TOP>2010年01年

2010年01月29日

[アクセシビリティ][記事]『ウェブアプリケーションのためのユニバーサルデザイン』レビュー

ウェブアプリケーションのためのユニバーサルデザイン

ウェブアプリケーションのためのユニバーサルデザイン

アクセシビリティは障害者のためだけではない

アクセシビリティはともすれば障害者や高齢者に限定したもの、もっといえば視覚障害者のためだけのものと思われがちです。しかし、アクセシビリティを広義で解釈すると、

高齢者や障害者も含めた、誰もが情報を取得・発信できる柔軟性に富んでいて、アクセスした誰もが同様に情報を共有できる状態にあること

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B7%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3

であり、高齢者や障害者に限定されたものではありません。

ただ、この考え方が実感しにくいのか、アクセシビリティはさまざまな属性や環境にいる人たちに資するもの、とはなかなか思ってもらえないようです。そのため、アクセシビリティをテーマに扱ったブログや本を読んでも、「alt属性をちゃんと書きましょう」などガイドラインやチェックリストに終始してしまうこともあります(この傾向は英語圏も変わりません)。

その点、『ウェブアプリケーションのためのユニバーサルデザイン』はアクセシビリティのチェックポイントを紹介するだけに留まりません。正しくHTMLを書くことが何をもってもアクセシビリティの第一歩なんだ!という姿勢を貫いています。お二人の著者がW3CやWAIの活動に深くコミットされてきたからというのも大きいのでしょう。また、アクセシビリティを重視することにより、PCのWebブラウザだけではなく、iPhoneを代表とするスマートフォンや携帯電話のユーザにとっても恩恵があるとも紹介しています。

全くもってその通りです。アクセシビリティはalt属性の書き方でもキャプションをつけることでもありません。それは手段なのです。アクセシビリティの目的は、できる限り多くのユーザが、できる限り多くの閲覧・操作環境で、そのユーザの目的を達成することができるようにするための設計手法なのだと思います。

ウェブアプリケーションのアクセシビリティ

その上、本書が面白いのは、タイトルそのままにウェブアプリケーションを主題として扱っていることです。Webサイトがたんなる壁新聞からアプリケーションに移り変わることによって、現在アクセシビリティは大きな転換点を迎えています。動画、音声、Flash、Ajax、Silverlight、スマートフォンなど。そういった新しい技術や環境において、僕たちがアクセシビリティに対して何ができるのかについても説明してくれています。

その中でもWAI-ARIAを扱っていることは特筆すべきことです。WAI-ARIAは仕様書こそ翻訳されていますが、日本語のリソースはなかなかありません。そのWAI-ARIAを日本語で読めることも大きな点です。参考:WAI-ARIA導入(日本語訳)

日本のアクセシビリティの状況

そして、WCAG2.0勉強会を主催するもっちーさんが書いた「付録B 日本国内での状況」も見応えがあります。「よくもまあ、こんなにもリソースを集めたなー」と感心するくらい、統計や各種データ、Webサイトを紹介しながら、日本のアクセシビリティの状況を説明してくれています。

あえて注文を付けると

最後に本書に対して何点か注文を書いておきます。

まず、『11章 プロセス』の『11.1.5 チームの体勢と戦略』にもう少しページを割いてほしかった。この章では、サイトを制作するチームの規模ごとに、どのようにアクセシビリティをチーム内に根付かせるかについて書かれています。ただ、具体例をあげて、解決策をもっと突っ込んで書いてほしかったと思います。

また、アクセシビリティもしっかりと対応したWebサイトを納品したあと、クライアントが更新するごとにアクセシビリティがどんどん劣化していく。アクセシビリティに関心を持つ多くのWeb関係者(ぼくも含め)は一度くらいは経験をしたことがあると思います。先ほどの章で、ぜひこのようなケースにおける筆者の見解や経験も書いてほしかったと思います。

最後に1つ。原著のタイトルは「Building Web Applications for Everyone」です。翻訳のタイトルは「ウェブアプリケーションのためのユニバーサルデザイン」。決して間違いではありません。ただ、アクセシビリティとユニバーサルデザインはイコールの関係ではありません。もちろん、原著のタイトルを分かりやすい日本語にしたいという気持ちは分かるのですが、僕たちWeb関係者が買う書籍であれば、厳密な定義付けは必要だと思います。

最後に

以上、ウダウダと書いてしまいましたが、アクセシビリティに関心があるWeb関係者の方にはぜひとも手にとってもらいたい一冊です。特に、「アクセシビリティってなんか減点されるようなチェックリストっぽくて面倒だよね」と思っている人ほど、目を通してもらいたいですね。

もっちーさん、献本ありがとうございました。

2010年01月22日

わかりにくさ、あいまいさの必要性

最近よく思うこと。
理解されすぎちゃダメ。理解されるより理解しようというきっかけになることが大事だなって思う。

1つの固定した「理解」を伝えようとすれば、どうしても押し付けにならざるをえない面がある。けれど、実際の「理解」は決して1つではない。ある事象にはさまざまな「理解」があっていい。いや、ないといけないと思う。

いまって「理解」を固定することで、安心したがる傾向が強すぎるのではないか。すぐに答えを求めがちで、自ら答えをつくることしかないということに対して腰が引けてしまっているし、そんなこと考えてもみない人がいたりする。
そんな人に「理解」を安易に渡してしまうことに、僕は最近戸惑いを感じています。それは相手の思考停止の片棒を担ぐことになってしまうから。

「伝わっていない」を認める

コミュニケーションというものを、モノの交換みたいに、あるモノが一方から別の一方へ移るような形の、情報の行き来と捉えてしまうのは違う。形の決まったものが右から左へと移動するといったようなイメージで、コミュニケーションとか、伝達というものを捉えると違うなと思うんです。

そうではなく、コミュニケーションというのは、ある情報なり、言葉なりを、発した方と受け取る方で、それぞれ解釈や編集が起こる場だと考えたい。とうぜん、発した方と受け取る方でそれぞれ解釈・編集が行われているのだから、双方で「理解」は違っていい。いや、違わないことがヘンなのです。正しく「伝わる」なんてことを前提においてしまうと大きく間違ってしまう。

ある意味ではそれは「伝わっていない」ということにもなるかもしれない。でも、僕はその「伝わっていない」をもっと認める必要があると思っています。

「伝わる」ことと「使える」こと

わかりやすく「伝わる」ために、モノの価値を定価で固定したり、賞味期限を表示したり、テレビの画面の下にテロップを入れたり。そういうのはなんか違うな、と感じる。それがここ数年、ユーザビリティ(使いやすさ)に関わる仕事をしてきた僕の感じていることです。

本当は「使えない」というのは、使い方が「伝わっていない」からというより、使い方が「伝わっていない」と使えないこと自体が問題なんです。使い方がたった1つに厳密に固定されすぎてしまうことが問題。鉛筆で背中を掻いてもいいし、椅子を高いところにあるものの踏み台にしてもいい。あるボタンを正確に押さないと機能が使えないというデザイン自体に問題がある。

操作の仕方を1つに固定することが、商品に定価や賞味期限を設けたり、テレビの画面にテロップを入れたり、ライフハックと称した仕事の方法ばかりを欲しがったり、ということと、それが同根だということに気づかなさすぎてるのではないか、と。そのことがすごく気になる。
みんなと同じ状態、答えが1つに決まっている状態、不安定でうつろう状態よりも安定した状態を求めすぎているのではないかと思う。リスクに対する許容性や、不可解なものに対峙した時の精神の耐性みたいなものがなくなりすぎてるな、という気がしてならない。

忘れられたマイノリティ

すこし、話は変わりますが、いま読んでいる『室町人の精神』という本に、こんなことが書かれていました。

それにしても全会一致原則といい、時間がかかることといい、室町幕府の意思決定方法は、宮本常一が『忘れられた日本人』に描いた村の寄合と何と似ていることか。おそらく中世惣村の寄合も同様の方法をとっていたと思われるが、室町幕府もまた、中世に存在したさまざまな社会集団のひとつとして、それらと共通の原理に規定されていたのである。

確かに宮本常一さんの『忘れられた日本人』書評)には、全会一致の結論が得られるまで幾日も幾晩も話し合う村の集まりの様子が描かれていました。それを読んだ際も非常に興味深く、考えさせられたのですが、それが中世室町の幕府や惣村の寄合にまでつながるのを知り、現在の多数決で何でも決められてしまう世の中との思想、行動原理の違いを感じます。

いわゆる多数決というのは、数字によって白黒つけるわけですが、それは白黒の一方を数字の多さによって強引に一方を捨ててしまう方法です。その方法ではマイノリティの側は強引に切り捨てられる。
これはビジネス主導の世の中で、売れないものは必要ないものとして切り捨てられることにも通じます。売れないというのが1つも売れないというのであれば、まぁ仕方ないのでしょうけど、すこししか売れない、期待したほど売れないという結果や、はたまたそういう予測のみで、少数派の人びとが求める商品を切り捨ててしまう発想が当たり前になってしまっているのはいかがなものか。その発想を否定するつもりはまったくないけれど、それとは違うオルタナティブな方向性というのがないこと自体は問題だと感じます。

わかりにくさ、あいまいさの必要性

全会一致の原則というのは多数決とおなじように最終的に答えは1つに決まるように見えても、それは単純に二律背反的に白黒をつけるのとは違い、マイノリティの意見も包括するようなグレーな答えを採決することが多いのではないかと想像します(ついでにいうなら今の多数決で白黒つけられた答えというのはなぜかグレーで、それはマイノリティを取り込んだというより誰の役にも立たない答えを選んじゃうとこがおろか)。

とうぜん、全会一致の答えはグレーなのであいまいだし、答えが1つに決まったようで、決まってないようなところもある。でも、あいまいだったり、答えが1つに決まらないことは、そんなに問題なのか? 僕はそういうのもあっていいんじゃないかと思うんです。いや、そういうあいまいさや不確定さをもうすこし受け入れられる、思想や行動原理を取り戻す必要があると感じています。

