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2009年06月30日

2009年4月-6月で紹介した本のリスト

前に「2009年1月-3月で紹介した本のリスト」というエントリーを書いたので、4月-6月版も書いておこうか、と。



それにしても、1月-3月が合計17冊紹介していたのに対して、4月-6月は合計で9冊だけでした。すくなすぎますね。あきらかにGW明けの忙しさが影響してます。
次のクォーターはもうちょっとがんばろっと。

では、そのすくない9冊のリストを(リストのリンクは当ブログ内の書評エントリーです)。

4月分(2冊)

まだ、この頃はそれほど忙しくなかった4月ですが、紹介したのは、以下の2冊だけ。松岡さんの『多読術』はおもしろかったですね。


5月分(1冊)

5月はなんと1冊しか紹介してません。無茶苦茶忙しかったから、ブログ自体のエントリー数もすくなかったのも5月でした。決して本を読んでいる量が極端に落ちているわけではないけど、それをアウトプットする時間がつくれませんでした。


6月分(6冊)

4月、5月の反動もあって、6月は忙しさの山を越えた後半は結構紹介してますね。民俗学・文化人類学系の本が多いですね。
宮本常一さんの『民俗学の旅』といい、川田順造さんの『もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る』、今福龍太さんの『身体としての書物』といい、ここぞ!というタイミングで、これ!という本に出会えたのが6月でした。


このなかでおすすめはどれ?とは訊かないでください。
だって、僕としては9冊すべてがおすすめなので。すべて必読と書きたいくらいです。

7月以降はできるだけ多く紹介できるといいなと思います。

関連エントリー

2009年06月30日

プロジェクトの定義とデザインプロセス

"Context of use"―。
それはHCDプロセスそのものに対してもいえることではないでしょうか。

どのような手法をどのように用いてプロセス化するかというプロジェクトのデザインは、プロジェクトのコンテキストそのものを定義しなくては決まらない。もちろん、それは人間中心のデザインに限らず、すべての計画、設計、デザインにおいて―。僕はそう考えます。

ゆえに、以下の考えには賛成です。

HCDプロセスの導入は、きっちり決まった手法では無く、案件ごとに流動的なものであります。クライアントの意識や会社風土、ユーザの意識やリテラシー能力など案件ごとに様々ですよね。
HCDプロセスは「こうでなくてはいけない。」という事は無く、もっとクライアントそれぞれのコンテキストに合わせた導入方法があるのかな。

すでにアサノさんのブログには、コメントを残しましたが、ここでもあらためて整理しなおして掲載しておきます。

ステークスホルダーは複数、デザインする人工物は単数

何らかの人工物をデザインする際、ほとんどの場合、それに関わる利害関係者(ステークスホルダー)は複数にいます。その際、異なる利害関係者同士は異なる要求を持ち、さらに異なる利害関係者がもつ要求同士はたがいに排他的になるケースもあるでしょう。

ただ、利害関係者の数が多く、それぞれが異なる要求をもっていても、最終的に提示する人工物は1つに固めなくてはならない。複数の利害関係者の異なる要求をうまく調整しながら、1つのデザイン案を導き出すことが、デザインする人には求められます

デザインを行う際には、利害関係者たちの利害をそれぞれ把握し、利害同士の関係性を理解する必要がある。そのためには、利害関係者ごとに、製品利用時の役割、利用目的、ゴールを中心とした利用のコンテキストを明確にしていく作業を行わなくてはなりません。そして、その作業を通じて、利害関係者それぞれの利害が浮かびあがってくる。
それらをいかに調節したひとつの解決策を提示できるかがデザインの課題です。複数のステークスホルダー間の利害関係をその重要度に応じて調整する際には、QFD(品質機能展開)の考え方も応用できるでしょう。

