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2009年10月26日

[アクセシビリティ][お知らせ]只今、「みんなの声で選ぶ!だれもが使えるウェブコンクール」市民モニター300名募集中です!

CMです[謎]。

だれもが使えるウェブコンクール

主催:NPO法人ハーモニー・アイ&だれもが使えるウェブコンクール

本コンクールは、利用者の視点で本当に多くの人々が使える、使いやすいウェブサイトを市民の皆様へもご参加いただき、共に「だれもが参加できる情報社会」を目指し開催されるものです。市民の皆様の声と共に実施する、新しいスタイルのウェブコンクールです。

障害者や高齢者も、情報社会の中で取り残されないよう使えるICT環境を整えていくのは今や、社会のインフラとも密接に関係する大切な課題です。

皆様自身の声を届けるチャンスです!ぜひ市民モニターとして、あなたも参加してみませんか。ご協力よろしくお願いいたします。

市民モニター募集詳細のページへアクセスしてください。

ぜひjunnamaさんのエントリーも読んでください!

特にWeb関係者(ってか、このブログを読んでいる方々はほとんどそうでしょうけど)の方々は、junnamaさんのエントリーを併せてお読みください。あ、あと、Twitterでご意見いただける方はぜひハッシュタグ「#daremoga」をつけてください。よろしくお願いします。

以下、CM続きます。

それとそれと!WordCamp Kyotoのスライドもいずれはサイトで公開されると思います!

あと、もっちーさん関西オープンソース2009で「アプリケーションのアクセシビリティ 〜WCAGからARIA、RIAまで〜」という内容でしゃべったりします(このページはhn要素とid属性を振ってくれればリンクしやすいのに)!ぼくもできれば一緒に話したいけど、今のところは未定です。

加えて、WCAG勉強会@関西も第2回目を企画中です!お待たせしまして、すいません!

というわけでまとめて宣伝でした。

2009年10月25日

持続性のデザイン

地域ブランディングということを考えはじめ、さらにこの先行き不透明なビジネス環境を思うに、自分たちの意思やビジョンをいかに持続させていくかが非常に重要になってきていると感じています。

これまでの考え方というのは、どちらかというと自分たちの将来をいかに実現していくかというところに重きが置かれていたのだと思います。将来のゴールを描いて、そこにどう到達するのかの戦略を考え、実行に移す。それはそれでこれからも必要なことだと思いますが、その際、視野にあまり入れることがなかった変化する環境のなかで、いかに自分たちの思いやビジョンを維持していくかというところをきちんと視野に入れて考え、実行する方法を模索する必要があると思います。

つまり、無常を前提としたうえでの持続性のデザイン。

持続性のデザイン

まぁ、いちおデザインといってみましたが、無常の環境のなかで自分たちも変化しながら、なおかつ自分たちの思いや意思を持続させていくという意味では、なにかシステムを固定させることとは根本的に違うので、デザインという領域は超えたところがあります。むしろ、1つ前のエントリー(「コンセプトワークにおける編集力」)で書いた編集ということばのほうがフィットする気もしますが、まずは求められる持続性を維持する方法の見取り図を作成するという意味ではデザインといっておきたい。

自分たちの思いや意思を持続させるためには、変化する環境、変化する自分たち自身を認めた上で、どう思いを持続させるかを考えなくてはいけない。経済環境は変わるし、文化も変わる。僕らは年をとるし、僕らとは違う思考や生活スタイルをもった若い人がどんどん社会に入ってくる。産業の構造も変化すれば、生活や仕事のインフラも変わっていく。企業ブランドであっても、地域ブランドであっても、そうしたなかで自分たちの思いを持続させ、かつ自分たちの生活そのものを成り立たせるにはどうしたらいいかということを考えていかなくてはいけないと思います。

サステナビリティとの違い

なので、これは従来のいわゆるサステナビリティ(持続可能性)とは、すこし違うところがあるのではないかと思います。いや、本来のサステナビリティの考え方は似ているのかもしれませんが、なんとなく今のサステナビリティの受容のされ方は、自分たちのいまや将来への見取り図を持続させるために、できるだけ周囲の環境には変わってほしくないという期待を込めて考えられているようなフシがあるからです。
いや、正確にいうと、時間によって変化する環境に思考的にどう対処するかというインタラクション的発想の思考ができないから、静止した時間のいま置かれた環境のなかで将来的持続可能性を云々してしまっているのではないかと思います。

すべてをシステム化、人工物化、情報化することで、自分たちはおろか周囲の環境まで完全に固定してしまうことで、自分たちのいまや未来を持続させようという、エジプトのピラミッド的発想では、僕が思い描いているような持続性は実現できないだろうと考えます。むしろ、20年に一度式年遷宮で生まれ変わることで持続性を維持する伊勢神宮のようなしくみが必要なんだろうな、と。それは折口信夫さんがいうような、祝詞によっていつでも原初の時空間に戻ることができるという古代人的思考のもつ特性を、持続性をデザインするうえで取り入れていく必要があるのだろうと考えています。

それは結局、情報というものをどう捉えるか。その情報技術の変革がキーになってくるはずです。いまの情報技術、システム論を超えたところで、持続性をデザインするための基本となる思想をつくる必要があるだろう、と。

持続性のための要件

企業にしても、地域にしても、無常を前提とする環境で、自分たちも常に変化しながら、自分たちの思いを持続させていくためには、すくなくとも、

  • 変化する外部環境といかに定常的なコミュニケーションを維持できるか
  • 外部環境の変化を内部に取り入れ、それに対するフィードバックを行ううえで、いかに性急な対応で自分たちの思いまで見失ってしまうことを避け、松岡正剛さんがいうような苗代で育ててから田圃に出すような対応ができるか
  • 外部とのコミュニケーションを維持できるな内部のしくみや、そのしくみを実際に動かす人材を確保できるか
  • そうした人材をいかに教育するか
  • はたまた、そうした人材が企業組織や地域に根付いてもらうための魅力的な経済文化をいかにして構築し維持するか
  • 人材の確保や定常的なコミュニケーションを可能にするための魅力をいかにして外部に発信しつづけられるか、その魅力をいかにして生産しつづけられるか

といったあたりは、きちんと考え、実現のための方法を模索していく必要があるでしょう。
そうでなければ、どんなに大切に感じていても自分たちの思いを持続させていくことなんてできないのでしょうから。

とはいえ、その前に前提として「自分たちの思い」というビッグピクチャが描けていなければ、持続もへったくれもありません。そもそも持続性うんぬんより、持続する価値のあるビッグピクチャが描けていないということが問題であることのほうが多いのでしょう。
逆にそうしたビッグピクチャがないから、教育や確保もふくめた人事戦略もおぼつかないし、それゆえ人は育たず組織は成長できないし、サービスや商品ラインナップ、ブランドポートフォリオをどうするかといったマーケティング戦略・ブランド戦略も描けないという状況に陥るわけです。1個のサービスや商品のコンセプトは描けても、組織全体のコンセプトを描けないんですね。そのコンセプトはビッグピクチャの一部となるわけですから、そりゃ持続性も何もあったもんではないんですね。

そっちもどうにかしていかないといけないですね。ビッグピクチャ絵画教室もつくりましょうか?

