形のようなものなのだけど、それによればとにかく手と舌を動かすと脳が刺激されるようだ。手と舌を動かすというと、うーむ残念ながらエッチなことが真っ先に浮かぶのだけど、まあもちろんそれだって脳への刺激は絶大でしょう。また、手を使って細かい作業をすれば呆けない、みたいなことはまあ昔からよく言われていた通り。
他にもまあなんでもいい訳で、五感を刺激するようなもの、例えば見る聞くと言ったようなことでも刺激になる。それも、今まで知らなかったものとかの方がいいのだろう。見たことのないものを見るとか、聞いたことのないようなことを聞くとか。やったことのないことをしてみるとかね。
とにかくそうやって、いろんな形で脳に刺激を与えて上げると、脳というのはどんどん進化していく。
脳細胞というのは、実際のところ減り続けている。一日一個くらいの割合で減っているようである。海馬という部分は例外的に新しい細胞が生み出されていくようだけど、基本的に脳細胞というのは一旦死滅したら再生しないのだ。
また、年齢と共に記憶力が悪くなっていくというのも正しい。物覚えが悪くなっていくのである。
しかし、だからと言って脳が成長しないわけではない。むしろ脳をうまく使えるようになるのは、30歳を過ぎてからだというのである。
脳には可塑性という特徴があって、一度覚えたことは忘れない。思い出せないことはあっても、脳の中から消えているわけではないのだ。若いうちはそうやってとにかく情報を蓄えていく時期である。
で、30歳くらいを過ぎるとどうなるかというと、情報同士の関係性を考えられるようになってくるのだそうだ。若いうちは、脳の特徴として、そういう関係性を作り出すという機能がまだまだ未発達なのだけど、年齢を重ねるにつれてそういうことが出来るようになる。もちろんそのためには、日頃から脳に刺激を与えてあげなくてはいけないのだろうけど、年齢を重ねる毎に脳をうまく使えるようになる、というのは何だか嬉しい話ではないだろうか。そういえば作家というのはデビューが遅い人がたくさんいるしなぁ、とか思ってみたり。
さてそんなわけで、脳に優しい生活(Brain Eco Life、略してBELとでも名付けましょうかね 笑)を出来ればいいと思うのだけど、僕はやっぱりダメだなぁ、とか思ってしまう。
体を動かすのは嫌いだし、好奇心はないし、新しいものも好きではない。基本的に家とバイト先を往復するだけの生活で、歩きながら本を読んでいたりもするので外の景色なんかもろくに見ていない。休みの日は一日中部屋にいるし、部屋にいてやることはいつも決まっているし、これじゃあ脳としては刺激が少なくて窮屈なんだろうな、とか思ってしまう。
まだ幻覚も幻聴もないので脳は限界じゃないってことなんだろうけど、やっぱ脳を活かすためにはどんどん刺激を送り込んでやらないといけないのだろう。そうなると、いろんな人と関わりを持って、恋愛なんかにも精を出して、バリバリ外へ出て新しいものを探し、なんていうことをしなくてはいけないんだろうけど…、いやいややっぱ無理だろうなぁ。
でもこうやって「無理」だって思うことも脳にはよくないんだよね。こうやって言葉で自分を規定してしまうと、脳というのは律儀にそれを認識するんですね。で脳というのは厄介なことに、一度認識したことは忘れることが出来なかったりするわけですね。だから、「自分はダメだ」とか「自分には無理だ」とか思ったりすると、思うだけでそれが悪い方向に影響してしまうわけで。
そういえば僕にも経験があるけど、中学生くらいの頃だったかな、僕は「世界中の人間に嫌われている」と思って生きることに決めたわけです。ざっと理由を説明すると、そう考えた方が行きやすいだろうな、って思ったからです。僕は昔から人見知りで引っ込み事案で、いつも周りからの評価にビクビクしていたような人間なわけで、だからいつも「俺って嫌われてないかな」とか、「やべぇ、今ので絶対嫌われたよ」とか、まあそんなことを思っていたわけですね。でも初めっから「世界中の人間に嫌われているんだ」と思えば、そういう一つ一つのことについてはどうでもよく思えてくると思ったんですね。まあ元から嫌われているんだからまあ気にすることないか、みたいな。
まあそんな風にして自分なりに生きやすくするために脳に暗示を掛けたんですけど、その暗示は今でも有効ですね。ほんと、ほとんど呪いみたいなものだけど、未だに僕にまとわりついていますね。まあ厄介なものでもないので僕としては重宝しているつもりですけど、脳というのは案外融通が利かないものなんだなとか思ったりします。
脳というのはホントまだまだ全然解明されていない分野で、というか僕が生きているうちに目覚しい進歩を遂げるかどうかも怪しいような分野ですけど、でも本当に魅力的ですね。自分が物事を考えたり認識したりするその過程を探るというのは刺激的です。目覚しい進歩があるといいなと思います。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、コピーライターとして有名な糸井重里氏と、脳科学の世界ではかなり有名(らしい)、東京大学薬学部助手(助手なのに有名というのもすごいと思うけど)である池谷裕二氏との対談という形態で全編貫いた作品です。
