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2009年12月28日

生産力よりも消費力

最近、世の中をみていて、いまの日本社会に必要なのは、これ以上、生産力の向上を目指すことよりも、消費力を引き上げることではないかと感じます。

それはいわゆる需要と供給という話とはすこし違って、単純な経済的な話でもないと思っています。自分たちの生活や生き方や人生の理想が描けなくなっているのではないか。そう感じるのです。

それも個々人が自分の理想を描けなくなっているということよりも、社会としての構想力やコンポジションが欠けていて、理想の世界を描けなくなっているということのほうが大きい。それが根本にあっての消費力の低下というのがあるのだろうと感じるのです。

商品というモノばかりで夢を描こうとしすぎたツケ

いろんな商品・サービスに対して、これがあればもっと自分の人生がよくなるというイメージがもてなければ消費はとうぜん生まれない。むしろ、それがあってもなくても別に人生に大きな変化はないと思えるモノばかりに囲まれていては、モノが消費されないのは当たり前です。モノが夢を描けなくなっているし、モノに夢などを感じなくなっています。ニーズはあってもウォンツがほとんど喚起されないから、低価格商品のとりあえず消費へと流れる。

こう書いたからと言って、僕はこれを単純な経済の問題とは思わない。
むしろ、経済ばかりに没頭しすぎて、生産性をいかに高め、売上や利益を稼ぐかということばかりを考えすぎてきたせいだと感じます。商品というモノばかりで夢を描こうとしすぎたツケが回ってきているという感がある。

仕事と生活の分離

モノを売ることばかり、売り物をつくることばかりになってしまっているのに同期して、仕事というとお金をもらって行う仕事のことだと思うようになってしまってもいます。仕事が自分たちの生活や生き方や人生をつくるため、支えるためのものだという考えはもはやほとんどないのかなと危惧しています。

自分たちの毎日の暮らしをおくるための家事、子供を育てることや季節の行事や祭りのために準備をし参加すること、地域で共同で共有物の掃除をしたり手入れをしたり、そういう仕事が仕事だという認識が薄れてしまっている。

最近、ライフスタイル研究会(仮)準備室でよく、仕事と生活の分離ということを話題にしますが、仕事は金を稼ぐもので、それ以外の家や地域での仕事は仕事として認めなくなっている傾向が強い。職場と家庭が地理的に分離されただけでなく、金を稼ぐ仕事とそうでない仕事が分離してしまい、さらに、経済と文化、公と私が分離してしまっている。

それがモノをつくり提供する組織から、生活を締め出し、生活から離れていき、最終的に現在のような、新しい暮らしのヴィジョンを描けなくなってしまった大きな1つの要因ではないかと感じるのです。

既存の夢のフレームが疲弊している

日本国内に限れば、若い人にはクルマもマンションも売れなくなっているという傾向がある。ファストファッション、プライベートブランドと低価格商品に流れ、インターネットのコンテンツはますます無料化に進む傾向がみられる。ケータイだって明らかに売れなくなってきているし、持っていてもなるべく使わないようにしている人もいる。

こうした傾向を単に好奇心のなさとか興味の範囲が狭いとか、不景気の影響だとか片付けるのはたやすい。でも、真実はそんなことではなく、もっと単純にモノが夢を描けなくなってしまっているということにすぎないのだろうと思う。
マーケティングによって夢を消費させるという方法が、これだけモノや情報が増えたなかでは成り立ちにくくなっているのだろう。

そうはいっても実はモノや情報は単純に多すぎるのではない。それらの過多は既存の観念のフレームのうえでの混雑であり、飽和なのだと感じます。マーケティングによて次々に新しい商品を開発し広告するという既存の夢のフレームが疲弊しているということなのでしょう。あるいは科学技術や情報技術主導で明るい未来をつくりだすというフレームが飽和してしまっているのだろうという気がします。

新しい夢のフレーム

とはいえ、実は別のフレームでみれば、足りないモノも情報もまだまだあるのだけれど、そうしたモノや情報を魅力的にみせる別のベースとなる夢のフレームが描けていないからこそ、ここまで消費力が落ち込んでしまっているのでしょう。

こうした状況を打開し、新たな消費力を生み出し活性化させることが、来年以降、本格的に求められるのではないかという気がしています。
新しい夢のフレームを生み出し、そのフレームの上で新たな生活、生き方、人生を送ることができ、それに必要とされる仕事やモノが消費される。そうした新たな価値観、世界観、人生観のベースとなるフレームをいかにつくりだせるか。そうした作業が急務なのではないかと感じています。

