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2009年05月24日

夏が来る前に無線LANを

昨年の秋に構築したWebサーバ、ドア付きの棚に置いていたんですが、ココ最近の気温上昇に伴って気が付いたらとんでもない熱さになってました。ドア付きの棚に置いていたのは騒音対策。基本的に24時間動かしてるので就寝時は [...]

2009年05月24日

文化が「用」と「形」を媒介する

昨夜の「日本語ということばを使う日本人」に引き続き、6/18発売予定の『デザイン思考の仕事術』のボツ原稿より・・・。

人と物との関係でも、人間同士の関係でも、そこに親しみをもった接点が生まれるためには、その間に何がしかの知覚可能な媒介が必要になります。それは言葉であることもあれば、音楽や絵だったりすることもあれば、デザインされた物であることもあるでしょう。

文化が「用」と「形」を媒介する

そうした接点の媒介になる物には何らかの機能をもっているということもいえるでしょう。機能あるいは用途。柳宗悦さんの「用の美」の話はしましたよね。「用途を離れては、器の生命は失せる」と柳さんは『工藝の美』に書いています。日常使いのために制作された器にこそ美は宿るのであって、茶人の趣味にあわせて作られた器は美から離れると柳さんはいっています。

実は似たようなことは西洋においてもいわれています。「形態は機能に従う」。機能主義の有名なテーゼです。でも、日本でも西洋でも同じようなことが言われているのに、食器の形は必ずしも日本と西洋では同じではないですよね。ともに機能=用に従っているはずなのに、器の形は違ってくる。

その要因のひとつには食文化そのものの違いがあるでしょう。西洋では食器を手に持ちませんが、日本では器を手にして食べます。また、それぞれの地域での素材や技術の違いがある。それが同じような機能をもつ食器の形態を別のものにしている。つまり、機能または用途と形態というのは実は無媒介につながっているのではなくて、文化を介してつながっているんですね。

ユニバーサルデザインとマーケティング

用が文化を介して形態を要請することもあれば、逆に形態が文化をつくり用=価値を固定化し因習を生み出すこともある。この文化というものを忘れて機能と形態を結びつけようとすると、人と物との関係がうまくいかなくなるケースがあるんですね。

西洋近代が生みだしたモダンデザインをユニバーサルなデザインだと信じて受け入れた結果、世界のあちこちでそれまでの文化の破壊が起こったことなどはその最たるものです(このあたりの話は「モダンデザインの歴史をざっと概観する1」参照)。機能と形態が本来それを結びつけるはずの文化を排除してしまえば、その両者は互いに自律的なものとなってしまいます。
つまり、必ずしも形態は機能に従わなくいいことになる。そのとき、中身は同じでも外見だけ変えて新商品として売り出すようなマーケティング的発想のデザインが可能になってきます。

そうなると、各地域で長年育んできた生活文化を媒介として機能と形態を結びつけるものであったデザインが完全に、文化とは無関係な市場の論理によって形態をめまぐるしく変化させる方法になる。そこではもう人びとの生活などはおかまいなしに、茶人趣味の器同様、用とはかけ離れたところで表面的な美的価値によってのみ、お化粧直しのデザインが乱発されるようになってきます。広告や製品カタログの物の背景が消えていきます。

富の再定義

さらにそこから、物はたくさん所有して、次々と消費して買い替えることが富であるかのような錯覚が生まれてきます。その富は生き延びることはもちろん、生活することとも、生き方とも無関係で、ひたすら市場の論理とのみ手を組んでいます。そして、市場の無計画性ゆえに物は必要以上に生み出され、地上を隙間なく人工物が埋め尽くすことになる。とうぜん、そこに果たしてこれが富なのかという疑問も生じてきますよね。富の再定義が行われるようになります。

例えば、天才的なエンジニア、建築家として知られるバックミンスター・フラーは『宇宙船地球号操縦マニュアル』という有名な本で、富という物を

代謝的、超物質的再生に関して、物質的に規定されたある時間と空間の解放レベルを維持するために、私たちがある数の人間のために具体的に準備できた未来の日数
バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』

だと定義しています。富を個人や私企業、国などの単位でとらえるのではなく、地球単位であとどれだけ人間が精神的にも物質的にも健やかに暮らしていけるかどうかという視点でとらえています。

