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2009年08月10日

[記事][アクセシビリティ]WebアクセシビリティからWeb Adaptability(アダプタビリティ)へ

Webアクセシビリティの限界を補完するためのWeb Adaptability(アダプタビリティ)。詳細はまだ分かりませんが、これからのキーワードの1つになるかもしれません。

アクセシビリティの限界

Web Adaptability(アダプタビリティ)とは、“From Web Accessibility to Web Adaptability” Paper Published « UK Web Focusで発表された概念です。著者のBrian Kelly氏によるサマリーは、“From Web Accessibility To Web Adaptability”: A Summaryで読むことができます。

Brian Kelly氏はアクセシビリティについて次のように述べています。

"disability results from the interaction between persons with impairments and attitudinal and environmental barriers that hinders their full and effective participation in society on an equal basis with others". Disability is therefore a social construct and not an attribute of an individual. In particular, resource accessibility is an the matching of a resource to an individual's needs an preferences. – and is not an attribute of a resource.

障害とは、個人の資質に属するものではなく、社会的な構成物である。特に情報リソースのアクセシビリティとは、リソースそのものの特性ではなく、個人のニーズにマッチさせることである。

From this perspective we see the limitations of the WAI's approach to accessibility, which regards accessibility as a characteristic of the resource (which should conform to WCAG guidelines) and the tools used to create the resource (which should conform to ATAG guidelines) and view the resource (which should conform to UAAG guidelines). In a previous paper we have described in more details the limitations of the WAI approach to accessibility

この考え方にたてば、WAIのアクセシビリティへのアプローチは情報リソースの特性に焦点を合わせており、著者たちはそれに限界を感じている。

アクセシビリティの視点

著者はアクセシビリティを3つのアプローチとして捉えています。

  1. Web accessibility 1.0:WAIのようなアプローチ
  2. Web accessibility 2.0:特定のグループや領域に応じ、そのグループごとによりよいユーザエクスペリエンスを提供するアプローチ
  3. Web accessibility 3.0:より個人のニーズや好みに焦点を合わせたアプローチ

ただ、このように書いてしまうと、2.0や3.0がより進んでいるという印象を与えかねませんが、実際は相互に補完するものであると著者は述べています。

Web adaptabilityとは、

他者と同じ条件を持ちながらも、障害・態度・環境などのバリアによって社会的な参加を拒まれている人たちをサポートしようとする試み

であると定義づけています。

Web adaptabilityの事例

  • 聴覚障害を持つ人たちのE-learningシステム。デザインや開発プロセスにユーザを巻き込み、WCAGのガイドラインよりも特定の障害を持つ人たちのユーザビリティや満足度を最大化させることに注力した。
  • 聴覚障害を医学的な障害と見なすのではなく、文化だと位置づける。Deafness and the User Experience日本語訳)が参考になる。
  • オーストラリア政府にとってWCAGのガイドラインを遵守することは時間的にも人材的にもリソースが足らなかった。Web adaptabilityのアプローチを用い、期限通りに且つ予算内で、ユーザビリティもアクセシビリティも向上させる。

などです。

WebアクセシビリティとWeb adaptabilityを一緒に。

現時点で論文の本文を読んだわけではないので、詳しいことはまだ分かりませんし、具体的なアプローチをどうすればいいのかも分かりません。

しかし、Deafness and the User Experience日本語訳)を参考にすると、動画にキャプションさえつければOKというわけにはいきません。障害ごと、いやユーザごとの特性を踏まえた上でソリューションを提示しなければいけないことが分かります。

まとめると、WCAGを参考に基底的なアクセシビリティを向上させる。その上で、Web adaptabilityでユーザごとに最適化したユーザエクスペリエンスを提供する。そんなことができるようになるのかもしれません。

先ほど論文を送ってくれとメールしておいたので、まずはそれをじっくりと読んでから(誤読なく読めるのかめっちゃ不安)、いろいろと考えたいと思います。

2009年08月10日

WebアクセシビリティからWeb Adaptability(アダプタビリティ)へ

Webアクセシビリティの限界を補完するためのWeb Adaptability(アダプタビリティ)。詳細はまだ分かりませんが、これからのキーワードの1つになるかもしれません。

アクセシビリティの限界

Web Adaptability(アダプタビリティ)とは、“From Web Accessibility to Web Adaptability” Paper Published « UK Web Focusで発表された概念です。著者のBrian Kelly氏によるサマリーは、“From Web Accessibility To Web Adaptability”: A Summaryで読むことができます。

Brian Kelly氏はアクセシビリティについて次のように述べています。

"disability results from the interaction between persons with impairments and attitudinal and environmental barriers that hinders their full and effective participation in society on an equal basis with others". Disability is therefore a social construct and not an attribute of an individual. In particular, resource accessibility is an the matching of a resource to an individual's needs an preferences. – and is not an attribute of a resource.

障害とは、個人の資質に属するものではなく、社会的な構成物である。特に情報リソースのアクセシビリティとは、リソースそのものの特性ではなく、個人のニーズにマッチさせることである。

From this perspective we see the limitations of the WAI's approach to accessibility, which regards accessibility as a characteristic of the resource (which should conform to WCAG guidelines) and the tools used to create the resource (which should conform to ATAG guidelines) and view the resource (which should conform to UAAG guidelines). In a previous paper we have described in more details the limitations of the WAI approach to accessibility

この考え方にたてば、WAIのアクセシビリティへのアプローチは情報リソースの特性に焦点を合わせており、著者たちはそれに限界を感じている。

アクセシビリティの視点

著者はアクセシビリティを3つのアプローチとして捉えています。

  1. Web accessibility 1.0:WAIのようなアプローチ
  2. Web accessibility 2.0:特定のグループや領域に応じ、そのグループごとによりよいユーザエクスペリエンスを提供するアプローチ
  3. Web accessibility 3.0:より個人のニーズや好みに焦点を合わせたアプローチ

ただ、このように書いてしまうと、2.0や3.0がより進んでいるという印象を与えかねませんが、実際は相互に補完するものであると著者は述べています。

Web adaptabilityとは、

他者と同じ条件を持ちながらも、障害・態度・環境などのバリアによって社会的な参加を拒まれている人たちをサポートしようとする試み

であると定義づけています。

Web adaptabilityの事例

  • 聴覚障害を持つ人たちのE-learningシステム。デザインや開発プロセスにユーザを巻き込み、WCAGのガイドラインよりも特定の障害を持つ人たちのユーザビリティや満足度を最大化させることに注力した。
  • 聴覚障害を医学的な障害と見なすのではなく、文化だと位置づける。Deafness and the User Experience日本語訳)が参考になる。
  • オーストラリア政府にとってWCAGのガイドラインを遵守することは時間的にも人材的にもリソースが足らなかった。Web adaptabilityのアプローチを用い、期限通りに且つ予算内で、ユーザビリティもアクセシビリティも向上させる。

などです。

WebアクセシビリティとWeb adaptabilityを一緒に。

現時点で論文の本文を読んだわけではないので、詳しいことはまだ分かりませんし、具体的なアプローチをどうすればいいのかも分かりません。

しかし、Deafness and the User Experience日本語訳)を参考にすると、動画にキャプションさえつければOKというわけにはいきません。障害ごと、いやユーザごとの特性を踏まえた上でソリューションを提示しなければいけないことが分かります。

まとめると、WCAGを参考に基底的なアクセシビリティを向上させる。その上で、Web adaptabilityでユーザごとに最適化したユーザエクスペリエンスを提供する。そんなことができるようになるのかもしれません。

