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2009年08月27日

好奇心=「わからない」をつくること

本を読めない人がいます。他人の話の字面だけをおって相手が何故その話をしているかを感じとることができない人がいます。また、間違いをおかさないよう怯えることにせいいっぱいでチャレンジできない人がいます。
そうした人に共通するのは未知への感受性の希薄さです。わからないものを避け、未知なるものを嫌悪する。自分が安心してみられる世界に閉じこもり、新しい世界に目を向けようとはしない。外部に対してはもちろん、自分自身の内にある未知や答えのはっきりしないものからも目をそらしたがる傾向がある。

そういう人もいろいろ教えてもらいたがったりするのだけど、残念ながら、そういう人に教えるのはむずかしい。何故なら教えてもらいたがってる割には未知なるものを嫌うから。教える側は相手がすでに知ってることしか教えられなくなります。

もし、あなたにそういう傾向があるのなら未知から逃げたがる自分自身の傾向を見直す必要があるでしょう。

「わからない」を自分でつくる

僕は、未知なるものに立ち向かうことが苦手な人はきっと「わからない」ということを自分自身の問題として捉えなおすことが苦手なんだろうと思うのです。


「わからない」と感じた際、相手・対象のペースにあわせてしまうから、よけいにわからなくなるし、わかるための糸口さえつかめずにイヤになるんではないかと思うのです。そうではなく、「わからない」と感じたら、いったん、その「わからない」を自分自身の問題として引き受け、自分自身の文脈で自分が何をわからないのか、何故わからないのかを考える方向にシフトした方がいいんです。つまり、自分のペースで「わからない」を相手にするのです。

それは言い換えれば、他人・対象から感じた「わからない」を、自分の問題としての「わからない」に編集しなおす作業です。この編集作業をあいだに挟まず、直接、相手・対象のペースに乗ってしまったりするから、いつまでたってもわからないし、未知なるものを相手にするのがよけいに苦手になるのです。

「わからない」を好奇心に変える

この編集作業は簡単にいえば好奇心をもつということです。ようするに好奇心は自然に生まれるのではなく、実は自分でつくるものなんです。好奇心旺盛な人は単に小さな頃から自然に「わからない」を自分の問題として捉える練習をしてきたから、意識せずともそれができるようになっただけです。

「わからない」が苦手な人は意識的に好奇心をつくる訓練をした方がいいと思います。そうでなければ相手が正しい答えをすでに自分が知っている通りに提示してくれたときにしか、わかることができないという状況から脱け出せないでしょうから。

好奇心を自分編集でつくりだす

では、好奇心をつくりだせるようになるには、具体的にはどうしたらいいでしょう。

僕は、普段から自分のなかで自分の目の前で起きたことを説明する文章を組み立てる練習をするのがいいと思います。まずは気になったこと、つまづいたことなどを対象に、それに関して自分が感じたことと実際に起こったことを織り混ぜ編集し、さらにそれに対して考えたことをつけくわえてみる。もちろん、わからない単語などがあったら調べて辞書レベルの理解はしておく。

そういう作業を繰り返していくと、自分自身が何がわからないか、何故わからないのか、何をわかりたいのかが、うっすらと見えてきます。これは訓練ですから最初は多少は苦痛でもがんばって続けるしかない。ただ、がんばって続ければ、そのうち好奇心をつくるコツが見えてきます。「わからない」ものとの付き合いかたがぼんやりとでもわかってくるはずです。

ぼんやりとわかるという感覚を大事にする

このぼんやりとした感覚をつかむことが大切なんだと思います。

わかるというのも、本当はこのぼんやりとした感覚を各自がつかむことのほうが大事で、誰にでも通用する標準化された答えを見いだすことでないはずです。むしろ、そうした標準化された答えばかりを求めてしまうところに、本を読めなかったり、他人のことばの背後にあるものを理解できなかったりという事態が生じるのでしょう。正解を知ることと、感覚を交えて他者とコミュニケーションすることは別なのに、すべての「わかる」が前者の正解を求める形になる傾向があります。それでは必然的に、ぼんやりわかることが大事なコミュニケーションは成立しにくくなるはずです。

そういう意味でも、わからないことばかりにしているのはあなた自身にほかならないのです。

関連エントリー

2009年08月24日

[HTML5][Web標準]HTML5を書き直した。

先日公開したわかりやすい技術文章の書き方id:vantguarde先生から、

HTML5といってるけどなんか違うなあ。sectioning contentの使い方に問題が多い。

http://b.hatena.ne.jp/vantguarde/20090817#bookmark-15373666

と赤点をいただいたので、再試ということで書き直しました。リライトしたページはすでに公開中。

違和感を感じるところ

あくまでも自分の感覚としてですが、なんとなく「このへんはもう少しまともな書き方ないのかな、でもわからん」というところを何点か。

<header role="banner" id="banner">
...
<aside id="abstract">
<p>このページは、プログラムやコードなどの主に技術文書を書く方々のために、
分かりやすい文章を書くためにはどうすればよいのかについて説明しています。</p>
<ol>
<li>自分が伝えたいこと・訴えたいことを誤解しないように相手に読んでもらうにはどうするべきか。</li>
<li>文章を書くにあたって知っておくべきルールは何か。</li>
<li>文章を書く前にどのような手順を踏めば、分かりやすい文章を作れるか。</li>
</ol>
<p>などについて参考にしていただければ幸いです。</p>
</aside>
...
</header>

headerにasideが入ってるとか…。

<div role="main" id="main">
<article>
<section>
<header>
<h2 id="before_write">文章を書く前に</h2>
<p>文章を書く前に次のことをしっかりとイメージしておく。</p>
</header>
<ul>
...
<li>読み手が真っ先に知りたいことは何か。</li>
</ul>
</section>
...
</article>
</div>

article、sectionと来て、さらにheaderとか…。

この2ヶ所はどうすりゃよいのかイマイチ分かりませんでした。

CSSのこと

フレームっぽい(違)、ウィンドウサイズが小さいと横スクロールが出るなどのご意見をいただいたので、修正。

フレームっぽいのは僕自身の使いやすさを優先してなので、我慢してください[謎]。ウィンドウの問題に関しては、レイアウトの横幅をem指定ではなく、%指定に直しました。

ちなみにリデザイン中

あまり変わっていませんが、

  • なんとなく
  • 記事ごとにカテゴリをつけるようにした[今更]