物事を包括的にとらえる資質

フラーは、その富を増やすためには、それぞれが専門領域に固執するのではなく、包括的な視点で物事をとらえる資質をそれぞれが身につけていく必要があると説いています。
1968年に書かれた本です。もう40年も前。ちょうどその頃には商業デザインへと堕してしまったモダンデザインに対する批判も噴出しはじめた頃です。「宇宙船地球号」という言葉だけは有名になりましたけど、フラーがその本で語った「物事を包括的にとらえる資質」の重要性はちっとも共有されないままです。また、同じ本で「絶滅は過度の専門分化の結果である」と鳴らした警鐘も無視された状態で、むしろ、ますます専門分化するほうに進んでいますよね。

デザインというのは、本来、「物事を包括的にとらえる資質」を最大限活かして物事を組み立てていく力であったはずなんですね。

例えば、ヨーロッパのデザイナーは伝統的に特定の製品カテゴリーに縛られることが少ないですし、建築家でもある人が多いですよね。建築家もひとつの建物を作るだけでなく、都市計画なども手掛ける人が多い。あとで紹介するイタリアのデザイナー兼建築家であったアキッレ・カスティリオーニなんかもそうです。何をデザインするかといった専門領域ごとのデザインの方法を云々する前に、すべてのデザインという行為の基礎になる部分の方法論や研究がより必要になってきているといえるでしょう。

ここまでお話してきたような利用者の生活を監査することを中心とした「情報整理術」も、KJ法などを用いてアブダクションを行う「企画発想法」もデザイン思考の基礎的な方法論の一部ですが、それに加えて今回はそうした過程を経て浮かび上がった人びとの問題を実際に解決する方法を考えるための「問題解決法」を紹介していきます・・・。

品のないデザイン

うーん。あらためて読んでみると、この部分をボツにしてよかったんだろうか?と思えてきます。

最近、かっこよさとか個性とか売れるためとか、そんなものを目指しすぎて品のないデザインが多いのが目についてがっかりすることが増えています。それもこれも自分たちの文化と形の関係がわからなくなってしまっているところが大きいのかな、と。
文化というのは、生きることそのものです。その生きることと形の関係が見失われてしまっているために、品のないデザインばかりとなってしまっています。ほんと、あきれるほどに。
文化と経済が別々のものとして切り離されてしまっているところに、生きることの混迷がある。そして形からも、それに触れる人間の感性からも品が失われています。

なぜ上代において人々は醜い字を有ち得なかったか、なぜ近代において多くの者が悪筆に悩んでいるのか。これはひとり書のみの問題ではない。汎く美の問題ではないか。美しいもの以外に生めなかった時代の不思議を想う。
柳宗悦『茶と美』

「美しいもの以外に生めなかった時代」ですよ。
うーん、このあたりの話は別の機会に、本にまとめられればよいなと思っています。

   

関連エントリー

2009年05月23日

日本語ということばを使う日本人

あまりに多忙すぎて最近はブログを書くヒマがありません。
寝不足です。
各駅停車どころか遅延が発生しています。やっぱり計画が大事です。

というわけで、6/18発売予定の『デザイン思考の仕事術』のために書いた原稿から、文字数の関係でボツにしたものをエントリーの代わりに・・・。

川喜田二郎さんも書いていることですが、日本人というのは頭の中だけで処理できる量の情報を相手にして、勘をはたらかせて雑然とした情報を統合的に処理するというのは得意です。だからこそ俳句や盆栽などの小さな世界に情報を圧縮してみせる文化も生まれ発達してきました。

ただ、頭の中での圧縮作業が得意だからこそ、逆に手間をかけて情報を圧縮するということが苦手だったりします。パッと見ただけでは処理しきれない量や複雑さをもった情報群を前にすると、途端になす術をなくしてしまうという欠点もあります。KJ法のような作業をめんどうと感じるのも、そうした苦手意識が影響しているのだろうなと思います。

日本語ということばを使う日本人

日本人のコミュニケーションの歴史を振り返ってみると、なぜ日本人にそうした傾向があるのかがなんとなくわかります。

古代日本は長いあいだ、文字のないオーラル・コミュニケーションを続けていました。
文字がないコミュニケーションはそれがあるコミュニケーションと何が違うかわかりますか? そう。記憶の仕方の工夫がまるで違うんですね。文字による記録のように外部に記憶を委ねることがむずかしいので、人間の身体のほうに記憶をとどめられるような工夫が必要になる。文字のない世界ではどこでもそうでしたが、記憶をしやすいよう物語や歌などの方法が発達してきます。語り部といった職能を生まれてきますし、多くの記憶をもった老人が重んじられています。当然、ことばそのものも記憶しやすく、記憶を喚起しやすいものになっていきました。音そのもののなかに記憶の連鎖をもたらすような表意性をもっていたのです。

