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2012年01月20日

過去についての知識は馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している

今、『薔薇の名前』や『フーコの振り子』などの小説でも知られるイタリアの中世学者・記号学者であるウンベルト・エーコと、フランスの劇作家・脚本家であるジャン=クロード・カリエールという、いずれも勝るとも劣らぬ大読書家にして蔵書家の2人による対談集『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』を読んでいます。
いや、正確には「今読んでいる」というより、思い出したときに手に取ってはすこしずつ読み進めているという感じでしょうか。
その意味では、本って、自分が好きな時にゆっくりしたペースで読めばいいのだというのをあらためて思い出させてくれる本です。



さて、その本のなかでウンベルト・エーコがこんなことを言っています。

じっさい、過去を再構築するとき、ただ1つの情報源に依拠するのは望ましくありません」と。
さらにエーコは「時間がたつと、ある種の文書はどんな解釈も撥ね返すようになります」と続けます。

そして、そのことを説明するのに、こんな例を出します。

20年前、NASAかどこかの米国政府機関が、核廃棄物を埋める場所について具体的に話し合いました。核廃棄物の放射能は1万年—とにかく天文学的な数字です—持続することが知られています。問題になったのは、土地がどこかに見つかったとしても、そこへの侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばいいのか、わからないということでした。
2、3000年たったら、読み解く鍵の失われた言語というのが出てくるのではないでしょうか。5000年後に人類が姿を消し、遠い宇宙からの来訪者たちが地球に降り立った場合、問題の土地に近づいてはいけないということをどうやって説明すればよいでしょう。
ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

ある意味では、いまの僕らにとっても気にかかる内容です。
でも、ここでの問題は核廃棄物の是非ではなく、情報の伝達可能性に関してです。

今を未来に伝えられるか? 今僕らは過去を知ることができるか?

僕らはついつい過去に書かれて今なお残っているものだけを頼りに、それが過去の真実であるかのように誤解してしまいます。

でも、想像してみましょう。
いまから何百年もあとの人びとが、いま僕らがせっせとTwitterに投稿している内容をみて、僕らが生きているいまという時代を想像したらどうでしょう。
そのとき、僕らの生きた時代はどれほど残酷で悲惨な時代だと思われるのでしょうか。あるいは、なんて能天気な時代な人たちだと思われるのでしょうか。

ソーシャルメディアではポジティブな発言をしましょう、と言ったところで、大部分は、愚痴や、誰かの悪口や、悲惨なニュースや、それまでは気にも留めていなかった有名人の訃報を嘆いたつぶやきだったりします。そうした情報だけを頼りに後の人びとは僕らの時代をどうイメージするのか?
そもそもそれが何を指すのかすっかりわからなくなっている名詞なども出てくることでしょう。

そういう時代間のギャップを越えて、僕らは何かを伝えられると信じられるでしょうか? そして、それが信じられないくせに、どうして過去をいまの地続きであるかのように安易な妄想をしてしまうのでしょうか。

過去についての知識は馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している

エーコはこんなことも言っています。

我々は過去についての大部分を書籍から得ることがいちばん多いんですが、そういった知識が伝わってくるのは、馬鹿や間抜けや狂信的な敵のおかげなんです。
ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

僕ら自身が自分の認めたものや良いと思っているものに対して言葉を費やすより、不満に感じたり敵視したり批判したい対象についてに対してのほうが言葉を費やせるように、過去の人びとだって同じ傾向があったのではないでしょうか。

実際、大読書家の2人が指摘しているのもそうした例が少なくないということです。
例えば、エーコが紹介するのは、現在生きている僕らが知っているストア派についての情報の大部分が、ストア派の思想に反駁していたセクストゥス・エンピリクスの文章によるということです。
また同じように、ソクラテス以前の哲学的断片に関してはアエティウスの文章を通して知るしかないのですが、エーコ曰く「アエティウスというやつは正真正銘のバカ」だそうで、彼の言うことがソクラテス以前の哲学者の精神に完全に忠実とは思えないことや、はたまたガリア人について、ガリア戦争を開始したローマのガイウス・ユリウス・カエサルが彼らの敵として目で書いたことを通して見ることができないことなどを指摘しています。

あるいは、エーコの対談相手であるジャン=クロード・カリエールによれば、新約聖書に魔術師シモンという人物が登場するそうですが、このキリストと同時代を生きた人物は『使徒行伝』にしか登場せず、シモンを異端視している使徒たちの言動のみによって伝えられている人物です。使徒たちは、シモンがイエスの不思議な力をお金で聖ペテロから買おうとした「聖職売買(シモニー)」の廉でシモンを告発しています。ところが、このシモンという人は弟子が大勢付き添ってもいたし、奇跡を行なう人と呼ばれていた人で、少なくとも使徒たちがいうようなとんでもないペテン師ではなかったようです。

偉大な過去と低俗ないま

僕らは、本というと、正しいことや優れたことや美しいことや役に立つことばかりが書かれているように誤解しています。
確かに、現在のビジネスとてしの出版や過去の様々な権力の検閲などを考えると、悪い本とか間違った内容の本、無意味な本や役に立たない本などは存在するのがむずかしいと思われるかもしれません。

しかし、この本を読んでいると、まったくそんなことはなく、歴史的にも常に無意味な本を書く、馬鹿や間抜けや狂信的な敵が存在していたことがわかります。そして、一部の過去に関しては、先にも書いたようにそうした人びとが書いたことしかすでにわからなくなっていることもあるのです。
Twitterや2chなど、日頃から身近なところに、バカなこと、間抜けなこと、誰かを敵視した批判や愚痴を吐き出しつづけている自分たち自身のことを忘れて、僕らは過去の記述の性善説をある程度信じてしまっています。すくなくとも自分たちと同じ時代を生きている同胞が書くもの以外の、過去の「偉大な」書物に対しては盲目的に書かれた内容を真実と捉えてしまう傾向があります。