という理由によります。

フッターというかサイドバーはこれからです。

2009年08月21日

「ひらめき」のためにはいったん思考を保留して、機を熟すのを待つことも必要

わからないからといって焦ってわかろうとする必要もなければ、その逆にすぐにあきらめてしまうのも違うだろうということを「わからないことへの耐性」と「「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。」の連作で書いてきました。
未知のものに出くわし「わからない」と感じたら、焦るのでも、あきらめるのでも、思考停止状態に陥ってしまうのでもなく、とにかく自分のペースで「わかる」まで付き合ってみようとする保留の状態をつくることが大切なことがあると思っています。あきらめずにゆっくりと「わからない」ものにとことん付き合ってみることで「わかった」と感じるときが来ると思っています。

そんなことを書いてきたわけですが、ちょうどいま読んでいる岡潔さんの『春宵十話』のなかに、まさにそうした体験が書かれていたのでびっくり。
岡潔さんといえば、文化勲章などももらっている有名な数学者ですが、その岡さんが数学の問題を解く際にも、まさに「わからない」にゆっくり付き合うことで未解決の難問を解くための発見に出くわすという体験を何度もしたことがエピソードとして描かれているのです。

考えても考えても解けない難問が解けるとき―

たとえば、フランス留学から戻って本格的に「多変数解析函数論」を専攻していこうと決めた際、岡さんは「多変数解析函数論について」という本を読んで、その分野に3つの未解決の中心的な問題が残っていることを知ります。そこで岡さんはこの問題を解いてみようと取り組みはじめます。

ところが、やっぱり未解決として残った問題だけあってむずかしく、最初の切り口さえも見つからない状態が長いあいだ続いたそうです。毎朝方法を変えては問題を解くための手掛かりを、まさに手探り状態でさぐってみても、その日の終わりになってもその方法で手掛かりが得られるかどうかさえわからないような状態が、3か月も続いたといいます。
そして、そういった状態が3カ月も続けば、どんなに無茶で、荒唐無稽なアイデアさえ考えつかなくなってきて、最初の10分くらいは気分がひきしまっていても、すぐに眠くなってしまう状態なってしまったそうです。

そんな調子でやっていたときに知人から北海道に来ないかという誘いがあり、ちょうど夏休みの期間だったこともあり、岡さんはその誘いにのります。北海道大学の応接室だった部屋を借りて、そこでも研究を続けようとしたそうですが、ソファーにもたれているとやはりすぐに眠ってしまったといいます。
そんなことを続けて9月になり、そろそろ帰らなくてはいけないとなった時に、北海道に誘ってくれた知人の家で朝食を食べたあと、隣の応接で考えるともなく考えていると、それまでどうにも糸口さえ見つからなかった問題を解くための方向性が徐々に見えてきたのだそうです。

「このときはただうれしさがいっぱいで、発見の正しさには全く疑いを持たず、帰りの汽車の中でも数学のことなど何も考えずに、喜びにあふれた心で車窓の外に移り行く風景をながめているばかりだった」そうです。

わかるためには何もしない準備期間が大事

岡さんにはそうした体験が何度もあったそうです。そして、発見の場合、いろいろと種をまいて努力すれば、すぐに実がなるというのではなく、植物同様に芽がでるまでの準備期間が必要であるはずだといっています。

全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。

いろんな方法で試してみてわかろうとするだけじゃだめなんですね。いろいろと努力したあと、すこしのあいだ、保留時間をおく必要があるのでしょう。

これとおなじようなことが、僕自身の体験を振り返ってみても思い当たることがあります。

あいだを置くと「わかる」

僕はユーザー調査の結果からその内容をKJ法などを用いて分析し、その分析結果をペルソナとして表現し、また、そのペルソナの期待に応えるための要件をシナリオとして描いたうえで、その内容をプロトタイプに落とし込むという、人間中心設計の一連の作業を体験してもらうワークショップの講師をさせていただくことがありますが、そのときにも岡さんが体験したのと似たような体験を参加している方々が感じとっているのを見ています。

そのワークショップはたいてい2週に分けて行うのですが、ほとんどの場合、1週目の作業はほとんどみんな自分が何をやっているのかさえわからずに終わります。KJ法を使ってユーザーの行動を分析する作業をしているはずなのに、自分が何をしているのかもわからなければ、ユーザーの行動もとても把握できたとは思えない状態で一日目を終えられる人が多いんです。
ところが、2週目にシナリオを書き、プロトタイプをつくる際になると、その前の週では分からなかったはずのユーザーの理解がいつの間にかできていて、シナリオもプロトタイプもユーザーの立場からつくれるようになっていたりします。もちろん、完ぺきではないものの、1週間前にはまったく「わからない」状態だったのが、2週目にはすくなくとも何かが「わかった」状態で作業ができるようになるんです。

この事実は知ってはいたものの、僕にもどうしてそうなるのかがわからなかったんですが、岡さんのエピソードを読んで、あー、途中に何もせずにおく保留期間というのも大事なんだとあらためて思ったわけです。

やり方がなくなったからといってやめてはいけない

もうすこし日常的なレベルでも、前の日にはいくら考えても思いつかなかったアイデアが一晩寝て起きてみると、パッと思いつくといった体験は、みなさんにもあるのではないかと思います。
それもきっと岡さんの体験のミニ版なんだろうなと思うのです。「わかる」ためにはただ焦ってがんばるだけではだめで、実はがんばったあと、すこし機が熟すのを待つ時間も必要なんだろうとあらためて思いました。

岡さんは、それをこんな風にも表現しています。

もうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。

そうなんですよね。ずっと考えていた問題を解くヒントが頭に浮かんできたときには、ほとんどその問題は解けたも同然の状態だったりするんですよね。

もちろん、現実化のためには、そのヒントを核として、きちんと現実的な構築物を組み立てていくという別の苦労も必要です。ただ、それは僕が『デザイン思考の仕事術』でも問題を解くための具体的な設計案を組み立てることとは別に、そもそも問題をどう解くか、もっとその前段階で問題を果たしてどう捉えるのかといったところの「ひらめき」を導きだすのには、具体的な問題解決とはまったく異なる大変さがあると指摘しているとおりで、問題解決の切り口を発見すること、それをひらめくことのむずかしさは、すでに見えているゴールに向かって使えるリソースを最適化し組み立てていくこととはちょっと違った面があるんですね。
『デザイン思考の仕事術』で使っている用語でいいかえれば、問題解決のための組み立てには帰納法が、問題発見のためのひらめきにはアブダクションが、という風に、それぞれ異なる推論形式が必要だということになると思います。