オフィス用複合機のデザインと利害関係者

オフィスなどに置かれている複合機を考えてみましょう。

一般利用者の通常利用
日常の仕事のなかで、誰もが普通にコピーをとったりプリントしたりという通常の利用ケースがあります。これは上部のUIや物理的なボタンのみで利用できたり、複合機には触れずに自身のPCからすべてコントロールできること(もちろんプリントアウトした紙を取りにいくのは除いて)が望ましいでしょう。
一般利用者のイレギュラーな利用
ただし、複合機は紙詰まりなどの問題をたびたび起こします。その際には、一般利用者にもそうした問題の自主的な解決が望まれます。下部の扉をあけて、普段は隠されている複合機の内部をのぞき、詰まった紙を取り除く作業をしなくてはいけません。使い慣れたUIやボタンによる操作とは異なる利用方法が求められます。
とうぜん、一般の利用者にそうした問題解決の作業をスムーズに行わせるためのガイドをすることが、複合機のデザインが必要になる。最初にどのレバーを引いて、次にどの部位を引き出して、詰まった紙を取り除くか。同時にUI側でも、どの部位に紙が詰まっているかを示し、問題解決の操作をどうやって行えばよいかを示すことが必要でしょう。
専門のサービスマンによる修理時の利用
ただし、すべての問題が一般の利用者で完結できるわけでもありません。複合機を使っているとどうしても、専門のサービスマンを呼んで修理してもらわなくてはならないケースも生じます。一般の利用者向けに問題解決用にデザインされた操作だけでは、問題解決ができない(どうしても紙が取り除けない、etc.)場合は、専門家の手を借りる必要があります。
その場合、修理をする専門家は、ドライバーを使ってネジをはずす、壊れた部品を交換する、などの、一般の利用者では利用できない機器のインターフェイスに触れることで修理の作業を行います。もちろん、この場合も専門家ならなんでも修理できるというものではなく、あらかじめ修理可能なインターフェイス(取り外し可能なネジや交換可能な部品)がデザインされていてはじめて、修理の専門家は自身の目的である「修理」という行為が可能になるのです。

この3つのケースを考えただけでも、各利害関係者の要求は異なり、それぞれに異なる利用を促すデザインが必要です。

さらに、複合機はネットワークにつなげて利用されることが多いので、オフィスのネットワーク管理者用にネットワークの設定などを行うインターフェイスを提供する必要もあるし、利用可能な寿命がきた場合に廃棄することを考えたデザインというのも必要かもしれません。

オフィス用複合機のマーケティングおよび事業のデザイン

以上は、あくまで複合機という人工物そのものをデザインするときの利害関係者とその要求に対するデザインとの関係を概観しただけです。

ただ、ビジネスという面で考えれば、とうぜん、それに加え、複合機を売る人、導入検討を行うクライアント側の担当者、導入の決済を判断するクライアント側の決裁者など、販売/購入という側面での利害関係者もそれに加わってきます。

そのとき、解決しなければならない問題は、必ずしも複合機そのもののデザインではなく、複合機の販売/購入にともなうコミュニケーションのデザインや価格設定など、複合機のマーケティングに関するデザインに対象が移動します。
販売側の企業の立場に立てば、販売後のメンテナンスを支える体制をどのように組織化し、全国的に展開するか、どのようなオペレーションで対応するのが効果的かということも考えなくてはいけません。

単純化すると、バランストスコアカードの4つの視点(「財務の視点」「顧客の視点」「業務プロセスの視点」「学習・成長の視点」)をバランスさせることで、最終的なビジネスゴールを達成する必要があるということになる。この4つの視点にすでに異なるステークスホルダーの視点が含まれているのにお気づきでしょうか(狭義のHCDが相手にするユーザーなどというのは、この視点の一部である「顧客」のさらに一部でしかありません)。この4つの視点をバランスさせることでビジネスゴールに向かうというのが、バランストスコアカードおよび、その可視化手段である戦略マップというツールです。
それぞれの主要成功要因(CSF)を特定し、それに測定可能な重要業績評価指標(KPI)を設定し、ビジネスゴールである重要目標達成指標(KGI)を達成するための戦略を組み立て、可視化するのです。

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さらに事業として考えるなら、1つの複合機の商品開発、マーケティングだけでなく、3年後、5年後の市場やビジネスを踏まえたグランドデザインを作成することが必要となるケースもあるでしょう。
その際には、CSR(企業の社会的責任)の観点から、製造拠点のある地域の住民や従業員の家族など、より多くの利害関係者を想定したデザインが必要になります。

