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2010年06月15日

野菜の力 精進の時代/棚橋俊夫

この本は新しくライフスタイル研究会のメンバーになった方から紹介いただいた。
最近よい本との出会いが多いが、またしても、心に響く一冊である。
「生きる」ということはどういうことか、生きることと食あるいは農はどのような関係にあるのかを教えてくれ、美しく生きようという意欲を持たせてくれる。

ひとつ前に読んだ尾久彰三さんの『観じる民藝』書評)では、美を見つめる眼差しを養うためには日々の暮らしの中でモノを真っすぐに受け止める姿勢の大切さを考えさせられたが、この本では、さらにモノを美しく見せるためには、何よりもまず日々を生きる自分自身の姿勢そのものをいかに美しく保たれるかが大事だということを思い知らされた。



まったく読んでいて、自分の生活が恥ずかしくなる本である。
例えば、“私はこれまで「座す」ということに関してまるで夢を見ているような経験を二度しています”と述べたあとに紹介されるこんなエピソード。

1つは、私の英語の先生であるイギリス人とその友人、6名で座敷に通っていただいたときのこと。淡々と1つ残さずすべての料理を綺麗に召し上がっていただいた後で、私が食後の挨拶に顔を出すと、その六畳間はまるで由緒ある寺の本堂に導かれたかのような雰囲気でした。大柄な仏たちがきちっと座って、柔和な顔をしている。よく見ると彫りの深い青い目をした外国人なのですが、時空を越えて荘厳な異空間に入り込んだ気がしたのです。

食の姿勢が仏のように美しく観られるような生活を僕らはしているだろうか? それが精進料理屋という日常のケの空間とは異なる場所、体験であったとしても、僕らはそんな姿勢をとることができるだろうか?

「恥」という言葉が読みながら何度も思い浮かんだ一冊だった。
美しく生きなければという想いが幾度となく込み上げてきた本だった。

では、読んだ感想も交えつつ、すこし内容も紹介しよう。


「月心居」の建築

本書の著者は、27歳からの3年間、滋賀県大津市にある美味しい精進料理を食べさせてくれることで有名な月心寺の村瀬明道尼のもとで修行をしたあと、92年、東京・原宿に精進料理の店「月心居」を開いている。
15年に及んだ「月心居」は残念ながら2007年12月にたたまれたが、その後、是食(ぜくう)キュリナリーインスティテューを主宰して、「21世紀は野菜の時代」という信念のもと、野菜の素晴らしさや心身ともに豊かな生活を提案する活動を国内外で意欲的に続けている。

その月心居を原宿に建てた木造建築を得意とする建築家の吉田桂ニとの対談に、こんな場面がある。
吉田さんが家を建てる際には、施主の立場で作るのは当然として、施主自身も気づいていないことを察して設計するという話をした流れで出てきた会話である。

棚橋 そういう意味では、「その人間にふさわしい家しかできない」ということもいえるのでしょうか。
吉田 そうですね。誰でも住んでいいわけではない。
棚橋 人間がそこそこなのに、いい家を作りすぎてもだめということですね。
吉田 そうなんです。大切なのは「その人の家を作る」ことですから。

そんな吉田さんが設計したのが、棚橋さん(もちろん、僕じゃないw)のために設計したのが月心居である。
棚橋さんは「料理をしている最中に、詰まったり引っ掛かったり、動きが止まってしまうような動線だと不自由なんですが、本当にうまくできています」と評価している。

その吉田さんの次のような言葉はさりげなく凄い。

吉田 今はもう僕は設計するときに紙もいらない、宙で作るんです。それで作りながら、その中を歩いてみる。歩いて、見て、どんな感じになるかなって。自由に映像が動くんですよ。部屋も、どう曲がればどういう空間が見えるかわかる。

単にモノを作るのではなく、「その人の家を作る」という意味での人の動きが見えるのだろう。
しかも、その動く人は、単なる人一般ではなく、「その人」なのだ。

食生活の美しさ

以前、「食とコミュニケーション」というエントリーで、柳田國男さんの『年中行事覚書』から「節供の供という字は供するもの、すなわち食物ということでもあった。今では神供とか仏供とか、上に奉るもののみに限るようになったが、もとの心持はこの漢字の構造が示すように、人が共々に同じ飲食を、同じ場においてたまわることまでを含んでいた」という文章を引用したが、本書を読んで、生活において食事をするということは本来人間にとってもっと尊いものではなかったかという思い強くした。
もちろん、その尊さは宗教的な意味での尊いというのではなく、野や山の自然から自分たちを含む人々の労働によっていただくことのできる食をありがたくいただき、生きていけるということ自体の尊さである。

と同時に、その尊さが僕らが普段生きる姿勢そのものから消えてしまったことを恥ずかしく感じたのだ。

明治生まれのご夫妻に「月心居」で、食事を召し上がっていただく機会がありました。その老夫婦の背筋を伸ばし毅然とした姿は、日本人の原型(ルーツ)を垣間見た思いでした。
お二人が座られた部屋にはそれだけで気品が漂い、穏やかに食事を楽しまれるその姿は、神々しいほどでした。私も心が洗われる思いがしたものです。
食を楽しむには、作り手と食する人、お給仕する人のそれぞれが互いの持ち分をしっかりと把握して、美しく振る舞いながら気持ちをまっすぐ料理に向けなければいけません。言い換えれば、どんな立場でも手を抜かずにひたむきに料理に向き合うこと、それが基本です。

著者はどんなに科学が発展した現在でも、茄子やトマトを人間がゼロから作り出すことはできないという事実を繰り返している。この当たり前の事実を僕らは普段忘れてしまっていて、自分たちがなんでも作れるかのように誤解して天狗になっている。

それゆえ、野菜をはじめとする食のありがたみを忘れて、感謝もなく、椅子の上で背中を丸め、テーブルに肘をついて、テレビなどを観ながら食事をする。そこには食への感謝もなければ、家族などとのコミュニケーションもない。

ところが上に引用した老夫婦には僕らが忘れた美しさがある。
作る人、食べる人が一体となって作り出した美しい食生活が、今はなき月心居では繰り広げられていた。

この差はいったいなんだろう?
そのことに気づいて僕は恥ずかしくなりました。

食文化はどこに?