それはわかりにくくて、あいまいで、決めるのに時間もかかるし、めんどうなんだけど、そういうグレーなものを現代は排除しすぎたんじゃないかな、と。そんな風に感じてならない。

そのわかりにくさやあいまいさが、個々人に課すリスクや不安定さを過剰に嫌いすぎて、排除しようとする力が強すぎているのではないか。自分でわかろうと努力することもなく、できあがった答えばかりを求めてしまう。
それによって失ったものは何かといえば、自らが目の前の状況から判断する力、価値とリスクをいっしょに読み取る力、他人を許す力、そういったものではないか。そんなことを感じてなりません。

わかりにくさやあいまいさって実は必要なものでもあることをもう一度考えてみる時期なのではないかな、と。

 

関連エントリー

2010年01月17日

コトをモノにした時代(デザインの誕生5)

1週間ほど前、「明るすぎる世の中で」というエントリーを書こうと思ったのですが、なんとなく書くタイミングを逸して書くのを忘れていました。

書こうとしたきっかけは2つあります。

ひとつは田中優子さんが『未来のための江戸学』書評)の第4章の「江戸の照明」という「照明は明るいほうがいいのだろうか?」の一文ではじまる節で、江戸の夜の暗さの美しさに触れていたのが印象深かったから。
田中さんは、その節で、上田秋成の『雨月物語』も、吉原の太夫の薄化粧も、浮世絵も、江戸の暗さや薄暗い行燈の灯りゆえに美しかったと書いています。

カラーの挿し絵や浮世絵を見ることに関しては、問題ないどころか夜になって行燈の下で見るほうがいい。それを意識して印刷していたのではないか、とさえ思えるほど、浮世絵が美しい。「きめ出し」と呼ばれる、色を使わずに紙を凸にふくらませた部分や、「きら摺り」と呼ばれる雲母を使用した色摺りなどは、その効果の意味が行燈の下で初めてわかる。ほんとうに立体的に見えるからである。浮世絵は行燈を使った仮想現実であった。

江戸時代より前に遡れば、金色に輝く仏像や仏画もおなじようにろうそくの灯りに照らされてはじめて輝かしい浄土をイメージさせるものになるというのを、たしか松岡正剛さんの何かの本で読んだことがあります。

もう1つは昨年の暮れに、その松岡さんが主催する連塾というイベントに参加した際、資生堂名誉会長の福原さんが「昼間の星を見る」という話をされていたのが、これまた印象に残っているからです(「詩のことば、合理の言語」参照)。
昼間の星どころではないなと思うのです。夜の暗さを失った僕たちは、空にはたくさんの星があることを忘れています。例えば、西表島などの明かりがない場所にいけば、夜の空には驚くほどの星があるのがわかります。
明るすぎて夜の美しさを失った僕たちは見えないものに対する想像力をもたないといけないような気がします。

温故知新

僕らはつい現在のもの見方で過去をみてしまいがちですが、そういう見方ではあまりに多くのものを見落としてしまうのではないかと思います。

田中優子さんもこんな風に書いています。

このように考えてくると、異なる価値観、異なるエネルギーシステムを持った社会を、自分の生活を基準にして簡単に「不便」「貧しい」といってはならない、と思うようになる。文庫本を行燈の下で読んでも読めない。出版社で出している現在の浮世絵集の浮世絵を行燈の下で見ても、行火が反射して目をいためる。これは単に「合っていない」だけである。だから「行燈は貧しい」「ろうそくはおかしい」といったとき、私たちは自分自身の貧しさを見失う。

現代の目で過去を判断してはいけない。現代の環境、現代の価値観、現代の思考や行動を左右するシステムとは別のシステムが過去にはあったのだから。

ここまで書いてきたように、ルネサンスの時代に遠近法が生まれるまで西洋に主観と客観の意識はありませんでした。客観としての外部と主観としての人間の関係が意識されなければ外部環境の問題点を自分たちで改善しようなんて夢にも思わない。いや、思えないんです。そういう過去と現代の人間の違いを僕らは見失っている。
ナイフを両手に持った食事の不便さは、主観と客観が意識されたあとにしか出てこない。だからフォークはルネサンスの時代に生まれている。デザインという現状の問題を改善するという活動そのものが遠近法の発明と関連していることがわからなくなってしまっている。

そういう過去と現在の違いに目を向けないと自分たち自身が見えてこないかな、と。外国にいくと日本が見えてくるというように、いまと違う過去を知ることではじめて見えてくる現在というものがあります。
明るすぎて何でも見えているつもりの現代だからこそ、いまと違う過去を感じとる感性を大事にしなくてはいけないなと思います。

温故知新というのはそういうことです。
過去を学ぶというのは単純に昔を知ることではなくて、過去を通じて現在を見るということでしょう。そうしなければ僕たちは自分が見えないのですから。

このシリーズは、そういう危機感をもっているから書いています。感性を働かせるということは、ぼんやり見るということではなく、積極的で具体的な作業を通じた手探りによって、身体で見るということにほかならないからです。ぼんやり見たのでは見えないものを見るためには具体的な方法が必要なのです。遠近法がはじめて中世までとは違う見方を可能にしたのとおなじように。

では、前回の予告どおり、今回からは視点を15世紀以降の日本に移動させてみることにします。


日本画の原点

雪舟は1420年に生まれ、1506年頃死んでいる。つまり15世紀の人です。

その前半は世阿弥が1402年ころに『風花姿伝』を、1424年に『花鏡』を著した時代です。1467年に応仁の乱がはじまったとき、雪舟は明に渡り、1469年に帰国しています。
それは1474年には一休が大徳寺の住持となり、1482年には足利義政が東山山荘(銀閣)の造営に取りかかり、翌年には狩野派の祖である狩野正信がその銀閣に『瀟湘八景図』を描いた時代でもある。これは一説には、雪舟が将軍の注文を辞退したため、正信にお鉢がまわったともいわれています。もしかしたら、それがなければその後の狩野派の勃興もなかったかもしれません。
「枯れかじけ寒かれ」という句で冷え寂びの境地を開いた連歌氏の心敬が亡くなったのが1475年、その心敬の冷え寂びや藤原定家(1162~1241年)の「みわたせば 花ももみじも なかりけり うらのとまやの 秋の夕暮れ」という有名な歌の心をもとに、侘び茶を確立したとされる武野紹鴎(1502~1555年)もまた雪舟のすこしあとの人です。
雪舟自身は、その代表作といわれる『天橋立図』を1481年頃に、『四季山水図巻』を1486年に描いている。

前回までの西洋ルネサンスとの関連でみれば、ボッティチェルリの『春(プリマーヴェラ)』と『ヴィーナスの誕生』がそれぞれ1477年と87年、レオナルド・ダ・ヴィンチが『岩窟の聖母』を書いたのが1486年です。レオナルドはその後、1498年に『最後の晩餐』を、雪舟がなくなったとされる1506年に『モナリザ』を描いていて、レオナルド(1452~1519年)と雪舟がほぼ同時代人であることがわかります。さらに若いミケランジェロは彫刻作品『ピエタ』を1499年に、システィーナ礼拝堂に『最後の審判』を描いたのが1541年で、すでに1527年のローマ劫掠(Sacco di Roma)以降のマニエリスム期に入っています。遠近法を確立を記すアルベルティの『絵画論』が1434年。1463年にはマルシリオ・フィチーノが『プラトン全集』の翻訳を開始しています。

ここで雪舟の話を書こうと思ったのは、もちろん、こうした西洋のルネサンスとの同時代性もあるのですが、それよりも何より、雪舟こそが「日本画の原点」ともいえるからです。

中国離れ

松岡正剛さんは『山水思想―「負」の想像力』書評)のなかで「中世はコトをモノにした時代だった。方法が文化になった時代なのだ」と書いています。
南北朝期をふくんだ中世に日本文化的なものがほぼ形成されたといわれます。先にあげた大まかな歴史の流れをみてもそれが感じられます。雪舟の同時代に、世阿弥がおり、一休がおり、狩野正信がおり、心敬、武野紹鴎がいる。そのすこし前には夢想疎石やバサラ大名といわれる佐々木導誉がいる。五山文化が花開き、室町アカデミーがつくられた。

中国は元朝の支配となって、中国文化は南下する。さらに元朝が混乱期を迎えると、それらの文化は禅宗と水墨画と会合をセットにして日本に押し寄せる。禅僧は日本におちのびてきて五山に落ち着く。
そこで日本でも水墨画が描かれるようになる。ただし、初期の水墨画は中国の水墨画の写しであった。もちろん、そこでもいろいろな試みがなされている。

中国文化がどっと入ってきたときに、かえって日本的なものが創発されてくるというのは、日本史の中ではしばしばおこってきたことである。とくにそこに外国人の移住がともなっているときにはおこりやすい。安土桃山期にフロイスやヴァリニャーノらの宣教師が日本文化に理解を示したことや、明治期にフェノロサやハーンやコンドルが日本的なものの応援にまわったことなどをおもいあわせるとよいだろう。

こうした時代に、雪舟による水墨画の「中国離れ」がはじまります。
西洋におけるルネサンスがある意味では芸術を神学的イメージからの従属からの離脱であったとすると、日本では同時期に中国離れが起こっているのです。

その雪舟が「中国離れ」を開始した時期が、応仁の乱の時期であるというのが非常に興味深い。なぜかというと、内藤湖南さんが『日本文化史研究』書評)のなかで、日本文化の中国からの独立の時期を、応仁の乱以降と断言しているからです。また、その独立とともに文化が庶民レベルにまで浸透したというのもおもしろい。

次回はこのあたりを探っていこうと思います。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ
  5. コトをモノにした時代


   

関連エントリー

2010年01月15日

主観と客観の裂け目の発見(デザインの誕生3)