プロジェクトの定義があってはじめて、デザインプロセスは決められる

ビジネスとして考えれば、こんな風にいくらでも利害関係者は膨らみます。
当該のデザインプロジェクトが何を目指し、どこからどこまでを範囲とするかで、そこに含まれる利害関係者とそれぞれの重要度は異なりますし、ゴールを達成するためにどういうプロセスを経てデザインを行うかも違ってきます

結局、どういうプロセスで、何に重点をおいてデザインするかは、
  • プロジェクトの目的
  • ゴール
  • スコープ
  • 前提・制約条件
  • 利用可能なリソース
などを定義することでしか決められません。
スコープを決める中で、組織の内部、外部の利害関係者が明確になってきます。

プロジェクトの計画を立てるという作業はまさにプロジェクト全体の作業の流れ、進め方を決めるプロジェクトそのもののデザインです。プロジェクトの目的とゴールを明確にし、ゴールにたどり着くために必要な要素をリストアップし優先順位をつけ、それぞれのタスク間の関係性を明確にした上で、必要なリソースの配分を行うのです。このプロジェクトのデザインができなければ、実際にデザイン思考で仕事をまわすことはできません。

アサノさんが「クライアントそれぞれのコンテキストに合わせた導入方法がある」というとき、こうした前提となるプロジェクトの定義との関係を"コンテキスト"と呼んでいるのではないでしょうか?

その意味で、上でも書いたとおり、HCDの手法そのものもコンテキストにあわせて利用するのが妥当だと僕は考えます。

典型的なデザインの状況にはいつも方法のわからないものがつきまとう

デヴィッド・ケリー(IDEO創始者)もこういっています。

プロセスを学習すること、注意を払うことを止めるのは不可能です。企業は、いい結果を手にしたいのなら、デザインのプロセスを理解し、改良するために努力をし続けなければならないのです。
しかし、これはプロセスが標準化できるということではありません。ある問題を理解したとしても、同じ方法で次の問題も解決できるわけではありません。典型的なデザインの状況にはいつも、方法のわからないものがつきまといます。
デヴィッド・ケリー「第8章 デザイナーのスタンス」
テリー・ウィノグラード『ソフトウェアの達人たち―認知科学からのアプローチ』

こうしたプロジェクトそのものも含めて、デザイン思考です。

具体的なデザイン作業に入る前には、プロジェクトそのものの定義・デザインが必要です。
プロジェクトの定義がデザインプロセスを決めるための前提条件となります。

であれば、プロジェクトの定義を共有できていない、外部の人間が一般論で個別ケースのデザインプロセスに関して云々いうのは、そもそもお門違いとなるケースが多いでしょう。コンテキストを理解しない言説、行動はとかくトンチンカンなものになりやすいと思います。

 

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2009年06月30日

声と文字(あるいは本というメディアについて)

「手書きであることを突き詰めれば、原稿用紙は不要だろう」
と鈴木一誌さんは『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』のなかでいう。
「原稿用紙は、活字組版のために、出版者と印刷所の文選工の字数の数えやすさと判読の助けとして開発された」とも続けています。
そして、また、
「手書きかワープロかとの問いは、原稿用紙を捨てられるかどうかの判断をも迫る」という。
原稿用紙という存在すら忘れていた僕らには、ハッとさせられる指摘です。



あるいは、今福龍太さんは、
「オーラリティの世界に反響する音声としての言葉は、一度文字記号のなかに落ち着いてしまうと、ミメティックな能力が失われる」
『身体としての書物』で声にだされたことばのもつ模倣的(ミメティック)な性格を指摘すれば、
酒井健さんは、『バタイユ』で、
「言葉と生の一致。言葉が言い表そうとしている生の動きをその言葉自体が帯びているということ。その言葉に生の動きが満ちていて、耳にするとその生の動きが伝わってくるということ。武勲詩の聴衆が、朗誦される詩の言葉に求めていたのはそのようなことだった」
とバタイユが愛した中世の吟遊詩人とその聴衆を結ぶ詩の口誦を評しています。