音の表意性

ここで音の表意性といっているのは、植物の花(はな)ということばの音である「はな」と、「端っから」という場合の「はな」の音とが、どちらも先端という意味でつながっていたり、訪(おとず)れが当初神様の来訪のしるしと考えられた音連(おとづ)れの意味をいまだに残していたりすることなどを指します。

デザインに関係するところでは、計画するという意味での計(はか)る、大きさや重さを測定する意味での測(はか)るなどの「はか」はもともと田んぼの稲を植えたり収穫する際の仕事量をあらわす単位だったといいます。そこから計る、測る、図る、量るといった意味が派生した。「はかがいく」「はかどる」「おしはかる」なんてことばもありますね。
さらに計ることができないという意味から、はかないということばも生じました。どうなるのか計ることができないことにはかなさを感じる。それが空しさや無常観にもつながっていき、日本文化におけるわびやさびといった価値観にもつながっていく。計画性のないデザインもはかないですよね。デザインに関しては計(はか)がないのはいけません。

こんな具合にオーラル・コミュニケーションのなかで育まれた日本のことばは、その音のなかに表意性を宿しているんですね。

表意文字

そうしたオーラル・コミュニケーションで成り立っていた世界に、中国から漢字が伝わってくる。音だけで成り立っていたことばの世界に記録として残る文字が導入されます。しかも、日本に伝わってきたのはアルファベットのような表音文字ではなく、表意文字である漢字でした。

漢字という象形性をもった文字は、千分の一秒で認識が可能だといわれています。一秒間に七文字読めるくらい瞬間把握力に優れた文字であるそうです。しかも、それは漢字を日常使い慣れている人だけに意味のある象形性ではないようです。ドイツの詩人リルケは俳句の研究も行っていて日本の文字も書けたそうですが、そのリルケが漢字をみたことがないドイツ人に「薔薇」という字を書いてみせて何の花をあらわす文字か当ててみろというと、十中八九バラという答えが返ってきたそうです。「葡萄」でも同じ結果だったらしい。これは結構すごいですよね。”rose”や” grapes”ではきっとおなじことは起こりませんから。

訓読みという独自の方法

こうした表意性をもった漢字ですが、日本ではその導入の仕方に、他のアジアの国々とは違った日本独自の工夫がありました。おなじように漢字を導入したアジアの国々は漢字の音をそのまま借りて自国のことばにあてはめましたが、日本では訓読みという独自の方法が生み出されたのです。漢字がもともともつ意味と自国で長いあいだオーラル・コミュニケーションによって育んできたことばの音を両立させた。いま漢字に音読みと訓読みがありますよね。その訓読みという方法を日本は独自につくったのです。ほかのアジアの国々は漢字を音読みだけに使ったんですね。

この訓読みという発明は画期的でした。
もともと長いあいだかけて育んできたオーラル・コミュニケーションのことばがもっていた音による表意性・記憶の喚起力の体系をそのままに、きわめて視認性の高い文字である漢字と組み合わせたのですから。そのことで他のどの言語にもないようなきわめて表意性の高いことばができあがった。これは日本史上最大の発明でしょう。

コンテキストへの依存性

先にも述べた日本人が雑然とした情報でもある程度の量なら勘をはたらかせて統合的に処理することが得意という特性も、この日本語のことばそのものがもつ表意性の高さと無関係ではないはずです。音や文字がある程度はイメージの連鎖を自動的に引き起こすようになっているからです。

日本語では、おなじ漢字でもたとえば朝飯と朝食で「あさ」と「ちょう」で読み違えることができるし、どちらの音でも「朝」という字を思い浮かべておなじ朝のイメージを思い浮かべることができます。「あめ」という音から、「雨」という字を思い浮かべることもできれば「天」という字を思い浮かべることができる。

ただ、その代わりに、おなじ文字でもどう読めばいいかがコンテキストにあたらなければわからないといった具合に文脈依存性が高すぎるので、アルファベットのようにその語のことばを知らなくてもなんとなく読めるということがすくない。また、文脈依存性の高さとイメージ喚起力に優れている点が裏目にでて、数学のような抽象的な思考が生まれにくかったということもあると思います。