でも、そういう偉大な過去を信じて、いまをともにする同時代を低く見積もってしまうのはそもそも人間の性なのかもしれません。2人が紹介してくれているように、ベートーヴェンの交響曲第三番が「猥雑な騒音」「音楽の最期」と同時代の人びとに評されたり、シェイクスピアやバルザック、ヴィクトル・ユゴーも大勢の非難を浴びたりしていたというのですから。

人類はまさに途方もない存在です。火を発見し、都市を建設し、見事な詩を書き、世界を解釈し、神話の神々を絵に描きました。しかし同時に、同胞を相手に戦争を繰り返し、互いに騙しあい、環境を破壊しつづけてきました。知的で崇高な美徳と低俗な愚行を合わせて評価すれば中くらいの点数になります。
ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

エーコとカリエールの2人は、様々な珍説、愚説を礼賛します。
それはこんな風な崇高な美徳と低俗な愚行を合わせをもつ人間のオマージュとして、書物という存在を愛しているからなのでしょう。

それはネットより、印刷された書物のほうが偉大だと考える、あまりに杜撰なメディア論とは違い、はるかに「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」の愛に満ちた理解であると言えるように思います。
そんな2人が対談している本だからこそ、ゆっくりとした読書体験を与えてくれているのかもしれません。



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2012年01月06日

僕たちはいつも間違えてる、だから…

失礼ながら、年末の挨拶も書かないまま、新年に突入した当ブログ。昨日から仕事のほうでも通常営業がはじまったので、こちらでも気合いを入れ直していこうと思いました。
きわめて不定期に、大して裏取りもせずに思いつきをしたためている当ブログではありますが、読んでいただいているみなさんに興味をもってもらえる記事を書いていこうといつも思っておりますので、2012年もぜひ DESIGN IT! w/LOVE をよろしくお願いいたします。
ついでに会社のほうで担当しているブログ「市場のお手入れ」のほうもよろしければご覧ください。ペルソナやエスノグラフィーなどの人間中心設計、デザイン思考関連の記事はそちらのほうで書いておりますので。



というわけで、ご挨拶は簡単に終わらせていただいて、本題。

今年の年末年始はいつにも増してのんびりと楽しく過ごさせていただいたのですが、そんなある日のよく晴れた昼間の散歩中にふと思い至ったのが、僕自身が何かを考えるときの基本姿勢としてタイトルにもした「僕たちはいつも間違えてる」ということを前提にしているということでした。
これは何も他の人が間違った見方や勘違いした見方をしてるのを非難するとかいう話ではなく、僕自身も含めて人はそもそもこの世の中で起こる出来事、世界に存在するあらゆるものを把握し理解するためには、間違えなくては把握も理解もできないと考えているからです。

なぜ「僕たちはいつも間違えてる」ということを前提するのか? ダイジェスト

どういうことかというと、まずはダイジェスト。

  • 抽象化による理解は間違えを前提とする 人は世界をありのまま把握するということができないので、必ず五感で受け取った情報の大部分を捨て去ってごく一部を残す形で抽象化してはじめて意味ある形で世界を理解できるようになる。その意味では人は理解するためにまず抽象化によって間違えるのであり、大部分を間違えることで一部の正しさを手に入れているということができる。であれば、「どう間違えるか?」が重要ではないかと思う。
  • 抽象化に用いる方法は本人もコントロールしきれない とはいえ、意図的に間違った抽象化を行うことで世界を理解できる形にするといっても、その抽象化による理解を人は必ずしもすべて自分の意志のコントロール下で行なっているわけではない。1つ前の「発明の方法を受け継いで…」でも考えたように人は自分でも知らず知らずのうちに常に方法を使っているのであり、その方法によって、ここで問題にしている抽象化の仕方は変わる。であれば、先に重要であるといった「どう間違えるか?」に関しても、すべて本人でさえコントロール可能ではないことを理解しておく必要がある。
  • メディアが人間の抽象化の方法に影響を与える では、本人でさえ、自分の抽象化作業によって感じている世界の何を切り捨て、何を残すかをすべてコントロールできるわけではないとすると、何が人間の抽象化作業=世界認識に影響を与えているのか、価値観の形成に影響を与えているのかを知っておく必要がある。その際、僕が念頭に置くのはマクルーハンの「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」という言葉。昨日会社のほうのブログに買いた「Webサービスとペルソナ(中編)」でも扱ったけど、このメディア=人工物と、人間の世界認識の関係を理解しておくことが必要ではないかと思っている。
  • 「問題設定力」がこれからのテーマ なぜ、こういうことを今更ながら思ったかというと、昨年以上にいろんなことが起こって、これまでの思考や価値観では閉塞感満載になりそうな今年、求められるのは既成観念にとらわれない「問題設定力」だなと思っているから。これまでの観念をこれまでの思考や価値観で疑っても、それは単なる親近憎悪でしかないので、そうではなく疑うことで新しい思考や価値観が再構成されるような疑い方が求められていて、それが今後必要な「問題設定力」だと思うのだけれど、それには、これまで以上にどんなメディアが人間のどんな世界認識や価値観に影響を与えたのかを歴史的な視点で理解しなおすことが「問題設定力」を高めるための基礎知識になるだろう。

と、まあ、こんな風なことを前提に考えているのです。

当たり前を疑うことの先に新しいパラダイムへの入口はある

ということを前提としているので、基本的にはどんな考えも絶対ではないし、むしろ当たり前だと思って見過ごしていることほど、自分で感じたものではないと疑ってかかる必要があると思っているのです。
そして、何が自分自身の認知や理解、思考や行動に影響を与えているのか、何の影響を受けたものを自分が当たり前なこととして無意識に受け入れてしまっているのかを常にあらためて明らかにしていこうとする姿勢が大事だと考えているわけです。