先ほど論文を送ってくれとメールしておいたので、まずはそれをじっくりと読んでから(誤読なく読めるのかめっちゃ不安)、いろいろと考えたいと思います。

2009年08月09日

自分自身の心の動きの正体にこだわってみる

最近のワークショップなどの講義では「誰のせい?」という話をすることが多いです。その話の最後には「誰のせい?」かを問う姿勢とは別に、「仕方がない」という受け止め方があることを指摘しています(例えば、突然雨が降って来て濡れてしまうのは「誰のせい?」ではなく「仕方がない」)。



ただ、それ以前に問題を自分自身が関わる問題として受け止められるかということがあるのかもしれません。
問題を他人事として受け止めることができない。自分自身の問題として受け止められない。他人のよくないところを見つけることはできるのに、自分のよいところを見つけられない。いや、そもそも自分自身に向き合うことができず、自分が何を言っているのかを考えようともしない。考えることから逃げてしまう。
そういう姿勢に自分自身が陥っていないかどうか。

「誰のせい?」と責任の所在を外にばかり求めるのではなく、逆に他人の問題をも自分の問題として受け止めることからはじめるべきかもしれません。
何らかの対象に対して「それは違う」とか「これは問題だ」とか感じたら、それは単にその対象が一方的に悪いわけではなく、あくまでそう感じとった自分自身の価値観との共犯関係において悪いわけですから。
対象とともに共犯関係にある自身の解釈という心の動きの正体にこだわってみることができるか/できないか。そこに何かをつくりだしていく人と、傍からただ文句ばかり言い続けていく人の分岐点があるのかもしれません。

他者ではなく自分自身に目を向ける

たとえば、ある品が使いづらいとしたら、それはその品の側の問題であると同時に、使いこなせない人の側の問題だと考えてみる。ある文章が読みづらいとしても、それは読みづらい文章と読むための忍耐力に欠ける読者側の問題でもあるという考えからスタートしてみる。つまり、何かに対して不満を感じたら、それを自分のせいだとして引き受けてみる。共犯者としての自分に目を向けてみる

それをしなければ、単に責任を相手に対して一方的に押し付けているだけで、自分はその事象に対する傍観者どころか、自分自身の傍観者になり下がってしまいかねません。ワイドショーのコメンテーターのように、傍観者的発言だけを繰り返す思考停止の機械になり下がってしまいます。

そうではなく、相手側の悪いところはひとまず置いておいても、自分がなぜそれを悪く感じたのか、その悪さを直すためには自分の何が変わるべきかに目を向けるべきではないかと思うのです。生産的な思考はそこからしか生まれてこないのではないか。そこに自分自身が存在するのだから、そこに目を向けなければ、結局、自分から逃げるだけになってしまうのではないか。自分から逃げていることを誤魔化すために、他者の言動にばかり目を向けて他人の間違いや失敗だけをあげつらうことになってしまうのではないでしょうか。

もちろん、その逆に何らかの対象によい評価をする場合もおなじで、それは対象自体がよいのと同時に、そのよさをちゃんと評価できる人の側のよさでもあるのだから、それは結局、自分の好みというバイアスを探ることにつながるでしょう。

自分自身を現状把握するところから

「まわりを変えたければ、まず自分が変われ」。よく言われることです。自分に何かに対して不満を感じているのだとしたら、その半分は自分の責任であるわけですから、まわりを変えようとするより、手っ取り早く自分の側を変えてみる方が改善への近道であるというのは理にかなっているように思います。

自分自身を変える。その努力をする前提として、変わったかどうかを認識するための指標として、まず現時点での自分を知る必要があると思います。ある対象に対して自分がどのような評価をするのか、また、その評価は自分自身のどんな価値観に由来しているのか、です。

それは自分の心の動きにしっかりと目を向け、その動きのメカニズムを考えるという作業を自分に課すということになるのでしょう。
何か自分にとって不都合や不愉快なことがあったとしても、それを対象に対して文句をいって終わりにする (思考停止モードに移る)のではなく、なぜ自分がそう感じたのかを考えてみることを優先するのです。

他人との意見の食い違いも多くは立ち位置の違いからくるものだったりします。その際、相手のことをどうこういうよりも自分のポジションを反省するほうが実は自分にとっては有益だし、結果として早く相手との溝を埋めることにもつながりやすいはずです。
ようするに、他人のせいにするより自分のせいだと捉えて、その改善の方向性を探るのです。それは自分の物事の見方を広げることにもなる。自分の認識力や問題解決力を高めることになる。

仕事ができる人というのはこういうことを普段からやりなれているのでしょう。一方で仕事に問題がある人は自分の責任を引き受けることができずに、他人の文句ばかりいうばかりで、結局自分の環境もすこしもよくならなかったりするのではないでしょうか。

それまで見えなかった自分が見つかるだけでも価値はある

そのためにも逃げずに自分に向き合う必要がある。何かというとすぐに他人のせいにして逃げるのもアレですが、かといって自分はダメだ、自分にはむずかしいと繰り返すばかりで、そうなる原因=心の動きのメカニズムを探り、改善のためのポイントを見つけようとしないなら、それも結局のところ、自分から逃げているのと変わりません。

そうではなく、自分の立ち位置の問題点もしっかり認識しながら、相手の立ち位置との差異も踏まえたうえで、統合的な解決策を探る道を見つけていく。いや、改善策など見つからなくてもいいのかもしれません。改善されなくても自分自身に目を向けて、それまで見えなかった自分が見つかるだけでも非常に価値のあることだと僕は思います。
だって、世の中が自分の都合よく変わることばかりを望むなんて、それこそ不毛だし、非現実的ですから。それよりも手っ取り早く自分自身を変えていく努力をし、その点において結果を出すことを望む方が健全なのではないでしょうか。

人間を知る近道のひとつはきっと自分自身に目をむけること

テレビをみながら独り言をいうように、他人の文句ばかり言っているようではだめです。それよりも自分自身の心の動きをしっかりと引き受けなくてはいけないと思います。そして、「ことばにならないものがある」などということばで妥協することなく、徹底的になぜ自分はそう感じるのか、そう考えるのかを探っていき、それをことばとして積み重ねていく必要があると思う。

人間を知る近道、他人のことを理解する近道のひとつは、きっと自分自身に目をむけることなんだと思います。自分自身に目を向けるといっても、いわゆる自分探しとは違います。いわゆる自分探しはあたかも変わらない自分があることを想定して、変わっていく自分に背を向けた行為であるように思います。
そうではなく、自分自身を固定しようとする罠にはまらずに、自分が変化してしまうならそれを追いかけ、繰り返し自分自身を問い直していくことが必要だろうと思います。さらには、変わっていく自分とその変化の舞台となる環境の側の動きに目を向けられるようになると、また、そこで視野は広がって、物事が違ってみえるようになってくるでしょう。

間違いを指摘する側より、指摘される側にまわる

それには自分のいまの力で認められるものよりも、認められないものや認めるのがつらいこと、わからないもの、相対するのにパワーがいるもの、そうした対象にぶつかっていく姿勢が必要なのだろうと思います。ちょっとマゾヒスティックになるくらいがいい。自分を変えるには、自分の内にあるものからではなく、自分の外側にあるもので自分にすこし拒否感があるものを相手にするとよいのではないか、と。
なぜなら、その拒否しているものこそが実は自分が目を背けている自分自身だったりするのだから。

