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2011年12月26日

発明の方法を受け継いで…

人が何かを行なう際に用いている「方法」に目を向けること。僕は、そのことがUXやインタラクションなどのデザインに関わる人にとってはとても重要なことだと考えています。というのも、簡単に言ってしまえば、個人やコミュニティが普段用いている「方法」を、それ以外の様々な人たちにも利用な「ツール」に翻訳し置き換えることがUXやインタラクションのデザインのミッションだと思うので。一部の人が使っている「方法」をより多くの人が気楽に使える「ツール」に置き換えることが1つのイノベーションの方法だろ..

2011年08月02日

事件でありできごとである話しことばでは人は客観的で分析的な思考をするのがむずかしく、メタ認知を働かせて研究やデザインをすることができない

最近、文字をもたない話しことば文化の人びとと、書き文字文化、さらには活字文化を経た僕らの思考の違いについて、このブログ上やFacebookページでいろいろと書いていますが、いろんな本を読んだり、それを元にあらためて自分で考えてみたりすればするほど、自分たちと話しことば文化の人びとの違いに気付かされます。特に思考や世界認識の違いに関しては気付けば気付くほど、その大きなギャップに驚きます。
文字というモノに固定される言葉と、発せられたと同時に儚く消える声によることばでは、まるで思考の方法や世界の見方が異なってくる。今日もまた、そんな話をいくつか書き散らしてみようと思います。



まず、最初に現代に生きる僕らにとっては、自然なものと考えられる「研究」という思考活動について。

『声の文化と文字の文化』のなかで著者ウォルター・J・オングは、話しことば社会に生きる人びとは研究をすることがないと言っています。
いや、正確には「することがない」のではなく、「できない」のだといいます。
というのも、研究という人間の活動も、そもそも書くという行為から生じる分析力によってはじめて可能になるからです。まさに分析対象のデータをポストイットなどに書き出して、さまざまな組み合わせを検討しながら思考し、思考そのものを分析、総合の対象にするKJ法ように…。

プラトンは書くこと​に深刻な留保を表明していたが、彼自身もそれを求めて戦った哲学的思考とは書くことに​全面的に依存していた

オングは「ことばには、軌跡すらない。ことばは、事件でありできごとなのである」と言っています。
もちろん、声としてのことばに関してです。声としてのことばは先にも書いたように、現れた時にはすでに消え去るような儚い存在です。文字のように固定された状態で存在しないので、ことばを扱うためには常に記憶に頼ることが必要になります。以前紹介した「記憶術/フランセス・A・イエイツ」でも書かれていたとおり、古代から中世にかけてのヨーロッパ思想の展開において、記憶術が大きな役割を果たしたということもそうした観点から理解できます。

しかし、先に研究が文字が生まれてはじめて可能になった人間の活動だと指摘したのと同じく、オングは記憶術に大きな役割を担わせたギリシアの哲学そのものが書き言葉としてのアルファベットがある程度浸透してきてから生まれてきたものであると指摘しています。

『パイドロス』や『第七書簡』のなかで、プラトンは、書くこと​に深刻な留保を表明していた。書くことは、知識を処理する手段と​しては機械的で非人間的であり、〔書かれたものは〕尋ねられても​即座にこたえられず、記憶力をそこなわせるものだ、というように​。しかしそれにもかかわらず、われわれがいまや知っているように​、プラトンがそれを求めて戦った哲学的思考とは、この書くことに​全面的に依存していたのである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

プラトンはここで記憶力をそこなう点を書くことのデメリットであるかのように指摘していますが、実は記憶だけに頼っていたのでは哲学的思考は可能ではないことを見落としています。その点では文字の罠にはまっている度合いは僕らとそれほど変わらないのです。

研究にせよ、哲学にせよ、何かまとまった物事を分析的に考えるためには、自分の考えていること自体を回帰的なかたちで思考の対象にすることができる必要があります。メタ的視点で自分の思考そのものを分析対象にするのです。
そのためには書くことで自分の思考を文字という視覚で捉えられる対象にすることが必要になります。まさにポストイットに書き出したデータを用いてKJ法を行なうのとおなじです。もちろん、自分の思考だけでなく他者の思考を文字を介して入手でき、自分の思考を同じように文字を介して他者に伝達できることも必要です。そういう条件が揃ってはじめて、哲学や研究といった複雑な思考は可能になるのです。

文字を身につけた者がしばしば最初に研究するものの一つは、言語それ自身とその用い方である

研究で必要な分析的な思考作業には、自分自身の思考も含めて、分析の素材となる思考の断片をある程度の自在性をもって自分の目の前に配置したり並べ替えたりができる必要がある。そんな風に思考の素材を視覚的に編集することができるようになってはじめて分析的思考は可能になるのです。

その意味で次のオングの指摘は非常に示唆的です。

厳密な意味での研究、つまり、順をおう分析の展開という意味での研究が、書くことの内面化とともに可能になるとき、文字を身につけた者がしばしば最初に研究するものの一つは、言語それ自身とその用い方である。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

レトリックという言葉の語源であるレートリケーは、基本的に公衆の前で話すこと、演説あるいはその術を意味するものだったといいます。つまり、話しことばに関する術がレトリックであって、文字で書かれた表現をあらわす語では本来はなかったのです。
ただ、話しことばを用いて行なう演説術といえども、それを研究するためには演説を書き下ろしたテクストが必要です。話されている最中にしか存在しない演説のことばでは研究に用いることはできません。アリストテレスの『弁論術』を含め、反省的かつ組織的な技術として研究された口頭での話法の技術でさえ、書くことによってはじめて可能になったのです。

「I see that.(わかった)」とは、まさに言い得て妙の英語である。​

とはいえ、この客観的な思考が、僕らの思考と同じような様相を見せるようになったのは、単に書き文字を人間に使うようになっただけではなく、視覚的な文字を個々人が私有して自由に扱える環境を実現した印刷技術の普及以降のことです。まぁ、この点に関してはこれまでも何度か書いてきましたので、今日は省きます。

今日、取り上げたいのは、メタ認知という客観的な自己認識の得意/不得意さと、思考を文字にするという視覚化の関係性についてです。その話に移る前にまずは高山宏さんの『近代文化史入門 超英文学講義』からこんな一文を紹介。

「I see that.(わかった)」とは、まさに言い得て妙の英語である。​「私が見る」ということと同時に「私はわかる」を意味するのであ​る。「見ない限りは理解しない」のである。

高山宏さんの『近代文化史入門 超英文学講義』は見ることそのも​のが知だと認識される社会が18世紀の100年間成立していく様​子を描いた興味深い一冊なのでぜひ読んでいただきたいのですが、まさにこうした「見る」ことと「わかる」ことが深い結びつきをもつようになったのも、見ることばである文字が印刷技術の浸透によって誰でも容易に私有できる社会環境が生まれたからだと言えます。
蒙(くら)きを啓(ひら)く啓蒙主義が市民レベルに浸透したのも、客観的で分析的な思考に必要な文字を市民レベルでも扱えるようになった印刷文化の普及が大きく影響しているのです。

