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2009年09月16日

[ユーザビリティ][記事]新聞社のナビゲーションで見るユーザビリティ

Yahoo!基金から助成金をもらって、アクセシビリティの啓蒙 - TRANSで書きましたが、今年度うちのNPO法人はYahoo!基金から助成金を得て、Open Accessibility Library Projectというのをやっております。

そのインタビューの中でシニアの方からこんなおもしろい指摘があったので、メモ代わりに書いておきます。

まず、次の各新聞社のサイトを見てください。

毎日新聞

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読売新聞

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日経新聞

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産経新聞

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朝日新聞

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先ほどのシニアの方に言わせると、この中で1つだけ違和感を感じるというか、使いにくいサイトがあるんだそうです。さて、それはどれか。

回答

答えは毎日新聞のサイト。

理由はいたって簡単。毎日新聞以外のサイトは、ニュースのカテゴリごとにタブ型のグローバルナビゲーションがあるのですが、毎日新聞は左側にナビゲーションがあるからです。そのため、各新聞社のサイトを見比べることが日課になっているこの方にとっては、ナビゲーションが異なる毎日新聞のサイトが使いづらくなってしまうわけですね。

毎日新聞のナビゲーションが特段悪いわけではありません。しかし、このようにサイトを比較しながら利用される場合には、ほかのサイトで使われているデザインパターンを踏襲したほうがよいかもしれません。これをヤコブ・ニールセン風に表現すると、

ユーザは、大部分の時間を他のサイトで過ごしている。

http://www.usability.gr.jp/alertbox/20040913.html

ということになるのかな、と思います。

2009年09月16日

新聞社のナビゲーションで見るユーザビリティ

Yahoo!基金から助成金をもらって、アクセシビリティの啓蒙 - TRANSで書きましたが、今年度うちのNPO法人はYahoo!基金から助成金を得て、Open Accessibility Library Projectというのをやっております。 そのインタビューの中でシニアの方からこんなおもしろい指摘があったの

2009年09月15日

[お知らせ][WordPress]WordCamp Kyotoやるよ!

といっても、自分は参加している割には、あまり何もお手伝いできていないので、中の人たちには非常に申し訳ないのですが…。詳細は、WordCamp Kyotoへどうぞ。

各セミナーごとの内容や講師はまだ発表していませんが、「ええ!関西にこんな豪華講師陣が集まっちゃうの?!」というようなWP界隈ではおなじみの顔ぶれが揃いますので、ぜひご参加ください。

ついでではありませんが、僕自身は今週末にイメディオで簡単フリーソフトでホームページ作成! WordPress基礎講座、来月には実践WordPress! 更新しやすい企業向けWebサイト制作と連続してセミナーをやっていますので、もしよければこちらもご参加ください。

2009年09月15日

WordCamp Kyotoやるよ!

といっても、自分は参加している割には、あまり何もお手伝いできていないので、中の人たちには非常に申し訳ないのですが…。詳細は、WordCamp Kyotoへどうぞ。

各セミナーごとの内容や講師はまだ発表していませんが、「ええ!関西にこんな豪華講師陣が集まっちゃうの?!」というようなWP界隈ではおなじみの顔ぶれが揃いますので、ぜひご参加ください。

ついでではありませんが、僕自身は今週末にイメディオで簡単フリーソフトでホームページ作成! WordPress基礎講座、来月には実践WordPress! 更新しやすい企業向けWebサイト制作と連続してセミナーをやっていますので、もしよければこちらもご参加ください。

2009年09月10日

バタイユ/酒井健

バタイユは、生を個体の問題としてではなく、生そのものの連続性として扱う。

酒井健さんの『バタイユ』を読んで、いちばんつよく感じたのはそのことでした。
そして、おそらく僕がバタイユに惹かれるのもそこに要因があるのだろうと思います。

脱自、共犯関係、見世物として恍惚や笑いなどの情動をひきおこす供犠、主体の半壊状態を通して得られる個を超えた交流的な体験。
こうしたキーワードによって、個―個人、私企業、国家―の延命に重点が置かれる近代が忘れ去った、個を超えた全体としての生の連続性に注目し、それを近代の世に知らしめようとことばを紡ぐバタイユに、僕はつよく惹かれるのです。

バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように。イメディア(直接的な生の交わり)を欲しつつ、メディア(媒体・複製技術)の力を侮ってはいけない。夜のなかの生を語るバタイユの呻吟は私にそう教えている。

「物の力」「言葉の力」への警戒。
これだけでもバタイユが僕の思考と共感するのをなんとなく感じてもらえるのではないでしょうか?

