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2009年07月31日

眼の力、感性の声

昨日の「遠くの町と手としごと―工芸三都物語/三谷龍二」で紹介し足りなかった点をすこし。

眼の力について。
目利きがいかにものづくりを助けるかということについて。
そして、皆さんはものに触れた際の自分の感性の声が耳に届いているかということについて。



まず福井で建具屋さんをしていた横田さんという方の仕事について、著者の三谷龍二さんはこんな感想を述べています。

横田さんは勉強熱心で、作ることへの努力も人一倍なのですが、それにも増して、見ること、眼を鍛えることを大切にしている人だと思いました。お宅にうかがい、箪笥や匙のコレクション、愛用のメガネのコレクションなどを見せてもらいながら、古いものをよく見て歩いていて、古いものからよく学ばれている、と感心しました。

さて、ものを作っている皆さん、普段の暮らしでちゃんとものを見てますかー?
「古いものをよく見て歩いていて、古いものからよく学ばれている」。そんな風にものに接することができているでしょうか。

ちゃんと動くことや機能性だけでなく、見た目の美しさ、触れたときの手触り、暑い夏の炎天下での肌触り、手に持ったときの重み、ぽつんと部屋に置かれてあるときの佇まい、何年も使うなかでの経年変化が見せる表情の移り変わり、などなど。

さまざまなものが見せる表情と自分のなかで好みが動くことの関係性にちゃんと敏感に反応できているでしょうか。

眼が見えている以上のものは、技術があってもかたちにはできない

自分の好みを知り、さらには他人の好みについても考えることの重要性については、『デザイン思考の仕事術』でも触れています。
どういう場でどういう作法を行った際に、自分の好みがどう働くかを知っておく」ことが大事だ、と。そして、「好みというものは規定するものではなく、勝手に働くもの」であり、そうであるがゆえに「場や作法と好みの組み合わせがどうなっているかを知るために、自分の世界の外の世界を旅する」ことが必要である、と。

ものづくりをする人は、ただ、ぼんやりと日々を過ごしているなかでの好みを知っているというだけではぜんぜん足りなくて、積極的にものと好みを探るという意味での眼の力を養っていくことが大事なんだと思います。
それは手を動かして作るのとおなじくらい大切なことだと思う。

三谷さんはこう書いています。

横田さんの作るものを見ていると、作ることと見ることは、車の両輪のような役割を果たしているなと思います。そのバランスが大切で、眼が見えている以上のものは、技術があってもかたちにはできない。ものを作る技術があったとしても、何を、どう作っていいかが、わからないからです。

「作ることと見ることは、車の両輪」。まさにそのとおりだと思うんです。

眼で見ることのできないものは、かたちにできない。作る技術はあっても、あるべきかたちをイメージする力がなければ、そのかたちを作ることはできないからです。

眼の力というのは、そのあるべき姿をイメージするためのボキャブラリだと思うんです。
技術的につくることが可能なボキャブラリ、引き出しとはちょっと違って、どんな語彙をどんな風な表現で組み合わせていくと、どんな風に人の好みが動くのかということが想像できるような、そんなボキャブラリ、引き出しです。

とりあえず、それを「ものの好みの関するボキャブラリ」とでも言っておきましょうか。

手の暴走、贅の誘惑にブレーキをかけるのが、眼の力

その「ものの好みに関するボキャブラリ」がたくさんもっているかどうかで、「何を、どう作っていいか」がわかる確率は増えます。
逆にそれがないと技術の暴走がはじまる。過剰なスペック追求がはじまったりします。

芝居の世界で「役者馬鹿」という言い方がありますが、その意味は肉体を使う役者は、からだを使って動くこと自体が楽しいから、放っておくと抑制が利かず、演劇や人間のことを理解することなく、ただ動く快楽に溺れてしまう、というものです。そのことを馬鹿といっているのですが、職人の手もまた同じように技術的に難しいところ、稀少な銘木を扱う世界に入っていって、そちらが楽しくなって、暮らしのことや使う人のことがいつの間にかおざなりにされてしまうことがよくあります。そうした手の暴走、贅の誘惑にブレーキをかけるのが、眼の力なのだと思うのです。