間違いなんて恐れる必要はなく、どんどん自分自身が自分自身について考えたことを口にしていくのです。間違いなどは気にしなくていい。なぜなら、間違いはないのだから。間違いなんてものは、外から傍観者が勝手に間違いだと決めつけるだけだから。
傍観者気取りで他人の間違いを指摘するばかりの側にまわるよりも、間違いをおかしながらもなんとか自分自身で答えをみつけるために必死に考え行動しつづける人のほうがよいのではないでしょうか。

関連エントリー

2009年08月08日

【告知】第3回ユーザー中心のWebサイト設計ワークショップ参加者募集

ひさしぶりにデジタルスケープ社主催の「ユーザー中心のWebサイト設計ワークショップ」をやります。

開催日は9月19日(土)、26日(土)の2日間。
詳しくは、こちらのページでご確認ください。

ちなみに、これまでやった2回分の内容などは以下のエントリーでご確認いただけます。
第1回目(2008年10月18日、25日開催)
第2回目(2009年2月21日、28日開催)

前2回よりも、KJ法からペルソナへの落とし込みのあたりは、さらにパワーアップしています。やる内容はおなじでも、受講してみての体験は違うものになるかも。

興味のある方はぜひご参加ください。あるいは御自身ではなんとなくマスターされている方などは、会社の若手スタッフに受講させるというのもありか、と。

開催内容、申し込み
http://www.dsp.co.jp/seminar_training/detail.php?id=89

2009年08月08日

それでも、デザインの核は装飾である。

すこし間が空いてしまいましたが、「デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである」というエントリーを書いたら、「装飾はデザインという行為の一手段に過ぎない」とか、「こればっかりは聞き捨てならない。『装飾』という言葉は違うと思う」といった反論がいくつかありました。
まぁ、ちょっといきなりあれだけを読むと誤解されるかもしれませんね。

でも、そもそも、どうして「装飾」という言葉にそんなに敵対視した感情が起こるのかがわからず、ちょっとびっくりでした。なぜ「装飾」という言葉をそれほどまでに拒否し、「一手段に過ぎない」なんて地位に落とし込めてしまうのか。「装飾」というのは、そんなにも嫌悪の対象になるものであることが驚きでした。

デザインとは問題解決? はい。もちろんです。

このブログを長く読んでいる方や、僕の本(『ペルソナ作って、それからどうするの?』『デザイン思考の仕事術』)を読んでいただいた方なら、御存じすぎるくらいのことですが、僕はすくなくともこの2年のあいだ、「デザインとは単に形や色などの表面的なスタイルを考え、作り出すだけの仕事ではない」と繰り返し唱え、デザインとは問題発見~問題解決の仕事であると様々な場面で言い、
  • デザインは生活に秩序を提案し実現するもの」だと、
  • 物に意味を与える仕事」だと、
  • いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら、その仕事はデザイン」だと、
  • あえて定義するならデザインとは、人間自身の生活、生き方、そして、生命としてのあり方を提案する仕事」だと
書いてきました。

一般的なイメージとして、デザインが色や形などのスタイリングを決める仕事だと思われてしまっていることに対して、

僕らは長いあいだ、勘違いしていたようです。デザインの仕事というのがあると誤解していたんです。実際にはデザインとは僕らが勘違いしていたような狭い範囲の仕事ではなかったのです。

と書いた『デザイン思考の仕事術』の「はじめに」の一部は、本の帯の裏面にも印刷されています。
このような意味でデザインを捉えるように、何度も繰り返し言葉を費やし、ワークショップの場なども設けさせていただいたのは、ほかならないこの僕です。
なので反論いただいたことは、僕自身が2年間言い続けてきたことでもあるわけです。

もちろん、その活動が必ずしも多くの人にいきわたるほどの力があったなんて僕自身思いません。むしろ、力不足でそのことばが生き届いていないがゆえに、誤解を生まれてしまうという面もあるのでしょう。

デザインの必要条件と、よいデザインの必要十分条件

僕が考えを変えたと思ってのことなら、それも違うんです。
「生活に秩序を提案し実現する」ことも「物に意味を与える」ことも「いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をする」ことも「人間自身の生活、生き方、そして、生命としてのあり方を提案する」ことも、デザインする上での必要条件であるとの思いは、僕のなかですこしもゆらいでいません。そうした視点に立たないデザインはそれこそデザインとはいえないと思っています。その意味で反論をしてくれた方の考えと大きく違わないのでは、と思っていますが、どうでしょう?
いや、反論してくれた人以外にも、僕のあのエントリーを誤解した人がいるかもしれませんが、デザインが生活に秩序を提案し実現するものであるという考えに変わりはありません。

でもね。僕はそれでも「デザインの核は装飾である」と考えてみようと思う気になったんです。
先の条件はいずれもデザインの必要条件ではあるといまも固く信じていますが、それ以上に装飾性は、よいデザインの必要十分条件ではないかと考えるようになったのです。

物心は二相ではなく不二である

なぜ、僕がそちらの方向(デザインにおける装飾性)に思考のベクトルを向け直したのか。

それは「問題解決」的な意味でのデザインに視点を向けただけでは、デザインを使う側の立場に立った際の評価基準を説明しきれないところがあるからです。
人は、単に自分自身の問題解決をしてくれるだけのものでは、必ずしもそれをよいデザインとして評価しない側面があります。それは決してデザインをスタイリングのことだと誤解しているからではなく、デザインの言葉を抜きにした物事への評価としてそうした側面が人間にはあるということです。僕がこれまでと違う方向に思考のベクトルを移したのは、まさにそのことに目を向けなくてはいけないと思ったからです。

どう考えても、その人にとっての問題を解決してくれさえすれば、人はそのものに満足するような生物だとは思えません。合目的性や、利用時の使い勝手や不満のなさのような目的ドリブンなデザインだけでは人は満足しないし、そのものに魅了されることはないはずです。

これは柳宗悦さんが「用の美」を説く際に想定している「用」の捉え方にもつながっています。

ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。

物への用と心への用。
それを柳さんは、バラバラに捉えられるもの(二相)ではなく一体としてあるべきもの(不二)として捉えます。

機械的に問題解決をするのであれば、物への用のみで事足りるのです。ですが、人間にとっての問題解決とは実は事前に存在する問題をただ解決すればよいのではない。人は問題解決のために生み出された物そのものを更なる問題として認識してしまい、それそのものを評価にしてしまうのです。物心への用が不二の状態で必要となるのはまさにそのためです。

お飾り、付け足しではない本質としての装飾性

装飾なのか、問題解決なのかの二者択一ではないんですね。モノの側からみて言うから、そういう分割した物言いが可能になるのですが、使う人間の側に目を向ければ装飾だろうと問題解決の道具だろうとモノはひとつです。
そして、何よりも問題解決の視点からだけではモノのスタイルは決まらない。そこに僕が装飾と呼ぶ過剰or不足の視点が入ってはじめてモノの形はピタッと決めることが可能になるはずです。

デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである」で、僕は、

デザインとは最適解(もしくはそれを生み出す仕事)ではありません。
過剰あるいは不足が生み出す装飾性を帯びた解(もしくはそれを生み出す仕事)です。

と書きました。
目的ドリブン、問題解決という方面からのみ考えたのでは、過剰あるいは不足としてしか理解不可能な装飾性は、実は、人間という生物のためのデザインにおいては、単なるお飾りや付け足しではなく、本質的に不可欠なものではないかと思えるのです。

このあたりまで来ると、「デザインの核は装飾である」といっても、それは僕がこれまで書いてきたこととそんなに違ったことではなく、その延長線上にあるものだということもわかってもらえるのではないかと思いますが、いかが?