それでは、すこし酒井健さんの『バタイユ』を紹介していこうと思います。

物質の内的諸力に対する鈍感

バタイユは第一次大戦後の時期に、シュールレアリスムの芸術家や、考古学、文化人類学の研究者の文章を掲載した学術雑誌『ドキュマン』の編集・発行を行っていました。
以下に、日本語の『ドキュマン』の総目次が公開されていますので興味のある方は参照ください。→『ドキュマン』日本語総目次(PDF)

この『ドキュマン』の1930年の1号に、バタイユは「低い唯物論とグノーシス」と題した論考を掲載しています。バタイユはここで一般的なグノーシス派研究者からみれば異端とも思えるグノーシス論を展開していると酒井さんは指摘しています。

グノーシス派のとくにエジプトの人々は、物質に対して鋭敏な感覚を持ち、物質の内部に潜む諸力の混淆をよく把握していた。それに対し、近代人は物質を形で捉える。近代人にとって物質とは第一に物体の問題であって、近代人は物体の外形を視覚で捉え、それを理性で処理していく。分類したり比較しながら、より大きな物体の生産に利用していく。近代人は、それゆえ、物体相互の底に流れる物質の内的諸力に対しては鈍感だ。

物を静的に捉える近代人。静的に、というのは、言語的に、とも言いかえることができるし、デジタルに、と言ってみることも可能かと思います。「理性で処理していく」、「分類したり比較」したりというのが当っているでしょう。その視点からは物質本来がもつ動的な力がこぼれおちていきます。

バタイユは、言語やデジタル、理性的な見方という特徴をもった近代的視点に、世界の物の見方が一元化されてしまう傾向があるのに警鐘を鳴らしています。

非―知

バタイユの「物の力」「言葉の力」への警戒というのは、物事を人間的に固定化してみてしまうことへの警戒であるといえます。それは言い換えれば、知的に捉えてしまうということへの警戒でもあるでしょう。

「わからない」にこだわるというのは、僕がここ最近、このブログのエントリーで集中して題材にしていることですし、『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』でも重視した点ですが、バタイユも「非―知」という用語を用いて、人間的な知の彼方を見据えた論考をさまざまな形で提出しています。

著者の酒井さんは、バタイユの「非―知」について書いています。

知の衣を脱がす、あるいは切り裂くことこそが、非―知の第一の働きである。そうなると、人は不安に駆られるが、その不安を笑い飛ばすというのも、非―知の働きにほかならない。そしてさらに非―知は恍惚を伝達する。恍惚とは、西洋語の原義では脱自つまり自分の外に出ていくことである。

脱自―自分の外に出る。これもまさに『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』で書いていることですね。
そして脱自を可能にする「非―知」の働きを、恍惚とか、不安を笑い飛ばすことにみているのは、非常に納得がいきます。それは自身のアイデンティティを超えて、もっと大きな生のなか、ダイナミックな物質の世界に忘我の境地で溶け込んでいくことにほかならないのでしょう。
そのとき、不安という個の意識を超えた、笑いを誘う自虐的でもあるユーモアが発生する。それは知によって世界を捉えることを超えて、忘我の笑い・恍惚を通じて世界と交わることなんでしょう。

生の連続性

この忘我、脱自というところから、個体の生を超えた生そのものの連続性が開けてくるとバタイユは捉えていたらしい。

知というのは、ある意味では何より自身の外の世界の境界をつくること、違いを知ることにほかなりません。それは誰でも幼児期に体験していることで、幼児は自身と他者の違いを理解するようになることで、他者を知り、それを通じて自己の存在を理解していきます。
その意味でアイデンティティとは、自身がみずから設定した自分自身と外部との境界であり、自分の限界でもあるわけです。

バタイユが生というものを考えるとき、こうした限界に押し込められた個体の生を重視しません。個体が自身の生の不安をかき消すために設定する限界を超えて、さらに限界そのものによって可能になる知=世界の認識のひとつの方法を超えて、非―知を目指します。

人間は個として生き延びていくためにはこの自我の限界を大切に保持していかねばならない。バタイユもそうする。しかしそれに甘んじ続けることができずに、自我の限界を半壊状態に追い込むのだ。死なずに死んで、自我の限界を引き裂き、その限界線上から外に向け定めなく広がる「不確定な現実」を生きるのである。限界を引き受けつつも、それに耐えられずにいる無数の存在者たち、存在物たちの現実と交わるのである。

「不確定な現実」を生きる。これは僕がずっと考えている「わからない」にこだわること、「わからない」を自分自身で受け止めることにもつながってくるものです。それは知という世界認識とは別の、世界の受け止め方なんだと思います。

もちろん、社会において生きていこうとすれば、非―知であり脱自的な世界認識ばかりを追いかけるわけにはいきません。恍惚と自虐的でもある笑いでは日常を生きることはできるはずがないのですから。
とはいえ、すべてを理性的な知で固定してしまう世界の認識だけで埋め尽くしてしまうことにも、バタイユ同様に危険を感じるのです。