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2009年10月18日

コンセプトワークにおける編集力

昨日、紹介した『地域ブランド・マネジメント』という本のなかで、コンセプトづくりに関して、非常に納得のいく箇所があったので紹介しておきたい。なぜ、ここだけピックアップしてあらためて紹介しておくかというと、コンセプトづくりの過程において、まさにこうしたことができずにろくでもないコンセプトしか生み出せていない現場が多々あるように感じるからです。

地域ブランド・マネジメント/和田充夫ほか」で書いたように、地域ブランドのコンセプトをつくるためには、その地域の歴史や文化、産業、自然、生活インフラ、人びとのコミュニティなどの資産を収集・整理し、それが現在どの程度認知、評価されているかの現状を把握することからはじめます。つまり、これはブランドのコンセプトをつくるための素材を集める作業ですが、その集めた素材を使ってコンセプトを立ち上げる作業には素材をどう料理するかという編集力が問われます。

そのために、どんな資産に光を当てるのか。また複数の資産をどのように組み合わせていくのか。また資産を活性化するために新たにどのような要素を加えていくか、ついて検討していかなければならない。あたかも雑誌の編集者のような高度な編集力や展開力が求められる。そのようなプロセスを経て、コンセプトをもとにさまざまな資産が組み合わされていくことで、訪れる人々に対する体験がデザインされていく。

ここで素材としての資産をいかに組み合わせるかという点で編集力の重要さをあげている点に非常に好感をもちました。この本では地域ブランドのコンセプトづくりに関して書かれていますが、ものづくりのコンセプトにおいても同様です。そして、いまのものづくりにおいて欠けているものの1つがこの編集力です。

コンセプトというと、えいや!でアイデアを発想することだと思っている人が多いんじゃないでしょうか? コンセプトメイクの達人なら、それでできますが、凡人はもっと地道な編集作業を経てコンセプトメイクをするほうが結局は早道です。

編集的発想法

ものづくりの現場では、さまざまな調査をしているのに、その結果を実際のものづくり・開発に活かすことができないということがよく見かけられます。これはまさに編集力が欠けているのを如実に示しているものと思われますが、集めた素材を使って1つの明確なコンセプトにまとめあげることができないんですね。

それができない理由は素材を単純に組み上げる発想しかできず、素材を組み合わせることで新たなものを生み出す発想の仕方に慣れていないからです。素材そのものを固定した形でみてしまうから、素材同士の重なりから別の何かが生まれてくることを感じとって掴みとることができないのです。

そこが非常に重要だと思っているので、『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』では、KJ法やアブダクション、アナロジー思考という言葉を使って、複数の素材を動かし組み合わせながら新たなものを生み出す編集的発想法について詳しく紹介したのですが、そのあたり伝わっているでしょうか。

簡単にいえば、アナロジー思考をする際には、おおよそ、こんなことが起こっていると考えてもらえればいいと思います。
蒐集する
何らかの物体やイメージを自らの好奇心の働きに従って〈そこ〉に持ってくる。
モデル化する
物体やイメージを並べてみることで、それらを〈そこ〉に持ってきた基準に気づく。
それらが〈そこ〉に集められ並べられた基準である型やしくみを図式としてモデル化する。あるいは身体を使って体験的にシミュレーションする。
編み上げる
図式を使ってモデル化したり体験的にシミュレーションしたりすることで得た知恵をもとに〈そこ〉にある物から〈そこ〉にない物を想像する。コレクションのネットワークを広げていく。

みてわかるように、これもKJ法の作業ステップとあまり変わりません。結局、デザイン思考の仕事術でこれまでにない発想を生み出そうとすれば、努力してさまざまな知識・情報を集めておくことが必要ということです。素材がないところには発想も生まれてこないんですね。

この蒐集~モデル化~編集という作業プロセスが、編集的発想法の基本です。

一緒に掴む

ただし、調査によって素材を収集することはできても、そのあとのモデル化~編集ができないことが多いのが現実です。KJ法をやってもらっても単なる分類になってしまって、そこから新しい発想が生まれてくることが稀です。モデル化にあたるKJ法の段階でそれなのですから、その後の編集の段階で発想が展開していくこともありません。コンセプトワークの弱さがそこに見てとれます。

『地域ブランド・マネジメント』の別の箇所でも、コンセプトに関して次のように書かれています。

哲学者の中山元によると、コンセプトの語源は「一緒に掴む」という言葉から派生しており、さまざまな事象から共通点を掴み取り意味を見出していくことだと言う。しかし、単に事物を共通のものにまとめていくのではなく、まとめていく中でその背後にある本質な意味を見出していくことである、と述べている。

そう。単に共通点をまとめていく分類的思考では、コンセプトというのは生まれてこないんですね。素材それ自体には見えていない潜在的な本質を素材同士を組み合わせるなかで見つけていく。そんなアナロジー思考によるコンセプトづくりこそが必要なんです。

素材やデータを裏切る

素材を組み合わせながら編集的にコンセプトを生み出していくという場合、パズルのように、あらかじめ完成形が決まっているわけではありません。そこには創造性が必要です。

そこには見えていないものから新しいものを創造しようとしたら、みえている素材やデータを時には裏切ることも大事です。表ばかりをみるのではなく、裏をみる。当たり前に落ちっていしまうのではなく見方を変えて素材をみる。裏切るというのは素材を無視するのではなく、素材をよく見ながらも自分の見方を変えていつもと違う素材の表情を引き出すということです。

そうしたなかで集めたデータや素材のいつもと違う表情を、素材やデータの組み合わせのなかで見出していく。そうした編集的発想作業をコンセプトづくりのキモです。
結局、これをやらずに、実際のものづくりや施策の実行に入ってしまうからつまらないもの、成功の見込みのないものしか生まれないんですね。

