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2009年06月26日

自我という魔術

昔からこういう記述には惹かれてしまう性質です。

言葉は私たちの内部で性をほとんどまるごと吸い上げてしまう―この生のほとんど小枝の切れ端までこの蟻たち(言葉のことだ)のせっせと休みなくはたらく群れによって捕えられ、吸い上げられ、積み上げられてしまう。だがそれでも我々の内部には、無言のまま隠れていて捕えがたい部分が残っているのだ。言葉の世界、論理的言語の世界では、この部分は無視されている。

言葉でなにかを理解する、知るということは、永遠にその対象から遠ざかってしまうということになる。『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』が「バラバラの情報が散らばった世界で」という断章からはじまっているのも、そこに目を向けてもらうことができたら、と思ったからです。



自我という魔術

ひらがなで、ほうほう。」で、僕はこう書きました。

なまえ。なまえ。なまえ。

なまえなんか重要じゃないのに。

なまえがつくとうごきが止まってしまう。
かたまってしまう。

以前、「意味を超えたところにある何か」というエントリーでも書きましたが、岡野玲子さんのマンガ『陰陽師』の1巻では、名前によって相手を縛り上げる呪の話がでてきます。怨霊に、自身の名前を教えた源博雅が怨霊に操られてしまうことになるのに対し、陰陽師の安倍晴明は偽の名前を名乗ったために、その力から逃れることができたという話です。

まさにそれとおなじで名前をつうじて意識のなかで統一された自我が、自分を縛ることになる。生物としての人間の多様性は捨象され、意識に捕えられた部分のみが自分自身であるかのような錯覚が起る。

錯覚というよりもむしろ魔術です。
言語の呪的な力を忘れた―甘くみるようになった―近代以降は、すべての人間が自我という魔術にかかっています。

自我は愛さない

バタイユという人は、その自我をとことん嫌った人です。

『内的体験―無神学大全』には、こんなことばがあります。

私は、雨、
雷、
泥、
水の広大な広がり、
大地の底を愛する。
だが自我は愛さない。
大地の底で
おお、私の墓穴よ!
私を私から解き放ってくれ、
私はもう私でありたくないのだ。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験―無神学大全』

別にバタイユは普通の意味で、自分が嫌いだったわけではありません。
ただ、自分を小さく規定しようとする「自我」には抗った。

自我とは、名前であり、言葉であり、意識です。それらは人間のなかにまだ「無言のまま隠れていて捕えがたい部分」があるのを人間に忘れさせ、人間を自我という魔術のとりこにしてしまう。自我という牢にとじこめてしまう。

知の彼方

それをバタイユは嫌った。それよりも「無言のまま隠れていて捕えがたい部分」としての「夜」「非―知」を追求した人です。言葉の力を警戒しつつ、隠れていてみえにくい物の力をどうにか見ようとした人です。

バタイユは、知を愛した人だ。知すなわち知る行為とその成果の知識とを大切にし尊重した人だ。そのうえで彼は知の彼方をめざした。
知の彼方とは、知が愛してこなかったもののことである。どのようにしても知ることができなかったために、知が愛してこなかったもののことである。

僕がバタイユに惹かれるのは、知が愛さずにいる知の彼方を目指そうとする、こうした姿勢です。

バタイユの知の彼方を目指した、そのベクトルは自我の束縛を超えて、自分自身の外に向かうことにほかなりません。知ることを拒否するのではなく、知ることで未知に気づき、その先にある非―知を感じとる

もちろん、それは単純な知の否定、ことばや自我の否定ではありません。知やことば、そして自我の呪力を鋭敏に感じとっているからこそ、その力の強さを認めているからこそ、その力から解放されることを懇願するのです。
「私を私から解き放ってくれ」というバタイユの懇願は、まさに知の彼方を目指すことによってのみ実現の可能性が開かれるものでしょう。

単なる知を超えた、こういう鋭敏な感覚に僕は惹かれるのです。

人間は永遠に堕ちぬくことはできない

もちろん、バタイユのようなこうした方向性を突き詰めきれるほど、人間はタフではありません。

それは坂口安吾が『堕落論』において、

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
坂口安吾『堕落論』

と書いたのとおなじで、バタイユが懇願したように、知の彼方、自我の外側へと「堕ちぬくことはできない」だろう。

バタイユが『内的体験』を書いたのが第二次大戦中なら、安吾が『堕落論』を書いたのは第二次大戦後です。ほぼ同時代に、二人の人間がおなじようなことを考えている。安吾的なものにも僕は昔から惹かれる傾向があります。

人間は堕ち抜くことはできないし、バタイユのいう「夜」「非―知」に辿りつくこともできない。それはニーチェが狂気に沈んだのと同様に、精神的にも肉体的にも人間を破壊するのだろうと感じます。

だが、それを望むか、そんなことすら気づかずに「言葉の世界、論理的言語の世界」で、自我に捕われて生きるか。それを課題として捉えられるかどうかは大事なことではないかと思っています。

   

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2009年06月25日

祝!30歳 & 祝!M-glam(エムグラム)始動ということで



HiMAとして一緒にイベントやったりと、いつの間にか仲良しになってたmbdbのcazukiが、本日30歳という大台に乗り、フリーランスのモバイルディレクターとして個人ユニット「M-glam(エムグラム)」も始動したそうです。

おめでとー!!