メタ認知という客観的な自己認識と思考を文字にするという視覚化の関係性

さて、ここで話は現代に飛びます。
僕らがいまや日常的に利用しているユーザーインターフェイスは、利用者と利用される対象である道具のあいだを取り持つコミュニケーションのツールだということができます。それゆえ、ユーザーインターフェイスをデザイン=設計する際には、利用者と利用される道具のあいだのコミュニケーションが円滑に行なわれるように十分配慮する必要があります。
その双方向のコミュニケーションのうち、利用者の側をデザイン=設計するということはできないわけですから、円滑なコミュニケーションを可能にしようとするなら、道具の側の表現をみた利用者がどう捉えるか、どう反応するかということを想像した上でデザイン=設計することが求められるわけです。

ところが、自分以外の他者を想像しているかどうか以前に、それができるようになるためには別の前提条件があるのです。
それは何かというと、自分の考えを客観的な視点で捉えることができるかどうかです。つまり、メタ認知。
自分の考えが客観的に見えていないのに、他者との共通点や相違点を分析的に把握できるはずがありません。他者を理解するということは、比較対象としての自分のことが客観的に見えている必要があるということなのです。

メタ認知ができない人の共通点というのは、おそらく文字を扱う思考が苦手なことだと考えます。
本を読んだり自分の考えていることを文章にしたりすることを普段からやっていないと、メタ認知力が養われず、自分の考えていることを客観的に捉えることができません。そうなると、客観視した自分と他者を比較するということができず、主観的な見方で他人を評価してしまったり、あるいはまったく他人のことを鑑みないかということになったりします。
そういう視点では、UIデザインに限らず、自分とは異なる利用者にとってもユーザブルなものをデザインすることはできません。もちろん、デザインだけではなく、人間同士のコミュニケーションにも支障があるはずです。

自分を客観視するためにも、自身のことば生活を見直してみてはどうでしょう?

実際、これまで何度かデザイン思考ワークショップの講師をやらせていただいて、参加者の方にKJ法をやっていただいているのですが、はじめてKJ法をやる人同士で比べた場合でも、書かれた言葉を組み合わせながら思考を組みたてるKJ法の作業が得意な人はその後に行なうペルソナ化やシナリオデザイン〜プロトタイピングという流れもスムーズに行なえ、かつきちんと利用者の視点に立ったデザインができます。
逆に、KJ法がちんぷんかんぷんな状態の方は、その後もなかなか自分の思い込みのユーザー像のままで進んでしまいます。話していても、自分の思考をちゃんと伝えられる人と、そうではなく会話でのキャッチボールがそもそも成り立たなくなてしまうくらい、自分の考えとこちら側の質問を噛み合わせられなくなる人がいたりします。

その意味では、自分自身の考えを客観視した上で他者を理解する上での基点とするというメタ認知的思考を養うには、今回書いたような文字によって可能になる分析的思考ということの意味を理解した上で、日々の生活におけることばとの関わり方をあらためる必要があるのかなと思います。
最近よく書いているように、TwitterやFacebookのようなソーシャルメディア上の情報が流れては消えるおしゃべり的な要素が強いのであれば、意識して、それとは別の情報メディアに触れることも考えてみる必要があるのではないでしょうか?



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2011年07月14日

何が売れるかを悩む前に、自分たちの考え方に人びとは共感してくれるかを確かめるおしゃべりをすることが先決

ほとほとマーケティングがむずかしい時代だと感じます。
昨日書いた「猛スピードで積み重ねられる過去と不確定な未来に板挟みにされてすでに虫の息である現在において、新しさも懐かしさも感じられなくなった社会で僕らはどうしていくべきか?」のとおり、新しいものが売れる時代ではまったくなくなりつつあります。新しいものより愛されるものをつくることが必要になってきています。



一方で、そもそも、ものが売れにくくなってきているという傾向は相変わらず続いていますし、これからも続くでしょう。
買う人の母数が減ってきているのに対して、いろんな市場の参入障壁が軒並み下がる傾向にあってプレイヤーは増えている。また、一部ではこれまでプロダクトとして提供してきたものがソフトウェア化したり、パッケージ販売していたものがクラウド化されて、低価格化や無料化が進んでいます。
とにかく、どう売ったらいいか? 何を価値提供すればいいかに迷うのが、マーケティングの抱える大きな課題ではないでしょうか?

でも、僕はこう思うんです。
自分たちが何を売るのか? 何を価値提供するのかの答えを出す前に、ちゃんと自分たちの考えをことばなどで表現して、それに対して市場の共感を得られるかを確かめることを日常的な企業活動に組み込むことが先決なのではないかと。

共感してもらえる考え方を発信する力があるか?

そもそもモノを売ることより、いかに共感してもらえる企業であるかが大事な時代です。
モノを買うユーザーの側でも何を買うかの判断に、その企業やブランドに共感できるかという要素が大きな割合を占めるようになってきていると思います。それは日用品や消耗品を買う場合でも、もっと高価格な耐久消費財のようなものを買う場合でも変わらないものだと思います。

いま、人びとは、企業がもつヴィジョンに対して共感できるかできないかを元に、購買行動や利用行動をするようになりました。
つまり、企業側からすれば、何を売るかの前に、自分たちの考え方は人びとの共感を得られるのだろうかということを問われているのです。
簡潔にいえば、共感してもらえるヴィジョンや姿勢でモノやサービスを売っていく時代だと僕は感じています。

そして、とうぜん、自分たちの考え方に人びとが共感してくれるかどうかを知るためには、自分たちの考え方を発信し、その反応を見ることが必要になります。

ソーシャルメディアといった踏み絵ツール

その辺り、自分たちの考え方に人びとは共感してくれるかどうかを知るための踏み絵的なツールとしてソーシャルメディアを活用するというのが、僕の考えです。

考えに対して共感を得ることさえできないのでは、これからの市場において売れるものをつくりだしていくというのはむずかしいでしょう。
とにかく、今の時代、新しいものだけが自分たちの競合なのではなく、過去のものでも人びとの共感を得られるものは等しく競合なのです。競争の激しさはますます激しくなる一方ですし、その競争のポイントはますます技術的なものから、共感を得られるヴィジョンを提示できるかどうかに移ってきているのですから、黙っていいものをつくればいいとか、クリエイティブでよさげなイメージを提供できればよいとかという発想ではまったく立ち行かなくなっています。

ソーシャルメディアという寄合空間」でも書いたとおり、すでに企業は自分たちの側から一方的に価値提供してすましていられる状況にはなく、むしろ自分たちの側には一切のコントロールをもたない状況に置かれています。
そこですこしでも発言権を得ようとすれば、ユーザーの寄り合いの場としてのソーシャルメディアの空間にユーザーとおなじ目線で会話を試みることが求められます。

そのなかで、企業はほかのユーザーが自分の考えを述べるのとおなじように、自分たちの考え方を述べ、それに対するいろんな反応に耳を傾けることができるかどうかが重要になってきていると思います。
アンケートのように堅苦しく結果がでるまでに時間のかかる形式で自分たちの考え方についてのフィードバックを得るのではなく、あくまで企業とユーザーが対等の位置に立てるソーシャルメディアという空間で、そもそも自分たちのおしゃべりが人びとの興味をひくのか、そして、それは共感を得られるものなのかを肌で感じることができる状態をつくるのが必要ではないかと思っています。

いまこそ個人の発信力が求められる

しかし、多くの企業が発信すべき自分たちの考えをそもそももった状態にはいないし、それをソーシャルメディアのなかに入ってユーザーのおしゃべりのなかで自然と発信できるような人材を育てられていません。