技術の暴走、過剰なスペック追求に待った!をかけることができるのは、「ものの好みの関するボキャブラリ」である眼の力です。技術の暴走や過剰なスペック追求がはじまるのは結局「何を、どう作っていいか」が見えていない状態だからこそ起こるのです。

どうでもいいものを無関心な状態で使うのをやめる

逆に、何を作らなければいけないかがわかれば、どう作るかは自然と選択肢の幅は決まってくるはずです。そうすれば技術が極端に暴走することはないし、過剰なスペックを追いかけはじめることも少なくなるはずです。

それにはたくさんのものを見て、さらにそのさまざまなものが人の感情をどう動かし、暮らしのなかの行動にどう影響するのかということを知っておく必要がある。眼の力を鍛えておく必要があると思います。

日々の生活でどうでもいいものを無関心な状態で使うのではなく、自分が気になるものを積極的に使いながら、そのものの良さとは何かを考えていくのです。それも特定のジャンルのものにこだわることなく、できるだけ広いジャンルのものに触れるようにすることが必要なんだろうなと感じます。

何が人を気持ちよくさせるのか、何が人を幸せな気持ちにさせるのか。
そういう意味でのものの良さを知らなければ、ちゃんとしたものづくりにはならないのではないでしょうか。

自分の感性の声が聞こえなくなっていませんか?

そして、みんながものの良さを知る感性をもっていないと、良いものをつくる良い職人がどんどん育たなくなるし、どんどんいなくなっていくのではないのかな?

その意味では、眼の力っていうのは、ものづくりをする人だけの問題じゃないとも思うんですよね。ひとりひとりが自分の生活のなかで、自分とものとの関係にゆっくりと眼を向ける必要があると思う。

そうではなく、他人が良いと思っているかどうかを気にして、他人も評価していないと自身をもって自分で使うことができなかったり、そういうマニュアル志向で生きていると、自分の感性はどんどん失われていくはずです。
自分の感性の声が聞こえなくなって、客観的な評価がなければ何も判断できなくなっていく。自分の思考や行動と内なる感性のあいだがどんどん離れていってしまうんじゃないかな

それって危険だと思いません?

 

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2009年07月31日

遠くの町と手としごと―工芸三都物語/三谷龍二

『デザイン思考の仕事術』の出版から早1ヶ月が経ちました。ほんとにはやかった。

で、1ヶ月経って、僕自身が実感として感じていること。

あー、もう、デザイン思考とかについて語ることはないってこと。
それ以上に人間中心設計とかはもういいやって思ってます。内容はともかく、そのキーワードを使うのがもうヤだな、とw

仕事としては、もちろん今後も続けますけど、ブログに書いたり、本に書いたりはもういいかな、と。「使う側の立場にたって云々」という話は、そろそろ僕以外の誰かが語る番でしょって思ってます。
あとは僕よりも優秀な皆さんにおまかせしましたので、よろしく! 若い皆さんでがんばってくださいw

僕自身はいまはそれよりも、実際に使う人の視点にたってちゃんとものづくりをしている人たち自身の生活やそれを支える経済ということに関心が向いています

現にちゃんとしたものづくりをしている人たちが今後もそうしたものづくりを続け、できれば、そうしたものづくりの輪が広がっていくためには何が必要か。
その人たち自身の生活をどうしていくのか、その人たちのまわりの経済をどうすれば、今後もちゃんとしたものづくりの火を消さないようにできるか。
さらに、それに関して、僕ができることは何か。そうしたものづくりを巡る経済活動をサポートするために何らかのプロジェクトをプロデュースしていくとしたら、僕は何を身につけていくべきか。
そんなことに関心が移っています。