KJ法は方法自体より、未知の対象に立ち向かうところにむずかしさがある

先の岡さんのエピソードでいえば、問題について考えるための「最初の切り口」を見つけるのが実は一番苦労するところです。つまり「わからない」未知のものに対して、どう切り込んでいくかです。
たいていはいろんな切り口で切り込んでいってもしばらくは未知の対象との絡みがとことんズレてしまった状態が続きます。

それが僕のやっている作業でいえば、KJ法の苦しみに対応するところなんでしょう(関連エントリー:「なぜ、KJ法は失敗するのか?」)。
ようするに、KJ法ってはじめてやるからむずかしいんじゃないんですよね。未知のものに対して、安易にわかってしまうことを拒否し、本当の意味で「わかった」と感じられるまで、統合化~図解化の作業を繰り返しながら最適なパターンを見いだすという方法だからむずかしいんだと、あらためて思います。

結局、KJ法がむずかしいといっても、方法自体を覚えることなんてそんなにはむずかしくないんですよね。本当にむずかしいのはやっぱり未知の対象に対して、「わかった」を得ることなんだと思います。

本当にむずかしい対象を相手にする場合は、1回のKJ法のセッションでわかろうとすること自体が間違っているのだろうなと思いました。1回のセッションは「わかった」とはならないまでも、とりあえず最後まで形にはしてみて、また時間をおいて後日考えてみるというのも「ひらめき」のためには必要なんだろうな、と。

もちろん、それはKJ法を用いる場合だけではなく、何か未知のものに対するときには当てはまることで、いろんな切り口で取り組んでみて、そこでわからなかったらいったん寝かせるということが必要なんでしょう。

 

関連エントリー

2009年08月20日

「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。

うーん。わからなかったら、わからないでいいじゃんと思うんだけどなー。
すくなくとも焦ってすぐにわかろうとしなくてもいいと思うんですよ。

わかるとかわからないとか所詮は個人の問題だと思っています。

いや、全部がそうじゃなくて、人間社会の仕組みとしての決めごと―たとえば試験の答えだとか、法律で決められてるやっちゃいけないこととか、待ち合わせの場所と時間とか―そういうのは、決まっていることをわかる必要があって、決めたことが1つなら答えは1つです。

でも、そういう決めごとの外にあるもの―たとえば他人の気持ちとか、誰かによって主張された内容とか、自然や日常の出来事をどう解釈するかとか―を、どう見るか、わかるかは所詮は、わかる側の個人的な問題でしかない。たとえ相手に「なんで、私の気持ちわかってくれないの?」と非難されたとしても、それは相手がわかってほしいことをわかってあげることができないという問題とはまったく別の次元で、相手の気持ちをわかる/わからないはわかる側の問題として存在するはずなのだと思うのです。

決めごとの理解や、他人とのコミュニケーションにおける意思の疎通という話とはまったく別の次元で、個々人が自分の文脈=個人的な価値の体系のなかで、未知の対象を意味ある形で解釈できるかどうかという問題がある。それは社会的な意味での正解だとか、相手との意思の共有とかいった場合のように外から正解/不正解を決めてもらえるような基準はなく、自分で「わかった」と思えるかどうかということにしか基準はない。

「なんで、私の気持ちわかってくれないの?」

相手の気持ちをわかるというのは、相手にもその人の生きてきたなかで形成された文脈があり、それをわかってあげようとする側にもその人が生きてきたなかで培ってきた文脈があるわけで、その異なる文脈のなかで、それぞれが自身の価値体系のなかで「わかった」と感じられるプロットを組み立てられるかということになるので、基本的にそれがむずかしいのは当然です。

相手は「なんで、私の気持ちわかってくれないの?」というかもしれませんが、それは相手がみた「私の気持ち」の解釈であって、他者(の別の文脈)から見たら「私の気持ち」自体が別の解釈がいくらでも可能だということが、その相手自身がわかっていないということでもある。だからといって、相手に「ちゃんとわかるように話してくれないからだよ」というのもお門違いで、結局、そういう場合は双方ともたったひとつの答えがあり、それを共有しようとしてしまっているがゆえに、永遠にわかりあえず平行線をたどる可能性がある。

視点が違えば解釈は異なる。異なっていい

もちろん、これは「私の気持ち」が対象である場合の話ではなく、互いの主張が食い違うケースでもみられるものです。視点が違えば同一のものでも異なるものとしてみえるのは当然であるにもかかわらず、その視点の違いがもたらす解釈の違いをたがいに許容できずにいると、そういう罠にはまりこんでしまうはずです。

視点が違えば解釈は異ならなければならないということをまず前提にすべきです。そして、異なること自体を喜んだほうがいい。それが嫌で意見の一致を見たいのであれば、主張そのものを戦わせるのではなく、まずお互いに視点の相違がどのようなものかを見比べ、ともに相手の立場を理解することからはじめなければ、途中で妥協でもしないかぎり、いつまでたっても意見の一致はみられないはずです。

知識の束、理解の方法が「わかる」をつくる道具

話を戻せば、そうした他人との意見の一致、社会におけるルールや決めごとの遵守などの場合とは違って、自分が何かしらの自然に起こる物事を理解しようとすれば、そこにおいて「わかる」とか「わからない」とか個人の問題でしかありえません。

もちろん、それは100%主観であるという意味ではなくて、何かを理解するときに利用する知識の束、理解するのに使うことができる方法の引き出しは必ずしもその人固有のものではなく、その人が生きる過程で外にある情報を学習やいろんな経験をつうじて身につけ習得してきたものであるはずですし、その知識や方法は社会的にも認められたものであることも多いでしょう。

『デザイン思考の仕事術』にも、こんな風に書いてましたよね。

勘違いをしている人が多いように思いますが、知識があるから疑問をもつことができるのです。知識はわかるために必要なのではなく、わからないことを発見するために必要なものです。デザイン思考が重視する観察という方法においては「わかる」ことが重要ではなく、目の前の普段と変わらない光景を「これはなぜここにあるの?」「なぜ、みんな、そんな風にするの?」と好奇心をもった目で見つめなおし、自分自身の物事の見方を変えることこそが重要なのです。見る対象が変わるのを望むのではなく、自分自身が変わるのです。
拙著『デザイン思考の仕事術』