ということで、恒例(にしようと思ってる)の似顔絵を描いてみました。

前から、描いてくれ描いてくれと言われてたのに放置してましたごめんなさい。北斗風ってリクエストだったはずが、ジョジョ風になってしまったのはQさんのせいです。似てないのは・・・まあ、しょうがない。

ちなみに、M-glamの意味は、「MOBILE WEB GLAMOROUS」の略で

・魅力的なモバイルサイト/ウェブサイトを考え、作っていくこと。
・モバイルサイトやウェブサイトを通じて広がるリアルを魅力的なものにしていこう。

という意味を込めているらしい。モバイルサイト制作のお仕事あったらM-glamに相談してあげてください。お仕事募集中だそうです。

[追記]

わたしの文章がわかりにくかったのか、わたしの誕生日だと思っておめでとうメッセージを送ってくれた方が数名いらっしゃたのですが、これはcazukiの誕生日祝いエントリーです。すみません。ちょっと文章修正しました。

2009年06月25日

「Next Communication & Marketing」のオープンセミナーで講演します

2009年7月16〜17日東京国際フォーラムで行われる次世代のコミュニケーション&マーケティングをテーマにしたセミナー「Next Communication & Marketing」に、スピーカーとして出演することになりました。 真面目なビジネス系セミナーなので、どう見てもひとりだけ...

2009年06月23日

モスバーガー「モスワイワイこどもラボ」に辻希美が所長就任 & ゆるキャラ"モッさん"が登場



辻ちゃんが、モスバーガーが新たに仕掛ける、子供向けメニューやグッズ、親子向けのサービスを開発する「モスワイワイこどもラボ」の初代所長になったらしいのですが、隣にいるキャラクター

モッさん」の方が気になる!!!

「モッさん」は72年の板橋生まれで本名は秘密。「何度かイメチェンしつつも、今はなんとなくこんな感じ〜」だそうだ。趣味は「国内旅行とコスプレ」という。
via:毎日.jp

なんという設定・・・

ハンバーガー業界で孤高の存在だったモスバーガーも、CMはじめて、Wバーガーものっかっちゃって、とうとうオモチャ付きセットの販売、そしてキャラクターの発表。変わったもんだなあ・・・

MOS BURGER
http://www.mos.co.jp/

2009年06月23日

Firefox×Shiretoko「Discover Shiretoko」知床半島を森にするバナーキャンペーン



もうすぐ正式リリースされるFirefox最新版「Firefox 3.5」(コードネームShiretoko)のPRとして、Mozilla Japanと知床財団がコラボレーションした「Discover Shiretoko」というキャンペーンサイトが公開されています。

24時間最多ダウンロード数でギネスに挑戦したこともある、世界が認めるウェブブラウザ「Firefox」と、世界自然遺産に指定されている北海道の「知床」。キャンペーンサイトでは、共通点なさそなこの2つにまつわる話が紹介されているのですが、ちょっと無理矢理感が漂います。

また、ブログにバナーを貼ることで、サイト内のバーチャル知床半島に樹が生え、Shiretokoというキーワードを書くことで成長する、森を育てるバナーキャンペーンも行っています。やたらでかい樹があると思ったらITmediaだった。



Discover Shiretoko
http://www.discovershiretoko.org/ja/

関連記事:
MozillaのCEOに「Firefox 3」のあんなことこんなこと聞いてきた
Firefox 3 が24時間最多ダウンロード数でギネスに挑戦
「ブロガーが選ぶ、2008年度ウェブキャンペーンベスト5」バトン
新ブラウザ「Google Chrome」が速すぎる件

2009年06月23日

類似サイトを検索してくれる「SimilarSites.com」



意外と使える、類似サイト検索サービス。URLを入力すると、そのサイトと「似てる」と思われるサイトが検索できます。

例えばtwitterで検索すると、twitterfeedとかTwitpicなどの関連サービスがズラリと出てくる。どういう仕組みで検出されているのかわからないけど「確かに!」と思うものから「なんでこれが?」と疑問に思うものもあります。

ただし、検索結果はユーザーが似てるか似てないかの投票をすることができるので、使う人が増えれば、検索結果が人力で変わってくるようです。検出されないけどこれ似てるよ!というものを投稿することもできます。

マーケティングツールとしてはかなり使えるかも。SimilarSitesの類似サービスとしてはsimilicio.usというのもあったけど、こっちはいまいちでした。

Similar Sites
http://www.similarsites.com/
via:100SHIKI

2009年06月23日

方法依存症2

どうしたらいいかと思うようなことは、たぶん、どうもしなくていいことか、どうにもならないことなのだと思う。
逆に、どうにかしなくてはいけないことなのだとしたら、どうしたらいいかなどと考えているひまがあったら、とっととやったほうがいい。

どうも考えるということを誤解している人が多いのではないか?
実行のともなわない思考はただの時間の浪費でしかない、というのに。

思考即行動

頭と身体がバラバラです。自分の身体を見失ってしまっています。
悪い頭にひっぱられて、優秀な身体まで本来の能力をどんどん劣化させてしまっています。

本当にわかりたければ、わかる前にいわれたとおりに自分でやってみて自分を事例にするしかありません。やってみて何も変わらなければわかっていないということですし、やってみて何かが変わればわかったということです。たとえ、それが理論であってもわかれば、行動が変わってしまうのが本当の「わかる」です。

思考とは、即行動です。
意味とは、即使用です。
哲学とは、生きられた人生あるいは生活そのものです。

知る=変わる

それがわからずに、方法依存症者は方法のコレクションにいそしんでいます。

知るということは本来、それを得る前と得た後では自分自身を変えてしまうものです。なんとなく体調がすぐれないなと思っていたときに体温をはかって熱があるのがわかると急に具合がわるくなったり、占いでわるい運勢だとわかると途端に慎重になったり。知るということは本来そうしたリスクを背負ったものです。頭ではわかったけれど、具体的にどうしたらいいかわからないというのはわかったことになりません。わかるというのはその時点で自分が変わることをいうのです。カエルが飛び出してきたら逃げるのと同じように、何かがわかったら身体的な行動も頭のなかの認識も変化するものです。