という関心のベクトルの変化もあって、正直、もう現時点でちゃんとしたものづくりをできていない人たちのために何か情報発信するのは打ち止めかな、と。東京圏内で毎月それなりにきっちりやるべき仕事さえ行っていれば、食うのに困らないサラリーマン(あるいはその予備軍としての学生)のために、情報発信するエネルギーはこれまでよりかはセーブして少なめにしていこうか、と。ってか、本来、そういう人は頭使ってナンボという仕事をするのがミッションなわけなんだから、他人の知恵をあてにしてないで、自分で考えなさいって思うしね。

そっちの方面はリアルな場で、気の合う人たちと現実のビジネスのなかでおもしろと思えることになるべく集中して実践していけばよいかと思っています。

それよりもやっぱりこの『遠くの町と手としごと―工芸三都物語』で描かれているような、地方を拠点とした、ちゃんとしたものづくりをサポートするという方向性を今後は徐々につよく打ち出していければと考えています。

クラフトフェアまつもと

さて、この本の著者の三谷龍二さんは、松本で暮らし仕事をしている木工デザイナー。デザイナーといっても、僕がこの本を読んだ印象では職人に近い。

本書はその三谷さんが、自身がこれまで住んだ福井、京都、松本の3つの町の、手しごとの現場を訪ねあるいて綴った一冊です。

三谷さんは現在、松本で木の食器などをつくりながら、1985年から毎年開かれている「クラフトフェアまつもと」とというイベントにも携わっていらっしゃるそうです。25年間つづいているこのイベントには、個人工房でものづくりをしている工芸作家を中心に、250名ほどが参加しているといいます。ただし、この250名というのも実は2009年度では1250人の応募があったうちの250人で、そのほかは会場の広さの問題から250名というリミットから泣く泣く漏れてしまった人たちです。
もちろん、この250人というのは出品者の人数であり、来場者はとうぜんそれ以上になる。個人工房でものづくりをしている人にとっては、こうした作り手と使う人を結び付ける場そのものに魅力を感じて、参加可能な人数の5倍にもあたる応募者が集まってくるのです。

松本はまた、工芸の伝統を持つ街でもあります。江戸時代より城下町として職人が多く居住し、戦前も木工の産地として栄えました。そして戦後は柳宗悦の民芸運動に共鳴した人々により、ホームスパンや紬織物、家具などの製作がさかんになりました。今も僕たちのまわりには、織や家具作りの勉強のため松本に来たという人が多くいます。クラフトフェアまつもともこうした流れのなかで始まり、さらに近年、もの作りの人が松本へ移り住もうという動きも増えているようです。

僕にとって松本といえば、最初に思い浮かぶのは、やっぱり日本民藝運動にも共鳴した松本民芸家具です。僕にとっても松本は工芸の町というブランドイメージがあるとおり、松本という街はものづくりで地域のブランディングが成功しているのではないかと思うのです。

そうした地域レベルでのブランディングが成功するなかで、その地域でものづくりをしている三谷さんのような方のブランドも高まっていくのではないでしょうか。そして、そうしたブランドの力がさらにクラフトフェアまつもとの応募者を増やしたり、松本に移り住もうとするものづくり関係者が増えるということにもつながっているのでしょう。

京都には後継者が生まれる環境がまだある

京都に関しては、別格といえるブランドをもっているので、今回はあんまり語らないことにします。

でも、三谷さんも認める京都のブランドの厚みを表現した、こんな一文だけは紹介しておきたい。

ところでこの八木さんのところも、次に紹介する寺地さんのところも、後継ぎの息子さんが一緒に働いていました。手仕事の現状から見ると、それだけでも京都は違うな、と思いました。「親戚のおばちゃんとか、仲間の人たちが遊びにきて、大きゅうなったら後継ぐんやろな、と当たり前のように言うし、誰もがそう思っているから、自然に継ぐのが当たり前のようにすり込まれるんかな」
京都には後継者が生まれる環境がまだあるのです。

この八木さんというのは、130年続く茶筒で有名な開化堂の5代目である八木さんです。開化堂ほどのブランドがあれば、後を継ぐのをそれほど拒む必要はないのかもしれませんよね。他に見向きをするより、よほど夢があるわけですから。

