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2009年07月27日

Relationship between Mobile Web Best Practices (MWBP) and Web Content Accessibility Guidelines (WCAG)について

W3CのWAI Education & Outreach Working GroupとMobile Web Best Practices Working Groupが2009年7月9日に公開したNoteのこと。本文は、Relationship between Mobile Web Best Practices (MWBP) and Web Content Accessibility Guidelines (WCAG)にあります。あと、関連文書として以下も参考にしてください。

文書の内容

WCAG(1.0と2.0)とMWBP(W3Cが公開したモバイルのユーザエクスペリエンスを改善するための方法論、日本語も部分的にあります)の類似点と相違点を比較し、WCAGやMWBPに準じれば、障害を持つユーザ・モバイルユーザ双方によいWebサイトを作れます、ということを述べています。

ただし、相違点としては、WCAGは障害を持つユーザを、一方MWBPはモバイルユーザを中心に置いていること、またWCAGの各原則はテストができるように作られているが、MWBPはそういうわけではないということも書かれています。

アクセシビリティに配慮することによって障害を持つユーザだけではなく、モバイルユーザのエクスペリエンスを改善できるということです。WCAG勉強会@関西でモバイルとアクセシビリティに対する質問があったので、回答としてはこんなところでいかがでしょうか。

2009年07月24日

ユーザー理解とは―

ユーザーを理解するというとき、その「理解」というものを間違った形でイメージし、理解しているケースが意外と多くみられます。とりわけ多い間違いは、ユーザーとなりえる人の人となりすべてを理解することが、ユーザー理解だと思ってしまうことではないでしょうか。あるいは、漠然と理解するというだけで、何を理解しようとしているのかのフォーカスがなかったりすることもあります。

そもそも、特定の人間のすべてを理解するという漠然としたイメージでそもそもどんなことを理解しようとしているのかもよくわかりませんが、普通に考えて、ひとりの人間のすべてを理解することなんて、そうそうできるはずもありません。長年付き合いのある友人や家族だって、その相手のことを理解できているなんていえないでしょう。

それなのに、ユーザー理解となると、その人のことを簡単に理解できてしまうと考えてしまうのは、ちょっと考えが足りないのではないかと思います。よく考えずに、ユーザー理解ということばを用いて、それならユーザーを調査すればよいのだと安直な発想で調査を企画実施していないでしょうか?

ユーザー理解というのはそういうものではなく、あくまで人があるモノを使う場―まさに、ある人がユーザー=使う人になる場―におけるユーザーの行動、その行動が行われる状況、その行動を行ったことによる心理的変化などを把握、理解しようとする活動です。
そのため、人間を理解しようとするだけでなく、あるモノが使われる場で「使う」という行為が行われる状況全体(もちろん、使う人を含めて)をひとつの相互依存的なシステムとして理解することが求められるのです。

ユーザー調査における3つの間違い

上記のように「ユーザー理解」というものを捉えると、フィールドワークや会場でのユーザーインタビューなどの形式で行われるユーザー調査の課題も浮かび上がってきます。

ユーザー理解のためと称して行われるユーザー調査で、みられながちな間違いとしては次の3つがあります。

  • 対象とコンテキストの相互関係をみない。動きのなかで捉えない。
    対象者の行動は、その行動が行われる場のコンテキストに依存しています。状況が変われば、対象は必ずしもおなじ行動をとるとは限りません。
    しかし、そうした行動と行動の状況=コンテキストとの相互依存性をみることなく、対象の行動をコンテキストから独立したもの―対象者の固定した性質、行動パターンとしてみてしまうと、事実の正確の把握ができず、問題の本質を見誤ってしまうことがあります。
    あくまで、その行動が行われた状況との相互依存的な関係の動きのなかで捉えることが大事です。「動きのなかで捉える」ということについては「点の思考、線の思考」でも書いていますので参照ください。
  • 自分の固定観念で対象(の行動)をみてしまう。
    自分と対象者のコンテキスト(生きる環境、行動の理由、etc.)の違いに気づかずに、自分の物事の見方の枠組みから対象の行動を捉えてしまうと、対象の行動の意味やその背景に存在する潜在的なニーズを取り違えてしまうことがあります。『デザイン思考の仕事術』で繰り返し「自分の外に出る」と書いているのは、それゆえです。
    特に、あらかじめ自分が用意した質問を投げかけて、その答えのみで対象のことを理解したつもりになるのは避けなくてはなりません。そもそも、その質問のフォーカスそのものが相手を理解するのに適した質問かどうかはわからないのですから。調査会場で話を聞くよりも、実際の人びとの暮らす現場で、実際の暮らしの場面に触れたほうがよいのもそのためです。どうしても話だけですと、自分が普段つかっていることばのイメージで、相手のことばを理解してしまいます。それを避けるためにも、実際に自分の眼でみるとか、自分でも体験するということが大事です。
  • 正しい対象に目を向けない。
    対象をどうみるかということ以前に、そもそも適切な対象を選べていないということもあります。いくら正しい見方を身につけていても、間違った対象からは間違った答えしかでてきません。
    そうした間違いを犯さないためにも、対象を理解するための調査を実施する前に、自分たちに「わからない」ことは何かを明らかにしておくことが必要です。つまり「わかっている」ことをそれぞれ出し合うことで、空白としての「わからない」を焙り出しておく作業をするのです。
    そうした事前の作業が、では、その「わからない」の答えをみつけるためには、どんな場にいけばよいのか、どんな状況で活動を行っている人を対象にすればよいかを考えるためのヒントとなるはずです。「利用状況」を把握するのか、「生活」を把握するのかはまったく別のことです。自分たちは何を把握しようとしているのか。そこから対象の選定を含めた調査設計を行うことが重要です。

