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2011年03月21日

サービス・エンヴィー

シェアビジネスの成功の鍵のひとつは、サービスをかっこよく素敵に魅せることでしょう。

シェアサービスを利用するユーザーは、必ずしも、そのほうが安いから、環境に優しいから、持っていても邪魔になるから、という理由でシェアしたいわけではないはずです。
シェアサービスになっても、ユーザーのトータルコストに関する感覚は大きく変化しないはずだし、モノを選ぶ際の趣味・嗜好が大きく変化するわけでもありません。

なぜ利用しようと思うのか?を考える

だから、ユーザーは相変わらず豊富なバリエーションから選びたいし、品質のよい素敵なものを利用したいと考えるし、利用するのにいちいち面倒な手続きを減るのはまっぴらです。
たとえ、安かろうと環境によかろうと、品質があまりよくなく、古臭く、バリエーションもあまりなく、それを手に入れる際にいちいち遠い場所まで取りに行ってまた返さなきゃいけないサービスなら、高いお金を出してでも自分がいいと思うものを買ってしまうでしょう。たとえ、それをほとんど使わず、置き場所に困るかもしれないと思っても。

そう。シェアのサービスは、単にコスト削減のためのリースやレンタルとは違います。
それを手に入れるため、利用するための金銭以外のトータルコストを含めても、所有するよりシェアするほうがよくなければ、ユーザーはシェアサービスを利用しないでしょう。

サービス・エンヴィー

誤解してはならないのは、ユーザーは何かを我慢してシェアサービスを使うのではないということです。所有をあきらめてシェアサービスを利用するのではない。シェアのほうが所有するより、いろんなバリエーションから選べたり、品質のよいものを利用できたり、いつでも好きな時に倉庫の奥から引っ張り出すような面倒な手間やメンテナンスの手間もなく、利用できるという明らかな利点があるから、シェアサービスを利点するのです。つまり、シェアサービスというのは、そのように設計されている必要があるわけです。

ユーザーは、製品そのものと同じくらい、それをどう手に入れたかを自慢したがる。自分のバッグは「借り物」か「レンタル」だということを隠さないルイーズと同じで、ユーザーはPSSを利用していることを誇らしげに語る。「どうモノにアクセスするか」がある種の社会的なステータスになり、ライブワークのデザインたちの言う「サービス・エンヴィー」(それを利用することがステータスになるようなサービス)が生まれる。ライブワークの戦略デザイナー、デヴィッド・タウンソンは、サービス・エンヴィーとは「モノよりサービスを欲しがらせること」だと言う。そして、そのためには持っているものではなくて利用しているサービスをとおして自分がどんな人間かを相手に表現できるようなサービスを作ることが必要だ。
レイチェル・ボッツマン&ルー・ロジャース『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略』

ここでいうPSSはプロダクト=サービス・システムの略です。そう。シェアサービスを魅力的なもの、ステータスが感じられるものにするためには、そう思わせるサービス・システムの設計が不可欠ということです。

もちろん、ユーザーに魅力あるサービスにするためには、ユーザーの利用状況や好みや価値観などををよく把握した上でシステムをデザインする必要がある。しかも、多様性をもつユーザーのウォンツとバリエーション豊富なモノのマッチングを実現するには数学的素養も求められるでしょう。
そうしてはじめて、ここで言われるようなサービス・エンヴィーが生まれるのです。

どうやらマーケティングはますます人間中心の感覚を研ぎ澄ます必要がありそうです。



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2011年03月20日

「所有」から「利用」へ

シェアのビジネスは、人びとのモノに対する態度を「所有」から「利用」へと変換します。

例えば、子供のおもちゃの「シェア」サービスであるBabyPlays.com

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このサイトで、使わなくなったおもちゃをもつ人と新たにおもちゃを欲しがっている人の間でおもちゃの所有権が移動するわけですが、これも「所有」よりも「利用」が重視されているからです。
買って買ってとねだられて買ったのに、すぐに飽きてしまう子供のおもちゃをゴミにしないために、賢くシェアする形にライフスタイルが変化します。

また、バッグやアクセサリーのレンタルサービスであるBagBorroworSteal.comでも同じです。

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高くて買えないブランドもののバッグでも、レンタルなら手が届きます。しかも、気分に合わせていろんなブランドのバッグを利用することができる。バッグがたくさんありすぎて、置き場所に困るなんてこともありません。