もっと編集ということを大事にして、各自が自身の編集力を高める努力をしていかないといけないんじゃないでしょうか。

 

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2009年10月17日

地域ブランド・マネジメント/和田充夫ほか

僕が最近、自分の今後の仕事の方向性として、これまでの企業向けのブランディングやユーザー中心デザインの延長として、地域のブランディングに力を入れていこうと考えていることは、昨日の「地域というインターフェイス」で書きました。それは「在り続けてほしいもののために、僕ができること」を書いた前後からずっと考えてきたことの1つの答えでもあったりします。

そんな思いから読んだのが、この『地域ブランド・マネジメント』

この本では、第1章で「地域ブランド・マネジメントの視点」として、本書が従来、地域の名産品をブランディングする方向で進められることが多かった地域ブランディングというものを、単に名産品を売れるようにするだけではなく、実際に人がその地域に来てくれる、その地の人と交流したい、実際にその地に住みたいところにまでもっていき、真に地域が生活、仕事の場として活性化することを地域ブランディングとして考え、そのためのマネジメントに必要とされる視点をはじめの1章でまとめています。
単に売れる商品をつくるのではなく、持続的にその地域が活性化するようなブランディングというのは非常に共感できますし、東京一極集中のあやうさはこの上なく感じていますので、道州制のように地域の自立性をなんとか実現していかなくてはいけないと考えます。その意味では、この本で「地域ブランド」と名づけられた地域を生活の場、仕事の場として再活性化する方法論やその実践の事例は非常に興味深く感じられました。

地域ブランドの計画プロセス

その具体的なマネジメントの方法は、第2章で「地域ブランドの計画プロセス」として紹介されています。地域のブランディングといっても、大枠のプロセスは企業におけるブランドのマネジメントとおなじものですし、しいてはデザイン思考のプロセスともほとんど重なっています。

つまり、はじめに現状把握として、内部的な資産(シーズ)の掘り起こし・棚卸と外部のニーズの把握、そして、現状での自身のブランドの評価を競合する地域との比較なども含めつつ確認する。そうした現状把握の作業を並行して、地域のブランドのあるべき姿や目標設定の作業を行う。

この現状とあるべき姿のギャップを埋める作業が具体的なブランディングの活動であり、それをどうやって埋めるかを考える際のベースとしてブランド・コンセプトを開発します。これは地域ブランドのあるべき姿を明確にしていく作業です。その地域がもっているブランド資産(あるいは、ブランド資産になりうる素材)と外側からのニーズ、ウォンツをいかに組み合わせて、その地域の独自性をもった魅力を組み立てていくか。これはまさに商品開発のプロセスにおけるコンセプトづくりと共通するものですね。本書では、地域ブランドのコンセプトを組み立てる際に、体験価値(来てもらっての体験、交流での体験、住むことでの体験)を重視することの大切さが示されています。

コンセプトが明確になれば、そのコンセプトを実際に具現化し実現していく活動の段階に移ります。どうした表現をともない、どういう活動によって実現していくか。本書では、その際に、ゾーニング、コミュニケーション、アクターという3つの領域で、きちんとブランディング活動の戦略を決定し実行していくことの重要性が指摘されています。

地域ブランド・マネジメント活動における3つの戦略

この実現のところが企業のブランド活動でもむずかしいところですが、地域ブランディングの場合はそれ以上にむずかしいところなんだろうなと感じます。現状把握をしてコンセプトを組み立てるまでは、経験やセンスやノウハウや意欲があれば、なんとかなりますが、それを実現していくというのは、ブランディングに関わる人たち全員で足並みを揃えて力をあわせていかないとできない作業だからです。

そうした意味でも、本書では、第5章で「ゾーニング戦略」、第6章で「コミュニケーション戦略」、第7章で「アクター戦略:担い手づくりとコミュニティの役割」として、ブランド・マネジメントを行う地域の領域をどう定義するか(ゾーニング)、コンセプトを具現化した地域の体験をどのようにターゲットとなる人びとに伝えていくか・感じてもらうか(コミュニケーション)、ブランディングの活動をどのような人びとがどのような役割分担をしながら実施していくか、また、そのコミュニティをいかに作りあげるか(アクター)の3つの領域に分けて、それぞれの戦略(成功のための仮説)をさまざまな地域の事例をみながら考察しています。

この3つのうち、コミュニケーションに関しては、企業におけるブランド・コミュニケーションとさほど大きな違いはないかなと思っています。体験価値や積極的な参加を重視するというところが地域ブランドではより重視されるということでしょうか。いずれにせよ、きちんとPRやWebを利用して地域の魅力を伝え、実際に来てもらった人に魅力を感じるおもてなしを行う。これは僕自身が得意とする領域であることもあって、あまりむずかしさや新しさは感じませんでした。
ただ、他の2つ―ゾーニングとアクター―に関しては、地域のブランディングならではのむずかしさがあると感じました。

ゾーニングとアクター

特にどういうエリアに区切って地域ブランディング活動を実施するかはむずかしい。なぜなら県や市区町村のような行政的なエリア区分が必ずしも、ブランド・マネジメントを推進するにあたって適切なエリアの区分とはなりえないからです。地域ブランディングにおいては地域のブランド資産として、その地域の歴史やそのなかで培われた文化が重要な要素になることが多いのですが、問題はそれが明治における廃藩置県で歴史や文化的なつながりを無視してエリアの再定義が行われてしまったために、行政エリアとそれらの資産のあいだに不一致が生じてしまっていることです。地域ブランディングにおけるゾーニング戦略においては、そうした行政エリアの制約をいったん超えて、ブランドという視点からゾーニングを再定義していくことが必要になる。

ところが、これがアクター戦略をむずかしくさせます。行政エリアを超えたり、逆に行政エリアのごく一部を対象にするとなると、行政主導でブランディングを進めることがむずかしくなるからです。そうなると、別の活動主体が必要になる。アクターとしては、必ず活動をリードする役割とそのリーダーに協力して活動を行う人たちのコミュニティがなければ、活動の推進はむずかしいわけですが、このアクターたちのコミュニティを実現するのは、それこそむずかしいだろうな、と。ここだけは単純に外側からのサポートだけではむずかしく、その地域に暮らす人びとの自主的である部分では自己犠牲さえ伴う行動がなければ、実現できないだろうな、と。