疑問をもつための道具が知識だったり方法だったりします。その道具を使って、自分自身を変えることを「わかる」というのだと思います。ただ、知識や方法はあくまで道具であって、「わかった」という結果そのものではありません。他者が提供する道具を使ったとしても、それを解釈して「わかった」をつくるのはやっぱり自分の責任なんですね。

科学的な理解がすなわち「わかった」になるわけでもない

ただ、その知識の束、理解のための方法の組み合わせは人それぞれで違うでしょうし、そうした知識や方法の使いこなし方も異なるはずです。科学者がみれば月は地球のまわりをまわる衛星かもしれませんが、詩人や画家の解釈はそれとは異なっていてもまったくおかしくない。月が「とっても青い」と感じようが月を青く塗ろうが、それを間違いということはできません。太陽が地球のまわりをまわっていると感じることは科学的には間違いであっても、自分を中心に太陽も世界もまわっていると詩人が歌っても間違いにはなりません。

科学の記述の正しさは、科学の記述のルール、科学の物事の見方の内においてのみ正しいだけであって、科学がみた自然が正しい姿をしているわけではありません。人体の能力がもつ視野からみれば単に自然法則がそう見えるだけだといってもよいのでは、と思っています(もちろん、それは人間が自由にコントロールできるとかいう話ではなくて)。

いずれにせよ、科学的に「わかった」からといって、必ずしも、なんで飛行機が空を飛ぶのかとか、風邪をひくと熱が出るのかとかが「わかった」になるわけではないでしょう。

それにそもそも科学の物の見方だって本当は詩人や画家の見方とそう変わらない個人の解釈ということが求められると思うんです。岡潔さんの『春宵十話』を読みながら、そんなことも感じています。

詩人的解釈、画家的解釈の肩身が狭い

昨日の「わからないことへの耐性」で問題にしているのは、そういう科学的な理解のように、ある特定のルール、お作法において答えが共有可能な形で1つもしくはいくつかに決まるような「わかる」ではなくて、あくまで、その解釈の意味が個人にゆだねられるような場合での「わからない」だったわけです。

僕が危惧しているのは、なんでもかんでもわかろうとする場合に、科学や社会的ルールと同様の正解があることを想定してしまうケースが増えすぎているのではないかということであり、自分自身で何が正解かを決めなくてはならないような詩人的な解釈、画家的解釈のような、創造的解釈というものを拒むか、もしくは、そういう「わかる」があることを忘れてしまっている傾向がつよすぎるのではないかということです。

答えを固定させないという選択

言い方をかえれば、答えを固定させないという選択ができなくなっているのではないかと思うのです。ルールを決めることで、意味のゆれ=オルタナティブな可能性を排除する傾向があまりにつよくなりすぎているように感じるのです。

ルールを決め、答えを固定させるということはその瞬間、わかるということがルールを共有、理解した上での、それを厳守するというものに形を変えてしまいます。
それが「古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫」で例に挙げたような科学者を中心につくられた英国王立協会が17世紀に、ことばのゆれ、多様性をたくさん保持していたシェークスピア演劇を排斥し、あいまいさを排除した普遍言語をつくろうとしたことなどにも見られます。属人的な解釈を嫌い、共通のルールのうえでの唯一の解釈を志向したひとつの例ですが、どうも現在の社会の傾向はそちらの方向に走りすぎている嫌いがあるように思うのです。

もちろん、僕はここで科学的な「わかる」の共有が不必要だなんてことを言いたいわけではないし、科学を排斥しようなんてつもりは毛頭ありません。ただし、あまりにもそちらの方向ばかりに偏っていて、詩人の「わかる」、画家の「わかる」、そして何より自分自身でしかできない自分自身の解釈によって「わかった」と思えることがすくなくなってしまっていることが問題ではないかと思っているのです。

「わからない」のは自分の問題だと腹をくくれば他人にとやかく言われることを気にせずに済む

それができなくなる傾向があるからこそ、わかること、わからないことをとにかく自分自身の問題として引き受けることが必要だなと思うんです。

そして、そのうえで冒頭にも書いたとおり、「わからない」を自分自身の責任として引き受けるのであれば、別にまわりの目を気にして焦る必要などなくて、すぐにわからなくても、時間をかけていつかわかればいいと余裕をもった構えをとることができると思うのです。「わからない」のがあくまで自分の責任であり、自分でしか解決できない問題だと腹をくくれば他人にとやかく言われる筋合いもなく、自分さえあきらめずにわかろうとし続ければ時間がかかること自体は何の問題もないはずです。

純化させずに保留する

そういう心持ちになれば、安易な答えをとりあえずあてはめて「わかったつもり」になることをせず、「わからない」未知のものをとりあえずわからないまま保留しておいて、心の片隅で気にしておけばよくなります。安易な答えで未知の対象を純化することなく、自分が本当に「わかった」と感じられるような解釈に出会えるまでは態度を保留しておくということもできるようになるはずです。そういう余裕ももてればいいですよね。

ただし、それは相手との共有や社会的合意が求められる以外の場合に限ってだとは思います。そういう意味では社会全体がそうした個々人の解釈の余地というのをあまりに減らしすぎてしまっているのでしょう。
これが問題です。もちろん、この場合の「社会」というのはほかならない僕ら自身のことであって、ようは誰かのせいというより僕ら自身が改善していくべき問題なんですよね。



関連エントリー

2009年08月19日

[ブログスカウト]lenovo IdeaPad S10-2は進化中

以前、モニターさせていただいた「lenovo IdeaPad S10e」に続き、
後継機種「lenovo IdeaPad S10-2」をモニターさせていただくことに。