方法を知ることが大事じゃありません。頭でわかっていなくても、ようは身体が動けばいいのです。だから、知るのではなく、身につける。理解するのではなく、できるようになることです。

Amazonの『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』の「内容紹介」には、「誰でも再現可能なクリエイティブ仕事術」なんて書いてありますが、あれは過剰広告です。

僕は「誰でも再現可能」なんて言ってはいなくて、「誰でも身につけられる」と言っている。
身につけるということは、とうぜん、個人によって身体差がでる。つまり、それは再現ではなく、模倣を経たカスタマイズです。母型から個別の形をつくる行為です。ようするに、そこには正解はない。何か正解があると思うから間違うのです。身体が動かなくなって、よけいなことを考え始めるのです。

数寄スクリーニング

理論が目の前にあれば、それをそのとおり猿真似してみればいいのです。その猿真似こそが個の形を生む。意味を生む。個々の生きざまを生む。そうして現実化された生き方に正解も間違いもありません。あるとしたら、自分自身の好みにあうか、他人の好みにあうかでしょう。

それにはまず個々人が自分の生活のなかで自分自身の好みを探っていくことが大切です。好みというのは人が物事を判断する際のバイアスです。好き嫌いが物事の理解にバイアスをかける。加重をかけます。それによって何を選択するか、何を拒むかが決まります。犬やカエルが嫌いというのもバイアスです。そのバイアスがあるから逃げるという具合に身体が動く。自分のバイアスを知ることで、他人のバイアスにも目が向くようになります。何が人を動かしているのかを考えられるようになる。

自分の好みをスクリーニングする。好き/数寄スクリーニングです。

インターネットをいくら検索してみても、あなたの好みは見つかりません(好みに思えるもののデータなら見つかっても)。
好みのスクリーニングには、調べものではなく、実体験が必要です。

さぁ、オフラインにして自分をスクリーニングするための旅にでましょう。
いざ、奥の細道へ。



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2009年06月21日

文字の官能性、書物としての身体

今回は『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』の出版にあたり、書籍のデザインということにあらためて考える機会がありました。

そんなきっかけもあって書籍のデザインや以前から興味をもっている文字というものの力というものに関してもうすこし考えをすすめるためのリソースがほしいなと思い、今福龍太さんの『身体としての書物』と、鈴木一誌さんの『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』を平行して読んでいます。



書物とは、文字とは

そもそも、本=書物、文字とはいったい人間にとって何なんでしょう?

書物とは、ただ単にそこから必要な情報や教養を得るための便利な道具ではない

と今福さんはいい、

文字をコミュニケーションの道具だと断定しきれないなにか、払拭できないなにものかが、「あるがまますべて」や「文化」となって登場してくる。ことばや文字をめぐる不安を引き受けよう。

と鈴木さんはいいます。

書物は単なるデータや知識が詰め込まれたメディアでなく、独自の身体=ボディをもち、文字もまた単なるコミュニケーション、伝達の道具ではなく、そこに潜む不安も含めたあるがままを引き受けざるをえない文化として存在する。そこにデジタルな思考が捨象してしまうアナログなノイズ、ズレが存在することを今福さんも鈴木さんも見落としません。

例えば、それは松岡正剛さんが『外は、良寛。』で、

文字というものは、もちろん言葉を情報保存するためにつくられた記号でわるわけですが、文字がコミュニケーションの維持・強化・洗練から離れて、書としてリリースされていくときには、文字が犯してきたコミュニケーションの中での罪を捨てるためにあるようなところもあります。

と書いたことにもつながってくるでしょうし、「かつての生活には匂いがありました。」からはじまる新著で、僕が、

おもかげから記録(ログ)へ。類似(アナログ)から離散(デジタル)へ。五感によってつながっていた世界はいまやバラバラの情報として離散し、検索エンジンなしには必要な情報ひとつ手に入れられない世界になりつつあります。それを僕らは情報過多の世界と呼んでいます。

と書いたこととも重なってきます。

このあたりにピンとこないと、情報やコミュニケーション、発想やアイデア、そして、それらのためのデザインやデザインを通じて情報やコミュニケーションを扱う人びとの能力といったことがわからないだろうと思います。
その意味で、僕らは、もういちど、書物や文字というものの姿をしっかりと見直す必要がある。僕はそう思っています。

書籍の官能

書籍も、文字も、本当はもっと身体的で、芳しさや艶めかしさをもっているものだし、官能的であり呪的なものだと思います。

例えば、今福さんは『身体としての書物』のなかで、タイトルにもなっている「身体としての書物」ということを考えるにあたり、身体を英語のボディへと翻訳し、それをワイン用語のボディへと変換してつなげることで、さらにボディに対応する日本語を探りながら「コク」へと辿りついています。そして、そのコクは漢字で書けば「濃く」であり、それが古語の「濃し」に由来する語であることを指摘したうえで、こう語っています。

「濃し」というのは、もともと液体などの濃度を指す言葉ではありませんでした。『源氏物語』には、この言葉が頻繁に登場します。そこで「濃し」は人間関係の深い交わり、つまり男女の情愛や肉体関係の親密さを意味していたようです。つまり「濃し」という言葉は、性愛にかかわるひじょうに官能的・肉体的な内実をもった形容詞として使われていたのです。

