TOP>2010年02月

2010年02月15日

もうひとつブログをはじめました。

こっちのブログも最近更新頻度が減ってますが、それにも関わらず、もう1つブログをはじめました。

その名も「市場のお手入れ」。

実はそっちは会社のブログです。
なので、ここ最近、こっちではあまり書く機会が減った人間中心設計だったり、マーケティングだったり、ウェブのことだったり、商品開発のことだったりを書いていくことになると思います。

こっちのブログの読者の方々の中にも、むしろ、その方がありがたいという方もいらっしゃるかなと思い、こちらでもご報告。

というわけで、こっちのブログはよりディープに、より時代錯誤に、より唯我独尊で!w

2010年02月10日

お利口であるのをやめよう

既存の尺度で評価できるものはすでにわかっているものだ。当たり前だと評価なものは、そもそも何を当たり前だと思うかの基準かあるから、その基準に当てはまるかどうかが判断できる。
ところが、その当たり前の基準は必ず過去の先例に基づいて形成される。つまり未来において当たり前になりうるものかは判断できない。いや、大抵の場合は当たり前ではないとして弾かれる。

ここにイノベーションの芽を摘む1つの要因がある。

当たり前を疑え

新しい何かを見つけたいなら、未来は現在までの基準では判断しえないことをあらためて理解したほうがよい。
いや、自分で新しい何かを見つけるつもりはなくても、新しい何かが生まれてくる芽をむやみに摘んでしまいたくないなら、自分のいまの基準で「それはだめだ」といわないようにすることが必要だ。特にそれが見たことも聞いたこともないようなよくわからない対象なら、たとえ自分がそれどうなの?と疑問に感じても安易に否定しないようにすることが、この不況を脱するためのイノベーションが必要とされる時期にはとても大切なことだと思う。

よくわからない何かを安易に否定するよりも自分が判断の基準としている自分の当たり前を疑う姿勢を忘れてはならない。
このソーシャルメディアが発達し、どんな個人さえ意欲さえあれば小さなつぶやきを発することができる時代だからこそ、それがどんなにバカげたものでも未来を切り開く可能性をもっているならその芽を摘むことにつながるやもしれない発言は控えるのが最低限のリテラシーではないかと思う。

お利口すぎない

それは他人に対してだけではない。自分自身に対しても同じことがいえるはず。馬鹿げているからといって自分の新しい思いつきを簡単に捨てるのはもったいない。つまらない思いつきだからと邪険にしてしまってもいけない。

繰り返すが未来のことを判断する基準は現在までの経験にはない。
それなら下手にお利口ぶって手持ちの基準に照らし合わせて馬鹿げているだの、つまらないだの判断すること自体、まったく理にかなっていない。そんな理にかなわないお利口ぶった姿勢で自分で新しい何かをあきらめたり、自信がもてず人に話さずにおいたりするよりも、もっと馬鹿になってイチかバチか先に進めてみて検証すればいい。

プロトタイプだと思えばいいのだ。未来のプロトタイプを、過去の出来合いのプロダクトとおなじ基準で評価しようというほうが本当はどんなに馬鹿げたことか。
中途半端にお利口にならず、もっと馬鹿になることが必要だ。

未来のための仮説

とにかくお利口に過去のあさはかな知識だけでつまらぬ判断をしてしまうことが多すぎる。それがいまこそイノベーションが必要な時代に多くのイノベーションの芽を摘んでしまっている。

今ないものを既存の事実の観察に基づくありえない編集から新しい仮説を発想するという行動がとにかく不足している。目の前の現実をただ見ているだけでは新しい仮説は生まれない。それは過去の経験から生まれた判断基準、いままでの当たり前で見ているのだから、新しい仮説なんて見えるはずがない。
そうではなく、いまある現実を観察した結果、いままでではありえない組み合わせで考えたり、ありえない説明の仕方を編集的にうみださなければ未来を切り開く仮説など生まれない。また、その時点でそれが正しいかどうかの判断をしようとするのも馬鹿げている。その時点では判断を可能にするデータの量も足りなければ、判断をする基準もできていないのだから。それを過去の判断基準で無理やり評価したり、評価できないからだめだというのに何の意味がある? 本当にお利口ならそのあたりをもっとちゃんと考えたほうがいい。

まあ僕はそんな中途半端にお利口になるくらいなら、馬鹿になることをおすすめします。
その馬鹿な発想だけが次の評価基準、つまりは新しい価値をつくれるのだから。

2010年02月06日

民衆化とはなんだったのか?(デザインの誕生7)

