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2009年06月25日

「Next Communication & Marketing」のオープンセミナーで講演します

2009年7月16〜17日東京国際フォーラムで行われる次世代のコミュニケーション&マーケティングをテーマにしたセミナー「Next Communication & Marketing」に、スピーカーとして出演することになりました。 真面目なビジネス系セミナーなので、どう見てもひとりだけ...

2009年06月21日

文字の官能性、書物としての身体

今回は『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』の出版にあたり、書籍のデザインということにあらためて考える機会がありました。

そんなきっかけもあって書籍のデザインや以前から興味をもっている文字というものの力というものに関してもうすこし考えをすすめるためのリソースがほしいなと思い、今福龍太さんの『身体としての書物』と、鈴木一誌さんの『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』を平行して読んでいます。



書物とは、文字とは

そもそも、本=書物、文字とはいったい人間にとって何なんでしょう?

書物とは、ただ単にそこから必要な情報や教養を得るための便利な道具ではない

と今福さんはいい、

文字をコミュニケーションの道具だと断定しきれないなにか、払拭できないなにものかが、「あるがまますべて」や「文化」となって登場してくる。ことばや文字をめぐる不安を引き受けよう。

と鈴木さんはいいます。

書物は単なるデータや知識が詰め込まれたメディアでなく、独自の身体=ボディをもち、文字もまた単なるコミュニケーション、伝達の道具ではなく、そこに潜む不安も含めたあるがままを引き受けざるをえない文化として存在する。そこにデジタルな思考が捨象してしまうアナログなノイズ、ズレが存在することを今福さんも鈴木さんも見落としません。

例えば、それは松岡正剛さんが『外は、良寛。』で、

文字というものは、もちろん言葉を情報保存するためにつくられた記号でわるわけですが、文字がコミュニケーションの維持・強化・洗練から離れて、書としてリリースされていくときには、文字が犯してきたコミュニケーションの中での罪を捨てるためにあるようなところもあります。

と書いたことにもつながってくるでしょうし、「かつての生活には匂いがありました。」からはじまる新著で、僕が、

おもかげから記録(ログ)へ。類似(アナログ)から離散(デジタル)へ。五感によってつながっていた世界はいまやバラバラの情報として離散し、検索エンジンなしには必要な情報ひとつ手に入れられない世界になりつつあります。それを僕らは情報過多の世界と呼んでいます。

と書いたこととも重なってきます。

このあたりにピンとこないと、情報やコミュニケーション、発想やアイデア、そして、それらのためのデザインやデザインを通じて情報やコミュニケーションを扱う人びとの能力といったことがわからないだろうと思います。
その意味で、僕らは、もういちど、書物や文字というものの姿をしっかりと見直す必要がある。僕はそう思っています。

書籍の官能

書籍も、文字も、本当はもっと身体的で、芳しさや艶めかしさをもっているものだし、官能的であり呪的なものだと思います。

例えば、今福さんは『身体としての書物』のなかで、タイトルにもなっている「身体としての書物」ということを考えるにあたり、身体を英語のボディへと翻訳し、それをワイン用語のボディへと変換してつなげることで、さらにボディに対応する日本語を探りながら「コク」へと辿りついています。そして、そのコクは漢字で書けば「濃く」であり、それが古語の「濃し」に由来する語であることを指摘したうえで、こう語っています。

「濃し」というのは、もともと液体などの濃度を指す言葉ではありませんでした。『源氏物語』には、この言葉が頻繁に登場します。そこで「濃し」は人間関係の深い交わり、つまり男女の情愛や肉体関係の親密さを意味していたようです。つまり「濃し」という言葉は、性愛にかかわるひじょうに官能的・肉体的な内実をもった形容詞として使われていたのです。

肉体的、官能的であるというのは重要です。

今福さんは「本とは、必ずしも簡単にデータとして利用したりコンテンツとして消費したりすることのできるメディアではない、という点こそが重要」と述べ、物質的な触感を通じた知覚や認識によってしか特定の言葉を探しだすことができない書物の検索性の低さそのものが、物事を思考するのに大切な認知メカニズムであることを指摘しています。
それは性愛的な手続きにおいても、特定のパーツや特定のシーンだけを簡単に消費することはむずかしいことに似ています。それを望めば、お金を払ってプロの方のお世話になるしかありませんが、それは「男女の情愛や肉体関係の親密さ」とは別の次元にある。Googleなどによる検索性の高さと、書籍のページを一枚一枚めくってひとつの語を探しだす際の検索性の低さの関係は、まさにプロの方にお願いしたりデジタルデータで手っ取り早く済ませたりするのと、リアルで男女の情愛や肉体関係をもて面倒な手続きを踏むのとの違いに相当すると思ってよいと思います。

純化が捨象しているもの

一方で、鈴木さんは文字そのものが内包している観念のズレに着目しています。

『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』では、中上健次さんの『奇蹟』の、手書き原稿、単行本の紙面、文庫本の紙面が並置され、おなじテキストが紙面のデザインによって大きく印象が変わることを示しています。

そのうえで、「読めさえすればよい」という感覚で、「無機的にくまれている」文庫版のページのたたずまいを嘆いています。
もちろん、それは中上健次さんの『奇蹟』の文庫版に固有の問題ではなく、すべての読めさえすればよいという感覚で無機的に組まれた文庫版すべての紙面に共通する嘆きです。

『奇蹟』の文庫紙面は、視覚的な均質性を獲得している。長い歴史の結果、私たちはこの紙面に辿りついた。オリジナル原稿がもっているノイズを削ぎおとし、均質な紙面を手に入れた。なんのためか。テクストのなかの時間や空間が、読者の読書という実践の場でのみ受容されるためである。読書の純化という事態は、人間中心主義が行きついた地点でもあるだろう。だが、置き去りにしたものの余りの多さに不安をもつ。くっきりとしたものも、よく見ればその輪郭には滲みがある。

この「滲み」を排除した純化されたものを、人はユーザビリティが優れたものだと捉える価値観が現代の社会を覆っています。わかりやすい、使いやすい、純化された体験を望むことを当然としています。

ただ、それは先の、異性との情愛をはぐくむために必要な面倒な手続きをはぶいて、手っ取り早くプロの方のお世話になろうという発想と変わりありません。さまざまなすれ違いや衝突を経て、ようやく辿りつき、しかも、辿りついてなお、いつその関係が壊れるかといった不安を抱えた男女の関係のあやうさが、お金を払っての契約関係によって手に入れる安心な関係にはありません。

「秩序」がそこに実現できているとだれが判定するのか。正解はどこにもないのだろう。20世紀のデザインは、というよりデザインはきわめて20世紀的なものだが、いつも正解を求めてきた。可読性や視認性に情報量である。大衆性や公共性、訴求力という価値基準もある。結局は経済効果に換算された数字が「客観的」な基準になる。

数字で表現可能なデジタルなスペック、データが「客観的」な基準になる。

ただ、現実には、その「客観的」な基準からははみ出してしまうものが、通常の男女関係あるいは人間関係には数多くあるはずです。にもかかわらず、それを捨象して純化して、○分で○円という「客観的」な基準で示される安心、安全が提供される状態を「秩序」と判定してしまう傾向が現代の社会にははびこっています
そして、基準を「客観的」にして外に出すことによって、自らが苦心して自らの基準をつくりつつ決断をする能力を失っていっていることに気づいてもいません。まさに昨日の「もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」で書いた日本的な「人間依存性」が失われて、西洋的な「人間非依存性」に依存しきった状態ができてしまっています。

