ネット界のノビーこと、池田信夫先生のブログが発端で、「希望」論と格差問題が語られている。様々な議論が展開されていておもしろいのだが、やはり、まさに希望を失ってしまっている若い世代として、そして社会的不良資産とも言われる就職氷河期世代の一人として、この問題について一言述べたい。
希望について - 池田信夫 blog
この意味で今の日本が不幸なのは、富が失われていることより希望が失われてい ることだろう。終戦直後の日本で は、若者は焼け跡に設計図を描いて新しい事業を興すことができたが、今では都市はコンクリートの建物で固められ、職場はノンワーキング・リッチに占拠され ている。仕事がいやになっても、転職すると生涯収入は5000万円以上減る。起業してもうかると、東京地検特捜部がやってくる。政府はバラマキと企業救済 で、社会主義に舵を切った。それが偽りの希望だったことは、歴史が証明しているにもかかわらず。
この記事で、池田先生が指摘していることは概ね正しいとオレも思う。戦後や高度成長期と比較して、我々の世代はもはやがんじがらめの檻のなかに閉じこめられた状態になっている。少し頭の良いヤツなら、年金もらえないことも知ってるし、企業内で自分より馬鹿な上司にこき使われても給料があがらないこともわかってるだろう。そう、オレ達には「明るい未来」とか「輝かしい将来」とか、そういったものは全然想像できず、過去の人たちが残した残骸がいずれのし掛かってくることが目に見えているわけだ。この状況で明るい希望を持つヤツはバカかただのノー天気野郎だ。
自慢じゃないが、オレは就職氷河期世代のどん底で就職した人間である。これが、どういう意味を持つかを、同じ時代を過ごした人間以外はあんまりピンとこないだろう。
そもそも就職氷河期時代とは何か。wikipediaによれば、
1993年から2005年に就職する新卒者が、困難な就職活動を強いられ、フリーターや派遣労働といった社会保険の無い非正規雇用(プレカリアート)に泣き寝入りする者が多数現れた。
ことを言う。ちなみに、オレは2003年に大学を卒業して就職している。この頃の就職戦線は、今から見れば異状と言って良い状況だった。内定取り消しどころか、求人数がそもそもない(例えば、NTT本体は97~05年まで新規採用を一切やらなかった)。そして、有名な圧迫面接(人格否定発言まで飛び出す事もあった)や5次面接までいって不採用とかが日常的に行われており、たぶん今の学生が当時の就職活動を体験したら、速攻で悲鳴を挙げるだろう。
そもそも、この時期の大学の有効求人倍率は、0.5~0.7である。この数字の意味がおわかりだろうか?大学を卒業したうち、半分近くの人間は就職する場すらなかった、フリーターや派遣労働者になるしか道がなかったものなのだ。そして、彼ら(つーか、オレ等)は未だに一生に1度か2度しかない就労機会を奪われ、社会的不良資産だのニートだのと呼ばれているわけだ。
斯様に、就職氷河期世代の人間は既存社会から虐待を受け続けてきた。運良く会社に入れたとしても、入社式で社長が「これからは個人の時代です。だから君たちも会社に頼らず、個人として力を身につけてください。」という訓辞を述べ、終身雇用の時代は終わったと謳われ、企業年金や退職金制度はガラガラと変えられてしまった。しかも、オレ達の世代からだけ(上の世代は逃げ切ったわけだ)w
「会社を頼るな。信じるな。」そういう意識が、僕たち就職氷河期世代には色濃くすり込まれているように思う。これはまた不思議なことに、就職氷河期以後の世代にはほとんど見られない。つーか、むしろ逆の傾向を示し始めている。
理系脳毒之助Diary:日本の若者 コイツらには日本の将来を任せられない - livedoor Blog(ブログ)
安定志向、日本の成長性、スパイラル(1)|ろーりんぐそばっとの「ため口」
中小企業診断士えんさんの視点!: 「希望を捨てる勇気」
新社会人が会社に求めたもの・「安全性」と「終身雇用」:Garbagenews.com
上記のブログをざっと見ていただければ、「終身雇用」「安定性」といった、当時は死んだと思われた言葉が復活し、オレ等のころの流行だった「ベンチャー起業」「転職社会」などの指向は微塵も見られなくなっていることがわかると思う。
若者自身も、就職氷河期世代とそれ以後で大きく異なっているのだ。
しかし、その両方に大きく共通している点がある。それは社会や世の中に対して、「多くを期待しない」という態度だ。まさにそういう意味では、社会や世の中に対して何も求めない、期待していない、「希望を失った」状況なのかもしれない。就職氷河期世代は引き籠もり、それ以降の世代は最低限の幸せを確保できればいいやと諦める。出世競争や金持ちになりたいなんて考えはむしろない。
さて、ここでこの問題の抜本的解決を考えるとどうなるのか。
希望を捨てる勇気 - 池田信夫 blogこういう状況は若者の意識にあらわれている、と城繁幸氏は いう。それは「希望のなさ」だ。かつては誰にでもチャンスはあり、一生懸命働けば報われるという希望があったが、もう椅子取りゲームの音楽は終わった。い ま正社員という椅子に座っている老人はずっとそれにしがみつき、そこからあぶれた若者は一生フリーターとして漂流するしかない。だから彼らは意外に「正社 員になりたい」という願望をもっていない。気楽なフリーターに順応すれば固定費も少なく、それなりに生活できるからだ。