関連エントリー

2009年09月08日

転職成功者にボーナスを支給するしくみは成功するか[PR by ブログタイムズ]

わたしの転職経験は一回に過ぎない。
それでも、そのリスクの高さは十分に体験できた。

単純に言えば、だれも自分のことを知らない。
結果で自分の能力を証明するしかない。

だから、転職に成功したらボーナスがもらえる、
といわれてもリスクに見合うとは思えない。

しかし、もしいまの仕事に不満があるなら、
考えかたは変わる。

「サイン・オン・ボーナス」とは

転職者が転職に成功した場合に、
現金ボーナスが支給されるしくみを
「サイン・オン・ボーナス」と呼ぶそうだ。

このボーナスがない場合とある場合の
報酬の構造を比較してみると、

・従来型求人の報酬の流れ
求人企業の支払い100=仲介企業の収入100

ジョブナス型求人の報酬の流れ(おそらく)
求人企業の支払い100=仲介企業の収入90+転職者の収入10

と想像される。

もし、転職者の収入の分、求人企業の支払いが増えるようなモデルは、
現在の景況下では考えづらい。

求人企業の支払い110=仲介企業の収入100+転職者の収入10

転職時のボーナスの価値

転職時、ボーナスが支給されたとしたら、
気持ち的にはほっとするだろう。
家族がいる場合は特に。

と思ったら、実際、扶養家族の人数によってボーナスの額は変わる。

2009年09月05日

やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな

物事からなにかを感じとる力。
自分が感じていることを意識のうえでも受け止める力。
客観的な知識ではなく、自分で感じたことを信じる力としての感受性。

この感受性がいろんなことを学んだり勉強したり理解したりする上での基礎となるものなんだろうなと思います。

頭がわるいとかではなく、感受性がよわい

「いま勉強中です」とか「いろいろ教えてください」とか口ではいいながら、いつまでたっても成長しない人がときどきいます。たしかにそういう人は勉強していたり、いろんな人に教えてもらったりしていたり努力はしているのですが、なぜかどこか決定的に飲み込みがわるいし、みると勉強の方向性や疑問の持ち方がズレていたりする傾向があります。

程度は極端にダメなのもあれば、ちょっとズレてるなという程度のこともあるのですが、共通しているのは、その人自身が言っていることのなかに矛盾があったり、言ってることと行動の乖離があったりする点です。
みていて、きっと頭のなかで考えているイメージと感覚的に感じとっているはずのものとがうまくリンクできていないんだろうなと感じます。だから、しゃべっていることがすごく表面的にも思えるし、こちらが話していることに対する理解力の低さも感じてしまいます。

頭がわるいとかではなく、感受性がよわいのだろうなと思うのです。
若いときはまだ経験そのものがすくないし、結果、感じたことの蓄積も多くないのですから、まぁ、しょうがないなと思えるのですが、ある程度の年齢(30歳以上)でそれだと、うーむ、これからつらいだろうなと思ってしまいます。

感受性は新しいものを吸収するための土台

なので、ある程度の年齢を超えると、きつくなってしまうと思うのですが、僕は勉強したり知識を身につけること以上に、感受性を磨くことの大切さを思います。

感受性がなければ、物事の細かな違いに対する認識や意味付けができず、知識の受容や新しいことの学びに支障がでてしまうはずだと思っています。認識できないものは理解することはできません。理解は意識の活動だと思いますが、認識はそれ以前の感性的活動だと思います。
その意味でもさまざまな物事を差異や関係性を感じとるための感受性がなければ理解の前提条件が満たせません。感受性というのは、新しい物事を吸収するためのスポンジのようなもので、土台だと思います。

それがガチガチにかたまってしまっていたり、あまりに目が粗すぎて物事の微妙な差異に気づかなかったりすれば、やっぱり新しい知識の受容や他人とのコミュニケーションのなかでの表現の違い・相手の感情の変化などに気づく繊細さを欠いてしまうのだろうと思うのです。

その意味で、具体的に知識やスキルを学ぶこと以上に、それを可能にする自身の感受性を磨くことの大事さを思うのです。感受性こそが学ぶための基礎力だと思うから。

感受性の乏しさは判断力の弱さにつながる

でも、そうした感受性の大事さを、学校でも職場でも家庭でもあんまりいわないし、そのための訓練の機会を与えてくれないんですよね。

それにこれほど社会が人工物(物だけでなくルールや法、方法論なども含め)ばかりに囲まれていなかった時代であれば、各自が日々生きる中で自然と感受性を養う機会もあったのでしょうけど、子どもの遊び場さえないいまの環境下では、個々人が自然と感受性を養うこともむずかしくなっているのでは?とも思います。