この本を読み終えた今週末の土曜日に僕はさっそく鎌倉に出かけ、鎌倉中央食品市場で農家が直売する野菜を買った。居ても立ってもいられなくなったのだ。最初に紹介した野菜がその時買ったものである。



家に帰ってきて、その日の夕食は、買ってきた野菜を中心に調理をし、土鍋でご飯を炊き、一人膳に配膳して星座をして食べた。背筋を伸ばして食べたかったのである。

著者も書いているが、電気釜を使わず、鉄鍋や土鍋を使って炊くご飯はおいしい。そのおいしさは冷めたご飯を食べてみるとよくわかる。電気釜で炊いたご飯は冷めるとそのままでは食べられたものではないが、土鍋で炊くと冷めてもおいしいのだ。
同じことが椅子などに腰掛けて背中を丸めてする食事と正座して背筋を伸ばしてする食事の違いにも言える。
僕らは“便利さ”や“ラク”と引き換えに何をなくしてしまったのだろうか?

私はみかけは料理屋を装っていますが、いつも心の中で「料理屋の料理になってはいけない」と自分を戒めてきました。
料理屋になれば、当然、利益を求め経営していくことが最大目標となり、商売として成り立たせなけれはなりません。そうなると、家賃、人件費、材料費などを払って資金繰りをし、最後に「さて料理はどうしようか」と考えるはめに陥ります。食に対する思考の順番が逆転しかねないのです。

著者は、「月心居」という料理店を15年間営みながら、上記のように考え、家庭で母親が作る料理とおなじものを、お客さんに提供しようと心がけ続けたという。
僕らはいまや自分たちが食べるものをスーパーなどで買って手に入れるしかない生活をしている。
本書でも、滋賀県は比叡山の麓にある「麦の家」の自給自足の暮らしが紹介され、そこを主宰する山崎夫妻のインタビューなども掲載されていますが、そこでの美しい生活に比べて僕らの日々の暮らしはあまりにも拝金主義的で皮相なものになってしまっている。
有名料理店に出かけ、地域ブランド食品に流され、賞味期限にごまかされ、スーパーでラッピングされた食材を買っている。コンビニやファミレスで食事をし、家庭料理でも○○の素、△△のタレなどという何でできているかもあやふやな調味料で味を付ける。食べログなどのレビューを気にして食事に出かけ、カロリー表示の数字を気にして食事をする。

そんな時代に「料理屋の料理になってはいけない」と自分を戒める料理屋があったのだ。一介の料理屋がそんなことを考えなくてはいけないくらい、この国の食文化は失われつつある。

しかも、それは食文化だけではない。衣食住とはいうが、それを支えているのが農であることも本書は指摘している。衣服の生地も、それを染める染料も、元は農によって作られていた。住まいで使われる布もそうだし、住まうということ自体、農的なコミュニティを中心だったはずである。

それらが失われたことまでは仕方ないとしても、それに代わるものが生み出されていないことは問題だろう。
僕らはもはやどう生きていけばよいかの指針となる文化を有していない。

そんな感想を抱きながら、まずは自分自身の生活からすこしずつでも美しいものに変えていかなければいけないと強く思うのだった。



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2010年04月06日

プロセスをマネジメントしたければプロセスを削れ

プロセスマネジメントにありがちな間違いのひとつに、ミスを減らそうとして、そのチェックをするプロセスを増やしてしまうということがある。

もちろん、すべての場合にそれが間違いというわけではない。
そのチェックが機械によって自動的に行われるのであれば大丈夫だし、そもそものプロセスが単純なものであれば、ひとつ工程が増えても大きな問題にはならない。

ミスを減らそうとして、そのチェックをするプロセスを増やしてしまうことが問題になるのは、そのミスが実はすでに多すぎて複雑な工程からなるプロセスそのものが負担となり、業務の遂行を圧迫しているケースだ。
すでに多すぎて複雑すぎるところに新たにチェック工程など追加すれば、業務の圧迫度合いはより大きくなり、また違うところでミスが起きやすくなるのは目に見えている。

つまり、そういう間違った改善策を選ぶのは根本的なプロセスの問題点が見えていないからだし、そもそもプロセスマネジメントのなんたるかをわかっていないのである。

なぜプロセスをマネジメントするのか

結局、なぜプロセスをマネジメントするのかを捉え損ねているのだろう。
企業内でプロセスマネジメントを行うのは、事業を円滑に、かつ効果的にまわすためではないだろうか?
そうであるなら実はプロセスなど、シンプルであればあるほどよい。余計な工程が増えれば増えるほど、円滑さは犠牲になるし、ミスも増える。
なんでもかんでも工程を細分化して増やせばいいというものではない。選択的な分岐や条件設定を増やせば増やすほど、プロセスは煩雑になり、プロセスをまわすこと自体の負荷ばかりが増えて、本来の業務の意味合いが意識から薄れていく。

なんでもできますと言わない

こうしたプロセスマネジメントの間違いが起こりやすいのは、実はその企業内でマーケティングがうまくいっていないことが根本原因であることが多い。
自社の事業ドメインの市場規模を含めた動向、顧客の要求や評価をしっかり考えた上で適切な商品/サービスの絞りこみ、メッセージの発信やコミュニケーション、価格設定や販売戦略が組み立てられていなければ、とうぜん、顧客の要求に応じて商品/サービスをデリバリーする側のしくみを効率的に組み立て、組織化することはできない。
そこで顧客の要求ならなんでも受け入れるスタンス、うちはなんでもできますよというスタンスでは、業務プロセスのデザインなどやりようがなく、本来ならプロセスマネジメントなんてしようがないのだから。なんでも可能にするプロセスなど、いくつ条件分岐をつければ成り立つか想像もつかないし、もし成り立ったとしても、そのプロセスを人が運用することは不可能だ。