ましてや、いまのように何が正しいのかわからない世の中で、不安に駆られて正解やみんなと同じ意見を求めておどおどするよりも、何が正解がわからなくなった今だからこそ、なぜほんのすこし前まで正解があると思えたのか、いろんなシステムがまともに動いているように思えたのかを考える方が大事なことなんじゃないかと思っているのです。

そして、当たり前だと思っているものが何によって当たり前と思えてしまっているかと歴史的な視点をもって疑ってかかることの先にこそ、はじめて新しいパラダイムは開けてくると思うのです。

「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

そう。ここでマクルーハンが指摘しているように、僕らはメディアによって新しい環境に移行してもしばらくは、古い「当たり前」に縛られた頭で世界を古い時代のままに見てしまいます。僕らは古いメディアに縛られた方法を使った世界認識や考え方や行動の仕方を無意識に使ってしまっており、それが当たり前になってしまっているからこそ、新しい環境が整っても相変わらず古いメディアがもたらしたものと同じ「内容」を新しい環境にも求めてしまうのです。
モノや情報を私有するのではなくソーシャルに扱う時代を迎えてもなお、個人や私企業がそれらをパーソナルに扱い、所有し、コントロールできると勘違いし、プライバシーや企業秘密にこだわる感覚のもそうした事態の一例でしょう。

でも、新しい生き方、感じ方、行動の仕方は、古いパラダイムの「当たり前」を抜け出し、新たな環境の「メッセージ」を理解することしかはじまりません。自分たちの考え方が古いメディアに影響されていることを自覚することが前提となります。

そう。古いメディアによって抽象化して見ている世界の見方のどこが間違えているのかということの自覚が…。

何が僕らのデザイン思考を可能にし、何が僕らのいまのライフスタイルを可能にしたのかと疑うこと

それには、これまで以上にどんなメディアが人間のどんな世界認識や価値観に影響を与えたのかを歴史的な視点で理解しなおすことが「問題設定力」を高めるための基礎知識になるのだと思うのです。

画一的、連続的で、限りなく反復可能な小単位なるものはグーテンベルク印刷技術上の事実であるが、それがまた微積分という関連概念を吹き込んだ。それによって、いかなる捉えがたい空間も、まっすぐで、平らで、画一的で、「合理的」なものに移し変えることが可能となった。この無限という概念は、論理によってわれわれに押しつけられたものではない。それは、グーテンベルクの贈り物であった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

定価や定義、標準化や正解といった画一化を求めるもの、それはこれまでもこのブログではたびたび書いてきたように、同じ商品を大量に存在し個々人による所有を可能にするマスプロダクションの走りとしての印刷物というメディアに端を発しています。印刷以前の話し言葉はもちろん、手書きの写本でさえも定価や正解といった、同じものを個々人が所有できることを前提とした思考様式やライフスタイルを可能にする環境を準備できませんでした。

そして、画一的な同一なものを視覚的に反復可能になってこそ、デザイン思考も可能になったのです。
グリッドが敷かれた画一的な平面の上で、誰もが望めば利用可能なさまざまな視覚的要素をグラフィカルに構成しながら行なう試行(プロトタイピング)により、いろんな問題が視覚的に思考できるようになったことを理解することで、僕らは無意識に当たり前に行なっている自分の普段の思考スタイルを反省したほうがよいはずです。印刷革命によって可能となったデザイン的な思考スタイルがその後の生活スタイルを大きく変えていったことを意識し、それが何によって可能になったかを理解しなおすことが、次の一歩を踏み出すためには必要なことでしょう。

例えば、食事用に使われていた2本のナイフのうちの1本の歯が「食べやすさ」を改善するために2つに割れ、最終的には4本に定着していく過程でのデザインの試みが可能になったのも、16世紀の後半のOxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出した時期に重なることは、僕が『フォークの歯はなぜ四本になったか』の「解説」にも書いたとおりです。

ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。
『フォークの歯はなぜ四本になったか』「解説 失敗の発明」より

僕らは現在自分たちが暮らしのなかで感じている不満や不便さを、デザイン(特に利用する物理的な道具のデザイン)によって改善しようとする発想を当たり前のことのように感じています。しかし、それはそもそもモノ自体がマスプロダクション技術によって同じ商品を大量に生産し流通させ、多くの人に所有に可能にする環境や、また同じ思考やアイデアを容易に他の人物に伝えたり、自分でも繰り返し視覚的に思考できるようにする環境が整った上でのことであることを忘れています。
そうした環境が整うグーテンベルク以前の世界では、フォークの歯が4本に分かれていくことはなく、いつまでも料理を食べづらく、口を切る危険性もあるナイフ2本での食事を、道具の変更によってよりよいものにしようという改善の発想は決して当たり前のものではなかったのです。

現代人にとってはデザイン思考は当たり前の思考スタイル

ましてや、印刷どころか、紙の上で文字や図像を描くことも簡単なことではなかった、話し言葉の時代、筆記具や紙がかんたんに扱えるものではなかった時代においては、生活の改善を可能にするデザインなんていう思考スタイルが日常的であるはずなどはないのです。

似たようなことは、マクルーハンの盟友ともいえるウォルター・オングも『声の文化と文字の文化』のなかで「テクストによってかたちづくられた思考」として指摘しています。

たとえば、幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、また、包括的な記述や、ことばによる自己分析さえもそうである。これらの項目はすべて、思考そのものではなく、テクストによってかたちづくられた思考に由来するのである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