前回の「ルネサンスの背景(デザインの誕生2)」の最後に、ルネサンスの中世からの変革の背景を支えた思想に、ネオプラトニズムがあったと書きました。

ネオプラトニズム(新プラトン主義)は、はじめ紀元3世紀頃にプロティノスによって開始され、ルネサンス期に再び盛んになった思想です。古代ローマ帝国の流れをくむ東ローマ帝国が1453年に滅亡にした際、多くの知識人が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識がイタリアにもたらされます。中世のスコラ哲学ではアリストテレスの思想が重視されたこともあり、プラトンの思想(もしくはその思想は背景としたネオプラトニズム)はいわば忘れられた存在でした。それが東ローマ帝国からの古代の知の流入をきっかけにプラトンへの注目が集まることになる。
1463年にはマルシリオ・フィチーノはプラトン全著作のラテン語翻訳を開始し、1474年には『プラトン神学』、1475年にはプラトンの『饗宴』の注釈書の形をとった『愛について』を著します。フィチーノはさらにヘルメス文書の翻訳や実践的な占星術の研究も行っており、それをプラトン主義にも融合させていく。そのヘルメス主義を融合したネオプラトニズムは、弟子であり、ユダヤ人以外でははじめてカバラを極めた人物とされるピコ・デラ・ミランドラにも受け継がれます。

こうしたネオプラトニズムの思想が、マニエリスム期になるとツッカーリなどにより芸術理論へと統合されます。
ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」で書いたとおり、ツッカーリは「わたしたちの精神にあるイデア」とプラトンの用語を用いながら、それを「内的構図 Disengo Interno」と呼びました。さらにツッカールにツ続いて、ジョヴァンニ・パオロ・ロマンツォが『絵画聖堂のイデア』という著作でネオプラトニズム的方向性を帯びた芸術理論を提示します。このロマンツォの著作は、フィチーノがプラトンの『饗宴』の注釈として行った演説での美に関する部分を引き延ばしたものだといわれます。

プラトンと造形芸術

このようにマニエリスム期においては、完全に芸術理論を支えるものとなったプラトンのイデアですが、そもそものはじめからプラトン自身がイデアを造形芸術の美学を支えるものとして位置づけたかというと、まったくそうではなかったのです。

プラトンが、いかなる時代にも通用するやり方で美の形而上学的意味と価値を基礎づけたというのはたしかにその通りだし、造形芸術の美学にとってもまた、彼のイデア論はますます大きな意義を担うようになってきた。しかし、彼自身の考え方という点から見れば、プラトンはけっして造形芸術に対する公正な審判者ではありえなかった。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

パノフスキーは、プラトンの哲学は「芸術に敵対するとは言わないまでも、芸術に疎遠なものと呼ばれるにふさわしいものであった」といいます。その「芸術に疎遠なもの」であったはずのプラトンの思想が、マニエリスム期には芸術の形而上学的意味を基礎づけるものとして認められるようになった。そうなるためにはプラトンの思想の読み替えが必要です。

古代~中世におけるプラトンのイデアの変転

事実、プラトンのイデアが、古代、中世、ルネサンス、マニエリスムと時代を経ながら、様々に姿を変えていく様子をパノフスキーは『イデア―美と芸術の理論のために』で描いています。

それによれば、まずプラトンにおいては「人間の内的な眼差しを感覚的な像に引きとどめ、イデア界を観照することを妨げるもの」とされ攻撃の対象ともなった芸術が、古代のネオプラトニズムを創始したプロティノスの段階ですでに「人間の内的な眼差しをいつも新たに感覚的な像のうえへとさまよいださせ、イデア界への視野を開きながらも、同時にそれを覆い隠してしまうという悲劇的な運命をもつもの」として芸術から身を守ろうとする対象に変化します。
古代のネオプラトニズムにおける美学観では「美の現れはすべて、より上位の美の現れの不十分な象徴にすぎない」とされ、目に見える美は、目に見えない美の反映であり、目に見えないさらに上の絶対的な美の反映と考えられ、自然を模倣するだけの芸術家の地位は重視されません。

さらに中世においてはプラトンのイデアは形而上学的な真理から、キリスト教の影響を受けた神学的な神の知性へと変化します。アリストテレスの影響を受けた中世のスコラ哲学においては、芸術家は「技術者たる神」「画家たる神」と喩えられますが、それは芸術に名誉を授けるためではなく、神の精神の本質や働きを理解しやすくするためのものでした。中世的思考においては芸術そのものは独自性を与えられず、フランセス・A・イエイツが『記憶術』書評)で、

スコラ哲学の時代は、知識増大の時代であった。それはまた、<記憶>の時代でもある。この<記憶>の時代にあって、あらたな知識を記憶するためにあらたなイメージが必要とされた。キリスト教の教義や徳育において枠組みとなる主題自体は、この時代になっても、さほど大きく変化したわけではない。しかし、その細部は、複雑さを増すこととなった。
フランセス・A・イエイツ『記憶術』

と書いた意味での、知識を記憶するためのイメージ、特に神学的な知識を記憶し、民衆へと伝えるためのイメージとして、芸術が用いられたのです。

主観と客観の発見

こうした変遷を経ながら、ルネサンスの時代を迎えます。先にもみたとおり、ルネサンス期は、中世では忘れられていたネオプラトニズムの思想が復活した時代ですが、それはすぐに芸術に影響を与えることはありませんでした。

むしろ、ルネサンス期の芸術論が強調したのは「芸術の課題は現実の直接的な模倣である」ということでした。
これはまさに古代においては自明のことであり、それゆえにプラトンが芸術をイデアから切り離そうとした要因でもありました。ところが、その自明なことがネオプラトニズムによって根絶やしにされ、中世においてはほぼ無視された状態になります。
その古代においては自明であった「現実の直接的な模倣」としての芸術、そのために自然観照を重視するということを1000年の隔たりを経て復興させようとしたのがルネサンスです。

ところが、それゆえにルネサンスは中世には縁がなかった問題に答えなければならなくなります。

かつての問いは、人間はどのようにして芸術作品を造るのか、というものであった。これに対して、いまやそれとはまったく別の、中世にはまるで縁のなかった問いが立てられる。すなわち、自然に立ち向かうことが必要になったとき、それを上手にやり遂げるためには、人間には何ができなくてはならないのか。とりわけ、何を知らなくてはならないのか。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

自然に立ち向かう人間に必要なこと。それに対してルネサンスの芸術理論が出した答えこそ、遠近法であり、数学的な比例や均整といったものだったのです。

遠近法は、描かれる自然と描く画家のあいだの距離を明らかにしました。遠近法の構図のなかで、自然と芸術家は、客観と主観の関係となる。遠近法は芸術家の内的な世界にあった客観と主観の関係を、外的世界に反映するための方法だったのです。
ルネサンスは主観と客観を、そして、それを目に見える形で表現する方法を発見したのです。

主観と客観の裂け目の発見

しかし、マニエリスムはこのルネサンスの遠近法的規則に反抗する。
この反抗は、やはりルネサンス期の思想家であったジョルダーノ・ブルーノの思想とも関連します。

16世紀と17世紀の言い方では、イデアは「可知的対象の完全な認識」と呼ばれることになるが、そうしたものを自分自身の力で手に入れることこそが、芸術家の権利でもあれば、また義務でもあるのである。ただ芸術家のみが規則の創造者なのであり、真の規則というものは、およそ真の芸術家が存在するかぎりにおいて、そしてその数だけ存在するという、ほとんどカントを思わせるようなジョルダーノ・ブルーノの発言は、イデア論と関係づけることによってのみ十分に理解されうるだろう。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

マニエリスムの芸術家たちが遠近法という規則に反抗し、真の芸術家であるためには、自らが規則の創造者である必要がここに生まれました。と、同時に、その自ら生み出した規則を正当化する必要が生じたのです。

ここにツッカーリやロマンツォのような芸術理論が必要とされる契機があったのです。
芸術理論は「芸術的表現はいかにして可能なのか」に答えなくてはいけない。この問いに答えるために「芸術作品のうちに可視化される内的イデアを、その由来と妥当性について吟味し、確固たるものとする」ことが求められました。
ツッカーリは、プラトンのイデアに言及しつつ、それを芸術家の精神の内にある「内的構図 Disengo Interno」と対応させました。この内的構図は、神が天使に植えつけ、さらに天使たちが自らのうちに抱いた像を芸術家に植えつけることで、生じるものとされます。
ロマンツォにおいては、さらにネオプラトニズムの関係が強化され、イデアと芸術作品の関係は次のように考えられるようになります。

神の光線はまず第一に天使のなかに注がれ、天使の意識のなかに、純粋な原像もしくはイデアとして天球の直観を生みだす。次いで(人間の)魂のなかに注がれ、そこに理性と思惟を生みだす。そして最後に物質界に注がれ、そこで像と携帯として現象するのである。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

ルネサンス・ネオプラトニズムの哲学においては、宇宙は神に相当する超越的な「一者」から流出する「知性」、さらにそこから出てくる「世界霊魂」と個々の人間の「霊魂」があり、その最下部に「物質」があると考えられます。そうであるゆえに神である「一者」と個々の人間の「霊魂」は本質的につながりをもつものとされます。この関係がツッカーリやロマンツォにおいては、芸術理論として確立される。

実はここにこそ、マニエリスムの精神的態度の新しさがあるのです。
ルネサンスにおいては遠近法という規則によって問われることのなかった主観と客観の関係の正当性が、はじめてマニエリスムにおいては問われたのです。主観と客観には裂け目があり、それは芸術家が真の規則の創造者たることで、主観と客観のあいだの裂け目を規則によって埋めなくてはいけないということが自覚されたのです。
マニエリスムの一見するとデタラメとも思える蛇状曲線を多用した表現の背後にはこうした現代にも通じる精神的態度がある。この世界=客観と規則の創造者=主観たる人間を結ぶことの必要性を自覚した精神的態度にこそ、「デザインの誕生」の瞬間を見ることができるのではないでしょうか。

このあたりは次回以降はさらに詳しく見ていきたいと思います。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ


 

関連エントリー

2010年01月15日

それは脚気ではない

打てども響かないというか、知的な意味での脚気なんじゅないかと思うくらい、リアクションのできない人がたまにいます。
いろいろ理由があるのですが、その場合、ひとつ困ったなと思うのは、本人が興味があると思っていることと実際に興味があることの間にギャップがあるのに本人が気づかないことが理由になっているケースがあるということです。