だから、そういう状態のところに、ひとつのミスをつぶすチェック工程などいれようものなら、みすみすミスの可能性を増やしているようなものだ。
それよりも本来必要なのはシックスシグマのDMAICでも提唱されるように自社のコアプロセスと主要顧客の要求を照らしあわせ、いまあるプロセスの余計な工程をワークアウトすることだ。金を稼ぐために金にならない内部業務プロセスはできるだけ減らすのが道理だろう。

バランストスコアカードの4つの視点

こうしたことが実は売上にも、企業組織の成長戦略にも個々のスタッフの教育/学習のフォーカスと効率にも影響を与えることは、バランストスコアカードの4つの視点(財務、顧客、業務プロセス、成長・学習)を参照すれば明らかだろう。
そして、その4つの視点をバランスさせることが経営の戦略であるし、マネジメントであろう。ここはどれかひとつを見ているだけではうまくいかず、経営的な視点で4つを統合的にみてデザインするしかない。だから、この仕事は本来経営層にしか手がつけられない。

自分たちが誰に何を売って利益をあげるのか。それにはどのようなオペレーションプロセスをシステム化する必要があるか。また持続的な事業展開のためには組織にどのような成長戦略が必要で、そのために個々人が何を学習し、そのためにどのような教育機会を設けるか。そうした様々な戦略がバランスされてこそ、プロセスマネジメントがうまくまわりはじめるはずだ。

そうした根本的なところから目をそらして場当たり的な改善策を講じたりしているようでは状況は悪くなる一方だろう。

2010年01月22日

わかりにくさ、あいまいさの必要性

最近よく思うこと。
理解されすぎちゃダメ。理解されるより理解しようというきっかけになることが大事だなって思う。

1つの固定した「理解」を伝えようとすれば、どうしても押し付けにならざるをえない面がある。けれど、実際の「理解」は決して1つではない。ある事象にはさまざまな「理解」があっていい。いや、ないといけないと思う。

いまって「理解」を固定することで、安心したがる傾向が強すぎるのではないか。すぐに答えを求めがちで、自ら答えをつくることしかないということに対して腰が引けてしまっているし、そんなこと考えてもみない人がいたりする。
そんな人に「理解」を安易に渡してしまうことに、僕は最近戸惑いを感じています。それは相手の思考停止の片棒を担ぐことになってしまうから。

「伝わっていない」を認める

コミュニケーションというものを、モノの交換みたいに、あるモノが一方から別の一方へ移るような形の、情報の行き来と捉えてしまうのは違う。形の決まったものが右から左へと移動するといったようなイメージで、コミュニケーションとか、伝達というものを捉えると違うなと思うんです。

そうではなく、コミュニケーションというのは、ある情報なり、言葉なりを、発した方と受け取る方で、それぞれ解釈や編集が起こる場だと考えたい。とうぜん、発した方と受け取る方でそれぞれ解釈・編集が行われているのだから、双方で「理解」は違っていい。いや、違わないことがヘンなのです。正しく「伝わる」なんてことを前提においてしまうと大きく間違ってしまう。

ある意味ではそれは「伝わっていない」ということにもなるかもしれない。でも、僕はその「伝わっていない」をもっと認める必要があると思っています。

「伝わる」ことと「使える」こと

わかりやすく「伝わる」ために、モノの価値を定価で固定したり、賞味期限を表示したり、テレビの画面の下にテロップを入れたり。そういうのはなんか違うな、と感じる。それがここ数年、ユーザビリティ(使いやすさ)に関わる仕事をしてきた僕の感じていることです。

本当は「使えない」というのは、使い方が「伝わっていない」からというより、使い方が「伝わっていない」と使えないこと自体が問題なんです。使い方がたった1つに厳密に固定されすぎてしまうことが問題。鉛筆で背中を掻いてもいいし、椅子を高いところにあるものの踏み台にしてもいい。あるボタンを正確に押さないと機能が使えないというデザイン自体に問題がある。

操作の仕方を1つに固定することが、商品に定価や賞味期限を設けたり、テレビの画面にテロップを入れたり、ライフハックと称した仕事の方法ばかりを欲しがったり、ということと、それが同根だということに気づかなさすぎてるのではないか、と。そのことがすごく気になる。
みんなと同じ状態、答えが1つに決まっている状態、不安定でうつろう状態よりも安定した状態を求めすぎているのではないかと思う。リスクに対する許容性や、不可解なものに対峙した時の精神の耐性みたいなものがなくなりすぎてるな、という気がしてならない。

忘れられたマイノリティ

すこし、話は変わりますが、いま読んでいる『室町人の精神』という本に、こんなことが書かれていました。

それにしても全会一致原則といい、時間がかかることといい、室町幕府の意思決定方法は、宮本常一が『忘れられた日本人』に描いた村の寄合と何と似ていることか。おそらく中世惣村の寄合も同様の方法をとっていたと思われるが、室町幕府もまた、中世に存在したさまざまな社会集団のひとつとして、それらと共通の原理に規定されていたのである。

確かに宮本常一さんの『忘れられた日本人』書評)には、全会一致の結論が得られるまで幾日も幾晩も話し合う村の集まりの様子が描かれていました。それを読んだ際も非常に興味深く、考えさせられたのですが、それが中世室町の幕府や惣村の寄合にまでつながるのを知り、現在の多数決で何でも決められてしまう世の中との思想、行動原理の違いを感じます。

いわゆる多数決というのは、数字によって白黒つけるわけですが、それは白黒の一方を数字の多さによって強引に一方を捨ててしまう方法です。その方法ではマイノリティの側は強引に切り捨てられる。
これはビジネス主導の世の中で、売れないものは必要ないものとして切り捨てられることにも通じます。売れないというのが1つも売れないというのであれば、まぁ仕方ないのでしょうけど、すこししか売れない、期待したほど売れないという結果や、はたまたそういう予測のみで、少数派の人びとが求める商品を切り捨ててしまう発想が当たり前になってしまっているのはいかがなものか。その発想を否定するつもりはまったくないけれど、それとは違うオルタナティブな方向性というのがないこと自体は問題だと感じます。