ここでオングによって「テクストによってかたちづくられた思考」と指摘されるものは、デザイン思考に限らず、僕ら現代人がごくごく普通に用いている思考方法です。そして、それはオングがいうように、テクスト以降の歴史性をもった思考の様式なのであって、人間は必ずそのように思考するわけではなく、むしろ、テキストというメディアに大きく影響を受けたスタイルでしかないのです。
そう。僕らはそのテクスト以降の思考スタイル、さらには印刷革命以降の思考スタイルを当たり前に使えるよう身につけたことで、その思考スタイルが可能にする抽象化の方向性の影響を受けて常に世界を間違って認識し、物事を間違えた解釈で理解するようになったのです。

僕らはここを勘違いしてはならないと思います。
デザイン思考なんて逆に現代ではまったく当たり前すぎて誰もが行なっているものであることをあらためて理解することも必要なのです。

デザイン思考というキーワードがあらためて意識されたのは、それこそ印刷革命の当たり前さとは異なる新しい環境が生まれつつあり、新しい環境が古い環境を根本的に加工しなおしはじめたことがおぼろげながら明らかになったことで、グーテンベルク以降続いた古い思考スタイルである「デザイン思考」が単に意識化されただけと見た方がよいのです。
つまり、そういう古くから続いたデザイン思考なるものを今更大げさにありがたがったり、それを身につけようなんて考えたりするのは、とんでもない時代遅れであって、むしろ、あのアプローチはOxford English Dictionaryにdesignというワードが登場しはじめた16世紀の終わりから20世紀に至るまでに人間が当たり前のように無意識で行なっていたアプローチをあらためて明示し、形式知化しただけのものと理解するほうが正しいのです。
そして、そういう環境を事前に歴史が用意してくれていたからこそ、「発明の方法を受け継いで…」で指摘したように、19世紀が「発明の方法」の発明の世紀として立ち上がることが可能になったのです。

自分がわかるイメージだけに逃げ込むな!

僕らはそんな歴史のなかで、自分たちの世界認識の間違え方を変化させているのです。
そう。僕たちはいつも間違えてる、だから…。

2012年、僕はこうした自分たちの認識や理解、思考や行動が何に影響を受けて、どんな風に偏ったスタイルで世界や物事に対峙してしまっているのかということを、これまで以上に明らかにできるよう、さまざまな方面に目を向けていこうと思います。

つまり、「方法」の自覚/反省です。方法が僕たちに常に間違えた世界認識を与え、僕たちを安心させている。そのことを常に意識した上で、その僕たちを誤らせる方法を自覚していくことが必要だと思うのです。

そして、このブログを通じて、みなさんに「自分がわかるイメージだけに逃げ込むな!」ということを伝えていきたい。わかりやすさや、自分が理解しやすいイメージというのは、幻想であり、その幻想を抜け出すためには答えのない世界で不安を感じながらもがくしかないということを知ってもらいたいから。わかっているなんてことはすこしも立派ではないことを知ってもらいたいから。

そんな風な僕のこれからの思考/試行を今年もこのブログに綴っていきます。
興味のある方はこれからも当ブログにご期待いただければ光栄です。

  

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2011年12月14日

デコボコの世界の分かれ目で何を想う?

世の中には結構な数で定量的な調査の集計データが読めない人がいます。アンケート調査でもそうだし、アクセスログ解析データでもそうでしょう。量的な調査データを読めないのって、結局ものごとが隆起するさまを編集的に読むことがそもそも苦手ということなんだろうと思います。つまり、頭の中でものごとを解釈して意味を生成するには、差異という「分かれ目」を分かることがまず求められているということを知らないのではないか、と。だから、まず意味を理解するには、数を比較することが必要であることがわからない..

2011年10月12日

イデア論という思考/文化のインフラ

プラトンのイデア論がなんだったか? そして、それが何故、どんな変遷を経ながら西洋社会に受け継がれ続けたのか? それを知ることが必要だと思います。
わからなくても、とにかく知ること! 知りたくなくても知ること!! 四の五の言わず、知ること!!!!!! とにかく、そのくらい知ろうとすることが必要なものだと思っています。

詩仙堂

なぜイデア論云々を知るべきだと思うかといえば、それが西洋の知、しいては近代以降の僕らの文化を考える上で避けては通れないインフラのひとつだと思うからです。

さらに言えば、日本人はそういう他文化に敬意をはらうというと意味で他者に興味を示すということをしなさすぎると思うからですし、他者に敬意と興味を示すこともできない人間が自分自身や自国の文化に敬意や興味を示すことはできないと思うのはからです。

何か本物や真実や決まった意味があると思えたり、それを前提に考えたり生活するのを当たり前と考えることを可能にするインフラ

とにかく近代以降の本物と偽物、オリジナルとコピー、真実と幻想、定価や定義とそれらが定められていない怪しげなもの。そうした区別の正統性をいうのに、どれほどイデア論が担がれたか。それをまず知ることが非常に大事な時期になってきていると思うのです。

というのも、それを知らないまま、そうしたものへのアンチ、対抗的思考や活動が目立つようになっていると思うからです。それらの活動が目指すところを否定したいがために、いまこれを書いているのではなく、敵を知らぬまま、立ち向かったのでは犬死だと思うから書くのです。

では、それはどんな活動や、意識なのか?
一般論を嫌ったり、組織への所属や固定した居住形態を嫌ったり、持たざる生活を目指すノマド的な活動も流行りですが、僕が想定するのは、そうしたものです。
そうした活動は必要ですが、同時にいまそうした意識や活動が芽生えてきていること自体が、イデア論的なものを根拠として担ぐ傾向のある、すべてを抽象化して定着させる力の根源である文字〜活字文化がマクルーハン的な意味で人間拡張した結果に対するアンチでしかないことは認識しておかないと、ドン・キホーテ的な戦いに終わります。

文字〜活字文化の力と空海

イデア論的なものと文字〜活字文化の強大な影響力がどれほど人間拡張のインフラであるかを認識しなければ、対抗的活動でしかないノマドなど、確実に足元をすくわれる。そのくらい、西洋の知が歩んできた道は強固です。