膝を叩いても反応しないのは脚気ですが、膝をくすぐって反応しないのは脚気とはいいません。単にくすぐりに対して感度がにぶいだけでしょう。
それと同じように、反応できないのは、そもそも対象となる刺激に対するセンサーを持っていないというケースが思っている以上にあると思うのです。つまり、そもそも興味がないから反応できないんだけど、本人はなぜか自分は興味があるのだと疑わず反応できないのは自分に反応するスキルが足りないから、反応はむずかしいからと思ってしまったりする。

こういうのって、スキルアップや勉強とかへの過度な意識のせいなのかなと思ってしまいます。単に興味がないからわからなかったり、自然に体や意識が反応しないだけなのに、それを自分はまだまだ勉強が足りないからとか、知識が少ない、スキル不足だとか考えてしまう傾向がいまってすごくあるんじゃないかなって思う。そういうことが情報リテラシーとか、知だとか思われてるフシがある。

でも、それって違うんだよね。自然に反射的に反応できない、自分の体がなにかしらのリアクションとしてのアウトプットを出さない対象って、単に興味の対象ではないんだって気づくことも大事だと思うんですよね。
反射的な反応というのは何か答えじみたものでなくてもよくて、これなんだ?っていう疑問が浮かんで、それに興味をもつっていうのもリアクション。それが自分の外に出るかは別として疑問がわくのもアウトプット。
そういう自然な反応が起きない対象って基本的に興味の対象じゃないって認識したほうがいいと思う。
その上でいまはどうやら自分は興味がないらしいが、これから興味がわくよう、それを体で体験してみようとか判断して実際の自分の生活に組み込めばいいんです。

きっと、この「自分の生活に組み込む」っていうのがないんだろうなと思う。実際に生活に組み込んだ状態と情報を知識としてだけ得ているだけの状態との区別がない。前者は身体的な反応が起きやすく、後者は知的な処理・理解を介さないと反応が起きないという違いが実感としてわからなくなってるし、わかる場面を自分で減らしてしまっているんだろうなと思う。

そうなってしまうと、はじみに書いたような本当は興味がないのに興味があると思いこんでしまい、外からの刺激に反応できなかったり、反応できないことを知識やスキルのせいだと誤解してしまうという、へんなことになってしまう。

世の中あまりにビジネスライクにできる人、できない人をわけすぎてしまっていて、かつ、できる人になるにはスキルアップや勉強が必要だなんて間違った考えが浸透しすぎちゃってるんじゃないでしょうか。
僕なんてむしろ逆だと思うんだけどな。本当にできる人になりたかったら無駄なスキルアップに無理して時間をかけるより、自分が本当に興味のあるところに好きなように時間をかけないとだめでしょって。

2010年01月12日

ルネサンスの背景(デザインの誕生2)

「デザインの誕生」、デザインの起源、発生を考えてみようという試み。
前回の「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」では、1607年にマニエリストのフェデリコ・ツッカーリが「絵画、彫刻、建築のイデア」で提示した、「内的構図 Disengo Interno」という概念に着目してみました。

マニエリスムの芸術家たちが、盛期ルネサンスの芸術家たちの数学的技法による自然の模倣を放棄し、自らの「心の内面でとらえられた世界のイメージ」である「内的構図 Disengo Interno」を紙の上に投影させはじめたとき、何かが変わり始めたのではないかと僕は考えています。
神の創造を模倣することの範疇にあった芸術が、そこから離れ、自己の内面の構図ー「イデア的概念」の投影に意味をもたせはじめたとき、自身の内面にあるヴィジョンを外界に投影し、あるべき世界を実現するというデザインへの端緒がみえはじめているのではないかと思うのです。
そのとき、「創造」「発明」が神の行為だけを指す言葉としてだけではなく、人間の行為も指す言葉になりはじめたのではないか。

実はマニエリスムに先行するルネサンスに、すでにその萌芽がみてとれます。

ルネサンス以前は、芸術理論は実践の中から生まれた。ところがルネサンスでは、芸術の実践が理論から生まれたということ、そして中世の職人ー建築家、職人ー彫刻家と違って、ルネサンスの芸術家は多くの場合、理論科学者であり、自分の美の世界に統一を、比率体系の閉じた世界を押し被せようとしたことである。

ルネサンスは、中世ゴシックの抱えた二律背反的な傾向ー理想主義と自然主義ーを解決するために、数学的な技法(比率や遠近法)を使った美による統一を目指しました。
エルヴィン・パノフスキーは『イデア―美と芸術の理論のために』のなかで、中世の模倣の手法を「自然が創造したものを模倣するのではなく、自然が創造を行うその仕方で、一定の手段で一定の目的を達成したり、一定の形相を一定の質量のなかに実現させつつ、制作を行う」と評しましたが、ルネサンスの芸術家がこの「自然が創造を行うその仕方」を数学的な比率やシンメトリーとして捉え、中世の模倣を拡張し、それが果たせなかった統一性をもった美を表現できるようになったのだといえます。

このルネサンスの時点では確かに、模倣という範囲には収まっています。
しかし、実践と理論の関係が逆転しているところに、ツッカーリが〈外的構図〉としての芸術作品それ自体よりも、〈内的構図〉としての芸術家の内なるイメージ=イデアを重視したことにつながる転換を同時にみることができる。

では、何がルネサンスの芸術家にこうした変化を促したのか。
中世ゴシックの理想主義と自然主語のたがいに背反的な傾向のあいだを統一させる方向に向かわせるのに、どんな背景があったのか。

ルネサンスの背景

ルネサンスの思想家や芸術家が活動を開始した15世紀の初頭からマニエリスムの芸術家が活動した17世紀の前半にかけてはヨーロッパ世界に大きな混乱が生じていた時期でした。

ルネッサンスの芸術家たちが自己救済につとめ、その問題性をなんとか解決しようとしている間に、天文学と地理学の次元において世界はますます大きくなる一方、信仰内容は脈絡を失い、政治的社会的秩序は腐蝕され、一方では新しい諸王国が興され、初期資本主義経済が最初の危機に見舞われつつあった。

地理学の次元では、1492年のコロンブスのアメリカ発見、1498年のバスコ・ダ・ガマのインド航路発見、1522年のマゼランの世界周航達成と世界は確実に大きくなり、天文学の次元でも1543年のコペルニクスの地動説(『天体の回転について』)を皮切りに、1609年のケプラーの惑星の楕円軌道の発見(『火星の運動について』)とガリレオの望遠鏡による天体観測(月面クレーター、木星の衛星の発見)などの発見が相次ぎ、宇宙は無限のものであるという考えが強くなります。

さらに、中国の活版印刷術が1445年にヨーロッパに伝わった5年後の1450年にはグーテンベルクが活版印刷術を発明。1455年には有名な42行聖書を印刷したり、1516年にイギリスで郵便制度が確立されたこともあり、情報の伝播範囲の広がりや速度の向上といった情報革命も起こります。

こうした状況で、宗教も、政治も、経済も大きく変化する。それがルネサンスの思想や芸術が中世から大転換を興した背景にあるといわれます。

こうした背景を理解するために、以下では、宗教、政治、経済それぞれの歴史の流れをざっくりと見ていくことにします。

宗教改革と反宗教改革

宗教においては、1401年に初期の宗教改革といわれるフスの宗教改革がボヘミアで起こっています。やがてフス派と呼ばれる支持者を生み、後の17世紀初頭に世界初の子供のための絵入り子供百科事典『世界図絵』を生んだコメニウスもボヘミア出身のフス派の人物ですが、フス自身は1413年のコンスタンツ宗教会議で有罪な判決を受け、処刑されています。1419年にはフス派がボヘミアで蜂起しフス戦争が起こるなど、その後もボヘミアではフス派によるカトリック勢力への抵抗運動が起こっています。そうした宗教改革の運動がボヘミアでは、前回紹介したルドルフ2世の時代まで続き、30年戦争のきっかけにもなる。

異端審問や魔女狩りが盛んに行われたのもこの時代です。
100年戦争でフランスを勝利に導いたとされるジャンヌ・ダルクが1431年に異端とされ処刑されていますが、1484年にインノケンティウス8世が「スンミス・デジデランテス」により魔女狩りを推進すると、16世紀には魔女狩りが最盛期を迎えます。
また、フィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、さらには教皇をも批判したドメニコ会の修道士、サヴォナローラが、贅沢品として工芸品や美術品を広場に集めて焼却するという「虚栄の焼却」を行ったのが1497年、翌年に処刑されるなどといった宗教的な混乱が相次いで起こります。

そうした中、16世紀に入ると、1509年にエラスムスが教会の俗化や修道院の偽善を諷刺、1517年にはルターが「95ヶ条の意見書」、1534年にはドイツ語聖書を出版するなど、宗教改革の動きは活発化します。この1534年は、イエズス会が創立したり、英国国教会が独立するなど、キリスト教にとっては激動の年です。

そして、1541年にはついにカルヴァンがジュネーブで宗教改革を開始する。
1562年から1598年には、フランスでカトリックとプロテスタントが戦ったユグノー戦争が起こり、1589年にはロシア正教の独立が行われます。

すこし話がズレますが、こうした動きは日本にも影響を与えていて、1549年にはイエズス会のザビエルが鹿児島で布教活動を行い、1569年にはおなじイエズス会のフロイスが織田信長に引見しています。
ちょうどマニエリスムの時代です。ミケランジェロが「最後の審判」を描いたのが1541年、アンチンボルドの連作「四季」が1573年です。安土城障壁画を描いたのが1576年。利休が信長の茶道になったのが1585年といえば、日本との関連も伝わるでしょうか。

戦争の時代、そして、絶対主義へ

キリスト教が混乱していた時代、政治の世界も大きく混乱します。

1453年には、古代ローマ帝国の流れをくむ東ローマ帝国がオスマン帝国の侵略により滅亡します。この東ローマ帝国の滅亡により、東ローマからイタリアに亡命してきた多くの知識人が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識がルネサンスの勃興につながる古代文化研究を活発させたともいわれています。