日本語と文化とデザイン思考

いずれにせよ、僕らはそうした他に類をみない特性をもった日本語ということばを日々使って生きているのだということを、ちゃんと理解しておいたほうがいいと思います。そのことばが僕らの生活、思考、文化をある程度は既定していて、メリットにもなればデメリットにもなっているのですから。

デザイン思考では人間のことを知っておく必要があるといいましたが、こうしたこともそのひとつなんですね。自分たちが何が得意で、何が苦手なのかをわかっていれば、得意な面を活かす方向にも、苦手な面をどうにか補う方向に手立てを考えることもできるのですから。

・・・と、日本人がなぜKJ法が苦手なのかというところの説明として書いた部分ですが、分量の関係で泣く泣くボツにした箇所です。
もったいないのでブログのエントリーにさせていただきました。

しばらくはこの多忙な状態が続くので、この形式でボツにした部分をアップしていこうか、と。



関連エントリー

2009年05月22日

謎のDororich(ドロリッチ)ブームと神経衰弱ブログパーツ

グリコ乳業「Dororich(ドロリッチ)」のブログパーツがなかなか良い。 最近、twitterで、みんな揃ってドロリッチなうドロリッチなうっていうもんだから、洗脳されてすっかりはまってしまったわたしです。今日は近くのセブンイレブンで売り切れだったから、ローソ...

2009年05月21日

なぜ再び初恋の人から手紙が届いたのか(PRESENTED BY 『愛を読む人』)

一度ならず二度までも、初恋の人から手紙が届いた。
もしかして翻弄されているのかも。

カラス、ひさしぶりですね。

今でも霊を呼び寄せる体質ですか?カラスが写っている写真にはことごとく子供の霊がいましたよね。今でもそれはいい思い出です。

声を殺して泣いていた私にカラスが「お互いに必要ならまた付き合えるさ」などと言い、慰めつつも私を突き放したあの日から、もう24年が経ったのですね。月日が流れるのは早いものです。

あ、そうそう、お手紙を書いたのは何か理由があるわけではないんです。ただ卒業アルバムを開いたらカラスの写真インパクトが強烈だったから、あまりになつかしくなって。びっくりさせてごめんなさい。

今になって振り返ってみると、あの恋愛は、私の一人相撲ばかりだったなぁと思います。あのころの私は「寂しいと言ってもカラスに分かってもらえない→他の男性に頼る」の繰り返しでした。私に会おうとしないのに「浮気は許さない」というカラスに、私は身勝手さとやり場のない寂しさを感じ、それをやり過ごすことに苦労していた覚えがあります。

私にとっては3人目の彼氏でしたが、そういえばカラスにとっては初恋の相手が私でしたよね。最初のころのカラスは、なんだか勢いがありすぎて怖かったのを覚えています。「おれは一生別れないと神様に誓ってもいい」と言ってくれて(私はとても誓えなかったけれど)、その真剣な覚悟だけは恐ろしくも嬉しかったものです。結局ウソだったけど。

なんだかんだ言っても、一つ言えるのは、私たちは若いなりに必死だったなぁということ。カラスよりもっと大切な人はできたけれど、あれほどに気持ちを高揚させ、あれほどに落ち込んだことは、その後の恋愛でもありません。それだけ私は真剣でした。

カラスは今、幸せですか?私はその後つらいこともたくさんあったから、卒業アルバムのカラスを見ると、涙が出るし励みにもなります。

あれこれキツイことも書きましたが、それでも私は、少しじめじめしつつも思いやりがあって暖かかった、半乾きのタオルみたいなカラスが大好きでした。これからもカラスらしさを失わず、それとそろそろ家のベランダに全裸で出るのはやめて(笑)、新しい誰かと幸せになってください。