書物としての身体

鈴木さんは、少し前に「芹沢〓介の文字絵・讃/杉浦康平」を紹介した、杉浦康平さんのアシスタントを15年間つとめた後、独立した人です。

先に書物や文字は、官能的であると同時に、呪的であると書きましたが、例えば、文字の呪的な様相は、杉浦さんが『文字の美・文字の力』で紹介している、以下のような文身(イレズミ)に見ることができます。



漢字―生い立ちとその背景/白川静」でも紹介したように、そもそも「文」という文字そのものが、文身(イレズミ)を意味する字であり、人の胸部に心臓の形の文身を加えた象形です。



文身の美しさを文章という。文は人の立つ形の胸部に、心字形やV字形やXなどを加えるのである。章は文身を加える辛(はり)の先の部分に、墨だまりのある形である。

古代の人びとは、こうした文身として直接文字を身にまとうことで文字のもつ呪力、ことばのもつ呪力を身につけたのです。そこには「観念連合、類感呪術をつかった発想法・編集術」で紹介したような、対象(例えば、太陽、青々と茂る木々、etc.)を模倣したり、ことばや文字にすることで、対象のもつ力を獲得できると考える共感呪術に対する信仰があります。

ただし、こうした古代人が共感呪術的思考を通じて文字に呪力をみいだした考え方は、文身が着物の上の文字に変わってもすぐに衰えたわけではありません。



「かまわぬ」と判じる、しゃれのめした言葉遊び。言論の自由を厳しく規制された町人たちの反骨心・諧謔心をかきたてて、着物や浴衣に染めぬかれ、江戸中で大流行したという。

もちろん、こうした江戸期に流行した、文字を染めぬいたり刺繍で記したりというワザは、昭和にはいっても芹沢〓介さんのような方が引き継いでいました。



まさに「文字の力が宿ったメディアとしての身体」「書物としての身体」です。文字がのるメディアとしての身体や衣服は、単なるコミュニケーション、通信のために存在するわけではありません。表面に記される文字だけでなく、それがのったメディアとしてのボディそのものが、文字のもつ魅力を伝える力を増幅するものとしてはたらいています。
考えてみれば、メディアという語自体、そもそもが神の声を自分の身体を通じて伝える巫女のことを指していたのですから。

おもかげの喪失

こうした身体性や、官能性、呪的な力をもっていた文字や情報から、それらが失われてしまったのは、昨日の「もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」でも触れたように、1960年代以降のことではないでしょうか。

見誤ってはならないのは、ただ一般に人や情報が動くようになったから「観光」が重要になったのではない。とくに地球規模で見たとき、人と情報の動きには明らかな方向性がある。人が動く方向には、高開発社会の強者ないし富める者の、弱者ないし貧しい者の低開発地域への観光と、その逆の流れである出稼ぎ、移民、そして弱者の側から強者への情報の流れ、というよりは強者の側からの吸い上げ(学術調査、マスメディアの取材、栽培食物の遺伝子情報の探索など)があり、流れの方向の格差は、1960年代以降一層はなはだしくなってきたといえる。

情報が純化され、数値的に比較されランキング可能なものとなった途端、それは高きから低きに、流れの方向性を固定してしまったのではないでしょうか?

いまや人びとのアイデンティティ=らしさは誰が袖のような色や香がはかなくたゆたうおもかげではなくなり、色も香もない無機質なデータと化したプロフィールとなってしまっています。人間のプロフィールだけではありません。あらゆる物事が匂いも触感も感じさせない機械的な情報に取って代わられています。かつての見立ての手法が五感をともなうイメージの連鎖を引き起こしたようには、グーグル検索は人びとの連想(アナロジー)を喚起してはくれません。人は梅の香に恋心を感じたかつてのように、現在自分を取り巻く多くの情報から身体が自然と動くような動機(モチベーション)を感じとれなくなってしまっています。

文字が身体から離れてしまい、書物のもつ官能的な身体性も、均質で無機質なモニター上の表示にとって換わられています。それは安全で間違いはないのかもしれませんが、いつ間違いや関係の崩壊が起こるかわからないといった恋愛・性愛のあやうさを失ってしまっています。

文字や書物、そして、情報とそれを通じて思考し生きる人間の認知能力というものを、ここで書いてきたような視点に立って、考え直さないといけない時期なのではないでしょうか?

   

関連エントリー

2009年05月23日

日本語ということばを使う日本人

あまりに多忙すぎて最近はブログを書くヒマがありません。
寝不足です。
各駅停車どころか遅延が発生しています。やっぱり計画が大事です。

というわけで、6/18発売予定の『デザイン思考の仕事術』のために書いた原稿から、文字数の関係でボツにしたものをエントリーの代わりに・・・。

川喜田二郎さんも書いていることですが、日本人というのは頭の中だけで処理できる量の情報を相手にして、勘をはたらかせて雑然とした情報を統合的に処理するというのは得意です。だからこそ俳句や盆栽などの小さな世界に情報を圧縮してみせる文化も生まれ発達してきました。

ただ、頭の中での圧縮作業が得意だからこそ、逆に手間をかけて情報を圧縮するということが苦手だったりします。パッと見ただけでは処理しきれない量や複雑さをもった情報群を前にすると、途端になす術をなくしてしまうという欠点もあります。KJ法のような作業をめんどうと感じるのも、そうした苦手意識が影響しているのだろうなと思います。

日本語ということばを使う日本人

日本人のコミュニケーションの歴史を振り返ってみると、なぜ日本人にそうした傾向があるのかがなんとなくわかります。

古代日本は長いあいだ、文字のないオーラル・コミュニケーションを続けていました。
文字がないコミュニケーションはそれがあるコミュニケーションと何が違うかわかりますか? そう。記憶の仕方の工夫がまるで違うんですね。文字による記録のように外部に記憶を委ねることがむずかしいので、人間の身体のほうに記憶をとどめられるような工夫が必要になる。文字のない世界ではどこでもそうでしたが、記憶をしやすいよう物語や歌などの方法が発達してきます。語り部といった職能を生まれてきますし、多くの記憶をもった老人が重んじられています。当然、ことばそのものも記憶しやすく、記憶を喚起しやすいものになっていきました。音そのもののなかに記憶の連鎖をもたらすような表意性をもっていたのです。

音の表意性

ここで音の表意性といっているのは、植物の花(はな)ということばの音である「はな」と、「端っから」という場合の「はな」の音とが、どちらも先端という意味でつながっていたり、訪(おとず)れが当初神様の来訪のしるしと考えられた音連(おとづ)れの意味をいまだに残していたりすることなどを指します。

デザインに関係するところでは、計画するという意味での計(はか)る、大きさや重さを測定する意味での測(はか)るなどの「はか」はもともと田んぼの稲を植えたり収穫する際の仕事量をあらわす単位だったといいます。そこから計る、測る、図る、量るといった意味が派生した。「はかがいく」「はかどる」「おしはかる」なんてことばもありますね。
さらに計ることができないという意味から、はかないということばも生じました。どうなるのか計ることができないことにはかなさを感じる。それが空しさや無常観にもつながっていき、日本文化におけるわびやさびといった価値観にもつながっていく。計画性のないデザインもはかないですよね。デザインに関しては計(はか)がないのはいけません。

