興味と行動力って相関関係があっていいものだと思っていましたが、どうも世の中の人びと的には必ずしもそうではないようです。
口では興味があるといいつつ、行動がともなわない人が意外と多い。よくマーケティングリサーチでは購買意欲と実際の購買行動には解離がありますが、それとおなじように「すごくそれに興味があります」という人が実際に、じゃあ、それについて調べたりするかというと必ずしもそうではないらしい。
ものを買うか買わないかという話なら意向と行動に解離があってもいいと思いますが、知識欲と行動の間の解離ってどうなんだろう?
興味があるといっても、それはtwitterのタイムラインを眺めるような(あるいはテレビ番組を見るような)受動的な興味であって、自分から書籍に当たってみたり、実際に興味の対象物/人に触れて調べたりという行動にはつながらないらしい。
そして、とにかく自分が行動を起こさないことの言い訳のバリエーションはきわめて豊富で達者。それで自分自身を騙しちゃうのだから、ほとほと困ったもんです。
興味と行動がどれだけ相関してるかも人それぞれ。
その際に時間に遅刻する人、歩みの遅い人のせいで、全体が遅れてしまうのは避けなくてはならない。駆け込み乗車がどれだけ電車のダイヤを乱してしまいかということには敏感でいたい。
時間がない? ならば寝なければいい。食事の時間を割けばいい。それが無理なら、そもそも興味の範囲とそれをカバーできる行動力のバランスがあっていないのだから興味の幅を狭めればいいのです。
つまり選択と集中。
行動力という経営資源が他と比べて劣るならニッチな範囲を見つけて、そこに資源を集中すべきではないかと思います。
そういう経営戦略をとらずに何から何まで手をつけようとするから、結局、何ひとつ、まともに実にならないのでは?
自身の力を客観的に見つめて、捨てるものは捨てる潔さが必要かなと思います。
口では興味があるといいつつ、行動がともなわない人が意外と多い。よくマーケティングリサーチでは購買意欲と実際の購買行動には解離がありますが、それとおなじように「すごくそれに興味があります」という人が実際に、じゃあ、それについて調べたりするかというと必ずしもそうではないらしい。
ものを買うか買わないかという話なら意向と行動に解離があってもいいと思いますが、知識欲と行動の間の解離ってどうなんだろう?
タイムラインを眺めるだけでは
なんとなく感じるのは他人から提供されるのに慣れすぎてしまって、自分が興味があることを自分の力で知的に切り開いていく方法がわからなくなってるフシがあること。興味があるといっても、それはtwitterのタイムラインを眺めるような(あるいはテレビ番組を見るような)受動的な興味であって、自分から書籍に当たってみたり、実際に興味の対象物/人に触れて調べたりという行動にはつながらないらしい。
そして、とにかく自分が行動を起こさないことの言い訳のバリエーションはきわめて豊富で達者。それで自分自身を騙しちゃうのだから、ほとほと困ったもんです。
ボーダレスな時代で
応仁の乱以降、世の中は民衆化、ボーダレスの方向にシフトしつづけているわけですが、ボーダレスな時代に必要なのはボーダーのないグラデーション化した大きな格差のなかで如何に遅い人に足並みを乱されることなく歩みを進められるかという能力なんだろうなという気がします。興味と行動がどれだけ相関してるかも人それぞれ。
その際に時間に遅刻する人、歩みの遅い人のせいで、全体が遅れてしまうのは避けなくてはならない。駆け込み乗車がどれだけ電車のダイヤを乱してしまいかということには敏感でいたい。
選択と集中
自分を中心に、自分を基準に、なんでも判断するのではなく、ボーダレスな中にもグラデーション化した大きな格差があることは常に意識し、できれば自分より上のスピードの人を意識したいものです。もし自分がそうした人より遅いと感じたら努力しないといけない。時間がない? ならば寝なければいい。食事の時間を割けばいい。それが無理なら、そもそも興味の範囲とそれをカバーできる行動力のバランスがあっていないのだから興味の幅を狭めればいいのです。
つまり選択と集中。
行動力という経営資源が他と比べて劣るならニッチな範囲を見つけて、そこに資源を集中すべきではないかと思います。
そういう経営戦略をとらずに何から何まで手をつけようとするから、結局、何ひとつ、まともに実にならないのでは?
自身の力を客観的に見つめて、捨てるものは捨てる潔さが必要かなと思います。