また、この時代はとにかく戦争の絶えない時代でした。
フランスとイギリスの間の100年戦争も1453年まで続きます。718年から続いていたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動、レコンキスタは1492年のグラナダ陥落で完了するまで続きました。
1527年には神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行ったローマ劫掠(Sacco di Roma)が起きます。これにより、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅。多くの芸術家、文化人が殺害され、1450年代から続いた盛期ルネサンスが終わりを告げました。

また、この時代、メディチ家が1434年から94年までフィレンチェを、ハプスブルク家が1438年から1740年まで神聖ローマ帝国を支配するなどの動きも見られます。

こうした混乱とともに、スペインやイギリスでは絶対王政への流れも見られます。
1556年にはスペインでフェリペ2世が、翌年にはエリザベス女王が即位しています。
フェリペ2世は1556年にイタリアとネーデルランドを領有。1580年からはポルトガル国王も兼ねています。1568年にはネーデルランドが独立戦争を起こし、81年に独立を果たします。
一方のイギリスでは、1560年に貨幣が統一され、65年にはロンドン取引所が設立されるなど、資本主義への動きがみられます。1576年に最初の公衆劇場「劇場座」が、99年には有名な「地球座」が建てられ隆盛をみたシェークスピアに代表されるエリザベス朝演劇はこうした背景に誕生したのです。

先にあげたユグノー戦争は、このカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有しているといわれます。1588年には、この両者はスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れたことで知られるアルマダの海戦で激突してもいます。

1592年が秀吉による最初の朝鮮出兵(文禄の役)ですから、ここでも西洋の絶対王政と帝国主義的な海外進出が、日本の信長・秀吉による天下統一から海外出兵とパラレルな出来事であることは確認しておいてもよいでしょう。

初期資本主義

こうした政治的な動きは、ひとつには資本主義的な面から植民地の拡大を目指した各国の帝国主義的政策と大きく関連したものであることは見逃すことはできないでしょう。

まず、いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは、1498年にバスコ・ダ・ガマが、ヨーロッパ人としてはじめてインドのカルカッタに到着すると、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰ります。その後、ガマは遠征艦隊を率いてイスラム勢力と衝突をくり返しながら、インドとの直接交易を獲得するに至ります。
1510年にはインドのゴアを占領。東洋貿易の拠点とし、順調にマレー半島・セイロン島にも進出。1543年には日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えています。1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点としました。

ポルトガルに出遅れたスペインは、1494年にポルトガルの間にトルデシリャス条約を結び、「新大陸」における征服の優先権を得ます。コロンブスが新大陸を発見して2年後の出来事です。これにより、スペインはマヤ文明、アステカ文明、インカ文明を破壊して金や銀を奪い、莫大な富を得ます。
1517年にはパナマを征服。1521年にはメキシコのテノチティトランを制圧しメキシコシティーをつくります。これによりスペインはメキシコの銀を獲得し、中国を中心に銀本位制であったアジアの市場での貿易を進めることになる。
こうして力をつけるなかで、先にも書いたように1580年からはフェイリペ2世がポルトガル国王も兼ねると、旧来のポルトガルの植民地も手に入れるようになります。

一方、こうしたカトリック勢力のスペインに遅れたイギリスは、1600年に東インド会社を設立してアジアに進出。ジャワ島東部のバンテンに拠点を置いて香辛料貿易への食い込みを図ります。さらにアジアでは、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸に商館を置いて交易を行います。しかし、これらは1602年におなじく東インド会社を設立したオランダとの競合に敗れて敗退します。

そのオランダは、ポルトガルからも香料貿易を奪うなどして、次第に植民地を拡大し、黄金時代を迎えます。日本が江戸期に唯一交易を許した国がこのオランダです。1606年生まれのレンブラント、1632年生まれのフェルメールはいずれもこの黄金期のオランダの画家です。

問題の解決

こうした混乱のなか、マニエリスムを代表するイギリスの詩人であるジョン・ダンは、「新しい哲学はすべてを疑わせる」と歌います。

新しい哲学はすべてを疑わせる。
火の元素はすっかり消えはてた。
太陽は居場所を失い、地球もまた同様、誰の知恵も
それをどこに探すべきかを示してはくれない。
ジョン・ダン『世界の解剖』
(M.H. ニコルソン円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」より)

中世において絶対的な権力をもっていた教会はその地位を徐々に失い、世俗の権力がそれぞれその地位をめぐって争うようになりました。さらに追い討ちをかけるように、地動説やそれに続く天文学的発見が既存のキリスト教的世界観を揺るがします。
一方で、自らの覇権の拡大を狙う諸国は、地理学的に広がった世界から香辛料や金・銀をはじめとする様々な物資を得るため、植民地の開拓にいそしむ。そんな世界を印刷術によって自由度を高めた情報が駆け巡り、貨幣制度や保険、株など、資本主義のツールが整備されました。

現代の僕らが勘違いしてはならないのは、そんな時代にあっても、ルネサンス期の人びとは決して信仰を、神を疑ってはいなかったということです。教会は疑っても、神そのものを失ったわけでもなく、信仰心を失ったのでもない。ただ、信仰の内容がここまで挙げたような状況もあって不確かになっただけです。

16世紀の初頭にもまた、強い緊張をもたらすことになるある二律背反が生じているが、しかし、この二律背反は主体と歴史のそれではなくて、主体と自然のそれである。戦争もまた、経済的、人間―心理学的な破局というより、むしろ自然の出来事もしくは宗教的―形而上的な〈神の裁き〉として受けとられるのである。

そう。16世紀初頭のマニエリスムですら、こうなのです。それに先行するルネサンス期の芸術家であればなおさらです。
この〈神の裁き〉としての破局の認識において、ルネサンスの芸術家たちは失われつつあった自らの信仰をどうにか救済し、再統一を図ろうとする。それがルネサンスの活動が生まれた根源にあったものの1つといってよいでしょう。

そこで彼らが統一のために用いたのが古代のヘレニズム文化であり、それに先行した古代オリエントの文化のなかのヘルメス・トリスメギストスにあやかって世界の神秘を味わい尽くそうとするヘルメス主義であり、1413年に写本が発見された古代ローマの建築家ウィトルウィウスの建築書に記された数学的手法であり、それらを飲み込んだネオプラトニズムでした。

1463年に、マルシリオ・フィチーノはプラトン全著作の翻訳を開始し、翌年にはヘルメス文書「ポイマンドレス」のラテン語翻訳を完成させています。さらにその弟子のピコ・デラ・ミランドラが1486年に『人間の尊厳について』で人間は小さな宇宙であり自由意志を持っていることを主張。1527年にハインリヒ・コルネリウス・アグリッパが『隠秘哲学について』を、そして、1582年には「記憶術/フランセス・A・イエイツ」で取り上げたジョルダーノ・ブルーノが『イデアの影』をそれぞれ著し、ルネサンスの思想におけるヘブライ主義、ネオプラトニズムを強化します。

このあたりを次回引き続き、掘り下げてみようと思います。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景


  

関連エントリー

2010年01月10日

ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)

僕の最近の関心事の1つは「デザインの誕生」です。

昨日、僕が解説を書かせてもらった、ヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』書評)が出版されましたが、そこで丁寧に描かれた近代のデザイン・エンジニアリングによるイノベーションの歴史やそのメカニズムよりも、僕自身はそもそもイノベーション=デザインということが歴史上、新しい観念として誕生した瞬間にこそ興味をもっています。

現代の僕らにとってはその存在が当たり前になってしまっているデザインというものが、ほかの多くの発明品同様に歴史上のある時点から観念として浮上し、利用可能になったものであるということ自体をきちんと整理、理解してみたいと思っています。
僕のなかには「生産力よりも消費力」で書いたような、デザインが未来を提示する、つくるということ自体が機能しづらくなっているのではないかという危機感があって、その危機を乗り越えるためには、一度、デザインの起源に立ち返らないといけないという思いが強くある。そのデザインの起源とは、いわゆるモダンデザインのお作法がバウハウスなどの活動によって整えられてきた第1次世界大戦後の時代ではなくて、もっとずっと歴史を遡ったルネサンス期のヨーロッパではないかと思うのです。

しばらく、そんなことを続けて書いてみようと思うのですが、まずは思考の基点を、高山宏さんの『表象の芸術工学』書評)のなかのこんな記述、

いずれにしろOEDによると、英語としてのdesignが出てくるのは1953年が最初です。「絵」の用法では1638年が最初。要するにその界隈ですね。そしてぴったりその時期の1607年、「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」という言葉が、マニエリストのフェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)の「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセーの中に登場しました。今まで長い間、ヨーロッパのデザインは基本的に外界にあるものをたくみに写す技術、ミメーシスの技法でやってきた。ところが1607年の時点で、英語にすると「インナー・デザイン」、この講義だったら「インテリア・デザイン」としかいいようのないイタリア語のディゼーニョ・インテルノ、「内側にあるもののデザイン化」という意味が出てきた。

においてみようか、と。

内側から描く

さて、上記の高山さんの本からの引用には、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、designという語が英語として登場してくると述べられています。あわせて1607年という年が、フェデリコ・ツッカーリというイタリアのマニエシルム画家、建築家の「絵画、彫刻、建築のイデア」という論文のなかの「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」という聞き慣れないことばとともに記されています。
まずはここから考えてみたい。

この「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」ということばは先日紹介したワイリー・サイファーの『ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌』書評)にも登場します。

パルミジァニーノは内面のイメージ―「ディセーニョ・インテルノ」―に視線を注いでいるように見え、外在の現実よりも内側から絵を描く。」

パルミジャニーノ(1503-1540)も、フェデリコ・ツッカーリ同様、マニエリスムの画家として知られますが、ツッカーリが生まれる2年前に夭折した初期マニエリストです。凸面鏡のうえに手だけが異常に巨大化して写った自身を描いた「凸面鏡の自画像」や「首の長い聖母」といった作品で知られます。