といった、むずかしさは多々感じたものの、むずかしそうに思えるからこそ、ぜひ取り組んでみたいと思えました。その意味で、非常に参考になった1冊です。



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2009年10月16日

地域というインターフェイス

最近、地域ブランディングに興味があります。興味があるというか、その活動に仕事として関わっていくことはできないかを検討しているという状況でしょうか。

もともとブランディングは、得意分野の1つです。人間中心設計とかペルソナとか以前は、そちらのほうがメインだったわけです。
ただ、人間中心設計やデザイン思考という仕事の仕方の経験を経て、おなじブランディングでも人びとの生活スタイルやその基盤をつくるという意味では、企業におけるブランディングより、人びとが生きる環境としての地域のブランディングに目がいくようになりました。

マーケティングは売れる仕組みづくりというのに対して、ブランディングは売れ続ける仕組みづくりだといわれます。そのブランディングの対象を企業から地域に移すと、「売れ続ける」だけではなく、「何度も訪れたくなる」「住みたくなる」「働きたくなる」といったところに目的も移ります。つまり、単に経済的なことだけが目標ではなくなり、経済と文化をともに豊かにするためのブランディングという活動になるのだと思います。

経済的な豊かさだけでは満たされなくなってきているというのが、いまの社会的な価値観の変化傾向でしょう。その意味でも人が生きる場としての地域をいかにブランディングし、「何度も訪れたくなる」「住みたくなる」「働きたくなる」場にするための方法論の確立と実践は社会的にみても大きな課題ではないかと思うのです。

地域というインターフェイス

地域は、人がそれぞれの人生を生きるため、実世界に接する際のインターフェイスだと僕は考えます。インターフェイスがあることではじめて、人は世界と、他の人びととコミュニケーションができる。交流がはかれる。そういうコミュニケーション・交流がうまくまわり、豊かに生きるための経済が、文化が活性化する仕組みとしての地域ブランディングを、インターフェイスデザインを中心としたシステム設計としてやっていきたい。そう考えると、僕自身がこの数年やってきたことを活かせるだろうなと感じるのです。

地域というインターフェイスを介して機能する経済と文化のシステムをどう構築し運用するか。それはこの数年取り組んできた人間中心設計やデザイン思考の方法論を活かせるし、もちろん、それ以前から続けているブランディングやマーケティングのノウハウも活用できるだろうなと思います。
例えば、『地域ブランド・マネジメント』という本では、地域ブランドのキーとして、いかに体験価値をつくりだし、それをターゲットとなる人びとに対してコミュニケーションしていくかが大事だと書かれているが、それこそエクスペリエンスのデザイン、そして、Webを中心としたPR、コミュニケーションの世界で仕事をしてきた僕にとっては非常に馴染みの深いものだったりする。

東京など、ごく一部の地域を除けば、日本全国ほとんどの地域が流入より流出の数が上回っており、かつ高齢化によって、どんどん地域の生産力を落としているのが現状です。とうぜん、生産力がおちれば経済は立ち行かなくなるし、経済がまわらなければ生活にも支障をきたし文化も失われていきます。そういう地域が多くなればなるほど、日本の多様性は失われていく。それはちょっとまずいな、と。そう思うのが、地域のブランディングをやってみようという理由の1つです。

経済と文化の分離

また、地域のブランディングをやってみようと思う別の理由としては、やはり経済的な裕福さではだめだと気づいた社会的風潮の変化もあります。経済的な豊かさだけでなく、文化的生活、精神的な豊かさを求める傾向が強くなっている。消費も憧れから共感へとシフトし、仕事をするうえでもライフワークバランスというキーワードが生まれていたりもする。そうした傾向と、地域ブランディングが目指す仕事と生活の場として地域を活性化し、地域ごとの特色を取り戻していこうという方向性は非常に相性がいいとも思っています。大企業による画一的なマーケティングによって生み出される商品やサービスばかりの市場にも飽き飽きしている人が多い中、さまざまな地域がそれぞれ特性をもった商品を生み出す力を取り戻すことで市場も活性化し、日本全体でみても経済は上向くのではないかと思います。もちろん、そうして生み出した商品は何も日本という市場だけをターゲットとするだけでなく、世界に向けて発信していけばいいでしょう。

ただし、そうはいっても経済と文化が分離してしまっているのが現在の世の中です。象徴的なのは、家庭と職場が別の場所にあることが当たり前になっていることでしょう。経済の場としての職場と文化の場としての家庭といえば聞こえがいいのですが、本来一体となってはじめて正常に機能する経済と文化が場として切り離されてしまえば、双方ともに機能不全を来してしまっている。それが現状でしょう。

経済と文化の壁を打ち崩す

ただし、それは昔から当たり前のことでは決してなく、すくなくとも江戸時代までは職場と家庭はひとつ屋根の下にあるほうが普通だったことを思い起こす必要がある。それは日本に限らず、西洋においても家内制手工業が主流だったころ、職人などの工房があった頃にはそちらのほうが普通だったことを思い出さなくてはいけないでしょう。

経済と文化が場として切り離され、それぞれに支障を来している現状を打開するためにも、職場と家庭の壁をもう一度打ち崩していかなくてはいけないでしょう。ライフワークバランスではなく、むしろ、ライフとワークを完全に違うものとは捉えない思考こそが必要です。それは作り手と買い手がいっしょになって作るということでもあるでしょう。

それによって実はいまのようにうるさい個人情報保護や企業内情報のセキュリティなども、そもそも意味が薄れてくるはずだとも思う。実際、先の『地域ブランド・マネジメント』には、有名な小布施栗を名産とする長野県小布施町の小布施堂という栗菓子製造会社が、工場の増床が必要になったときに、あえて郊外に工場を移すことなく、街中にあった工場を増床し、その際、工場の塀を取り払い壁をガラス張りにしたことで、地域の住民や観光客が気軽に工場のなかで人びとが働く姿がみられるようにしたという事例が紹介されています。それによって住民は自分たちの生活を栗菓子製造工場が支えていることを実感し、観光客も作っている過程を見られることでお土産に買っていくようになったといいます。

家庭と職場をいっしょにするところまで一気にはいかなくても、すくなくとも住宅街とオフィス街のようなゾーニングはこうした事例も踏まえて見直していく必要があるのかもしれません。

人間自身の生活、生き方、そして、生命としてのあり方を提案する活動として

こうしたことを考えると、結局、地域ブランディングとは『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』で書いた「デザインとは、人間自身の生活、生き方、そして、生命としてのあり方を提案する仕事」ということの実践にほかならないなと感じるわけです。
その意味でも、ぜひこれをやらなくてはと思うのです。
まぁ、もともとUIだとかWebだとかより、民藝などが民俗学などが好きなわけで、地域ブランディングみたいなもののほうが自分の好みや嗜好にもあっているかなとも思いますし。