そうです。これらのサービスの利用者にとっては、何を「所有」しているかではなく、自分が「利用」したいものを利用するために、どうモノにアクセスしているかが、彼らにとってのステータスになっています。
ブランドものを持っていてかっこいいという古い価値観ではなく、どう賢く自分が好きなものを利用していて、結果として環境にもやさしい生活をおくっていることが新しいかっこよさになりはじめているのです。

シェアにもいろんなビジネスモデル

日本ではまだシェアのモデルはそれほど多くないのですが、とはいえ、まったくないわけではなく、例えば、クルマを借りたい人と貸したい人をマッチングするカーシェアリングのサービスであるCaFoReがあります。

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クルマを使わないときもその資産を有効に活用するために、利用したい人に貸すのです。もちろん、それで貸した人から利用料を収入として得ることができます。CaFoRe自体はその仲介料が収益になります。

同じカーシェアリングでも、アメリカで人気のあるZipcarとはモデルが違います。

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Zipcarのほうは企業自体がシェアリングするクルマを保有し、そのメンテナンスなども行なっています。
Zipcarのモデルでは、いつでも好きなときに利用者がクルマを使えるよう、どこにどんなクルマをどの程度は位置しておけばよいかがサービスのユーザー体験を高める1つの鍵になります。簡単に借りれて好きなだけ使える。そのあたりの利便性がなければ、いままでのレンタカーとすこしも変わらず、サービス利用が高まるはずはないのですから。

マーケティングが変わる

当然、これらのサービスのマーケティングは、従来の「所有」してもらうために一度売るだけで良かった製品のマーケティングとは課題が異なります。これらのサービスは、利用したい人に必要なときに必要なものを何度も利用してもらえるようにすることがマーケティングの課題になるからです。

もちろん、それにはソーシャルネットワークの「つながり」が必要ですし、そのつながりを分析し、サービスのインフラに落とし込む統合力が求められるでしょう。人間中心デザインでいう「利用状況の把握」がシェアビジネスの設計では必須のスキルとなるでしょう。
また、繰り返しいろんな人が使えるよう製品そのもののデザインも変わってくるはずです。耐久性やメンテナンス性はこれまで以上に重要になってきます。ただ、きらびやかなだけのプロダクトデザインは時代遅れになるでしょう。

そうなんです。シェアの時代のマーケティングは従来のマーケティングの考え方が大幅に変わります。
その変化にあなたはついてこられるでしょうか?

 

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2011年03月19日

ピア・ツー・ピアがデフォルトに

今日も毎週末恒例のファーマーズマーケットに行ってきました。もうなくなるなと懸念していたお米も無事ゲットでき、他にもスーパーでは品薄の食材を手に入れることができ、よかったなと。

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ファーマーズマーケットへはいつも原宿の駅を降りて国連大学の前の会場まで表参道を歩いて行っています。
休日の表参道は、普段に比べればまたまだ人は少ないけれど、ちゃんと街の活気はあるところにはあるんだなと感じました。

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ファーマーズマーケットでも同じようにことを感じたのですが、震災の影響による経済不安が囁かれたりもしますが、それはニュースの中や、オフィスの会議室の中の幻想じゃないかとも思えてきます。

僕自身、ちょっと意外だったんですが、地震の影響受けてAmazonのアフィリエイトも売れなくなるかな?と思ってたんですけど、むしろ、売れてるくらいなんですね。

そういうところだけ見ると、もしかすると地震で経済が縮小みたいな話って、需要の問題じゃなくて供給側が市場のニーズをわかってないからではないかと思えたりもします。単にいまの状況におけるウォンツに適した提案が供給側からできてないから景気が心配になるのであって、ウォンツ自体は変化しても量的にすくなくなっているわけではないんじゃないかと。そうなると、もはやそれは景気の問題ではなく、単純にマーケティングの問題です。

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昨年あたりの若者の嫌消費の話と同じです。若者は消費が嫌なんじゃなくて、古い消費のスタイルが嫌なだけ。ちゃんと新しい消費をしています。しかも、このあたり、いくらでもチャンスがある。それに気づかず、相変わらず古い提案をしてるだけのことです。

環境が変わったのに、いままでと同じものを売り物にしてたら売れないのは当たり前。マーケティングの基本です。

化けの皮が剥がれて、コラボ消費の21世紀へ

そんなことを感じつつ、シェアのビジネスについてレイチェル・ボッツマン&ルー・ロジャースの『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略』を読みながら考えていたり。