そうした強大なものに敬意をもって認識しようとしないまま、ただ無知ゆえの無謀さで、単なるアンチでしかないノマド的なものを目指しても、その力の前では無力すぎて、結果は期待できません。
心してかかろうもすれば、文字の力に抗う術を模索した空海のようにある必要があります。

そう。空海です。
空海についても、イデアについてもおすすめの本はすでに紹介してます。他では「中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン」や「薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史/フランセス・イエイツ」も、西洋の思想や文化においてイデアがどのようにそれらを支えるインフラとして変遷してきたかを理解するには最適な本です。
こうした本があるのに、それで学ぼうとしないなら、あとは知的怠惰でしかないでしょう。あるいは、先にも書いたとおり、他者の独力に対する敬意の欠如か。

いずれにせよ、僕らは自国の文化にも、他国の文化にも敬意をもたず、興味を示さなすぎます。そんな輩に何かができるはずはないでしょう。

敬意とは努力そのもの。まずはそこからではないかと。
イデアの変遷と空海について学んでください、と大阪出張に向かう新幹線のなかで雑多に浮かんだことをメモ。

  

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2011年09月09日

自分にも他人にも容赦をせずに自分の考えを言葉にすることを心がけないと

遠慮とか、他人に気を遣うこととか、人目を気にすることとか。
いりませんね。必要ない。いやいや、それどころか、自分が思考し行動する上では邪魔でしかありません。

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本当は上手に気をつかえたり、他人への配慮ができるチカラがあれば、それらも悪くないもののはずなんですけど、いまを生きてる世代で、そんなことが上手にできる人なんていません。
何をどう配慮すれば相手も自分も上手くいくかなんてインタラクティブな文化的解答を僕らの世代はとっくに失ってしまっているし、その喪失にさえ気づいていない有様です。気を遣って相手も自分もいいようになるよう希望しても結果は真反対。このシュリンクする経済状況を見るだけでも明らかです。
そんな縮小という結果に向かわせるだけの人の和なんてものはもはや美徳でもなんでもありません。単なる相互甘やかしの悪循環を生むだけです。

まずは自分自身のなかに齟齬を生め!

そんな、なあなあの状況がいいわけがない。なあなあ言いあうだけで、みんなが自分の考えを言葉にする努力を徹底的に怠っている状況は末期的な印象を受けます。

自分の頭のなかで言葉として考えを組み立てることをサボって「いいね!」で済ます。こういう記事を見つけて何のコメントもなしにリンクだけはってツイートしてるのも同じ。言葉がない。自分が何を感じたかをあらためて言葉にして見つめ直すという視点がない。それゆえ、そこには共感した自分とそれをあらためて言葉にする自分のあいだで生じるはずの齟齬が存在しない。自分自身のなかでさえ、なあなあがはびこっています。

自分自身のなかで考えを言葉として組み立てること。それをして、ちゃんとその内容に目を向ければ、なにかしら「あれ?」と思うようなつまずきに出会うはず。そのつまずきという齟齬を見過ごさないこだわりが大事です。
実はその齟齬が共感した自分とその共感とズレた自分のライバル関係を生む。ライバル関係こそがいまの自分を飛躍させるためのきっかけになります。

ところが、考えたことを言葉にする作業をはじめから放棄していたら、そのチャンスは訪れない。なあなあだからです。こだわりがないからです。結局のところ、そういう自分自身のなかで齟齬が生まれることさえ怖がっているのでしょうね。自分自身でもカンタンに処理できなくて面倒なことになるのがイヤなのでしょうね。知的怠惰の一例です。そんな怠慢でショボすぎる現状が変わるわけないのに。ショボすぎる現状を他人のせいにしても、きっと状況は悪くなる一方なのに。

前にも「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」や「語彙が少ないと仕事の能率もわるい?」といった記事を書いたけど、言葉にできないと考えたことにならないというのになんで気付かないんでしょう? まさに「Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)」です。「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」です。考えてなさすぎだし、わかってなさすぎですよね。なによりわかろうとしなさすぎだし考えようともしてなさすぎです。
起きてるあいだ、何してるんでしょ?

そして、自分から積極的に考えを言葉にすることはいっさいないのに、誰かに何かをいわれたときの言い訳だけは饒舌になる。なんやねん、その態度? 自分をそんな風に弁護するのではなく、もっと積極的に自分のなかに齟齬をつくりだして過去の自分を常にアップデートしていく方向でいこうよ。

容赦しないて討議しよう

ところで、ライバル関係がスキルアップになるのは、もちろん自分内のライバル関係の場合だけでありません。むしろ、実在の他者とのライバル関係なら、もっと有効です。

齟齬が自分を鍛えてくれるのなら、他者とのほうが齟齬は生じやすい。その他者との齟齬を積極的に利用していきましょうよ。
でも、そこを最初に書いたような遠慮やら気遣いやらで、なあなあな関係で何もかもぼかしてしまおうとするから、自分を鍛えるのに役立つはずの他者との齟齬も生まれてこない。そこまで脳みそを使う機会を減らして、いったいどうするつもりなんでしょうか?