だいぶ間があいてしまいましたが、「デザインの誕生」シリーズを続けます。
前回の「下剋上と文化の平民化」では、西洋でのルネサンスとほぼ同時期に、雪舟がボッティチェルリやダ・ヴィンチの同時代人として、山水画の日本化を果たした時代性に着目し、その時代が既存の社会システムを下から突き崩した時代であり、文化や経済が民衆化した時代でもあったことの確認をはじめました。

そのあと、この時代についてもうすこし詳しく理解しておかなくてはと思い、桜井英治さんの『室町人の精神』を読んだのですが、その時代の下克上という変化は僕が想像していた以上に劇的で、まさにルネサンスが西洋世界を近代に向けて一変させたのと同様、日本社会をこれまた近代の土台をつくる方向に大きく変化させた時代であったことがわかり、僕は唖然としています。

この唖然とした事柄をはやく紹介しようと思いつつ、すでに10日以上の時間が過ぎてしまったことは、自分の行動力の愚鈍さを嘆きたくなりますが、気を取り直してリスタート。

もののもどり

では、下克上によって覆された時代とはどうだったかというと、それを考えるには、桜井さんが紹介してくれている、1482年に8代将軍・足利義政が東山に山荘(つまり、いまの銀閣寺)を造営しはじめた際のエピソードが参考になります。

義政はその山荘を3代将軍・義満の北山亭(金閣寺)に倣って、東山亭と命名します。その1ヵ月後、義政は突如出家をはかり、それを当時の天皇である後土御門天皇が慰留するというできごとがおきました。
これが実は1395年に義満が出家をはかったのを後小松天皇が慰留するという出来事の焼き直しだったというのです。義政も後土御門天皇も、義満、後小松天皇という先例を台本にして、そうした行動をしたというのです。

この茶番劇じみた室町将軍と天皇の立ち振る舞いを、桜井さんはこう説明してくれます。

つまり、その演劇は世間の人びとに観劇させるためのものであり、同時に彼ら自身が味わうためのものでもあった。その演劇を通じて彼らは彼らのいる世界の不変性を確かめあい、寿ぎあったのである。この台本は社会のあらゆるところに用意されていて、人びとの意識と行動を強く規定していた。次々と同一劇の再演がくりかえされる世界、それが中世であった。
桜井英治『室町人の精神』

先例を再演すること自体が、中世・室町の政りごとや祀りごとを動かす原動力だったということです。政りや祀りだけではありません。社会における経済生活、文化生活もすべてこの中世までの「もののもどり」の思想に裏打ちされた中世人の行き方そのものだったということです。

桜井さんは「死者が現在を生き、生者が過去をさまよう夢幻能の世界を―その濃縮され、三次元化された時空を―、彼らは現実の世界として生きたのである」とも書き、その精神をまさにその時代の世阿弥の能につなげ、徳政一揆という義政以前の時代には将軍が死ぬたびに行われていた一揆―借金未済の質物やいったん売却した土地をただで取り戻そうとした行動=徳政―との関連も見出します。

それは折口信夫さんが描いた古代以来の「祝詞」の世界観と地続きのものにほかならないでしょう。

みこともちをする人が、その言葉を唱えると、最初にみことを発した神と同格になる、ということを前に云ったが、さらにまた、その詞を唱えると、時間において、最初それが唱えられた時とおなじ「時」となり、空間において、最初それが唱えられた処とおなじ「場処」となるのである。つまり、祝詞の神が祝詞を宣べたのは、特にある時・ある場処のために、宣べたものと見られているが、それと別の時・別の場処にてすらも、一たびその祝詞を唱えれば、そこがまたただちに、祝詞の発せられた時および場処と、おなじ時・処となるとするのである。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

祝詞を唱えれば、原初にそれが「おなじ時・処となる」という古代のアニミズム的思考がそのまま、中世人の「もののもどり」の思想の源泉となっていたのです。

経済も文化も神のもの

高橋睦郎さんの『遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ』書評)ではありませんが、中世までは経済も文化も神のものでした。
網野善彦さんが『日本の歴史をよみなおす』
書評)で、

モノとモノとを商品として交換するということは、ある時期までの社会では、普通の状態では実現できなかったことだと思うのです。モノとモノとを交換する、人と人とのあいだでモノが交換されることは、いわゆる贈与互酬の関係になります。そのように贈りものをし、相手からお返しをもらうという行為がおこなわれれば、人と人との関係は、より緊密に結びついていかざるを得ないことになってきます。これでは商品の交換にはなりません。
網野善彦『日本の歴史をよみなおす』