過剰消費の20世紀には、信用履歴や広告、所有物によってその人が定義されたのに対し、コラボ消費の21世紀には、評判や属するコミュニティ、何にアクセスできるか、どうシェアするか、また何を手放すかが、人を定義するだろう。
レイチェル・ボッツマン&ルー・ロジャース『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略』

そう。こんな文章の文脈をみると、いまの経済不安が市場のニーズの読み違えのように感じられるんです。
しかも、僕らは携帯電話も、電車も、電気もあてにならないことを体験的に知ったばかり。買い占めなんていう馬鹿げた行動である家庭には余剰があるのに、必要な人がスーパーに行くと買えないなんて状況も起こっています。
Twitterで見かけた話では、牛乳が店に並んでいないのは、中身の牛乳がないのではなく、パックを作る茨城の工場が休止中だからとか。それならリサイクル可能な牛乳瓶の時代のほうがマシだったし、なんならエコバッグをもっていくのと同じように家から容器をもって買いに行くスタイルでいいではないかと。

この震災で化けの皮が剥がれた、これまでの消費スタイルの無駄や馬鹿げた点はほかにもたくさんあるんじゃないでしょうか?

ピア・ツー・ピア取引の準備をしよう

もう10ヶ月近く毎週ファーマーズマーケットに行っているので、いろんな人から、いつもどうもと言ってもらえます。
三浦の農家の人、醤油やお味噌を扱う豆屋さん、最近見かけないので心配な贔屓のお米屋さん、そして、自分では飲まないけど、たまにワインを買うワインやさん。
たびたび買い物に出かける近所のスーパーではしたことがない会話がそこにはあるので楽しい。

そういう会話が生まれる可能性が高いのが、ソーシャルネットワーク上でピア・ツー・ピアで行われるシェアの消費スタイルでしょう。

今では、生産者と消費者、売り手と買い手、貸し手と借り手、またご近所同士を効率よく結ぶピア・ツー・ピア取引の巨大な市場が存在する。オンラインの取引は、かつての村での対面取引で結ばれる強い絆に似ているが、その規模はもっと巨大で限りない。言いかえれば、テクノロジーが、古いかたちの「信頼」を新しいカタチに変えているのだ。
レイチェル・ボッツマン&ルー・ロジャース『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略』

いまTwitterやFacebookなどのソーシャルネットワークで行われている会話と同じか、それ以上の会話が、ソーシャルネットワークを介したシェアの取引では行われる可能性があります。

上に引用した文章のあとには、先日も引用した、ソーシャル部屋レンタル仲介サービスのairbnb.comAirbnbの紹介はこちら)の創業者のひとりの「新しい動きが現状を変えつつある。空間やモノであれ、技術やサービスであれ、何かを取引するなら、その手段としてP2Pがデフォルトになるだろう」ということばが続きます。

ピア・ツー・ピアがデフォルトになったとき、いまのように組織の陰に隠れて個人が匿名で過ごすようなことでは取引は成り立ちません。
Facebookが実名主義なんてのは、そのことに比べれば小さな話で、過剰な秘密主義や個人情報保護なんて話も無意味になるでしょう。
もちろん、他人が発信する情報に常に受け身で、いいね!やRTしかできないんじゃ取引に参加することさえできないのではないかと思います。

そんなライフスタイルの変化がこれから意外と早いスピードで訪れるような気がします。そのときに乗り遅れないよう準備をしておいても無駄ではないのではないでしょうか?



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2010年08月29日

シックスシグマとインターフェイス

最近、あらためてシックスシグマのフレームワークには、しくみ=システムを設計する上で役に立つことがたくさんあると考えるようになりました。インターフェイスを組み立てたり、インタラクションを最適化するという点では基本になる考えが満載だと感じます。

特に、デザイン思考を経営戦略として取り入れるということがいわれますが、こと日本という九人の現状においては、「デザイン思考」云々の前に「設計思考」とでもいうべき、人としくみ=システムのインターフェイスを実際に動き、利用可能にする技術を身につける必要があると思うからです。
デザイン思考というのは、主にユーザー体験を中心に、人と利用対象となる商品なりサービスなりの関係をインターフェイスの視点で定義しつくりあげるアプローチです。ですが、それが有効なのは、そのインターフェイスを実際に動くものにするシステム=しくみの設計力があってこそです。まさに足りないのはそこです。

その意味に置いて、設計力という計りごとを現実に設定する力が、画(絵、ヴィジョン)を企てる企画力以上に大事だろうと感じます。
そこではインターフェイスの絵を描くことではなく、実際に動くインターフェイスを実現する力が問われます。単に、ユーザー中心で企画するということではなく、インタラクション重視のインターフェイス設計を実現する力が必要で、その観点において、シックスシグマのフレームワークには利用可能なツールがたくさんあると思うのです。