98パーセントぐらいはフリルの方にエネルギーを注いできている

ただ、確かに僕自身、いまだにその過剰や不足としてデザインにまといつく必然性をもったもののことを「装飾(性)」と呼んでよいかという用語の面での迷いはあります。

ただ、今回僕があらためて、この問題に取り組まなくてはいけないと自分にテーマを課し、そのテーマを考えるにあたって「装飾」という語を選んだのは、1年半以上前に読んだ原研哉さんの次のようなことばがずっと念頭にあったからです。

 デザインというのはフリルじゃないよとずっと言われています。でも人類のものづくりを冷静に観察すると、98パーセントぐらいはフリルの方にエネルギーを注いできていると思う。近代以前の、長い人間の歴史の中で見ると、やっぱり装飾こそがデザインだったと言わざるを得ない。
原研哉、阿部雅世『なぜデザインなのか。』

先のエントリーに反論してくれた方などは、僕なんかに反論する暇があったら、まずはこの原さんの言葉への反論を考えたほうがいいと思うんですよね。僕自身、その方向性を探ったのがこの2年間だったのかもしれません。それでも反論できる言葉は思いつかなかった。だから、逆にその言葉自体に向き直るしかなかったんです。

まじめな話、僕なんかにムキになって反論する元気があるなら、世の中の人にきちんとその主張を伝える努力をしていただいたほうがいいと思います。そんな努力もせずにただのブログの1エントリーに騒いでたってダメでしょ? 力を使うべきところが間違ってますよね。特定の誰かの発言への反論としてではなく、もっと定常的に「デザインとは人びとの生活の問題を解決するための秩序をつくる」ことだと積極的に発言する努力をしてください。そのほうがデザインに対する誤解をとくことにつながるはずですから。

フリルの方にエネルギーを注いでいないものがたった2パーセントしかないのに、デザインは問題解決とだけいうのは事実に反しているのですから。頭のなかの信念を主張する前に、冷静に事実を見つめ返す必要があります。「どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする」で書いたように、まず自分自身の身のまわりの事実から。

僕自身が「装飾」という問題に立ち返れたのも、実は自分自身のものを評価する眼を冷静に見つめ直したからにほかなりませんし。

デザインは豊饒の暗喩であり、人為の痕跡をうたいあげる装飾

先の原さんの発言は、阿部さんとの対談前に書かれた『デザインのデザイン』の内容について阿部さんに紹介していることからはじまっています。

その内容は、次のような文章ではじまっています。

デザインは元来、装飾ではなかったか。いわゆる様式的な装飾、すなわち「フリル」をとって合理的な精神で物の形や色を考えていくのがモダニズムの発想であるが、いわゆるシンプルというコンセプトを人類が手にしたのは人類史的には比較的最近のことである。誤解を恐れずに言えば、長い人類史のほとんどの時間の中で、デザインは豊饒の暗喩であり、人為の痕跡をうたいあげる装飾であった。

(注:この部分は元々日本語で書かれた『デザインのデザイン』にはないもので、英語で"DESIGNING DESIGN"として発表されたものの日本語版としての『デザインのデザイン』にのみ掲載されている文章です。)

僕は何もここで原さんがデザインを「人為の痕跡をうたいあげる装飾」だといっているから、「デザインの核は装飾である」と言っているわけではありません。ただし、僕が見ているものは、ここで原さんが見ているのとおなじだったりはします。

つまり、モダンデザイン以降の範疇で、人間とデザインの関係を考えてしまうのではなく、古代も含めたもっとそれ以前の時代を視野に入れて、人間とデザインの関係をみているのです。

モダンの前提を超えて

このことを自分のなかでちゃんと捉えようとしなければ、杉浦康平さんのようなデザイナーが、アジアの古い意匠を見て集めまわることをライフワークにし、その結果を『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』『文字の美・文字の力』などの書籍にまとめているかも理解できないでしょうし、それこそ古代を対象とした白川静さんの文字学や折口信夫さんの古代学から学ぶこともできないでしょう。

もちろん、今年のはじめに書いた「模様を生む力の衰え」で紹介した松岡正剛さんがいう”現在の日本は「文様の扱い方が超ヘタクソ」”ということばの意味を理解できないでしょう。

いや、それだけではない。モノとワザという観点から人間の身体活動とモノとの関係を研究する川田順造さんのような視点や、イメージング・サイエンスという人文科学の新しい領域でアナロジー思考=つなぐ技術としての人間意識を考察するバーバラ・M・スタフォード、デザインを表象の問題として、スタフォード同様にアーリーモダンの世界を読み解く高山宏さんなどの考えも視野に入れて「装飾」を考えないといけないと思っています。

シンプルがコンセプトとして定着しているモダンデザインの範疇におさまって、デザインは装飾ではない、すくなくとも装飾がデザインの核ではない、と主張することは簡単です。
でも、それは近代が前提とする合理的な精神、モダンデザインの普遍的デザイン(ユニバーサルデザイン)の発想を是としたうえでなければ、無批判に想定してよい考えではないはずです。
モダンの試みがすでに破綻してしまっているいまこの現在において、いったい、そんな狭い視野でものをみていてどうするの?と思います。

装飾性に再び目を向けるということ

モダンデザインからの学びとそれに対する反省については『デザイン思考の仕事術』の「はじめに」でも扱っていますので、興味のある方は読んでみてください。

こうした近代ヨーロッパが抱えた問題を解決する役割を果たしたのが実はモダンデザインのプロジェクトでした。バウハウスに代表されるモダンデザインのさまざまなプロジェクトが目指したのは、失われた生活秩序を新たに築きあげることでした。バウハウスに代表されるモダンデザインのプロジェクトは、新しい生活文化や新しい生き方を、具体的な新しい生活の道具や空間をデザインすることで提示したのです。

ただし、あくまであの本では、いったんはデザインを色や形などのスタイリングを考える仕事ではないことを理解いただくために、心への用よりも物への用に重きをおいた内容になりました。
だからこそ、次のテーマとしてはそこであまり語らなかった心への用を考えるためにも人間にとっては「装飾」とは何かを考えていかなくてはならないと思っています。

とはいえ、このテーマでの探究は僕にとっても、まだはじまったばかりです。「20%は未知の領域へのチャレンジに充てる」のスタンスで新テーマに挑戦しようと思ったわけです。

もちろん、これまでもそのことはずっと頭にありましたし、そういう視点で杉浦康平さんや白川静さん、折口信夫さんの本にも目を通してきました。ただ、明確にテーマを決めて、それについてしっかり考えていこうと思ったのは、まさに先日のエントリーのタイミングでした。

なので、あのエントリーの意図が正しく伝わらず、誤解を招いてしまったのは、僕の書き方にも多分に問題はあったことは認識しています。そういう誤解を解くためにも今回のエントリーを書き、あらためて「デザインの核は装飾である。」という仮説に向かう僕の意図を理解してもらえる可能性が増えれば、と思いました。

そういう方向性でいっしょに考えてみませんか?