こんな具合にオーラル・コミュニケーションのなかで育まれた日本のことばは、その音のなかに表意性を宿しているんですね。

表意文字

そうしたオーラル・コミュニケーションで成り立っていた世界に、中国から漢字が伝わってくる。音だけで成り立っていたことばの世界に記録として残る文字が導入されます。しかも、日本に伝わってきたのはアルファベットのような表音文字ではなく、表意文字である漢字でした。

漢字という象形性をもった文字は、千分の一秒で認識が可能だといわれています。一秒間に七文字読めるくらい瞬間把握力に優れた文字であるそうです。しかも、それは漢字を日常使い慣れている人だけに意味のある象形性ではないようです。ドイツの詩人リルケは俳句の研究も行っていて日本の文字も書けたそうですが、そのリルケが漢字をみたことがないドイツ人に「薔薇」という字を書いてみせて何の花をあらわす文字か当ててみろというと、十中八九バラという答えが返ってきたそうです。「葡萄」でも同じ結果だったらしい。これは結構すごいですよね。”rose”や” grapes”ではきっとおなじことは起こりませんから。

訓読みという独自の方法

こうした表意性をもった漢字ですが、日本ではその導入の仕方に、他のアジアの国々とは違った日本独自の工夫がありました。おなじように漢字を導入したアジアの国々は漢字の音をそのまま借りて自国のことばにあてはめましたが、日本では訓読みという独自の方法が生み出されたのです。漢字がもともともつ意味と自国で長いあいだオーラル・コミュニケーションによって育んできたことばの音を両立させた。いま漢字に音読みと訓読みがありますよね。その訓読みという方法を日本は独自につくったのです。ほかのアジアの国々は漢字を音読みだけに使ったんですね。

この訓読みという発明は画期的でした。
もともと長いあいだかけて育んできたオーラル・コミュニケーションのことばがもっていた音による表意性・記憶の喚起力の体系をそのままに、きわめて視認性の高い文字である漢字と組み合わせたのですから。そのことで他のどの言語にもないようなきわめて表意性の高いことばができあがった。これは日本史上最大の発明でしょう。

コンテキストへの依存性

先にも述べた日本人が雑然とした情報でもある程度の量なら勘をはたらかせて統合的に処理することが得意という特性も、この日本語のことばそのものがもつ表意性の高さと無関係ではないはずです。音や文字がある程度はイメージの連鎖を自動的に引き起こすようになっているからです。

日本語では、おなじ漢字でもたとえば朝飯と朝食で「あさ」と「ちょう」で読み違えることができるし、どちらの音でも「朝」という字を思い浮かべておなじ朝のイメージを思い浮かべることができます。「あめ」という音から、「雨」という字を思い浮かべることもできれば「天」という字を思い浮かべることができる。

ただ、その代わりに、おなじ文字でもどう読めばいいかがコンテキストにあたらなければわからないといった具合に文脈依存性が高すぎるので、アルファベットのようにその語のことばを知らなくてもなんとなく読めるということがすくない。また、文脈依存性の高さとイメージ喚起力に優れている点が裏目にでて、数学のような抽象的な思考が生まれにくかったということもあると思います。

日本語と文化とデザイン思考

いずれにせよ、僕らはそうした他に類をみない特性をもった日本語ということばを日々使って生きているのだということを、ちゃんと理解しておいたほうがいいと思います。そのことばが僕らの生活、思考、文化をある程度は既定していて、メリットにもなればデメリットにもなっているのですから。

デザイン思考では人間のことを知っておく必要があるといいましたが、こうしたこともそのひとつなんですね。自分たちが何が得意で、何が苦手なのかをわかっていれば、得意な面を活かす方向にも、苦手な面をどうにか補う方向に手立てを考えることもできるのですから。

・・・と、日本人がなぜKJ法が苦手なのかというところの説明として書いた部分ですが、分量の関係で泣く泣くボツにした箇所です。
もったいないのでブログのエントリーにさせていただきました。

しばらくはこの多忙な状態が続くので、この形式でボツにした部分をアップしていこうか、と。



関連エントリー

2009年05月08日

インターネットと選挙の関係から見る2ちゃんねらっぽい政治参加のあり方

もう先々週の話になってしまいますが、AMNのブログイベントでおもしろいヤツがあったので、行ってきました。これ↓

「インターネットが選挙を変える? ~ Internet CHANGEs election ~」

講演の内容なんかは、Business Media誠がかなりしっかりまとめてくれてる(というか、ほぼ講演内容を全部起こしてるw)ので、こちらを読んでもらった方が良いかなw 前後編で超長いけどw

Business Media 誠:“ネットと政治”を考える(前編)――オバマにできたことが、なぜ日本の公職選挙法ではできないのか? (1/6)

Business Media 誠:“ネットと政治”を考える(後編)――ネットユーザーが選挙でやれることとは? (1/9)

あと、実はビデオも撮ってたんだが、後半のパネルディスカッションが電池切れで撮れなかったorz 前半部だけでもそのうちネットに上げようと思います。そんときゃまたエントリーします。

内容は、前半戦がオバマが選挙戦を戦う上でどういう新しいコミュニケーション戦略をとったかという講演と、公職選挙法に関する解説。後半がそれらを受けて、インターネットから選挙に対して何か出来ないかというディスカッションだった。

ちなみに結論としては、「公職選挙法の縛りがきつすぎるから、選挙期間中は基本的に何もやっちゃダメ」という悲惨な方向にww 司会の徳力さん、ちょっと涙目(´;ω;`)ウッ…

しかし、立候補者たる議員さんから見ると、ネットで選挙活動が出来ないことで不自由を感じたことはないらしい。むしろ、それ以外の公職選挙法の縛り(チラシの枚数や配り方、拡声器の数、ハガキの枚数や送り方・・・etc)の方が遥かに窮屈だという。

パネルディスカッションに参加した議員の方も言っておられたが、選挙期間は12日間という短い間でしかなく、その間にネットを使ってメール発信やブログ更新をしているヒマは、少なくとも候補者にはまったくないらしい。考えてみれば、そりゃそーである。毎日、そこら中を走り回ってるわけだから。

そうすると、必然的に日頃から情報を発信しつづけておいて、いざ選挙になったらこれまで発信し続けた情報を見てもらって判断すれば良いという事になる訳だ。その意味では、インターネットを使った選挙活動というのは、候補者から見れば現状でそれほど問題があるものではないらしい。

では、有権者から見た場合はどうか?

