人が何かを行なう際に用いている「方法」に目を向けること。僕は、そのことがUXやインタラクションなどのデザインに関わる人にとってはとても重要なことだと考えています。というのも、簡単に言ってしまえば、個人やコミュニティが普段用いている「方法」を、それ以外の様々な人たちにも利用な「ツール」に翻訳し置き換えることがUXやインタラクションのデザインのミッションだと思うので。一部の人が使っている「方法」をより多くの人が気楽に使える「ツール」に置き換えることが1つのイノベーションの方法だろ..
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『パイドロス』や『第七書簡』のなかで、プラトンは、書くことに深刻な留保を表明していた。書くことは、知識を処理する手段としては機械的で非人間的であり、〔書かれたものは〕尋ねられても即座にこたえられず、記憶力をそこなわせるものだ、というように。しかしそれにもかかわらず、われわれがいまや知っているように、プラトンがそれを求めて戦った哲学的思考とは、この書くことに全面的に依存していたのである。ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』
厳密な意味での研究、つまり、順をおう分析の展開という意味での研究が、書くことの内面化とともに可能になるとき、文字を身につけた者がしばしば最初に研究するものの一つは、言語それ自身とその用い方である。ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』
「I see that.(わかった)」とは、まさに言い得て妙の英語である。「私が見る」ということと同時に「私はわかる」を意味するのである。「見ない限りは理解しない」のである。


政府や大企業をはじめとする既存の権威は、情報の占有・統制を通じて、その権威を構築・維持してきた。だが、ウィキリークスやフェイスブックが情報の透明化を究極まで進めることによって、既存の権威は崩壊し、新しい権威体制が再構築されていく。その可能性が示されたのである。ジョン・キム『逆パノプティコン社会の到来』
ソーシャルテクノロジーの導入にあたっては、企業はもはやコントロールできるのは自分ではないということをまず認めなければならない。それができるのは、顧客であり、社員であり、取引先なのである。シャーリーン・リー『フェイスブック時代のオープン企業戦略』
コントロールを手放すよう私が勧めるのは、そうすれば結果的にはいくらかコントロールを取り戻すことができるからだ。そんなバカな、と思われるかもしれない。だが相手の言葉に耳を傾け、そのパワーを尊重するのは、敵対的な行動に対抗する立ち位置につくことなのである。事態の成り行きに対して何かしらの影響力を持つにはこれしかない、と断言できる。シャーリーン・リー『フェイスブック時代のオープン企業戦略』
日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷土も百姓も区別はなかったようである。領主-藩士-百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。宮本常一『忘れられた日本人』
みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。
話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話しに花がさくというのはこういうことなのであろう。宮本常一『忘れられた日本人』


近世とは…、平賀源内が日本中から動植物を集めて『物類品隲』を編纂したことからもわかるように、実際に自分の足で歩き、あるいは事実を集め、あるいは実物を手にとって、同定したり、リストに付け加えたり、新しい利用法を考えたりする時代だったのである。それまでのように書物から書物へ情報が伝えられるだけでなく、実在の動植物を手にとって自分の目で確かめ、分類し、その形態を図譜に写す。現実に対するこのような態度が、すでにはじまっていたのである。
ここで注意しておかなければならないのはいま『平家物語』として知られていること不朽の名作が、もともと口頭で語られた「口承文学」であって、けっして文字による「読者」を想定した「文字文学」ではなかった、ということだ。(中略)元来、この「物語」は口話によって聴衆のまえで語られるものなのであった。われわれ文字本位の社会に生きている人間には想像することがむずかしくなっているが、ついこのあいだまでの日本社会では、こうした「語り物」を耳できいて知識を獲得し、また、それをたのしみとしていたひとびとが人口の大部分だったのである。
車を一も二もなく地位の象徴として受け入れ、その発展した車種を高い地位の人間の使用のみに制限しようとするのは、車および機械の時代のあかしではなく、この画一化と規格化の時代に終止符を打って、地位と役割という規範をふたたびつくりつつある電気の力の現われというべきである。マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

さいしょに建設されたのが天保6(1835)年だというから、ずいぶん古い。こんな歴史的建造物があるのか、とわたしは感心して見物した記憶がある。(中略)毎年4月に名だたる名優がそろってこの「四国こんぴら歌舞伎」公園をおこなうことが年中行事となった。かんがえてみると、歌舞伎が大都市の劇場で連日講演される、などというのはごくさいきんのことで、むかしはこうして巡業の旅にでかけていたのがふつうだったのであろう。