今後はこのテーマでしばらく考えを進めていきたいと思っています。
ぜひ、このブログを通じても、いろんな方とこのテーマを深めるコミュニケーションができ、より具体的な活動へと結び付けていくことができればなと希望しています。
ですので、この件に関しては、どんどんコメントをいただけると嬉しいです。

 

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2009年10月15日

方法だけではどうにもならない

「例えば、フォトショップで画像の青みを消す方法を覚えたとします」と彼女は言いました。
昨日のある場所での話のなかででてきた言葉です。教育とか学習に関する話。彼女はこう続けました。
「でも、仕事に戻って、学んだ方法を役立てようとしても、画像をみて青みがかってることに気づかなければ、せっかく学んだその方法を役立てることはできない。誰かに青みがかってると指摘されなければ、自分では学んだ方法を使うことはできない」と。

まさにそのとおりです。問題解決の方法は、そもそも問題を発見する力がないと役に立ちません。彼女は「弁別」という言葉を使いましたが、違いを見分ける目、問題を通常の状態から切り離すことができる目がなければ、どんなに問題解決の方法を学んでも、それを使う場面は訪れません。

方法だけではどうにもならない

ペルソナやシナリオを用いた人間中心設計の手法でも、ユーザーインターフェイスやWebサイトのデザインにおいては必須と思える情報アーキテクチャのデザインにおいても、状況はまったくおなじです。
方法は知っていても、そもそも人間の感情や行動の違いや、情報アーキテクチャがきちんと設計されているUIとそうでないUIの違いが見分けられないと、方法は役に立ちません。

問題の解決の方法は教えられる。問題発見に関しても、観察方法、インタビュー方法、そして、調査結果を分析する方法としてワークモデル分析やKJ法といった方法は教えられます。でも、おなじものを観察するのでも、おなじデータを分析するのでも、みえていないものは、どうにもできません。じゃあ、みえていないものをみえるようにする方法があるとそればっかりはないと言ってしまっていいと思っています。すくなくとも、学校や教育の場で教えられるような方法はないんじゃないかと感じてます。

とにかく自分の好きなもの、気になるものにのめりこむ

では、そういう見る目を養うような方法がまったくないかというとそうでもないと思っています。

これはまた別の機会に、他の方と話したことですが、自分で違いを見分ける目、違いを感じる感覚を養うためには、やはりその人の自身の選択で痛い目をしながらも、自分で経験するということをとにかく数をこなすことをすすめます。

買い物をする、旅行に行く、気に入ったものを使い倒す、気になることをとことんやる。その際、他人の評判に耳を傾けてもいいんですが、その評判を鵜呑みにせずに実際に自分で体験してみて、自分がどう感じるかをちゃんと考えるようにしなくてはいけません。

これ、努力とかどうこう以前に、好きなことをとことんやるということです。貯金なんてしてる場合じゃない。身銭を削って好きなものを浪費し、その浪費のために必要な時間をこれまた浪費する。しかも、心底、自分で楽しみながら。その浪費への集中力が高く、浪費のスピードは早ければ早いほどいいと思います。「あとでやる」「あとで読む」「あとで買う」なんてのは論外でしょう。やるかやらないか取捨選択してるひまがあったらやってしまう。そういう夢中になる感じがないと、見る目というのは育ってこないと思っています。
ちゃんと浪費しまくって碌でもない人生を歩んだ時間がないと、まともな物事を見る目って育たない。これは断言できますね。

みえていないものはデザインしようがない

でも、それ自体ができない人が多いんですよね。身体で反応する前に、頭で考えてしまう。

しかも、見る目がなくて物事の表面しかみえないので、裏側の構造だとか、情報や感情のダイナミックな動きとかはまったくみえない。なので、構造はぜんぜん別なのに表面だけ似ているものをおなじと思ってしまったり、本当は構造的にほぼおなじなのに表面が違うとその類似に気づかない。つまりパターンが見えないということ。りんごが木から落ちるのと太陽と地球の関係の類似に気づくなことなんて到底ありえないんですね。

日本における各種ソフトウェアのユーザーインターフェイスやWebのデザイン、それからインタラクションのあるデジタル機器のデザインが問題だらけなのは、まさにそうしたところに起因するものが大きいのかなと感じています。とにかく日本のそれらのデザインには、ほとんど情報アーキテクチャという観点がない。一部のWebにみられますが、それは誰かがつくったものに手を加えてるだけで、1から新しいものをデザインしなくちゃいけなくなったら、情報アーキテクチャを組み立てられる人が日本に何人いるかはほんと疑問。

とにかく表面だけしか見えてなくて、その裏側の情報の動きや、人とUIのインタラクションの流れ、あるいは、そのインタラクションを受けた人の感情の変化などの関係がまったくみえないんだろうな、と。もちろん、みえないものはいくらデザインの方法を知っていても、適切なデザインなんてしようがありません。だから情報システムであるはずのものをつくっているはずのに、粘土をこねたりスケッチするような方法でしか、デザインという作業ができないのかな。うーむ。

このへん、いったい、どうしていったらいいのかな?というのが考えどころ。
まぁ、結論としては、そうは言ってもごくわずかながら見えている人はいるので、その人たちにまかせておけばよいかな、と。格差社会ということで、それでよいのかな、と思ったりもするのです。
(と、投げやりなことを書きつつ、自分でわからないことはしつこくこだわるタイプなので、今後もこっそりどうにかする方法を考え続けるんでしょうけどw)



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2009年10月11日

欲望を知る

自分が欲しいものがわかっているか。自分がやりたいことがわかるか。
このことが売れるものをつくること、ビジネスを成功させるうえでの最低限の条件ではないかと思うのだけど、どうだろう?
ちゃんと自分の欲望に気づく感受性を養えているだろうか?