と書き、中世まではモノやカネをいったん神の所属にすることで交換を可能にしたことを紹介してくれています。それゆえ、市場は神社や寺など、網野さんがいう無縁の場で行われていたのです。

経済から神威が消えた

そうした中世人の思考に大きな変化が訪れたのが、義政の時代、応仁の乱の時代です。

例えば、桜井さんはこんな風に書いています。

一口にいえば、武力から財力へ、政治力から経済力へということになろうが、こうした経営戦略は、じつは幕府がすでに歩みはじめていた道であった。ただ、それが一種の諦念をともないつつも明確に自覚化されたところにこの時期の新たな局面があったのだろう。しかもそれはたんなる戦略の転換というだけでなく、幕府により重大な決断を迫るものでもあった。政府であることをやめよ、一企業として生きよ、それがこの戦略の含意するところなのである。
桜井英治『室町人の精神』

武力や政治力で治めていた幕府は、応仁の乱を機に、一気に力を失い、時代は戦国の世になります。同時に、それは幕府が日本を統一していた政治的な権威の位置から、京・大和周辺の経済を牛耳る一企業に過ぎなくなったことを意味します。

桜井さんは義政時代に、中世までは人びとの思考や行動に大きな影響を与えていた神威が失墜し、「人びとが以前ほどには神というものに畏怖の念をいだかなくなったという大きな意識変化があった」といいます。
それは中世までの経済を支えていた、「神人や供御人とよばれた中世の特権商人の多くはこのような微税権者に身を落とすか、さもなくば輸送業者に転向するかの変質をたどりながら、やがて日本史上から姿を消したのである」という経済構造の変化にもつながりました。それは神の手を離れ、民衆化し、その後、武野紹鴎や千利休を生み出す堺の町の興隆にもつながるのです。

大衆化の先に

神威が失墜するとともに、祝詞的な循環する時間はまっすぐに後戻りすることなく進む直線的な時間に変わりました。「もののもどり」や先例を重視したミメーシス=模倣的な方法は、下克上的な先例を次々に乗り越えて新しい秩序を生み出そうとするデザイン的な方法にとって変わります。

そうした時代、宗教の世界でも民衆化が起こる。蓮如による「宗教の還俗」運動がそれです。
蓮如は御文(おふみ)と呼ばれるきわめて明快なテキストを布教手段として用い、「一心に弥陀の救いを神事、たのむ気持ちがおこれば、その時点で救われる」とし、そうした教えをかな交じりの平易な文章で誰でもわかるように説き明かした御文で、誤読や誤解を生じないようにし、大衆化を図ったのです。

ところが、蓮如が誤読や誤解を生じないように明快に平易な御文をつくったにも関わらず、その結果、生まれたのは大衆化戦略によって数が膨大に増えた門徒たちによる誤読や誤解でした。そうした誤読・誤解が1474年に加賀の一向一揆を起こさせ、化け物のような戦闘集団を生み出したのです。

僕が唖然としたのは、まさにここ。
大衆化が化け物戦闘集団を作ったという。

もちろん、大衆化に向かい、先行する権威やシステムをことごとく下克上=デザインで打ち破っていこうとする直線的な歴史は、戦国の世を生んだわけですし、はるか後に民主主義と資本主義が合体した化け物消費世界を生んだわけです。神のもとにあった経済や文化は民衆化し、たがが外れたように荒れ狂った。その流れを日本はいったん江戸期に停止させるシステムを生み出し、循環の世を再構築したものの、そこにもシステム上の欠陥やら、マニエリスム以降、たががはずれっぱなしの西洋の近代化の流れに押しやられて挫折する。

雪舟が描いたのは、そうした流れの端緒になった時代の日本の風景でした。それまで中国の風景を模倣していた日本の水墨画はそれを機に、日本の風景を描いた水墨になり、雪舟5世を自称した長谷川等伯を生む。時代は利休や織部の時代、桃山の時代に入っていました。

というわけで、桜井英治さんの『室町人の精神』はとても刺激的なので、ぜひご一読を。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ
  5. コトをモノにした時代
  6. 下剋上と文化の平民化
  7. 民衆化とはなんだったのか?