結局、ソーシャルメディアでダイレクトにほかのユーザーとコミュニケーションをしながら、自分たちの姿勢や考え方を伝えていくには、組織のなかの個々人がピアになる形で、P2P型のコミュニケーションを実現できるようになるしかありません。

その際に、ピアになる個人は、ファーストフードのカウンターに立つ人とは事なります。企業ブランドの仮面に身を包んだロボットではありません。
むしろ、個人のキャラクターが先にあって、それが企業のイメージや価値を引っ張っていく形です。そうした個人として、これからはひとりひとりが情報発信力や思考力を高めていく必要があるのです。
そして、企業はそういう力をもった個人によるヴィジョンの提示によって市場からの共感を得られるよう活動を続けるのです。

もちろん、勘違いしてはならないのは、そういう個人が育つ場を提供するのは組織の責任です。その責任を果たさない企業なら、優秀な個人がそもそもそこにいる必要がないのですから。
いつでも責任と権利は対になっているものです。個人のもつスキルを利用させてもらうためにも企業は育つ環境を提示するという責任を果たすことで、スキルの利用の権利を得るわけです。

企業とそこに所属する個人が、市場に対して自分たちの考え方を発信し、フィードバックを得る場所。そんな風にソーシャルメディアという場所を捉え直すことが必要なのではないでしょうか?
そして、それ以上に大きく変わっていくマーケティング環境に適応できる形に組織も個人も自分自身を積極的に変化させていくことが求められています。しかも、悠長にかまえているヒマはなく、迅速に変わることが必須になっているのではないでしょうか?

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2011年06月29日

ソーシャルメディアという寄合空間

今日、会社のほうのブログの「逆パノプティコンから寄合方式へ」という記事にも書きましたが、現在、そして、これからのソーシャルな時代における企業と顧客あるいは企業と従業員の関係は、かつての村の寄合方式で見られたような「互角な立場での話し合い」ができる「同じ共同体の成員」という意味合いを色濃くしていかないと互いにうまくいかないだろうなということを強く感じています。

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顧客がすでにどの企業と付き合うかをカンタンに選べ、かつ不満をもつ企業にこれまたカンタンに物申すことができるようになっているのと同様に、そのうち、企業と従業員、企業とその取引先の関係性においても間違いなくこれまでのような企業優位の形は崩れて、従業員も取引先も企業に対して対等に物申せる状況が訪れる流れになっています。

つまり、それがソーシャルテクノロジーによって実現された逆パノプティコン社会です。

政府や大企業をはじめとする既存の権威は、情報の占有・統制を通じて、その権威を構築・維持してきた。だが、ウィキリークスやフェイスブックが情報の透明化を究極まで進めることによって、既存の権威は崩壊し、新しい権威体制が再構築されていく。その可能性が示されたのである。

そもそもパノプティコンとは何かというと、18世紀のイギリスの思想家、ジェレミー・ベンサムが提案した全展望監視システムをもつ刑務所や学校、病院などの施設の構想のことで、その後、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』という著書のなかで転用して、管理、統制された社会システムの比喩として用いたことから知られるようになった概念です。すべての収容者の個室が中央にある看守塔に面するよう円形に配置される形で設計されたパノプティコンの監視システムにおいては、収容者同士はお互いの姿を見ることもできないし、看守塔もブラインドがかかっており看守の姿も見えないようになっている一方、看守の側からはすべての収容者を監視することができるというように、非対称な監視・管理ができることが特徴となっています。
Web2.0なんて言葉が流行ったのよりもさらに前の時代までは、企業と顧客との関係、そして、企業と従業員の関係はこのパノプティコン的な関係にあったといえます。

ところが、それに対して、ユーザーの側が常に企業を監視することができ、その結果をユーザー間で自由に簡単に共有できる現在のソーシャルメディアが普及した環境は、まさに逆パノプティコンの状況です。
もはや企業がかつてのようなパノプティコン状態を望むのは不可能で、せめて逆パノプティコン状態を逃れ、顧客や従業員に互角に向き合えるようにするにはどうすればよいかを考えることが企業には必要だというのが、『グランズウェル』の共著者として知られるシャーリーン・リーが『フェイスブック時代のオープン企業戦略』で主張するところです。

コントロールを手放す

シャーリーン・リーは、「謙虚に、かつ自信を持ってコントロールを手放すと同時に、コントロールを手渡した相手から献身と責任感を引き出す能力を持つリーダーの在り方」をこれからの時代に必要とされるオープン・リーダーシップだと言います。
そして、そのリーダーシップを手に入れるためにはまず何よりも「コントロールを手放す」ことが必要だと言います。

ソーシャルテクノロジーの導入にあたっては、企業はもはやコントロールできるのは自分ではないということをまず認めなければならない。それができるのは、顧客であり、社員であり、取引先なのである。

ソーシャルメディアの活用に二の足をふむ企業はほとんどの場合、「ネガティブなコメントや炎上のリスクがある」というのをソーシャルメディアを活用しない理由としてあげます。でも、これは違いますよね。
実際には企業の側がソーシャルメディアを活用するかどうかに関わらず、企業やブランドに関するネガティブなコメントがソーシャルメディア上で発生するのは避けられません。炎上の対象になるものも別に企業のソーシャルメディア上での振る舞いに限られるわけではなく、むしろ、それ以外の企業活動である場合のほうが多いのですから、そうしたリスクを避けたからソーシャルメディアを活用しないというのは話のロジックが破綻しているのです。

いくらかでもコントロールを取り戻すためにも

ようするに、いまの企業におけるネガティブコメントや炎上のリスクの問題は、企業側がソーシャルメディアを活用するかどうかにあるのではなく、ユーザー側が企業と互角に発言できる方法としてソーシャルメディアを手に入れたことのほうにあるのだという社会的環境の変化を企業は認識する必要があるのです。

目の前の問題を解決するためには、目の前の問題を正しく受け入れる必要があるのは当たり前の話でしょう。事実から目を背けていては事態は好転するはずもありません。
シャーリーンが「コントロールを手放そう」というのも、事態をすこしでも行動させるためです。そう。企業にとっては最悪な逆パノプティコン状態を抜け出すためです。

コントロールを手放すよう私が勧めるのは、そうすれば結果的にはいくらかコントロールを取り戻すことができるからだ。そんなバカな、と思われるかもしれない。だが相手の言葉に耳を傾け、そのパワーを尊重するのは、敵対的な行動に対抗する立ち位置につくことなのである。事態の成り行きに対して何かしらの影響力を持つにはこれしかない、と断言できる。

企業がもはや自分たちはコントロールできる立場ではないことを認めることをシャーリーンはすこしも企業にとっての敗北感宣言とは捉えていません。
そうではなく、事実として、一方が他方を一方的にコントロールする時代は終わったのだと時代を認識することではじめて、まわりを敵ばかりに囲まれているのではないかという不安から解放されるのだと言っているのです。

実際、積極的に人びとの話に耳を傾けてみれば、そこにはわるい評判もよい評判も両方存在しているはずです。そうした声のひとつひとつに耳を傾けることから、その声の主たちとの間に新しい関係をつくっていくこと。それが企業が逆パノプティコン状態を抜け出すための唯一の方法であるとシャーリーンは考えているのです。