人が動かさなければシステムではない

ここでいう設計は、いわゆる情報システムの設計をいうのでもなく、モノの設計をイメージしているのではありません。むしろ、企業における組織とか、社会システムのようなものを想定しています。
その観点では、設計というのは、必ずしもシステム化に収束するわけではありません。

むしろ、システムに落ちるところと、システム化せずに運用的にやっていくところを明確に分けて定義することも含めて設計です。もちろん、システムというには、情報システムも含めて、狭義のシステムとそれを利用するユーザーの側がともに、システムが想定したような形で動いて機能します。
狭義のシステム側がユーザーが想定通りに動いてくれれば機能するとしても、実際にユーザーがそのように動いてくれなければ、それは実際には機能しません。
それは商品でもおなじで、こんなに素晴らしい機能やベネフィットがあるのにと作り手側が思っても、実際にそれを使うユーザーがいなければ機能やベネフィットも実際の生活で役立つことはなく、単なる可能性でしかありません。機能の素晴らしさやベネフィットは可能性の次元ではなく、現実性の次元においてはじめて評価されるものでしょう。

シックスシグマにおける主要顧客とコアプロセスの特定

そういう観点で、シックスシグマの考え方を見直しています。

先にも書いたように、こと日本においては経営戦略として、インタラクション重視のインターフェイス設計という観点をしっかり取り入れることを考えたほうがよいと思います。どういう風にビジネス側とユーザー側のインターフェイスを設計すれば、ビジネスのインタラクションがスムーズかつ効果的に実現できるかという観点で、です。
その際には先に書いたシックスシグマのフレームワークが非常に役立つと思うのですが、残念ながら、シックスシグマはインタラクションデザインのためのフレームワークだということに気付く人は多くはありません。

シックスシグマでは、主要顧客とコアプロセスを特定し、そのあいだのインタラクションを評価します。その主要顧客の特定と明示したコアプロセスを関連させて、現行のビジネスプロセス上の重要な問題点のあたりをつけた上で、利用品質の改善を行っていきます。そうした考え方とそのために用意された各種のツールの使い勝手のよさが、シックスシグマの使える点です。

例えば、SIPOCダイアグラムでインタラクションを図式化して明示する。そして、明示したプロセスの各段階のパフォーマンスを測り、それが顧客要求を満たすレベルになっているかを分析する。このあたり、すこし科学的な視点が入ったUCDと捉えることができます。
しかも、一般的なUCDが、そのプロセスのなかで「ユーザーと組織の要求の明示」とうたいつつも、その両者の要求をつなぐ方法が明らかになっていないのに対して、シックスシグマは最終から主要顧客の特定とコアプロセスの明示を重視するように、両者の関係におけるインタラクションを重視してる点は非常に評価できます。

シックスシグマとインターフェイス

企業における個々のスタッフは、商品にとってのユーザーと似ています。しくみやそのインターフェイスに不備があれば、スタッフ=ユーザーは、動かないしくみを横目に勝手な工夫をするだけです。それが商品なら単に使われないだけのことですが、企業では仕事が成果につながらないという事態につながってしまいます。
企業内でしくみとそのインターフェイスの設計に不備があるということはそういうことなのです。それを単に「がんばれ!」という精神論でどうにかしようとしてもどうにもなりません。ここに設計的な視点のなさを感じますし、インターフェイスというもの重要性に対する無知を感じるのです。

シックスシグマはユーザー視点でみたビジネスプロセスを重視している点で、実はインターフェイス設計手法なのです。

繰り返しますが、インターフェイスやインタラクションのデザインの基本がある程度浸透しているアメリカでならデザイン思考は成り立ちますが、そのあたり、なんともお粗末なこの国ではデザイン思考からのアプローチではうまくいきません。せいぜいよいアイデア、よい企画で終わってしまい、実現可能なしくみの設計、実行に結びつかないのです。

その点で、ビジネス側からみれば、しくみの設計にシックスシグマをインターフェイス設計と結びつけて考えることが有効でしょうし、逆に、情報システムのユーザーインターフェイス設計にシックスシグマのフレームワークを導入することも有効だと思います。

そもそもまったく畑違いのシックスシグマとインターフェイス設計ですが、実は根底に流れるものは、人が使うシステムを現実的な視点で最適化するための手法という意味ではおなじものをもっています。下手に違う分野のものだからと、分野にとらわれて無視するのではなく、柔軟な発想で使えるものは有効に使うという姿勢が大事だと思います。