新たな働き方、新たな人間関係や人とのつながり、新たな自然観や自然との接し方。
そうしたことに関する議論や活動がすくなくとも水面下では活発になってくるのではないかと思います。

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2009年12月22日

自分がない

ネット上で誰かとコミュニケーションする。自分のブログを書く。電話で誰かと話す。手紙を書く。メールを書く。コミュニティでやりとりをする。

そうしたコミュニケーションを繰り返すことで、逆に失われていく自分というのがあると思います。コミュニケーションすることで生まれる自分と失われる自分がある。
特に、そうしたコミュニケーションのなかで、誰かや他の何かを否定したり批判したりが多かったりすると、徐々に自分が失われていく。見失われていってしまう。

フィクションとしての自分

自分とはいうのは少なくとも意識のうえではフィクションに違いない。
ことばとして感知できる自分は、結局は無数の細胞のかたまりである身体がそれぞれ身勝手な活動を結果を、意識としてつくるものの同一性をもった存在として編集しなおしたものでしょう。

そのフィクションである自分はメディアの数だけ増殖する。
現実の場における自分だけでなく、ブログの上の自分、mixiのなかで一部だけに開かれた日記のうえでの自分、あるいは、名前を伏せて匿名で行うネットコミュニケーションのなかでの自分、著書のなかの自分、親しい人への手紙や電話のなかの自分。
文字を書くための紙もなく、また文字自体が存在しない状態のオーラルコミュニケーションだけの状態であれば、同一性を確保するための基盤としてのメディアもないために、統一された自己というフィクションも形成されなかったのかもしれません。

トーン&マナーの一貫性

現実の場における自分もまた、その場の違いによって分裂することもある。家での自分、職場での自分、客先での自分、友人の集まりのなかでの自分など。

本当の自分探しなどが行き詰まるのは、それがそもそもフィクションであり、かつ同一性を欠いたフィクションであることを忘れているからです。
ただ、それは常におなじであるという同一性は欠いていても、特定のメディアにおける表現やトーン&マナーの一貫性という意味では統一性をもったフィクションです。

そのトーン&マナーの一貫性が失われると、精神的な病と見なされるのでしょう。それゆえ、精神病は個人的な病というよりも、社会というメディアとの関係性における病なんだと考えますが、どうなんだろ?

批判によって失われるもの

そのフィクションである自分が、他者とのコミュニケーションのなかで、作られると同時に失われていく。

特に自分以外のものを批判・否定するだけのコミュニケーションにおいては、失われるものが大きいのではないかと思います。それは作られるものに比べて、失われるものが多すぎるから。
アウトプットすることで何かがわかることがあります。ただし、それはすでにわかっている/意識されている自分の考えに基づいて、それとは異なる他者の考えや行動を批判・否定する場合には得られないことでしょう。何かがわかるというのは、意識の外にあるものを発見することですから、意識しているものだけをひたすら見て、それ以外を排除するように否定する姿勢では、アウトプットが発見につながることはありえません。

他者とのコミュニケーションにおいては、必ず自分は摩耗していく。
そのとき、新しい自分の発見がないにも関わらず、他者の否定により、自分の摩耗ばかりを進ませるから、どんどん自分が見えなくなっていく。

カオナシ

自分のすでにわかった考えだけに固執するうちに、自分というフィクションは摩耗していく。さらにそれが複数のメディア上で、どんどん自分を摩耗させつつも、それを否定するためであれ他者の文脈のうえで自分を動かすうちに、自分の意図しない自分がどんどんできてしまう。まさにトーン&マナーの一貫性を欠いた無数の自分のようなものが気がつけば自分のまわりにたくさんあることになる。

相手にはその自分が見えているが、自分だけがその複数の自分が見えていない。
その状態が『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシなのでしょう。

自分しか見ていないことで、カオナシとなる。しかも、その自分が見ているつもりの自分がただの土くれのフィクションだったりするのだから、結局は何も見ていないことになる。
自分のことしか考えないという人がいるが、不幸なのは、そういう人は本人が思っているのとは違い、実は自分のことさえ考えられていないということなのでしょう。