この状況から「派遣村」のように労働組合と連帯しようという方向と、赤木智弘氏のように「戦争」を求める方向の二つにわかれる。前者のほうが建設的にみえ るが、実はその先には何もない。彼らが連帯を求めている労組は、椅子にしがみついている人々だから、同情して仮設住宅を世話してくれるが、決して席を空け てはくれないのだ。この椅子取りゲーム自体をひっくり返すしかない、という赤木氏のアナーキーのほうが本質をとらえている。
池田先生が言うように、実は社会的な連帯感を強めてなんとか云々というのは、対処療法にもなっておらず、結局のところ赤木智弘がいうように、今の社会構造そのものをぶっ壊すような何かを期待することが正解になる。簡単に言えば、若者達がこぞってクーデターでも起こせば良いのだ。そうすりゃ、本当に何かが変わるかもしれない(もしかしたら引き籠もりは彼らなりのクーデターなのかもしれないが・・・)。そうでもしない限り、おそらく誰もが希望をもてないまま、何も期待しないでささやかに今を生きられればいいやという風潮は変わらないだろう。しかし、実際の所その若者達自身が分断されている現状では、それすら期待できない。余談ではあるが、この若者層の分断が実は結構この手の若者論や格差論で紛らわしい事態を生んでいる。小倉先生と池田先生のミスマッチングはその辺に問題があるのではないだろうか。
la_causette: 若者は結構前向きに生きている。
はてさてしかし、この国で今更クーデターなど50年代闘争じゃないんだからって感じではありますので、もうちょっと現実的に考えていこう。
我々は今、大きな歴史の変換点に立たされている。かつては確固としてあった「大きな物語」が崩壊し、物語を物語ることすら困難となったこの時代に、どうやって希望や明るい未来を見いだして生きていくことができるのだろうか。少なくとも、希望を完全に失って、死んだ魚のような目をしないで生きるためにはどうすべきか?
偽の希望を売り歩く人々 - 池田信夫 blog
このようにGDPが縮んでゆくのを気にしないで、その再分配ばかり論じるの は、かつて日本が成長を続けていた 時代のフリーライダーの論理だ。北海道のように政府の補助金で食っている土地に暮らしていると、税金はどこかから湧いてくるぐらいに思っているのだろう。 「政治が悪い」とだだをこねて「みんなで団結すれば世の中は変わる」と偽の希望を語るのも、冷戦時代の万年野党的メシアニズムだ。
池田先生がおっしゃられているように、誰かを悪者にして、そこに対する不満を偽の希望として捏造して生きるのは簡単だ。しかし、それは何の解決にもならない。
希望とはなにか――東浩紀『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』を読む - 平岡公彦のボードレール翻訳日記
池田さんが危惧するように、不在の表象としての希望は絶えずニーチェ的な「無」が君臨する玉座となる危険性に曝されています。私たちは絶えず偽りのメシアニズムを警戒しなくてはなりません。希望をどのように扱うかは私たちの社会の切実な課題であり続けるでしょう。
かといって、平岡さんの言うように、何もない未来をユートピア的に描き、あるはずのない希望を無理矢理描く偽りのメシアニズムに陥ることは、もっと避けなければならない。
ソーシャルビジネス ベンチャー日誌:希望を捨てない勇気
私は、既存の市場で既得権益に戦いを挑むようなことをするのではなく、新しいマーケットを作り出すことに賭ける。つまり、既存のパイを奪い合うのではなく、新たなフロンティアを切り開くことでパイを増大させる。
彼の言いたいことは非常に良くわかるし、オレも同感だが、これを実現することは生半可なことではない。そう、単なるお気楽なメシアニズムであってはいけないのだ。地に足の付いた、地べたを舐めてでも、這いずり回ってでも実現してやるという執念に基づいたものでなければ意味がない。
だからこそ、より重要なことは、「希望」ではなく、まず「絶望」することなのだとオレは主張する。そして、「絶望」で終わらずに、そこから這い上がって再び立ち上がることが何よりも重要だ。どん底の絶望を味わい、現実に立ちふさがるあまりに強固な壁を認識し、それでもなおそこに挑もうという気持ちを持てたら、もう倒れない。それは1本のしっかりとした芯になるだろう。そこに初めて、本当の「希望」が生まれてくるのではないだろうか。
とはいえ元の阿片窟に戻れるわけもなく…|肉団子閑居為不善
だからメシアもメシア的なものももういらない。我々は個々に学んで自ら築いた大地の上に立ち自らの言葉で語り、がむしゃらに切り開いていくしかないのだ。たとえ灰色の不安とニヒリズムが我々を脅かすとしても、だ。
強くなろう。
そう。強くなろう。強くなって、自分の足で立って、自分の言葉で語ろう。それが鬱になってまで悩み続けて得たオレの答だ。
午後2時のビール by u:BABA: 希望なき国に生まれて(2) ~拝啓 若者へ~
「未来は、僕らの手の中に。」
希望を手の中にぎゅっと握り締めて、今日も新たな一歩を踏み出していこう。
最後に。
希望を捨てる勇気 - 池田信夫 blog
「2ちゃんねる」に見られるのは、似たもの同士で集まり、異質なものを「村八分」で排除することに快楽を見出す、ほとんどステレオタイプなまでに古い日本人の姿だ。世界のどこにも見られない、この巨大な負のエネルギーの中には、実社会で闘うことをあきらめた若者の姿がみえる。
いやいや、池田先生。意外とあそこにも、こんなに真面目に熱く考えてる連中もいるんですよ、という事をだけは伝えておきたいw。ニヒリズムの権化みたいなもんだけど、そんな2ちゃんねら~も意外と捨てたもんじゃないっすよw
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