みんなが納得するまで話し合う

ここで思い出すのが、宮本常一さんが『忘れられた日本人』で紹介している対馬の伊奈の村での寄合のエピソードです。伊奈の村で興味深い古文書を出会った宮本さんが「この古文書をしばらく拝借ねがいまいか」と頼んだところ、貸してよいかどうかを村人たちが寄合で延々と話し合いはじめたという話です。
その村では、とにかく何か取り決めを行なう場合には、村の寄合の場で出席者みんなが納得のいくまで、昼夜を問わず何日でも話し合うのだそうです。

こうした寄合方式が行なわれていたのは、伊奈の村だけではなかったようです。宮本さんが対馬の別の村で古文書を見たいとお願いした際にも「総代会」という寄合の場で可否が決められることになったそうです。
宮本さんは、何かしら取り決める必要がある場合に寄合方式の会合を開き、そこで全員が納得するまで話し合う全会一致の方式がとられていた地域が西日本の村には多かったと述べています。

日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷土も百姓も区別はなかったようである。領主-藩士-百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。

興味深いのは、身分にかかわらず互角に話合いが行われていたという点です。
村の経済を司る裕福な郷土も、貧しい百姓も区別なく一堂に会して、互角な発言を通じて、みんなが納得するまで話し合う寄合方式。宮本さんをして「眼の底にしみついた」と言わせたその情景は、どこか現在のソーシャルメディアが浸透し企業と顧客が互角に話ができるコミュニケーション環境に似ているような気がします。

おしゃべり空間特有の共同体意識

もうひとつソーシャルメディアのコミュニケーション環境と村の寄合が似ているポイントがあります。それは両者とも、論理的に組み立てられた文章的な場であるというより、口頭ベースのおしゃべり空間的なところです。

みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。
話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話しに花がさくというのはこういうことなのであろう。

僕は、実のところ、このおしゃべり空間的な特性こそが、現在のコミュニケーション環境を理解する上では大事な特長だと考えています。

とうぜんながら、本などのメディアにまとめられた文字ベースのものに比べると、おしゃべりベースでの情報の共有はよりリアルタイム性や一体感が求められます。
村の寄合などはその場にその時間にいる人以外に話の内容を共有することがむずかしいのは当たり前だとしても、いまのTwitterやFacebookのコミュニケーションもある程度のリアルタイム性やその時、その場の共有という要素がコミュニケーションにおいて重要な要素となっています。

そういうリアルタイム性が重視されたコミュニケーションの場だからこそ、共感や一体感が生まれやすいということもあるでしょう。まさに「話に花がさく」のは、そうしたリアルタイムなおしゃべり組み立てられただからこそです。

その共感や一体感を生む力が、個々人がそれぞれの時間に読む本からは生じ得ないコミュニティや共同体を発生させるのではないかと思っています。逆にいえば、これまでのような個々人同士が競争しあうような自己というのは、すこしずつ薄れていくのかも知れません。
このあたりは引き続き考えてみることにして、今日のところはこのあたりで。

 

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2011年04月09日

キュレーションが必要になる環境の条件は?

最近、Etsyというサイトのサービスのかたちに興味をもっています。

Etsyは、職人や作家によるハンドメイドの品を買ったり売ったりのオンライン通販を、購入者と直接コミュニケーションしたりしながらできたりするサイトです。
しかも、ただ単純にオンラインのなかだけで完結しているわけではなくて、Communityでは、Etsyに作品を出品する職人や作家が講師となってワークショップを開いたりして、作品を買ったお客さんや興味をいだいてくれている人と交流もはかる場も設けたりもしています。

キュレーションの時代と言ったりしますが、このEtsyにも日々大量にアップされる商品のなかからユーザーが自分のお気に入りのものを探せるようにするためのキュレーションの機能が提供されています。
Treasuryというコーナーがそう。

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キュレータ役のユーザーがそれぞれのテーマ・視点で選んだ10数個の商品をまとめて紹介してくれています。

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きっとお気に入りのキュレーターを見つければ、自分好みの商品をより見つけやすくなるのだと思います。1点1点ものが違うハンドメイド品だからこそ、余計に役立つ機能ではないかと感じています。

キュレータとしての平賀源内

さて、時代は遡って江戸時代。1762年、平賀源内は第五回東都薬品会という名の本草学の物産会を主催しました。

本草学というのは、中国で発達した医薬に関する学問で、日本には奈良時代伝わっていて、1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興っています。
もとは医薬に関する学問ではありましたが、魚介類・鳥類・植物などを図鑑としてまとめる作業となり、ようするに博物学の一種といってよいでしょう。

ただし、日本における本草学というのは、中国の文献に記載された物の日本での同定、つまりは分類上の所属を決める作業であり、それは実際の動植物で行われることもありましたごが、多くの場合は文章に記載された名称同士の適合作業でした。

ただ、そうした書物を相手にした机上の科学であった本草学も近世になって変わってきたと江戸学者の田中優子さんは言っています。

近世とは…、平賀源内が日本中から動植物を集めて『物類品隲』を編纂したことからもわかるように、実際に自分の足で歩き、あるいは事実を集め、あるいは実物を手にとって、同定したり、リストに付け加えたり、新しい利用法を考えたりする時代だったのである。それまでのように書物から書物へ情報が伝えられるだけでなく、実在の動植物を手にとって自分の目で確かめ、分類し、その形態を図譜に写す。現実に対するこのような態度が、すでにはじまっていたのである。

平賀源内という人は、この実在の動植物を相手にするという態度をさらに一歩進めて、単に自分が歩き回って、実在の物に触れるのではなく、先の第五回東都薬品会のような物産展を開いて、各地から様々な物を持ち寄って集まってもらうことで、より効率的にリアルな本草学を形にしたのです。

僕はこのあたりの平賀源内のアプローチに、現代のソーシャル時代におけるキュレーションに通じるところを感じるのです。
江戸期の本草学において平賀源内が果たした役割というのは、まさにキュレーターだったと思うのです。

キュレーションがもてはやされる時代の条件

田中優子さんは「『物類品隲』とそのベースの薬品会はこのように、観念を超えてしまう、事実の洪水に眼を開かされる時代に、成立したのであった」と書いています。
ただし、事実という情報がただ洪水のように膨大な量、押し寄せてくるだけでは、平賀源内のような文書の世界を超えたリアルな本草学=キュレーションというのは成立し得ないだろうと僕は考えています。

田中優子さんが書いているように、平賀源内が各地から様々な物を持ち寄って集まってもらう物産展を開けたのは、それが可能になるベースとして全国各地とつながった連歌会のネットワークが存在していたからです。

連歌は上の句と下の句を交互に別々の人が詠むことを繰り返し長い連歌を完成させていく遊びですが、もともとは一同会して行なうことが当然であった連歌会もそれが普及するにつれて、よりヴァーチュアルな形式に移行していきます。
出題された七七の下の句に、いろんな参加者が自由に五七五の上の句をつける公募形式のゲームが生まれ、それを取り仕切る興行元と取次のネットワークが全国各地に張り巡らされたのです。

平賀源内が全国各地の珍しい動植物を集める本草学の物産展を開催できたのも、こうしたネットワークがすでに存在していたからにほかなりません。
こうしたネットワークがすでに存在し、さらにその上で捌ききれない膨大な量の情報が日々押し寄せ、さらにはそうした情報にお墨付きを与える機能が書籍だけではまかなえなくなったり、書籍よりもさらにリアルな物そのものへのアクセスも可能になるという条件が揃ったとき、はじめて平賀源内のようなキュレーターが活躍できるのだと思います。