イメディアへの視線

自分はフィクションであるということを前提にすること。
そうすれば、過度に自分の意識の正しさを他人に押し付け批判することもないだろうし、タマネギをむくような不幸な本当の自分探しをすることも免れられる。

特にデジタルでバーチュアルなコミュニケーションにおいては、自分というフィクションをそこで作り出す場合でも、素材となる情報がすくなすぎる。「僕がライフスタイル研究会(仮)を立ち上げたいと考える理由」というエントリーで書いたとおりで、現在の仕様である限り、WebやITはインプットの面からみるとあまりに心もとない。

バタイユ/酒井健」で紹介したとおり、ジョルジュ・バタイユという思想家は、「物の力」「言葉の力」への警戒を指摘し続けた思想家でした。バタイユが「物の力」「言葉の力」と呼ぶのは、物事を人間的に固定化してみる際にたくさんの力を削ぎ落として作られるフィクションだとみていい。

バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように。イメディア(直接的な生の交わり)を欲しつつ、メディア(媒体・複製技術)の力を侮ってはいけない。夜のなかの生を語るバタイユの呻吟は私にそう教えている。

このバタイユのイメディアへの視線は、詩のことば、合理の言語で書いた「昼間の星を見る」視線に通じています。人間の合理の目で見るのとは異なる、より生/性に直結した詩の視線でみる。
それは意識の目にはひっかからない自分や他者を忘れないようにすることにもつながるのではないか。

メディア上のフィクションの自分(あるいは自分のなさ)に惑わされないためにも、自分自身の生活、人生、生き方に目を向け、バタイユのいうイメディアにも自分自身でこだわり続けることが必要なのではないでしょうか。
最近、そのことをよく感じます。

 

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2009年12月19日

自分自身を見つめ直さないとできない話がある

先日からはじめたライフスタイル研究会(仮)準備室
現在20名を越える方に参加していただき、活発にコミュニケーションさせてもらっています。

参加いただいた方から、さまざまなお話を聞かせてもらえて、ただ感謝するばかり。
僕も参加者のその気持ちに応えようと、こまめに返事を書かせてもらってます。正直大変ですが、まあ大変じゃないわけがないと腰を据えて臨んでいるので苦にはなっていません。

ただ自分でもびっくりしているのは、そうやって自分の生活や暮らしのなかのいろんな話を聞かせてもらい、それに返事をしようとすると僕のほうも自分の生活やこれまでの人生を見つめ返すことになり、すっかり忘れていた子供のときの記憶が思い出されたりする。
このブログでは書いたことがないような僕自身がそこにいて、とても新鮮。

この経験を通じて、いま学んでいることは、自分自身を見つめ直さないとできない話があるんだなということ。
他人の大切なものや残したいと感じていりものについて話を聞くとき、一般論や理屈で理解しようとしても仕方がない。そうではなく自分の生きてきた人生や日々の暮らしの感情をともなう記憶を見つめ直しながら話を聞かないと、相手が大事にしている感覚を感じとれないんですね。

これは普段たがいに知った者同士なら意識しなくても自然にできていたりするケースもある。それが自然にできるのは現に生活や仕事をともに体験しているからだったりする。
それをたがいに生活基盤や生きてきた人生も、過ごした時間も空間も異なる20人を越える人を相手にやろうと思ったら、普段使わない想像力をフル回転して当たらないといけない。
とにかく一般論や理屈をいくら言ってもダメで、とにかく自分自身の生活や人生に密着した具体的な物やエピソードをベースに話すことをしないと、足が地についた話にならず、生活や人生のなかの大切なものを他人と知らせあうなんてことはできないんですね。
これはかなり想像力を必要とするし、自分自身に対する目を意識しないといけなくて、かなり大変です。

まあ、それが感じられたのも普段から他人の生活を理解するという人間中心設計のアプローチで仕事をしているというバックボーンがあるおかげかなとは感じます。
ただ、そういう仕事でさえ、そこまでは使っていない想像力や自分自身の生活、人生、生き方を見つめ直さないと話もままならないという、あの準備室の場のディープさは貴重だな、と。

まだ、僕自身の対応がまずいためにギクシャクした雰囲気になってしまうところもありますが、それでもはじめてよかったと感じているし、協力してくれている参加者の方にはいくら感謝してもしたりないなと思っています。