自分の欲望に気づく感性を持ち合わせていないのなら、他人の欲望を理解することがきわめてむずかしいはず。他人の欲望を解せず、他人にものを売ることは困難だろう。他人が欲するものをつくることはできないだろう。

自分の欲しいものがわかっているか。自分のやりたいことがわかっているか。
それができていないのなら、ものづくりはできない。ビジネスを創造することもできないだろう。

ものをつくり、売るための想像力が欠けている

ものを売ることから体験を売ることへ。そんな風に言って、自分が欲しいものをわからずにいる事態を誤魔化してもしかたがない。ものあまりの世の中だから、もはや欲しいものはないなどと言ってみても、では、どうやってあなたの商売を創造するのかと言われたら終わりだ。

欲しいものがないなら創造するしかない。そして、欲しいものを創造するためには、少なくとも自分が何をどうしたら欲しくなるかを理解していなくてはいけないだろう。それができてはじめて人が何をどんな風に欲しくなるかを想像することができる。その想像がはたらかなければ、マーケティングやものづくりにはならない。

その想像力が欠けているから「ねぇ、自分でちゃんと使ってみた?」で書いたような事態が生じるのだ。開発体制が複雑だからでも、上司がわかっていないからでもない。そもそも、ものをつくって売るということがどういうことか。自分の欲望に照らし合わせて感じて考えることができなくなっていることがもっと根本的な原因としてあるのだ。
それが欠けているから、最終的に出来上がったものがどうあるべきかをイメージできず、ちとりあえず出来上がったものが最終成果だと誤解してしまうのだ。

物事を他人のレビューをみて評価することはできても、自分自身で評価することができない。自分でやることでもどこかテレビをみているかのように傍観者的にみてしまいます。
それで他人事のように自分はダメだと嘆いたりします。どうもみていると、そういう人は自分自身の思考(ことば)と行動(身体的感覚)のギャップに気づいていないように思います。

あなたは自分がつくっているものがどうあるべきかをわかっているだろうか。
なぜ、それが売れ、なぜ、それが使ってもらえるか、そして、それにはあなた自身が、組織が何をするべきかをわかっているだろうか。

やりたいことをやりたいと主張できているか?

組織が外部から評価されるようになるためには、組織ではたらく個人ひとりひとりが自分がやりたいと思うものをしっかりもつ必要がある。やりたいことをもつだけでなく、それを個人がきちんとやりたいと主張できるようになることが大事だ。組織内部に対しても、外部に対しても。

自分はこういうものが欲しくて作りたいと思うもの。こういう風に仕事をやってみたいという方法。この人とこんな仕事をしてみたいという相手。そういうやりたいことが見えているか。そして、それを組織内部の他の人間や、外部の人間に対して伝えられているか、主張できているか。

何をしたいのかわからない相手に、人は魅力を感じにくい。
それは個人が対象でも、企業や商品・サービスが対象でもおなじ。相手が何をしたいのか見えなければ、何も頼みようがないし、どうコミュニケーションしていいかさえ困ってしまう。いずれにせよ、何をしたいかわからない相手には、その相手に接する側のほうが気を遣わなくてならない。とうぜん、よほど気を遣う価値があると思える相手でなければ、継続的に気を遣いつづけること不可能だろう。つまり、気を遣って世話をするのにも賞味期限があるということだ。それを過ぎれば、だんだんと気を遣われずに放置されることになる。

自分のやりたいことに気づいているか?

一方、気を遣われる側―自分が何をやりたいかを示せていない側―は、相手が自分に気を遣って接してくれていることにちゃんと気がついているか。その気づきがあるかないかで大きく違う。気づいていれば、少なくとも自分でどうにかしようと気持ちにもなるから、まだ救われる見込みはある。自分で具体的な行動をとって自分の欲望を見つけ直すようにすればいい。何もむずかしいことをする必要はない。欲しいもの、やりたいことに臆せず手を出せばいいだけだ。

ただ、まわりが自分を世話してくれているから、なんとか自分が成り立っているということに気づいていないとしたら、これはかなり危うい。おそらく、多くの大企業が陥っているのは、そういう症候だろう。自分が何をやりたいか、何が欲しいかわからないもの同士が、傷を舐めあってしまう。それはそれで心地好かったりもするので、自分が他人に与えられたものでしか自分を満たせていないことに気づかない。気づきそうになっても目をつぶることができてしまう。日々を調整や会議に追われているだけで、自分が何も生産的な仕事に関われていないことにさえ気づいていなかったりもする。とうぜん、そうした環境からは、売れるもの、人が欲しがるものは生まれてこない。

やりたいことをやりたいと主張する

ただ、他人が世話をしてくれる、気にかけてくれるのは、若いあいだだけだ。歳をとるごとに他人は世話を焼いてくれなくなる。しかも、自分の側でも目新しい物事に出会う機会は減る一方だから、やりたいことや欲しいものに出会う確率はどんどん減っていく。そうなったときに、自分から積極的にやりたいこと、欲しいものを見つける力をもっていない人はつらいだろう。先にも書いたとおり、それでは他人が欲するもの、やりたいことをつくっていくことができず、ビジネスに貢献できないからだ。若いときなら育ててどうにかしようと気にかけてくれる人も、ある程度、歳をとった相手にはなかなかそういう手間もかけてくれない。

そうなる前に、普段からやりたいことをやりたいと主張しておくことが大事だ。社内で、そして、会社の外の世界に対して。やりたいことをやれるようにするためには、その前にちゃんとやりたいと主張する必要がある。もちろん、主張しても必ずしも、やらせてくれるとは限らない。それはそれでいいのだ。そしたら、別のやりたいことを見つければいいし、粘って違う主張の仕方でやりたいとしてみてもいい。とにかく1回の主張で、自分のやりたいことができるなんてことは稀だ。相手がやらせてくれるのは、熱意が伝わるか、そのやりたいことに明らかにメリットがある場合だ。いずれにかける努力がなければ、やりたいことはできない。

ただ、できなくてもやるしかないのだ。やらせてもらえないなんて言って他人のせいにしたところで、やってないのは自分自身だ。そんな風に他人のせいにして自分を誤魔化す前に、ひたすら努力して、相手がやらせずにはいられないような、その分野の権威になるくらいになるつもりで、ひとりでもやればいいのだ。

本当にやりたければ、そんな苦労も大したことではないはず。ひとりでやり続けるのは多少は努力が必要でも、楽しいはず。やりたいことなら楽しいに違いない。
やりたいことをやるべきなのは、それが楽しいことだからでもある。楽しさを知ることが必要なのだ。楽しさを知らなければ、それを相手にも伝えられない。相手に伝わる楽しさを知らないから、うまくいかないのだ。楽しさを知らずにマーケティングやら、ものづくりをしているつもりになっているから、どんどん、そのビジネスはシュリンクしていっているのではないだろうか。



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2009年10月07日

ねぇ、自分でちゃんと使ってみた?