よく「相手の立場になってみろ」といいます。それは相手の気持ちを察しろという意味とは違うと思っています。
あくまで相手が立っている立場=コンテキストを自分でも体験したうえで、そこからだと物事がどうみえるかをイメージすることだと思います。



自分の物事の見方の枠組みのなかで、いくら相手の気持ちを想像しても、それは単に自分の価値観、固定観念で相手を評価しているだけです。そうではなく相手のコンテキストとおなじ場に立ったうえで、相手と自分の価値観、固定観念の差分に気づくことが大事なのです。
相手の立場からみた自分の枠組みに気づくことこそがユーザー調査で最低限求められる発見でしょう。

他人とのコンテキストの違いを捉えられるか

自分と他人の生きるコンテキストの違いを理解すること。それが調査で対象となる人びとを理解するうえでの大前提です。

日常生活で、家で子どもの世話や家事をして一日を過ごし、子どもの友人のお母さんたちの狭いコミュニティのなかで長いあいだ生きていかなくてはいけない妻と、外に出て職場でさまざまな理不尽な苦労をしながら、それでも毎日仕事に行くしかない夫が、それぞれおたがいの関心事や悩みをくだらないと感じてしまったり、上司と部下がたがいに異なる立場の悩みや不満を理解しないまま、相手は何もわかっていない、考えていないと愚痴をいうのも、おなじようなものです。
明らかに生活におけるコンテキスト、状況が異なる立場にいる者同士が、相手のコンテキストを理解しようともせず、ただ相手の行動や発言だけで、相手に不当な評価をするといったすれ違いもまさに、自分の枠組みの外に出られないための相手に対する無理解から生じるものでしょう。

コンテキストが違えば、おなじことばでも意味は異なったりもしますが、お互いに相手と自分のコンテキストの違い、立場の違い、視点の違いを理解しないまま、おなじことばに対する相手の見方・考え方に関する違和感から、相手がバカだと感じたり、相手が何も考えていないと思ってしまったりもします。それは人間にとって目にみえている世界はそれぞれ違うのだということを理解できていないがゆえに生じてしまうすれ違いです。

見ている対象が変わるから驚くのではなく、自分が変わることで驚く

さまざまな調査方法を用いて、ユーザー理解をしようと考えるなら、まず、こうした間違った解釈の要因となりうる、自分たちの物事の見方のフレームワークをいかに超えて、むしろ、対象となる人びとの視点から自分たち自身の偏った見方を打開するかを、しっかり考え、計画したうえで調査にのぞむ必要があります。

そして、そうやってきちんと準備をしてのぞんだとしてもなお、実際の調査では自分たちの偏った目で対象を理解してしまうという罠があることを意識して、さまざまな工夫をして相手の立場に自分をおくという努力をすることが大事です。

調査をするなかで何か目新しいことはないか、自分が知らない事実がないかと探しても、そんなにこの世のなかに多くの新奇の発見があるわけではありません。そうではなく調査で大事なのは、自分の視点そのものを変えるきっかけを発見することです。見ている対象が変わるから驚くのではなく、自分が変わることで驚くんです。本当の意味での「わかる」というのは、そんな風に自分が「かわる」ことを指します。

そう。新しいものを発見するという意味を捉え間違えてはいけません。変わったことを見つけるのではなく、自分の見方の変化によって驚く。それが発見です。それが調査にのぞむうえでの大事な姿勢です。

いかにして「わかってしまう」という罠を避けるか」。
また、いかにして自分の固定観念の外に出られるか。
それをつよく意識して、ユーザー理解のための調査にのぞむことが必要でしょう。



関連エントリー

2009年07月23日

いかにして「わかってしまう」という罠を避けるか

おっしゃるとおり、僕が『デザイン思考の仕事術』で書いた「デザイン思考の仕事術のための基本姿勢・7箇条」のうち、第1条”「わかる」ことは重要じゃない。「わからない」ことにこだわる。”がほかの6つを誘発するということはありえると思います。

私には第一条が残りの六条を誘発するんじゃないかと思うのですが、棚橋さんはどう考えていたんだろう?
興味がありますね。

でも、僕がそういう風に考えているかというと、答えは"NO"です。

7つそれぞれが重要である

その理由ですが、第1条がほかの6条を誘発するからといって、ほかの6条がすべて「わからない」にこだわるためだけに必要なものではありません。すくなくともあれを書いた際に僕はそう捉えていませんでしたし、いまもそのような捉え方はしていません。

例えば、第7条の”グループワークを重視する。協力を惜しまない。”は、グループで作業を共同で行うことで、自分が見落としていた気づきが他人から与えられ、そこから自分のアイデアが膨らむなどの利点があります。
これは必ずしも「わからない」にこだわるから、グループワークしましょうという話ではありません。むしろ、逆の見方をすれば、グループで協力を惜しまずに作業をするために、自分が「わからない」ことでもグループにおいてはこだわる必要があるという逆の誘発も考えられます。