その「のど自慢」は「歌合」という行事にまで昂揚した。もともと「歌合」というのはその起源は古くは「歌垣」までたどることができるだろうし、また吉凶を占う「年占」の洗練されたものとかんがえてもよい。類似のものを左右にわけて比較対照しながら均衡をとってゆく、といういわばヤジロベエ的なバランス感覚がそこにはある。各種の「職人歌合」などもその実例だ。
「イチコ」の原型は以上にのべたような民俗資料からあきらかなように無名の「カミ」を一時的に「神」として顕現化させたものであったから、それは稲荷になったり権現になったりかなり任意であった。その柔軟性にくわえて、交易活動が世俗の経済的な利益とつながることから「市神」はさまざまなカミによって代用され、また勧請されるようになった。とりわけ近世にはいってから商業活動が活発になり、商売繁盛のカミを代表して恵比寿さまが「神」として尊崇だれるようになってからはエビス信仰と市神が融合することもめずらしくなかった。
江戸の出版業は田沼時代における、江戸をめぐる商業資本の発展、江戸住民の文化創造力の向上を背景として、画期的な発展を示した。画期的なという意味は、封建支配者の文化政策を分担したり、売れればよいというだけで自らの創造的見識をもりこむことの薄かった出版界で、出版が文化運動の一環としての意味をもつことを自覚しつつ経営を築く出版者があらわれてきたことである。須原屋市兵衛や蔦屋重三郎にそれが典型的にあらわれている。(中略)単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげるという主体的経営は、まさに、近代出版の先駆と考えてよいであろう。
元禄期の京都書林十哲のほとんどは、寛永年間にでそろっている。かれらが、天皇・将軍や特権的知識人たちの活字印刷をうけつぎ、それを製版印刷にかえたのである。そして、本格的な出版文化をつくりあげたのである。
かれらが出版文化を成立させ、強力に推進し、新しい社会的なコミュニケーションを活性化させていった様相には、近世町人とは異質のものを感じさせる。幕藩体制の中で、主体的活動を抑圧され、身分制のわくにはめこまれて、町人とよばれた存在からはでてこないような活動力がうかがわれるのである。
これはやはり、応仁の乱のころから、京都市内の町がいくつか集まって親町を形成し、親町ごとに集団性・自主性をもち、市内の社会的秩序をつくっていった町衆、豪商土倉・酒屋を指導者としてさらに公家衆を吸収した町衆、風流踊や小歌などを発展させて新しい自由な民衆文化を育てていった町衆がもっていたエネルギーを継承して、はじめてでてくる活動力ではないかと思うのである。
西鶴が『好色一代男』を世に出したのは、天和2年(1682)であった。開板者は大坂の荒砥屋孫兵衛という正式の書物屋かどうかもわからない無名の者である。(中略)この『好色一代男』が読書界・出版界に与えた衝撃は、出版史上、たいへん大きなものがあった。新興とはいいながら、本格的出版をはじめつつあった、池田屋三郎右衛門や森田庄太郎らの大坂の本屋たつは、たちまち西鶴著述の稿本にとびついた。
読者あっての浮世草子、観客あっての近松劇、市民あっての越後屋商法、そして地方にまで拡大していた俳諧好きや読者たち、これらは、元禄の社会経済の構造が生みだした、同質の文化的・社会的現象である。
宝暦10年(1760)以来52年間にわたる市兵衛の出版活動で最も注目すべき点は、田沼時代江戸文化の結晶を社会的交通に送りこんできたことであるが、私自身が最も心をひかれるのは、農村荒廃のすさまじい状況に心痛する地方知識人の著作を、採算を度外視して刊行したことである。源内・玄白・中良ら、地平のかなたに世界を新しく発見しつつあった都市の先進的学者の著作と、農村荒廃に触発されて書いた書物を同一の交通局面に送り出しつつあったことである。
こうした地方民にいたるまでの国民の情報関心の増大が、近世日本のコミュニケーションの発展をささえていたともいえよう。だからこそ、幕府は、読売の出版の禁止に狂奔したのであった。こうした情報関心のある所、読売が解禁にでもなれば、あっという間に、近代新聞への道を開いてしまうであろう。天保期の先進的思考を身につけつつあった渡辺崋山は、西欧文明の発展の根本原因を、科学的学問の発展におき、学問の発展は、まず情報の開放にある、新聞の発達にあると見ていた。
庶民の情報関心の増大、寺子屋の増加、教科書の商品価値の増大、地方書商の発達、国民的規模での書籍市場の形成、幕末における社会的コミュニケーションの新動向が、関連し合い補い合って明治維新の、ひいては近代文化発展のコミュニケーション史的前提となるであろう。