実は、公職選挙法は候補者だけを取り締まるものではなく、その間の有権者や支持者、第3者の行動をも取り締まる法律になっている。しかも、わかりやすい事に完全な「べからず集」となっており、法律で明確に許可された事以外は基本的にやっちゃいけない。またシンポ内でも指摘があったが、日本の公職選挙法は基本的に立候補者のために作られており、有権者の視点はほとんど存在してない。存在していないから、例えば第3者が誰かの候補者をHPで支持表明するなんてことは想定に入っていない。想定に入っていないと言うことは、つまり「してはいけない事」になる。

えっ、それマジ?って印象の方が多いと思うが、厳密に解釈すればそうなるらしい。厳密に膾炙すればというのは(これもまたどうよって感じだが)、公職選挙法はグレーゾーンが多く、解釈しだいで何とでもとれる上に、実際に摘発するかしないかは個々の選挙管理委員会に任されている。よくよく考えてみると、すげえ怖ろしい話なわけだw

しかし、これは逆に「選挙期間中でなければ」何をやっても特に問題ないという事でもある(投票依頼は除く)。なぜなら、それらは全て選挙活動でなく政治活動にあたると解釈されるからだ。そうすると、公職選挙法は政治活動を取り締まる法律ではないから関係ない。

ここまで語ってようやく、私のようなネット住民が、選挙や政治に関わろうとした時の対応の仕方が見えてきたように思う。まず重要なことは、日常から動くことである。

いざ選挙!となった時には、もう遅い。常日頃から政治や選挙に関するアンテナを巡らしたり、ブログで情報発信したり、まとめサイトやwikiで情報蓄積したり、果てはオフやイベントまで仕掛けてみたり・・・etc そういう事を日常からしつづけることが何より重要なわけだ。選挙の時期が来たから・・・ってのではダメなのだ。

こう考えると、自分の日常にどれだけ政治的なものを取り込んでいけるか?という問いにも繋がるかと思う。多くの人は、大概それは無理だと言うだろう。日常の忙しい中に、ただでさえ興味のない、しかも面白くもない政治の話を取り込むなんてめんどくさい。それに、なんかダサイw しかし、オレラはもうそんな事言って現実から目をそらし続けているわけにはいかないのではないだろうか?

恥をかかない為の政治? - アンカテ

人間は誰でも人間として尊重されるべきであり、それは年寄りも若者も同じだ。しかし、存在そのものを尊重することと、意見を尊重することは違う。年 寄りを人間として尊重することは必要だけど、年寄りの意見を聞いてはいけない。少なくとも、何故自分がそれを尊重するのか、よくその理由を考えるべきだ。

まして、政治をまかせたりしてはいけない。

政治がどういうものなのか、年寄りの概念で考えてはいけない。

この言葉は重い。オレたちゃすでにそういう状況に立っているって事でもある。興味を持たず、日常に政治を取り込んでいかなければ、それは死んでいるのと同じである。後になってから、文句をいったってしょうがないのだ。サイレントマジョリティーは、サイレントであるままではいないのと一緒なんだと思う。少なくとも、多くの政治家にはそう思われているのが現状だ。

さて、こんな事を考えながら同時に思い出したのは、このエントリ。

2008-08-31 - アンカテ

しかし、日本では、オバマやペイリンやメドベージェフになるべき人が、今、どんどん権力から遠ざけられているか自分から逃げ出して、2ちゃんねらになっているのではないだろうか。

これは、実は結構真実なんじゃないか?でももう、逃げ出してばかりではいられないだろうってのが、オレの率直な感想。そろそろ正面切って戦わないと、本当にクソミソにされて悲惨な人生送ることになるぜって状況が見えて来つつある。現実をちゃんと見つめて、取るべきアクションを取らなければならない。

「信じる力」が足を前に踏み出させる - 狐の王国

疑うのと信じるのとは交互に行われなければまったく意味が無い。疑ってばかりでは何も行動できなくなるし、信じるだけでは間違いを見付けられない。

なんでもいい。自分が信じられないなら他人を信じればいい。他人が信じられないなら自分を信じればいい。過去の人物でも伝説上の人物でもラノベの登場人物でもその一部でもなんでもいい。

とにかく信じて、前に進む事を考えよう。考えるべきは疑うことじゃない。どうやって一歩前へ、歩き出すかだ。

オレも含め、2ちゃんねら~は大概アイロニーだ。皮肉屋で、斜めにしか物事を見れず、真面目に頑張るとか信じるってことが苦手だ。でも、そんな2ちゃんねら~でも、意外と動く人間もいるってことを、オレは去年の長野やいろんな場面で見てきた。そして、そういう所から少しづつ世の中を変えていけるかも知れないって可能性が生まれつつある、とオレは信じてる。MIAUだって、そういう形で生まれたまったく新しい可能性だ。

アイロニーでも良いじゃない。斜に構えながら、それでも「まあ、しゃあないか」と言って腰をあげて行動を始めようぜ。どうやら今が、そのタイミングみたいな気もするしさ。

2009年03月28日

「Poken Night!!」の詳細が決まりました!



以前告知した「Poken Night!!」の詳細が決まりました!!

4月10日(金)20:00〜22:00(19:30OPEN)、会場は渋谷円山町のJEEKAHN'S 4F(※club atomと言ったほうがわかりやすいか)です。
2時間半の飲み放題+ビュッフェ形式で、参加費ひとり4000円。

なんと!!スペシャルゲストとしてMerce Deathさんのライブパフォーマンスをやってもらうことになりました。わっしょーい!!そして、WebSigで意気投合したワンパクの阿部さんにもコミュニケーションツールの提供としてお手伝いしていただく予定。Poken Japanの人も参加してくれるとのことで、おもしろいことになりそうです。

※事前申し込みしていただいた方には、メールでご連絡します。

Poken Night!!

日 時:2009年4月10日(金) 20:00〜22:00(19:30開場)
会 場:渋谷 JEEKAHN'S(ジーカンズ)4F
定 員:100人
参加費:4000円(飲み放題+ビュッフェ)
主 催:HiMA
協 力:レベルQ / ワンパク
ゲスト:Merce Death ※ライブパフォーマンス

JEEKAHN'S(ジーカンズ)
東京都渋谷区円山町2-4 ドクタージーカンズビル4F [MAP]
TEL:03-3476-7811

※主催は、スイーツナイト運営チームの3人ですが、今回からチーム名「HiMA(ハイ・エム・エー)」として活動することになりました。

2009年03月20日

グループワーク

IDEOが何より組織的なチームワークによるイノベーション技術を重視するように、デザイン思考の仕事術では、複数人がグループになって仕事をする方法がとられます。ワークショップやブレインストーミング、プロトタイプなどを使ったシミュレーションなどが代表的な方法でしょう。



当然ながら、ひとりで同じ成果が出せるなら、グループワークをする意味はありません。デザイン思考においてグループワークが重視されるのは、その方法を用いれば個人個人がひとりで仕事をする以上の成果が期待できるからにほかなりません。

まず、グループワークということを考える上では、このことを忘れてはいません。

では、どうすればグループワークによってひとりで仕事をする以上の成果を得ることが可能になるか?
あるいは、グループワークという方法はなぜそのような成果を出せるのか?

このグループワークという仕事の方法について、今日は考えてみようと思います。

なぜ仕事でのグループワークがうまくいかない場合があるのか

まず、グループワークについて考えるきっかけになったのはコレ。

ショックを受けたというのは、実際に結果が重要なのはワークショップよりも仕事のほうなのに、うまくいかないとしたら、それはいったい何なんだろう?