いずれにせよ、そうした相互に誘発しはう関係性がありえたとしても、僕自身は先の7箇条をあげるにあたって、相互の関係はそれほど意識していません。
それよりも、むしろ、7つそれぞれが個々に大事だと考えているので、7つを列挙したまでです。

ただし、上記のエントリーで、僕自身も考えていなかった、1条とその他の条項の関連性をみつけたという観点はすばらしいと思います。

「わかってしまう」という罠を避ける

その素晴らしさを認めたうえで、ひとつだけ注意点を。

第1条をキーにして、他を第1条のサブセット的に見てしまうと、他の6条をすべて、”「わからない」にこだわる”という観点からしかみえなくなってしまいます。
先に7条を例に、必ずしもそうではない価値があることを書きましたが、他の5つに関しても同様です。

それこそ、第1条をキーにして他の6つをわかってしまうことで、本来その6つそれぞれの項目がもっていたその他の可能性が見えなくなるという罠があります。

僕があの本で書いている見方を固定せずにさまざまな見方を行うというのはまさにそういう意味です。
3章のKJ法の説明のところ(128頁)で「分類法をきめるということは、じつは、思想に、あるワクをもうけるということなのだ」という梅棹忠夫さんの言葉を引用しながら指摘しているのも、まさに物事の見方のフレームを固定してしまうことによって、その他の思考の可能性が消えてしまう危険性があるからです。そのフレームこそが、その外に出ろとあの本で何度も繰り返し述べている「自分」にほかなりません。ある物事の理解に、自分という枠組みがどれだけ影響を与えているかを、離見の目でみつけられるかが重要です。

まさに、それは1つ前の「なぜ、KJ法は失敗するのか?」で、枠組みにはめて情報を分類しようとしないことを、KJ法を成功させるための前提条件の1つとしてあげさせていただいたことに通じます。
ひとつの見方が正しいがゆえに、他にも正しい見方があることを忘れさせてしまったり、排除してしまったりという間違いを起こさせることがあるのです。普遍性を追いかける思考の多くがこの罠にはまってしまっています。そこに観察者というフレームが存在することを。

そうした固定観念、固定したフレームの内部に自分を追い込んでしまわないためにも、いかにして「わかってしまう」という罠を避けるかが大切かと思います。
その意味で、第1条の”「わからない」ことにこだわる。”は言い換えれば、自分の枠組みを固定させないことにこだわることでもあるのです。

以上。回答になっておりますでしょうか? > Hidehiro Takedaさん。



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2009年07月23日

こどもをかわいく撮るノウハウ「100ぱーせんとコドモカメラ」



100ぱーせんとコドモカメラ」は、子供の写真を専門に撮っているカメラマン中村愛さん(男)による、こどもの写真の撮り方の簡単なノウハウを教えてくれるサイト。

カメラや写真についての技術本はたくさんありますが「こども写真」というのは、どんなに立派な一眼レフを持って、技術本を読み漁っても上手くいくものではありません。このサイトではパパでもあり年間1500人のこどもを撮影する中村愛さんがそのノウハウを、イラストレーター西田珠実のかわいいイラスト付きでわかりやすく説明してくれます。写真もイラストもデザインも、全てに癒されます。

というか、紹介するの遅くてごめんなさい・・・・
このサイトは、smashmediaの河野さんとデジカルの共同プロジェクト「ハブメディア」のひとつとしてはじまった企画。わたしもずっと企画会議に参加していたのですが、レベルQに入り仕事が忙しくなってきたので抜けたんですよね・・・

愛くんはスイーツナイトでカメラマンをやってくれたり、自分屋24ではわたしが子どもの写真撮影会のお手伝いをしたり、このサイトをつくるにあたっての相談を受けたり、ハブメディアを紹介して企画会議に参加したりと関わってきたので、このサイトのオープンを心待ちにしていたんですよ!!知らないうちにオープンしててびっくり(笑)

ちょっと、メニューの移動がわかりにくくて迷いますが、デザインも、内容もいいですねー。あとは、書籍化されることを願っております。

100ぱーせんとコドモカメラ
http://kodomocamera.jp/

2009年07月22日

[お知らせ][しゃらく]Webサイトにおけるデザイン制作を手伝ってくれる方!

我こそは!って思う方、どなたかいらっしゃいませんか。

率直に申し上げると、仕事過多でそろそろ回らなくなってきたので、Webサイト制作の全てを自分たちでやるのではなく、外部の方々に委託したいなと思っています。

最近はクライアントとの折衝や予算、スケジュールなどのディレクションの仕事が多くなってきたため、僕が強くないデザインの分野を外注したいと思っているのです。ただ、ほとんどといっていいほど「企業」のクライアントをうちは持っておらず(持つ気もない)、その多くが公益セクター(NPO法人や市民団体、財団法人など)です。

例えば、最近作ったり手伝ったりしている団体の属性はこんな感じ。

  • 言語聴覚士を自治体に派遣したりする団体
  • 地域のクリスチャン系の無認可保育園
  • ワークライフバランス系の人のブログ
  • 助成財団
  • 農畜産物を生産しながらキャンプ場を運営する農業生産法人

うーん、一貫性がないですね…。その分、いろんな業務形態を知ることができるというメリットもあるわけですが。

ただし、公益セクターの悲しきところか、ぶっちゃけ予算は十分ではありません(もちろん案件にもよるのですが)。また、毎回依頼できるというわけでもありません。そのへんを考慮すると、企業では採算が合わないと思うので、SOHOでやっていらっしゃる方とか副業でやっていらっしゃる方とかであればうまくいくかもしれません。

まだまだ未開拓の公益セクターのWebサイト制作を手伝ってみたいという奇特な方へご興味がありましたらaratakojima@gmail.comまで、

  1. お名前やパーソナルサイト
  2. 実績
  3. 大体の予算(すっごくアバウトで大丈夫です)

をお送りください。

よろしくお願いします。

2009年07月22日

Webサイトにおけるデザイン制作を手伝ってくれる方!