2009年12月17日

思考停止というけど停止するのは半分だけ

昨日、自分自身でも思考停止ということばを使いましたが、あらためて考えてみると、思考停止というけど停止するのは半分だけだと思います。

つまり考えるほうは停止というか起動させないことができるけど、思うほうは停めるってのがそもそもできないんじゃないか、と。
考えるほうは意志がないと動かないけど、思うほうは逆に自分で意図しなくても自動で動いちゃう。その2つをひとつの単語として「思考」とするのは、あらためて考えてみると、おもしろい。

イメージとしては、思うというのは写真を撮るようなもの、考えるというのは撮影した複数の写真を整理したり編集したりすることなのかな、と。しかも、撮影のほうはある程度、自動シャッターだったり。
そういう自動で降りるシャッターの結果としての「思い」を思考ということばがあるがゆえに、「考える」という能動的な活動と混同してしまっていたりするのだろうか。

撮りっぱなしで放置された写真。
整理されたアルバム、編集された写真集や雑誌。
もちろん、素材自体の良し悪しもあるが、整理や編集という活動があるのとないのとでは違いは大きい。

思うとか、感じるとかいう反射神経的なもの。
ある意図に従って、その意図自体の存在を証明するための素材の整理、編集作業としての考えるという活動。

ともに頭のなかだけで行われる見えない活動であるがゆえに、その違いは見えにくかったりもするけれど、そこはやっぱり違うものとして理解しておいたほうが、なにかと有益なのではないだろうか。
※もちろん、そんな区分は単なるモデルであって、いくらでも両者の中間に位置するグレーなものはある。だけど、そんなことをいったら、そもそもモデルというものの意味を否定するだけだ。

2009年12月15日

僕がライフスタイル研究会(仮)を立ち上げたいと考える理由

ライフスタイル研究会(仮)準備室に多くの方から申請をいただいています。
こんなに多くの人に賛同いただけるのは予想外のことで非常にありがたい。

ただ、僕の最初の投げ掛けがあいまいすぎたこともあって、僕のイメージしているものと、申請いただいた方が期待するもののイメージにギャップがある場合もあって、大変申し訳なく思いながら、すでに何人かの方には申請を却下させていただいています。

ですので、もうすこしギャップが生まれないよう、あらためてここで、僕がライフスタイル研究会(仮)を立ち上げたいと考える理由について整理しておこうと思います。

WebやITの外へ

今回の研究会では、WebやITの重要度を下げた生活や暮らしというのを模索したいと思っています。
それは僕がWebやITに頼った生活はインプット
の質や量を下げるものだと考えていることによります。僕はWebやITはアウトプットの機会を得るには便利なツールだと思っていますが、逆にインプットの面をみると残念ながらあまりいいものとは考えていません。
人はインプットがないと考えることができない生物だと思いますが、その点でWebやITは思考の妨げになっている。ここを見直さないと新しいライフスタイルも何もないなと思っています。

というわけでWebやITで新しい生活を、という方には今回はご遠慮いただいてます。

ものをつくらない、できるだけ

今回の研究会では、なるべくものをつくらない生活ということも模索したいと考えています。
特に新しいものをつくるのをできるだけやめるためにはどうしたらいいかを考えたい。

その背景には上の話とも関連するのですが、生産より消費を重視したいという思いがある。言い換えればアウトプットよりインプット、ビジネスより生活です。
次々に新しいものをつくり出していく生活より、既存のものから次々に新しい発見をしていく生活というものが考えられないか。モノよりもワザ。脱イノベーション。脱進歩の螺旋です。

グローバルよりローカル

地域の差異をなくして平準化するグローバル化ではなく、地域の差異を価値として活かす道を探るというのもテーマのひとつ。

それには地域の歴史を知ることや素材やワザを見直すということも必要です。また、地域の祭や仕事そのものも考えていかないといけない。ハレとケ。

仕事と生活

仕事と生活が分離してしまっている状況というのも考え直したい。仕事は会社で、生活は家で、という働く場所と暮らす場所の分離、オフィシャルとプライベートの分離、さらに経済と文化の分離というものを、再び統合する方向性を模索したい。
教育と仕事の分離もそのうちのひとつ。寺子屋みたいなものが実現できないか。
また、今回の試み自体、会社で働く以外の方向性の模索だったりします。