肉体的、官能的であるというのは重要です。

今福さんは「本とは、必ずしも簡単にデータとして利用したりコンテンツとして消費したりすることのできるメディアではない、という点こそが重要」と述べ、物質的な触感を通じた知覚や認識によってしか特定の言葉を探しだすことができない書物の検索性の低さそのものが、物事を思考するのに大切な認知メカニズムであることを指摘しています。
それは性愛的な手続きにおいても、特定のパーツや特定のシーンだけを簡単に消費することはむずかしいことに似ています。それを望めば、お金を払ってプロの方のお世話になるしかありませんが、それは「男女の情愛や肉体関係の親密さ」とは別の次元にある。Googleなどによる検索性の高さと、書籍のページを一枚一枚めくってひとつの語を探しだす際の検索性の低さの関係は、まさにプロの方にお願いしたりデジタルデータで手っ取り早く済ませたりするのと、リアルで男女の情愛や肉体関係をもて面倒な手続きを踏むのとの違いに相当すると思ってよいと思います。

純化が捨象しているもの

一方で、鈴木さんは文字そのものが内包している観念のズレに着目しています。

『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』では、中上健次さんの『奇蹟』の、手書き原稿、単行本の紙面、文庫本の紙面が並置され、おなじテキストが紙面のデザインによって大きく印象が変わることを示しています。

そのうえで、「読めさえすればよい」という感覚で、「無機的にくまれている」文庫版のページのたたずまいを嘆いています。
もちろん、それは中上健次さんの『奇蹟』の文庫版に固有の問題ではなく、すべての読めさえすればよいという感覚で無機的に組まれた文庫版すべての紙面に共通する嘆きです。

『奇蹟』の文庫紙面は、視覚的な均質性を獲得している。長い歴史の結果、私たちはこの紙面に辿りついた。オリジナル原稿がもっているノイズを削ぎおとし、均質な紙面を手に入れた。なんのためか。テクストのなかの時間や空間が、読者の読書という実践の場でのみ受容されるためである。読書の純化という事態は、人間中心主義が行きついた地点でもあるだろう。だが、置き去りにしたものの余りの多さに不安をもつ。くっきりとしたものも、よく見ればその輪郭には滲みがある。

この「滲み」を排除した純化されたものを、人はユーザビリティが優れたものだと捉える価値観が現代の社会を覆っています。わかりやすい、使いやすい、純化された体験を望むことを当然としています。

ただ、それは先の、異性との情愛をはぐくむために必要な面倒な手続きをはぶいて、手っ取り早くプロの方のお世話になろうという発想と変わりありません。さまざまなすれ違いや衝突を経て、ようやく辿りつき、しかも、辿りついてなお、いつその関係が壊れるかといった不安を抱えた男女の関係のあやうさが、お金を払っての契約関係によって手に入れる安心な関係にはありません。

「秩序」がそこに実現できているとだれが判定するのか。正解はどこにもないのだろう。20世紀のデザインは、というよりデザインはきわめて20世紀的なものだが、いつも正解を求めてきた。可読性や視認性に情報量である。大衆性や公共性、訴求力という価値基準もある。結局は経済効果に換算された数字が「客観的」な基準になる。

数字で表現可能なデジタルなスペック、データが「客観的」な基準になる。

ただ、現実には、その「客観的」な基準からははみ出してしまうものが、通常の男女関係あるいは人間関係には数多くあるはずです。にもかかわらず、それを捨象して純化して、○分で○円という「客観的」な基準で示される安心、安全が提供される状態を「秩序」と判定してしまう傾向が現代の社会にははびこっています
そして、基準を「客観的」にして外に出すことによって、自らが苦心して自らの基準をつくりつつ決断をする能力を失っていっていることに気づいてもいません。まさに昨日の「もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」で書いた日本的な「人間依存性」が失われて、西洋的な「人間非依存性」に依存しきった状態ができてしまっています。

書物としての身体

鈴木さんは、少し前に「芹沢〓介の文字絵・讃/杉浦康平」を紹介した、杉浦康平さんのアシスタントを15年間つとめた後、独立した人です。

先に書物や文字は、官能的であると同時に、呪的であると書きましたが、例えば、文字の呪的な様相は、杉浦さんが『文字の美・文字の力』で紹介している、以下のような文身(イレズミ)に見ることができます。



漢字―生い立ちとその背景/白川静」でも紹介したように、そもそも「文」という文字そのものが、文身(イレズミ)を意味する字であり、人の胸部に心臓の形の文身を加えた象形です。



文身の美しさを文章という。文は人の立つ形の胸部に、心字形やV字形やXなどを加えるのである。章は文身を加える辛(はり)の先の部分に、墨だまりのある形である。

古代の人びとは、こうした文身として直接文字を身にまとうことで文字のもつ呪力、ことばのもつ呪力を身につけたのです。そこには「観念連合、類感呪術をつかった発想法・編集術」で紹介したような、対象(例えば、太陽、青々と茂る木々、etc.)を模倣したり、ことばや文字にすることで、対象のもつ力を獲得できると考える共感呪術に対する信仰があります。

ただし、こうした古代人が共感呪術的思考を通じて文字に呪力をみいだした考え方は、文身が着物の上の文字に変わってもすぐに衰えたわけではありません。



「かまわぬ」と判じる、しゃれのめした言葉遊び。言論の自由を厳しく規制された町人たちの反骨心・諧謔心をかきたてて、着物や浴衣に染めぬかれ、江戸中で大流行したという。