対談の内容は、池谷氏の専門分野である脳、もっと言えば海馬を中心とした話題なのだけど、学術的な話ではなく、脳の性質から考えた人間の生き方、みたいな話に方向付けされています。
池谷氏は、自分の専門分野について平易な言葉で語ります。最新のデータなんかを交えながら、脳というもの、あるいは海馬というものについて、どこまで分かっていてどこまで分かっていないのか、こんなことも分かっていたりするんですよ、ということを話す。
それを受けて糸井氏は、なるほどそれはイメージとしてはこんな感じがしますねとか、それは人間の社会に置き換えて考えるとこんな風に言えたりしますね、という風に返す。それを受けて池谷氏も自分の考えを語り、次第に話は次のテーマに移っていく、という感じで進んでいきます。
池谷氏の「進化しすぎた脳」という本を最近読んで、その読みやすさに驚いたものですが、本作ではさらに分かりやすい感じになっています。専門的な言葉や数字なんかを完全に排除しているためで、それは対談という形態のお陰だろうな、という風に思ったりします。脳についてまったく詳しくない糸井氏という相手と面と向かって対談するわけで、分かり難い部分があると話が展開していかない。そういう意味で本作は、専門的なことについては詳しくないかもしれないけど、今の脳という研究についての大雑把なところが非常に平易で分かりやすい形で書かれていると思います。
また糸井氏の受け答えがなかなか秀逸な感じで、さすがは言葉を操る仕事をしているだけのことはあるな、と思いました。とにかく、話を広げるその矛先みたいなものが巧くて、この話題からそんな話にまで行きますか、というようなこともあったりで、すごい人だな、と思ったりしました。
本作は脳の話だったりしますが、脳の性質を知ったうえでどう行動しますかというような話にもなって、かなり実用的だったりします。脳は基本的には疲れないから疲れているのだとしたら目だとか、記憶力を伸ばせる食べ物があるとか、睡眠というのはとにかく脳にとっては大事であるとか、ちょっと寒いとかちょっとお腹が空いている方が脳が活発であるとか、普通の学術的な本であればまず載らないような情報もたくさん載っていて、そういう意味では、読んでいて面白いだけの本ではないのでかなりいいと思います。まあ読んでもなかなか取り入れることは難しいとは思いますけど。
というわけで大体作品の内容はこんな感じですが、本作を読んでとにかく僕がたまげたことを最後に書いて終わりにしようと思います。
それは、池谷裕二氏は九九の計算が出来ない、ということです。
池谷裕二氏は、東大に入る時も東大の大学院に入る時も主席だったようなのだけど、とにかくモノを覚えられない子供だったようです。子供の頃の漢字テストで100点中2点だったこともある、と明かしています。
しかし、九九も出来ないような人が理系の大学、しかもその最高峰である東京大学に入学できるとはにわかには信じられません。
しかし池谷氏は、こういうやり方で乗り切ったのだそうです。
それは、公式を覚えるのではなく常に導き出す、ということ。
僕も理系だった人間なので、いろんな数学の公式を覚えた記憶がありますが、池谷氏はそれを覚えるのではなく、問題を解く度に頭の中で導き出していた、ということです。と簡単に言っていますが、尋常ではないですよ。僕なんか、二次方程式の解の公式を完全に忘れているんですけど、これを導き出そうと思ったらかなり時間が掛かると思います。もちろん、覚えた方が遥かに楽ですが、覚えられなかった池谷氏は毎回導き出すというやり方を選択せざるおえなかったようです。
だから今でも九九は出来ないそうです。じゃあどうしているかと言えば、例えば9×8を計算する時は、一旦9×10=90として、そこから9×2=18を引いて72という答えを出すのだそうです。池谷氏は、九九をすべて覚える代わりに、10倍する・2倍する・半分にするという三つのルールだけで全部出来るということを発見し、そのやり方だけを覚えたのだそうです。なるほど、そう言われると池谷氏はすごい人間なんだなということがよくわかるなぁ、という話でした。
そんなわけで、僕はまあこういう理系的な本は好きなので結構読むのですが、この作品は理系的な本に分類していいのか悩むくらい読みやすい本です。理系の知識が0でも分かると思います。なんせ著者の一人は九九が出来ないんですから、臆することはありません!(もちろんジョークで言ってるんですよ 笑)
脳の話はちょっと興味があるけどどの本を読んでも難しそうだよなと思っている方、ちょっとまず本作を読んでみたらいいと思います。それから、同じく池谷氏が書いた「進化しすぎた脳」を読んでみましょう。どちらも無茶苦茶読みやすいのでオススメです。
池谷裕二+糸井重里「海馬」

海馬文庫