いやー、久しぶりにいくつかのケータイの最新機種をちょっと評価するために触ってみたけど、予想以上にひどい状況でした。

特にタッチパネルのついた機種はひどかったですね。使いにくいどころか、使えない機能がある機種もちらほら。
まさに、料理は運ばれてきたけど、「あのー、箸はないんですか?」という感じで、機能は目の前に提示されてるけど、肝心の操作方法がない。仕方なく隠れている通常のボタンを出して、これまで通りの操作をするという具合。
それって売っていいんでしょうか?と思うものもありました。どこのどの機種とはいいませんが。

そこで思うのは、これって売りだす前に実際に誰か使ってみたりしてるんでしょうか?ということ。
それくらい、専門家評価(例えば、ヒューリスティック評価)以前のユーザビリティ上の問題が山積みになっているのが現在の日本製のケータイの現状だったりするようです。残念。

ねぇ、自分でちゃんと使ってみた?

自分たちで作ったものを実際に使ってみる。それって、ものづくりをする人たちが最低限やることなんじゃないんですかね。意図した機能が実際に操作できるかどうか。箸がなかったら料理が食べられないくらいのことは、やってみればわかるんですから。

いや、もしかしたらやってるつもりだけど、そもそも前提とする操作方法がおかしいのかな? いや、箸がなきゃ食べられないのがわからないという想像力のなさというのはいくらなんでもないでしょう。
大抵のメーカーさんって品質保証に関するISOを取得していると思いますが、そのあたりの検証はないんですかね。それとも、それは仕様だからスルーなんでしょうか。

いやいや、そんな検証うんぬんではなく、ちゃんと設計した人が自分自身がユーザーになったつもりで使ってみるのが先決でしょう。

そのタッチパネルでWebの閲覧できるの?
そのサムネイルが並んだ状態で必要な写真を見つけられるの?
そういう最低限、ケータイでやることができるかどうかを自分でちゃんと試しているんでしょうか。そんな疑問を感じるくらい、ちょっとまずい状況。なにしろ基本操作がおぼつかないのだから。

他人に評価をたのむ前に、自分たち自身で評価してみるほうが先決です。そうしないと絶対によくならない。自分たちで自分たちのつくったものに触れ、自分たちで頭を使って評価する。それをやらなければ、いくら他人の評価を聞いても、そんなの役に立ちません。

もちろん、ここで書いていることはケータイのデザインに限ったことではないはずです。
他にもおなじように迷走状態に陥ってしまったもののデザインはたくさんあると思います。

自分でこだわって商品を選んで買っているか

話がちょっと逸れますが、ものづくりの企画やデザインや設計や開発に関わっている人って、ふだん、ちゃんと自分自身がユーザーとしていろんな商品やサービスにこだわって、選んだり買ったり使ったりしてるのかなって疑問に感じるんです。

もちろん、あらゆるものにこだわっている必要はないけど、せめて自分が気にかかるいくつかの商品やサービスのカテゴリーに関しては、ちゃんと自分でこだわって買ってほしいし、使ってほしいなと思います。
だって、ものづくりに関わる人が普段の自分の生活のなかで、ものにこだわり、ものを見る目を養っていないと、自分たちがものをつくる際に、ユーザーのものに対するこだわりを想像できないと思うから。自分のこだわりを満たさない商品をユーザーがどう感じるかをイメージできないと思うから。

これ、無料のものだとだめだと思うんですよね。お金をだして買うというコストを支払うから、ものを選ぶ目って養われるのだと思います。ちょっとくらい財布を痛ませないと、学ぶことはできないんだと思います。

自分の生活のなかで自分が使うものを自分でしっかりこだわって見極めて選択し購入する。そんな風にして普段から自分のものを見る目を養ったり、人がものにこだわり、そのこだわりをどう購買行動や使用行動に反映させているかを自分自身を通して理解することをしていないと、実際に自分たちがものをつくる際にも、買う人、使い人の気持ちが見えないのではないかと思うんですよね。

なぜ商品を育てるという戦略をとらないのかな?

さて、話を戻しますが、できのよくないものづくりが目立ってきた理由のもう1つには、やっぱりいろんな商品を作りすぎ、ころころと商品のコンセプトを変えすぎというところもあると思うんです。

iPhoneとか、まったくその逆ですよね。新しいバージョンができてきても前のものから基本コンセプトは変わらず正常な進化をしています。それに変にいろんなバリエーションがあるわけではなく、別の商品であるiPod Touchですら、それほど違わない。

これって大事なことだと思うんですよね。

1つは開発期間やコストの面で明らかに有利ですよね。よく開発期間が短いから問題点をつぶしきれないまま出してしまうみたいなこともいわれますが、それって毎回、違う商品を出すたびにゼロから新しいコンセプトでつくろうとするからなんじゃないでしょうか? 前の積み上げをまったく活かせないから、すべてをまたゼロから積み上げなくてはいけない。それではいくら時間があっても足りませんよね。
そうではなくiPhoneのように基本的なコンセプトはおなじのまま、それぞれのフェーズでの課題に注力してそれを解決した新しい商品を出す。あれやこれやの課題をいっぺんに解決しようとしたら、たとえ個々の課題は解決されたとしても、トータルではおかしなことになってしまうというのは避けられないと思います。プロダクトデザインとUIデザインの連携がバラバラ。いや、それどころか、もっと細かな部分で統一感がないどころか、互いに矛盾しあうようなことが平気で同居してしまうようなことも珍しくありません。

もともと日本人ってトータルな目で構造的に物事を組み立てるというのは、そんなに得意じゃないほうなんだから、そんな短期間ですべてをゼロから積み上げるような開発戦略でうまくいくわけないと思うんですよね。

もう1点は、商品ブランドの視点での重要性。商品が毎回新しいものが出るたびにころっと変わったら、ブランド価値を蓄積するってこともむずかしくなりますよね。これまた、iPhoneには初代からのブランド価値の積み上げ、いや、それどころか、iPodや、Macのブランド価値までついてきてるわけなので、その時点で結構差がついてますよね。どうして、そうした1つのブランドをゆっくり時間をかけて育てていくという戦略をとらずに、毎回、焼畑農業のようにすべてを灰にした更地の状態からはじめようとするんでしょうね?

自分たちが正しいと思う道を進む

自分たちが正しいと思う道を、使う人の声に耳を傾けて修正をかけながらも、じっくりと進んでいくというのが、どうしてこうもできないんでしょうね?