我こそは!って思う方、どなたかいらっしゃいませんか。

率直に申し上げると、仕事過多でそろそろ回らなくなってきたので、Webサイト制作の全てを自分たちでやるのではなく、外部の方々に委託したいなと思っています。

最近はクライアントとの折衝や予算、スケジュールなどのディレクションの仕事が多くなってきたため、僕が強くないデザインの分野を外注したいと思っているのです。ただ、ほとんどといっていいほど「企業」のクライアントをうちは持っておらず(持つ気もない)、その多くが公益セクター(NPO法人や市民団体、財団法人など)です。

例えば、最近作ったり手伝ったりしている団体の属性はこんな感じ。

  • 言語聴覚士を自治体に派遣したりする団体
  • 地域のクリスチャン系の無認可保育園
  • ワークライフバランス系の人のブログ
  • 助成財団
  • 農畜産物を生産しながらキャンプ場を運営する農業生産法人

うーん、一貫性がないですね…。その分、いろんな業務形態を知ることができるというメリットもあるわけですが。

ただし、公益セクターの悲しきところか、ぶっちゃけ予算は十分ではありません(もちろん案件にもよるのですが)。また、毎回依頼できるというわけでもありません。そのへんを考慮すると、企業では採算が合わないと思うので、SOHOでやっていらっしゃる方とか副業でやっていらっしゃる方とかであればうまくいくかもしれません。

まだまだ未開拓の公益セクターのWebサイト制作を手伝ってみたいという奇特な方へご興味がありましたらaratakojima@gmail.comまで、

  1. お名前やパーソナルサイト
  2. 実績
  3. 大体の予算(すっごくアバウトで大丈夫です)

をお送りください。

よろしくお願いします。

2009年07月21日

日本における生成の概念と「型と形」

大量生産の複製品でもなく、かといって、手描きの絵のようにこの世で唯一の作品でもない、手作業による複製品である、芹沢〓介さんの型絵染(or 型染)作品をみて、僕はこの文章のことを思い出していました。

グノーシス派のとくにエジプトの人々は、物質に対して鋭敏な感覚を持ち、物質の内部に潜む諸力の混淆をよく把握していた。それに対し、近代人は物質を形で捉える。近代人にとって物質とは第一に物体の問題であって、近代人は物体の外形を視覚で捉え、それを理性で処理していく。分類したり比較しながら、より大きな物体の生産に利用していく。近代人は、それゆえ、物体相互の底に流れる物質の内的諸力に対しては鈍感だ。

物質を外形で視覚的に捉える近代人と、形を超えて存在する物質内部の諸力に眼を向けるグノーシス派のエジプト人という対比。

僕は、ここに母型としての型と個別の作品としての形の関係性のうちにある作品としての型絵染(or 型染)の作品制作にこだわった芹沢〓介さんの感性との関連性を感じたのです。
そして、それはさまざまな芸能や武術において、型というものを重視してきた日本人の感性との関連性でもあるだろうと思ったのです。

バタイユ「低い唯物論とグノーシス」

フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユは第一次大戦後の時期に、シュールレアリスムの芸術家や、考古学、文化人類学の研究者の文章を掲載した学術雑誌『ドキュマン』の編集・発行を行っていましたが、その『ドキュマン』の1930年の1号に、バタイユは「低い唯物論とグノーシス」と題した論考を掲載しています。

バタイユにとって、禁止と侵犯を対をなす人間的概念でしたが、キリスト教はそのうちの侵犯を否定してしまいます。聖性を侵犯するが故に聖なる存在として考えられていた悪魔を、聖なるものから排除してしまうのです。

すべてを考え合わせてみると、グノーシス派は何よりもまず深淵への不吉な愛着を、卑猥で無法のアルコントたちや太陽的なロバの頭(その滑稽で絶望的ないななきは権力を握った観念論に対する恥知らずな反逆の合図であるかのようだ)への醜悪な好みを、明かしていると思わずにはいられない。性的放縦のグノーシス派の宗派の存在、およびいくつかの性的な儀式の存在は、低劣さへのこの漠然とした加担を立証している。何にも還元されえない低劣さ、みだらこの上ない敬神の源になっていた低劣さへの加担である。黒魔術は、今日までこの伝統を継承してきた。
ジョルジュ・バタイユ「低い唯物論とグノーシス」

バタイユがこの論考でグノーシス派のなかにみたのは、キリスト教が排除してしまった聖なるものに接近する方法としての侵犯をしっかりとその儀式においてしっかりと維持しているという点でした。グノーシス派の人々は、物をみるのに、禁止によって成形された人間にとって害のない安全な物のイメージ、外形だけをみるだけでなく、理性による禁止の結果として二重の意味で成形(外形的にも、意味論的にも)された物質そのものが元来もっている諸力の混淆をみたのです。