   

関連エントリー

2010年02月05日

Install Maniax3 Hyper-V祭り -参戦総括-

さて、今回のInstall Maniax3でインストール出来たのは結局下記5つのOSSでした。本当はもっと出来たんでしょうが、時間の関係や、とあるところですんげえ手間取ったことで結局この5つで時間切れを迎えました [...]

2010年02月05日

Install Maniax3 Hyper-V祭り -Xoopsインストール-

お次は、日本でもユーザーの多いCMSであるXoopsをインストールします。これもMSのおかげで非常に簡単になってます。 簡単に済ませるコツは一つ。MSがIIS用に提供しているWeb Platform In [...]

2010年02月05日

Install Maniax3 Hyper-V祭り -Galleryインストール-

続いて、非常に高機能な画像管理OSSであるGalleryをインストール。これも簡単。 簡単に済ませるコツは一つ。MSがIIS用に提供しているWeb Platform Installerを使うことです。 [...]

2010年02月05日

Install Maniax3 Hyper-V祭り -Drupalインストール-

続いてDrupalのインストールです。これも非常に簡単でした。 簡単に済ませるコツは一つ。MSがIIS用に提供しているWeb Platform Installerを使うことです。 php [...]

2010年02月05日

Install Maniax3 Hyper-V祭り -WordPressインストール-

さて、続いてこのサイトでも使用しているWordPress様のインストール。これも非常に簡単です。 簡単に済ませるコツは一つ。MSがIIS用に提供しているWeb Platform Installerを使うこ [...]

2010年02月05日

Install Maniax3 Hyper-V祭り -phpMyAdminインストール-

前回に引き続き、今回も参戦させていただいたインストールマニアック。今回は、Hyper-V環境でのインストールを競うという内容だったのですが、大いに苦戦しましたw で、本当は立ち上げたサーバー内にブログを起 [...]

2010年02月03日

興味と行動力

興味と行動力って相関関係があっていいものだと思っていましたが、どうも世の中の人びと的には必ずしもそうではないようです。

口では興味があるといいつつ、行動がともなわない人が意外と多い。よくマーケティングリサーチでは購買意欲と実際の購買行動には解離がありますが、それとおなじように「すごくそれに興味があります」という人が実際に、じゃあ、それについて調べたりするかというと必ずしもそうではないらしい。
ものを買うか買わないかという話なら意向と行動に解離があってもいいと思いますが、知識欲と行動の間の解離ってどうなんだろう?

タイムラインを眺めるだけでは

なんとなく感じるのは他人から提供されるのに慣れすぎてしまって、自分が興味があることを自分の力で知的に切り開いていく方法がわからなくなってるフシがあること。
興味があるといっても、それはtwitterのタイムラインを眺めるような(あるいはテレビ番組を見るような)受動的な興味であって、自分から書籍に当たってみたり、実際に興味の対象物/人に触れて調べたりという行動にはつながらないらしい。

そして、とにかく自分が行動を起こさないことの言い訳のバリエーションはきわめて豊富で達者。それで自分自身を騙しちゃうのだから、ほとほと困ったもんです。

ボーダレスな時代で

応仁の乱以降、世の中は民衆化、ボーダレスの方向にシフトしつづけているわけですが、ボーダレスな時代に必要なのはボーダーのないグラデーション化した大きな格差のなかで如何に遅い人に足並みを乱されることなく歩みを進められるかという能力なんだろうなという気がします。

興味と行動がどれだけ相関してるかも人それぞれ。
その際に時間に遅刻する人、歩みの遅い人のせいで、全体が遅れてしまうのは避けなくてはならない。駆け込み乗車がどれだけ電車のダイヤを乱してしまいかということには敏感でいたい。

選択と集中

自分を中心に、自分を基準に、なんでも判断するのではなく、ボーダレスな中にもグラデーション化した大きな格差があることは常に意識し、できれば自分より上のスピードの人を意識したいものです。もし自分がそうした人より遅いと感じたら努力しないといけない。
時間がない? ならば寝なければいい。食事の時間を割けばいい。それが無理なら、そもそも興味の範囲とそれをカバーできる行動力のバランスがあっていないのだから興味の幅を狭めればいいのです。

つまり選択と集中。
行動力という経営資源が他と比べて劣るならニッチな範囲を見つけて、そこに資源を集中すべきではないかと思います。

そういう経営戦略をとらずに何から何まで手をつけようとするから、結局、何ひとつ、まともに実にならないのでは?
自身の力を客観的に見つめて、捨てるものは捨てる潔さが必要かなと思います。