そういう自分たちの信念やヴィジョンみたいなものがないまま、進んでしまうから、右往左往迷走して、結局、料理は出来たけど、箸を用意してなかったなんて状況が生まれてしまうのではないでしょうか。

これはユーザビリティうんぬん以前の、ものづくりが抱える大きな課題ですよね。
小手先のユーザビリティの改善ではどうにもならない部分が大きすぎます。

とにかく、この状況はなんとかしていきましょう。

P.S.
これはもしかしたら、シナリオと要件のリストを渡して、ひたすらペーペープロトタイピングと利用シミュレーションをやってもらうワークショップを企画してもいいのかも。
ちょっとそれで使えるインタラクションをデザインするということはどういうことを感じてもらったほうがよいのかな、なんて思いました



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2009年10月04日

楽しむための工夫

数日前に「おもしろいこと」というエントリーを書いた。
僕は基本的に、結果はおもしろく、過程は楽しく、ということが仕事をするうえで大事なことだと思っている。
結果は自分だけでなく赤の他人がみてもおもしろく、それを為す過程は自分とおなじ仕事をともにする仲間が楽しくあるとよい。そう思っている。

もちろん、仕事なので辛いこともあれば、いやなこともある。
ただ、辛くても楽しい、いやなこともあれば楽しいこともあるという状態になるよう、自分で工夫しないといけない。辛いことやいやなことばかりであれば、仕事のモチベーションもあがらないだろうから、そこは自分で工夫して仕事が楽しくなるよう心掛けないといけない。

目標を定め、戦略を練る

仕事を楽しくする工夫にはいくつかあると思っている。

1つには、計測可能な目標をつくることだと思う。
数値目標は、売上でも、なにかの作業を完了する件数でもいい。
数値目標をつくることで、それを達成する過程をゲーム化するのだ。

そして、目標を立てたらそれを達成するための戦略を練る。ただ単にぼんやりと努力するというのでは、楽しくはならない。ゲームとして楽しむためには、自分で考えて戦略を練ることが大事だ。
目標達成のための仮説としての戦略を立て、その戦略を実行しているあいだで、その戦略が正しいかどうかを検証する目で自分の仕事の結果を計測する。うまく行っていればよしよしと思うし、うまくいかないのであれば戦略をすこしいじってみたりすることになる。

ブログを書いている人であれば、実感できることだと思うが、自分の書いたブログの結果でアクセス数が増えたり減ったりするのはなかなか楽しいものだろう。
基本的には仕事をするうえで目標を立て、それに向かって行動の仕方を変えるというのもおなじことだと思う。きちんと目標を立て、それに向かって戦略的なことを考えつつ、行動すれば仕事に楽しみができる。仕事をいやいややってる人は、それをしないから余計に仕事がつまらなくなるのだ。

制約条件をつける

もう1つの仕事を楽しむための工夫は、仕事をする際に制約条件をつけることだ。これも仕事の過程をゲームに見立てる1つの方法である。

ロジェ・カイヨワは『遊びと人間』のなかでこう書いている。

規制の限界内での自由な反応を即座に発見し、創案せねばならぬ、そこにこそ遊びがある。
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

野球やサッカーにはルールがある。鬼ごっこでもトランプでもそうだ。そのルールの制約のなかでいかに勝つかを工夫するところに遊びの楽しさは生まれる。
ただ、遊びの制約自体には意味がない。無意味だからといって、その制約をなしにするわけにはいかない。遊びにおいて制約をなくしたら遊びそのものが成立しなくなる。野球でバッターがボールを打ったあとに1塁ではなく3塁に走ったり、サッカーでオフサイドを無視して攻めたりしたら、ゲームそのものが成立しなくなり、途端に遊びはつまらないものになる。
ゲームを楽しむためには、制約を理解したうえで、その制約のなかでどう自分たちが自由に振舞うとゲームに勝つことができるかを考えることが必要だ。

仕事においても大事なのは、この規制=制約を理解し、そのなかで自由を発見することだ。どう自分が振舞えばよいか、その振る舞いを規制するものは何で、その規制を厳守しつつも自分に与えられた自由をいかに有益に使い、結果を出すか。そこを考えないと仕事は楽しくならない。

予算やら納期やら制約ばかりでやりたいことができない。それをつまらないと感じているのは、ゲームというものがわかっていないのだ。ゲームは制約のなかでいかに結果を出すかというところにこそ楽しさの本質がある。

工夫をする=考えて自分のものにする

仕事そのものがつまらないのではない。仕事への取り組み方が仕事をつまらなくさせているのだ。

仕事を他人から与えられたままにやっている分には、仕事が楽しくなることなどはない。仕事は自分のものにできるから楽しむことができるようになる。そして、自分のものにするためには、自分で考えて、自分で工夫をしなければ、そうはならない。

もちろん、それでも仕事には辛い部分やいやな部分は残る。ただ、それは遊びやゲームでも楽しい半面、辛かったり面倒だったりする部分があるのとおなじだ。野球やサッカーをするのでも辛いことはいくらでもある。ドラクエをするのだって、面倒な手間をいくつもやっていかなくてはいけないだろう。

仕事においてそうした負の部分をなしにしたいと思っても無駄だ。負をなくしたいというところに目を向けるからだめなのであって、負は仕方がないと思いつつ、いかにそこに自分なりの楽しみをつくる工夫ができるかどうかだ。

繰り返すが、仕事そのものがつまらないのではない。
仕事への取り組み方が仕事をつまらなくさせているのだ。



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2009年10月02日

産経新聞とかTVBrosとか週間アスキーとか



長いこと更新してなかったので、今更なんですが・・・
2009年9月15日発行の「週間アスキー」や、「TVBros(テレビブロス)」9月19日号、10月1日の「産経新聞」に、インタビューが掲載されました。

ちなみに全部、もう売ってません(笑)

アスキーはオンラインレンタルサービス特集の"オチ"として(笑)、TVBrosは「ネット探偵団」というコーナーに「東京ナイロンガールズ」編集長として、産経新聞は20面の「WEB人」にダダ漏れ女子としてインタビューが掲載されました。
産経新聞のインタビューは、MSN産経ニュースに詳細が掲載されています。

【WEB人(詳報)】ダダ漏れ女子、トミモトリエさん(33) 「人はのぞき見が好き」 

近々、「HACKER JAPAN(ハッカージャパン)」のめたるまんさんのコーナーと、DOCOMOのPR誌「Anywhere」にインタビュー掲載される予定です。今度は早く告知します・・・