そんな風に伝統を守る開化堂のような老舗もあれば、京都の手仕事を生かして、現代の生活にあった商品を開発し展開するスフェラショップのような店もある。スフェラショップの真城さんについて、三谷さんはこう書いています。

真城さんは小売りの場所から川の流れのことを考えているのです。その意味では今回尋ねた先でも、異色といえるかもしれません。「木工屋は貧乏と鉋屑がいつでもついて回る」と、黒田丈二さんが言っていましたが、作り手はとかくお金には縁遠い人が多いものです。でも、真城さんのような立場から新しい流れを志す人が出てくることを、だからこそ期待する人も多いのでしょう。寺地さんも「開化堂」の八木さんもそうです。地域(京都)のもの作りを、国内ばかりではなく、海外につないでいく、そんな新しい川の流れを作りたいという真城さんの努力を、彼らも期待して応援しています。

国内ばかりではなく、海外につないでいく。これですよね。

最後に福井についても紹介しようと思っていましたが、長くなるのでやめておきます。
この本を読んで一番おもしろかったのは、最初の福井のところでしたが、それはあえて紹介しないことにします。それぞれ自分で読んで確かめてください。

2009年07月29日

20%は未知の領域へのチャレンジに充てる

折口信夫さんの『古代研究』(1.祭りの発生)を結構苦労しながら読んでいます。

とにかく文字のない古代をテーマに、古語を相手にした、大正時代に書かれた本ですから、はっきり言って読みやすいとはいえません。それでほかの本を読むのと違って時間がかかる。いったんは読むのを中断したりもしました。

ただ、だんだん読み進めていくうちに、徐々にですが読むコツがわかってきます。書かれている内容の理解もすこしずつ進んできます。そうすると、自然と読むのが楽しくなってくる。徐々にですが、読むスピードもあがってきます。

学ぶ姿勢ができていないのに、何でも教えてもらおうと思っても学べない

自分自身でもそうした経験をしながら思うのは、学ぶということにはこうした苦労と執着が不可欠だということです。

何でも他人に教えてもらおうとか、わかりにくいものはすぐにあきらめて投げ出してしまうとか、そういった姿勢では学ぶことはできませんし、自分で努力し苦労するなかで自分でひとつずついろんなものを見つけていくという姿勢がない限り、誰かがいくら教えたところで学ぶことはできないのではないかと思います。

そうした学ぶ姿勢ができていないのに、何でも教えてもらおう、知識ばかりを増やそうとする人がすくなくありません。学ぶ姿勢がなければ学べるはずがないのに、それを教える人の教え方や読んだ本の書き方の問題であるかのように他人のせいにする。

そうではないでしょ?って思います。
学ぶことができないのは、あなた自身の問題でしょ、と思います。
困ったものです。

教えてもらうことはあっても学ぶことはできない

本の話に戻れば、読んだからといってすぐにわかる必要なんて、これっぽっちもないと思うのです。
ときには僕がいま『古代研究』で苦労しているように、読んでも何が書かれているか、さっぱりわからないし、それだから読むのもすごく大変という本もあると思います。

でも、そういう本だからといって、すぐに投げ出さないことが大事だと思うんです。わからないなりに、その本にこだわってみるということは大事なことです。

投げ出したりさえしなければ、いま読めないものが、しばらく間をおくと読めるようになったり、いま読めないものをわからないなりに読んでいくうちに読めるようになってきたりもします。そういう風に自分自身が変わっていく可能性というものを見失わないでください。いま読めない自分を、将来に向けても読めない自分という風に固定しないでほしい
だから、むずかしいと感じられる本でもすぐに「あきらめないことが大切です。そして、ときにはそうした本に立ち向かっていくことが必要だと思います。

自分がこの本には立ち向かっていくべきだろうと感じた本には、何度も打ちのめされながらも立ち向かっていく必要があるはずです。そして、そうしたこだわりがないと読めない本がある。そういう本を相手にしなければ、自分がすでに読める本のうちにとどまることになります。