もちろん、こうした江戸期に流行した、文字を染めぬいたり刺繍で記したりというワザは、昭和にはいっても芹沢〓介さんのような方が引き継いでいました。



まさに「文字の力が宿ったメディアとしての身体」「書物としての身体」です。文字がのるメディアとしての身体や衣服は、単なるコミュニケーション、通信のために存在するわけではありません。表面に記される文字だけでなく、それがのったメディアとしてのボディそのものが、文字のもつ魅力を伝える力を増幅するものとしてはたらいています。
考えてみれば、メディアという語自体、そもそもが神の声を自分の身体を通じて伝える巫女のことを指していたのですから。

おもかげの喪失

こうした身体性や、官能性、呪的な力をもっていた文字や情報から、それらが失われてしまったのは、昨日の「もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」でも触れたように、1960年代以降のことではないでしょうか。

見誤ってはならないのは、ただ一般に人や情報が動くようになったから「観光」が重要になったのではない。とくに地球規模で見たとき、人と情報の動きには明らかな方向性がある。人が動く方向には、高開発社会の強者ないし富める者の、弱者ないし貧しい者の低開発地域への観光と、その逆の流れである出稼ぎ、移民、そして弱者の側から強者への情報の流れ、というよりは強者の側からの吸い上げ(学術調査、マスメディアの取材、栽培食物の遺伝子情報の探索など)があり、流れの方向の格差は、1960年代以降一層はなはだしくなってきたといえる。

情報が純化され、数値的に比較されランキング可能なものとなった途端、それは高きから低きに、流れの方向性を固定してしまったのではないでしょうか?

いまや人びとのアイデンティティ=らしさは誰が袖のような色や香がはかなくたゆたうおもかげではなくなり、色も香もない無機質なデータと化したプロフィールとなってしまっています。人間のプロフィールだけではありません。あらゆる物事が匂いも触感も感じさせない機械的な情報に取って代わられています。かつての見立ての手法が五感をともなうイメージの連鎖を引き起こしたようには、グーグル検索は人びとの連想(アナロジー)を喚起してはくれません。人は梅の香に恋心を感じたかつてのように、現在自分を取り巻く多くの情報から身体が自然と動くような動機(モチベーション)を感じとれなくなってしまっています。

文字が身体から離れてしまい、書物のもつ官能的な身体性も、均質で無機質なモニター上の表示にとって換わられています。それは安全で間違いはないのかもしれませんが、いつ間違いや関係の崩壊が起こるかわからないといった恋愛・性愛のあやうさを失ってしまっています。

文字や書物、そして、情報とそれを通じて思考し生きる人間の認知能力というものを、ここで書いてきたような視点に立って、考え直さないといけない時期なのではないでしょうか?

   

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2009年06月20日

もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造

「モノとワザ」。書店でこのキーワードに惹かれて、僕はこの本を買いました。
買って読んでみて、買ってよかったなーと思いました。僕が触れてみたいと思っていたことが、この本には書かれていたから。

この本の著者、川田順造さんは文化人類学の大家、クロード・レヴィ=ストロースに師事した文化人類学者です。
この本では、西アフリカ、フランス、そして、日本という3つの地域を「文化の三角測量」をしながら、モノとワザの関係に潜む「身体技法」に着目し、グローバリズムや情報資本主義によって失われつつある、各地域の文化に根差したモノとワザに焦点を充てています。

文化とその地域のモノとワザの関係性ということでいえば、例えば、著者の師でもあり、日本文化に深い愛着と知識をもったレヴィ=ストロースは、西洋と日本の身体の使い方や文化の特徴を「遠心性」と「求心性」という対比でとらえています。

ノコギリをとってみても、西洋の押して切るノコギリと、日本の引いて切るノコギリの対比がある。「塩の道/宮本常一」でも紹介したように、日本の道具である鍬は引いて使います。船の櫂も腰を入れて引く。



道具のデザインに関してだけではありません。フランス人が「タバコを買いに行く」というに対して、日本人は「タバコを買いに行って来る」という。レヴィ=ストロースはこうした視点に立って、西洋の外に向かうベクトルと、日本の内に向かうベクトルを対比させています。

西洋の「二重の意味での人間非依存性」と日本の「二重の意味での人間依存性」

著者は、師であるレヴィ=ストロースの「遠心性」と「求心性」をさらに拡張する形で、西洋と日本の労働生産性とそれに基づく道具に対する価値観の違いを、西洋の「二重の意味での人間非依存性」と日本の「二重の意味での人間依存性」という形で対比させています。

以下のような対比です。

西洋の「二重の意味での人間非依存性」
  1. 個々の人間の巧みさに頼らず、誰がやっても同じよい結果が得られるように道具を工夫する
  2. できるだけ人間の力を使わず、畜力や風水力を利用してより大きな結果を得ようとする
日本の「二重の意味での人間依存性」
  1. 簡単な道具を人間の巧みさで多目的に効率よく使いこなす
  2. よりよい結果を得るために惜しみなく人力を投入する

1つ目の道具に関する対比では、ワザあるいは技術を道具として外化するか/外化は最小限に抑えて個々の身体に宿るワザを重視するかの違いであり、2つ目は、そうした道具やワザを用いて行う作業のエネルギーを人以外のものに頼るか/人の力の投入でまかなうかの違いです。その2つの視点の対比において、西洋における人間非依存性と日本の人間依存性の相違がみられることを、さまざまな例をもって指摘しているのが本書です。

もうひとつの日本

もちろん、先にも示した通り、単純に西洋と日本を対比するのではなく、西アフリカというもうひとつの参照点を置いて「文化の三角測量」を行っていますし、タイトルに「もうひとつの日本」とあるように、日本もひとつの統一された文化としてみるのではなく、稲作を中心とした弥生文化と焼畑や狩猟を中心とした縄文文化の相違にも着目しています。