   

関連エントリー

2009年08月07日

どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする

自分で爪弾くギターの音色、自分で作った料理の味、自分で描いた絵の出来ばえ。その音、その味、その色形を、自分自身で評価できなければ、それがうまくできたかどうかは判別できません。
音や味や色形がどうも自分の思った通りのものでなければ修正するし、なぜよくないかを考えてうまくやる方法を考えるのではないでしょうか。

自分の行為の結果としてのフィードバックを受け、人は自分の行為を反省し、その反省を次の行為のために活かすことができる。それはフィードバックを正しく評価する耳、舌、眼があって、はじめて可能になるループです。

言い換えれば、それは自分が何を求めていて、何のために行為を行っているかがわからなければ、自分自身の行為さえ評価ができないということでもあります。

結果の評価ができなければ方法の評価もできない。ゆえに客観的に正しい方法を求めてしまう

自分が何を求めているかも考えずもせずに、ただ成行きのまま行為してしまう人がいます。

その場合、何を求めているかが不明瞭だから、自分の行った行為の結果を評価できません。
そうなると行為の結果だけではなく、行為そのものが正しいかが不安になってきます。ただし、その行為の正しさを支えているのは実は結果の正しさだけなので、もともと結果を評価する基準のないまま行為してしまっている以上、行為の正しさを自分の行為の内にではなく、外に求めるようになってしまいます。

そうなると、正しいやり方はどれだ?ということばかりが気になってくる。
間違いを犯すなら自分サイズで」で書いたように、味の判断が自分ではできないから、味の正しさの代わりに、やり方=レシピの正しさに依存しようとするようになります。

自分自身で行為も結果も判断する力をもたないから、正しい答え、正しいやり方を外に求めてしまう

その場合、自分の目指す味なり音なり絵なりをがあって、それを完成するための方法を手にしたいという欲求とは異なる欲求がはたらきます。
自分が求めるものが何かをイメージしようとしないまま、とにかく正しい方法を手に入れようとするので、方法の正しさを結果で判断できません。

その場合は自分でその方法を実行してみても、自分が正しく実行できているかがわからないので、ただ、ひたすら自分が正しい方法を正しく実行できたかという客観的な基準に頼るしかなくなってしまいます。

自分自身の感性で、自分の行為もその結果も判断できないという困った状態ができるのは、たぶん、そういうことなのでしょう。自分自身で行為も結果も判断する力をもたないから、正しい答え、正しいやり方を外に求めてしまうのでしょう。

自分の判断を可能にする好みというバイアスが鍛えられていない

僕が『デザイン思考の仕事術』で、自分の好みを知ることの重要性に触れているのは、まさにそのためです。

それにはまず個々人が自分の生活のなかで自分自身の好みを探っていくことが大切です。好みというのは人が物事を判断する際のバイアスです。好き嫌いが物事の理解にバイアスをかける。加重をかけます。それによって何を選択するか、何を拒むかが決まります。

好みというバイアスがあってはじめて、人は何かを選択し何かを拒むことができるようになります。

自分の行為の結果の評価もバイアスがあってはじめて可能になり、その結果を受け入れることも拒むことも可能になる。逆にいえば、好みというバイアスがなければ自分の行為の結果を評価することもできないし、自分の行為そのものが正しいか間違っているかの判断もできないのです。
つまり、それは自分自身の行動と結果のフィードバックループを回すことができないということであり、行為と結果の判断を外の客観的なマニュアルや解答に求めることができなくなってしまうということなのです。

おそらく、正しいやり方、正しい答えばかりを気にする人は、自分の好みというバイアスを鍛えることを怠っていて、自分の耳、舌、眼などを養う努力が徹底的に欠けているのだろうと感じます。

なぜ間違いを必要以上に恐れるのか

間違いを必要以上におそれるのは、自分が正しいと思うことを知らないからだろうと思います。

つまり、それは本来的には、具体的にこういう間違えをしたくないというイメージがあって間違いを恐れているというよりも、何が間違いかもわからないからすべての行為が間違ってしまうんじゃないかと思えて動けなくなってしまうのではないかと思うのです。

もちろん、誰だって怒られるのは嫌いです。
でも、自分が正しいと思ってやっているのなら、行動する際にいちいち怒られるかどうかを気にすることはないはずです。怒られるのを気にするのは、自分で正しいと思う判断ができないからなのではないでしょうか。

正しい結果を自分のなかですこしでも思い浮かべられたら、その結果を生み出すための正しそうなやり方を思いつくだろうし、それが思いつけば動くのは簡単です。
そして、それがもし間違えたとしても、自分が正しいと思っていたものと実はこっちのほうが正しいというものとのギャップとして間違いを認識できるから、たとえ間違いを怒られたとしても、そんなに萎縮しないはずです。

間違いを必要以上に恐れ、間違いを怒られることを必要以上に避けたがるのは、自分自身でこれが正しいはずだという答えややり方を見つけられず、それを相手にはっきりと説明できないからだろうと思います。

自分の行為と結果について自分自身でちゃんと説明することができないからこそ、間違いを恐れ、怒られるのは嫌い、正しい答えや正しいやり方にしがみつくことばかりを考えてしまうのではないでしょうか

どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする

結局のところ、それは間違いを許容する環境だとか、間違えても怒られない環境とかの問題ではないのです。

小中学生以下の子どもならいざ知らず、どんなに拙いものであっても自分自身で自分が正しいと思える答え、正しいと思える行動、そして、それをはっきりと説明する意思をもたないからこそ、環境のせいにしてしまうのです。

怒られるのが嫌なら、自分で自分を磨いて、自分自身が正しいと思うものを見つける眼を養い、外のマニュアルやレシピに頼っていた自分の判断を自分自身に取り返すしかないのです。

ここで「眼の力、感性の声」でも引いた、三谷龍二さんの『遠くの町と手としごと―工芸三都物語』という本のなかの一文をもう一度紹介しておきましょう。

横田さんは勉強熱心で、作ることへの努力も人一倍なのですが、それにも増して、見ること、眼を鍛えることを大切にしている人だと思いました。お宅にうかがい、箪笥や匙のコレクション、愛用のメガネのコレクションなどを見せてもらいながら、古いものをよく見て歩いていて、古いものからよく学ばれている、と感心しました。
(中略)
横田さんの作るものを見ていると、作ることと見ることは、車の両輪のような役割を果たしているなと思います。そのバランスが大切で、眼が見えている以上のものは、技術があってもかたちにはできない。ものを作る技術があったとしても、何を、どう作っていいかが、わからないからです。

行動する=作ること、評価する=見ることのバランスを自分自身から失って、外に正しいやり方や解答ばかりを求めすぎることのないように、どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにしたいですね。

P.S.
あとで気づきましたが「拙い価値観」って日本語としてヘンですね。まぁ、いいか。

 

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2009年08月05日

死者の書/折口信夫

先日、藍染めの体験をしてみてあらためて感じたこと、それは一枚の布をつくるという一見単純に思える工程も実は複雑な工程の積み重ねなんだなということでした(「2009-07-26:藍染めをする」参照)。

糸を紡ぎ、その糸を織って布にする。その一方で糸や布を染めるための染料をつくる。
柳宗悦さんが『手仕事の日本』で、「もし歴史が後に控えていかなかったら、あの簡単に見える草履一つだって作るのに難儀するでありましょう。一枚の紙だとて、どうして作るか、途方にくれるでありましょう」と書いていますが、糸や布、そして、それらを染める染料も、長い歴史のなかで生み出された技術がなかったら「どうして作るか、途方にくれる」くらい実は複雑なものだと思うのです。

今日は、そんな紡績や染織に関わる方面から、折口信夫さんの小説・『死者の書』をみていきたいと思います。

蓮の糸

折口さんの小説・『死者の書』には、主人公である藤原南家の郎女に仕える若人たちが、池の蓮の茎を切って藕糸(はすいと)を縒る、こんなシーンが描かれています。

若人等は、この頃、氏々の御館(みたち)ですることだと言って、苑の池の蓮の茎を切って来ては、藕糸(はすいと)を引く工夫に一心になっていた。(中略)茎を折つては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、糸に縒る。
折口信夫『死者の書』