またいつか会いましょう。それでは。

P.S. カラスが誕生日にくれたバッグ、質屋で「買い取れません」って言われました。

2009年05月21日

東芝、携帯電話の生産体制見直しはPHSにこそ影響大か

東芝が国内生産携帯電話を海外企業へ委託する。
携帯電話の国内市場は、国内通信事業者の販売方式変更に伴うユーザーの買い替えサイクルの長期化や金融不安等に起因する消費低迷などの影響で、市場規模が縮小しています。当社においても市場環境の変動に対応した事業構造改革の一環として生産体制の見直しを行います。
 これにより、従来国内で製造していた国内向け携帯電話は海外EMS企業に製造委託することになりますが、既に東芝情報機器杭州社で生産を行っているスマートフォンについては、国内向け海外向け共に引き続き同社で生産を行います。
「東芝:ニュースリリース (2009-05-20):携帯電話の生産体制の見直しについて」から引用)
東芝製のケータイのイメージは浮かばないかもしれない。
しかし、PHSユーザーにとっては東芝は貴重な端末メーカーだ。

現在、PHSの端末ラインアップである電話22種のうち、
京セラが10種、JRCが5種、asumoが3種、netindexが2種、BANDAIおよびSIIが1種。
一方、東芝は2種という貴重な存在。

2009年05月20日

コトバとモノ

ブログを書いてる場合ではないのですが、忘れないうちにメモ(まぁ、忘れませんが)。

いわゆる狭義の人間中心設計、ユーザビリティの分野では、"Context of Use"(利用状況)を大事にします。
でも、僕自身は利用状況というコンテキストだけ重視しても人間中心のデザインにはならないと思っています。

「コトバとモノ」の続き

2009年05月16日

「ペルソナを使った人間中心のデザイン」というテーマでセミナー講師をしてきました。

昨日は、コプロシステム・商品計画研究所さま主催のセミナーで、「ペルソナを使った人間中心のデザイン」というテーマで講師をしてきました。

「ペルソナ」「デザイン思考」「人間中心のデザイン」をキーワードに、マーケティングの視点からデザインのお話をさせていただきました。
普段と客層の違うところでお話しするので、「デザイン思考」についてうまく伝わるよう極力噛み砕いてお話させていただきましたが、なかなか好評だったか、と。

お話した内容は、以下。(講演資料のアウトラインより)

「「ペルソナを使った人間中心のデザイン」というテーマでセミナー講師をしてきました。」の続き

2009年05月14日

[モニター]lenovo IdeaPad S10eは重かった

箱をあけた瞬間、「小さい!」と驚いた。
持ってみて、「軽い!」とびっくり。
でも、通勤用のバッグに入れたら重かった。

AMNさんのモニター企画に当選

ノートPCとの付き合いは長くない。
最近入手した中古のMacBookは妻が愛用している。
わたし自身はデスクトップPCから離れられない。

そんなとき、AMN(アジャイルメディアネットワーク)で
LenovoのネットブックIdeaPad S10eのモニターを募集していた。.
(「Lenovo IdeaPad S10e モニターキャンペーンのご案内|モニター情報|AMNからのお知らせ|Agile Media Network」を参照)

わたしの生活にノートPCが必要なのか、
確認するために参加させてもらった。

ノートPCやネットブックに期待するもの

移動中、より具体的には通勤中のアウトプットツールを求めている。

もちろんケータイやiPhoneはある。
しかし、キーボードというインプットデバイスには到底かなわない。

IdeaPad S10eは期待に応えてくれた。

lenovo_03_20090514.jpg

まず、キーを叩いたときの感触がかっちりしている。
そして、配列の不自然さが少ない。
唯一、左上の「半角/全角」キーぐらいだろうか。

さらに、WindowsXPの起動も十分早い。
ソフトウェアの動きもスムーズ。

週刊誌とサイズは同じ

手元にあった週刊モーニングに重ねてみた。

lenovo_01_20090514.jpg

ほぼ同じ。

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横から見てもほぼ同じ。

lenovo_04_20090514.jpg

しかも、厚さも同じ。

キーボードに加えて、このサイズ。
まさに通勤の友として最適に思えた。

伏兵

その名は「バッテリーパック」。

lenovo_05_20090514.jpg

左の物体が1.38kgの重さのうち、325gを占める。
(出典:「IdeaPad S10eのバッテリーパックの重さを比較 - ジャンクレビューの森」

決してサイズは大きくないが、
ずっしりとした感触が存在を主張する。

とにかく持ち運んでみた

モニター期間中、通勤用のバッグに入れてみた。
しかし、座る機会が得られず、IdeaPadを開く機会がない。
バッグが肩にくいこむばかり。
まさに宝の持ち腐れ。

軽快な動き、キーボードの品質ともに問題ない。
わたしのデスクトップPCよりも快適だ。
しかも、価格は5万円。

ただ、持ち歩くときの重さだけ。

結局のところ、わたしは社内での勤務時間が多いので、
稼働時間より持ち運ぶ負担を重視する。

IdeaPad S10eよ、どうか1kgを下回ってくれ。
もしくは始発駅から座るかふらふら

参考リンク
Lenovo Japan

2009年05月14日

ペルソナやシナリオを身につけるためのワークショップの要望ってありますか?