まさにいまの状況と同じで、単に膨大な情報が溢れたネットワークがあるだけでは、それほどキュレーターがもてはやされることはなかったと思います。キュレーションがもてはやされるようになったのは、情報が単なる文字情報を超えてリアルなモノへのアクセスが可能、つまりリアルな場で実際の生活に役立つよう直結する環境が整ったからだと思います。

その意味でいまのソーシャルネットワーキングの活性化を単なる情報共有やコミュニケーションのネットワークとだけ捉えていては現実に起こっていることを見間違えることになると思います。
それは単なる情報のシェア、コミュニケーションのネットワークではなく、さらにそれを超えたリアルな場や物へとアクセスを可能にするつながりであること(そう、まさに冒頭に紹介したEtsyのように)、それゆえに既存のビジネスモデルや観念に大きな影響力を及ぼしうるものだと捉えることが大事ではないかと。

そんなことを希代のキュレーター、平賀源内のことを思い出しながら考えたのでした。

 

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2010年11月30日

版(version)の危機

皆さんはとっくに気づいていたことかもしれませんが、僕は昨夜、電子書籍のことを考えていてようやく「そうか。何かあるひとつの状態をオリジナルの版として、その複写物を生み出すという形態をとる、あらゆる大量生産の基本が瓦解するのがこれからか」ということに気づきました。

そう。「版(version)」という概念が危機を迎えているのです。出版は言うに及ばず、そのほか、オリジナルの型を複製する大量生産により富を生み出すという仕組み自体が危機を迎えているのが現在なのではないかと感じます。
世界はどんどんオリジナルとコピーという区別が意味をなさなくなる時代に進もうとしています。

マクルーハンは『メディア論―人間の拡張の諸相』で「活字による印刷は複雑な手工芸木版を最初に機械化したものであり、その後のいっさいの機械化の原型となった」と言っています。
つまり、活字印刷というのは機械生産を基礎におく大量生産の原型でもあるというわけです。

この言葉を、現在の電子書籍とさらにその先のWebも電子書籍の境もない時代にあらためて捉え直してみたら、冒頭の気づきに至った訳です。

この先、著作を書くという行為に終わりはあるのか?

まず最初に思ったのは、電子書籍とさらにその先の時代において、これまで書籍の著者であった人たちは、長く続いた紙の書籍の時代同様に、著作を書き終えることができるのだろうかということでした。

たとえば、僕自身が今後著者としてありえるなら、著作を書き終えるということはどんどんむずかしくなるのではないかと感じます。一冊の著作として書き終えるのではなく、もしかすると恒常的に記述を書き換え、更新し続けたくなるのではないか、と。すでに書籍として存在する2冊の著作に対してもそう思いますし、このブログを書き続けていることを考えると、この先、書籍とWebの垣根が融解していく流れのなかで出版に際した締め切りに向けて書籍の原稿を書き終えるということの意味合いは大きく変わってくるのではないかと思うのです。

それは書籍という物理的な形態、そして、その形態が同じものを複数生産・流通することを可能にする大量生産の制約がもたらしていた、版(version)という概念の危機でもあるのではないかと思います。

おしゃべりに版はない

アーカイブされるものと流れて消えるもの」で書きましたが、Twitter上で展開されるコミュニケーションは、書籍的な意味での書くという行為とはすでに違っているように思います。TwitterのTL上に流れる言葉は、書かれた言葉というより、おしゃべりのようです。それは蓄積されることをあまり意図することなく、時間のなかで響き渡っては消えていく音声のようです。

ブログはまだ書籍の文章に似ていました。けれど、Twitterのことばにはもはや複製可能性を前提にした版の制作という意味合いはほとんどありません。それは日常生活でのおしゃべりや、個々人の間で行われる手書きの手紙や携帯電話でのメールに近いものになっていないでしょうか。そのコミュニケーションは、その発話なり記述がそのままの形で残り、複製されていくことをあまり想定していません。他愛もないおしゃべりがTwitterのことばのひとつの特徴でしょう。

もちろん、Twitterやメールなど、デジタルな情報をサーバーやネットワークを介してやりとりするには、その間に繰り返し複製が行われます。ただ、それはあくまで通信のための複製であって、モノを物理的に輸送するのを肩代わりする別の方法というだけでしょう。同じものを万人に行き渡らせるという大量生産の複製とは意味合いが違うようです。

現代の琵琶法師たち

ソーシャルなメディアであるTwitterに関しては、複製によって同じものを個々人に同じように行き渡らせるという意味合いより、ある場に集う複数人の人たちに、聞こえるように話すという意味合いだと捉えたほうが合っているように思います。
かつての琵琶法師たちは物語を語り継ぐなかで、すこしずつ語る内容を変えました。意図して変えただけでなく変わってしまうこともあったでしょう。つまり定型の版をもたなかったわけです。

ここで注意しておかなければならないのはいま『平家物語』として知られていること不朽の名作が、もともと口頭で語られた「口承文学」であって、けっして文字による「読者」を想定した「文字文学」ではなかった、ということだ。(中略)元来、この「物語」は口話によって聴衆のまえで語られるものなのであった。われわれ文字本位の社会に生きている人間には想像することがむずかしくなっているが、ついこのあいだまでの日本社会では、こうした「語り物」を耳できいて知識を獲得し、また、それをたのしみとしていたひとびとが人口の大部分だったのである。

書物としての『平家物語』にはさまざまな異本があるといいます。しかし、それがもともと民間説話や武勇伝として口話として語られていたものを編纂したものだとすれば、異本があっても不思議ではありません。むしろ、現在、決定稿とされるもの自体が、そうした異本や元の民間説話から生まれたものであって、全くオリジナルという意味はもちません。
同時に、平家に対する鎮魂の目的で僧侶たちによって語られた『平家物語』の無数の原型は、その型を洗練させていきながら民衆に愛される芸能となったといいます。その時、僧侶は平家語りを専門とする演奏家集団に成長しはじめました。その名を當道座(とうどうざ)というそうです。

そうした口承の時代と同様に、これからのコミュニケーションや情報コンテンツは、版というものをもたずに、永遠に更新され続けるものへと変化していきはしないだろうか?と思うのです。
印刷という大量生産の手法を離れ、ブログやTwitter同様にいつでも書き換え、更新が可能な形態に近づいていくいま、書籍というのは、ますますおしゃべりとか琵琶法師の弾き語りに近づくのではないか、と感じるのです。決定稿としての汗をもたず、絶えず様々な人によって語り変えられる口承的=おしゃべり的な文学。僕らは琵琶をモバイルに持ち替えた弾き語りの旅人ではないでしょうか。

版とデザイン

さて、重要なことは、この話の標的は何も書籍だけではないということです。
冒頭のマクルーハンのことばを思い起こしてみてください。マクルーハンは印刷を大量生産の雛形と捉えました。それを思い出すとき、書籍における版の危機は、そのまま大量生産的な物事の危機ではないかと思うのです。

マクルーハンは、自動車を「機械の時代の晩期の生産品」とした上で、「車は画一化と規格化のメカニズムの傑作であって、世界ではじめて階級のない社会を生み出したグーテンベルクの技術および文字文化と一体をなしている」と言っています。