藤井さんは、僕が「遊びに関するメモ。」というエントリーのなかで「ひとつの組織のなかで仕事として行うワークショップと、自由に応募してきた所属もバラバラの参加者がワークショップでのグループワークでの仕事の仕上がりが違」い、かつ後者のほうが仕上がりがよいと書いたことにひっかかったようで、「なぜ、ワークショップの仕上がりが違うのか?について、事実(体験)ベースで考えてみる」と「ワークショップ再考(コート、ルール、下準備、そして参加者)」というエントリーを続けて書いてらっしゃいます。

実際には「考えるきっかけ」というより、このエントリーを「書くきっかけ」なので、それゆえ、藤井さんが「ワークショップ」について考えているところが、僕の場合、もうすこしスコープを広げて「グループワーク」になっています。そして、元々のエントリーで「「遊び」と複数の人びとが集まって行う仕事との関係性を感じている」と書いているとおり、藤井さんが「いったい何なんだろう?」と疑問に思ったことの答えも、僕は「遊び」というもののなかに見出しています。

それについて以下で書いてみようと思います。

グループワーク成功の条件

最初に僕がグループワーク成功の条件だと思っていることを示しておこうか、と。



そう。「発想」「能力」「意欲」という3つの要素がグループワークの場に結集してくれないことには成果は出ないと僕は考えてます。

意欲

簡単なところから説明していくと、意欲がなければ、成果が出ない。これは当然ですよね。仕事でやってるのに、意欲がないなんてことあるの?と思われるかもしれませんが、これは実際によくあることです。

原因は、ろくな説明もないままグループワークの場に参加させられたり、そもそもグループワークなんてめんどくさいと思っていたり、いろいろです。この点では、個人が自主的に参加してきたワークショップのほうが参加者の意欲が高いことのほうが多いんですね。

ほかにもグループワークを行う場所という要因もああります。なんとなく集中できない場所だったり、あまりに整然とした刺激のない空間だったりすると意欲がそがれるケースがあります。
あとは作業手順や必要な道具などの準備が足りないなんてケースも、メンバーの集中力が欠けて意欲がそがれてしまう一因です。

グループワークを行うメンバーに意欲をもって参加してもらえるよう、空間、メンバー選定、グループワークで何をやるかの共有、そして、作業手順や道具の準備などはあらかじめしっかり行ったうえでない意欲のある場にならないかなと思っています。

能力

次に、能力ですけど、これもわかりますよね。そもそもグループワークで行う作業ができる能力に欠けると成果がでないのは当たり前ですよね。

ただ、作業能力そのものは、全員がダメだとあれですが、ある程度、グループのなかに作業に必要な能力をもった人がいれば、参加メンバー同士で補うことができます。一人や二人、作業能力に欠ける人がいても問題ありません。自分がちょっと他の人より能力に欠けるなと感じたら、アシスト役にまわればいいので。
もちろん、そういう気が利かず、ぼーっとしてしまう人がいると、グループ全体の効率が落ちるのは「内省する力(第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ1日目)」でも記したとおりです。

なので、グループワークで欠かせない能力って、コミュニケーション能力なんですね。他人といっしょに作業をする能力。俺が俺がというのではなく、他人の意見も聞きつつ、自分のアイデアを膨らませたり、それをあらためて他の人にも共有する力。

はじめて顔を合わせた人どうしが集まったワークショップの場ですと、はじめはここで戸惑うことはありますが、「横浜デジタルアーツ専門学校・Web科箱根合宿 リフレクション」でも書いたとおりで、知らない人とのコミュニケーションって、会話から入るより作業の共有から入った方が打ち解けやすいわけで、適切な作業が設定されたグループワークの場ならそれほど問題は生じません。
この点でも、決して仕事の場で顔見知りの人同士でグループワークをすることに利点があるわけではありません。

発想

最後に発想。これが一番の問題なんですね。僕は実はこの点にこそ、同じ会社内で仕事でやるグループワークがうまくいかない一番の要因があると思っています。

皆さん、発想ってどこからやってくるかわかってますか?
それは外からやってくるんです。外から来たものを自分に招きいれたところに、ひらめきは生まれます。

予定調和的なところからは発想は生じず、発想には偶然の出会いが必要なんですね。もちろん、出会いなので外から来たものを受け止める感性が働かないと発想にはなりません。

ここがポイントです。発想を生むためには自分の領域の外から刺激が入ってくることが必要なんです。
グループワークがひとりでやる仕事とは違った成果をあげやすいのも、ここに理由があります。他人といっしょに作業をするのですから、そこには自分が想定していなかった様々なことが起こります。その予定外の出来事に刺激を受け、普段と違った発想が生じることにグループワークの意味があります。そして、そうした普段とは異なる発想が複数人のあいだで次々に起こっていき、それが結びつくことで、いわゆる創発的な発想が生じてくる。それがグループワークという仕事の方法なんですね。

さて、もうおわかりでしょうか? なぜ、同じ会社内でのグループワークがうまくいきにくい理由が。
そうなんです。普段、いっしょに仕事をしている人が集まってしまうと、外がなくなってしまいやすいんですね。作業やコミュニケーションのなかでの意外性がすくないんです。これが同じ社内でも、ぜんぜん別の部署の普段はほとんど顔もみないような人なら別ですけど、それでも同じ会社としての共通理解が外部性をすくなくしまうということはあります。

IDEOが外の会社とのコラボレーションを推奨するのも、ここに理由があります。また、領域横断的な好奇心を大事にするのもおなじことでしょう。

グループワークが組織内でちゃんとできるかどうかって結構重要なことだと思うんですよね。それによってIDEOのようなクリエイティブな組織になるか、ただの凡庸な組織になるかの違いが生まれてくるわけですから。グループワークの技術はきちんと組織内で身につけていかないといけないんじゃないかと思います。

客を招く

どうでしょうか? 僕が「遊びに関するメモ。」で、なぜ古来の神を招く祭りの場としての「遊び」とグループワークの関係に触れたのか、なんとなくわかってもらえたでしょうか。

折口信夫さんのマレビト(客人)論が、外から来る人びと―神を招く場を祭り=遊びの場として論じたように、遊びの場というのは、外からくる異質なものをもてなす場です。これが日本文化においては、茶会、連歌会、聞香の会、立花の会など、主客が集い一座建立する遊びの場へとつながっていきます。田中優子さんが『江戸はネットワーク』で述べているように、そういた場には必ずといってよいほど、神座が用意されました。主人が異質な人(客人)を招くことで、そこで遊びが生まれるという意識が、そうした場にはずっと受け継がれてきたわけです。
昔は、異質なものを招く技術というのがちゃんとわかっていたんですね。

これは『ワークショップ―偶然をデザインする技術』という本を書いている中西紹一も書いていることですね。

私は、武家社会における茶道のスタイルは結構ワークショップだったのではないかという気がしているんですよ。身分の差はあるのに、にじり戸をくぐった時にそれはなくなって、ある種の作法は必要なんですが、それがちゃんとしていれば、後は「同時性」をどれだけ楽しめるか、という点に集中できますよね。

この本のサブタイトルである「偶然をデザインする技術」というのも、まさにグループワークのポイントがきちんと押さえられていると思います。グループワークには異質な者同士がひとつの場における「同時性」のなかで一座建立しながら、偶然から生まれる発想を積み重ねて成果につなげていくことができるかというところに、そのむずかしさも、それを行う意味もあるはずなんです。

遊びのなかのはかなさ

もうすこし日本文化における遊びの場ということを紹介しておくと、前に「「連」という創造のシステムを夢想する」でも書いたように、江戸期のさまざまな文化は「連」と呼ばれたネットワークの場によって生まれています。まさにグループワークによる創作が盛んだったんですね。

その連というのも、グループワークにおける「異質性の受容」というところをしっかりと押さえています。

連は、会社組織などとは異質な一回性をもち、思想運動・芸術運動などとは異質な、純粋に機能的な性格をもっている。ひとつの具体的作業のために集まり、それが終われば解散する。