タイトルでは疑問形で書きましたが、なんとなくそういうニーズがあるのか、と。
いくつか企業主催のセミナー、ワークショップの講師をさせていただいてますが(たとえば、これ)、このご時世でもあり、自分の会社からは高い参加費は出してもらえないという方もいるようです。

というわけで、個人的にもご相談いただければ対応してみようか、と。

ご相談いただけるワークショップの内容

対応可能な内容は下記。

  • ペルソナ、シナリオ、ペーパープロトタイピングの方法を身につけるためのワークショップ・実習(1日8時間前後)
  • ワークショップの場合ははじめに1時間程度の講義付き
  • 講義のみご希望の方にも対応化(講義だけ聞いてわかるものでもないので、あまりおすすめしませんが)
  • 場合によっては、終了後に軽く打ち上げ
  • 実施内容の概要は、こんな感じです。
    • 講義
    • 実習:ユーザー情報の分析(KJ法)
    • 実習:ペルソナ作成
    • 実習:シナリオ作成
    • 実習:ペーパープロトタイプ作成
    • 発表
  • プログラムの内容は上記のとおり決まっていますが、ご相談いただければ多少のアレンジは可能です

ワークショップ開催の条件

ただし、実施条件は下記とさせていただきます。

  • 開催日は土日祝日に限ります
    ※多忙な場合は開催日をご相談させていただくこともありますのでご了承ください
  • 実施人数は6名から15名とさせていただきます
    ※15名以上の場合はご相談ください。6名以下では受け付けません
    ※参加メンバーは必ずそちらで集めてください。ひとりでの参加表明は受け付けません。
  • 参加希望人数が作業できる開催場所をご用意ください
  • 費用は1時間¥10,000~となります(8時間コースなら¥80,000です。10名参加なら1人¥8,000なので安いのでは?)
    ※遠方の場合は、別途交通費、宿泊費などをいただく場合があります
    ※打ち上げ費用は上記に含みません
  • あくまで個人でのグループを対象にしたものです。一企業単独での場合は受け付けません(企業単位の場合はこちらをご利用ください)
  • もちろん、セミナー会社も不可です。
  • これ以外の場合でも、お断りさせていただくこともあるかと思いますが、ご了承ください。

こんな感じですが、ニーズはあるのでしょうか?

今回、僕は芸者です

上にも書きましたが、ひとりでの参加表明は受け付けませんので、必ずメンバー、場所の確保をお願いいたします。

というのも、僕は今回、自分を芸者の立場に見立てております
どこかの旦那が遊びの場をひらいたのに呼ばれていく立場です。
遊びの場をコーディネートできる力がある方のところにおもむこうとの考えです。
ですので、おひとりでの参加表明はお断り申し上げております。

そう。あくまで目指しているのは遊びの場なんです。連のネットワークです。

亭主の仕事は気配のありかたと趣向の盛り付けをきわめることにある。これは景色をつくるということである。
こうしてやっと主客の一線が淡々と見えてくる。そして、遊ぶものと遊ばれるものの交感が生きてくる。それには亭主は、つねになんらかのリスク・テイキングをするべきなのである。
亭主がリスクを負わない遊びには、客も加担を感じられないものなのだ。

というわけで、場の創造力のない方は、今回はご遠慮くださいませ。
自分で場をつくる努力が億劫で、とりあえずひとりでという方は、高い金額を払ってでも企業主催のものをご利用ください(安心とか面倒がなくラクなものとかの値段は高いのです)。
近いところでは、「シナリオとプロトタイプによるデザイン法」(5月27日(水)開催)がありますので。

といったことをご理解いただいた上で、ご興味のある方は、下記メールアドレスまで、件名「ペルソナ・ワークショップの件」でメールをください。

gitanez0614@yahoo.co.jp

もちろん、まずは内容などに関して質問がある方も、メールをください。

以上です。よろしくお願いいたします。