※前回の記事は「PASSION HACK シャングリラ・ダイエットで差をつけろ!: [モニター]lenovo IdeaPad S10eは重かった」

コンパクトな外観

さて、やっぱりIdeaPadの見た目の小ささはすばらしい。
たまたま手元にあったA4サイズのちらしを半分にしたものと並べてみた。

ideapad_01_20090819.jpg

同じというといい過ぎだが、かなり近い。
黒いボディがより小さい印象を与えてくれる。

重さもS10eの1.38kgから1.2kgへの減量している。
わずか180gだが、持ち運びを考えると少しでも軽いに限る。

キーボードの満足度高し

結局のところ、わたしにとって大事なのは入力インターフェイスとしての「キーボード」に尽きる。
その点で、IdeaPadのレベルは高い。

ideapad_02_20090819.jpg

本体のサイズが小さいのだが、キーボードの配列は違和感がない。
少々狭いが、慣れれば解消できそうなレベル。

なによりすばらしいのは押下したときの感触。
S10e以上に、かっちりしている。
見事に、IBM ThinkPadの遺伝子を引き継いでいる。

ただし、残念なのがタッチパッド。
クリックするたびに「カタカタ」とうるさい。

ideapad_03_20090819.jpg

キーボードがすばらしい分、残念。

動作は快適

WindowsXPの起動は、まずまずのスピード。
アプリの動きも軽快で、日常使いには十分そう。

※実際にはインターネット接続まではできませんでした。

バッテリーの取り外しで四苦八苦

わたしが不慣れなだけかもしれないが、
バッテリーの取り外し箇所がわかりづらい。
簡単な図が入っているのだが、どうもなじめなかった。

ideapad_04_20090819.jpg

これだけのスペックで35,000円を切っているとは

価格コムで見る限り、
「価格.com - Lenovo IdeaPad S10-2 2957J2J 価格比較」
現時点で34,630円が最安値(2009年8月19日時点)。

おかげで、家電量販店のちらしを見るたびに、
価格を確認するようになってしまった。

ideapad_05_20090819.jpg

S10eからの正常な進化によって、
S10-2はわたしにとって購入対象になった。

関連サイト
Lenovo - ノートパソコン - IdeaPad Sシリーズ - Japan
【PC Watch】 レノボ、軽量化した10.1型ネットブック「IdeaPad S10-2」
スペック以上に大変身した第2世代の“S10”──カジュアルなIdeaPad S10-2を楽しむ (1/2) - ITmedia +D PC USER

※免責事項:わたしはブログスカウトさんからこの記事の執筆に基づいて謝礼をいただく予定です。

2009年08月19日

わからないことへの耐性

世の中、全体的にわからないことへの耐性がきわめて低くなってしまっているのではないでしょうか。

自分の目の前に何らかのわからない対象が存在すると、無視するか、その対象を差し出した人に対して苦情をいうか、あるいは、わからない自分をただひたすらダメだとレッテルをはり殻に閉じこもってしまうか。いずれにしても、わからない対象をわかってやろうという姿勢が長く保てる人はいないし、すぐにわからないまでもいつかわかってやろうと心に留めておける人もすくないのではないかという気がしてなりません。

わかろうとする努力が著しく欠けている

自分自身でわかりやすいものを求めてしまうだけでなく、相手に何かを提示する際にもわかりやすくすることを自分に課してしまう傾向があるような気がしています。わかりやすさに対して必要以上の価値をあたえてしまっているのではないかと感じます。わからないのは、わからないものを生み出した人のせいにしてしまい、わかることができない受け手の側の問題にすることがあまりにすくなくなってしまっているように思います。

その要因のひとつには、まわりのあらゆるものが人工物になってしまっていることもあるのだろうと思います。なぜ突然夕立が振り出し、びしょ濡れにならなきゃいけないかの理由がわからないといって文句をいう人はいないでしょう。自然が相手なら人はその理由がわからなくても「仕方がない」と思える。しかし、相手が誰かしらの意図によって生み出された人工の物、出来事であれば、他人のせいにできてしまう。わからないのはわかるようにしない相手のせいだと。

でも、これは当たり前ですが、相手が自然だろうと人工のものだろうと、何かがわからないことの原因の半分はそれをわかる側の責任でもあります。ところが、どうもそれを表現する側、作り手側、話をする側の一方的な責任にしてしまう傾向がみられます。
そうでなければ受け手の側が必要以上に、自分には理解する力がないと自分を責めることで、わかろうとする努力をする手間から自分を守ろうとするかです。
いずれにしても受け手側にわかろうとする努力の著しく欠けている点ではおなじです。

やってもわからないものがあるということを許容できない

そもそも、簡単にわかろうとしすぎるのです。
わかろうとする努力ができない傾向が強すぎるのです。

絶対にわかりきってしまうことがないものを、それでもひたすらわかろうとする努力をしつづけることができない人が多いのです。
自然を相手にすれば実はわかりきってしまうなんて状態はありえない。答えなどは永遠に見つからない。ただ、その時々の解釈が成り立つ場合があるだけです。科学的な法則さえも単に現代人が妥当だと感じられる解釈でしかなく、絶対的な答えなどではない。単なるお約束のうえに成り立つ妥当な説明でしかないことを忘れすぎです。

答えなどはなく、結局、ひたすらわかろうとしつづけ、その時々でこれだと思えるような解釈をつくりつづけていくしかないということを忘れてしまっている人が多いのではないでしょうか。
それゆえに、自分のなかで「なぜ?」を繰り返しつづけることができず、こうすれば結果が出るという方法を安易に求めてしまう傾向がある。やってみなければわからないということはなんとか認めることはできる人でも、やってもわからないものがあるということを許容できなかったりします。

未知の状況、未知の相手に対する対応能力が著しく失われる

これで何が困るかというと、ひとつには未知のものに対した場合の対応の懐の浅さが際立ってしまうということ。ちょっと普段と違う出来事や自分の知らない世界に出くわすと行動や頭の働きがフリーズしてしまったりする。

もうひとつには他者への配慮が著しく欠けてしまうようになること。相手との距離がはかれず、相手とのコミュニケーションに支障を生じるようになります。

他にも困ることはあるはずですが、いずれにしても型どおりの行動しかとれなくなり、未知の状況、未知の相手に対する対応能力が著しく失われていってしまうのだろうと思います。答えがわからないと対応できないのですから当然です。わからないものをわからない状態でも、なんとか自分の身で引き受ける方法の引き出しを普段から用意しておくということを怠っているから、そうなるのは仕方がありません。

わからないことへの耐性を鍛える

わからないという状態に耐えながら、それでもずっといつかわかってやろうと努力しつづける。もちろん、その努力はむくわれないとわかっていたとしても、そんな安易な理解を拒み続けて、わかろうとすることにこだわること。それができなくなっているのではないでしょうか。