あのね、そんなことしてないで議論をしましょう。ちゃんと自分の考えと他人の考えを闘わせる議論をしましょう。
揚げ足取りあいや感情的なだけの言い合いはさすがに歓迎できませんが、互いに自分が考えていることを述べ合い、相手の考えも聞きつつ、それでも自身の考えの優位性を打ちたてるような思考を展開し論を組み立て、相手に容赦なく、それをぷつけましょうよ。闘うためにも普段から自身の考えを何度も様々な形で言葉として組み立てながら、自身の考えを鍛えておきましょう。いまならメモがわりに使えるソーシャルメディアもモバイルツールもあるのだし、それで誰かが突っかかってきたら飛んで火に入る夏の虫じゃないですか。闘う相手が向こうからやってくるわけですから。

自分の考えを言葉にする。そして、それを相手にぶつけて見る。相手は相手自身の考えとあなたの考えとの差異を指摘してきたりするでしょう。そこにこそ、自分の考えをより強固で大きなものにするチャンスがあるわけじゃないですか。相手が指摘する差異をも自分の考えのなかに取り込むような新たな視点をもって、自らの考えを再構築できる機会が与えられるわけです。そこには発見もあるはずです。しかし、そういうこともまず自分の考えを言葉にして、それを他人にぶつけてみないとはじまらないわけです。

どうも、そういう自分で考えたことを言葉にするということをせず、他人の考えた情報を毎日拾ってばかりの情報乞食が多いような気がします。自分の考えも社会や会社に提供して、みんなで未来を作っていこうというシェアの精神がきわめて薄いような…。
そういう状況だと、ライバル関係も成立しにくいので、全体的に沈んでいく。シュリンクしていく。そういう悪循環にして自分自身の生きる環境も悪化させてるのは、自分の考えを言葉にする作業を日頃からすることを怠っている自分自身のせいだということに何故気付かないのかな?

はやく気付いて闘っていこうよ。

こだわりがあるというのは違いが見えているということ

さて、そういう闘いに臆せず臨むためにも、やっぱり自分のこだわりを持つことが大事だと思います。

こだわりっていうのは、結局、違いがわかるということなんですね。違いがわかるからこそ、あるものにはこだわることができ、別のものは無視することができるんです。だからこそ、こだわりがある人の方がない人より仕事ができる可能性が高い。違いがわかる人の方がそうでない人より仕事ができる可能性が高いのは想像がつきますよね。違いが見えなければ仕事に必要なさまざまな判断、決断はできません。こだわりを持つ人が仕事ができるのは、大事な違いがわかる人だからです。

で、違いがわかるというのは結局見えているってことです。わかっているってことです。違い=区別の基準がはっきり見えていて説明もできる。見えてなかったら何もできません。見えているからこそそれと向き合うことができる。
違いが見えているから、それを自在に使いこなせるし、いろんな応用もできる。つまり、それは自身の考えとこだわりの対象をリンクさせることができていて、考えを言葉として組み立てる過程で、自身のこだわりを使って物事をなすことができるわけです。

ようするに、こだわれるということは、それだけ知識があるということ。しかも知識や情報に溺れず、自分で好きなように加工やコントロールもできるということ。つまりは知識を使いこなせるということ。それがこだわりの本質。
であれば、こだわりがない人が仕事ができないのは当たり前ではないか、と。
もちろん、自分の考えを言葉に出せない人にまともにデザインなんてできるわけがない。人間中心設計やデザイン思考に興味があります、とか寝ぼけたことを言ってる暇があったら、自分の考えを言葉にして僕にぶつけてきてほしい。

こだわるために強奪せよ

結局、これなんですよね、必要なのは。でも、このこだわりこそ、いろんなものに遠慮しつつ、なあなあでやり過ごしていたら絶対に手に入らないものでしょう。それこそ、容赦なく強奪するくらいの心意気があってこそのこだわりです。

もちろん、こだわりというのは現状のところ知識なわけですから、強奪するといっても他人に物理的な迷惑をかけたりはしないはずです。それよりも強いられるのは、自身の知的好奇心のめいいっぱいの稼働でしょう。好奇心をもって違いを見極めていくなかで、それを自身のなかに言葉のアーカイブとして知識を構築していく。その作業が強いられる。強奪されるのは、自身のそれ以外にかけられるはずだった時間やその他もろもろのコストでしょう。

なんでしょうね?
そんな風に自分自身を駆り立てている人をあまり見かけません。これだけ気軽に自身の考えを言葉にでき、他者とも議論をできるツールもあるのに。

なんとなく、そんなことをさみしく思いつつ、今日は数ヶ月続けてきたFacebookページの更新を停止することに決めました。
何を考えたか伝わってこない無言の「いいね!」は見ていて悲しくなるばかりなので。



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2011年08月23日

ヴィジュアル・アナロジー−つなぐ技術としての人間意識/バーバラ・M・スタフォード

分けることが分かることだとすれば、印刷文字以降の人びとの思考スタイルほど、紙の上でさまざまな物事を分けて配置し、その位置を定めることで物事を定義することに傾いた時代はない。
ある言葉は辞書に記された定義のように現実の世界を正確に映しているとでもいうように、人びとは実世界から切り離された涼しい会議室のなかで、あーでもないこーでもないと議論をし、定価で買える間違いも不良もないブランド品を求め、いつでも同じクオリティの品をいつでも同じ価格で購入できるようなモノ—記号の結びつきを疑わなかった。高いモノはいいモノで、価格はその品の価値を反映しているし、言葉はそれが指し示す対象をいつでもぶれることなく指し示しているかのように信じていた。

ところが、どうだろう? このあらゆるテクストが超高速でソーシャルメディアのTLやウォールの上を流れては消えるおしゃべり化する社会で、何かこれは確かなものだといえる。定義や定価があるだろうか? ある言葉はいつでもおなじことを指し示し、誰に話しても同じように理解されるような確かさをいまだに持ち続けているだろうか?
そんな先行きが不透明であやふやになりつつある世の中で、インフォグラフィックスやプレゼンテーションスキルやユニバーサルデザインのような「わかりやすさ」のための手業を人びとが求めるのは、まさにそうした確かさの時代の終わりにさしかかった過渡期の世界の象徴的な反応ではなかろうか?



