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2008年11月04日

宝が欲しけりゃ、手柄は他人にゆずれ

タイトルはちょっと韻をふんでみました。
と、そんなのんきなことを言ってる場合じゃなくて、これ、大事なことだと思うんですよね。

自分で手柄を立てるのではなく、部下に手柄を立てさせる

特に人の上に立つ人ならなおさらで、部下の働きは正しく評価し、自分の働きがそこに加わっていたとしても、手柄は部下にあたえて持ち上げるくらいが必要だと思います。

この知識社会、情報化社会において、部下の能力をいかにのばしてあげるかは上に立つ者にとっては大事な仕事だと思うんです。それには社会やまわりの人間から部下が認められるようなサポートをしてあげなくてはいけません。いかに自分の手柄を立てるかではなく、いかに部下に手柄を立てさせるかこそ考えるべき。

もちろん、部下がやってもいないことを部下の手柄に見せる必要はなくて、あくまで自分と部下でいっしょにやったことなら手柄は部下にゆずるということ。それすれば部下の価値もあがって、結果として自分にも見返りが来る。結局は部下が優秀な人材に育てば、それは自分の宝になるでしょう。

人望を損ねるか、求心力を得るか

その反対に、部下の手柄まで自分の手柄にしてしまうのは最悪です。剽窃の罪ほど、この知識社会、情報化社会において重いものはないでしょう。

見る人が見れば、本当は誰が手柄を立てたかなんてことはわかります(だって、他人の借りものじゃ、しょせんピントがぶれてますから)。部下の手柄を横取りすれば、結局は自分の人望を損ねるだけ。人はどんどん離れていくでしょう(というか、その前にあなたにプライドはないのですか?という感じですけど)。
逆に、自分の手柄を部下にゆずれば、求心力はあがってきます。

用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ」でも一度、引用していますが、この文はもう一度ここで引用しておいた方がよいかもしれません。

正子は魯山人についてこう書く。

「金持ばかり相手にせず、安い日常品を沢山作っていたら、一世を風靡することも出来たでしょうに。一般の大衆も、もっと美しい道具がたのしめたでしょうに。人と喜びを分かつことのたのしさを、魯山人は、ついに知らずに終わりました」(『ものを創る』)

さすが美を知る白洲正子さんと思える言葉です。人と喜びを分かつことの大切さがわからなければ、美などわかるはずもないのでしょう。そして、人と喜びを分かつことのたのしさを味わいたければ、まず自分が他人に喜びをあたえなくてはいけないのでしょう。そう。手柄はいっしょにがんばった仲間にゆずってはじめて、仲間と喜びを分かちあえるという宝を得るのです。



グライダー

人を育てるというのは、そういうことだと思います。

前に働いていた会社の社長は、よく「グライダー」だって言ってました。スタッフが育つまでは紐をひっぱって、空まで運んであげる。グライダーは自分では空に浮かぶ力がありませんから。でも、気流にのればグライダーは自分で飛べるようになります。もう紐は必要なく、スタッフ自身が自信を得て、まわりからも評価されるようになる。

別にそのときにグライダーをひっぱる自分自身が目立つ必要はない。目立たなくたって、誰がすごいかは一目瞭然ですから。そういう人なら、ついていこうという気にもなります。尊敬もします。そして、尊敬される人のまわりにはおのずから宝のような人材が集まるでしょう。

自分の手柄ではなく、他人が手柄を立てられるようサポートする。本当の宝はそこに集まってくるのだろうなと思いました。



関連エントリー

2008年09月23日

インドなら『ハリ・プッター』ぐらい当たり前

インドで『ハリー・ポッター』ならぬ『ハリ・プッター:恐怖の喜劇』が制作された。
米映画会社ワーナー・ブラザーズが著作権侵害で訴え、ニューデリーの裁判所は訴えを棄却した。
インドの裁判所に委ねたところで決着はついていた。