「ひとつの具体的作業のために集まり、それが終われば解散する」。これなんて、個人が自主的に参加するワークショップの形に近いですよね。

また、その「連」の場というのも、

彼らにとっての「場」は権威や論理によって保証されたものではなく、前提がはっきりしている以上、あとは実際の働きによって保証されるものだからだ。

といった具合に、そこで行われる作業そのものによってはじめて保証されるという意味で、いわゆる遊びに近い。
遊びはトランプゲームでも鬼ごっこでも野球やサッカーのようなスポーツでもそうであるように、制約となるルールはありながら、そのルールは遊びを遊ぶため以外には意味がなく、でありながら、ルールを破れば遊びそのものが成り立たなくなるという「実際の働きによる保証」というはかなさをもっています。

でも、この遊びのなかのはかなさに意味があるのだと思います。

グループワークというのはある意味ではハレとしての仕事の場だと思うんです。日常のケの場からは切り離された形で、にじり口を通った様々な身分の人が身分を忘れて「同時性」の場を共有するように、日常の立ち位置からは離れた場所で異質なものに出会うというところにグループワークという仕事の方法の価値が生まれてくるのだと思います。

一に結構、二に手続き、三に趣向

本当はこうしたことさえわかっていれば、同じ会社の顔見知り同士でもグループワークを成功させることはできなくはないんですね。それがある種の祭りであり、異質のものと出会い、それをもてなすことで自分たちが変化していく場だということを忘れなければグループワークの成果は出せるはずです。
その場合は人ではなく、テーマだったり作業の場所だったりを工夫して、異質なものとの出会いがその場に生じるよう工夫すればよいかと思います。

つまり、これですね。

能楽よりあとに出現してきた茶の湯などでは、そこにだれもが主客を入れ替えながら入っていけるようなシステムになってきた。しかも、床の間には各種の情報メッセージをもった掛け物や花や置き物をアドレスできるようになっているし、茶道具のひとつひとつにも由緒由来というデータベースがついていて、亭主や客人はこれを売価に一座建立の場を共有できる。

「意欲」のところにも書きましたが、グループワークを行う場の設え=室礼が大事か、と。
松岡正剛さんは遊びの本分として、「一に結構、二に手続き、三に趣向」をあげています(「おもてなしのための主人の覚悟とユーザーエクスペリエンスのデザイン」参照)。

まぁ、あとは自分自身で体験しながら、それぞれ藤井さんのよう考えてみてください。

現在参加者募集中のワークショップ
「シナリオとプロトタイプによるデザイン法」(5月27日(水)10:00~17:00)

   

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2009年03月12日

Webマーケティングを組み立てる

ここ最近(というか、すくなくとも1年以上は)、Webマーケティングに関する話題を書いていなかったが、今日はそういう気分なので、ちょっと自分の知っていることを整理してみる(なんとなく自分的には原点のひとつに立ち返ってみようという気になったので)。

最初にこれだけは書いておこう。

はじめにラフな形でも売れるしくみの絵が描けていなければ、マーケティング・コミュニケーションは成功しない、と。最初は木を見るのではなく森を見る視点が必要なのだ、と。

時間は何より大事なので、絵はコミュニケーションをはじめる時点では一部は「絵にかいた餅」であってもよいが、全体の売れるしくみの絵すら描けていないのであれば、成功はおぼつかない。
やってみないとわからないというのは「絵にかいた餅」があってはじめて言えることで、絵すら描けないのならやってみるまでもなく結果はわかっているのだ。

ということだけ、最初に書いておいて、あとは思いつくまま、雑多に。
内容はどちらかといえば、大手企業よりは中堅以下の規模の企業向けですし、物理的な商品よりはサービスを販売している企業向けでしょうか。それでもよろしければご参考に。

何を、何のために、どうやって

どういう表現をとるかは別として、マーケティング・コミュニケーションのためのメッセージには次の3点が含まれていなくてはいけない。

  • あなたが提供するものは何なのか?
  • それは何の役に立つのか?
  • 何故、それができると思うのか?

「あなたが提供するものは何なのか?」という問いは、自分たちの商品・サービスを顧客にどう知ってもらうのか、どう認知してもらうのかに関するものだ。自分たちが商品をどう思っているのかではなく、顧客にどう感じてもらうのか、そう感じることは顧客にとって意味のあるものかということである。
次の「それは何の役に立つのか?」という問いは、その商品が本当に顧客が必要としていること、欲していることを満たす能力を有しているのかに関する問いである。その商品・サービスを提供することで、顧客の生活、顧客の業務がどう変化するかを伝えるメッセージである。
3つ目の「何故、それができると思うのか?」という問いは、自分たちが何故、商品・サービスを通じて顧客が求める価値提供を行えるかを納得してもらうためのメッセージに関するものだ。価値提供が可能な技術力はあるのか、人材は揃っているのか、顧客のことを理解して親身になって接するつもりはあるのか、社会の問題、環境の問題にいかに配慮をしているのか、何が他社とは違うのか。何より、そうしたことを顧客に対して真剣に伝えようとする気持ちはあるのか、である。

商品・サービスこそがメッセージだ

この3つの要素からなるメッセージは、商品・サービス単位で伝えればいいのではない。そうではなく顧客にとっての価値という単位で伝えるべきだ。

たとえ異なる顧客がそれぞれ求める価値を提供するのに同じ商品・サービスを通じて、その価値を提供する場合でも、商品・サービスの視点でメッセージを1つに括ってしまうのではなく、顧客がそれぞれ別の価値を要求するのならそれぞれに対して別のメッセージを用意すべきだ。必要ならば同じ商品・サービスであっても、別の名前の別の商品としてみせたほうがよい。

Webページでコミュニケーションを図ろうとするならなおさらだ。何も一般大衆として括って同一のメッセージを違う価値を要求する顧客に対して発信する必要はない。あまりにバラバラにしすぎても問題だが、ある程度は顧客の要求するニーズごとに同じ商品・サービスでも別のものとしてコミュニケーションをしていくほうがよい。結局、営業フェーズに入れば顧客との1対1対応になるのだから、顧客へのメッセージは早い段階から顧客向けにある程度カスタマイズしておいたほうがよいのだ。

忘れてはならないのは、商品・サービスこそが市場とのコミュニケーションそのものだということだ。顧客とのコミュニケーションを維持するためには企業は常に新しい商品・サービスを提供し続ける必要がある。常にだ。
もし顧客のニーズに応じた商品・サービスを継続的につくりだすことができないのなら、自社のマーケティング・コミュニケーション能力を一度疑ってみることをおすすめする。

バランスト・スコアカード

マーケティング・コミュニケーションは決して商品・サービスの単位でのみ行えばよいわけではない。その商品・サービスを提供する企業のすべての面を必要あらばきちんと伝えていく必要がある。

Webサイトは企業の縮図である。企業として顧客にどう見られたいか。そう見られることで自分たちの商品・サービスに興味をもってもらえるか、信頼・安心感を感じてもらえるか。そういうことを踏まえたうえで企業全体をどう伝えるかを構成する必要がある。