わかりにくさ、あいまいさの必要性

全会一致の原則というのは多数決とおなじように最終的に答えは1つに決まるように見えても、それは単純に二律背反的に白黒をつけるのとは違い、マイノリティの意見も包括するようなグレーな答えを採決することが多いのではないかと想像します(ついでにいうなら今の多数決で白黒つけられた答えというのはなぜかグレーで、それはマイノリティを取り込んだというより誰の役にも立たない答えを選んじゃうとこがおろか)。

とうぜん、全会一致の答えはグレーなのであいまいだし、答えが1つに決まったようで、決まってないようなところもある。でも、あいまいだったり、答えが1つに決まらないことは、そんなに問題なのか? 僕はそういうのもあっていいんじゃないかと思うんです。いや、そういうあいまいさや不確定さをもうすこし受け入れられる、思想や行動原理を取り戻す必要があると感じています。

それはわかりにくくて、あいまいで、決めるのに時間もかかるし、めんどうなんだけど、そういうグレーなものを現代は排除しすぎたんじゃないかな、と。そんな風に感じてならない。

そのわかりにくさやあいまいさが、個々人に課すリスクや不安定さを過剰に嫌いすぎて、排除しようとする力が強すぎているのではないか。自分でわかろうと努力することもなく、できあがった答えばかりを求めてしまう。
それによって失ったものは何かといえば、自らが目の前の状況から判断する力、価値とリスクをいっしょに読み取る力、他人を許す力、そういったものではないか。そんなことを感じてなりません。

わかりにくさやあいまいさって実は必要なものでもあることをもう一度考えてみる時期なのではないかな、と。

 

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2009年12月22日

自分がない

ネット上で誰かとコミュニケーションする。自分のブログを書く。電話で誰かと話す。手紙を書く。メールを書く。コミュニティでやりとりをする。

そうしたコミュニケーションを繰り返すことで、逆に失われていく自分というのがあると思います。コミュニケーションすることで生まれる自分と失われる自分がある。
特に、そうしたコミュニケーションのなかで、誰かや他の何かを否定したり批判したりが多かったりすると、徐々に自分が失われていく。見失われていってしまう。

フィクションとしての自分

自分とはいうのは少なくとも意識のうえではフィクションに違いない。
ことばとして感知できる自分は、結局は無数の細胞のかたまりである身体がそれぞれ身勝手な活動を結果を、意識としてつくるものの同一性をもった存在として編集しなおしたものでしょう。

そのフィクションである自分はメディアの数だけ増殖する。
現実の場における自分だけでなく、ブログの上の自分、mixiのなかで一部だけに開かれた日記のうえでの自分、あるいは、名前を伏せて匿名で行うネットコミュニケーションのなかでの自分、著書のなかの自分、親しい人への手紙や電話のなかの自分。
文字を書くための紙もなく、また文字自体が存在しない状態のオーラルコミュニケーションだけの状態であれば、同一性を確保するための基盤としてのメディアもないために、統一された自己というフィクションも形成されなかったのかもしれません。

トーン&マナーの一貫性

現実の場における自分もまた、その場の違いによって分裂することもある。家での自分、職場での自分、客先での自分、友人の集まりのなかでの自分など。

本当の自分探しなどが行き詰まるのは、それがそもそもフィクションであり、かつ同一性を欠いたフィクションであることを忘れているからです。
ただ、それは常におなじであるという同一性は欠いていても、特定のメディアにおける表現やトーン&マナーの一貫性という意味では統一性をもったフィクションです。

そのトーン&マナーの一貫性が失われると、精神的な病と見なされるのでしょう。それゆえ、精神病は個人的な病というよりも、社会というメディアとの関係性における病なんだと考えますが、どうなんだろ?

批判によって失われるもの

そのフィクションである自分が、他者とのコミュニケーションのなかで、作られると同時に失われていく。

特に自分以外のものを批判・否定するだけのコミュニケーションにおいては、失われるものが大きいのではないかと思います。それは作られるものに比べて、失われるものが多すぎるから。
アウトプットすることで何かがわかることがあります。ただし、それはすでにわかっている/意識されている自分の考えに基づいて、それとは異なる他者の考えや行動を批判・否定する場合には得られないことでしょう。何かがわかるというのは、意識の外にあるものを発見することですから、意識しているものだけをひたすら見て、それ以外を排除するように否定する姿勢では、アウトプットが発見につながることはありえません。

他者とのコミュニケーションにおいては、必ず自分は摩耗していく。
そのとき、新しい自分の発見がないにも関わらず、他者の否定により、自分の摩耗ばかりを進ませるから、どんどん自分が見えなくなっていく。

カオナシ

自分のすでにわかった考えだけに固執するうちに、自分というフィクションは摩耗していく。さらにそれが複数のメディア上で、どんどん自分を摩耗させつつも、それを否定するためであれ他者の文脈のうえで自分を動かすうちに、自分の意図しない自分がどんどんできてしまう。まさにトーン&マナーの一貫性を欠いた無数の自分のようなものが気がつけば自分のまわりにたくさんあることになる。

相手にはその自分が見えているが、自分だけがその複数の自分が見えていない。
その状態が『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシなのでしょう。

自分しか見ていないことで、カオナシとなる。しかも、その自分が見ているつもりの自分がただの土くれのフィクションだったりするのだから、結局は何も見ていないことになる。
自分のことしか考えないという人がいるが、不幸なのは、そういう人は本人が思っているのとは違い、実は自分のことさえ考えられていないということなのでしょう。

イメディアへの視線

自分はフィクションであるということを前提にすること。
そうすれば、過度に自分の意識の正しさを他人に押し付け批判することもないだろうし、タマネギをむくような不幸な本当の自分探しをすることも免れられる。

特にデジタルでバーチュアルなコミュニケーションにおいては、自分というフィクションをそこで作り出す場合でも、素材となる情報がすくなすぎる。「僕がライフスタイル研究会(仮)を立ち上げたいと考える理由」というエントリーで書いたとおりで、現在の仕様である限り、WebやITはインプットの面からみるとあまりに心もとない。