作品をみてもわかりますが、見たままを描いたという印象はパルミジャニーノの絵には見受けられません。「凸面鏡の自画像」では先にも書いたとおり、ペンを持つ右手が誇大化して描かれていますし、「首の長い聖母」では聖母も赤子であるキリストも異様に体が長く、蛇のようにうねった形で描かれています。蛇のようにうねった形「フィグーラ・セルペンティナータ」は、このパルミジャニーノだけでなく、ほかのマニエリスム画家にみられる特徴で、その不自然極まりない動きは人体にも、雲や道や建物にさえ見られ、マニエリストの描く絵の画面を不安で満たします。

さらにその不安な特徴は絵だけでなく、文学にも影響を及ぼし、とりわけハムレットの不安定さに顕著に表れているとされます。

ハムレットは自分の置かれた状況に異常に過敏な反応を示し、そのため、芝居は彼の意識という主観的焦点を持つ劇場で演ぜられることになる。デンマークという外在世界だけでは十分に演じることができないのである。これと同じように、マニエリスムの画家も〈内的構図(ディセーニョ・インテルノ)〉というある種の主観的焦点を持つことによって、「内側から描く」のである。

ハムレットはその劇中の舞台であるデンマークという地理的な環境にはおさまりきらず、彼を演じるには「彼の意識という主観的焦点を持つ劇場」を必要とする。サイファーはマニエリスムの画家もそれとおなじように見たままの外的な世界だけではなく、主観的焦点をもって「内側から描く」のだといっています。それがツッカーリがはじめに理論化した内的構図―Disengo Interno―と捉えています。

内的構図―Disengo Interno

もうすこし、このツッカーリの内的構図―Disengo Interno―をみてみましょう。

グスタフ・ルネ・ホッケは『迷宮としての世界―マニエリスム美術』のなかで、ツッカーリのことばも引用しながら内的構図をこのように示しています。

最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。〈内的構図〉は、さながら同時に視るという観念でも対象でもあるような一個の鏡にもくらべられる。というのもプラトンのさまざまなイデアは、神が〈神自身の鏡〉であるのにひきかえ、〈神の内的構図〉であるのだから。神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する。

ここでプラトンの「イデア」に言及がされていますが、ルネサンス期の思想の根幹には、ネオプラトニズムがあり、マルシリオ・フィチーノ(1433-1499)やその弟子にあたるピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)といったイタリア・ルネサンス期の思想家によって、プラトニズムにヘブライ主義やカバラを盛り込む形で神秘主義的にまとめられています。これに関しては、以降でもうすこし詳しく紹介することにします。

マニエリストに限らず、ルネサンス期の芸術家は、このプラトンの、個別の事物の背後にはその本質であるイデアが存在するという考え方を自身の表現であらわします。ツッカーリはこのイデアを綺想体とも内的構図とも言っているのであり、それを外的構図としての現実の絵の表現へと落とし込むことを画家や彫刻家、建築家の仕事だと捉えているのです。

表象のミメーシスからの開放

ただし、このイデアの表出としての芸術という捉え方も、マニエリスムとそれに先行する盛期ルネサンスにおいてはすこし意味合いが異なります。
それをマリオ・プラーツは『官能の庭』のなかで次のように示しています。

ミメーシスの概念、つまりルネサンスに支配的な自然の模倣として芸術の概念は、実際には「止まれ、汝は美しい」なるポーズとして固定された静止的な世界を前提としていたが、いまや16世紀になると、心の内面でとらえられた世界のイメージは静止的どころか絶えまない変転にほかならない、とする理念が生み出される。まさにこれはウェルトゥムヌスの領国である。そこから芸術家にふさわしいのは、単なる自然の模倣から開放された表象としての、すなわち自律的な噴出によって紙の上に投影された創意としての「内的ディセーニョ」であるとみなされるようになった。
マリオ・プラーツ『官能の庭』

初期ルネサンスから盛期ルネサンスの芸術家たちは、個別の事物の背後にある本質としてのイデアを描くのに、数学的手法である比例(プロポーション)や遠近法を用いていました。自然の本質として数学的なものを据える考え方こそがルネサンス期のネオプラトニズムの影響を大きく受けたものですが、それはあくまで中世までの自然の模倣という範疇におさまるものでもありました。
ところが、マニエリスムの芸術家たちは、盛期ルネサンスの画家や彫刻家、建築家が重視した比例や遠近法などの数学的手法を拒否し、身体を不自然に蛇状に伸ばし歪ませ、この世のものではない動きを画面に与え、不安定なほど空間を伸ばして中心を空虚にした構図を採用しました。それはもはや自然の模倣ではなく、芸術家の主観的内面の「内的ディセーニョ」としてのイデアだったのです。

「絵は手で描くのではない、頭で描くのだ」といった、初期マニエリスムの色濃い晩年のミケランジェロ(1554年没)のことばが思い浮かびます。

ルドルフ2世のプラハ

ちなみに上の引用で「ウェルトゥムヌスの領国」と書かれたウェルトゥムヌスとは神聖ローマ帝国皇帝であり、ボヘミア王であったルドルフ2世(1552-1612)のことです。

政治的には無能といわれたルドルフ2世は、逆に文化人としては非常に優れた面をもっており、芸術や学問を保護したことで、マニエリスム芸術を考える上では非常に重要なジュゼッペ・アルチンボルドのような画家や、天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、さらにはイギリス・ルネサンスの最重要人物のひとりであり、薔薇十字運動にも多大なる影響を与えた哲学者にして魔術師、数学者であるジョン・ディーを、帝国首都プラハに呼び寄せました。このルドルフ2世によって、ボヘミアの首都プラハはマニエリスムの重要拠点ともなったのです。

ルドルフ2世がボヘミアにおける信仰の自由も認めたことで、プラハはプロテスタントなどの宗教革命勢力にとっても楽園的な都市として栄えましたが、その政策が不徹底だったこともあり、その死後、神聖ローマ帝国内において三十年戦争が勃発する一因を作り上げてしまったことは、先日紹介したフランセス・A・イエイツの『薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史』書評)に詳しいのですが、このあたりも次回以降もうすこし取り上げていこうか、と。

というわけで、続きます。

   

関連エントリー

2010年01月09日

お気に入りのブーツたち―もうひとつの民藝として

さて、ひさしぶりに書評以外のエントリーをw。

僕が手づくりの民藝の品―陶磁器や染織物や木工品など―を好きなのは、このブログを読んでくださっている方は、すでにご存知だと思いますが、今日はそれ以外で僕がおなじようにこれも民藝の品と考えてよいだろうと思っている、お気に入りのブーツを紹介。



写真は、左上から時計回りに、レッドウイングのペコスブーツ、ラッセルモカシンのゼファーブーツ、おなじくラッセルモカシンのスポーティングクレイチャッカ、そして、サンダースのブローグブーツとチャッカ。
このうち、ラッセルモカシンのゼファーとサンダースのブローグブーツは昨年2月のエントリー「どうせ持つなら長く使えるものを」で、ラッセルモカシンのスポーティングクレイチャッカは9月の「2009-09-21:浜離宮恩賜庭園」というエントリーで、すでにブログ内にも登場してます。
ラッセルモカシンのゼファーとサンダースのブローグブーツはその時点でも結構味が出ていたのですが、さらに履きこんでいい感じになってきてます。レッドウイングのペコスとサンダースのチャッカに関しては昨年の10月、11月にそれぞれ購入したばかりなので、まだまだ試運転中。
ブーツって買ったときが一番格好わるいなと思ってるので、どんどん履きこんで味を出さないとって思ってます。

サンダース(Sanders)

この5足が主に気に入って履いているブーツで、実はオンでもオフでも僕はほとんどブーツで、短靴はほとんど履かないんですよね。短靴は本当に暑い真夏に履く程度。「2009-09-21:浜離宮恩賜庭園」でスポーティングクレイといっしょに写ってるユケテンの靴を履くくらい。

いったんブーツに慣れてしまうと、足首がホールドされてないとなんとなく不安。実際、ブーツのようにある程度の重さがないと逆に歩きにくいし、疲れてしまうような気がしてます。

で、オンの仕事のとき、ジャケット&グレーパンツといったかっちり目の格好にあわせているのが、サンダースのブローグブーツ(写真右)とチャッカ(左)。



チャッカのほうは2005年頃に買ったバーニーズニューヨークのチャッカがさすがにかなり傷んできて、オンにはどうかな?という感じになったので、昨年11月におなじ濃い茶のチャッカを買いました。

サンダースのものを選んだのは、ブローグブーツの履き心地がとても気に入っているからです。特に足首のホールド感が抜群にいい。とにかく足首にはりつくようなフィット感で、足首でブーツが支えられているような感覚。
それは新しく買ったチャッカもおなじで、ますますサンダースの靴が気に入りました。
あとは適度な厚みのある革の感じも、上品になりすぎずよいな、と。

サンダースは、1873年創業のイギリスはノーザンプトンの老舗靴メーカー。サンダース&サンダース(Sanders & Sanders)が会社名で、サンダースはそのブランド名。
かつてはラルフ・ローレンの靴を手掛けていたり、イギリス国防省等の制服用の靴も手がける質実剛健なメーカーです。

イギリスのブランドということで、秋冬には着ることが多いツイードのジャケットやコーデュロイなどとの愛称もよく、とても気に入って履いてます。

ラッセルモカシン(Russel Moccasin)

オンに履くのがサンダースなら、オフにジーパンやチノに合わせるのは、ラッセルモカシン。



春夏の暑く湿気の多い時期は、5インチハイトのスポーティングクレイ(写真右)が多くなりますし、寒い冬だと8インチハイトのゼファー(左)が多くなりますが、基本的にはそんなに季節にこだわらず、どちらも履いてます。

とにかく僕がラッセルモカシンの靴が好きなのは、その履き心地。履きはじめのときでもまったく靴擦れにならないのは、このラッセルモカシンくらい。それくらい革がやわらかく足になじみます。山のなかを歩くようなタフな状況でもまったく気にせずガンガンいけます。
足首のホールド感はサンダースにはおよばないものの、ゼファーなみのハイトがあるとまったく問題ありません(その点、スポーティングクレイはちょっと物足りない)。

