変わらないものは世の中にはないと思う。それは仕方のないことだろうとも思う。僕らは変化の中に生きていて、というか変化そのものを時間として捉えて、それを基準にして生きているようなところがある。時間と変化とは切っても切り離せないもので、不可分なのだ。であれば、それは享受するしかないだろう。
自分が変わることはいい。それは、自分の意思にせよそうでないにせよ、結局のところ自分が望んだ変化であるはずなのだ。あるいは試練である場合もあるかもしれないが、何にせよそれは受け入れなくてはいけない。
また、他人が変わることもまたいい。それは僕とは基本的に関係のないことであるし、誰か他人が何か変わろうとも、それが僕と関係のないことであるならばそれはどうでもいい話である。
しかし、自分と他人の関係が変わるというのは、すんなりと享受することの出来ない変化だと思う。
前にある小説にこんなことが書かれていた。
家族が引越しばかりするが故に転校を何度もしなくてはいけない子供の話だ。その子は、転校する度に周囲の人間から違う印象を与えられるのだという。ある時はもの静かな子供、ある時は活発な子供、ある時は無愛想な子、というように。
しかしその子は、学校毎に自分のスタイルを変えたりはしていないのです。自分自身のあり方に変化はないのに、周囲の人間がそれを「誤読」して関係性を決める。
こういうことは、結構よくありますよね?
自分自身の変化に応じて、周囲の人間の評価が変わることは、これは当然だと思います。しかし例えば、表面的にも本質的にも何も変化のない人間を、周囲の人間が変わったというだけで勝手に変化を与えられるのは、たまったものではないな、と思うのです。
つい最近も何かの感想で話題に出したけど、夏川純というアイドルの年齢詐称の話もまた挙げましょう。この問題に対する僕の態度は、別にそんなんどっちでもええがな、というものです。
さて夏川純自身には、年齢をサバ読んでいた時とそれを告白した後でどんな変化があったでしょうか?外見的に変わったところがあるわけではないですよね。では本質的に何か変わったか?そういうわけでもありません。夏川純という人間には、あの騒動の前後で変化したことなど一つもないのです。
しかし、周囲の人間はそれで騒ぎます。あんまりテレビを見ないのでどんな展開になっているかわかりませんが、しかし多少バッシング的な非難するような論調があったりするのでしょう。
こういう変化というのが、僕はなんか許せません。変化したのはそちらの側なのに、さも自分の側が変化したかのように錯覚させられるようなものだけは、どうにも納得がいきません。
永遠に変わらないものはない、と冒頭で書きました。しかし、信じることで永遠に近づけることは出来るのかもしれません。他人がどう言おうとも、常に自分を信じる。あるいは誰かを信じる。そうすることで、その信じる道が限りなく永遠に近づいて行くのかもしれません。
信じられるものを僅かでも所有しているのならば、それは永遠への可能性の一つを持っているということなのかもしれません。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、中編と短編が一つずつという構成になっています。
「ロリヰタ」
グラビアの撮影現場で偶然出会った君。君は、ロリータなお洋服を着て撮影に臨むところでしたね。でも、着させられたお洋服がどうも違うと思ってスタイリストさんに立ち向かっていましたね。
その場で僕は正統なロリータのスタイルを施しました。
それからですね、僕らがお互いに連絡を取り合うようになるのは。
僕はを持っていませんでした。買ったけど説明書を読みこなさなければメールは使えませんでした。それでも僕は頑張って、君とメールが出来るまでになりました。
いつしか僕は、君に恋をしていることに気付きました。人を愛する資格を失った僕は、君と出会うことが出来ました。君のことが僕は好きです。
それなのに…。
「ハネ」
貴方と一緒の夢を叶えるために、私は表参道の路上でハネを売ります。貴方に作り方を教えてもらったハネです。ここで露天を開くようになったもう長くなりますが、しかしまだ一度も売れたことがありません。
貴方に会いたい。もう一度会いたい。そう心から強く願っているのに。貴方からもらったあのハネを、今でもちゃんとつけています。両親からはこのお洋服も含めて冷たい目で見られるのだけど、気にしません。
徐々に状況が変わって、私のハネが売れるようになってきました。雑誌の取材が来るようにもなり、ある意味でカリスマ的な存在になって行きました。
しかし状況はいつでもわたしに断りもなく、大きく変わって行くのです…。
というような感じです。
どちらも冒頭で書いたように、永遠に変わらないものなどない、というようなことをテーマにした作品だ、と僕は思いました。周囲の都合で変化を強要される人々が、それに屈しずに、信じられる何かを強く信じるというような話です。
どちらの話も結構いい話でした。嶽本野ばらの作品でひさびさにいい作品だと思いました。
どちらも、暴力的なまでに突然何かが奪われてしまいます。当人としては何の変化もしてないし、何も大それたことをしたいわけでもないのに、周囲の人間が何か勘違いをして、その勘違いにいつの間にか巻き込まれてしまいます。
大衆というものの恐さを描いている作品でもあると思いました。名前のない大衆という存在が、人間一人を抹殺することがどれほど簡単かということを思い知らされました。
また、ロリータのファッションをしているからというだけの理由で、彼らをある種の偏見に落とし込む嫌な登場人物がたくさん出てきます。
僕だって褒められたものではなく、ロリータチックなファッションをしている人を見ると、「よくやるなぁ」とか「すごいなぁ」とか思うのだけど、でも悪意や暴力的な何かを感じることはありません。好きでやっていて誰にも迷惑を掛けていないのですから、そんな感情はおかしいだろうと思います。
理解できないものを暴力的に排除するシステムでも人間には備わっているのか、あくまで人間は、理解できるかどうか、ということにこだわります。理解できないものは不気味なものとして、攻撃してもいいものという認識が与えられるのかもしれません。
僕らは誰かに理解されるために生きているわけではないし、理解されることがすべてなわけでもありません。社会と折り合っていかなければいけないのは当然ですが、しかしその範囲内であれば誤解を生む行動であっても非難する理由は特にないはずです。
しかし、服装が変だというだけの理由で、人は攻撃的になります。
「ロリヰタ」の方には、男のくせにロリータの格好をしている主人公を、「ロリコン」だの「変態」だのといいます。また「ハネ」の方では、女性警官がロリータファッションをした主人公を理解できない異星人みたいな扱いをします。
「ハネ」の主人公は、こんな風に言います。
『多分、私に非行歴があったり、ひきこもりや家庭内暴力を起こしていたり、精神科に通院していたりすれば、羽を作って売ったり、ロリータの格好で大きな羽をつけていたり、金メダルのことを知らなくても、大目に見てくれた筈です。人と違う思考や行動をしていても、不良だからとか、精神的に不安定だからという解り易い理由があれば、安心できるのです。全く異質な生物であるから仕方あるまいと納得するのです。グループ分けをして、その中に入れることが可能ならば、そのグループのことが理解出来なくても、認知するのです。私はどのグループにも入らない。不良でもなければ、ロリータでもないし、ましてやハネ族と呼ばれるカテゴリーにも属さない。私は単に、私であるだけ。それが目の前の婦人警官を苛立たせるのです。』
世の中というのは窮屈なものだな、と本当に思います。
本作は、結構いい作品だと思います。僕が持ってるのはハードカバーですが、最近文庫になりました。かなり薄いし読みやすいと思います。嶽本野ばらに手を出してみようかという人にもオススメですよ。読んでみてください。
嶽本野ばら「ロリヰタ」
ロリヰタ文庫
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