このエッセーに、私が「もうひとつの日本への旅」という題をつけたのも、これまでの日本の歴史で、政治の中心からも遠く、とかく辺境の野蛮な文化として貶められてきた、ナラ林地帯の基層文化、縄文やアイヌの文化とだけでなく、アジア・太平洋地域の諸文化とも連続性をもった文化の深層に、未来へ向かっての日本の、というより人間の、隠れた可能性を探ってみたいという思いを、東北とくに岩手と学生時代から縁のあった私が、抱きつづけてきたためだ。

この「もうひとつの日本」という視点は、宮本常一さんの『日本文化の形成』や、それに影響を受けている網野善彦さんの『東と西の語る日本の歴史』にもつながる視点です。

この2つの本で、宮本さんは「粛慎の長老のいう海の彼方の顔つきの異なる人びとというのは、北方の縄文文化人たちであったと思われるが、中央に武力統一によって大和朝廷が成立してからは関東以南への移動はむずかしくなり、しかも農耕をほとんどおこなわないことによって、農耕を中心とする大和朝廷との間に次第に距離を持つようになったと見られる。だがそのことによって、粛慎などとの間にはかえって密接な交流が進んでいったと考えられる。狩猟や漁撈を主要な生活手段とする者はどうしても交易を必要とし、その交易も民族や文化を異にする者との交易が必要であった」といい、網野さんは「そうじて、縄文時代を通じて、西日本の遺跡は貧弱であり、東日本が圧倒的に複雑・多様な文化を生み出したことは間違いない事実で、狩猟・漁撈・採集文化における東日本の優位は疑いないといえよう」とそれぞれ書いていますが、この文化の違いはたんに時間的に、狩猟や漁撈を中心とした縄文文化から稲作を中心とした弥生文化へという以降の形をとったのではなく、日本列島においては明治期にいたるまで共存していたと捉えるべきであることを、この2つの本は指摘しています。

身体技法

こうした視点がこの川田さんの『もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る』という本も引き継いでいて、縄文人と弥生人の身体の違いやそれにともなう道具の用い方の違いにも言及しつつ、

縄文人の子孫が、そのまま北東北人ないしアイヌではないにせよ、先に見たように、ものの運び方などにおける身体の使い方が、北東北人ないしアイヌでは、弥生人系が多く混じった西日本人と著しく違うとすると、身体そのものの形態やそれにともなう基本的運動能力ではどうなのかという問いが、当然生まれてくる。

と指摘しています。

ただ、ここで注意しなくてはいけないのは、縄文人と弥生人に明確な線引きができるわけではないという点です。いや、縄文人と弥生人だけでなく、日本人、西洋人、アフリカ人などという民族の違いも線引きが可能なわけではありません。
文化の違いや著者が本書でテーマとして扱う文化とそれにともなう身体技法、そして、ワザとモノの関係も、決して「民族」という固定した関係としてあるのではなく、社会や生活文化の変遷とともに変化する相互依存的な関係性として成立するものです。

だからこそ、著者は消えゆく文化としての、背負い梯子などの運搬具、猫皮三味線、和船、舟釘、カラムシ織りの布、手漉き和紙、馬をめぐる信仰や習俗、旧モシ王国の太鼓ことば、アイヌの伝統的文化などに着目し、その変わりゆくものとしてある「伝統」のワザやモノを保存・維持するためにはどうすればよいかと問うのです。伝統とはそれが元から存在するから守るべきが価値があるというより、それがある特定の時代の人びとの生活において苦労の結果生まれてきたものであり、かつそれが簡単に消えゆくものであるからこそ守るべき価値があるのでしょう。

それは「簡単な道具を人間の巧みさで多目的に効率よく使いこなす」という日本の「二重の意味での人間依存性」においてはさらに問題となります。なぜなら、それはモノとして残るような形で外化されていないから。文化は常にモノとワザの相互依存的な関係として、無形物の形で存在するからです。それは、旧モシ王国の太鼓ことば(太鼓によって王国の物語をかたる)と同様に、西洋的な文字文化に対して、無文字文化として存在してあるのですから。

川田さんがモノとワザの関係において、個々の文化における「身体技法」を重視するのもそうした意味があります。それは語られるもの、文字化可能なもの、身体の外に外化できるものとしてあるのではなく、個の身体という非常にローカルなものに宿るものであるからです。

何が「私」のなかにあるのか?

僕が、この本を読みながら胸につまされたのは次の一文です。

私は、観光というかたちでアイヌ文化の存続をはかっているアイヌ民族博物館を訪れながら、そしてこの文章を書きながら、アイヌに対して「私」はいったい何であるのか、アイヌと共通の祖先をもった何分の一かの縄文人の末裔であるのか、アイヌにとってのシサム「隣人」であるのか、アイヌも含まれる国民国家日本の一国民としての日本人であるのかと、絶えず自問しつづけた。

ひとつ前の「日本の食糧事情のほうが「残念」」というエントリーで、「僕らは日々、自分自身のなかの一部を殺し続けながら生きているのではないか」と書いたのは、この文章にひっかかったからです。

僕らは何分の一か知らないがアイヌの末裔かもしれない。そうだとしたら、アイヌあるいは縄文文化を近代的な文化によって抹消しようとしている行為は、みずからの内の一部を抹消しているのにほかならないように思えるのです。西洋的な「二重の意味での人間非依存性」をいつの間にか引き受けながら、それまで培ってきた「二重の意味での人間依存性」に根差したモノやワザを捨てようとしている。
逆にいえば外化することもなく、自分のなかに大切に蓄積し、子孫にも引き継いでいくようなものが、「私」のなかにあるのか。あるとしたら、それは何なのか、ということを考えざるを得ません。