T型フォードを頂点に、自動車はその後、画一化や規格化から離れ、様々なモデルで差別化する方向に走りました。それでも、スタイルは違ってもベースになっている機械的なモデルは同一の車種が多いように、基本的にはマクルーハンがいうように「機械の時代」の生産物だと言えるでしょう。

とは言え、スタイルの違いが求められるように、社会は自動車に対して、大量生産的な方向とは別の方向を期待しています。マクルーハン的にいえば、それは「電気の時代」の特徴です。

車を一も二もなく地位の象徴として受け入れ、その発展した車種を高い地位の人間の使用のみに制限しようとするのは、車および機械の時代のあかしではなく、この画一化と規格化の時代に終止符を打って、地位と役割という規範をふたたびつくりつつある電気の力の現われというべきである。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

画一化と規格化の反対には、特定の版をもたない都度生産があります。
それは民間説話を編纂して生み出される無数の『平家物語』のようなものでしょう。

建築物やシステムの設計などはそれに近いのかもしれません。それらも機械的に生産された素材を用いますが、最終的に生み出されるのは、ひとつの版ではありません(もちろん、版的な建築物もシステムもあります)。

すこしまえに「ソフトウェア化するプロダクト」というエントリーを書きましたが、これまでハードウェア的に提供されてきたプロダクトがハードウェア化=情報化するにつれて、それらもまた版をもたない形態に近づいていくのではないかと感じるのです。
そして、版をもたないものが増えるということは、明らかにデザインの意味が変わるということです。何より、デザインは大量生産とともに確立してきた技術なのですから。

琵琶法師のような語り継がれる文化の時代に、デザインとはどのような意味をもつものに変わっていくのでしょうか。

 

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2010年08月29日

メディアの発生―聖と俗をむすぶもの/加藤秀俊

旅に出たくなる本です。
また、僕らにはすっかり馴染みのなくなってしまった浪花節や盆踊り、落語などの芸能にも触れたくなる一冊です。

実際にこの本に登場した、香川県にある旧金毘羅大芝居「金丸座」を訪れてみました。

金丸座の舞台


日本最古の芝居小屋として国の重要文化財として指定されている芝居小屋で、いまも毎年春に、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催されている場所です。歌舞伎小屋の原型であるばかりでなく、客席などの作りは相撲が行われる国技館などの原型ともなっているそうです。

さいしょに建設されたのが天保6(1835)年だというから、ずいぶん古い。こんな歴史的建造物があるのか、とわたしは感心して見物した記憶がある。(中略)毎年4月に名だたる名優がそろってこの「四国こんぴら歌舞伎」公園をおこなうことが年中行事となった。かんがえてみると、歌舞伎が大都市の劇場で連日講演される、などというのはごくさいきんのことで、むかしはこうして巡業の旅にでかけていたのがふつうだったのであろう。

地方を巡業して回る歌舞伎の一座。いまも4月の「四国こんぴら歌舞伎大芝居」では、東京から一座が大人数でこの地に来て2週間から20日程度の期間に芝居を行うのだそうだ。旅はこの本のひとつのキーワードです。

さて、正面と客席上の葡萄棚天井の写真も載せておきましょう。

金丸座の正面 金丸座の葡萄棚天井


実際に訪れてみて、一度はこの舞台で歌舞伎を見てみたいと思いました。

芸能にとって大事な要素としての旅とリアルタイム性

さて、本書はそんな風に芸能がたどってきた歴史を文献だけでなく、著者自身の旅の経験を通じてひも解いてくれる本です。
日本の芸能史を扱った本としては、これまでも高橋睦郎『遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ』を紹介しましたし、あるいは折口信夫さんを『古代研究―1.祭りの発生』『古代研究―2.祝詞の発生』も芸能の発生を扱った本ということができます。そうした本はどれも著者たちが文献のみならず、実際に現地に足を運んだ経験をもとに考察されていました。

本書もその流れに属していますが、この本ではその旅の様子がほかの本以上に魅力的に感じさせるのです。おそらく、それは著者が日本の芸能の大事な要素として、旅というものを考えていたからだと思います。旅のほかに著者は芸能の重要な要素として、リアルタイム性のようなものにも焦点をあてています。

メディアとしての芸能・芸能民

旅行にしても、浪花節や盆踊りにしても、じっと家に居て行うものではなく、外に出て身体ごとその時間、その場に入り込む形の文化です。参加型の文化だとも呼べるでしょう。それらは、家の中に閉じこもって見るテレビや、手のひらのなかのiPhoneで閲覧するインターネット情報のように、傍観者的に、対象から距離をおいて見る文化とは異なります。

いまはメディアと言えば、テレビや新聞や雑誌、インターネットなどで展開されるものをイメージされる方が多いと思いますが、本書がメディアとして扱っているのは、そうした文字や画像、映像で表現される視覚的なコンテンツを伝える媒体ではありません。

本書がメディアとして扱っているのは、平家語りや落語、三味線などの弾き語りをする盲目の女芸人である瞽女(ごぜ)の歌のような聴覚的コンテンツ、あるいは、能、浄瑠璃、歌舞伎に連なる舞台上のコンテンツ、さらには、『那智参詣曼荼羅』という絵図を使った絵解きによる熊野巫女の信仰解説、おどり念仏や盆踊りのような参加型のコンテンツまで含めて、ひとりの人間あるいは複数の人間が自身メディアとなって、人びとにその場限りで消えてなくなる声や音、身体表現を用いて伝える芸能です。

著者のことばを借りれば、神と人、あるいは、人と人をつなぐメディアとしての芸能またはそれを演じる人(びと)こそが発生時のメディアの形態ということになるのでしょう。

聴覚的で体験的な文化と視覚的で言語的な文化

テレビの情報も、インターネットの情報も、視覚的で、かつ、形が固定されたものです。
一方で、浪花節にしても盆踊りにしても、耳や身体でその場、その時間に参加して味わうもので、その形は固定されていません。ましてや旅ともなれば、自らの日常を離れて、非日常的な空間・時間に自らの積極的な体験を通じて飛び込むことになります。それは誰が受け取っても情報そのものには変化のないテレビやインターネットの情報とは異なり、受け手の積極的な関与によっては情報の形そのものが変化するインタラクティブな性質をもった情報です。

今様に熱中し、それを収集した『梁塵秘抄』を編纂した後白河法王を「のど自慢」狂いと看做して、現代のカラオケ文化とつないでみたり、現代にも、インタラクティブな性質をもった情報による文化が実は残っていることも明らかにします。この季節の風物詩的にもなりつつある、よさこいなどもそうでしょう。

その「のど自慢」は「歌合」という行事にまで昂揚した。もともと「歌合」というのはその起源は古くは「歌垣」までたどることができるだろうし、また吉凶を占う「年占」の洗練されたものとかんがえてもよい。類似のものを左右にわけて比較対照しながら均衡をとってゆく、といういわばヤジロベエ的なバランス感覚がそこにはある。各種の「職人歌合」などもその実例だ。

このインタラクティブな性質をもった情報というのは、さかのぼれば神との交信につながるというのは、僕のブログを読まれてきたからにはもはやおなじみでしょう。

そんな耳や身体を通じて味わう文化に焦点をあてて、現在の視覚と文字の文化生活との違いを浮き彫りしているのが本書です。著者が自分の体験を織り込んで描いた、遠い昔の耳や身体の文化のおもかげを感じて、あらためて現代の文化がいかに視覚的で、言語的で、かつ受動的なものかと感じた次第です。