20年近く前の記憶で恐縮だが、インドにはこういったパロディのきいたネーミングが氾濫していた。

透明な瓶に赤いロゴは、Coca-cola(コカ・コーラ)ならぬCampa-cola(キャンパ・コーラ)。
緑の瓶は、Sprite(スプライト)ならぬSprint(スプリント)。
アイスクリームショップは、サーティーワンならぬトウェンティーワン。
海外からの輸入品と思って口にすると、とんでもない味の違いに驚く。

そんな経験からすると、ハリ・プッターぐらい気にならない。
むしろ、『踊るマハラジャ』ばりの奇妙奇天烈な展開になっているとしたら、ぜひ観てみたい???[???i?????????j

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関連サイト
ハリー・ポッターシリーズ - Wikipedia

2008年06月30日

[メモ][プログラミング] 技術を補う新技術 - JSP > Java Servlet > CGI;


「Technologyは、既存のTechnologyの問題点を解決することで誕生する。」


プログラミング研修中に講師の方がおっしゃっていた言葉だ。僕は今、2ヶ月にも及ぶ新入社員を対象としたプログラミング研修中である。研修ではプログラミグ言語の"Java(ジャバ)"を中心としたLAMP(ランプ)を学習している(正確にはLAM。Pは学ばないようだ)。LAMPとは、OSの"Linux(リナックス)"、サーバーの"Apache(アパッチ)"、データベースの"MySQL(マイ・エス・キュー・エル)、スクリプト言語であるPerl(パール)、PHP(ピー・エイチ・ピー)、Python(パイソン)を総称とした頭文字からなる造語である。これらは全てオープンソースのソフトウェア群であり、数多くのIT企業がLAMPを用いたシステム構築を行っている。その中で僕は現在、Linux上でSQLデータベースにアクセスし、データベース上のデータを基にApache上で動作するプログラミング開発を行っている。


f:id:bokuno-nou:20080630225421p:image


特定のプラットフォームに依存せずに、ウェブサーバーから外部プログラムを呼び出す"CGI(Common Gateway Interface)"という仕組みがある。CGIプログラムはウェブサーバーがクライアント側(ユーザー)からのリクエストに応じて起動するようになっている。サーバーはCGIからプログラムを呼び出さなければならなく、サーバーの負担を軽減させるために誕生したのがJava Servletである


"Java Servlet(ジャバ・サーブレット)"はウェブページを記述するHTML文書を動的に生成する同じくサーバー上で動作するプログラムである。こちらもクライアント側でJavaプログラムを稼動させるためのクライアントサイド技術である。ショッピングサイトやオンラインバンキングで用いられるケースが多く、Java言語で記述される。サーブレットの実行環境としてWebコンテナが存在し、現在では"Apache Tomcat(アパッチ・トムキャット)"などオープンソースソフトウェアとの相性がいいのが特徴だ。


そのサーブレットの技術を延長として開発されたのが"JSP(Java Server Pages)"である。JSPはサーブレットを自動生成して動作してくれる。サーブレットとJSPは異なる技術ではあるが、これらは組み合わせて使うことができ、JSPもサーブレットの一部として扱われることが多い。JSPはサーブレットのようにソースを修正したらコンパイルする必要性がなく、修正されたソースがリアルタイムで反映されるため、修正する度にコンパイルする手間が省けるという特徴がある。


CGIからJava Servletへ。Java ServletからJSPへと進化を遂げたJavaプログラムを稼動させるためのクライアントサイド・プログラム。このように、既存の技術の問題点を補うように次々と新技術が誕生してきている。今後はそれぞれの特徴にあわせたプログラム設計を行い、分担して作業することが求められるようだ。


関連記事:

2008年06月19日

コミュニティという言葉のイメージ

すっごいドタバタしていました。あっち行ったりこっち行ったり。高速で走ってみたり、空飛んでみたり。Java EdgeのこととかRBCのこととか、書きたい事いっぱいなんだけど、今日は少しリハビリ気味に軽く。 今私の肩書きに「コミュニティ・マーケティング」なんてついてて。オープンソース(本当はあらゆる全ての製品/技術だと思う)にはコミュニティという仲間が大切で、可能性の種を着実に育てていかなければ、可能性は可能性のまま終わってしまう。だからその可能性を市場で価値あるものとして育つよう支援したり、作ったりするという、ちょっと曖昧な役割(w。でも、今はどんな企業もコミュニティの存在はもう無視することはできない。そこを今の会社は私に役割として与えて下さって、私はそこに日々悪戦苦闘してる。 けどそのコミュニティ。あまりに乱用され、誤用、というか私の想いと全く違うところで使われている気がして。ちょっと調べたの、あらゆる方面から。 社会学的に見ると、桃源郷的な意味合いがあって、元来人間はずっと求めている甘美な響きをもつもの。その中は平和で安心で、皆仲間で、争いやいがみ合いもなく、あり得ない存在。儚くて脆いもの。そして、アイデンティティを持った瞬間消えるもの。つまり、安心の代償に自由を奪うもの。そんな意味合いみたい(諸説あるみたいだけど)。 また、英語圏の人、特にアメリカの西海岸沿いの人達は、すごく頻繁に「コミュニティ」って言うことにも気づいて。その意味はただ単にそこに住む人。地域住民という感じ。同じ土地・環境を共有する人々。そんなイメージかな。何か関心軸があって集まっているというよりも、そこにある(いる)もの。 じゃ、私はどんなイメージでコミュニティに関わり、運営し、求めているのかなって。 幕末でいう『私塾(志塾)』のイメージなのかなと、最近つくづく思う。例えば今会社の付近に日本橋小学校があるんだけど、西郷隆盛が明治維新後住んでた自宅があって。その場所でもやっぱり門下生17名ほど集めて色んな学問を教えてたと記されてる。そこは今でも学びの場所で、そこから巣立った学生が社会に出て、各方面で活躍する。 そう、何かを志し、学び、そして巣立つ。 こんなループを多くの人と体験できる場な気がする。そんなところを築きたい。そうやって活動を続けて、言葉の定義や肩書きや、そんなものをもう一度捉えてみたいな。

2008年04月03日

なんでもかんでも「仕事」に頼るのもどうか?と

どうして「自分の暮らしに興味がないんだから、人の暮らしの提案なんか、そりゃできないよなという話」にリンクが張られているのか、また、トラックバックされているのかわからないんですけど、それ以上にわからないのは、この部分。

最後の意味において「生活」と「仕事」の主格は逆転し、主役は「仕事」になっています。この点で、「なぜなら仕事のために人生があるのではなく、人生のために仕事があるのだから」の人とは真逆です。仕事が「糧を得る手段」だけでなく「自己表現の場」である人にとっては。

文中の「主格」は「主客」だと思いますがママ。

わからないのは、なんで「自己表現の場」が仕事になるという話がすんなりスルーされちゃうのかという点。それが昨日のエントリーの主旨でもあり、「仕事」に重きをおきすぎなんじゃないのっということ。
「自己表現の場」が仕事であるのは別にアプリオリじゃないはずです。すくなくとも「ビジネス」である必要はないと思います。別にそれはオープンソース・コミュニティのような場であってもいいはずですし、ボランティアみたいなものだっていい。「自己表現の場」を必ずしも仕事に結びつける必要はないんですよね。まぁ、そのほうが手っ取り早いって感覚は僕も理解はできますが、本来、必ずしもそうではないということははっきりさせておきたいところです。

というのも、なんでもかんでも「仕事」中心に考えすぎなのは、実は現代人の病気なんじゃないのというのが、昨日のエントリーの裏にある視点だからです。
その意味で、なんであのエントリーにトラックバックして、あの内容のエントリーを書いちゃったのかなー、と。単独でみれば納得できる内容なんですけどね。