バタイユ/酒井健」で紹介したとおり、ジョルジュ・バタイユという思想家は、「物の力」「言葉の力」への警戒を指摘し続けた思想家でした。バタイユが「物の力」「言葉の力」と呼ぶのは、物事を人間的に固定化してみる際にたくさんの力を削ぎ落として作られるフィクションだとみていい。

バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように。イメディア(直接的な生の交わり)を欲しつつ、メディア(媒体・複製技術)の力を侮ってはいけない。夜のなかの生を語るバタイユの呻吟は私にそう教えている。

このバタイユのイメディアへの視線は、詩のことば、合理の言語で書いた「昼間の星を見る」視線に通じています。人間の合理の目で見るのとは異なる、より生/性に直結した詩の視線でみる。
それは意識の目にはひっかからない自分や他者を忘れないようにすることにもつながるのではないか。

メディア上のフィクションの自分(あるいは自分のなさ)に惑わされないためにも、自分自身の生活、人生、生き方に目を向け、バタイユのいうイメディアにも自分自身でこだわり続けることが必要なのではないでしょうか。
最近、そのことをよく感じます。

 

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2009年11月24日

[お知らせ][ディレクション]ソーシャルメディアとNPOについて話します。

NPtech系のネタはTRANSでは広報しないことが僕の勝手な原則なのですが(NPtech.jpでポストするのが原則!)、今回ははてなつながりということもあり、こちらでもポスト。

私、小嶋新(id:aratako0)と木津さん(id:Britty)が話します!「id:Brittyさん、だれ?」と思った方はホットエントリーをざっと見れば、「あー、あの記事を書いた人か!」って思い出す人も多いんじゃないでしょうか。

『鰤端末鉄野菜』 の人気エントリー - はてなブックマーク

日本でもにわかに盛り上がり始めたソーシャルメディアとNPOですが、そろそろ関西でも議論しておきましょうとかそんなスタンスで。以下、告知文です。

ひょうごんテック 第5回 テックカフェ「新しいWebサービスとNPO広報」

〜 こんなに楽しいTwitterでもっとコミュニケーション! 〜

2009年12月13日日曜日 開催のお知らせ

ひょうごんテックは去年に引き続き、今年もインターネットとNPOの広報について考えます。今年のテーマは、ソーシャルメディアと呼ばれる新しいウェブサービスとNPOの広報です。

NPOをはじめ団体の広報や活動報告に、ブログはごく普通に利用されるようになりました。最近ではブログ以外にもTwitter(ツイッター)をはじめ、mixi、Facebook(フェイスブック)などのソーシャルメディア、YouTubeやFlickr(フリッカー)などの動画画像共有サービスなど、外部のウェブサービスを積極的に組み合わせ活用する場面も増えています。

多様なウェブサービスを利用して自分たちの活動を効果的に伝えるにはどうしたらいいのか。一方向ではなく双方向のコミュニケーション手段としてのウェブサービスは、どう利用し、どこに気をつければいいのか。

国内外の活用事例を交えながら、新しいウェブサービスがNPO広報にもたらす可能性について話し合います。

12月度スピーカー

  • 木津 尚子 (ひょうごんテック世話人)
  • 小嶋 新 (NPO法人しゃらく)

日時

2009年12月13日日曜日 13時30分〜16時45分 (13時15分受付開始)

場所

神戸市勤労会館 講習室404

市営地下鉄・JR・阪急・阪神・ポートライナー

各三宮駅から東へ徒歩10分

参加費

500円 (茶菓つき)

申込み

定員36名

受付アドレスよりお申し込みください。

メールでのお申し込みは tech.at.tcc117.org まで

懇親会

テックカフェ終了後、懇親会を予定しています。

懇親会参加も希望される方は、cotocoto申し込みコメント欄に「懇親会参加希望」とお書き添えください。

主催

ひょうごんテック

※お問い合わせやご質問は tech.at.tcc117.org までお願いします。

お願い

  • 当日の飛び入りは歓迎いたしますが、茶菓などの準備のため、なるべく参加のお申し込みをお願いします。
  • 会場では、ひょうごんテックの活動継続を支援くださる方のための募金箱を用意しています。皆様のご支援、ご協力をお願いします。

テックカフェとは

テックカフェは、オープンソースなどを活用して、NPOや市民活動団体のパソコン環境を支援する「ひょうごんテック」が、隔月(偶数月)開催するITについての茶話会です。

ITにまつわる様々なことをお茶を飲みながら楽しく話し合いましょう。

テックカフェ次回予告

2010年2月に予定しています。

詳細が決まり次第、ひょうごんテックWebサイトなどでお知らせします。

2009年11月17日

TAMさんのサイトに対談記事「対談 棚橋 弘季-爲廣 慎二」

ちょっとご報告。

ユーザー中心設計を得意とする大阪に本社をおくWeb制作会社TAMさんのサイトに、TAM代表の爲廣さんと対談した記事が載りました。

iPhoneやTwitterなど、コミュニケーションやインターネットライフを変えるデバイスやらサービスが登場するなかで、人々が情報や世界に接するスタイルはますます変化・多様化する傾向にあります。ペルソナを使ってターゲットユーザーの生活行動をとらえ、そこからビジネスやWebの形を探って行く必要が高まっています。

TAMさんには実は今年の7月にペルソナ/プロトタイピングを中心にしたユーザー中心設計のワークショップをやらせていただいた縁で、いまもお付き合いさせていただいてます。

ぜひご一読いただけると幸い。

対談 棚橋 弘季-爲廣 慎二
http://www.tam-tam.co.jp/tamlog/01.html

2009年10月25日

持続性のデザイン

地域ブランディングということを考えはじめ、さらにこの先行き不透明なビジネス環境を思うに、自分たちの意思やビジョンをいかに持続させていくかが非常に重要になってきていると感じています。

これまでの考え方というのは、どちらかというと自分たちの将来をいかに実現していくかというところに重きが置かれていたのだと思います。将来のゴールを描いて、そこにどう到達するのかの戦略を考え、実行に移す。それはそれでこれからも必要なことだと思いますが、その際、視野にあまり入れることがなかった変化する環境のなかで、いかに自分たちの思いやビジョンを維持していくかというところをきちんと視野に入れて考え、実行する方法を模索する必要があると思います。

