すっごいドタバタしていました。あっち行ったりこっち行ったり。高速で走ってみたり、空飛んでみたり。Java EdgeのこととかRBCのこととか、書きたい事いっぱいなんだけど、今日は少しリハビリ気味に軽く。
今私の肩書きに「コミュニティ・マーケティング」なんてついてて。オープンソース(本当はあらゆる全ての製品/技術だと思う)にはコミュニティという仲間が大切で、可能性の種を着実に育てていかなければ、可能性は可能性のまま終わってしまう。だからその可能性を市場で価値あるものとして育つよう支援したり、作ったりするという、ちょっと曖昧な役割(w。でも、今はどんな企業もコミュニティの存在はもう無視することはできない。そこを今の会社は私に役割として与えて下さって、私はそこに日々悪戦苦闘してる。
けどそのコミュニティ。あまりに乱用され、誤用、というか私の想いと全く違うところで使われている気がして。ちょっと調べたの、あらゆる方面から。
社会学的に見ると、桃源郷的な意味合いがあって、元来人間はずっと求めている甘美な響きをもつもの。その中は平和で安心で、皆仲間で、争いやいがみ合いもなく、あり得ない存在。儚くて脆いもの。そして、アイデンティティを持った瞬間消えるもの。つまり、安心の代償に自由を奪うもの。そんな意味合いみたい(諸説あるみたいだけど)。
また、英語圏の人、特にアメリカの西海岸沿いの人達は、すごく頻繁に「コミュニティ」って言うことにも気づいて。その意味はただ単にそこに住む人。地域住民という感じ。同じ土地・環境を共有する人々。そんなイメージかな。何か関心軸があって集まっているというよりも、そこにある(いる)もの。
じゃ、私はどんなイメージでコミュニティに関わり、運営し、求めているのかなって。
幕末でいう『私塾(志塾)』のイメージなのかなと、最近つくづく思う。例えば今会社の付近に日本橋小学校があるんだけど、西郷隆盛が明治維新後住んでた自宅があって。その場所でもやっぱり門下生17名ほど集めて色んな学問を教えてたと記されてる。そこは今でも学びの場所で、そこから巣立った学生が社会に出て、各方面で活躍する。
そう、何かを志し、学び、そして巣立つ。
こんなループを多くの人と体験できる場な気がする。そんなところを築きたい。そうやって活動を続けて、言葉の定義や肩書きや、そんなものをもう一度捉えてみたいな。