声に出されることば

さらに、宮本常一さんが『民俗学の旅』でこう書くとき、

私が年寄りたちからいろいろの話を聞くようになったとき、明治維新以前のことを知っている人たちとそうでない人たちの間に話し方や物の見方などに大きな差のあることに気付いた。たとえば維新以前の人たちには申しあわせたように話しことばというよりも語り口調というようなものがあった。ことばに抑揚があり、リズムがあり、表現に一種の叙述があり物語的なものがあった。維新以降の人たちのことばは散文的であり説明的であり、概念的であった。そしてその傾向が時代が下がるにつれて次第に強くなる。知識を文字を通して記憶していくようになると、説明的になり散文的になっていくもののようである。

それは、酒井健さんが『バタイユ』で次のように書くバタイユの姿と重なってきます。

近代人の読書のように文献を机の上に置き黙読して内容の把握に終始するという姿勢をバタイユは中世の文献に対して取らなかった。文献の言葉をいったん暗記して身体に摂取し、それを文献から離れたところで声に出してまるで歌うように、ときには本当に歌いながら発語していたのだ。彼はそうして中世の文字の世界の奥に息づく中世の話しことばの世界の生に触れ、それを体感し、感性の次元でその生と交わっていたのである。とりわけ、この生の非理性的な力、つまり古典古代の言語の枠に収まることができなかった力に出会い、感性を打ち震わせていた。

説明的でもなく、概念的でもない、言語の枠に収まらない生の非理性的な力。それは書かれた文字によってではなく、声として発せられたことばに宿り、その声を耳にする者の感性を震わせる。

そんな声の響きが、書かれた本には宿っているのでしょうか。

音読と黙読

黙読ではなく声に出して読むこと。
松岡正剛さんは『多読術』で、読書の歴史において「いちばん大きな変化は「音読」から「黙読」に変わったこと」といっています。

あまり知られていないことですが、人類が黙読(目読)ができるようになったのは、おそらく14世紀か16世紀以降のことです。それまではほとんど音読です。
松岡正剛『多読術』

「音読」から「黙読」へという話に関しては「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」というエントリーでも紹介しています。高山さんは、そのなかで、印刷術の発達のおかげで聖書は一人ひとりが自分の個室で読めるようになり、それまでの音読から黙読の習慣に移り、さらに、それまで表立ったものだった声が黙読により内にこもることで、内面なるものが存在するように思えるようになるのもこの時期だろうといったことを紹介してくれています。

黙読、無意識、自我

松岡さんの話に戻ると、音読から黙読へという読書の歴史を紹介したうえで、マクルーハンの次のような仮説についても紹介しています。

人類の歴史は音読を忘れて黙読するようになってから、脳のなかに「無意識」を発生させてしまったんではないかというんです。言葉と意識はそれまでは身体的につながっていたのに、それが分かれた。それは黙読するようになったからで、そのため言葉と身体のあいだのどこかに、今日の用語でいう無意識のような「変な意識」が介在するようになったというんです。
松岡正剛『多読術』

これは高山さんの声が内にこもることで内面なるものが存在するように思えるようになったという指摘とも重なりますし、「自我という魔術」というエントリーで指摘したような、人が自分自身を生きて常に変化する存在から、説明的で概念的なものに変化させ閉じ込めてしまう「自我」を近代が発明し、人間にインストールしてしまったことにも重なるのではないでしょうか。

ことばと指示対象の連続性

ここで再び。酒井健さんのから引用。

言語記号をその指示対象から独立した単体たちの差異の群れと見たがる、そしてその群れ(体系)の創造に人間のすぐれた営為を見たがる近代人をよそに、19世紀末の象徴主義の詩人たちは、言葉(例えば「罪」)とその指示対象(罪ある行為、それに伴う感情、意識)とのつながりを重視し、さらにその指示対象が息づいていた原初の混沌たる連続体とも生きた関係を回復しようとした。

もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」で紹介したように、川田順造さんがモノとワザの関係性のなかにある無形文化の喪失―もちろん、そこには無文字文化も含まれる―に継承を鳴らしつつ、失われていく文化にさみしげな視線を送るのも、こうした点につよく関わっているのでしょう。
先のエントリーで僕自身が書いたように、それは紛れもなく、自分たち自身で自分自身のなかの一部を殺し続けながら生きていることだと思うからです。