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2010年06月27日

朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展/日本民藝館

さて、1つ前のエントリーでは先週の土曜日に行った横浜・そごう美術館での「尾久彰三コレクション 観じる民藝」展について紹介しましたが、そこで古民藝の魅力-特に朝鮮陶磁器の魅力-にすっかりやられてしまった感があったので、今日(日付は変わりましたが)は日本民藝館で行われている「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」に行ってきました。
会期が明日の日曜日まで、ということで急いで。



日本民藝館に行ったのは、もう何度目か忘れましたが、今回の展覧会もまた良かった。
こういう品々をみると、心が洗われた気がするのは、なぜなんだろう?

白磁の魅力

民藝の品というのは、実は僕にとっては小難しい話は抜きにして、単純に欲望の対象です。今日も、粉引の茶碗や白磁の水滴など、これ欲しいと思えるものがいくつもありました(もちろん、欲しいと思って手に入る品ではありません)。

そんな僕自身、実はつい最近まで白磁の魅力がいまひとつよくわかりませんでした。
家にも、白磁の器はいくつかありますが、どれも絵付けがされたもので、真っ白なものはありません。
ところが、最近は絵付けのない白磁が魅力的に見えはじめたのです。

その魅力に気づかせてくれたのが尾久彰三さんの本『観じる民藝』であり、先週の土曜日に見た同名の展覧会でした。

白磁が魅力的に感じられるようになったのは、まっさらで真っ白な新しい器ではなく、使い古されて汚れて傷がついた器に、温かい美しさを感じられたからです。
今日見た大小さまざまな白磁の品もどれも使い込まれて絶妙なクリーム色に変色していたり、角が削れて丸くなったりしていました。それが白のはねつけるような表情を和らげ、手に触れたくなるような温もりを感じさせてくれるのです。

それは貫入が入ったり、金継ぎで修繕された陶器にもいえることで、新品には決してない魅力が、今回の展覧会に出品された朝鮮の陶磁器の品々からは感じられました。

使われて美しくなる

さっきの「尾久彰三コレクション 観じる民藝」展を紹介したエントリーでも書きましたが、民藝の品の魅力というのは、単に作られた品そのものの良さというより、使われて美しくなった品の美なのでしょう。最近、そのことを感じていて、僕がもやい工藝などで買ってくる器などはその意味で買ってきただけでは民藝の品にはなりきっていないのかもしれないと思うようになりました。

民藝の品に関しては使い手も作者であって、作り手の制作という手仕事と使い手の使用という2つの手仕事が結実して民藝の美が生まれるのであろうと思います。柳宗悦が決して新しく作られた品ではなく、使い古された品を集めたのは、そうした意味なのでしょう。つい最近まで僕はその点を誤解していたような気がします。

ということがだんだんわかってくるにつれ、うちの器ももっと使い込みたくなりました。古いものでは買ってから3年以上経つものもあるので、思うような魅力のある品に育つまでは遠い道のりだと思いますが、日々の暮らしの中で大切に使い込んでいければとあらためて感じさせてくれる展覧会でした。

さて、本展は日付が変わった今日日曜日まで。
興味のある方は急げ!w

朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展
日本民藝館
2010年4月1日(木)-6月27日(日)
http://www.mingeikan.or.jp/html/exhibitions-events-mingeikan.html



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2010年03月09日

セミナー告知『2010年よげんの書~データから見る生活者のトレンド~』

セミナーの告知を。

今週の木曜日(11日)に、所属先の会社で『2010年よげんの書~データから見る生活者のトレンド~』と題したマーケティングセミナーを開催します。

景気が低迷するなか、「巣ごもり消費」、「ワケあり商品」、「モノを買わない若者」、「嫌消費」などといった言葉が頻繁に囁かれるくらい、消費者の生活防衛意識の高まりが話題となった2009年。こうした景気の低迷や消費者の節約の流れは、2010年になっても引き続き見られます。

ただし、消費者の節約傾向が顕著になるなか、それでもヒットした商品がなかったわけではありません。
プリウスやインサイトのようなエコカー、い・ろ・は・す、ドラゴンクエストIX、Twitter、990円ジーンズ、ウォン安韓国旅行など、売れ行きが好調だった商品・サービスは「お買い得」「エコ」「(ゆるい)つながり」といった共通点をもっていました。
こうした流れの中、2010年の消費のトレンドはどのような展開を見せるのか。