つまり、無常を前提としたうえでの持続性のデザイン。

持続性のデザイン

まぁ、いちおデザインといってみましたが、無常の環境のなかで自分たちも変化しながら、なおかつ自分たちの思いや意思を持続させていくという意味では、なにかシステムを固定させることとは根本的に違うので、デザインという領域は超えたところがあります。むしろ、1つ前のエントリー(「コンセプトワークにおける編集力」)で書いた編集ということばのほうがフィットする気もしますが、まずは求められる持続性を維持する方法の見取り図を作成するという意味ではデザインといっておきたい。

自分たちの思いや意思を持続させるためには、変化する環境、変化する自分たち自身を認めた上で、どう思いを持続させるかを考えなくてはいけない。経済環境は変わるし、文化も変わる。僕らは年をとるし、僕らとは違う思考や生活スタイルをもった若い人がどんどん社会に入ってくる。産業の構造も変化すれば、生活や仕事のインフラも変わっていく。企業ブランドであっても、地域ブランドであっても、そうしたなかで自分たちの思いを持続させ、かつ自分たちの生活そのものを成り立たせるにはどうしたらいいかということを考えていかなくてはいけないと思います。

サステナビリティとの違い

なので、これは従来のいわゆるサステナビリティ(持続可能性)とは、すこし違うところがあるのではないかと思います。いや、本来のサステナビリティの考え方は似ているのかもしれませんが、なんとなく今のサステナビリティの受容のされ方は、自分たちのいまや将来への見取り図を持続させるために、できるだけ周囲の環境には変わってほしくないという期待を込めて考えられているようなフシがあるからです。
いや、正確にいうと、時間によって変化する環境に思考的にどう対処するかというインタラクション的発想の思考ができないから、静止した時間のいま置かれた環境のなかで将来的持続可能性を云々してしまっているのではないかと思います。

すべてをシステム化、人工物化、情報化することで、自分たちはおろか周囲の環境まで完全に固定してしまうことで、自分たちのいまや未来を持続させようという、エジプトのピラミッド的発想では、僕が思い描いているような持続性は実現できないだろうと考えます。むしろ、20年に一度式年遷宮で生まれ変わることで持続性を維持する伊勢神宮のようなしくみが必要なんだろうな、と。それは折口信夫さんがいうような、祝詞によっていつでも原初の時空間に戻ることができるという古代人的思考のもつ特性を、持続性をデザインするうえで取り入れていく必要があるのだろうと考えています。

それは結局、情報というものをどう捉えるか。その情報技術の変革がキーになってくるはずです。いまの情報技術、システム論を超えたところで、持続性をデザインするための基本となる思想をつくる必要があるだろう、と。

持続性のための要件

企業にしても、地域にしても、無常を前提とする環境で、自分たちも常に変化しながら、自分たちの思いを持続させていくためには、すくなくとも、

  • 変化する外部環境といかに定常的なコミュニケーションを維持できるか
  • 外部環境の変化を内部に取り入れ、それに対するフィードバックを行ううえで、いかに性急な対応で自分たちの思いまで見失ってしまうことを避け、松岡正剛さんがいうような苗代で育ててから田圃に出すような対応ができるか
  • 外部とのコミュニケーションを維持できるな内部のしくみや、そのしくみを実際に動かす人材を確保できるか
  • そうした人材をいかに教育するか
  • はたまた、そうした人材が企業組織や地域に根付いてもらうための魅力的な経済文化をいかにして構築し維持するか
  • 人材の確保や定常的なコミュニケーションを可能にするための魅力をいかにして外部に発信しつづけられるか、その魅力をいかにして生産しつづけられるか

といったあたりは、きちんと考え、実現のための方法を模索していく必要があるでしょう。
そうでなければ、どんなに大切に感じていても自分たちの思いを持続させていくことなんてできないのでしょうから。

とはいえ、その前に前提として「自分たちの思い」というビッグピクチャが描けていなければ、持続もへったくれもありません。そもそも持続性うんぬんより、持続する価値のあるビッグピクチャが描けていないということが問題であることのほうが多いのでしょう。
逆にそうしたビッグピクチャがないから、教育や確保もふくめた人事戦略もおぼつかないし、それゆえ人は育たず組織は成長できないし、サービスや商品ラインナップ、ブランドポートフォリオをどうするかといったマーケティング戦略・ブランド戦略も描けないという状況に陥るわけです。1個のサービスや商品のコンセプトは描けても、組織全体のコンセプトを描けないんですね。そのコンセプトはビッグピクチャの一部となるわけですから、そりゃ持続性も何もあったもんではないんですね。

そっちもどうにかしていかないといけないですね。ビッグピクチャ絵画教室もつくりましょうか?

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2009年08月19日

わからないことへの耐性

世の中、全体的にわからないことへの耐性がきわめて低くなってしまっているのではないでしょうか。

自分の目の前に何らかのわからない対象が存在すると、無視するか、その対象を差し出した人に対して苦情をいうか、あるいは、わからない自分をただひたすらダメだとレッテルをはり殻に閉じこもってしまうか。いずれにしても、わからない対象をわかってやろうという姿勢が長く保てる人はいないし、すぐにわからないまでもいつかわかってやろうと心に留めておける人もすくないのではないかという気がしてなりません。

わかろうとする努力が著しく欠けている

自分自身でわかりやすいものを求めてしまうだけでなく、相手に何かを提示する際にもわかりやすくすることを自分に課してしまう傾向があるような気がしています。わかりやすさに対して必要以上の価値をあたえてしまっているのではないかと感じます。わからないのは、わからないものを生み出した人のせいにしてしまい、わかることができない受け手の側の問題にすることがあまりにすくなくなってしまっているように思います。

その要因のひとつには、まわりのあらゆるものが人工物になってしまっていることもあるのだろうと思います。なぜ突然夕立が振り出し、びしょ濡れにならなきゃいけないかの理由がわからないといって文句をいう人はいないでしょう。自然が相手なら人はその理由がわからなくても「仕方がない」と思える。しかし、相手が誰かしらの意図によって生み出された人工の物、出来事であれば、他人のせいにできてしまう。わからないのはわかるようにしない相手のせいだと。