企業のすべての面とは何かを考えるうえでは、バランスト・スコアカードの4つの視点が参考になる。

  • 財務の視点:どれだけの営業実績があるか。経営は健全か。ほかの顧客もその企業のことを信頼して付き合っているかの指標を与える。提供するサービスによってはその企業のIR情報さえ、顧客にとってのマーケティング・メッセージとなりうる。
  • 顧客の視点:顧客の視点でのメッセージの中心は商品・サービスの紹介である。ただ、商品・サービス情報のみでそれを伝えるのでは足りない。関連する情報として、顧客の声や導入実績、セミナーやイベントの情報、環境への配慮や社会活動なども顧客の信頼や安心感を醸成するメッセージとなる。
  • 業務プロセスの視点:業務プロセスを顧客に対してブラックボックスにする必要はない。プロセスをきちんと見えるようなメッセージを与えることで顧客の信頼が得られることは少なくない。また、高度に組み上げられたプロセスそのものが顧客を魅了することもある。
  • 学習と成長の視点:結局、企業は人である。企業のなかでどんな人が働き、どんな努力をしているのかは、就職活動中の学生だけの関心事では決してない。企業のなかで人がどんな学習をし、どんな研究を行っているか、そうした人びとを組織はどのように支援しているか。結局、そういう人の顔が企業のブランドパーソナリティを形づくっていく。代表者の顔だけが目立っているのでは、組織ではない。いろんなパーソナリティをもった人びとが集まった組織をみせることのほうがブランドパーソナリティにはるかに厚みを与える。

このバランスト・スコアカードの4つの視点はあくまで企業の全体が何で構成されているかを考えるフレームワークの一例にすぎない。どんなフレームワークで構成を考えるかは、その企業が提供するサービスや主要顧客が誰かなどによって変わる。自分たちにあったフレームワークで、企業コミュニケーションの形を考えてほしい。

大事なことは、商品・サービスを通じて顧客に価値提供をしている自分たち組織がいったい何者なのかをきちんと伝えることである。

コミュニケーションは継続的に

最後に大事なことを。

商品・サービスに関するコミュニケーションにせよ、企業コミュニケーションにせよ、Webでのマーケティング・コミュニケーションを考えるなら、情報発信は継続的に行い続けなくてはいけないということだ。継続的に行うというのは、最低でも週に1回程度は顧客に対する情報発信を行い続けるということである。
もちろん、それにはブログを利用してもいい。ただ、ブログだけが更新されるだけではだめだ。商品やサービスも継続的に発表し続ける必要があるし、Webでのコミュニケーションだけでなく、プレスリリースも併用する必要がある。

では、何を継続的に発信していけばよいのか。情報コンテンツの種類はいろいろあると思うが、結局は以下のようなプロセスで、ひとつのコンテンツを一度の更新で終わらせずに、ある程度の期間、コミュニケーションをし続けることが大事だ。

  • 宣言する
  • 経過を報告する
  • 結果を伝える
  • 日々の改善努力を伝える

もちろん、こうしたコミュニケーションを継続的に行うためには、最初に「絵に描いた餅」が必要だし、その「絵に描いた餅」を実際の餅に変えていく活動やその経過を継続的に伝えていくための体制も必要である。もちろん、計画には目的とゴールが含まれているはずだから、常にゴールへの達成率を図り、計画どおりにいかないところがあれば、常に改善ができるような管理体制も整えておく必要があるだろう。

こう書くと何やら大変なことのように思われるかもしれないが、大変だと思うなら最初に描く餅を小さめにするとよいだろう。最初は小さくはじめても継続的に続けることで、徐々に規模を大きくしていく方法はその継続のなかでわかってくるものだ。

大変だといって何もやり始めないことが一番の問題だろう。売るつもりがないというのなら、それでもかまわないのだろうが。

 

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2009年02月02日

物事へのこだわりと元気のなさ

最近、いろんな会社の人にお会いして「元気がないな」と感じることがあります。
積極性や前向きさを感じなかったり、意欲や緊張感がなかったり、大人しかったり、身軽さを感じなかったり、もっと単純に生気を感じなかったり。そういういろんな要素が混ざって「元気がないな」というのを感じます。そういうのって個人が、というより、会社単位で、という印象がある(といっても、僕がお会いするのは大きな会社のごく一部の部門の一部の人たちではありますが)。

今年にはいって、よけいにそれを感じるのはやっぱり不況のせいでしょうか。
でも、そういう人ばかりかというと、決してそうでもなくて、割合としては少ないほうになってしまいますが、相変わらず元気が感じられる会社の人たちもいます。

課題と悩み

元気を感じる人たちとそうでない人で何が違うのかを考えると、元気を保っている人たちはちゃんと自分たちがどうにかすべき課題というのをちゃんともっているんですね。その課題を具体的にどうやって解決していこうかというので、相談されたりしますが、すくなくとも、その課題をどうにかしなきゃというので目が輝いている。
それは話をしてる際の食いつきが違うのでよくわかります。そういう人たちは自分から話の中に飛び込んでくる。その飛び込み方はぎこちないことがあっても、どうにかしようというので話の輪に入ってくる。

逆に、「元気がないな」という人たちは、自分たちの課題がよくわかっていない。あるいは、課題があっても、どこかでその解決を投げだしてしまっているところを感じます。しかも、投げだした課題というのは、大した課題ではない。課題というより、単なる悩み。
悩みなんてそこれそ誰にだってあって、明確な課題をもって仕事に臨んでいるもう一方の人たちだって悩みを持ちつつ、それとは別の次元で課題を解決しようとしてるんですね。
その意味では、悩みなんてどうやったってなくなりません。そんなどうしようもないものに関わっていられるなんていうのは、本当に解決すべき課題が見えていない証拠なんです。「元気がないな」と感じる人たちに限って、そういう悩みと具体的に解決すべき課題の区別がついていない場合が多い気がします。

こだわりの有無

いまの話がどちらかというと、会社単位というか、会社の中の一部門単位のような話だとすると、個人単位でも元気がある人とそうでない人の違いがあるような気がします。

それは自分なりの積極的なこだわりをもって仕事ができているかということかなと思います。

元気を失わない人って、どんな仕事のなかでも自分でこだわってその仕事に携わることができるんだと思います。それは仕事に対する好き嫌いというのとは別。やり方にこだわったりというのとも違う。もちろん、単に他人の意見を聞かない頑固者というのではありません。

言い方を変えるとディテールを大事にするとか、様々な視点で物事を捉えて評価するといった感じでしょうか。物事をちゃんとこだわって評価する眼をもっている。迷わないとい事はないのでしょうけど、評価をするのに他人の意見に左右されない自分の眼をもっている。その眼でもって、目の前に展開する物事をちゃんと自分で評価し判断する力がある。

そういう人って元気を失わないんですね。いや、失ってるヒマなんてないんでしょう。ある意味、没頭した形で仕事をするので、まわりの雰囲気に振り回される部分がすくないのでしょう。

鈍感な人との違い

それはまわりに対して鈍感というのとは違います。

鈍感な人は確かに別にいて、自信満々でエラそうにしていて、何か自分のこだわりをもっていそうですが、それがその人の感覚というよりは単なる知識の蓄積であることが多い。そういう人は鈍感なので逆に自分の間違いに気づかない。なので、自分が間違えるかもしれないと思って、繊細に人に接することがない。だから、傍から見ると大柄に移ってしまいます。そして、普段エラそうな分、いざ、やるべきときにあたふたしたみっともない姿をみせることが多いんですね。

こだわりを持っている人というのはそうではなくて、逆に感覚が繊細であるがゆえに迷う。だから、自分のちょっとした振る舞いにも間違いがなかったかを気にしていて、他人に対しても繊細な振る舞いをみせる。ただ、こだわりは強いので、いざ、やらなくてはならない時の集中力はすごい。まさに「疲れてる」より「憑かれてる」という感じです。