今回のセミナーでは、僕が所属する商品計画研究所・所長の大久保が講師となり、独自のリサーチによるデータをもとに2010年のトレンド予測を行います。

より詳しいセミナー概要および申し込みはこちらを参照いただくとして、興味のあるマーケティング担当者の皆様にはぜひご参加いただければと思います。

直前の告知となってしまいましたが、よろしくお願いいたします。

セミナー『2010年よげんの書~データから見る生活者のトレンド~』詳細および申し込み
http://www.coprosystem.co.jp/news/release_100217.html

2010年02月15日

もうひとつブログをはじめました。

こっちのブログも最近更新頻度が減ってますが、それにも関わらず、もう1つブログをはじめました。

その名も「市場のお手入れ」。

実はそっちは会社のブログです。
なので、ここ最近、こっちではあまり書く機会が減った人間中心設計だったり、マーケティングだったり、ウェブのことだったり、商品開発のことだったりを書いていくことになると思います。

こっちのブログの読者の方々の中にも、むしろ、その方がありがたいという方もいらっしゃるかなと思い、こちらでもご報告。

というわけで、こっちのブログはよりディープに、より時代錯誤に、より唯我独尊で!w

2009年12月28日

生産力よりも消費力

最近、世の中をみていて、いまの日本社会に必要なのは、これ以上、生産力の向上を目指すことよりも、消費力を引き上げることではないかと感じます。

それはいわゆる需要と供給という話とはすこし違って、単純な経済的な話でもないと思っています。自分たちの生活や生き方や人生の理想が描けなくなっているのではないか。そう感じるのです。

それも個々人が自分の理想を描けなくなっているということよりも、社会としての構想力やコンポジションが欠けていて、理想の世界を描けなくなっているということのほうが大きい。それが根本にあっての消費力の低下というのがあるのだろうと感じるのです。

商品というモノばかりで夢を描こうとしすぎたツケ

いろんな商品・サービスに対して、これがあればもっと自分の人生がよくなるというイメージがもてなければ消費はとうぜん生まれない。むしろ、それがあってもなくても別に人生に大きな変化はないと思えるモノばかりに囲まれていては、モノが消費されないのは当たり前です。モノが夢を描けなくなっているし、モノに夢などを感じなくなっています。ニーズはあってもウォンツがほとんど喚起されないから、低価格商品のとりあえず消費へと流れる。

こう書いたからと言って、僕はこれを単純な経済の問題とは思わない。
むしろ、経済ばかりに没頭しすぎて、生産性をいかに高め、売上や利益を稼ぐかということばかりを考えすぎてきたせいだと感じます。商品というモノばかりで夢を描こうとしすぎたツケが回ってきているという感がある。

仕事と生活の分離

モノを売ることばかり、売り物をつくることばかりになってしまっているのに同期して、仕事というとお金をもらって行う仕事のことだと思うようになってしまってもいます。仕事が自分たちの生活や生き方や人生をつくるため、支えるためのものだという考えはもはやほとんどないのかなと危惧しています。

自分たちの毎日の暮らしをおくるための家事、子供を育てることや季節の行事や祭りのために準備をし参加すること、地域で共同で共有物の掃除をしたり手入れをしたり、そういう仕事が仕事だという認識が薄れてしまっている。

最近、ライフスタイル研究会(仮)準備室でよく、仕事と生活の分離ということを話題にしますが、仕事は金を稼ぐもので、それ以外の家や地域での仕事は仕事として認めなくなっている傾向が強い。職場と家庭が地理的に分離されただけでなく、金を稼ぐ仕事とそうでない仕事が分離してしまい、さらに、経済と文化、公と私が分離してしまっている。

それがモノをつくり提供する組織から、生活を締め出し、生活から離れていき、最終的に現在のような、新しい暮らしのヴィジョンを描けなくなってしまった大きな1つの要因ではないかと感じるのです。

既存の夢のフレームが疲弊している

日本国内に限れば、若い人にはクルマもマンションも売れなくなっているという傾向がある。ファストファッション、プライベートブランドと低価格商品に流れ、インターネットのコンテンツはますます無料化に進む傾向がみられる。ケータイだって明らかに売れなくなってきているし、持っていてもなるべく使わないようにしている人もいる。

こうした傾向を単に好奇心のなさとか興味の範囲が狭いとか、不景気の影響だとか片付けるのはたやすい。でも、真実はそんなことではなく、もっと単純にモノが夢を描けなくなってしまっているということにすぎないのだろうと思う。
マーケティングによって夢を消費させるという方法が、これだけモノや情報が増えたなかでは成り立ちにくくなっているのだろう。