進歩よりも持続性

ここまで書いたことにも重なりますが、新しく何かを生み出すことをよしとする経済文化から、既存のものを大事に維持して工夫して用いる経済文化への転換についても考えられたらと思っています。
完璧なものはなく、すべては欠陥品となる可能性をもっています。その新たな目でみた欠陥を改善し、新たなものを生み出すというのがこれまでの発想です。ただし違う見方をすれば欠陥は際限なく作り出せるのだから改善の試みに終わりはありません。それではいくらでも新しいものが必要に思えます。そんな作り物のニーズを追い掛け続けるのもいい加減よいだろう、と。せめて、そうではなくものの欠陥ではなく、ものの良さをきちんと見つめる目を育てる別の方向性も同時に存在してよいだろう、と。

以上が、僕がライフスタイル研究会(仮)を立ち上げたいと考える理由です。

2009年12月15日

続・ライフスタイル研究会(仮)

昨日、なんとなくアイデアベースで発信したライフスタイル研究会(仮)。

いろんな方から反響をいただいたので、 メンバー間のコミュニケーションや今後の方向性を探るディスカッションのために、 以下に準備室としてグーグルグループを作成しました。

http://groups.google.co.jp/group/life-lab

こちらの参加は自由です。
また登録したからといって、そのまま研究会参加ということでもありませんのでとりあえずどんなことをやるんだろうと興味のある方は登録してみてください。

なお、参加希望の際は、簡単で結構ですので、下記を記入ください

・本名またはニックネーム
・職業や所属(可能な範囲で)
・どんな仕事をしているか?
・なぜ参加してみようと思ったか?

ライフスタイル研究会(仮)という、これからの生活文化のあり方を研究し考えて、実現のためのモデルを提案していく活動をする(基本的には)非営利な組織結成のための準備室。

主軸にあるのは、地域性を活かした暮らしの提案や働き方、ものづくりの提案を企画し実現していくプロジェクト。
その意味では、研究会というよりはデザインプロジェクト。
ここは、そうしたプロジェクト開始の準備をするためのディスカッションを行う準備室です。


P.S.
すみません。主旨がうまく伝わっていないところがあったようなので補足です。
下記をお読みになって、それでも参加してみたいと思う方のみ、申請ください。

勉強だけが目的な方、好奇心のみで参加されている方は早めにご遠慮ください。
テーマを明確にしていないで登録してもらってあれですが、傍観者という形だけでの参加はご遠慮いただければと思います。あくまで「新しい生活のスタイルとは何か」「それを実現するにはどうすればよいか」の具体的な答えを探っていくのが目的です。
傍観した人向けには別途後日、報告用のWebサイトを立ち上げようと思いますので、そちらをお待ちください。
WebやITはテーマとしては扱いません。
当研究会ではWebやITをテーマとしては一切扱いません。 これは断言しておきます。ツールとしてWebやITを利用することはあっても、それで人々の生活をどうこうしようというのはテーマから除外します。そうしたものをデザインしたり、企画したりということを期待されている方は期待に添えないと思います。
ものづくりは二の次です。
どこかの時点でプロジェクトの成果物として、具体的なモノをつくるということはすると思いますが、基本的には「できるだけ新しくモノを作らない」というのをコンセプトの1つにしようと思っています。
ですので、ものづくりを期待する方の期待にも添えない可能性が高いと思います。それがストレスになってしまっても逆に申し訳ないので、申請はご遠慮いただければ。
本気です。
今回のプロジェクトは結構本気でやろうと思っています。「新しい生活のスタイルとは何か」「それを実現するにはどうすればよいか」の具体的な答えを探っていくことに関しては、 ゆるいスタートにはなると思いますが、いまのWebとかITの延長線上ではない「生活」というのを模索するつもりです。
またグローバルやユニバーサルというものに対しても、ある意味では対抗するものになるでしょう。そのキーワードの1つとして地域性というものをあげました。

すでに申請いただいた方にも、却下のメールを出させていただいた方も何人かいらっしゃいます。
はじめにきちんと主旨を説明せず、お手間を取らせてしまったことをこの場にてお詫びいたします。

2009年12月14日

円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」/M.H. ニコルソン

16世紀の終わりの日本で古田織部が沓茶碗で従来の茶碗のスタンダードであった円相を破壊したのとほぼ同時代、西洋では17世紀初頭、ケプラーが惑星の楕円軌道を発見し、西洋思想のスタンダードであった円環を破壊している。