まわりの雰囲気にあわせすぎない

こういうこだわりをもって仕事に打ち込める人がどれだけいるかで、この不況の時代でも社内を元気に保ち、そうした活気ある現場の雰囲気のなかから不況を乗り越えていく仕事を生み出していける企業か、そうでないかの差が出てくるんじゃないのかなと感じています。
そこが本当の意味での不況下でのマネジメントの腕の見せ所なんじゃないでしょうか。とにかく何をしたらよいのかわからない、課題が具体的にわからないような状態がいちばん危ういのだと思います。

個人単位でみても、いかに自分のこだわりの眼を磨けるかどうかなんじゃないかと思います。客観的な評価視点にばかり頼っていたら、こんな時代を乗り越えられるわけがない。あらゆる客観的評価の測定値がマイナス方向に成長しているわけだから、そんな状況で外部の評価につきあっていたら、どんどん気が滅入るばかりです。

自分の眼で物事をきちんと評価できるようになる

客観的な評価を完全に無視する必要もありませんが、そればかりを気にしすぎてもいけない。
それ以上に自分自身の眼で物事の評価ができるようになることが大切です。目利きの力を養うことです。人とのコミュニケーションもそれで円滑になる。
僕が見てると、元気がない人って他人のニーズを感じ取るのも下手だったりして、当然、顧客のニーズもユーザーのニーズも理解するのが苦手。それでまともなものができるわけがない。そういう意味で目利きが大事。

もちろん、自分が評価したことには自分で責任をもつことになるわけですから、単に覚悟を決めてエイヤで評価を下していけばよいというわけにはいきません。とにかく自分のなかで経験を積んで、正しく評価できる眼を養うしかない。そういう眼って仕事の時間にだけでは養えなくて、むしろ、普段の生活そのものを自分で律していくことが必要なんですよね。仕事にも、プライベートの生活にも、そして、人生やそれを囲んだ物や人びとに対しても、こだわりをもった眼で接して、そこから感じたことを自分の身で引き受けるようにしないと、いつまで経っても、自分自身の直観によるスピーディかつ温かみをもった仕事ができるようにはならないと思う。

その眼によって自分の責任を担う。そこから逃げてばかりでは、いつまで経っても自分の眼で物事を評価する力を持てなければ、何も作りだせないし、デザインすることも企画することもできないでしょう。デザインも企画も、自分の眼による小さな評価の積み重ねなわけですから。

自分の眼で物事をきちんと評価できるようになる。
それができるようになれば、元気なんて失っている場合じゃないのがわかるようになるはずです。
元気があれば…、(以下、略)

  

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2009年01月14日

[ブログスカウト]LocoRoco2の思いどおりにならないキャラたちからマネジメントを学ぶ

軽快な音楽とファンキーな世界を、
これまた個性のあるキャラたちが縦横無尽に遊び回る。
PSPゲームソフト『LocoRoco2』

locoroco_01_20090113.jpg

かわいい外見とは裏腹に、
マネジメントの難しさを表現した、
マネジメントトレーニングツールといえる。

自由奔放なキャラたち

まず、キャラが思うとおりに動かない。

ワキャワキャさわぎ、
右に行ったり、左に行ったり、
分裂したり、合体したり、
空を飛んだり、水中を泳いだり。
こちらの予想もしない行動をとる。

マネジメントする側としては、
意図する方向に導こうと汗を流す。
本体の上のLボタンとRボタンならまだしも、
本体そのものを空中で傾けさえする。

しかも、通勤電車のなかだから痛々しい。

マネジメントの意志が伝わらない
コミュニケーションの難しさを表現している。

アバウトな目的

次に、目的がわからない。
ストーリーとしては、おだやかなとある惑星。
突然飛来した「モジャ」たち。
かれらを追い払うのがミッションに見える。

だが、果たしてキャラたちは、その意図を理解しているのか。
あちこちに生えた実をかじっては、
ふらふらとステージ上をさまよい歩く。

マネジメントの指し示すビジョン
理解されないのと似ている。

自由にいじれるはずの、ムイムイハウス

一方、比較的自由になるのが、
オフィス環境もといキャラ環境のムイムイハウス。
部屋を拡張したり、家具を設定したり。

locoroco_02_20090113.jpg

しかし、キャラたちがステージで獲得したリソースをどう配分すべきか。
悩みは尽きない。

新しい拡張をしても、ムイムイたちの反応が冷ややかに見えることがある。

マネジメントは充実したオフィス環境や手厚い福利厚生に
工夫をこらすが、当たり前の話でしかない。

まとめ

遊べば遊ぶほど、もどかしさとともにすべてを許せる心の広さが身につく。
マネジメントで苦労しているかたにこそ、ぜひ遊んでほしい。

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※免責事項:わたしはブログスカウトさんからこの記事の執筆に基づいて謝礼をいただく予定です。

2008年12月03日

マークアップな人たち(じゃなくてもいいけど)の忘年会 -2008年

東京のマークアップの皆さんと忘年会に行ってきましたというご報告です。

レポエントリー

完全に乗り遅れましたが、参加していただいた皆さんからはすでにレポエントリーが上がっているので、概要を知っている方もいらっしゃると思います。今週月曜日に東京のマークアッパーな方々と出張がてら飲んできました。参加者はこんな感じです。

なんていうすごい面々だ、これはwこんな人たちを僕の都合に合わせてもらって、なんかもうごめんなさいというか何というか><月初+月曜日+平日っていうかなりの悪条件なのに誰一人も遅れずに来てもらいました!(一番遅かったのが僕というザマ)いやもうほんとありがとうございます。

きっかけ

はじめはTwitterでTakazudoさんと僕が今度飯でも食いに行きましょう的な話から、じゃあせっかくだし、いろんな方を呼んでみましょう[謎]という盛り上がりでこんな方々に集まってもらいました。

関西で働く僕としては、関東のマークアッパーな皆さんはどんなことに将来性を感じ、何を課題に感じているのかをぜひ聞いてみたかったというのがありました。

キーワード

会話をボイスレコーダーでとっておくべきだった(もしくはメモ書きしておくべきだった)と今更後悔しても仕方がないのですが、このときの会話で上がったものなど(時系列は無視で)。

  • 巣鴨CSSwww
  • ウーロン茶はピッチャーでw
  • ポロリはなかったけど、「ちょwww」って口に出してしまいそうなボロリの話が何点か。
  • IE8の印刷はすごい。
  • vimユーザは一歩上の感じ。
  • IAとJSに興味を持っている(or勉強している)人が多かった。
  • それぞれの会社のコーダーの人数や役割分担など。

といろいろと書こうと思ったんですが、やべ、日にちが経ってしまっていて、微妙に覚えていないwというより、すでに参加されていた方々がそれぞれエントリーとして残してくれているので、それを参照してください(おい

関西のWebに携わる人間から

僕の中では関東圏のマークアッパーの方々って、こうなんていうんだろう、技術のみを追いかけるようなストイックな人たちの集団という印象を持っていたのですが、どうやら悩んでいることは全国共通のようです。それに安心したというかなんというか。

それでも、ここに参加していた人たちの技術的な野心というか、その貪欲さというのがやっぱりすげえなーと。おれ、もっと頑張らないとって単純に思えました。本当にお集まりいただいた皆さんありがとうございます。加えて、いろいろと準備をしてくれたTakazudoさん、hamashunさん、ありがとうございます!

で、次回ですが、Sugamo.css[仮称]で皆さんにお会いできるってことですね!w