さらにこれを重ねてみる。

自ら持たぬものと結合したいという人間の欲望がうむアナロジー(analogy)は、とめどない揺動を特徴とする情熱的なプロセスでもある。身体にしろ、感情にしろ、精神的なものであれ、知的なものであれ、何かが欠けているという知覚があって、その空隙を埋める近似の類比物への探索が始められる。

アナロジーのもつ模倣性―ミメティックな性質が、言葉と指示対象の分離が起こる前の声の文化、そして、スタフォードが研究する18世紀の博物学全盛の時代のイメージングの世界には生きていたのではないかと想像します。

直接的に

さらにこれを重ね合わせるとどうでしょう。

ことばの呪能を託された歌は、すでに動かしがたい存在の意味を荷うものとして、客体化された。ことばは歌として形成されたとき、すでに呪能をもってみずから活動する存在となる。

日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで/土橋寛」で紹介しているように、土橋寛さんは「呪術は人間が自然物や他者を直接的にコントロールすることによって、願望を遂げようとする行為」だと述べています。説明や概念を媒介にするのではなく、「直接的にコントロールする」方法、感性を打ち震わせる方法としての呪術です。
直接的に。そう、インターフェイスを媒介とせず、直接的に。

とはいえ、声として発せられることばにのみ、呪的な力があったわけではないだろうとも想像します。
書かれた文字であっても、それが、印刷技術による複製――を前提とせず、原稿用紙という道具もなかった時代の手書き文字であれば、発せられることば同様の呪的性格を帯びていただろうと思います。

感性の次元で、生と直接交流可能なことばの時代があったのだろう、と。

本というメディア

それでも、本という活字メディアに僕は強く心をひかれます。それはきっと本が松岡さんがこう書くようなメディアだからでしょう。

一冊の本に出会って読書するということは、大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」でそのような体験を再現し、再生し、また創造していくということなんですね。本はそのためのパッケージ・メディアです。
松岡正剛『多読術』

再現というよりは追体験かなと思います。

過去にその体験をした人との直接的な交流をする。
それは文字で書かれた指示対象を説明的・概念的に理解することとは違うはずです。

もちろん、インターネットアーカイブをピンポイントで検索するのとはまったく違う。検索ではなく、感性的な交流によって情報に接することが求められるのではないでしょうか?

   

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2009年06月29日

『デザイン思考の仕事術』、丸の内オアゾの丸善ほかのリアル書店での状況。

Amazonでは現在「在庫切れ」状態となっている『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』ですが、丸の内オアゾの丸善には置いてありました。
(ほかにも、置いてある店舗の情報を担当編集者さんからいただいたので、ページ下部に掲載してます)



売り場は、1階の「マーケティング」の棚(入口はいってすぐ右)。
この棚番号が目印。



あとは、3階だと、いろんなところに置いてあります。

まずは3階までエスカレーターを上って、すぐ右にある新刊書が平積みに並んだ棚のところ。これはちょっと見つかりにくい位置に置かれています。



それよりも、そのすぐ右隣にあるデザイン関連書の置いてあるコーナーのほうが見つかりやすい。



この棚番号が目印。



さらに、3階から下に降りるエスカレーターがあるところに設置された、アート関連の話題書があるコーナーにも平積みされてました。



あとは担当編集者さんからの情報によると、
  • 今日時点で、
    • 紀伊国屋新宿本店3F
    • ジュンク堂新宿店6F
    • 丸善御茶ノ水店
    にも置かれているそうです。新刊台またはビジネス書コーナーに平積み、面陳。
  • また明日30日以降は、
    • 恵比寿のアトレの有隣堂で大きめに転回
    • 三省堂書店神保町本店には陳列用のワゴンにスタンバイされていたので明日には店頭に並びそう
    といった情報も。
  • それから「在庫切れ」表示になっているAmazonにも在庫確認を実施中。