バタイユはそれを「低劣さへの加担」といっていますが、それは通常、人間が禁止によって排除したものへの加担であり、禁止に対する侵犯という意味で、人間世界を超えた聖なるものに接近する手段だったのです。

日本における聖/賤あるいは此岸/彼岸

僕はこの禁止と侵犯の関係が日本においては(あるいは東アジアや東南アジアなどの多神教の地域では)、ヨーロッパとは異なるあり方としてあったのではないかと思います。

網野善彦さんが歴史的な視点で考察する中世における変化をみると、逆にそれ以前の日本では、禁止と侵犯あるいは聖と賤の関係がゆるやかに重なり合うものとしてあったのではないかと思うのです。

鎌倉期までは「公庭」に所属するものとして、神仏に仕える女性として、天皇家・貴族との婚姻も普通のことであった遊女は、南北朝期以降、社会的な賤視の下にさらされはじめる。おおらかで、ときにあからさまな「性」を否定、抑圧する空気の中で、セックスそのものを職能とすることを賤業と見る見方が少なくとも支配者層には支配的になり、遊女の「屋」の集まる洛中の辻子は「地獄辻子」「加世辻子」とよばれるようになってくる。遊女もまた、ここに聖から賤に転落したのである。

聖と性はおそらく生においてつながっていたのでしょう。
それは折口信夫さんのマレビト論などを重ね合わせると、よけいにそう思えてきます。

日本人は、常世人は、海の彼方の他界から来る、と考へてゐました。初めは、初春に来るものと信じられてゐたのが、後は度々来るものと考へる様になりました。春祭りと刈上げ祭りは、前夜から翌朝まで引き続いて行はれたものでした。其中間に、今一つあつたのが冬祭りです。ふゆまつりは鎮魂式であります。あき・ふゆ・はるが暦法の上の秋・冬・春に宛てられるやうになると、其祭りも分れて行はれる。其祭りの度毎に、常世人が来臨して、禊ぎや鎮魂を行うて行く。かうなると又、臨時の祭りが、限りなく殖えて来ました。
折口信夫「翁の発生」『日本芸能史六講』

マレビトとしての常世人が海の彼方からやってくる。それを迎える儀式が祭りでした。

常世人の住む常世の国は、海の彼方にある祖先の国であると同時に、死者の国でもありました。その常世から境界を越えてマレビトは来て、それを迎える。それがハレとしての祭りでした。

日本の禁止と侵犯は、そのようにゆるやかにハレとケとしてつながった状態であったのではないかと思うのです。

型と形、再び

そのような文化の延長線上に、日本における型と形の関係を考えるべきではないかと思うのです。

型と形の関係については、以前にも「型と形」というエントリーを書きましたが、型という母型は日本人の感覚ではマレビトがそこからやってくる常世の国のようなものであり、それを個々の形として生成する活動はまさにマレビトを迎える祭りのようなものであるのではないかと考えるのです。

それゆえ、かつての日本においては、あらゆる生成はハレの活動であり、かつ聖と賤の交わる場として考えられていたのだろうと思うのです。そこにはグノーシス派のエジプト人がみたのと同じように、物質がそもそももっている諸力の蠢きを敏感に感じ取っていた人びとの感性があったのだと思うのです。それがたとえ人間的な制作活動であっても、それは生成であるかぎりにおいて自然の芽吹きのような生成と変わらないと、かつての日本人は考えていたようなフシがあります。

そこでは事物の外形以上に、物質そのもののなかで蠢く生と死の境にある諸力が問題になる。しかも形のオリジナルである型は常世の側からもたらされるのであって、自分たちの制作の対象にそもそもなっていません。師から型を受け継ぎ、その型を身につけることで自分の形を生み出していく、伝統芸能の受け継がれ方は、視覚的な外形以上にそれを生成する諸力に眼を向けることを重視する傾向があったからではないか。そんな気がするのです。

ところが、そんな型と形の関係がいまやすっかり失われている。
その感性の変容はいったいなんなんだろうと思うのです。いや、変容であればよいのですが、単にそうした感性を失っただけで、代わりに新しい感性を得たということでもない気がするのです。
感性を失っても、一時的には西洋から輸入したモダニズムの思考法でここまでやってこれたのでしょうけど、そうはいっても思考法は感性の代わりにはならない。

どうも、そのあたりに日本のいまの閉塞感の要因はあるのではないかという気がしてならないのです。

静岡まで足をのばして芹沢〓介さんの型絵染作品を見にいってみて、そんなことを思ったのです。

  

関連エントリー

2009年07月19日

仕事術とは生きる術(すべ)のこと

仕事術―。
このことばを耳にすると、どうしてもビジネスの場での仕事ばかりを想起してしまう人が多いのではないかと思います。
しかも、仕事術ということばを、仕事を効率よく終わらせたり、ラクに金を儲けたり、企業組織のなかでつつがなく生きていくことを目的としたものだとイメージしてしまうことが多いのではないでしょうか。



生きることを支えているものに、仕事、家庭、コミュニティの3つがあるそうです。定年を迎えたサラリーマンが仕事がなくなった途端に亡くなってしまうということがあるといいます。家庭やコミュニティを犠牲にして仕事をしてきた結果、その唯一の生きる支えであったものを失い、命まで失ってしまうということなのでしょうか?