後期ルネサンス期に芽生えた新しい科学の動向が人びとの考え方・世界の見方に与えた影響を、ジョン・ダン
ミルトンなどの17世紀英国の詩人や文学者の作品を読み解きながら考察する、M.H. ニコルソン『円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」』を読んで、僕の頭に浮かんだのはそうした東西の時代の符号でした。

東西でほぼ同時に起きた、円の破壊と楕円の登場。
いずれの世界においても、円は古くからの伝統的な思想を象徴し、楕円は新しい思想を象徴していました。円から楕円への移行は東西でほぼ同時期に起こった古い世界の見方から新しい世界の見方への移行を意味していたのです。

物活論(アニミズム)から機械論(メカニズム)へ

物活論(アニミズム)から機械論(メカニズム)へ。
人間と同様に地球や宇宙も生き物として捉えた円環の思想から、人間、地球、宇宙をそれぞれ異なるメカニズムをもって機械として捉えるようになった科学の時代へ。

そうした変化の動きのなかで、それ以前は区別のなかった詩のことばと科学のことばが分離していく。以前に「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」や「世界劇場/フランセス・A・イエイツ」でも紹介したように、古典世界を背負ったシェークスピア的な古代演劇そのものの世界を斥けるように、詩のことばとは異なる機械言語的な普遍言語の追求のこころみが1660年に誕生した英国王立協会(ロイヤル・ソサエティ)によって進められていく。その時代の変化を、ちょうど時期的にも重なる偉大なエリザベス女王の崩御とも重ねて、詩人たちは「世界の終わり」として描いている。

フランシス・ベイコンは『学問の進歩』のなかで、当時の「文学的」言語を、科学の伝達手段として用いることに異議を唱えた。ロイヤル・ソサエティは王政復古時代の初めに、それら2種類の言語の分離を促進させる計画を意図的に採用し、会員たち―その多くは文筆家だった―に「才人と学者の言語」を拝し「機械工と職人の言語」に倣って、より明瞭で単純な文体を用いるように勧告している。


そんな大きな時代の変化を「円環の破壊」というテーマから見事に描き出したのが本書で、これまた僕にとっては非常に興味深い一冊でした。

3つの宇宙

この本が扱うエリザベス朝の17世紀初頭の人々にとって、大宇宙(マクロコズム)である宇宙と、小宇宙(ミクロコズム)である人間は、ともに神がつくった同じ構造をもったものと考えられていました。「記憶術/フランセス・A・イエイツ」や「世界劇場/フランセス・A・イエイツ」で紹介したロバート・フラッドの代表作が『両宇宙誌』であうように、この時代、「小宇宙史」というワードをタイトルに掲げた書物が数多く書かれているそうです。
宇宙と人間が互いに連結しているだけではなく、さらにその中間には地球(ジオコズム)があり、3つの世界は照応性をもつものと信じられていた(考えられていたのではなく疑うことなく信じられていた!)のです。

僕らにとってはすでに当たり前のように、宇宙、地球、人体はそれぞれ違う構造で成り立っています。それを同じだとして疑わなかったのですから、とうぜん、そこには齟齬が生まれてきます。

宇宙的類推によってものを考える習慣は、今日私たちが知っているような科学の発展に、大きな圧力をかけていた。心理学は生理学のなかに組み込まれていた。医学は、医師たちが人体の構造を地球の構造との類推によって説明しようと試みている間中、ずっと停滞していた。同じく地質学も、人々が大地のなかに人間の歩みと歴史を読み込んでいる間、成長を阻まれていた。

大地を流れる川の流れと血液の流れを当時の人々はまじめに同一の構造であることをとうぜんとして捉えていました。それゆえに地質学者が川の流れを説明するのも、医者が血液循環を説明するのにも互いに足を引っ張る形になった。両者がたがいに同じ構造による流れ=循環であることを説明する方法が見つからなかったからです。当然ですよね、2つは違う構造なのですから。

完全なる円環

そんな彼らが神をあらわす最も適切な記号として考えていたのが、完全なる円環でした。詩人たちは、星々の動きに、地球の形に、人間の頭部の形に、円環を見出しては、それが完璧なる神の円環の写しであることを大いに歌い上げたのです。

彼らは円環と同様に「縮図」の観念を用いているが、これは神と宇宙と世界に対して人間がもつ関係について、彼らが抱いていた最も深い確信を表すものであった。実際、円と「写し」の観念は彼らの心のなかではしばしば一緒になっていたが、それは彼らがその両者のなかに3つの世界の相互関係を見てとっていたからである。