とのことです。

写真は、左が紀伊国屋新宿本店3F、右がジュンク堂新宿店6F。

 20090629i.jpg


あとは新宿ルミネ1のBook 1stでも見かけたという情報を聞いたので、ほかのBook 1stにも並んでいるんじゃないか、と。

ほかにも、ここで見かけたよ、という情報があったら教えてください。
それと、またジャンル分けがしづらい本なので、リアル書店でみつからない場合は、店員さんに「『デザイン思考の仕事術』ありますか?」と訊いてみてください

買った人で、ブログを書いてる人がいたら、「ここで買いました!」という情報だけでもいいのでエントリーを書いて、ここにトラックバックしてもらえると助かります! もちろん、このエントリーへのコメントでも。



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2009年06月29日

いきなり在庫切れってどうよ?

発売日初日から在庫切れ? ありえないですよね。



せっかくtube graphicsの木村さんにもご紹介いただいたのに。

カバーにある 自分の「脳」を外に出せ。からも分かるように
一冊丸ごと、わたしの大好きな「視点の移動」が満載でした。
これまでの自分を離れてみたい方、お薦めですよ。

早急の入荷を期待。
お急ぎの方は、リアルな書店で探してみてください。僕も探してみます。→在庫のあるリアル書店の情報を掲載しました。



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2009年06月29日

WCAG勉強会@関西やります!

Web Content Accessibility Guidelines (WCAG) 2.0が勧告されて半年になります。あれだけ長大な文章を読み通した人は少ないと思います。

そこで、毎月(たぶん)集まって徐々にみんなで読みこなしていこうという勉強会を立ち上げました。詳細はhttp://acri.jp/wcag/(※Google Sitesへリダイレクトされます)を参照してください。申し込みはmixiのACRIコミュで。

ぜひ参加してください!

2009年06月27日

身体としての書物/今福龍太

『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書き終えたばかり(しかも発売前)ですが、今度はインターフェイスに関する本を書きたいなと思っていて、構想を練りはじめています

インターフェイスといっても、いわゆるユーザーインターフェイスという狭い範囲の話ではありません。ましてやGUIだけについて書きたいわけではありません。
文字や本、絵画、それから食器やこれまで歴史的に登場した民具なども含めた、もっと広い意味での人間と外界とのインターフェイスについて書くことで、現在のユーザーインターフェイス(GUIもTUIも含めて)を超えたインターフェイスの可能性を開くことができると考えています。それは白川静さんの文字学や宮本常一さんらの民具の研究、そして、バタイユの「非-知」、ベンヤミンの「幼年期」なども取り込む形でのインターフェイス論になるだろうと思います。
そうしたインターフェイス論を書く必要がありそうだなと考えていて、なんとなく構想も頭にイメージできつつあります。



当然、そうした思考をまとめていくためには、『身体としての書物』のなかで「書物とは、ただ単にそこから必要な情報や教養を得るための便利な道具ではない」と書く今福龍太さんのように、書物というインターフェイスについても考えなくてはなりません。「本とは、必ずしも簡単にデータとして利用したりコンテンツとして消費したりすることのできるメディアではない、という点こそが重要なのです」ということばを念頭におきつつ、「本と自分との関係はもっと多様なものでなければならないし、本来そこには誰にとってもより自由で豊かで創造的な、柔軟性にみちた関係があった」という地点に立ち返る必要があります。

所有される本、読まれる本

この本は、今福さんが東京外国語大学で行ったゼミナール「身体としての書物」の講義録をもとにしています。
そのゼミナールでは、今福さんは学生に本をつくらせたり、師であった山口昌男さんの10,000冊の蔵書の整理を学生に立ち会わせたりしています。

10,000冊の蔵書というと、「一生のうちに、よくそれだけの本を読みましたね」という常識的な反応が必ずあるといいます。そうした反応に対して今福さんは「本というものは、所有した以上は必ずすべて読まなければならないというものではありません」といっています。

本を買って持っておくことは、かならずしもただちにそれを読むという行為には結びつきません。手に入れた本をすぐには読まないで書棚に収め、やがてその存在を忘れてしまう。けれどもその忘れられた本が、何十年も後に再発見されて自分の思考に突然親密に語りかけてくる、ということがしばしばあります。