でも、企業組織ではたらくことだけが仕事なのでしょうか。家庭内でも、コミュニティ内でも仕事はあるのではないでしょうか。掃除や洗濯、料理などの仕事はもちろんこと、地域のコミュニティのためのボランティア活動、さまざまな話しあいなども本来は仕事に含まれてよいはずです。

それなのに、企業組織でサラリーを稼ぐための狭義の仕事だけを、自分のなかで仕事と定義してしまったがために、定年とともにその仕事のみならず、すべての生きる支えを失ってしまうのではないでしょうか。

企業、家庭、コミュニティ

企業組織での仕事、家庭、コミュニティ。それらはその仕事の結果を受ける対象が異なるだけではないでしょうか。

企業組織での仕事は契約や販売を通じて、広くさまざまな相手に開かれています。最終的には顧客がその仕事の対象となる。その対象となる人びとの顔は販売の仕事でもないかぎり、見えていないことも多いでしょう。
また、仕事の過程においては、いっしょに働く同僚や上司、協力会社などのためにする仕事もあるでしょう。

家庭での仕事はとうぜん自分自身を含めた家庭内の成員のためにする仕事になるでしょう。子どものため、夫や妻のため、両親や兄弟、親戚なども含めた人たちのために行う仕事であることもあるでしょう。家庭での仕事はおたがいに仕事の対象となる相手の顔がみえているので、手を抜くことはあっても、明らかに相手にとって害になることは避けるのではないでしょうか。

コミュニティの仕事もコミュニティの成員のために行う仕事です。家庭とは違いますが、多くの場合、対象となる人の顔がみえているのではないでしょうか。いや、いまの世の中だと地域コミュニティ内の成員の顔はかならずしも見えていないのかもしれません。顔がみえない相手のために、地域の清掃や地域の取り決めを行うための話し合いを行うのは、顔がみえていないがゆえに力が入らないということもあるのかもしれません。
友達や趣味の仲間などのコミュニティだと、もうすこし事情は違うでしょう。おたがいに顔がみえて、よく知っている同士なので、家庭内の仕事と同様に相手の害になることはしないでしょうし、できれば相手が喜ぶことをしてあげようと思うのではないかと思います。



自分のため、家族や友人のため、仕事はいくらでもある

本来、この3つの領域の仕事のいずれもが生きていくためには必要な仕事なのではないでしょうか。ひとりでは生きられない社会的生物である人間が生きるための場として、生きるために人が関わっていく対象に、この3つの種類があると考えられるのではないでしょうか。

それがどういうわけか、企業組織内で見ず知らずの顔のみえない相手を対象にした仕事ばかりが、仕事であるかのように考えられてしまう。
実際の対象となる人の顔がみえないがために、企業組織内コミュニティの成員である同僚や上司が仕事の対象者であるという勘違いが生まれ、同僚や上司の顔をみて仕事をすることになる。果ては評価システムとそれに連動した給与のために仕事をしようとし、そのための仕事術ばかりを身につけようとする。ほとんど本来の生きるということは何の関係もない数字の世界に、自分の生きる時間をはじめとするリソースの大部分をつぎ込んでいきます。
さらにそれができない人も、そうしたビジネスの世界の習わしからドロップアウトして家庭やコミュニティに回帰するわけでもなく、いじけて自分の殻にとじこもるだけ。自分はどうせダメだからといって、自分を納得させようとする。

もちろん、それでも生きようとすれば仕事はついて回る
企業組織内での仕事だけでなく、家庭での仕事、コミュニティの仕事も含めた、自分自身を生かすための仕事が。

朝起きれば歯を磨き、トイレに行き、時間があれば朝食の準備をし食べる。汚れた食器や衣服は洗わなくてはいけないし、ほっておけば住んでいる部屋は汚れてくるから掃除はしなくてはいけない。自分自身の汚れを落とすために風呂に入らなければいけないし、心の汚れを落とすため、ストレス解消のため、何か対処しなくてはならない。生きるために必要な何を手にいれるにも、自分以外の誰かとのコミュニケーションが必要になる(たとえ、それがコンビニの店員だったとしても)。

自分ひとりのことだけ考えてもやるべき仕事はいくらでもあります。
家族や友人のことを考えれば仕事はさらに増えるはずです。
こうしたことをちゃんと視野にいれて考えるなら、すくなくともあなたが日々、会社のなかでやっている仕事だけが、仕事ではないことに気づくはずです。

仕事術とは生きる術(すべ)

仕事術というとき、本来、こうしたすべての仕事を射程にいれて考えていただきたいと思うのです。
あらゆる仕事はデザインの仕事です」というとき、その「あらゆる仕事」には家庭での仕事、コミュニティでの仕事を含んでいます。

その意味では、仕事術とは生きる術(すべ)にほかなりません

もっと視野を広げれば昨日の「2009-07-18:ざるかぶり犬とエジプトのミイラ」で書いたような、死者をどう弔うかも含めて、死を含む生をどう生きるかが問題になってくる。単に現代の社会のように死をできるだけ日常の視野から追いやり見えなくして、死の不安を先送りするというだけが生死の扱い方ではないでしょう。

そして、その生や死をどう捉え、どう実行するかに民具やそれを生むための技術が関わってくる。「FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具」のような本もそういう観点でみないと、つまらない。生きる術(すべ)とそれを支える道具という観点で、道具のデザイン、開発を捉えるべきです。なんでも自動化してラクにすることが生きることにどう影響を与えるかという点も含めて。
それも含めて生きる術(すべ)=仕事術です。