経済と文化と生活

この文化においては、生活と文化と経済はより密接な関係に合ったように感じます。

例えば、著者が第1章でおとずれる、会津若松での初市での異質な事物の交流。それは市神がむすぶ、様々な交流。そこでは市日と祭日は同じ日です。交易そのものが神に属していて、異質なもの同士が重なり合うインタラクションに神聖をみている。著者は、そこで、市子=イチコという女性の物売りとイタコの重なりにも思いを馳せます。

初市などには神が勧請され、その勧請は神職が行ったのですが、著者はそれを「今の神社の神職ではない」といいます。村社会において霊力の強いものがそれに当たったのであろうと。それは神としての名前をもたない、無数の名もなきカミであっただろうと。

「イチコ」の原型は以上にのべたような民俗資料からあきらかなように無名の「カミ」を一時的に「神」として顕現化させたものであったから、それは稲荷になったり権現になったりかなり任意であった。その柔軟性にくわえて、交易活動が世俗の経済的な利益とつながることから「市神」はさまざまなカミによって代用され、また勧請されるようになった。とりわけ近世にはいってから商業活動が活発になり、商売繁盛のカミを代表して恵比寿さまが「神」として尊崇だれるようになってからはエビス信仰と市神が融合することもめずらしくなかった。

この名もなき、市神を代弁するのが市女で、彼女たちが聖なる世界に接近することができる霊能者であったということこそが彼女たちのメディア性=代弁性を保証したのです。それが巫女の一形態としてのイタコへと変遷するのはそれほど不思議なことではないでしょう。

遠隔的ではない文化

こうした声と身体の文化は何もそう遠い顔の話ではありません。

例えば、夏目漱石は子供の時分によく講談を聞いたといいます。
講談とは『太平記』などの軍記ものを読み聞かせることを指し、まだ識字率の低かった時代に最初は武士の戦に関する知識の習得のために、のちは庶民の娯楽でした。明治の文人はその講談を聞き、いまの講談社もその前身には『少年講談』本を発刊していた出版社でした。

特定の場において演者と見物人が場と時間を共有し、その場において互いに意識し合いながら相互作用的に行なわれる浪花節や歌舞伎や落語や平家語りや門付芸。それはテレビや映画のように、発信者と受信者の間に決定的ともいえる遠隔的な距離があるものとは、本質的に異なるはずです。

遠隔的ではないということは、つまり地域性をもちやすいといことでしょう。
実際、本書で紹介される多くの芸人は旅をしながら各地をまわっていましたが、一方でその地の観客にあわせて芸をつくりました。それは各地で異なる不均一なローカル文化の広がりをもつと同時に、旅芸人を介したグローバル性もあわせもつものです。

現代のように、一定の品質のものを、不特定な遠隔地にいる人に、数多く届けようとしている限り、情報の豊かさも、生活の豊かさも生まれないのかもしれません。一定の場に充填できる情報量などは限られているからです。あいまいさや身体的近接性を受容しなければ、コミュニケーションにおける情報量などは増やせません。

遠隔的なひろがりをもつことはできなかったけれど、旅とリアルタイム性によって、生きているその現場にそのコンテンツを直接届けることができた、本書に紹介されるようなメディアは、いまの僕らが忘れてしまっている豊かさを人びとに届けていたのかもしれません。



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2010年06月20日

江戸の本屋さん―近世文化史の側面/今田洋三

iPadの発売以来、急に電子書籍の話題が聞かれるようになりました。出版業界や印刷業界を中心に、具体的な動きも出始めています。

デジタルな本より紙の本のほうがいいなど、いろんな声も聞かれますが、紙の本がまったくなくなるという話ではないでしょうし、そもそもヘンリー・ペトロスキーの『本棚の歴史』書評)や港千尋さんの『書物の変―グーグルベルグの時代』書評)などを読んでもわかるように、本の形態などはこれまでの歴史のなかでも度々その形態を変化させています。

また、本の印刷、流通に関わる人々にとっては、電子書籍化は危機だといえるのでしょうけど、すくなくとも出版に関わる人にとっては実は危機とはいえないだろうと思います。

そもそも、出版や編集という仕事は、紙の本を商品として作る仕事ではないはずだからです。たとえば、江戸期の有名な出版人、蔦屋重三郎などは単に出版者であっただけでなく、歌麿や写楽、太田南畝や山東京伝を育て世に出した人でした。

そんなことを思いつつ、江戸期の出版について、いろいろと知らべてみようと思って、何冊か買った本のうちの一冊がこの今田洋三さんの『江戸の本屋さん―近世文化史の側面』でした。

江戸の出版業は田沼時代における、江戸をめぐる商業資本の発展、江戸住民の文化創造力の向上を背景として、画期的な発展を示した。画期的なという意味は、封建支配者の文化政策を分担したり、売れればよいというだけで自らの創造的見識をもりこむことの薄かった出版界で、出版が文化運動の一環としての意味をもつことを自覚しつつ経営を築く出版者があらわれてきたことである。須原屋市兵衛や蔦屋重三郎にそれが典型的にあらわれている。(中略)単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげるという主体的経営は、まさに、近代出版の先駆と考えてよいであろう。

そう。「単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげる」役割を担う意味での出版人。
そんな江戸期の出版人たちが躍動した歴史を追ったのが本書です。

はじまりは京都から

産業としての出版業は早くも江戸時代の最初に京都からはじまったといいます。

そのきっかけは、秀吉による朝鮮出兵でした。秀吉による朝鮮出兵によって陶磁器の技術が彼の地から持ち帰られ、九州の窯場の発展がみられたというのはよく知られていますが、朝鮮からは同時に活版印刷の技術も持ち帰られたそうです。
その活版印刷技術を用いて、最初は天皇や幕府の命により、『日本書紀神代巻』『論語』『孟子』『三略』などの古典が刊行されます。さらにそうした権力者側近であった知識人により『東鑑』や『徒然草抄』が刊行される。本阿弥光悦が『伊勢物語』『方丈記』などのいわゆる嵯峨本と呼ばれる活字本をつくったのもその時期です。

しかしこれらはごく一部の狭い層に向けられた本でした。
そこに京都の町衆による本格的な出版業の動きが芽生えます。

元禄期の京都書林十哲のほとんどは、寛永年間にでそろっている。かれらが、天皇・将軍や特権的知識人たちの活字印刷をうけつぎ、それを製版印刷にかえたのである。そして、本格的な出版文化をつくりあげたのである。

おもしろいのは、ここで印刷技術が活字印刷から製版技術に変わっていることです。西洋における出版が活字印刷によって広がったのとは異なり、日本では江戸時代全期にわたってこの後も製版印刷が出版業を支える技術となります。木の版板にそのまま文字や絵を掘り込む製版印刷が後に日本独自の黄表紙などの書籍デザインを生んでいきます。

こうした出版の歴史が江戸初期の京都から始まっています。
この出版を始めた京都の書商たちは、応仁の乱で荒廃しきった京都の町を自らの手で復興させてきた町衆の末裔によってはじめられているというのが興味深い。