でも、これは当たり前ですが、相手が自然だろうと人工のものだろうと、何かがわからないことの原因の半分はそれをわかる側の責任でもあります。ところが、どうもそれを表現する側、作り手側、話をする側の一方的な責任にしてしまう傾向がみられます。
そうでなければ受け手の側が必要以上に、自分には理解する力がないと自分を責めることで、わかろうとする努力をする手間から自分を守ろうとするかです。
いずれにしても受け手側にわかろうとする努力の著しく欠けている点ではおなじです。

やってもわからないものがあるということを許容できない

そもそも、簡単にわかろうとしすぎるのです。
わかろうとする努力ができない傾向が強すぎるのです。

絶対にわかりきってしまうことがないものを、それでもひたすらわかろうとする努力をしつづけることができない人が多いのです。
自然を相手にすれば実はわかりきってしまうなんて状態はありえない。答えなどは永遠に見つからない。ただ、その時々の解釈が成り立つ場合があるだけです。科学的な法則さえも単に現代人が妥当だと感じられる解釈でしかなく、絶対的な答えなどではない。単なるお約束のうえに成り立つ妥当な説明でしかないことを忘れすぎです。

答えなどはなく、結局、ひたすらわかろうとしつづけ、その時々でこれだと思えるような解釈をつくりつづけていくしかないということを忘れてしまっている人が多いのではないでしょうか。
それゆえに、自分のなかで「なぜ?」を繰り返しつづけることができず、こうすれば結果が出るという方法を安易に求めてしまう傾向がある。やってみなければわからないということはなんとか認めることはできる人でも、やってもわからないものがあるということを許容できなかったりします。

未知の状況、未知の相手に対する対応能力が著しく失われる

これで何が困るかというと、ひとつには未知のものに対した場合の対応の懐の浅さが際立ってしまうということ。ちょっと普段と違う出来事や自分の知らない世界に出くわすと行動や頭の働きがフリーズしてしまったりする。

もうひとつには他者への配慮が著しく欠けてしまうようになること。相手との距離がはかれず、相手とのコミュニケーションに支障を生じるようになります。

他にも困ることはあるはずですが、いずれにしても型どおりの行動しかとれなくなり、未知の状況、未知の相手に対する対応能力が著しく失われていってしまうのだろうと思います。答えがわからないと対応できないのですから当然です。わからないものをわからない状態でも、なんとか自分の身で引き受ける方法の引き出しを普段から用意しておくということを怠っているから、そうなるのは仕方がありません。

わからないことへの耐性を鍛える

わからないという状態に耐えながら、それでもずっといつかわかってやろうと努力しつづける。もちろん、その努力はむくわれないとわかっていたとしても、そんな安易な理解を拒み続けて、わかろうとすることにこだわること。それができなくなっているのではないでしょうか。

昨日の「古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫」で書いた、「言葉の意味をわからなくする神」としての思兼神などというものをなぜ古代日本人が想定する必要があったのかが、もはやほとんどの現代人がわからなくなってしまっているのではないでしょうか。その人間自身の思考や認知に関する無関心さはいったいなんなんでしょうか。

他人とのコミュニケーション、周囲の環境とのコミュニケーションが不全になってしまうことを避けるためにも、わからないことへの耐性を鍛える必要があるのではないでしょうか。



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2009年08月17日

なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか

人間にとって自己実現っていうのは、一体何なんでしょうね。
自己表現欲だとか、他人とコミュニケーションしたがる(特に自分の話を聞いてもらいたがる)というのは何でしょう。

古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」ですこし紹介したように、古代においては天皇が宣る祝詞で予祝(ことほぎ)されたことがらは、現実になると考えられていました。これは言霊信仰につながる話で、天皇のことばだけでなく、「見れど飽かぬ」という『万葉集』に50近くあるといわれる表現が「見る」ことで自然のもつ生命力を肉体に宿らせると考えられていたように、古代人にとっては、ことばや見ることで対象を模倣することでその対象のもつ力を自らに宿らせることができると考えられたのは「古代人にとっての装飾」でも紹介したとおりです。

こうした表現で、自分自身の欲望を実現できるとする信仰は古代の人びとに限ったことのように思われがちですが、どうもそうではなく現代に生きる僕らもすくなからず保持しつづけている信仰であるような気がしてきました。
そうでなくてはブログを書いたり、tiwitterでつぶやいたり、着飾ってみせたり、誰かにおしゃべりせずにはいられなくなったりという、自己表現欲というか、コミュニケーション欲の説明がうまくできないような気がするのです。

何が自己実現を可能にするのか

古代人がことばを発すればそのとおりのことが実現されると考えたり、相手の名前を知ることで相手をコントロールできると考えたのとは程度こそ大きく違いますが、現代人が他人に対して何かコミュニケーション行為を行う場合もすくなからず自己実現や自分が表現したことの現実になることを希望する面がすくなからずあるように思うのです。

現代人の理屈でいえば、それは自分が実現したいことを相手にことばとして話し、そのことばを相手が理解し、その内容を相手が聞き入れてくれるからこそ、自分の希望が実現するということになる。ところが古代人はそうは考えていなかったようです。

人間神もしくは神聖な超自然的な力を与えられた人間、という観念は、宗教の歴史においては、いまだ神々と人間とが同じ秩序の中に存在しているとみなされていた初期の時代、つまりは、人間と神々とが越えがたい深淵(後の世の者にとってはそう思える)によって引き裂かれてしまう以前の時代に属するものである。(中略)初期の人間は、人間神もしくは神人間の中に、自らもやはり持っていると固く信じて疑わなかった超自然的な力の、単に程度の高いものを見ていたに過ぎない。
ジェイムズ・ジョージ・フレイザー『初版 金枝篇〈上〉』

超自然的な力で自分の希望をかなえる能力は誰もに備わっていて、「単に程度の高いもの」をもつ者を神としたにすぎないようです。人は多かれ少なかれ超自然的な力で、自己の希望を実現すると固く信じていたのが古代人の信仰だったのでしょう。そこにはおいては神と自分自身の差はそう大きくはなかったわけです。