言葉のアクロバティックな応酬は見事な芸術と機械仕掛けの「いかさま芸」の間をあざとく揺れる。自らの画技をこれ見よがしに見せつける絵の画像と同じように目くるめくような能弁に酔う曲芸じみたお喋りは悪趣味とされた。

まさにユーザーフレンドリーなUIや、聴衆を魅了してやまないプレゼンテーションなどが目指すところは、この機械仕掛けの「いかさま芸」と変わらない。ただ、その「目くるめくような能弁に酔う曲芸じみたお喋り」がここでスタフォード女史がいうような18世紀当時とは違って「悪趣味」とされないのは、まさに時代の矛先が正反対を向いているからではないかと思う。

既にして17世紀の宗教闘争の中で、北方プロテスタントたちが抽象的な読み書きを目指したのは、人をあざむく語、人を惑わせる聖像に拠る「ローマ的伝統」を打破しようとしてのことだった。

17世紀の北方プロテスタントたちが抽象的な読み書きを目指したのに対して、僕らの時代はその抽象的な読み書きの終わりに向かおうとしている。その先にあるのは、人をあざむくおしゃべりや人を惑わせるイメージの多様で豊穣な世界だと思われる。
「幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、また、包括的な記述や、ことばによる自己分析」。こうしたものがテクストによって形づくられた思考スタイルと断じたのは、先日紹介したウォルター・J・オングである。そうしたテキスト偏重の思考スタイルが18世紀の末に葬った非テクスト的表現としての視聴覚的イメージがもっていた猥雑な力に光をあてるのが本書の著者バーバラ・M・スタフォード女史である。
テクストの力が衰え、世界を知る術を見失って人びとがうろたえ、困惑しつつあるいま、スタフォード女史が光をあてる視聴覚的イメージを最大限に活かしたエンターテイメントな視覚教育の力を見直すことも必要であるだろう。

17世紀のデカルト的な懐疑の知をひきずりつつ、その世紀後半にはどうしようもなくはっきりする深い専門家的観察と上っつらの讃嘆の区別が浮き彫りになるの18世紀という大いなる過渡期

世界が大きく変わるうねりのなかの過渡期といえば、この本でスタフォードが焦点をあてる18世紀ほど、そうした時代はないのではないかと思う。

神のつくられた完璧なる世界を信じ、それを模倣する方法がすなおに信じられていた中世までの写本の時代から、グーテンベルクの印刷革命を経て、デカルトの『方法序説』に代表されるような懐疑を根本におく「新しい哲学」が芽生えてきた17世紀初頭に詩人のジョン・ダンが「新しい哲学はすべてを疑わせる」と歌ったことを教えてくれたのは、『円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」』を書いたM.H. ニコルソン女史だけれど、そんなデカルト主義あるいはベーコン主義的な懐疑によって世界のメカニズムを読み解こうとする人間の試みが、実際すぐに実を結んだかといえばそんなはずはない。
オングマクルーハンが指摘した印刷技術による思考スタイルの大きな転換は、自分たちがそれまで慣れ親しんできた古い時代の思考のしかたを時代遅れにする方向には迅速に働いたのだけれど、それに取って代わる新しい思考の基盤を人びとが用意する方向では、むしろ、遅々とした歩みを人間に強いたのだと思う。

とはいえ、新しい思考のスタイルに必要とされる方向性だけは決まっていた。

反イリュージョニズムの立場は17世紀末フランス懐疑派の自由主義の伝統に根を持っていた。フォントネルのデカルト的な懐疑の知が働いて、やがて18世紀後半にはどうしようもなくはっきりするはずのある重要な区別が浮き彫りになる。彼は深い専門家的観察と上っつらの讃嘆というものを区別した。いかにも魅惑的という現象に目を止めるぐらいのことなら、舞台の上の驚異や奇跡を眺めるのと同じく、「一種の魔術」なのであって、深い理解など何も必要ない、と。

そう。それは紙に印刷された活字のように地味だがブレない表現と、豊穣な多様性はもち魅力的ではあるが、なんともあやふやで幻惑的な演劇的な表現とを区別することであった。このあたりは、3年前にも「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」で指摘していることなので、詳しくは述べない。

そして、この区別をつけるのに、17世紀後半から1世紀以上の時を費やしたのだが、その結果が僕らの時代のいまのいままで効果をもっていた。そう。その効果があやしくなってきているのだから、一度、それが生まれた原点に立ち戻ってみるのがかしこいのではないかと考える。自分たちの足場があやしくなっているのだから、その足場がどんな風にできたかを確かめておくことが、この危機的状況から抜け出す早道だと感じるのだ。

面白く、より優しい視聴覚的エンターテイメント教育こそが役に立つ

そんな風に、あやしげな視聴覚的スペクタクルから、より厳密に定義された機械的世界への道を歩もうとする一方で、18世紀というのはなんとも面白い時代で、その自らが排除しようとする視聴覚的表現の豊かさ、おもしろさを、いっぺんに余剰なときをもちはじめた一般市民の余暇のレクリーションかつ子供たちの教育にも役立てようなどというなんとも過渡期的な矛盾した様相をみせるのだ。

1760年代に追放されるまでフランスに広く力を揮ったイエズス会のシステムが、子供の生理を美学化したものに立脚していたことを思いだしてみよう。アベ・ラ・プルーシュがその画期書、『自然のスペクトル』(1732-1750)で言っているように面白く、そしてより優しい学び方こそ役に立ったのだ。本当にいたいけな子供ですら、「[自然の]外部をのみ、五感を打つもののみを」見るように言われた。

印刷以前で聖書など私有できるものではなく、それゆえに人びとが一同に集い、神の声を教会で聞くことが信仰活動そのものであり、かつ学問的にも大学での議論というリアルタイムイベントによる体験的学習スタイルをとったスコラ学派が主流であったのだから、もともと視聴覚的で演劇的なスタイルには慣れている。
そこに新たに当時としては目新しい様々な影絵投影機のような光学イリュージョン、機械式からくりが「わかりやすく」かつ「新たな学」を感じさせるコンテンツを大量に提供したのだから、これは古いシステムに振りかける、まやかしの「新鮮味」としてはこの上なく効果を発揮した。まさに混沌として猥雑なバロックである。