昨日の「古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫」で書いた、「言葉の意味をわからなくする神」としての思兼神などというものをなぜ古代日本人が想定する必要があったのかが、もはやほとんどの現代人がわからなくなってしまっているのではないでしょうか。その人間自身の思考や認知に関する無関心さはいったいなんなんでしょうか。

他人とのコミュニケーション、周囲の環境とのコミュニケーションが不全になってしまうことを避けるためにも、わからないことへの耐性を鍛える必要があるのではないでしょうか。



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2009年08月18日

古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫

折口信夫さんの本がおもしろくてたまりません。

先日、このブログ上でも紹介した『古代研究―1.祭りの発生』に続けて、『古代研究―2.祝詞の発生』を読み終わりました。いまはさらに続けて、『古代研究―3.国文学の発生』を読んでいます。

折口さん自身が、この本に所収の「神道に現れた民族論理」に「日本人の物の考へ方が、永久性を持つ様になつたのは、勿論、文章が出来てからであるが、今日の処で、最も古い文章だ、と思はれるのは、祝詞の型をつくった、呪詞であつて、其が、日本人の思考の法則を、種々に展開させて来てゐるのである。私は此意味で、凡日本民族の古代生活を知らうと思ふ者は、文芸家でも、宗教家でも、又倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の研究から出発せねばならぬ、と思ふ」書かれていますが、僕も折口さんの本を読み進めながら、まさにそのとおりだと感じます。日本人の思考というものについて考えようとすれば、呪詞に立ち還ってみる努力が求められるだろうという考えが強くなってきています。

さらに範囲を広げていうなら、日本人の思考のみならず、先日の「なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか」でも書いたように、ことばと信念・希望といったものの関係、あるいは、それにともなうい行為としてのコミュニケーションを考えていくうえでも、呪詞や祝詞に目を向けることは非常に大切なことだと思えるのです。それはいわゆる脳科学や認知科学では手の届かない人間の思考や認知、ことばとの関係を考える方法を与えてくれるものだと思うからです。

そんな意味もあって引き続き折口さんに私淑していこうと思うですが、まずは中間報告として読み終えた『古代研究―2.祝詞の発生』について、そのエッセンスをご紹介していければと思います。

祝詞(のりと)

「祝詞の発生」がタイトルにも含まれている巻ですので、まずは祝詞の話から。

祝詞とは、「古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」でも紹介したように、初春前夜の大晦日の晩から初春の朝にかけて行われる一連の祭り―秋祭り・冬祭り・春祭り―において、祓え、禊ぎ、物忌みの意味をもつ真床追衾(まとこおうふすま)の儀を終えて、現人神として復活せられた天皇陛下が、高天原とおなじと考えられる高御座に登られ、天つ神のことばを宣り給われる、その詞が祝詞です。

その詞において、天皇は新しい一年をあらかじめ祝福され、人びとはその詞によって祝福されたとおりの一年がこれからはじまることを喜び、その詞をのべられた天皇への忠誠と天皇の健康を願う意味をもった寿詞を返すのです。
その寿詞がいまは極端に省略されて「おめでとう」と表現されていますが、元々は天皇へ自分の魂をあずけて忠誠を誓う言葉ですので、下から上に対してのみ用いられるのが「おめでとう」だったそうです。ですから上の人が下の人間に「おめでとう」をいうと忠誠を誓う意味になってしまうので、おかしな混乱が生じてしまうので、いまの用法はちょっとおかしいのだそうです。

話を祝詞に戻すと、「のりと」という言葉は元は発せられる詞を指したものではなかったようです。

のりととは、初春に当って、天皇陛下が宣処(のりと)すなわち、高御座に登られて、あらかじめ祝福の詞を宣り給う、その場所のことである。つまり、のりと屋のりと座の意味である。天皇陛下が神の唱え言をされて、大倭根子天皇の資格を得させ給う場所が、すなわち「のりと」である。そしてその場合に、天皇陛下の宣らせ給う仰せ詞が「のりとごと」である。最初には、あらかじめの祝福、すなわち「ことほぎ」であったが、しだいにそれが分化して、後には讃美の意味にもなり、感謝の意味にも転じた。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

詞を宣る処、すなわち高御座自体がのりとであって、そこで宣らせ給う唱え言自体は「のりとごと」と呼ぶのが元々の言葉の使い方だったようです。

こうした時間を経た語の意味の変化に目を向け、そして、意味の忘却によって生じる後世での合理的解釈に惑わされずに、古代のもともとの語の意味を探究していこうとする姿勢が、折口さんの古代研究のひとつの特徴をなしています。

御言詔持(みこともち)

ところで、この祝詞に代表される呪詞は、もともと天皇自身のことばとして発せられるのではなく、あくまで天つ神のことばを、天皇が代理で伝えるものです。それゆえ、折口さんは天皇を天つ神のことば=みこと(御言)をもつ役割としての御言詔持(みこともち)として捉えています。

ただし、代理といっても、僕らが考えるような意味での代理とはすこし違います。その代理の仕方はむしろイタコのそれに近い。なぜなら祝詞を宣る瞬間はすくなくとも天皇は天つ神と同格であり、天つ神とおなじ存在だからです。

このみこともちに通有の、注意すべき特質は、いかなる小さなみこともちでも、最初にそのみことを発したものと、すくなくとも、同一の資格を有するということである。それは唱え言自体の持つ威力であって唱え言を宣り伝えている瞬間だけは、その唱え言を初めて言い出した神と、全く同じ神になってしまうのである。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

つまり、これは天皇のみが「唱え言を初めて言い出した神」と同格になるというのではないのです。天皇が発せられた祝詞をまた別の人びとに伝える役割=みこともちの人も同様に、その言葉を発するときだけは神と同格だったのです。

天皇は神のみこともちであり、それゆえに倭の神主でした。神事が多く、常に物忌みをし、祭りを行わなくてはなりませんでした。一年を通じて祭りに忙殺されていたわけです。
そこで中臣という御言詔持(みこともち)ができたのです。中臣は、天皇の御言葉を群臣たちに伝達する職のものでした。中臣は天皇の御言葉を伝達するのが役割でしたが、そのうち、中臣の詞が祝詞といわれるようになります。いまの祝詞はその中臣の祝詞が平安期の延喜年間に書きとられたものです(『延喜式』)。