これでは本当の意味で、本から学ぶということはできないのではないでしょうか? そういう本に立ち向かっていくことをしなければ、本から教えてもらうことはたくさんあっても、自分が本から学びとることはできないはずです

20%は未知の領域へのチャレンジに充てる

もちろん、それは本に限ったことではないでしょう。

何かを自分のために学ぼうと思うなら、人から教えてもらう以前に、自分なりに努力して苦労してみることが先決です。自分で努力し苦労した結果、はじめて他者の声が身体に染みて理解できるようになるのではないでしょうか。そうでなければ、他人の教えはただの知識です。自分自身で苦労してわからなかった、できなかったという体験があってはじめて、他人の教えが学びのヒントになるのではないかと思います。

そのためにも既知の領域への安住ではなく、未知の領域への挑戦がときには必要ではないかと思います。感覚値的には、すくなくとも20%は、そうした未知の領域へのチャレンジに身を投じる必要があると思っています。

それは個人だけでなく、法人でも同様でしょう。
組織でも全体の活動の20%は未知の領域を切りひらくための活動をするべきだと思います。もちろん、それは100人いたら20人が新規開拓の活動をすればよいということではないはずです。
なぜなら未知の領域のチャレンジをミッションとされた20人がいたとしても、彼らが自分のすべての時間を未知の領域へのチャレンジに充てることなど不可能だからです。未知の領域への挑戦は、既知の領域の知識や体験をベースに行うものだからです。ひとりの人間が未知の領域への挑戦に充てられるのは、せいぜい30%くらいのものではないでしょうか。

活動の20%をいかに未知の領域への挑戦に充てるかはマネジメントの問題

であれば、組織の活動の20%を新しいチャレンジに充てるということは、100名中の20名にまかせることではなく、100名の組織全体をいかに新しいチャレンジに充てさせるかということが課題となり、そこにはマネジメントの手腕が必要不可欠になってくるはずです。

それが組織のマネジメントの課題として人を育てるというときの根幹にあるべきものではないでしょうか。そうした未知の領域に挑戦するという文化が組織に根付いていなければ、いくら教育のしくみをつくったってスタッフは学べないからです。だって、学ぶ姿勢が身についていないのですから。人を育てたいのなら、まず先に学ぶ姿勢を身につける土壌を組織に根付かせることが先決でしょう。

このへんがみえてない組織って、たとえ一時うまくいっていても伸び悩む場面に必ずでくわしてしまうんじゃないでしょうか。
つまり、これって文字通り自社のドメインの20%を未知の領域へ開放しておくということでもあると思うんですよね。ドメインを固定しない領域(なんか矛盾した言い回しですね)を20%、意図的につくりだすことができるかです。いかにもマネジメントの手腕が問題になってくる話ですよね。

学ぶ力を枯渇させないために

話を個人に戻しても、やっぱり組織同様に、自分の活動のうちの20%をいかに未知の領域への挑戦に充てるかということをマネジメントすることを考えていく必要があるのではないかと思います。
ここでもやっぱり少なくとも20%は自分のドメインを固定しない領域をいかに意図的につくれるかというのが課題になります。自分の専門ではない領域、自分がまだ知らない領域へと挑むために、自分の20%の領域を確保できるかです。
それをしなければ、やっぱりいつか組織同様に伸び悩み、壁にぶち当たる。

そのとき、壁に当たってチャレンジができれば、また個人の学びの歯車はまわりはじめると思いますが、その壁を要領よく回避してしまうおうものなら、どんどん学びからは遠ざかります。一時はそれでうまくいくこともあるでしょうけど、徐々に学びの力は失せていき、気づいたときには取り返しのつかないことになる。まわりをみても、そういう人がすくなくありません。そこまで行ってしまうと、再び学ぶ力を取り戻すのは容易ではありません。

そうならないためにも、日ごろから未知の領域へとチャレンジする姿勢を失わないようにすることが大事か、と。

最後に、念のため。
20%の根拠は? なんて聞かないでくださいね。
あくまで感覚値でいってるだけですから、何の根拠もない数字ですから。
あくまで全体の何%かはそれに充てろという理解でお願いします。