情報の流れの方向の格差

ところが、「個々の人間の巧みさに頼らず、誰がやっても同じよい結果が得られるように道具を工夫する」というユニバーサルデザインにもつながる西洋の「人間非依存性」はこれまでもたびたび指摘してきたように(cf.「モダンデザインの歴史をざっと概観する」)、普遍的なところを狙いつつも、その普遍性の外に出ざるをえない弱者を捨象した形でのWin-Winの創造を狙ってしまいます。

それは否応なしに普遍(ユニバーサル)―特殊(パティキュラー)という図式を生み出してしまいます。誰にでも使える、誰にでもやさしいを目指すベクトルは、残酷なまでに、それでも使えない、利用が困難な人を置き去りにしてしまい、格差を生む要因となってしまうのです。

見誤ってはならないのは、ただ一般に人や情報が動くようになったから「観光」が重要になったのではない。とくに地球規模で見たとき、人と情報の動きには明らかな方向性がある。人が動く方向には、高開発社会の強者ないし富める者の、弱者ないし貧しい者の低開発地域への観光と、その逆の流れである出稼ぎ、移民、そして弱者の側から強者への情報の流れ、というよりは強者の側からの吸い上げ(学術調査、マスメディアの取材、栽培食物の遺伝子情報の探索など)があり、流れの方向の格差は、1960年代以降一層はなはだしくなってきたといえる。

いまの情報化社会、情報資本主義には明らかにこうした欠点を内部に抱え込んでしまっています。ユニバーサルに誰もがアクセス可能な情報をWeb上にアーカイブしようとすればするほど、この格差は拡大するし、強い情報への偏りは、弱い情報はその情報の元となった生活、文化そのものとともに捨象する流れをつくってしまいます。

前に「テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか」でリテラシー(読み書き能力)重視の傾向が過多になっている点を指摘していますが、記録として外化して残るものばかりへの依存は、必ず単純な図式的な比較、格差を生み出してしまうのではないかと思います。その一方で無文字文化的なオーラリティ(聞き語り能力)や、「人間依存性」や地域依存性の高いモノとワザとの関係を大切にしていかなければ、すべて貨幣価値で交換可能な価値のみで計算され、消費されてしまうのではないか。

そんなことを強く考えさせられた一冊です。



関連エントリー

2009年06月20日

日本の食糧事情のほうが「残念」

イソムラさんのブログより。
日本の食糧自給率は40%です。



食料を自給しえている国は外国の干渉を排除することができる

すこし前に「民俗学の旅/宮本常一」でも『民俗学の旅』のなかの次の一文を紹介しました。

一人一人がそれぞれの立場で平和のためのなさねばならぬことをなし、お互いがどこへいっても自分の是とすることを主張し、話しあえる自主性を持つことであり、周囲の国々の駆け引きに下手にまきこまれないようにすることであろう。そしてそれを農民の立場から主張していくには、食料の自給をはかることではないかと考えた。食料を自給しえている国は外国の干渉を排除することができる。それは今日までの歴史を見ればおのずから肯定できる。

こう書く宮本さんは戦中から、敗戦後の日本の食糧事情を考えて、各地の農家の協力を得ようと各地を奔走するわけです。

宮本さんは別の本でもこう書いています(「塩の道/宮本常一」)。

戦国時代というのは約100年ほど戦争が続くのですが、100年も戦争が続いた中でみんなが餓死したかというと、そういうことはほとんどありません。ということは、ちゃんと穀物を作る人たちがいたということです。ずいぶん食べ物の質も悪くなっていますが、それでもとにかく食いつなぐことができた。そして戦争する者は戦争をしていた。戦争する者と、それから耕作する者と、それが別々であった。つまり、農村社会というものと武家社会とは別々の世界であったということがわかるわけです。
宮本常一「日本人と食べ物」『塩の道』

こうした事情を宮本さんは中国の人口と比較している。日本の人口がほぼ漸増しているのに対して、中国の人口というのは前漢の時代の人口6000万人が後漢では1500万人になったり、さらに三国期になると600万人に減ったりと、戦争のあいだの食糧対策ができなかったために人口の増減がみられた。日本のように、戦争する人と耕作する人が別々の社会を作っているという状態ではなかった。そうした歴史を踏まえて、戦中に食糧自給体制を築くための奔走なわけです。

間違ったWin-Win

こうしたことを踏まえて、現在の日本の食糧自給率40%というのは、かなり残念ではないか、と。

日本のWebが残念だのなんだのという議論が流行ってるみたいですが、そもそもワールワイドを志向していて各国での自給自足を想定していないWebというものにおいて、「日本のWeb」が残念であるかどうかはそう大した問題ではないと思います。

もちろん、日本のWebを作っている人が自分たちも頑張っていこうという心意気においては理解できますし、それは大事なことだと思います。ただ、そもそもの議論の端緒となった梅田さんのインタビューを読むと、別に日本のWebが残念ということを言いたいのではなく、将棋の話をしようとしていたのにそれを聞いてくれない日本のWebメディアの姿勢が残念と言っているようにも解釈できます。

そりゃ、そうですよね。芸能人が出演した映画の発表会見の席で、まったく無関係な恋愛関係の話とかされちゃうのとおなじですから、聞かれたほうはうんざりですよね。将棋の本の会見で、なんでWebの話をせにゃならんの?という感じでしょう。
芸能ニュースが出演した映画そのものの話題ではなく恋愛ネタに走ってしまうのとおなじように、Web系のニュースは何でもWebのネタに持ち込んでしまうという閉塞感がある。WebのなかでWebのネタが、ブログ上のブログのことばかりが語られてしまうという閉塞感は確かに、将棋について語ろうとしている人には残念でしょう。