2008年03月07日

コモンズの乱用

「mixi利用規約第18条の条文」が話題になってるね。『mixi』サービス内で作成した日記、著作物等の情報について、誰が権利を有するのかというとこ。確かに最初の条文の記載では著作権、利用権全てが『mixi』に有されるように感じた。これはコモンズの乱用というか、サービスの乱用すぎちゃうね。 「場を提供するから、コンテンツを提供しなさい」 そう読み取れてしまっても仕方がない。今一生懸命改訂版をさらに改訂して、著作物の権利はユーザにあることを大前提として、サーバー側の処理でデータ形式が改変されること、アクセス数や場所によってサーバー側でデータ送信や複製を行うことに対する了承を得ようとしてる。WEBサービスの仕組みについて理解がある人(クライアントとサーバーの違いやプログラムの処理の仕方など)は納得できるかもしれないけど、そうでない人たちには、まだまだ疑問は残し、不信感を募らせているのかも。 mixiの問題だけじゃなくって、コモンズやコミュニティ等の著作物への権利については今後もっと議論され整備されていく必要があるのじゃないかな。特に日本はこういう権利問題に対して、少し寛容すぎるというか、柔軟すぎちゃうよね(欧米では毎日どこかの法廷で争われているのじゃないかしら、というほどニュースが多いよね)。 例えばRBCでは勉強会のコンテンツを利用して、全国で自主的に勉強会が行われてるんだ。パワーポイントやワードで作成された資料もそのままに、メンバが社内で開催することもあるみたい。その場合誰が著作権を有し、もし何か不具合や問題があった場合は誰に責任があると思う? 現段階では著作権はその資料の作成者にあることになるはずなんだ。資料をゼロから起こした人。 それじゃ、コモンズって何?コミュニティって何?という話になるかもしれないね。誰でも利用できて、誰でも改変したり、複製、配布できるのじゃないの?と。「権利」なんて言うと身構えてしまったり、興ざめてしまう人もいるかもしれない。 けど、コモンズというものは立派なライセンスなんだよ。代表的なものでは「クリエイティブ・コモンズ」や「MIT Licence」というものがあるかな。このブログも一応クリエイティブ・コモンズライセンス(以下CCライセンス)に属しているんだよ。Java EdgeのwikiサイトもちゃんとCCライセンスを表明してるんだよ。 これは、自分たちの権利や知識を誇示したいからではなくて、もっと利用して欲しいからなの。でも利用してもらいたくても、責任やできる範囲は限られてるよね。資料には細心の注意を払っているけど、バグがあるかもしれないし、言い回しに問題があるかもしれない。思わぬところで誰かを傷つけるかもしれないし。それを商用利用してビジネスをして、トラブルに巻き込まれてしまうかもしれない。 そんなことを前もって避けるために、著作者の表示義務や、利用権、改変権、配布権などの明示をしてるんだ。つまり、コモンズというちゃんとした社会に対する責任や義務を考えてますという証明。 だから利用者も作成者も安心して著作物を公開できるんだよ。もし例えCCライセンスを無視されて利用されても法的な被害は与える事はできてもうけることはないようにね。 コモンズの乱用やサービスの秩序、尊厳の欠如は自らの首を絞める事になる。少しの注意で大きなトラブルは必ず避けられるから、気をつけたていかないとね。