ミコトモチ

この神と人との差が小さいことは、日本の古代においてもあったようです。例えば、折口信夫さんは『古代研究 2.祝詞の発生』のなかで次のように書いています。

天皇は、天上の神の御言詔(みこと)を伝達して、その土地の人、および、魂に命令せられる。その間は、天神と同じになられるのである。(中略)天皇は、天つ神とは別なお方であるが、同格になられることがあるので、我々の信仰では、天皇と、天つ神とを分つことが、できなくなっている。
折口信夫「古代人の思考の基礎」『古代研究 2.祝詞の発生』

天つ神と天皇の区別が明確でなかっただけではなりません。神や天皇のことばを伝える役目―ミコトモチ―を担った巫女などもしばしば女神と考えられたといいます。

そこに表現された内容が必ず実現する力をもった神のことば、天皇のことばを伝える役目である人が伝える、そのことばもやはりおなじ力をもっているわけで、それなら、そのことばを実際に伝えるミコトモチ(御言詔持ち)も神と同格に扱われても不思議はありません。おなじ実現力をもつのであればとうぜんでしょう。

なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか

日本においては、こうしたことばの力=言霊を信じたがゆえに、めったなことではことばを口にしない―ことあげしない―ようにする信仰もありました。ことばにすればそれが現実になってしまうかもしれないからです。

こうした考えを現代的にみて非科学的だとするのは簡単です。ただ科学的にみて正しくないということが、必ずしも古代的にみて正しくないとすることを証明することは科学にはできないはずです。そこには単に科学的な正しさと古代的な信仰の正しさの2つのまったく別の信仰があるにすぎません。

そんな、いつまでたっても埒があかなさそうな「どっちが正しい」論争に加担するよりも、僕としては、なぜ古代から形は変わっても、人間における自己実現が常に言葉やコミュニケーションと結び付いているのかということのほうに興味があります。
言いかえると、なぜ自己実現あるいは単なる希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのかです。

このあたりはちょっと深堀りしていくと面白そうなテーマだなと思いました。

 

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2009年07月15日

いま考えていること

いま自分のなかで考えていること、課題だと思っていることを、自分の整理のためにまとめてみる。

大まかにまとめると以下の5つか。順不同。

  • 誰のせい?
  • 道具とワザ
  • 基礎インターフェイス論
  • 類化能力:つなぐ力
  • 生態学的多様性

生活文化と経済をクリエイティブ力をもった人びとの観点から考えるというのが大きなテーマとして。

誰のせい?

何か不都合があると他人のせいにする人が増えているのではないか? うまくいかないのは、方法がわからないからだとか、道具がわるいとか、あるいは、相手がバカだからとか、とにかく不都合の原因を外に求め、さらに外側が改善されることを当たり前のように望むようになっているのではないか?

  • うまくいかないのは誰かのせい?
  • 雨が降るのは誰のせい? 雑草が茂るのは誰かが悪い?
  • 雑草が茂るのは仕方がない。手入れをしよう
  • わかりにくいのは誰かのせい?
  • 他人を変えたければ、まず自分が買われ!
  • 何のためのものづくり?

人工物と自然物。「デザインしすぎない」。人工物をつくるのだとしたら、それは何のためにつくるのか、どれだけの量つくるのが適切か。大量生産は必ずしも必要?

道具とワザ

解釈を代行するのが道具」。道具によって技能を外部化することで、身体のほうのワザは退化する。便利な道具が増えれば増えるほど、人間が身体に宿している身体的能力は失われていくのではないか。そこには「人的資源の生態学的問題」が隠れているのではないか?


属人性を排した平準化を目指すか、個の多様性を残したワザの領域を重視するか。ワザをもった職人によるものづくりか、機械化によるディストリビューションか。知恵はどこに置き、どう保存していくのか。文化はどこへ行くのか。

基礎インターフェイス論

人はどうモノや世界に接しているのか。接地面としてのインターフェイスというものをより基礎的なところから考え直す必要があるのではないか。

  • 文字の発生
  • 文字は何を可能にしたのか?
  • ことばという身体から離れた体験
  • 本とWeb
  • テクスチャー:肌ざわり
  • 使う、長く使う
  • 文字と絵
  • ヴィジュアルコミュニケーション
  • インストラクションが欠かせない

人の世界認識としてのインターフェイス。

類化性能:つなぐ力

「違う」ではなく「同じ」。表面の類似にではなく、より基本的な類似を見抜ける力が必要では? モノを表層の形によってのみ捉えるのではなく、「物質の内部に潜む諸力の混淆」を感じとる鋭敏な感性が必要ではないか。

  • アナロジー思考
  • 情報は動かすことで別の顔をみせる
  • 取材能力、発想力、編集能力
  • 大量の情報に溺れながらもがいてみることの重要性
  • 要領のよさよりもねばり強さ
  • 生の連続性

科学の客観性に偏向せず、個々の人間がもつ直観の意味を再考し、それを養う方向性を見いだす必要があるのでは?

生態学的多様性

東京に売っているものがどこの地方でも売っている。おなじものがどこでも作れる。そうした平準化だけでよいのか? 変化は常に外から起こるはずだと思うが、すべてが平準化された先に、変化をもたらす外部はどこに残るのか。また、多様性を著しく失った状況では環境変化に適応できず全滅のおそれがあるのでは?

  • 何をリソースとするのか? リソースの地域性
  • 手仕事と自然の財
  • 小さいからこそできること
  • 人間そのもののもつワザやつながりを財とする
  • 人的資源の生態学的問題
  • 生産の単位としてのイエムラ
  • 本当のクリエイティビティとは? クリエイターは社会にとって何の役割をもつか

伝統とは本来アグレッシブなもので、型の繰り返しのなかで新しいものを生みだしていくものだろう。それは生産が消費の場である生活単位により近い状態において成立するとも思われる。とうぜん、その生産の単位はそれほど大きくはない。必然的に多様さが生まれ、維持されるのではないか。

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