それからもうひとつラッセルモカシンのよさは、雨などの水にもつよい点。雨がふってもほとんど足のなかに水が染みてこないので快適。梅雨時期や秋の長雨の時期はだいぶ重宝します。

ラッセルモカシンは、1898年にアメリカのウィスコンシン州で設立。設立者のウィル・ラッセルが、当時盛んだった森林伐採作業に従事するロガーのために、ハンドメイドのブーツを作ったのが始まりといわれています。その高いクオリティーがハンターなどにも評価されるようになり、ラッセル社の名声は広まったそうです。

僕がもっている服は、ハンティングをモチーフにしたものや、フィルソンのダブルマッキーノのようなアウトドア系の服も多いので、ラッセルモカシンのブーツはコーディネートにもよく馴染みます。

レッドウイング(Red Wing)

最後の1足は、この5足のなかでは一番名も知られるレッドウイングのペコスブーツ。



これは去年の10月頃に購入。その頃、買ったペインターパンツなどに、ラッセルモカシンがなんとなく合わないなと感じていて、それに合わせるハイトがある程度高い長筒で、かつ紐で結ぶタイプではないブーツが何かないかと思って探していたところ、この96年製のデッドストックのペコスに遭遇。
96年頃のモデルは現行のモデルに比べると革の色が薄いんです。もっと時代が遡って、70年代頃のものになると、もっと淡い色なんですが、それはさすがに値段もはるので、あまり現行品と値段もかわらないこのモデルを買いました。

レッドウイングの靴ははじめてなので、履き心地はどうかな?と思っていましたが、実際に履いてみるとばっちりでした。サンダースのようなホールド感、ラッセルモカシンのような革のやわらかさや雨への強さはないものの、十分な快適さがあります。
最近ははやく味がでるように、という思いもあって、一番ヘビーローテションで履いているのが、コノペコスだったり。

レッドウイングは、1905年に創業者のチャールズ・H・ベックマンがミネソタのその名もレッドウィングシティーに創業したシューズメーカー。
ペコスブーツは農業を営むファーマーのために作られたワークブーツで、1953年にリリースされた当時から、牛を誘導するときの乗馬に適した高いヒール、鞍にブーツを引っ掛けないためのシューレースが省かれたデザインされるなど、ほとんどデザイン変更がされずに現在まで生産販売されている息の長い商品です。

もうひとつの民藝

僕がこれらのブーツを、「もうひとつの民藝」だと思っているのは、一番歴史の浅いレッドウイング社でさえすでに100年を超える歴史をもっていて、さらに商品自体もリリース当初からほとんどデザイン変更のないロングセラーだというのが理由のひとつ。
さらに、これらのブーツが基本的に、ロガーやハンティング、ファーマーや軍のユニフォームなどに用いられる非常に実用的なものとして作られ、それらの作業従事者から評価を得ている点がもうひとつ。これは民藝の「用の美」に通じるところがあるな、と。
ラッセルモカシンなどはいまだにハンドメイドで靴を作っていたり、レッドウイングも自社で革のなめしから行っていたりと、ものづくりの視点でもやはり民藝に通じるところがあります。

こんな点が、こういうブーツに民藝とおなじ愛着や僕の数寄心をくすぐる点かな、と。
で、陶磁器や染織物や木工品などとおなじで、やっぱりこういうブーツも履いてナンボ、実用してナンボということで、どんどん履きこんでいくうちに、さらに愛着がでてくる点でも民藝の品に通じるんですよね。

これらのブーツをしまわずに出しっぱなしにして玄関に5足が並んでいる光景は結構壮観。そういう存在感のあるモノというのも、「用の美」(それは決して機能美ではない)という点では大事だな、とこれらのブーツは教えてくれるんです。

正しき工藝の11の法則」でもすでに紹介していますが、柳宗悦が『工藝の道』で記された「正しき工藝の11の法則」を、なんとなく最後にあげて、このエントリーを結ぶことにします。

  1. 工藝の本質は「用」である
  2. 工藝の最も純な美は、日常の用器に表現される
  3. 多く作られることによって、工藝はその存在の意味と美とを得る
  4. 工藝の美は労働と結ばることなくしてはあり得ない
  5. 労働の運命を担う大衆が、相応しい工藝の作者である
  6. 民衆の工藝であるから、そこには協力がなければならぬ
  7. 手工藝にも増してよき工藝はない
  8. 正しい工藝は天然の上に休む
  9. 高き工藝の美は無心の美である
  10. 個性に彩る器は全き器となることはできぬ。古作品の美は没我の美である
  11. 工藝においては単純さが美の主要な要素である



関連エントリー

2010年01月06日

フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー

以前から読みたかったヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』が文庫版にて復刊されます(1月9日発売です)。
そして、「読みたかった」この本の書評を発売前のこの時点で書いているのは、実は文庫版出版にあたり、光栄にも僕が巻末の解説を書かせてもらったからです。

ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。
『フォークの歯はなぜ四本になったか』「解説 失敗の発明」より

ヘンリー・ペトロスキーの著作に関しては、このブログでも以前に『失敗学―デザイン工学のパラドクス』書評)や『本棚の歴史』書評)を紹介させていただいてます。

拙著『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』では「あらゆる仕事はデザインの仕事である」という考えに基づきデザイン思考の仕事術を展開させていただきましたが、その考えのベースとなったのがペトロスキーの進化論的なイノベーションの見方であり、「モノがひとつ生まれれば世界は変わる」という捉え方です。
そして、解説でも「新たなモノが発明され暮らしのなかに浸透すれば、単にモノがひとつ増えたというだけでなく、人々の生活そのものが変化する。それが決して珍しいことではないことは本書の多くの事例が教えてくれる」と書かせていただいた通り、本書でもペトロスキーのその姿勢は変わりません。フォーク、食料品や飲料用の缶詰、ペーパークリップ、ファスナー、マクドナルドのパッケージなどの日常使われる実用品の進化のステップに光をあてながら、モノの形の変化の流れを紹介するだけでなく、それにともなって変化する人びとのライフスタイルや考え方もあわせて紹介してくれています。その丁寧に膨大な事例を調べ上げて論を展開していく姿勢は、僕などはまったく頭が下がるばかりです。

それでは、この良書をすこしでも多くの人に読んでもらえるよう、ここでもすこし本書の内容を紹介しておくことにしましょう。

17世紀になるまでフォークは使われていなかった

この本を読んで、まず驚くのは、イギリスでは17世紀になるまで食事をするのにフォークが使われていなかったということです。それより早いイタリアでも14世紀にようやく、フランスでは16世紀になってフォークを使った食事が行われるようになったというのです。
中国や日本など、東アジアではとうに箸を使った食事が行われていた時期です。

では、それまで西洋ではどうやって食事をしていたのか?
なんと両手にナイフをもって食事をしていたんですね。

使い方は左手にフォークをもった場合とおなじで、左手のナイフで肉塊などを固定したうえで右手のナイフで切る。そして、どちらのナイフを使ったかはわかりませんが、ナイフで切った肉片を刺してそのまま口に運ぶ。ナイフが切る用途と刺して口に運ぶ用途の両方で使われていたということです。なので、当時のナイフはいまの先が丸まったものと違い、鋭利に尖っていた。包丁やキッチンナイフとおなじです。

ところが、そうした先が尖ったナイフだと、どうしても肉塊などを切る際に、固定した肉塊がくるくると回ってしまったりして切りづらい。そりゃ、そうですよね。固定するのが1点なんですから。そこが回転の中心点になるのは考えてみれば、当たり前。

で、その欠点をなくすために、登場したのが2本歯のフォーク。歯が2本になることで、肉塊を切る時に支える点が2点となり、くるくる回ってしまうという欠点がなくなりますよね。
でも、それでめでたしめでたしとはならないから、フォークの歯は4本へと進化していった。これも2本歯のフォークに欠点があったからです。何かわかります? まぁ、答えは実際に本書を読んで確かめてみてください。

欠陥の発見がモノの進化を促す

先行するモノの失敗がモノの進化=イノベーションを促す、というのはペトロスキーが『失敗学―デザイン工学のパラドクス』などでも展開している見方です。

 食器類のような一見単純そうなモノについて、その形がいかに進化してきたかを想像してみるとはっきりわかるのは、人工物が今あるような形になった経緯を理解するための支配的原理として、「形は機能にしたがう」説は不適切だということである。(中略)
 本当の意味でモノの形を決めるのは、ある働きを期待して使ったときに感知される現実の欠陥にほかならない。

「形は機能にしたがう」説が正しいのであれば、西洋のフォークとナイフ、東洋の箸という違いが生じる理由はうまく説明できません。それに対して、ペトロスキーはあくまで現実に先行して存在するモノに対する欠陥の発見がモノの進化を促し、形を決定する要因だということを明らかにしています。

また、ペトロスキーはこうも言っています。

 ナイフやフォークや箸のようなおなじみの食器類を、進化という全体像に入れて眺めてみること-必然的に仮説の域を出ないが-それらのデザインの基本的な考えを新たな視点から見ることができる。なぜなら、こうした道具のデザインは、偉大な作り手の頭の中で完璧に練りあげられてから生まれるのではなく、むしろ、それらを取り巻く社会、文化、技術に関連し、使った側の(おもに不愉快な)経験を通じて変更が重ねられてつくものだからである。そして逆に、人工物の形状の進化は、われわれがそれらをどう使うかに多大な影響を与える。

これは、ひとりの天才的なデザイナーや発明家がゼロから新しい発明品・イノベーションを生み出すなんて考えることが完全な勘違いであるということですし、さらには、新しい発明はつねにそれが生まれる背景としてその場の社会、文化、技術に大きく影響を受けざるをえず、ユニバーサルデザインという思想そのものが一種の視野狭窄による幻想でしかないということを明らかにしているのではないかと思います。
このあたりは、「工藝の道/柳宗悦」などでも紹介している柳宗悦さんのものづくりと地域の自然や歴史や文化のつながりをみる見方に近い。というか、このへんが見えてないとダメでしょ、と感じます。