「苑の池の蓮の茎」から繊維を取り出し、それを縒って藕糸(はすいと)にする。とうぜん、藕糸になった時点で元の蓮の茎のおもかげはありません。当たり前といえば当たり前なのですが、蓮の茎がまったく姿形の異なる藕糸に変わるという驚きがここにはあります。

それは「2009-07-26:藍染めをする」で紹介したような青々とした蓼の葉から、まったく異なる色の藍の染料ができる驚きにも通じるものです。

蓼の葉


この自然に存在する草木などから、まったく異なるものを生み出し、生活に役立つものをつくりだした古代の人びとの想像力に驚きます。それに比べれば、車の発明も、コンピューターの発明も大したことはないとさえ思えてしまいます。

女たちは、唯功徳の為に糸を績(つむ)いでゐる。其でも、其が幾かせ、幾たまと言ふ風に貯つて来ると、言ひ知れぬ愛着を覚えて居た。だが、其がほんとは、どんな織物になることやら、其処までは想像も出来なかつた。
折口信夫『死者の書』

紡いだ糸がどんな織物になるか想像できないまま、功徳のためにひたすら糸を紡ぐ若人たち。僕はこれを読みながら想像できないことがむしろ正しいことのように思えてしまいます。あらかじめ最終形としての衣服なりを想像して、そこから逆算して糸を紡ぐより、そんな先のことはともかく、とにかく目の前の蓮の茎から糸を紡ぎ、その紡いだ糸に愛着を覚えることのほうがはるかに繊細な感受性をもって、モノそのものに接しているかのように思えるからです。

糸を績む

上記のシーンは、奈良の都にある藤原の郎女の御館でのシーンでした。このシーンは、郎女が神隠しにあった先の、二上山の麓の当麻寺の境内でも繰り返されます。ここから物語は、当麻寺に伝わる中将姫伝説と重なっていきます。

参考當麻寺 - Wikipedia

板屋の前には、俄かに、蓮の茎が乾し並べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下りて浸す。浸しては晒し、晒しては水に漬(ひ)でた幾日の後、筵の上で槌の音高く、こもごも、交々(こもごも)と叩き柔らげた。
折口信夫『死者の書』

奈良の藤原南家の御館で行われていたのと同様の、蓮の茎の繊維を引き出す様子がさらに克明に描かれます。
ここには谷の澱みの水の音があり、蓮の茎を槌で叩く音があります。

した した した。
つた つた つた。
ほゝき ほゝきい。

この物語からは、たくさんの音が聞こえてくるのですが、このシーンもそれと同様に、さまざまな音が聞こえてくる。
その意味で、この物語は古代の音に関する物語なんだと思います。まさに、おとづれの物語です。

日晒しの茎を、八針に裂き、其を又、幾針にも裂く。郎女の物言はぬまなざしが、ぢつと若人たちの手もとをまもつて居る。果ては、刀自も言ひ出した。
 私も、績(う)みませう。
績みに績み、又績みに績んだ。藕糸(はすいと)のまるがせが、日に日に殖えて、廬堂の中に、次第に高く積まれて行つた。
折口信夫『死者の書』

はじめは若人たちの行いを怪訝な目で眺めていた年長の刀自も、とうとう自分でも藕糸(はすいと)を績む作業に参加しはじめます。糸ができるペースは加速し、物語も一気にスピードをあげます。

機を織る

そして、とうとう郎女みずから機を織る場面にはいっていきます。その前に、郎女ははるか以前に亡くなった大津皇子の魂と交感しており、それが郎女を機織りの行動に向かわせるのです。

廬堂の中は、前よりは更に狭くなつて居た。郎女が、奈良の御館からとり寄せた高機(たかはた)を、設(た)てたからである。機織りに長けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女の動かして見せる筬(をさ)や梭(ひ)の扱ひ方を、姫はすぐに会得した。機に上つて日ねもす、時には終夜(よもすがら)織つて見るけれど、蓮の糸は、すぐに円(つぶ)になつたり、断(き)れたりした。其でも、倦まずにさへ織つて居れば、何時か織りあがるもの、と信じてゐる様に、脇目からは見えた。
折口信夫『死者の書』

ここで折口さんが「郎女」に機を織らせているのは、『古代研究』(1.祭りの発生)所収の「水の女」という論考での次のような考えに呼応するものといえるでしょう。

おと・たちばなを言うからは、水の神女に二人以上を進めたこともあるのだ。天上の忌服殿(いむはたどの)に奉仕するわかひるめに対するおほひるめのあったことは、最高の巫女でも、手ずから神の御服を織ったことを示すのだ。
折口信夫「水の女」『古代研究 1.祭りの発生』

郎女の機織りは、大津皇子の魂に向けられているのです。そして、それは巫女としてのつとめでもあるのです。

「此機を織りあげて、はやうあの素肌のお身を、掩うてあげたい。」
其ばかり考へて居る。世の中になし遂げられぬものゝあると言ふことを、あて人は知らぬのであつた。
折口信夫『死者の書』

「世の中になし遂げられぬものゝあると言ふことを」知らぬ郎女は、とうとう機を織りあげる。だが、織りあげた郎女はさらなる不安におそわれます。織りあげた機を裁ち縫ふ作業が残っていたし、裁ち縫ふたうちつけが寒々しいので絵具で色をつけるという作業が残っていたからです。

こうして当麻寺に伝わる中将姫の蓮糸曼荼羅伝説の物語が語れていきます。
その物語の背後に、蓮から糸を紡ぎ、それを機に織り、さらに色つけして曼荼羅を描くという、物がさまざまに姿を変えていくための技術があることを僕はおもしろいと感じると同時に、そこにこそ、この物語の不思議さを支えるひとつの原動力をみます。

まぁ、こうした読みは、あくまで『死者の書』という複雑に絡み合った音・声の物語を読む数ある接し方のひとつでしかないと思います。また機会があれば別の読みで、この『死者の書』を紹介できればと思います。



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2009年08月03日

早く多く間違えよう

土曜日のデザイン思考のワークショップで、また1つ気づきがありました。
それは「早く多く間違えると、進展は早い」ということです。

今回のワークショップでも、例によって2チームに分かれて、それぞれおなじ課題をやってもらいました。
大抵の場合、そうなるのですが、どういうわけか、2チームに分けると片方の出来がよく片方がわるいという結果になるんです。なぜだかわからないんですが、大抵はそういう結果になる(これが3チームだとそうならない。なんでだろ?)。

ところが、土曜日のワークショップでは、いままで以上に2チームの差が大きかったんです。それは片方がいままでと比べて著しく出来が悪かったからではなく、片方がこの手のワークショップをやって以来、はじめてというほど、出来がよかったからなんです。悪い方はまあ平均的だったのですが、よい方が圧倒的によかったので、その差が目立ってしまいました。
だって、最後に感想を聞いた際に出てくるコメントが、いままで一度も出てきたことのないようなハイレベルの理解がなされた上でのコメントばかりでしたから。あー、うまくいくと、たった一日でもここまでいけるんだと目から鱗でした。

そこで、その出来のよかったチームって、ほかのチームと何が違うんだろうと考えたんですが、実はその答えは「ほかのどのチームよりも数多く間違えてた」からなんです。

実はそもそも間違いじゃないものはない

なぜほかより数多く間違えたチームの結果がほかに比べて圧倒的によくなったのか?