勤務先にしがみつく術より、誰かの役に立つ仕事をするための術を

当たり前ですが、企業組織内でほめられるような仕事をしたからといって、生き延びられるとは限りません。今月もクビにならずに済んだからといって生きていることにはならないでしょう。

勤務先が変わっても、むしろ、それで生きるための仕事が向上することはいくらでもある。ひとつの勤務先にしがみつくことが生きることとは別物であるのは考えてみればわかるはずなんだけど、勤務先にしがみつくための処世術ばかりを身につけるのに必死で、自分自身が顔のみえない相手にとって役に立つ仕事を行うためのスキルを高めようと努力すること、それを仕事術と捉える人もとてもすくないように思います。

たとえば、人間中心設計プロセスのなかでサブツールとして使うペルソナというユーザーモデルも顔のみえない人のことを想像し把握するためのツールですが、それを正しく理解できている人に、僕はこれまでほとんど会ったことがありません(たぶん片手で足ります)。

自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら―

生きるためには何が必要か。他人を生かすためには自分はどうしたらいいか。
そうした生きる術について日々気にして考え続けない限り、つまらぬ処世術以上の仕事術は身に着かないのではないでしょうか。

生きる―そのことを考えれば、「休み休みでも、最後まで自分が謎だと思うものにこだわり続ける」ことは当たり前のことになってくるでしょう。あるタイミングでは要領良く問題をパスできたとしても、結局それはあとでより大きな問題として自分に返ってきます。要領のよさでパスしつづければするほど、自分でその問題に立ち向かっていく能力を養う機会を失うだけですから。

いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら、その仕事はデザインなのです。

生きる術(すべ)としての仕事術。
仕事術というものをそうした視点から捉えなおし、自分の生活そのものを思い返してみてはいかがでしょうか。



関連エントリー

2009年07月17日

休み休みでも、最後まで自分が謎だと思うものにこだわり続ける

新しい発想が必要だったり、何か自分の置かれた状況を変えたいと思うなら、自ら進んでむずかしい仕事、手間のかかる作業に、ねばり強く集中して取り組む必要があると思います。
自分にとって未知の対象だったり、どう考えても自分の手に余るのではないかと感じられる膨大な量の情報を前に、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返してこそ、いままで手にしたことのない突破口というのは見つかるはずです。

それと180度異なる姿勢は、むずかしい仕事に相対したときに要領良く要点だけつかんで、話術や表現力でなんとなく周りも自分も誤魔化してしまうことでしょう。
ほとんど苦労せずに元々自分で理解できる範囲でうまく丸めこんで、わからない部分はやり過ごしてしまうことになるので、そこからはとうぜん、新しい収穫は得られません。

新しい発想には、それを手にするまでの助走が不可欠です。その助走を面倒くさがって手を抜けばラクかもしれませんが、新しい発想などは生まれてきません。
つまり、要領良く要点だけを押さえただけで、何かをわかったつもりになるようなことばかりしていたら、いつまで経っても大した進展も成長もないということです。

非仲介的な直観などありえない

新しい発想というのは、直観的にひらめくものです。ただし、その直観は『デザイン思考の仕事術』でも書いたとおり、何もないところから湧きだすものではありません。

パースという人は直観を徹底して否定した人です。「非仲介的な直観などありえない」といった。つまり、何もないところからパッとひらめくなんてことはなく、発想のひらめきには必ず媒介があるはずだといったんです。

何の準備もないところから発想は生まれてはきません。
たとえ、ひらめいた本人にさえ気づかなかったとしても、そこには助走としての先行する過程があります。

パースはまた直観と認識を区別することにも異議を唱えています。
パースは、どんな思考も経験も「瞬間的な事柄ではなく、時間を要する事象であって、ひとつの連続的なプロセスとして生じている」といっています。ようするにパースは、直観だと思える思考の働きも結局は、先行する物事の認識を媒介にした連続した推論の過程にすぎないと考えたわけです。何もないところから発想が生まれたように感じられたとしても、そこにはちゃんと材料もあれば、材料を加工するプロセスも存在しているはずだと考えた。材料を元にしている点では直観も認識も変わらないということです。

この材料をプロセスの初期段階で豊富に集めておくことが、発想の前提になると考えます。豊富に集まった情報を素材に、情報同士をつなぎとめるアナロジー思考をはたらかせてはじめて発想のひらめきは得られる。

自分から未知のものへとぶつかっていく姿勢

むずかしそうな物事を前に要点のみをひろって要領良くわかったつもりになったり、なんとなくの答えを簡単に出してしまったりというのは、この「時間を要する」「ひとつの連続的なプロセス」を端折ってしまうことになります。必要な時間をかけるのを端折れば、味のしみてないおでんのように旨味が生まれてくることはありません。

ラクをして答えを見つけようとしたり、正しいやり方が書かれたマニュアルのようなものを期待したり、何かというと他人の事例を欲しがったりという態度には、自分自身で未知のものにぶつかっていき、なんとか自分の力でそれをねじ伏せようとする努力が、そもそも欠けています。
そんなところからは答えもやり方も自分自身がつくる事例もでてきません。もちろん、新しい発想など望むべくもない。