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2009年07月27日

2009-07-27:ふじ屋の手ぬぐい

今日まで、とあるプロジェクトをお手伝いさせていただいていた方々から、こんな素敵な手ぬぐいをいただきました。

ふじ屋の手ぬぐい


白いのはほおずきの柄、黒いのはわかりにくいですがクジラの目を描いたものです。
いただいたのは、浅草にあるふじ屋さんというお店のもののようです。

浅草・ふじ屋
http://ryoma.cantown.jp/cgi-bin/WebObjects/Cantown.woa/wa/shop?id=98

いつもは、かまわぬのものを使っていますが、普段と違う柄の雰囲気で気に入りました。特に黒いクジラのほうは使いこんでいくうちに、どんな風に色落ちしていくのかも楽しみ。よいチョイスです。どっちが選んでくれたんだろ?

ありがとうございます。
(あれ?でも、なんで僕の手ぬぐい好きを知ってたの?)

布ものには弱いです

それにしても、最近、自分でよくわかってきましたが、僕はとにかく布ものが好きなようです。

だから、藍染めをしにいったり芹沢〓介さんの作品が気になったりするんですよね。

特に綿や麻などの植物繊維の生地が好きですね。
ウールやシルクが嫌いなわけじゃないけど、じゃぶじゃぶ洗える綿や麻の魅力にはかないません。なので、服でも、どちらかというと秋冬よりも春夏の装いが好きです。
そういえば以前にも「2009-04-29:布地にこだわる」というWAREHOUSEのTシャツを紹介した記事で、手ぬぐいのことも書いていましたね。

そこでも書いていますが、手ぬぐいを使うようになって気づいたのは、手洗いするのも結構好きだということ。
手ぬぐいに限らずなんでしょうけど、生地って洗っていくうちにだんだんとやわらかくなって、肌触りがよくなる。それが手洗いしていると、よくわかるんです。布ってすごいなーって本気で思います。

もうすこし広くみると、内藤商店の棕櫚箒わたなべ木工のパン切りボード山ぶどうの手提げ篭などを含めて、植物素材のものに惹かれる傾向があるんだと思います。

民藝の器なども好きですが、それ以上に、染織品や木工品、編組品に惹かれてます。
一方で、男性が好きそうな機械モノにはまったく惹かれないんですよね。なんで、こういう好みになったんだろ?

ちなみに、うちにはこのくらい手ぬぐいがあります(一部、洗濯中で未掲載)。
最近のお気に入りは金魚です。

20090727b.jpg


最近は暑いので、本当に手ぬぐいが重宝してます。
洗ってもすぐ乾くし。

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2009年07月27日

[記事][アクセシビリティ]Relationship between Mobile Web Best Practices (MWBP) and Web Content Accessibility Guidelines (WCAG)について

W3CのWAI Education & Outreach Working GroupとMobile Web Best Practices Working Groupが2009年7月9日に公開したNoteのこと。本文は、Relationship between Mobile Web Best Practices (MWBP) and Web Content Accessibility Guidelines (WCAG)にあります。あと、関連文書として以下も参考にしてください。

文書の内容

WCAG(1.0と2.0)とMWBP(W3Cが公開したモバイルのユーザエクスペリエンスを改善するための方法論、日本語も部分的にあります)の類似点と相違点を比較し、WCAGやMWBPに準じれば、障害を持つユーザ・モバイルユーザ双方によいWebサイトを作れます、ということを述べています。

ただし、相違点としては、WCAGは障害を持つユーザを、一方MWBPはモバイルユーザを中心に置いていること、またWCAGの各原則はテストができるように作られているが、MWBPはそういうわけではないということも書かれています。

アクセシビリティに配慮することによって障害を持つユーザだけではなく、モバイルユーザのエクスペリエンスを改善できるということです。WCAG勉強会@関西でモバイルとアクセシビリティに対する質問があったので、回答としてはこんなところでいかがでしょうか。