ひとつには、間違えてくれれば、僕が適切なアドバイスができるからです。
もうひとつには、間違えれば、おなじチームのほかのメンバーが違和感を抱いて意見がいえるからです。
そうやって、僕なり、おなじチームのメンバーに間違いとその理由を指摘されると、自分で作業をやった上の結果だから、なぜ間違ったのか、なにがよくなかったのかを、当の本人が理解できるのです。それは自分の行動の結果だから、頭だけの知識ではなくしっくりとした実感となる。

そうした間違い~修正の繰り返しが、間違いの数が多いほど、多くなるのです。それはつまり気づきが得られる機会が増えるということでもあります。

ようするに、まとめると、こうなります。

  • 手が早い:間違えなど気にせずやってみる
  • 早く間違える:間違いを他人に指摘してもらえる
  • 早く気づく:何が間違いかを教えてもらえるのは自分が考えたあとでのことだから間違った理由がピンとくる
  • 早く2度目、3度目のチャレンジができる:早く間違えれば同じ時間内でもチャレンジできる回数が増える
  • 何度も間違えられる:チャレンジするチャンスが増えると間違える機会も増える。つまり気づきの機会が多くなる

早く手を動かせれば間違えるチャンスが増え、アドバイスや気づきが多くなる。なんでこの方法が有効なのかというと、実はそもそも間違いじゃないものはないからなんですね。

すべての結果は間違いを含んでいる

早く手を動かしてできるだけ多く間違うことの利点は、結局、すべての結果は間違いを含んでいるということから生じているんです。

正解があるのではなく間違ってはいけない点が数多くあるだけです。アレとコレとソレをクリアすればOKっていうものでもない。100%完璧という状態がなくて、青天井なわけです。
どこまで行っても結果は必ず間違いを含んでいて、いくらでも修正可能な点は残る。じゃあ、いくらやっても無駄かというと、そうではなくて、徐々に改善されてはいく。つまり、1つ1つ間違いを修正していけば必ずいいものに近づいていく。
ようは、どれだけの数の間違いをいくつつぶせるかということであって、正解を探るというのとは根本的に考え方が違うんです。

それをあらかじめひとつの正解があると勘違いしてしまい、間違えて恥ずかしい思いをしないために一気に正解を見つけようとするからハマる。だって、正解は青天井のはるか手の届かないところにあるわけで、回避すべき対象と考えられている間違いなんて無数にある。つまり四方八方間違いだらけ。そんなもの避けようとするのが無駄なわけです。

無限の果てと有限のゴール

先のみえない無限の遠方に向かおうとするのに、そこに行き着くための計画を完璧に練ろうとしても無駄です。

そうした方法が有効なのは、ぼんやりとでも到着地がみえている場合です。ゴールが有限の距離にあり、さらにはそこまでの距離やそのあいだの障害などの情報が手元にある場合です。ゴールが有限の距離にあり、そこまでの距離や障害に関する情報を手にしているなら、そこに行き着くプランをデザインすることはできます。
ただし、それはゴールが無限の遠方にある場合には通用しません。

ようするに、納期とゴールが決まっている仕事上のプロジェクトであれば、プロジェクトはデザイン可能ですが、それが自分の人生となると別なのといっしょです。
人生のゴールを有限の距離にあるものとして、どこかしらの地点において人生プランを立てたりする人がいますが、僕はどうなのかな?って思います。有限の距離にあるゴールを先に設定して、そこから逆算して、そこに辿りつくプランを練るのも可能ですけど、それって楽しいの?とは思います。

だって、最初から自分の行きつく先を規定してそのためにいまを犠牲にしているわけでしょ? そりゃ、将来に夢なんてもてませんよね。だって、自分で夢を否定してかかっているわけですから。だって、ゴールに辿りついてもそれは単に予定通りというだけで、多くの場合、その最善のゴールからどれだけマイナスが出たかという負の結果しか残らないわけですから。
そうした将来のゴールに対して、いまを犠牲にする。それって「ハレの時間(とあるワークショップの感想を兼ねて)」で書いた古代の人の考えとは真反対ですね。

一歩一歩の積み重ねといっても足し算じゃない

話が逸れました。元に戻します。

行先が無限の遠方である場合、必要なのはゴールから逆算して分析的に行程を計画することではなく、実はいまいるところからとりあえず一歩一歩進むことです。そして、その一歩一歩を重ねながら、ときどきその歩みの積み重ねが創発して相転移が起こるようにする。そう。一歩一歩の積み重ねといっても単なる足し算じゃないんですね。

はじめの話に戻すと、間違いとその修正の積み重ねはあるとき、相転移を起こして、位相の異なる気づきを生むんですね。基本的にはKJ法で小さなグループにラベルをつけ、それをさらに大きなグループにしようとするときに思わぬ発想が生まれるのとおなじです。間違い~修正が何度か繰り返されると、そこに別のレベルの気づきが生まれる。

ここで一気にレベルがあがるんですね。間違いを恐れて身動きのとれなくなっている人たちとの差が一気に広がる。さらにそれを繰り返すと、差はもはやちょっとやそっとでは埋められない差になっていくんです。

スキルだの頭のよさだのの差じゃなくて行動する早さの差

実は人生においては、そういうことが頻繁に起こっているんだろうと気づいたのです。

有限の距離にあるゴールに向かうための正しいプラン、やり方ばかりを気にしていると、無限の遠方を目指す間違いを繰り返しながらの一歩一歩の積み重ねという歩みができなくなってしまう。そうすると、間違いの創発が起こるチャンスはすくなくなって、とにかくチャレンジしてみて間違えて覚えるということを繰り返している人との差はどんどん広がっていくのだろうなと思ったんです。

これって、スキルだの頭のよさだのの差じゃなくて、ふだんの生活でどれだけ好奇心をもってそれをすぐさま自分の行動に移せるかどうかの差なんだろうなと気づいたんです。
とにかく行動のはやさ。脊髄反射的なレスポンス。これって重要! まさに「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」ですね。
あー、人生プロトタイピングだなーって思いました。

そう考えると、どうなんだろ? いまの教育の基本そのものが大きくズレてるんじゃないかという気がするのです。



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2009年08月02日

Re:企業でHCDプロセスが根付かない理由

うーん。会社としてすごく健全な考え方だと思うのですが。

問題発見を行い、企画を立ち上げ、ユーザ調査・プロトタイプ設計・ユーザビリティ評価を行って、それに基づいたサービスが商用になっても、上流だけに関わっていた人は会社からは評価されないようです。

ここで書かれた「上流」が何をさすのか判然としませんし、それ以上に上記の感想を書かれた事情も知らずに申し上げるので、的外れな見解かもしれませんが、すくなくとも上流だけで会社が儲かることもなければ、実際の利用者に何のメリットもないと思うので、それだけで評価しないという会社の姿勢は健全だと思うのです。

会社が評価しないのではなく、自分たちが間違って評価してしまっている

『デザイン思考の仕事術』で書いたとおり、「あらゆる仕事はデザインの仕事」です。
そうであれば、なぜ上流のみにとどまろうとするのか?ということです。なにも上流などという狭い範囲にとじこもって、その方法論を専門化することはないでしょう。

という意味で僕は「企業でHCDプロセスが根付かない理由」は会社がそれを評価しないからではなく、それを実際に行っている人たちがその方法論を上流などという狭い範囲に押し込めるという間違った評価をしてしまっているからだと思うのです。そう。それを実際に使っている当人たちがそれに対する評価を誤ってしまっているのです。

自分たちが間違って評価しているものを、他人が評価しないのはむしろ健全なのではないでしょうか。

あいさつとおなじように、できて当たり前のことになればよいな、と。

「あらゆる仕事はデザインの仕事」であるということは、それは誰もができて当たり前のことにならないといけないと思っているからですし、そこにくだらぬ専門性や稀少価値がなくなるのを願っているからです。