本を所有することと、本を読むことは別物です。さらにいえば、所有していても、書棚にみえるように並べること、書庫にしまっておくこと、所有していることを記憶から忘れることも、また別物です。本と自分との多様性の一部分が、こうした違いにあらわれています。本といかなる関係性をもつかということは場や作法の問題に関わっていて、場や作法が多様な違いを生み出します。


ヒューマンインターフェイスとしての本

本という物理的な形態のメディアがこの違いを可能にしてくれているのだと思います。

それはインターネットに情報をアーカイブする場合に捨象されてしまう違いです。本を所有することは、ブックマークやリブログでデータやコンテンツを記録しておくこととは別物です。
本というメディアがもっていた人間にとって有意な違いを捨象してしまっているという点に、インターネットのアーカイブに対するヒューマンインターフェイスの問題がそこにあります。

ありえない不老不死の神話に背を向けるその有限性において、書物は人間の生命と身体の条件としての有限性に直に結ばれた。むしりヴァーチュアルなアーカイブに組み込まれ、ディジタルなデータ記号として永遠の生命を得たかに見える本=テキストのほうが、死や消滅への想像力を失うことで、かえって知性の求める尊厳と謙虚さから遠ざかっていくように私には思われる。

前に「本は「欲しい」という前に買え」というエントリーで「本に興味をもつ目、本を選ぶ目って、その人の好奇心の広さ・深さであり、その人の問題意識の広さ・深さなわけです」と書きました。これは実は反転することもできます。

人の好奇心の広さ・深さ、問題意識の広さ・深さは、本を所有しようという意欲や実際に所有する本そのものによって育まれる、と。

これが現在のインターフェイスをもつ、インターネットのアーカイブにはそのままあてはめられないということが問題だと思っています。そして、それはインターフェイスの問題であり、そのインターフェイスに問題があることに気づかずにいる多くのインターフェイスデザイナーの問題です。

こうした点を本をはじめとする伝統的なインターフェイスについて、あらためて考え直すことで問題を解決していかなくてはいけない時期だろうと思っています。

認識→探究→信頼

「身体としての書物」といてテーマで全14回の講義の形をとって進められる本書では、ボルヘスの「砂の本」の無限のページをイメージさせる本、おなじくボルヘスの「バベルの図書館」の世界全体と関連を想起させる有限だが膨大な大きさをもつ図書館、ジャベスの『書物への回帰』であつかわれる砂漠としての本、書き込みそれ自体を可能にする砂漠的身体性をもった本、そして、ベンヤミンの私的な記憶と社会の記憶を重ねる思想を経て浮かび上がってくる文字や本の身体性について論考が繰り広げられます。

そのなかでベンヤミンがみた文字の身体性と読み書き(リテラシー)を身につける幼年期の段階、そして、社会の成長との関連性についてすこしだけ紹介しておきます。

クラウス・クリッペンドルフは『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』において、個人の使用におけるコンテキストでの、物の利用しやすさを人間が獲得するプロセスを、「認識」→「探究」→「信頼」という3つの段階に分けています。

道具のユーザビリティは人間の行為→感覚→意味付けの繰り返しの認知的プロセスをまわしながら、認識できるだけの段階から物を信頼して使用できる段階まで、ステップを経て獲得されます。
認識の段階では人は物の物理的側面に着目して、それが何かを把握しようとする。それが信頼の段階ではもはや物の物理的側面は背後に消えて、あたかもそれが自分の身体の一部あるいは思考の一部のように、その物をほとんど意識することなく利用するようになる。
呼吸をするのをいちいち意識していたら息苦しくなるのとおなじように、道具の物性をいちいち意識していたら物をスムーズに使うことはできないのです。

幼児が文字言語の操作方法を獲得する

それと似たような見方を、ベンヤミンは文字や本に対して、私的な幼年時代の記憶へと遡行しながら考察しているのです。今福さんはこんな風にまとめています。

子どもが忘れることができないというのは、かれらがまだ完全に覚えることができないことの裏返しです。(中略)人間には「覚える」というプロセスが完成される決定的な段階がある。それを「知」の獲得というふうに言い換えてもいいと思います。ある時期に言語の物質性や模倣性との決定的な別れが起こって、記号的な文字言語を自由に操作できるようになる段階が人間に訪れる。これが「覚える能力」の完成の瞬間で、そこからまさに「忘れる」というプロセスもまた同時にはじまるわけです。