そうはいっても実はモノや情報は単純に多すぎるのではない。それらの過多は既存の観念のフレームのうえでの混雑であり、飽和なのだと感じます。マーケティングによて次々に新しい商品を開発し広告するという既存の夢のフレームが疲弊しているということなのでしょう。あるいは科学技術や情報技術主導で明るい未来をつくりだすというフレームが飽和してしまっているのだろうという気がします。

新しい夢のフレーム

とはいえ、実は別のフレームでみれば、足りないモノも情報もまだまだあるのだけれど、そうしたモノや情報を魅力的にみせる別のベースとなる夢のフレームが描けていないからこそ、ここまで消費力が落ち込んでしまっているのでしょう。

こうした状況を打開し、新たな消費力を生み出し活性化させることが、来年以降、本格的に求められるのではないかという気がしています。
新しい夢のフレームを生み出し、そのフレームの上で新たな生活、生き方、人生を送ることができ、それに必要とされる仕事やモノが消費される。そうした新たな価値観、世界観、人生観のベースとなるフレームをいかにつくりだせるか。そうした作業が急務なのではないかと感じています。

新たな働き方、新たな人間関係や人とのつながり、新たな自然観や自然との接し方。
そうしたことに関する議論や活動がすくなくとも水面下では活発になってくるのではないかと思います。

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2009年12月04日

疑う理由

信じる力」の続編として。

なぜ、疑うのか。
その理由は実ははっきりしている。

簡単な話だ。
それは他人やモノに頼ろうとするからだ。自分で責任をとるつもりがないからだ。

疑う理由

他人やモノに頼ろうとすれば、その対象が本当に頼れるものかどうかは気にかかる。対象となるものが信じるに足るものかと考えたくもなるだろう。

逆にすべて自分でやって自分で責任をとればいいと思えば、何も疑う必要などない。自分にできるかどうか不安になることはあるだろう。それがきっかけで自分の能力を疑いたくなることもあるだろう。だが、その場合でさえ、本当に疑っているのは自分自身の能力ではないはずだ。そのとき、疑っているのは、自分ができなかった場合、その結果を評価する他人の目を疑っているのだ。

つまり、疑うことの背景には自分が何を為すかより、他人やモノがどう手助けしてくれるかとか、自分がしたことを他人がどう見るかとか、そんな自分の責任範囲外の他人のことばかりを気にしている、ある意味、無責任で臆病で卑怯な姿勢が隠れている。

モノとワザ

信じるというのが、どこまでいっても自分の問題だというのは、相手がどうこうは関係なく、自分の分の範囲内できちんと自分の責任をとる覚悟で望むことこそが信じて何を為すかということだからだ。それを自分の分を超えたところを高望みし、足りないところを他人やモノの力に頼ろうとするから疑いたくなる。そうではなく、あくまで自分の分にそぐう働きをせいいっぱいやることに注力すれば、むやみにモノや他人に頼らずに済む。分不相応な高望みをしたりするから、得体のしれないものにすがりつくはめになるのだ。それでは疑いばかりが増えるのも仕方ない。

モノに頼って分不相応な仕事をしようと考えるよりも、自分のワザでなんとかなる範囲で仕事をしようという姿勢が世の中全体からなくなってしまっているからこそ、信じる力が急速に社会から失われていっているのだろう。

分を忘れる

問題があった時に、モノで解決するかワザで解決するか。

例えば、箸ではつかみにくい豆を食べるのに、箸の使い方をうまくするのか、豆を食べやすい箸とは別の道具を発明するのか。自分の仕事がうまくいかない時に、自分で努力してなんとかするのか、外部のコンサルタントに頼るのか。

ワザで解決しようと決心すれば何かを疑っている場合ではなく、自分を信じて努力するしかない。それを外に頼ろうとした瞬間、疑いの泥沼にはまる。もっといい方法、もっといい道具があるのではないかと考えだし、目の前の方法や道具の悪いところばかりが目につくようになってしまう。
その贅沢な欲望に終りはないし、そのうち、自分の力でなんとかするということ事態を忘れてしまう。それは自分の分を忘れることだ。ようするに自分を喪失することにほかならない。