こうし街中での喧騒は、様々な視聴覚的表現のイリュージョンを生む偶像やら聖歌やらミサやらを追いやり、各国語に翻訳され出版された聖書というテクストを個室で静かに黙読することを奨励するプロテスタント的な思考スタイルが受け入れられるまで完全にはなくなることなく、むしろ、うまくあやふやなところにオブラートをかぶせて毒気を消しながら、台頭してきた新しい市民層のためのエンターテイメント的教育方法として用いられる。いまで言えば、一時期、DSが学習ソフトでユーザーを増やしたようなものである。教育の名が付けば、多少の悪臭も気になくなるのは、印刷技術的思考の初期から続く傾向なのだろう。

迷誤をうむ危険な源であるから、教会の指導なく読むことまかりならぬとするカトリックの書物観を嘲るかのように、ルター派もカルヴァン派も個人的読書の習慣を奨励した。

その一方、街の喧騒をよそ目に、教育のない人びとは、街中で繰り広げられる手品師や詐欺師やインチキ医者や公開実験家やらのなんとも魅力あふれる手業に魅了され、欺かれたのだというのが、テクスト偏重に人びとを導いた啓蒙思想家たちの言い分であった。

合理的リクレーションは幻想的な、あるいは「非」合理なリクレーションに対峙する計算ずくの対蹠者という存在でもあった

そうして一方では視聴覚的表現を大いに駆使して楽しみながら学べ、ついでにヒマもつぶせる合理的リクレーションがもてはやされた。

合理的リクレーションは即ち視覚を介する教育であった。啓蒙の娯楽は目が、欺きのないパターン、精神を形成してくれる形態に適当に淫することを許した。国境を越えてアピールするこの大衆教化の形式はあたらしい感覚テクノロジーの助けを借りる。

ところがもう片方では、同じ視聴覚的表現のわかりやすさと魅力をもって、人びとを欺かんとした輩が跋扈したのが18世紀である。むろん、清濁混沌したその様相もまさにいまこの時代と瓜二つだ。

そしてまさにここに問題が生じたのだ。光学的にやりとりされる情報というものは、手品師、おもわく師、策士、にせ医者、興行師、器具制作者といった、要するに怪しげな眷族が次々繰りだす十八番でもあったのだ。こうして合理的リクレーションは幻想的な、あるいは「非」合理なリクレーションに対峙する計算ずくの対蹠者という存在でもあった。

そう指摘しつつ、ジャン=バティスト・グルーズの描くバラの花を鼻先に近づけるポーズをとる少女の絵とジョセフ・ライト・オブ・ダービーの見物の人びとが集う公開科学実験の様子を描いた絵を併置してみせ、するのがスタフォード女史のすごさだと書いておこう。
グルーズの描く少女の手つきが手品師的であるとすれば、ライト・オブ・ダービーの描く人びとの凍りつくような身振りは、欺くことのない真実を明るみに出さんとするかのように静止するのだ。この手品師のなめられかな手つきとは正反対の、計算づくの振り付けによるぎこちない演技はまさに、その後の科学的パフォーマンスを先取りしている。



本書には、こうした18世紀の目だま人間たちが目にした光景をシミュレーションしてくれるような図版が大量に引用されている。まさにテキストのみならず視聴覚的表現の可能性をもう一度引き出さんとする著者ならではだといえる。

18世紀の啓蒙時代の誠実さ狂いは、19世紀のロマン主義の本物狂いへとつながっていく

かくして、18世紀も末に向かうにつれ、街の手品師や詐欺師たちの生み出すイリュージョンと、科学的パフォーマンスの区別は明らかになりつつあった。
この流れをみるのには、「エキシビショニズム」と名付けられた第4章がなんとも素晴らしいのだが、ここではそれを紹介する余裕はない。けれど、一言だけ書いておくなら、その自然のスペクタクルから、それを美術館の回廊にまさに活字を並べるかのようにレイアウトしていく置換え技術の登場がなければ、現在僕らがディスプレイごしのヴァーチュアルな映像に世界を感じることなどできなかっただろうということか。

さて、そんな別のまやかし=ヴァーチュアルなリアリティを生みつつ、18世紀は印刷技術がもたらした懐疑する世界にも依って立つ足場をもたらしたといえよう。その足元を照らし出す思考スタイルの模索が啓蒙思想だったのだろう。

知的ならざるがらくたを小器用にでっちあげる小手先の技術屋は新哲学者たちの詐欺指弾の恰好の標的となった。要するに、「蒙きを啓く」とは、あらゆる種類の詐欺から、その仮面を、そのだましの戦略を大衆に教えることによって剥ぐことの謂に他ならなかったのだ。

そして、この啓蒙時代の誠実さ狂いは、18世紀後半から19世紀前半のロマン派の本物狂いにつながっていくのだという。

ロマン派が啓蒙時代の哲学から相続したこのプラトニックな現実観は、ある二項対立を基礎にできていた。「オリジナル」というか大元のモデルが「リアル」もしくは「正しい」とするなら、後に続くコピーは必ずアンリアルであったり、偽りのものであったりするはずである。こうした二元論的な美的意味合いを分析しようとすれば写しの問題を見るにしくはない。複製されたイメージを含め物質的な品々はー文字通りにも存在論的にもー本物でないとする批判にさらされた。

この本物と偽物の区別などはまさにいま僕らが失い/疑いつつあるものそのものだろう。
そして、それはテクスト偏重の思想の終焉だともいえる。

だが、それを真に終わりにしたいのであれば、僕らはきっと18世紀の啓蒙思想に生きた人びとの道のりを逆にたどり、豊穣な視聴覚的エンターテイメント表現を再び手に入れなくてはならないのだ。



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