幼児は言語を物質性や模倣性において認識しはじめましが、徐々に文字の世界に慣れてくると、その「記号的な文字言語を自由に操作できるように」なります。物質としての文字が繰り返しの模倣=トレース(探究)を経て、その意味内容にアクセス可能なインターフェイス性(信頼)を獲得するのです。

「言葉」のなかには、言語の模倣的な領域と、言語の記号的領域とが存在します。後者の記号的な領域は、音素を単位とする抽象化された恣意性によって成立している。そして言語はこの記号領域に「言葉」が着地することによって体系化され、このときから、たとえば踊りを通じてマテリアルな世界と交感する身体性に見られたような人間の「模倣の能力」は縮減される。

いまのインターフェイスデザインの問題は、この「模倣」から「記号的操作」へという段階が軽視されている点にあると思います。

多様な関係性の基盤をいかにデザインするか

文字や本というメディア自体がいつでも信頼を失い、探究や認識の対象に立ち戻る可能性が忘れられていて、あたかも一度操作方法を記号的―マニュアル的―に理解すれば、操作可能となりユーザビリティが確保されるという前提に立っていることが問題です。

そうではなく文字も本などのメディアもいつでも人間にとって物質性の認識へと立ち戻る可能性を、インターフェイスのうちに内包してあげなくてはならないと思います。なぜなら、それ自体が知の獲得のプロセスだからであり、そのプロセスを何度でも経験可能にすること自体に、メディアと人間の多様な関係性が生まれる基盤があるからです。

この多様な関係性の基盤をいかにデザインするか(あるいは『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』の最後に書いたように「デザインしすぎない」か)。
それが本に限らずあらゆる人工物をデザインする上での今後の課題であり、人間と環境の関係性あるいは人間そのものの再定義に関わる課題だと思っています。



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2009年06月27日

『デザイン思考の仕事術』感想をいただきました・1

『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』がいよいよ来週の月曜日には書店に並びます。
どんな風に並ぶのか想像すると、どきどきします。
まぁ、こんな風には並ばないと思いますが。



早くも感想コメントをいただきました。

その前に早くも献本させていただいたkojicozyさんから、こんな素敵なコメントをいただきました。ありがとうございます。

早速 帰りの電車の中から一気に読みました。
「はじめに」から 棚橋ワールドが満開で、魅力的な映画の冒頭を見ているかのような展開に魅き込まれてしまった。まさに「なぜ」という好奇心をそそりながら、わかりやすくその意味を解きほぐしていくプロットはさすがです。

一気に読んでいただけたということがありがたいです。
「ちょうどこういう本を待っていました、というタイミングです」というコメントもありがたかった。
kojicozyさん、本当にありがとうございます。

それから浅野先生にもブログで紹介いただいています。

名古屋から帰ったら、じっくり読みます。ありがとうございました。

一気に読んでいただくのにも、じっくり読んでいただくのにも、ぴったりの一冊ということでしょうかw

浅野先生は名古屋での日本デザイン学会への出席とのこと。なぜか僕も浅野先生の「シャッフルディスカッション」の共同研究者として名前を連ねさせていただきました。
こちらに関しても重ね重ね感謝です。

あとは直接本を見せた人からは軒並み、表紙のデザインや本文の文字組みは好評です。
前著『ペルソナ作って、それからどうするの?』より、表紙の雰囲気がいいとか、中身も読みやすいと評判がいいです。
編集者およびDTPを担当していただいた方に御苦労いただいた甲斐がありました。こちらもあらためて、ありがとうございましたという気持ちです。

お待ちいただいている皆さん、月曜日に書店に並ぶのをお楽しみに。どこ(書店、書棚のカテゴリー)に置いてあったよという情報もお待ちしてます。
Amazonならいまから予約しておくと、ちょうど発売日あたりに届くのではないかと思います。



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