あのインタビューってそういうコンテキストを理解したうえで「残念」ということばを理解しないと意味がないんじゃないんでしょうか。つまり、WebがWeb以外のもの(例えば「将棋」)をちゃんと取り込めるか、Webそのものは利用しても、特にそれ自体に関心がない層にも議論が可能な場を提供できているか、です。
よくWin-Winとかいいますが、大抵の場合、閉じたコミュニティ内でのWin-Winができているかどうかになってしまっていて、そのコミュニティの外の人に負の影響にあってもそれを無視してしまう傾向があるように思います。相手との関係性においてはWin-Winでも、その関係性とは無関係な第3者にとっては大きなLostがあっても気にしないような、間違ったWin-Winのための取り組みが非常に多くなっている。そこでは将棋の話は排除されてしまう。

Webのなかの人がWebそのものについて残念か/残念でないかを議論してしまうのは、まさにそうしたWin-Winの話に近い。まさにコミュニティの外の人からすれば、日本のWeb? それっておいしいの?って話になってしまいます。
コミュニティ内部でのWin-Winに固執し、それに向けての努力をすればするほど、コミュニティ外部のLostが大きくなってしまう。そのことに気づかずにWin-Winという正義が振りかざされてしまうから、よけいに残念になってしまう。
僕がいままでこの議論をスルーしていたのも、それが理由だったりします。

僕らは日々、自分自身のなかの一部を殺し続けながら生きているのではないか

だいぶ話がそれましたが、日本の食糧事情の問題というのも、結局、そうした力のあるコミュニティ(歴史的にいえば工業やIT技術をつかった産業)が力のないコミュニティを意識の外に追いやった形で、コミュニティ内部のWin-Winばかりを志向してきた結果なのかな、と最近強く感じます。

僕自身は特に食糧問題に対してすごく興味をもっているわけではないのですが、それでも力のあるコミュニティが食糧問題と同様に排除してきた、手仕事や地域の文化の破壊に関しては、これまでのこのブログで何度か言及しているように関心をもっています(例えば1年半ほど前に書いた「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」とか「身体の一部としての道具という発想」「文化が「用」と「形」を媒介する」「勤労・勤勉が可能な社会」「自然の力にあやかる」など)。
食糧を生産するという本来、その土地の気候や土壌などの自然環境、その地の労働力、そして、それと大きく関係している文化、人びとの生きるモチベーションと深く関係した部分を、意識の外に追いやってしまって、それがグローバル化だかなんだかわからないものに浸食されていることに平気でいる感性に疑問を感じてしまいます。
新しい本『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』のなかで、「デザインは生活に秩序を提案し実現するもの」、「デザインとは、人間自身の生活、生き方、そして、生命としてのあり方を提案する仕事」と定義して、話を進めているのもそうした思想的背景がある。別に、ユーザビリティとか、UX的なおもてなしの実現なんかは僕にとってはどうでもいいことです。その仕事で、人類の生活文化にどう良い点があるの? それは子孫の生活、個々の地域の生活も含めて、人間の生き方、生命というものにどういう良い点があるの?です。いちおビジネス書の体裁をとりながらも、折口信夫や白洲正子、柳宗悦への言及があるのもそういった観点からです。

あとで川田順造さんの『もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る』という本を紹介しながら触れようと思っているのですが(触れました)、結局、僕らは日々、自分自身のなかの一部を殺し続けながら生きているのではないかと感じています。
自分たち自身が日々食料を食べて生きていかなくてはいけないのに、その食料を生み出すコミュニティを排除してしまったり、日本のWebが云々というためにはその基盤として「日本」というものがある程度の力をもっていなくてはいけないのはずなのに、その「日本」そのものの文化的力、経済的力の根源的なリソースを枯渇させるようなベクトルで、日々を生きてしまっているのではないか、と。

〈人間〉の再定義

というようなことを書いてみても、僕自身、自分のこれからの身の振り方そのもの(生き方、仕事、社会と自分の関係性など)にもすごく迷いがあるのと平行して、こうした問題に関して何か答えをもっているわけではありません。宮本さん同様に「進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないか」と考えながら、今までの自分の活動の延長として「人間とは何か」ということを考えていこうと思うくらいです。

いわゆるデジタル機器のインターフェイスへの興味ではなく、社会と人間、人間同士、そして、生きる環境そのものと人間とのインターフェイスのほうに興味の方向がシフトしているし、そちらの残念さをどうにかしていかないといくにはどう自分が働いていけばよいかを考えていかなくてはならないと思っています。「人間中心のデザイン」という場合でも、そもそも、その中心となる「人間」の再定義をしていかなくてはならないと考えます。

遠い昔にそうであったように、他の創造物との均衡を保ちながら生きる。そのことに人間が、いつの日か同意するのを期待するだけでは不十分です。私たちの子孫がそのような均衡を達成するには、事前に、しかも早急にやるべきことがあります。ここ3世紀、他の生き物から人間を孤立させてきた人権の定義を、再構築する作業です。
クロード・レヴィ=ストロース「〈人権〉の再定義」『百年の愚行』

他の生き物から人間を孤立させてWin-Winを語っても仕方ないし、「グローバル」や「日本」という大きなコミュニティだけのWin-Winを志向し小さな地方のコミュニティをないがしろにした議論や活動だけではいかがなものか、と。

と思いきって書いてみましたが、なんとなくしんどい表明をして、自分に重たい荷物を背負わせてますね、このエントリー。笑
まぁ、いいか。意思表明して、自分自身で努力を怠らなければ、それなりに何かとつながっていくだろうし。

   

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