「人工物の形状の進化は、われわれがそれらをどう使うかに多大な影響を与える」以上、人が人工物をどう見て、何を欠陥と考えるかというモノの見方や思考自体も常に現状の影響を免れません。だからこそ、「モノがひとつ生まれれば世界は変わる」のであり、世界の見方はいつでもそこに存在するモノの影響につよく曝されているのだということを僕らは忘れてはならないのだと思います。

完璧なモノはない

ペトロスキーは「完璧になった」人工物などありえない、といっています。
食物や飲料の長期保存を可能にした缶詰の発明がその缶をどうやって開ければよいかという新たな問題を生じさせたことや、ポリスチレン製のマクドナルドの容器が保温性や油のベタつきが外ににじみ出るのを防ぐという利点を生じさせたと同時に容器のゴミ処理という問題を生じさせたことなど、多くの事例をあげて、あるモノの改善がつねに同時に別の問題を生む要因ともなっていることを指摘しています。
それが「完璧になった」人工物などありえない、ということであり、モノは常に欠陥を含み、改善のきっかけを抱えているということでもあります。その意味で短絡的に「この製品は従来のものよりユーザビリティが向上しています」とか「性能がよくなっています」なんていうのは、ちょっとヘン。よくなっている一方で、悪くなっている部分も必ずあるのだから。その意味でユーザビリティはあくまで「特定の利用状況で特定のユーザーが特定の製品を…」という前置きが必要なわけ。デザインは常にトレードオフってことです。

このあたり、ちゃんと理解できてます?>みなさま

ずっと前に「人体 失敗の進化史/遠藤秀紀」というエントリーで人間が二足歩行に移行することで歩行に必要なくなった前肢を器用な手に設計変更することで道具を扱えるようになると同時に、貧血、冷え性、椎間板ヘルニア、脱腸など、ヒト科固有の問題も生じさせたような生物進化の場合とおなじです。
形の進化はあくまで前の形がもつ欠陥を取り除き、新しい利点を得るものである一方で、新しい欠陥をも同時に生み出すのです。完璧なモノなどなく、それがデザイナーや発明家に新たなイノベーションを促させるきっかけを与えている。

そんなイノベーション=実用品の進化の歴史を、数多くの事例をあげて紹介してくれているのがこの一冊。
イノベーションということを考える人には必読の一冊ではないでしょうか。

そして、著者が見落としている、イノベーションを生み出す失敗そのものの発見こそがひとつの歴史的なイノベーションであること(そう。冒頭の引用にもあるとおり、僕はフォークの誕生を昨日紹介した「ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー」の大きな変化の時期に重ねてみているわけです)を指摘している僕の「解説」も手前味噌ながらこれまた必読ではないか、とw。



関連エントリー

2010年01月05日

ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー

狭義のルネサンスからマニエリスムへ、そして、バロックを経て後期バロックへ。
15世紀から17世紀にかけてのルネサンスの流れを、このような4つの段階に分けて考察するのが今回紹介するアメリカの文化史家、ワイリー・サイファーの『ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌』です。

この本を読んであらためて日本人って西洋のことをほとんど理解しないまま、西洋が生み出しグローバルに展開した近代のしくみに乗っかってしまっているんだなと感じました。
それがどういった状況で何を目指して生み出され、その結果、何がどう変わったのか。
さらにいえば、そうした近代のしくみが自分たち自身のいまの生活にどういう影響を与えているのか。
またその影響を認識して、それを嫌うにしても、根っこの部分でそれがどういうしくみであるのかをわからないから表面的な批判になってしまい、結局は懐の大きなそのしくみへと取り込まれてしまう。

そういう巨大な間違いの根源を、僕はこの本で描かれた4段階のルネサンスの流れに感じます。
ただし、それは決して海の向こうの他人事ではない。キリスト教が中心にあった中世ゴシックの時代が、各国の王侯の力が大きくなり、力を持ったギルドも生まれ、世俗化する傾向がある中で、キリスト教中心の世界に対するオルタナティブとして生まれたのが15世紀以降のルネサンスの動きであるとしたら、それは1467年から1477年にかけて起きた応仁の乱以降に顕著になる日本文化の民衆化、平民化にも対応するからです(「日本文化史研究/内藤湖南」参照)。

キリスト教による世界の統治に混乱が生じた時代にルネサンスが花開いたように、応仁の乱以降、戦国の時代に突入すると同時に、将軍家や公家を中心とした茶の湯は、武野紹鴎を経て利休へと向かい、織部や遠州を生み、世阿弥の能楽は、出雲阿国のかぶき踊りを経て歌舞伎へと変遷する。こうした西洋の動きと日本の動きをパラレルに見るなかで、ルネサンスとは何だったか、西洋の15世紀から17世紀においていかなる思想の転換が起こったのか、それをどのような表現手法がサポートしたのかを考えることは非常に重要なことではないかと思うのです。

思想の基底には、観念がある。その観念を支えるのが本書で取り上げられるようなさまざまな芸術(建築、絵画、彫刻、演劇、詩など)が提供するイメージなのですから。


ルネサンス様式の四段階

それにしても、ルネサンスが描いた軌道をこんな風に整理してもらえると、非常に興味深い。

中世ゴシックが描いたプレヒューマニズムの空間を、数学的なエステティックな技法を用いて美的な空間構造で描きなおす試みとしての狭義ルネサンスが形成期であるとすれば、あまりに機械的で形式的なそのルネサンスの遠近法的空間を、人間の迷い疑う内面を反映するかのように長く引き延ばし蛇のようにねじることで破壊したマニエリスムはルネサンスの一時的な崩壊期でした。行動と感情が一致せず焦点が明確ではないハムレット、身体が蛇のように長くねじれた形で描かれた群像は誰一人視線があうことなく観る者を不安に駆り立てるパルミジャニーノやエル・グレコやティントレットの描く暗い絵画。あるいはミケランジェロによるメディチ家礼拝堂やラウレンツィアーナ図書館などの建築の要素と構造が不一致で安定を欠いた空間など。マニエリスムは機械的で人間的な生気を欠いたルネサンス表現に対して背中を向けるように、ディセーニョ・インテルノ(内的構図)を標榜しますが、その構図は何かを表現するというより、むしろ表現することを拒むような不安定さ自体をあらわにします。

そうした構造と感情が一致しないマニエリスムの不安な空間を、過剰なほどの物量とエネルギーを前面に配置し、かつ、それを閉じた空間のなかでコントロールしきることで再度空間を統合したバロックはルネサンスの再形成の時期です。そのバロックの代表ともいえるのがベルニーニの彫刻や建築であり、ルーベンスやレンブラント、そしてフェルメールの絵画であり、ミルトンの『失楽園』が表現した、光と影を巧みに使い、閉じた空間のなかで膨大な質量によってエネルギーを爆発させる過剰ともいえる装飾性をもった激烈な力学的空間でした。バロック空間はその激烈な動きや過剰な装飾性にも関わらず、マニエリスムの不安定さとは逆に、空間構成が完璧に統御されており安定しています。その空間のなかで表現される動き、エネルギーという力学的装置は、あらかじめわかりやすい劇的な効果を狙った演劇装置あるいは実験室的システムだといえます。そのわかりやすさは、マニエリスムの難解さ(というか答えのなさ)とはまさに正反対で、きわめて暴力的に答えを一元化する。そうしたわかりやすさが安っぽいキッチュな演劇性に流れるのは必然で、僕などはこうした「わかりやすさ」という暴力こそが今最も見直さなければいけないと思って「説明」などのエントリーを欠いているくらいなので、このバロックに対しては、ちょっと嫌悪感も覚えました。

さらにこのバロックの過剰な物量とエネルギーさえ、適切に削り取ることで力学における作用/反作用を人間の表情や関係性と完全に機械的に論理的に一致させた後期バロックはルネサンスの最終段階であり、ここまでで一通り、キリスト教を中心として人間ではなく神を描いてきた観念の向かう先が、人間中心への移行が完了するのです。

ゴシックと啓蒙のあいだで

こうした観念の表現技術がともなってこそ、ヨーロッパは啓蒙の世紀に入っていけたのでしょう。人間の内面を外面の表象として表現する技術があってこそ、蒙(くら)きを啓(ひら)く時代=見える化の時代を実現することが可能です。
それ以前に世俗化、平民化した流れがあり、さらにそこにバロック=キッチュ的なわかりやすい表現技術や、後期バロックでソフィスティケイトされた劇空間の表現技術がともなえば、わかりやすさ-わかるようにしてくれる、啓蒙してくれる-表現がより受け入れられるようになります。そこではマニエリスムの不安定な表現も、さらにそれ以前のゴシック的な神秘主義的な表現も排除される方向に向かいます。

そうした足場を整えたものこそが、このルネサンスという時代なのかなと感じました。

ただし、こうしたルネサンスの試みが宗教改革や宗教戦争といった混乱の時代に対するひとつの解決として行われたことは忘れてはいけないし、先にも書いたとおり、それが日本における戦国から安土桃山の時代ともパラレルにみたほうがいい。ある意味、信長~秀吉と連なる力業での天下統一の道のりは、力の表現であるバロックを産み出したトレント宗教会議の強引ともいえる偶像の肯定にもあい通じるのですし、さらにはこの時代、羅針盤や火薬といったルネサンスの発明とともに、東インド会社やイエズス会宣教師によって西洋と日本を含むアジアはグローバルな動向のなかでつながっていたのですから。

こんな風にルネサンスをみたときに、僕は注目すべきはマニエリスムかなと思っています。ルネサンスの生み出した構図の描きかたを越えて、ねじれ長く延びることで、此の地を彼の地としての異界へと通じさせる。そんなルネサンスの異端児であるマニエリスムこそがキッチュに収束しがちなバロックのわかりやすさを越えて、人が明るすぎる啓蒙の世界に迷いこむのを悔いとどめるのにちょうどよい迷宮の役割を果たしてくれるのではないか。
そんな気がするのです。



関連エントリー