また、天皇と神との中間にあるものを中天皇(なかつすめらみこと)といいました。多くは皇女や妃がこの役にあたりました。推古天皇や持統天皇などの女性の天皇は本来、この中天皇にあたります。この中天皇の役割もまた中臣同様に天皇の御言を伝える役割をもっていました。それゆえ中天皇は天皇の妃であると同時に、最高の巫女でもあったのです。
みこともちの役割をもった人が神と同格にみられるということは、神に奉仕する高級巫女が神の資格を得るという現象にもつながりました。神に奉仕する高級巫女たちは職掌上、人びとと離れた生活をおくっているがゆえに、人びとは神のことばを伝える巫女も神としてみたのです。
天照大神も、本来は日の神ではなく、日の神に仕える高級巫女であるおほひるめむちであっただろうと折口さんは述べています。

また、みことである祝詞には、それを唱えると、どんな時間も場所も、その祝詞が最初に唱えられた原初の時間と場所になると考えられていました。

みこともちをする人が、その言葉を唱えると、最初にみことを発した神と同格になる、ということを前に云ったが、さらにまた、その詞を唱えると、時間において、最初それが唱えられた時とおなじ「時」となり、空間において、最初それが唱えられた処とおなじ「場処」となるのである。つまり、祝詞の神が祝詞を宣べたのは、特にある時・ある場処のために、宣べたものと見られているが、それと別の時・別の場処にてすらも、一たびその祝詞を唱えれば、そこがまたただちに、祝詞の発せられた時および場処と、おなじ時・処となるとするのである。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

こうした古代人の思考は、一地方の名にすぎない倭=大和が、天皇の勢力が広がる=天皇のことばが広がると同時に広い範囲を指す言葉になり、最終的には日本そのものを指す語になったことの根本をなすものです。
また、本来は高天原にあるはずの天安河原や天岩戸、天香具山などの天を関する場所が同時に、実際の地名として存在することもこうした古代人の思考によるものだと折口さんはみています。

八心思兼神(やごころおもいかねのかみ)

語ということを考えるうえでおもしろかったのは、八心思兼神(やごころおもいかねのかみ)についての話でした。思兼神は古事記や日本書紀にも登場する神ですが、正直よくわからない神です。ににぎのみことについて高天原からおりてくるのですが、いまひとつその役割がわかりません。

折口さんは「日本の昔の文章には、一編の文章の中に、同時に三つも四つもの意味が、兼ねて表現されている」といいますが、おもしろいのはその原因を思兼神にみているところです。

思兼神とはたくさんの心を兼ねて、思う心を完全に表現する、祝詞を案出する神である。つまり、祝詞の神の純化したものである。こういうふうに、日本の古い文章では、表現は一つであっても、その表現の目的および効力は複数的で、同時に全体的なのである。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

いまの僕らは言葉の意味を固定したものとして考えたがります。意味のゆれを嫌い、あいまいな言葉を使う人の能力を疑ったりします。ただ、そうした言語観はあくまで近代以降のものだと考えるべきです。以前に「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」で紹介しましたが、イギリスにおいても17世紀に英国王立協会(ロイヤル・ソサエティ)がシェークスピア演劇を排斥するという活動を行い、それに成功していますが、その活動が推進されたのは、シェークスピア演劇で用いられる英語が書かれた台本ではなく、舞台で声を通じて発話される台詞であり、それゆえに非常に両義的・多義的な意味を含んでいたからです。英国王立協会がその後、普遍言語といわれる言語のラディカルな改革運動をはじめ、実質上の初代総裁であった数学者のジョン・ウィルキンズによって0と1とバイナリー(二進法)によって何でもあらわせるというアイデアを提出するようになったことも、そこで紹介したとおりです。

このようなこともあわせみてもわかるように、言葉というものは本来多義的な意味を含んでいて当然で、それは日本語に限ったことではなかったのです。ただ、おもしろいのは古代の日本人は、そうなる要因として思兼神という存在を想定したところです。

折口さんは、思兼神が同時に「言葉の意味をわからなくする神」であったともいいます。

この神は、いろいろな意味を兼ねた言葉を、唱え出した神であった。「思ふ」という言葉を、我々は、内的な意味に考えているが、昔は唱えごとをするという意味があったと思われる。かけまくもかしこきという言葉には、発言と思考という意味がある。これとおなじく「思ふ」にも、唱えごとをすることを意味した用例があったらしい。思兼というのは、いろいろな意味を兼ねて考える、そういう言葉を拵えた神の名であった。すなわち言葉は、一語にも、いろいろな意味を兼ねたのである。
折口信夫「古代における言語伝承の推移」『古代研究―2.祝詞の発生』

「思う」が内的な意味ではなく、唱えるというアウトプットを含んだ語であったはずというのは、僕が「早く多く間違えよう」をはじめとするエントリーで常々アウトプット=思考であると述べているのと根本はおなじであるはずです。個の意識というものを取っ払ってしまえば、頭のなかで考えることと口に出すことに差はないはずです。また、つい最近まで人間が本を読むのにも黙読ということができず常に音読していたことも踏まえると、思うと唱えるがほぼおなじであるということもイメージしやすくなります。かけまくもかしこきが発言と思考の両方の意味をもち、それが何より思い兼ねる思考するということなのであれば、それを思兼神という外来魂のしわざと捉えた古代日本人の感性は鋭いというしかありません。

そう。それは「なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか」で書いたような、信念や欲求というものが常に言葉をはじめとした外部からの情報の力を借りずには成立しないこと、そして、それは実際に実現されるよりも先に、祝詞における予祝同様、先に言語において実現されるということと無関係ではないと思っています。そして、何より、それが自分の外からやってくる外来魂=思兼神を想像した古代日本人の思考力を僕らはもう一度しっかり見直すべきではないかと思うのです。

と、長くなるのでこれ以上は書ききれませんが、折口信夫さんの思想にはこんな風に山ほど宝が埋まっています。それを掘り起こさないなんてあまりにもったいなさすぎるのではないでしょうか。



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2009年08月17日

なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか

人間にとって自己実現っていうのは、一体何なんでしょうね。
自己表現欲だとか、他人とコミュニケーションしたがる(特に自分の話を聞いてもらいたがる)というのは何でしょう。