僕としては、あいさつができるのとおなじくらい、できて当たり前のことになって、特別に評価されるようなものではなくなることを願っています。そんなことができたからといって評価されるなんてこと自体が、つまり世の中的にそんな当たり前のことができていないという悲しい状況であるということですから。

上流より下流、あるいは全体ディレクションを評価

会社が必要とするもの、そして、おそらくは生活の場において暮らす人びとが必要とするものを生み出そうとすれば、上流のみに関わるというのは得策ではありません。
むしろ、具体的なものを実現する下流の方が評価されて当然だと思いますし、そうでなければ上流から下流までトータルにディレクション、マネジメントして事業を現実化できる人が評価されて当然なのではないか、と。

自分の側からだけ見てしまうと、その部分がみえなくなってしまいがちです。自分のやっていることが何か特別で価値のあるものだと思ってしまい、まわりがおなじかそれ以上に特別で価値のあることをしていることが見えなくなってしまう。

これは僕自身も含めて誰にでもありえる勘違いなので気をつけないといけませんね。



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2009年08月02日

『デザイン思考の仕事術』感想をいただきました・6

昨日のワークショップの帰り道、参加者のひとりのTakedaさんと、
  • 正解することにこだわるがあまり間違いを恐れて手を動かせない人
  • 間違えてもいいから手を動かして自分の答えを出そうとする人

の2種類の人がいるね。そして前者と後者では自分でいろいろトライしてみるなかで気づきを得るということに関するスピード感がぜんぜん違いますよね、といったような話をしました。

いうまでもなく気づきのスピードがはやく、多くの気づきを得られるのは後者です。

昨日のワークショップでも、間違えることなど気にせず、どんどん積極的に手を動かしている人のほうがいろんな気づきを得ているというのが、講師としてみていてもよくわかって、「あっ、この人、いま気づいた」っていうのが手に取るようにわかっておもしろかったです。

勘違い人がほとんどだと思うんですけど、人間って頭のなかだけでものを考えているんじゃないんですよね。むしろ、場のなかの行動において考えている。
それゆえ、自分の頭のなかで概念をこねくり回してるだけじゃ、気づき・発見・発想などは得られるはずもないんです。
そうではなく、いまいる場において他の人びとやまわりにある物事との積極的な関わり合いにおいて自分自身を動かすなかで自分の変化をしっかりと受け止めることをしなければ、考えなんてはたらかないのです。

これをわかって積極的に行動ができる人と、誰かが教えてくれる表層的な思考法やライフハックに頼っていると、結局はただただ時間を浪費するばかりで、何の気づきも発見も発想も得られなくなるんじゃないかな?

と、そんな出だしで、今回も3人の方からいただいた、『デザイン思考の仕事術』の感想を紹介していくことにします。

この中で自分が苦手なのは、第一条

1章の「デザイン思考の仕事術のための基本姿勢・七箇条」に言及されている方は多いのですけど、bentonさんもそのなかの1人です。しっかり読んでいただいているなと思いました。

この中で自分が苦手なのは、第一条。すぐにわかったつもりになってしまい、一旦わかったつもりになるとその後は、わかったつもりのことの周りをぐるぐる回っているだけになる。わかったつもりを前提にわかったつもりに都合のいい事象だけを集めてしまう。ネットで検索して他の人がまとめた概要の説明を読んでわかった気になる。簡単にわかったつもりになれて便利だけど、浅い、自分の身につかない、他人事の感じがする。

特に皆さん、第一条"「わかる」ことは重要じゃない。「わからない」ことにこだわる。"に注目されますね。ここが「仕事術」をタイトルに含みながら、巷に大量にあるライフハック本、仕事術・整理法関係の本と、本書が決定的に異なる部分をもっとも単純にあらわした部分だからなのかななんて感じたりもします。

これも昨日のワークショップの帰り道のことですが、Takedaさんに「棚橋さんが一番欲望を感じるものってなんですか?」と訊かれて、「たぶん、わからないことをわかろうとすること」だと答えたんですけど、本当にわかりたいと思えば答えを探そうとするのではなく自然と自分の「わからない」部分にこだわっていくしかないんですよね。

ハレの時間(とあるワークショップの感想を兼ねて)」でも「正解のない世界」について触れていますが、いまという正解も不正解もなく、ただひたすら行動するかしないかだけが意味をもつ時空間において「わかる」ということは、誰か他人が客観的に提供してくれる正しい解、正しいやり方をわかることではなく、正しい/間違っているという客観的な時空を超えて、自分自身で世界に対する回答をひたすら生みだし続けることにほかならないと思うんです。

それを時計の連続的な時間において、いまやるべきことは将来のためになることにしようなんて価値観で動こうとした途端、いまの動きが鈍ってしまう。
将来のためにいまを犠牲にした瞬間、身体が動かなくなり、安易な答えを求めるようになってしまうんだと思います。

とうぜん、そこでは経験のありなし云々なんてことは関係ないんです。一期一会の状況においてはすべてが初体験だと思った方がいい。いまという場に眼を向ければ、過去の経験に縛られて身動きとれなくなってしまうことのほうがよっぽど問題なのですから。

何の役に立つか?で動くのではなく、いまを生きるためにいまにまとわりついた幻影を振り払い、直接世界=自分自身に対峙したいという欲望こそが、「わかったつもり」の先への歩みの原動力になるのではないでしょうか。

私の中では本年度No.1

マーケッターの北川裕康さんからは、こんな評価をいただきました。こんな風に感じていただいて、ありがたいですね。

この本は、棚橋弘季さんの書で、私の中では本年度No.1です。読む価値ありです。1,500円と時間は無駄にはなりません。
日頃から、仕事の基本は設計とプロジェクト管理だと思っているので、手に取りました。
内容は目から鱗です。

北川さんもちゃんと読んでくださっているなと感じました。

やっぱり書く以上は「No.1」だと感じてもらいたいと思っています。すべての人に「No.1」と感じてもらうのは不可能だとしても、何人かの人にそう感じてもらえるようにしようというのは、書く以上は著者がとうぜん目指すべきことだと感じているので、正直、ほっとしています。

実際に試したことはないので試してみたいと思った

まだ読み始めたばかりの様子のGadget と本の日々さんからは、こんなコメント。

知っている知識も多かったが、実際に試したことはないので試してみたいと思った。また、About Face 3 は買って読んでみる必要がありそうだ。

「知っている知識」と書いていらっしゃるあたりが読み始めなんだなって感じを受けますが、何より「試してみたい」とか『About Face 3 インタラクションデザインの極意』を買って読んでみようと感じてもらえたのはよいなと思っています。

やっぱり本を書いてうれしいのは、他人の行動にすこしでも影響を与えることができたと感じることです。自分が書いたとおりにやってもらいたいなんてことではなく、読んでくださった方が自分で感じたとおりに動くきっかけになれればとよいなと思うのです。
実際、5章では「ここで紹介している方法もあくまで身体を実際に動かすためのレシピと思ってください。そのレシピを元にどう実際にそれぞれの仕事を料理するかは、皆さんそれぞ
れの現実の行動次第です」なんて書いていますからね。

「わかる」ことが大事ではなく、自分でやってみることが大事なんですよね。

今後ともいろんな感想をお待ちしております。

『デザイン思考の仕事術』の感想を紹介するエントリーも今回で6回目。
たくさんの方に読んでいただいているようで、ととてもうれしいです。

これまでの感想は以下のリストから。