中世から17世紀初頭までの物活論の世界に生きる人びとにとっては、世界は生き物のようなのではなく、生き物そのものでした。地球や宇宙が生き物だというのは、詩人を含む当時の人びとにとって、喩えや表現ではなく事実だったのです。人も、地球も、宇宙も、すべてが神の写しであり、詩人が詩を歌い、画家が絵を描くのも、その神の似姿をさらに模倣することであり、いま、僕らが普通に考えているような創造とは異なる活動だったのです。

方法の自覚

それが科学によるさまざまな発見が既存の世界の秩序を破壊し、新しい秩序としての機械論的世界観で世界を描きはじめると同時に、地球も宇宙も生き物であることをやめ、冷たい機械へと変わり、神の神秘に隠されたものから人間が読みとき記述可能なものになります。

「新しい哲学はすべてを疑わせる」と17世紀初頭を代表する詩人のひとりであるジョン・ダンは書いています。神のつくられた完璧なる世界を信じ、それを模倣する方法から、デカルトの『方法序説』に代表されるような懐疑を根本におく「新しい哲学」が芽生えてきたとき、世界は懐疑によってそのメカニズムを読み解く対象になる。そこで人間は世界を模倣するのではなく、自身の内面で捉えたよりよい世界を実現するため、内部での思考を外部に実現しようと考えはじめたのです。

ケプラーの楕円軌道の発見に代表される当時のさまざまな科学の発見により、信仰の下に外部あった真理が、懐疑する内面によって乗り越えられる対象に変化したのです。それは神の似姿を模倣するという無自覚な方法から、人間自身が懐疑によって世界のメカニズムを読み解くという方法の自覚の芽生えでもあったのです。

記憶術/フランセス・A・イエイツ」、「世界劇場/フランセス・A・イエイツ」を紹介しましたが、いま僕の関心はヨーロッパのルネサンス期の思想の変換に向いています。すでにイエイツの『薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史』も読み終わり、続けてこのM.H. ニコルソン『円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」』を読んだわけですが、この17世紀から18世紀にかけての変化というのは今の時代の基礎を考える上でも非常に興味深いので、続けて小林章夫さんの『コーヒー・ハウス―18世紀ロンドン、都市の生活史 』を読んだりしています。
この時代に古代から連なってきたものがどう変化し、何が生まれたのかを理解できなければ、デザインなんてことを考えられるはずもないな、と。



関連エントリー

2009年12月10日

[アクセシビリティ][記事]ブラウザのナビゲーションをサイトマップで改善する。

先日、新聞社のナビゲーションで見るユーザビリティというエントリーの中で、id:kana-kana_ceoさんからこんなコメントをいただきました。

Web Design 早い話が、所謂ナビゲーションをコンテンツ部分に含めるべきではないということ。 / UA側で用意すべきなんだと思う。 / TVのさ、チャンネルやボリュームが、画面に生成されてて、各局独自仕様だったら使いづらいよ。

http://b.hatena.ne.jp/kana-kana_ceo/20090917#bookmark-16057232

確かにおっしゃることは一理あります。そこで、ブラウザのナビゲーションを考えてみました。

ブラウザがサイドバーでサイトマップを読み込む

f:id:aratako0:20091210184425p:image

行き着いたのがこんな感じ。だ、だめかなー。

sitemap.xmlなどをブラウザが読み込み、Windowsのエクスプローラー風にそのサイト構造をサイドバーに出力する。グラフィカルブラウザであればフォルダ・ファイルをクリックしてそのページに移動する。スクリーンリーダーであればフォルダ・ファイルを音声で読み上げ、該当ファイルでEnterを押す。

この機能によって、サイト内外を移動する際に、本文などのコンテンツ領域にあるリンク以外がサイドバーで操作可能なので、Webサイトのナビゲーションを取っ払うことができ、Webサイト自体が非常にシンプルなものになり得ます。

ただ、ご想像どおり問題点は山積み。

  • 大規模なサイトであれば迷子になってしまうかも。
  • 読み込むだけでも時間がかかりそう。
  • そもそもすでに似たようなアドオンやフリーソフトはありそう。
  • sitemap.xmlなどを用意していないサイトは対応できない。
  • Webサービスはどうしようか。