古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」ですこし紹介したように、古代においては天皇が宣る祝詞で予祝(ことほぎ)されたことがらは、現実になると考えられていました。これは言霊信仰につながる話で、天皇のことばだけでなく、「見れど飽かぬ」という『万葉集』に50近くあるといわれる表現が「見る」ことで自然のもつ生命力を肉体に宿らせると考えられていたように、古代人にとっては、ことばや見ることで対象を模倣することでその対象のもつ力を自らに宿らせることができると考えられたのは「古代人にとっての装飾」でも紹介したとおりです。

こうした表現で、自分自身の欲望を実現できるとする信仰は古代の人びとに限ったことのように思われがちですが、どうもそうではなく現代に生きる僕らもすくなからず保持しつづけている信仰であるような気がしてきました。
そうでなくてはブログを書いたり、tiwitterでつぶやいたり、着飾ってみせたり、誰かにおしゃべりせずにはいられなくなったりという、自己表現欲というか、コミュニケーション欲の説明がうまくできないような気がするのです。

何が自己実現を可能にするのか

古代人がことばを発すればそのとおりのことが実現されると考えたり、相手の名前を知ることで相手をコントロールできると考えたのとは程度こそ大きく違いますが、現代人が他人に対して何かコミュニケーション行為を行う場合もすくなからず自己実現や自分が表現したことの現実になることを希望する面がすくなからずあるように思うのです。

現代人の理屈でいえば、それは自分が実現したいことを相手にことばとして話し、そのことばを相手が理解し、その内容を相手が聞き入れてくれるからこそ、自分の希望が実現するということになる。ところが古代人はそうは考えていなかったようです。

人間神もしくは神聖な超自然的な力を与えられた人間、という観念は、宗教の歴史においては、いまだ神々と人間とが同じ秩序の中に存在しているとみなされていた初期の時代、つまりは、人間と神々とが越えがたい深淵(後の世の者にとってはそう思える)によって引き裂かれてしまう以前の時代に属するものである。(中略)初期の人間は、人間神もしくは神人間の中に、自らもやはり持っていると固く信じて疑わなかった超自然的な力の、単に程度の高いものを見ていたに過ぎない。
ジェイムズ・ジョージ・フレイザー『初版 金枝篇〈上〉』

超自然的な力で自分の希望をかなえる能力は誰もに備わっていて、「単に程度の高いもの」をもつ者を神としたにすぎないようです。人は多かれ少なかれ超自然的な力で、自己の希望を実現すると固く信じていたのが古代人の信仰だったのでしょう。そこにはおいては神と自分自身の差はそう大きくはなかったわけです。

ミコトモチ

この神と人との差が小さいことは、日本の古代においてもあったようです。例えば、折口信夫さんは『古代研究 2.祝詞の発生』のなかで次のように書いています。

天皇は、天上の神の御言詔(みこと)を伝達して、その土地の人、および、魂に命令せられる。その間は、天神と同じになられるのである。(中略)天皇は、天つ神とは別なお方であるが、同格になられることがあるので、我々の信仰では、天皇と、天つ神とを分つことが、できなくなっている。
折口信夫「古代人の思考の基礎」『古代研究 2.祝詞の発生』

天つ神と天皇の区別が明確でなかっただけではなりません。神や天皇のことばを伝える役目―ミコトモチ―を担った巫女などもしばしば女神と考えられたといいます。

そこに表現された内容が必ず実現する力をもった神のことば、天皇のことばを伝える役目である人が伝える、そのことばもやはりおなじ力をもっているわけで、それなら、そのことばを実際に伝えるミコトモチ(御言詔持ち)も神と同格に扱われても不思議はありません。おなじ実現力をもつのであればとうぜんでしょう。

なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか

日本においては、こうしたことばの力=言霊を信じたがゆえに、めったなことではことばを口にしない―ことあげしない―ようにする信仰もありました。ことばにすればそれが現実になってしまうかもしれないからです。

こうした考えを現代的にみて非科学的だとするのは簡単です。ただ科学的にみて正しくないということが、必ずしも古代的にみて正しくないとすることを証明することは科学にはできないはずです。そこには単に科学的な正しさと古代的な信仰の正しさの2つのまったく別の信仰があるにすぎません。

そんな、いつまでたっても埒があかなさそうな「どっちが正しい」論争に加担するよりも、僕としては、なぜ古代から形は変わっても、人間における自己実現が常に言葉やコミュニケーションと結び付いているのかということのほうに興味があります。
言いかえると、なぜ自己実現あるいは単なる希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのかです。

このあたりはちょっと深堀りしていくと面白そうなテーマだなと思いました。

 

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2009年08月14日

『デザイン思考の仕事術』感想をいただきました・7

『デザイン思考の仕事術』の感想を2名の方からいただいたのでご紹介。

これまでの感想、レビューは以下のリストから。



ここ最近では非常に名著

京都でWebのディレクションなどを行っているNobuyuki.さんからは、こんなお誉めの言葉をいただくことができました。ありがとうございます。

ここ最近では非常に名著だと思います。私の思っていることや考えていることも書かれているので、やっぱりそうだよねとうなづきたくなることが次々と書かれている上に、自分も学び直すキッカケにもなりました。

9冊の本を紹介されているなかの5番目に紹介いただいています。

他の方もそうでしたが、やっぱり「デザイン思考の仕事術のための基本姿勢・七箇条」を引用されています。
これ、結構人気ですね。

ヒントがたくさんありそうな本

もうお一人は「決済業界で、そっと背泳ぎを決めています」というtake23.yamamotoさんより。
「別の本を読んでいるので読みかけですが・・・」とうことですが、

読みかけだけど、ヒントがたくさんありそうな本です。
随時、メモをします。

だそうです。
「決済業界」で働く方にも、ヒントになることがたくさんあると言ってもらえるのはありがたいです。
「随時、メモ」というのも、僕があの本で書いたことを実践いただいているので、うれしいな、と。

というわけで、今日のところは以上2名の感想を紹介しました。
あと話はそれますが、なぜか最近、ペルソナ本が売れてるんですよね。ありがたいことです。
Amazonでは在庫があと2冊になっているので、買おうかなと思っている方はお早めに。

 

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2009年08月11日

第24回WebSig会議 「100人で考える、理想的なサイトマップの形と標準書式」

  第24回WebSig会議「100人で考える、理想的なサイトマップの形と標準書式」開催のお知らせがあったので、紹介します。