小学生じゃないんだから誰かに答えややり方を教えてもらわないとできないなんて甘えすぎにもほどがあります。何年、何十年も社会人をやっている人のなかにもそういう人が少なくないのであきれます。他人に頼るのではなく自分のことは自分でやらなきゃいけないんとなぜ思わないのでしょうか。

未知の物事に対してねばり強く立ち向かっていくには―

では、未知の物事に対してねばり強く立ち向かっていくためには、どのような姿勢で臨めばよいか。

  • 何か解決しなければいけない問題があったり、そもそも問題自体があいまいでそれ自体をしっかり掴む必要があったりする場合は、とにかくそれに関するいろんなデータをたくさん集めるのです。そして、集めたものをいろんな形に並べ変えながら、忍耐づよくデータの背後にある現実の相違や類似を見つけたり、お互いの関係性を探ってみる。いろんな角度、いろんな組み合わせで試行錯誤しながら、集めたデータの全体の関係性を俯瞰的に統合的に編集記述できるようするのです。
  • 情報を遠くから客観的にみるのではなく、自分が情報のなかに入り込んで直接それを体験するくらいに情報の洪水に身を委ねるのです。
  • 集めるのはデータに限らない。物理的なモノや二次元的な画像データのようなイメージでもよいでしょう。その場合、データのときとおなじように並べて比較し類似や相違や関係性を見つけるという作業をするとともに、個々のモノやイメージをとことん自分で利用してみて、そのフォルムが自分に投げかけてくるアフォーダンスを細かく感じとってみるといいと思います。
  • そうした膨大な量のデータ、たくさんのモノの蒐集やいろんな視点からの考察のあとは、俯瞰的にみることで気づいたこと、感じたことを、図や文章にして表現する努力をするんです。もちろん、図や文章にすればよいというのではなく、その図や文章が本当にそこに集められたデータやモノのすべてを語っているかを検証する目が必要です。もしすべてを語れてると感じられなかったとしたら、それはまだまだデータやモノの発している情報の洪水に溺れきっていないのだと考えたほうがいいでしょう。データやモノに溺れきってみてはじめて見えてくることがあります。そこを要領よく適当なポイントだけ押さえて済ませようとするから、いつまで経っても大波に乗ることができないのです。
  • 情報をさまざまに動かしながら、情報が語るいろんな声に耳を傾ける。そこから新たな物語を紡ぐことができるかはあなた自身の努力に関わっています。ありきたりなあらすじ程度でお茶を濁すか、誰も聞いたことのないような新たな物語を紡ぐか。

こうした姿勢で問題発見~問題解決の作業に取り組めているでしょうか? ラクなほう、ラクなほうに逃げていってしまってはいないでしょうか?

スピードは早くても前に進めないなら、遅くても確実に前に進むことを選ぶ

もちろん、こうした活動は、特定の時期に集中してやるやり方だけでなく、自分が疑問に思う点にこだわって何年もかけて、その謎をとく場合でもおなじだと思います。

答えを焦ってだそうとする必要はすこしもありません
簡単に答えがでるようなものなら、そもそも、そんなにこだわる価値もないものかもしれない。それにむずかしい対象、未知の対象を前にして、答えをはやく得ようとするから、適当な中途半端な答えでお茶を濁すことになるのだし、手っ取り早く答えが見つかるような魔法のメソッドや他人の成功例の物真似をしたくなる誘惑に駆られるのではないでしょうか。

そんなことをしたって、いつまで経っても何も発見できないし自分自身が変わらないという意味では結局はそのほうがよっぽど時間の無駄です。
そんな時間の浪費をするくらいなら、遠回りにみえたとしても、目の前の面倒くささに負けたり、根気が必要な長時間の課題への取り組みも惜しまず、ゆっくりでも自分がこだわる謎の解明をねばり強く続けるほうが有益です。

休み休みでも、最後まで自分が謎だと思うものにこだわり続ける

そもそも、ここで書いていることも、ずっと前に「木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一」で紹介した本のなかの次のようなことばに、僕がずっとこだわりつづけて、どういうことだろうかと考え続けていたからこそ書けることです。

初め器用な人はどんどん前へ進んでいくんですが、本当のものをつかなまいうちに進んでしまうこともあるわけです。だけれども不器用な人は、とことんやらないと得心ができない。こんな人が大器晩成ですな。頭が切れたり、器用な人より、ちょっと鈍感で誠実な人のほうがよろしいですな。

『デザイン思考の仕事術』にも僕自身が書いています。

わかることは重要じゃない、わからないことにこだわる、と。

わかってしまえばそこで思考も努力も終わりですが、わからないにこだわれば、その対象の前に留まって、何度も何度も思考して努力することが続くことになる。そこからは生まれるものは簡単にわかってしまうものとはまったく違う次元の理解になるはずです。それは単に頭でわかってしまうのではなく、さまざまな体験をともなった理解だから。

自分がわからないと思ってこだわることが他人と違っても、そんなことを気にする必要はありません。あえて他人と違うこだわりをもつ必要はありませんが、こだわる部分が他人と違っているからって他人にあわせる必要なんてまったくない。
他人がどうかではなく、あくまで自分がわからないと感じていることにこだわって、なんとかその謎を解こうと努力すること。そして、その謎を途中で投げ出さないこと。途中で休むのはいい。でも、あきらめてしまわずに、休み休みでも、最後までそこにこだわり続けることが大事だと思います。

 

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