2007年05月05日

情報の前後左右を考える

最近口癖があります。 「その課題設定って正しいのかなぁ」 何かお題があったとき(提案書でも課題でも)に、まずはこう自問しています。それは、場を考えるようになり、自分の仕事や想いをよりよく伝えたいと以前よりはっきりと思うからです。 私たちはすぐに「課題解決」をしようとしてしまいます。与えられたものに対して最適な解や合理性や効率化を考えます。しかし、もしその課題自体が間違っていたり、視野が狭いものでどんなに頑張っても部分最適にしかならない、もっと言えば他の部分にしわ寄せるだけになってしまうのであれば、どうでしょうか。本望ではないと思います。 逆に言えば、自分がとらえた「課題」が全体とうまくリンクしており、他への影響が大きいものだったらどうでしょうか。もっとやる気が出て、そして仕事がやりやすいと思いませんか?そして何より自身を表現しやすくなると思います。全体とリンクしていない、または空回りしてしまっては、自ら相手の「無関心」を助長してしまい、自身が一番辛くなるのです。「どうせ誰もわかってくれないから」と。 では、具体的にどう考えているのかを自分で少しブレークダウンしてみました。ポイントは『情報の前後左右』を考えるということだと思っています。 情報の「前」を考える ・その背景にあるものは何だろう。 ・どんなプロセス(経緯)があったのだろう。 ・どんな情報のもとに動いてきたのだろう。 プロフェショナルは「前提条件を疑う」のだそうです。前提条件(アサンプション)を考えること、まずはここから始まるのだと思います。何かを始める場合きちんと背景を考えることは、現状を正しくとらえる上での絶対条件となります。できる限りの情報をあつめ、その上で判断をしなければならないと思います。常に現在の場所を正しく事実から定義することが大事です。 情報の「後」を考える ・それが成し遂げられたらどんな世界が見えるのだろう。 ・それがある世界は何が必要なのだろう。 ・そこには誰がいるのだろう。 後ろとは、最近進めているバックキャスト的な発想です。現実解や制限事項をまずは横においておきましょう。思いっきり贅沢に、思いっきり楽しく未来を描いてみます。何が楽しいのか、誰にとって嬉しいのか、どんな笑顔が見られるのかなどなど。また、それによって誰と繋がることができるか、その次には何が見えるのかを想像してみるのもいいと思います。その場に立ったら何が学べるのか、何が手に入るのかでもいいかもしれません。思いっきり考えることが大事です。 情報の「左右」を考える ・どうしたらそれができるのだろうか。 ・仲間はいるだろうか。 ・何が利用できるだろうか。 ・制約事項は何だろうか。 ・これをやることで周りにはどんな影響があるのだろうか。 左右とは、現実にできること(現実解)やツール、リソースなどだと思います。また、他への影響というのも当てはまると思います。現在「今、ここ」で360度周りを見渡してみましょう。色んな視点から、色んな立場から現在を見渡すことで選択肢はどこまでも広がります。また、もし選択肢として考えられたのに、何かの制約事項で不可能なこともあります。その場合はその制約事項のなかでどうしたらできるのかを考えることが大事です。そしてそれをそのまま表現することも必要だと思います。 KM2.0などと言われるナレッジマネジメントや情報共有なども、実は上記のことを言っているのではないかと思っています。情報を「フロー」と「スタック」という軸で考え、いかに「フロー」している情報を「スタック」するのかということも考えられますが、「スタック」する際に「フロー」としてそのイベントという情報の前後左右をセットで扱うことが大事なのではないかなと思いました。 大事なのは、全体性の中で考えること。 一度立ち止まって、見渡したいものです。できれば定期的に。

2007年04月17日

もう見える化って言わない

何を見える化してる? 見える化して何がある? 大事なのはそこじゃないよね。次に繋げることだよね。 と思ってしまう、昨今の見える化。先日メタボリックスの山田さんが『エンジニアマインド』で面白い指摘をしていました。
見えちゃった化 気付き。誰かいいコーチがいるといいでしょう。本人の感度を上げる訓練も必要です。 見たい化 欲望。あぁ、あれを網一路見てみたい、という欲求です。そのためにはどうすればいいか。 見える化 一度何かが見えるようになると、それ以外のいろんなモノも自然と見えてくるようになるでしょう。 見ない化 一度見え始めるときりがなくなったり、見ること自体の喜びで終わってしまう。これは見なくていいんだ、とか、見たらどうすればいいかということがわかってくるのが本当の「見える化」ですね。 見えない化 もう見なくてもいい、というか、最初からみんな見えているというか。不射の射ですな。
この指摘でいう「見える化」とは、きっかけの提供であり、情報の見方の提供であるように思います。一つのインスタンス、事例として何かを見えるだけにすることが本当の「見える化」ではないと。本当の「見える化」は行動を促進することに意義があるのだと思います。多くの方が指摘されますが「見える化」は手段であり、目的ではないのです。 「見える化」と類義語にあるだろう「情報共有」もあやふやなものであると最近は思っています。情報は「共有」されるだけでは自己満足に終わりがちです。「共有」することで、何を期待しているのか、なぜ共有したいのか、などが曖昧模糊としていると、いずれ『write only document』になってしまって、「言った」「言わない」の議論になったり、そもそも何も創発しないです。 「見える化」も「情報共有」も何かを促進するためのきっかけになる可能性を秘めています。大事なのは、見えた先に何があるのか、共有された先に何があるのか、そこに気付いてもらうことです。 ということで、TOYOTA生産方式的に「なぜと5回問う」ことをして、気をつけて言葉を使います。そして何かを促進するために、そのきっかけとなることをより一層丁寧に育てていきます。 それこそが、環境を考えるということなんでしょうねー。