かれらが出版文化を成立させ、強力に推進し、新しい社会的なコミュニケーションを活性化させていった様相には、近世町人とは異質のものを感じさせる。幕藩体制の中で、主体的活動を抑圧され、身分制のわくにはめこまれて、町人とよばれた存在からはでてこないような活動力がうかがわれるのである。
これはやはり、応仁の乱のころから、京都市内の町がいくつか集まって親町を形成し、親町ごとに集団性・自主性をもち、市内の社会的秩序をつくっていった町衆、豪商土倉・酒屋を指導者としてさらに公家衆を吸収した町衆、風流踊や小歌などを発展させて新しい自由な民衆文化を育てていった町衆がもっていたエネルギーを継承して、はじめてでてくる活動力ではないかと思うのである。

単に、金儲けのために新たな産業を興すというのではなく、自らの手で自分たちの暮らす社会の文化そのものを作り出そうという心意気が、これまでの社会に見られなかった「出版」というイノベーションを生み出したのでしょう。

元禄大坂の新興書商

ところが、その京都の出版文化にも翳りがみられてきます。
西廻り海運の航路が京都を通ることなく大坂に直接つながるように変更されると、京都は平安以来の中央市場という性格を失っていきます。市場の中心は大坂へ移り、出版業も大坂で新興書商が次々に登場してきます。

その出版業界の力の京都から大坂へのシフトに大きく影響を与えたのが、井原西鶴による好色本・浮世草子でした。

西鶴が『好色一代男』を世に出したのは、天和2年(1682)であった。開板者は大坂の荒砥屋孫兵衛という正式の書物屋かどうかもわからない無名の者である。(中略)この『好色一代男』が読書界・出版界に与えた衝撃は、出版史上、たいへん大きなものがあった。新興とはいいながら、本格的出版をはじめつつあった、池田屋三郎右衛門や森田庄太郎らの大坂の本屋たつは、たちまち西鶴著述の稿本にとびついた。

京都で出版された本は、庶民化されたとはいえ、まだ歌書や禅書、謡本など、かたい本でした。
大坂の新興書商が出したのは、先の西鶴に代表される好色本・浮世草子でしたし、重宝記、万宝と呼ばれた日々の暮らしの知恵を綴ったマニュアル本でした。いつの時代でもそうなんでしょうけど、庶民に多く受けるのは、こうした下世話な小説、マニュアル本の類でしょう。

読者あっての浮世草子、観客あっての近松劇、市民あっての越後屋商法、そして地方にまで拡大していた俳諧好きや読者たち、これらは、元禄の社会経済の構造が生みだした、同質の文化的・社会的現象である。

元禄時代の大坂の出版人たちは、同時期の近松浄瑠璃や越後屋(三井)の商法などと同様に、そのターゲットを庶民に絞ることで成功を収めたのです。

江戸の書商たち

そうした西ではじまった出版業の興隆は、やがて江戸でも見られるようになります。

先の蔦屋重三郎だけでなく、そのすこし前に、平賀源内の書籍を刊行したり、杉田玄白らの『解体新書』を出版した須原屋市兵衛なども、まさに新たな文化を創造するイノベーティブな出版人でした。と同時に、地方の知識人らが農村の荒廃に触発されて書いた書なども積極的に出版したのです。

宝暦10年(1760)以来52年間にわたる市兵衛の出版活動で最も注目すべき点は、田沼時代江戸文化の結晶を社会的交通に送りこんできたことであるが、私自身が最も心をひかれるのは、農村荒廃のすさまじい状況に心痛する地方知識人の著作を、採算を度外視して刊行したことである。源内・玄白・中良ら、地平のかなたに世界を新しく発見しつつあった都市の先進的学者の著作と、農村荒廃に触発されて書いた書物を同一の交通局面に送り出しつつあったことである。

「採算を度外視して刊行した」というあたりに江戸出版人の粋(イキ)を感じます。単に売れるものを作るという発想では、この時代の出版のイノベーティブな動きは生まれなかったのでしょう。

この須原屋市兵衛に続く形で、江戸の文化に革命的な流れを生み出したのが、蔦屋重三郎でした、市兵衛も蔦重もともに、当時大変きつかった出版統制によって処罰を受けています。
以前に紹介したタイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』書評)にも詳しいように、松平定信の時代の寛政期は出版にとどまらずさまざまな文化規制が行われた時代でした。

情報規制とその解禁

江戸期の出版の歴史は、文化的イノベーションとそれに対する規制の歴史でした。

幕府は出版業者に対してさまざまな規制をしていますが、その一番大きなものは読売(新聞的なジャーナリズム)への規制です。時事ネタに関する出版はかたく禁じられていました。いまでも、そうですが、時事情報は権力者への批判を必然的に伴うものだったからです。

ところが、幕末には度重なる飢饉やそれに伴う打ちこわしなど、社会の危機感が高まるにつれ、人々の情報に対する欲求も高まってきて、ついに幕府も大火や地震などの災害に関する読売発行は認めるようになっていきます。

こうした地方民にいたるまでの国民の情報関心の増大が、近世日本のコミュニケーションの発展をささえていたともいえよう。だからこそ、幕府は、読売の出版の禁止に狂奔したのであった。こうした情報関心のある所、読売が解禁にでもなれば、あっという間に、近代新聞への道を開いてしまうであろう。天保期の先進的思考を身につけつつあった渡辺崋山は、西欧文明の発展の根本原因を、科学的学問の発展におき、学問の発展は、まず情報の開放にある、新聞の発達にあると見ていた。

飢饉によって危機が高まると同時に、農民たちのあいだでも知識に対する欲求が高まってくる。各地に寺子屋が増大し、その寺子屋で使う教科書の発行が増えるのもその時期です。そうして、読み書きができる人の数も増えると同時に情報への欲求もより高まっていく。江戸期を通じて庶民化する方向で進んだ情報・コミュニケーションの歴史は幕末にいたるにあたって、幕府の情報規制を維持し続けるのがもはや不可能なほど、最大化したのです。

庶民の情報関心の増大、寺子屋の増加、教科書の商品価値の増大、地方書商の発達、国民的規模での書籍市場の形成、幕末における社会的コミュニケーションの新動向が、関連し合い補い合って明治維新の、ひいては近代文化発展のコミュニケーション史的前提となるであろう。

こうした情報関心増大の流れが明治維新の要因の1つだったのでしょう。

電子出版の時代に江戸を想う

こうした歴史をのぞくと、いまの情報化社会についても考えざるをえません。
読売の緩和の方向に幕府が舵を切ったのは、低質な噂の類いが広まり、人々の混乱が拡大するのを避けるためであったわけで、それまでは隠す方針だった幕府も、噂が広まるくらいなら、まともなジャーナリズムによる報道のほうがマシだと考えたからですが、これはソーシャルメディア時代の現在の教訓にもなるはずです。

Twitterに代表されるような噂レベルのコミュニケーションももちろん必要なのですが、やはり、それと同時にプロのジャーナリスト、出版人の力が必要でしょう。
そのプロたちの事業が危機に瀕しているのであれば、それは単なるその人たちの職業的な危機というだけでなく、僕たちが生きる文化そのものの危機なんではないでしょうか?

電子化によって単に本の価格が下がるとか、そういう話ではない、情報に支えられたいまの社会そのものの変化にこそ目を向けなければならないでしょう。

こうしたところを考える意味での、引き続き、江戸期の出版、コミュニケーション、文化の形成に目を向けてみようかと思いました。



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