分を知る

そうなると、もう疑うことはとまらない。唯一疑わずに、頼ることが可能な自分がないからだ。

完璧なものなど、この世にひとつもない。であれば、すべてが疑う対象になる。その悪循環を断ち切れるのは自分を信じることだけだ。
自分を信じることで道具や他人を信じることができるようになる。失敗を失敗ととらえずに、そういうこともあるものだと受け入れられれば、自分も他人も道具も責める必要はない。次にそれと違う結果になるよう努力や工夫をすればよいだけだ。そうした行い自体が分を知るということなのだろう。

そうした自分の分というものを個人から奪う方向にばかり進んでいる世の中に対し、良識ある大人ならNOというべきだろう。それをしないで自分たちまで他人やモノや方法などを疑ってばかりの大人が多すぎるからたちが悪い。

自分の人生を生きるためには、何より自分の分をわきまえることが大事だということを、大人は次の世代に伝えていく義務があるというのに。でも、いまの時代、その義務のある大人ですら、そのことを知らずにいるのだ。
これでは誰もが自分の人生を生きられないまま死んでいくしかないのだろう。



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2009年11月21日

パースの三項関係

最近、もう一度、チャールズ・S・パースの論理学や記号学をちゃんと知っておきたいと思うようになりました。ユーザビリティとブランディングの両方に関わる認知、理解の問題をきちんと考えるうえで、パースをしっかり捉えておくことが重要だろうと感じるのです。

パースについては「ブランドとは何か?:1.A Model of Brandとパースの記号論」で、ブランドというものとパースの三項関係について紹介しました。最近でも「体験を支える情報アーキテクチャ」で再び論じています。

パースの記号学においては、記号というものを表象(Representamen)、対象(Object)、解釈項(Interpretant)の3項目で捉えます。
パースは、表象から対象を想起して解釈を発生させることを記号過程と呼んでいます。図にするとこうです。



例えば、これをブランドの価値、ロゴ、具体的なブランド商品という関係にあてはめると、こういう図になります。



これは何を言っているかというと、AppleのロゴをみてiPhoneを想起し、かっこいいというブランドを価値を感じるというようなケースに当てはまります。



これはブランド認知でいうところの「ブランド再認」の認知過程を示した図ということになります。

ブランド再認と再生

ブランド認知には、ロゴをみたりブランド名を聞いたりした際に、特定のブランド商品を思い出したりブランド価値が思い浮かべられるかという「ブランド再認」の問題とは別に、特定の商品カテゴリーが提示された際に特定のブランドを想起できるかという「ブランド再生」の問題があります。

例えば、これも同じくパースの三項関係を使うと、こう図式化できます。



これもiPhoneを例にすれば、「ケータイ」というカテゴリーが与えられた際にiPhoneを思い出すことができ、おなじようにかっこいいという価値が想起できるかということになり、図にするとこうなります。



このようにパースの三項関係で捉えると、ブランド認知における再認と再生の両方がうまく理解できます。

ユーザビリティにおける再認と再生

さらにこのパースの三項関係はユーザビリティに関わる問題の理解にも使えます。

UI上に表現されたボタンやアイコン、ラベルなどの意味が理解できるかもやはり認知の問題です。
例えば、アプリケーションなどを示すアイコンからその機能が理解できるかということを三項関係で図示するとこうなります。



これも具体的な例で示すと、Thunderbirdのアイコンを見たときに、本来の機能であるメールソフトとして理解できずに、鳥がメールを大事そうに抱えている図像からメールを保護するソフト?と思ってしまったら、それは実際の機能と解釈された機能のあいだにギャップがあるということです。



もちろん、この場合の認知にも、再認と再生の問題があり、アイコンが提示された場合、そのアイコンの示す機能が理解できるかとか思い出すことができるかという再認の問題もあれば、何か特定の操作をしようと思った際に、それがどのアイコンをクリックすればよいかを思い出せるかという再生の問題があります。

こうしたブランドに関わる認知の問題とユーザビリティに関わる認知の問題が、パースの三項関係を使うと理解しやすくなります。さらにいうなら、ここで挙げたような例はごく簡単なもので、パースの記号学や論理学を使うと、認知の問題や発想の問題をより深く考えることができます。KJ法が、パースが推論方法として重視したアブダクションを具体的な方法に落とし込んだものであるように、パースの思想をきちんと捉えなおすことで、情報を解釈する、理解するとはどういうことかをより広い意味で考えることができるだろうと思うのです。「生命記号論―宇宙の意味と表象/ジェスパー・ホフマイヤー」で紹介したように、なにしろパースの思想をもとに、宇宙の意味や生命における記号の意味を考えたような人もいるのですから。

そんな感じで、僕のなかではパース再考熱が高まっています。

  

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