そうなると、各自が自分で感受性を高めるための具体的な努力をしたり、家庭や職場や教育の場で感受性を高めるための訓練の機会を与えてあげないと、いくら勉強や学習をしてもいっこうに吸収できない人ばかりが増えてしまうんではないのかなと不安になります。

とにかく感受性に乏しいと、まず自分自身の感情さえ感じられなくなります。自分が何がわからないかもわからなくなります。それでは何が自分自身にとって役立つかが、自分自身の内からは判断することができず、何かしら客観的な基準にたよってしか、自分が学ぶべきこと、自分が答えを見つけるべきことが何かを判断したり、決めたりができなくなってしまいます。

「わかる」対象ではないものに触れる経験をたくさんする

問題はそういう判断って実は日常的に非常に頻繁に起こっているということでしょう。
日常的に起こっているのであれば、その都度、社会的な規範にだけ頼って、すべて判断するということはできません。必ず自分自身で答えをつくりだして、その都度、決定し行動しなくてはいけない場面があります。

そして、他人があなたにそれを求めるシーンも日常的に決してすくなくないはずです。そこで自分自身で感じたことから自分なりの答えが出せない人は、やっぱり相手に不満を抱かせたり、不足を感じさせたりするでしょう。
それは相手が教える立場で、あなたが学ぶ立場の場合でも起こることで、その場合、相手がせっかく教えてくれる気になっているのに、あなたのほうが学んでいることを相手に示せないがために、相手もいつかあきらめることになり、結局、あなたは努力しているつもりでも学ぶ機会を失ってしまうのです。

そういう意味においても学ぶ力を高めるためにも、その基礎となる感受性を磨く方法を自分自身でみつけていく必要があると思うのです。
それにはやはり知識の習得、答えの獲得より前に、自然や芸術のような「わかる」対象ではないものに触れる経験をたくさんしたほうがよいのではないでしょうか。

最近、そんなことをすごく感じるのです。



関連エントリー

2009年09月04日

ノキアはネットブック市場ではなく、スマートフォン市場へ注力すべき

世界最大の携帯メーカー、Nokiaがネットブックを世に送り出す。

しかし、1回の充電で最大12時間使えるという以外、
目立った印象がない。



携帯市場の不振から、
盛り上がっている市場への進出を判断したのだろう。

だとしたら、スマートフォンに注力すべきではないのか。
確かにネットブック市場は成長している。
一方、スマートフォン市場はそれほどの規模でもないし、
すでに「iPhone」や「BlackBerry」がブランドを構築しつつある。

でも、情報端末の小型化の流れは止まらない。
となれば、スマートフォンは外せないはず。

まあ、せめてネットブックやるなら、
OSは同じフィンランド産のLinuxにしてほしいもうやだ〜(悲しい顔)

2009年09月02日

「インターネットユーザーからの10の質問」に答えてみる

先日、MIAUが衆議院選挙に合わせて「インターネットユーザーからの10の質問」というのを行いました。 選挙は既に終わってしまいましたが、質問自体は自らの意見を明確にするのに有効なものだと思うので、遅ればせ [...]

2009年09月01日

【ご報告】コプロシステム・商品計画研究所に入社

8月31日付でイードを退職した旨はすでにお伝えしたとおりですが、
本日9月1日、株式会社コプロシステム・商品計画研究所に入社いたしました。

■コプロシステム
http://www.coprosystem.co.jp/

■商品計画研究所
http://www.coprosystem.co.jp/branding/index.html

前職では、人間中心設計を中心としたコンサルティング業務が中心でしたが、今後はもうすこし幅広い形で、商品開発、マーケティングに関わることになります。

「売れる商品づくり」をテーマに、
デザイン思考のメソッドも用いながら、

  • ターゲット選定、戦略立案
  • 商品コンセプトづくり
  • デザインワーク・プロトタイピング
  • 売れる仕組みの提供

と幅広い意味での商品デザインワーク、マーケティングのコンサルティングに関わることになります。

クリエイティブな面が大きくなったこと、具体的なデザイン案のご提案まで可能になったことなどが前職との大きな違いでしょうか。これまでと違って具体的なデザインへの落とし込みまで面倒みることができクリエイティブな面でもちゃんと仕事として携われるのはよいな、と。
将来的には、日本におけるIDEOのようなチームに育てていければと考えています。これはまぁ、小さな規模ではそんなに遠くないところで実現しそうですが。

前職でお付き合いのあった方々も、なかった方々とも、楽しく有益にお仕事をごいっしょできればと思っております。
それでは、今後ともよろしくお願いいたします。

P.S.
それにしても1日も間をおかず新しい職場へというのは、さすがに気持ちの切り替えがむずかしいですね。
でも、新しい職場の環境がとても働きやすそうなので、そこは一安心。
仕事もすでにたくさん用意されていましたが、面白そうな仕事ばかりだったので、よかったな、と。