ただ、不可能ではないと思うし、アドオンであれば実現の可能性はあるはずなので、皆さんの突っ込みを期待したく、投稿しておきます。

2009年12月04日

疑う理由

信じる力」の続編として。

なぜ、疑うのか。
その理由は実ははっきりしている。

簡単な話だ。
それは他人やモノに頼ろうとするからだ。自分で責任をとるつもりがないからだ。

疑う理由

他人やモノに頼ろうとすれば、その対象が本当に頼れるものかどうかは気にかかる。対象となるものが信じるに足るものかと考えたくもなるだろう。

逆にすべて自分でやって自分で責任をとればいいと思えば、何も疑う必要などない。自分にできるかどうか不安になることはあるだろう。それがきっかけで自分の能力を疑いたくなることもあるだろう。だが、その場合でさえ、本当に疑っているのは自分自身の能力ではないはずだ。そのとき、疑っているのは、自分ができなかった場合、その結果を評価する他人の目を疑っているのだ。

つまり、疑うことの背景には自分が何を為すかより、他人やモノがどう手助けしてくれるかとか、自分がしたことを他人がどう見るかとか、そんな自分の責任範囲外の他人のことばかりを気にしている、ある意味、無責任で臆病で卑怯な姿勢が隠れている。

モノとワザ

信じるというのが、どこまでいっても自分の問題だというのは、相手がどうこうは関係なく、自分の分の範囲内できちんと自分の責任をとる覚悟で望むことこそが信じて何を為すかということだからだ。それを自分の分を超えたところを高望みし、足りないところを他人やモノの力に頼ろうとするから疑いたくなる。そうではなく、あくまで自分の分にそぐう働きをせいいっぱいやることに注力すれば、むやみにモノや他人に頼らずに済む。分不相応な高望みをしたりするから、得体のしれないものにすがりつくはめになるのだ。それでは疑いばかりが増えるのも仕方ない。

モノに頼って分不相応な仕事をしようと考えるよりも、自分のワザでなんとかなる範囲で仕事をしようという姿勢が世の中全体からなくなってしまっているからこそ、信じる力が急速に社会から失われていっているのだろう。

分を忘れる

問題があった時に、モノで解決するかワザで解決するか。

例えば、箸ではつかみにくい豆を食べるのに、箸の使い方をうまくするのか、豆を食べやすい箸とは別の道具を発明するのか。自分の仕事がうまくいかない時に、自分で努力してなんとかするのか、外部のコンサルタントに頼るのか。

ワザで解決しようと決心すれば何かを疑っている場合ではなく、自分を信じて努力するしかない。それを外に頼ろうとした瞬間、疑いの泥沼にはまる。もっといい方法、もっといい道具があるのではないかと考えだし、目の前の方法や道具の悪いところばかりが目につくようになってしまう。
その贅沢な欲望に終りはないし、そのうち、自分の力でなんとかするということ事態を忘れてしまう。それは自分の分を忘れることだ。ようするに自分を喪失することにほかならない。

分を知る

そうなると、もう疑うことはとまらない。唯一疑わずに、頼ることが可能な自分がないからだ。

完璧なものなど、この世にひとつもない。であれば、すべてが疑う対象になる。その悪循環を断ち切れるのは自分を信じることだけだ。
自分を信じることで道具や他人を信じることができるようになる。失敗を失敗ととらえずに、そういうこともあるものだと受け入れられれば、自分も他人も道具も責める必要はない。次にそれと違う結果になるよう努力や工夫をすればよいだけだ。そうした行い自体が分を知るということなのだろう。

そうした自分の分というものを個人から奪う方向にばかり進んでいる世の中に対し、良識ある大人ならNOというべきだろう。それをしないで自分たちまで他人やモノや方法などを疑ってばかりの大人が多すぎるからたちが悪い。

自分の人生を生きるためには、何より自分の分をわきまえることが大事だということを、大人は次の世代に伝えていく義務があるというのに。でも、いまの時代、その義務のある大人ですら、そのことを知らずにいるのだ。
これでは誰もが自分の人生を生きられないまま死んでいくしかないのだろう。



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2009年12月02日

[アクセシビリティ][記事]Review Web adaptability

Having finished reading the report of Web Adaptability Mr.Brian Kelly published, I am going to review it. What is Web Adaptability? At first, I could not understand exactly what we can do in Web Adaptability framework. Web Adaptability is not clearly def