2007年02月10日

埋もれていた知識、情報の独占

昨日、知人とメッセンジャーで話していて、相手がこんな風なこと言ってました。

ブログをみんなが使うようになって、世の中の人はかんたんに情報発信できるようになったら、いろいろと自分がもってる知識などを他の人に伝えるために結構ちゃんとした記事を書いている、と。

実際、いろんな人が自分のもっている知識なりをブログを使って、他の人にも伝えようとしているのがいまのネット環境だと僕も思います。
これはある意味では、今まではそうした知識が完全に陽の目を見ずに埋もれてしまっていたということだとも理解できます。

確かにかつては情報を発信する手段が一部に独占されてしまっていたがゆえに、その力をもつ一部の組織が自分達の言いたいことだけを情報として発信していました。そのために本当は多くの人がもっている様々な知識が埋もれて、あたかもそんなもの存在しなかったかのように、専門家などが必要以上にもてはやされてしまっていたのではないかと感じます。

しかし、一方、今日では誰もが情報を発信できる手段を持ちえています。
それを利用するかどうかは人それぞれですので、ここでは何も言いませんが、ただ、そうした変化をメディアも企業もきちんと理解できていないのではないかと疑問を感じます。

それは昔からあるメディアや企業だけでなく、IT系やWeb系の企業でもそうではないかと感じます。
いまだに一握りの専門家や個人の知識にたよる傾向があり、それ以外の人が持っている知識を生かそうとしない。

それは企業やメディア側の問題というだけでなく、自分で毎日積極的にブログを書いているブロガー以外の人は、自分と専門家とのあいだに大きな隔たりがあるかのようにいまだに誤解しているような気がします

でも、そんな差は実は程度の差でしかない。
もちろん、プロとアマの差というのはあるのでしょうが、それは知識の差ではなく、コンスタントにお金を稼げるようなアウトプットを出せるかという別のスキルの差です。

逆にいえば、一方では、情報をアウトプットする際のコストや報酬も低くなりつつある傾向もあり、果たしてプロとアマの差は、そういう意味でもどう維持していくのかという課題はあると思います。

そういう意味で、いまだにコンテンツの独占、情報の独占のほうこうで動いているテレビ局や大手の広告代理店やそれに
影響を与える大手メーカーって、すごくオールド・エコノミーの時代を生きてるなって感じがしてならない。
それで経済がこのまま停滞するようであれば、まったくどう責任とってくれるの?とでも言いたくなります。

とはいえ、そんな風に責任転嫁してても仕方がないので、新しいビジネスモデルを見つけ、そこで経済的なインパクトもある形にしていくのが、僕らの側の責任なんだと思います

というわけで、研究員の皆さん、ちゃんとブログ書いてくださいね。

P.S.
このあたりの話は、レッシグの著作権の既得権益のクリエイティブをめぐる話とも重なってきますよね。

 

2007年01月17日

[UD]情報リテラシー教育の問題

情報リテラシー教育がすざんなようである。高校の【情報】の教科書は、間違いだらけの上、内容が【情報リテラシー】の本質に触れていない。ただ、PCを使うようになるレベルで終わっている。【情報社会で生きる術】を教えていないのである。 [http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/compedu/?%B9%E2%B9%BB%BE%F0%CA%F3%B6%B5%B2%CA%BD%F1%A4%A2%A4%E9%C3%B5%A4%B7:title=★高校情報教科書あら探し] HT ...