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2009年02月27日

ユーザビリティ・アクセシビリティの入門リソース

当エントリーはイメディオで2月28日に実施する『初級Webマスターを卒業したい人のための「使いやすいWebサイト」構築術』のフォロー用エントリーです。

はじめに

このエントリーを書き始めてから思い出したのですが、よくよく考えてみるとlevaさんが下記のエントリーでまとめてくれていています。

こちらで紹介されているものは僕も推薦できるものばかりですので(全部読んだわけでもないのですが)、当エントリーではちょっと違った視点からユーザビリティ・アクセシビリティの入門リソースを紹介したいと思います。

書籍

ユーザビリティ・アクセシビリティを考えるのに欠かせない一冊。個人的にはこの世界(業界?)に誘ってくれた記念すべき本でもあります。

なぜこの店で買ってしまうのか―ショッピングの科学

なぜこの店で買ってしまうのか―ショッピングの科学

ユーザビリティには直接関係ないのですが、ショッピングと人間の行動・心理の関係を考察している一冊。この教訓の多くはWebサイトにも適用することができます。

日本語の作文技術 (朝日文庫)

日本語の作文技術 (朝日文庫)

冷静に考えれば、Webというものはそのほとんどが文章です。だからこそ文章をどのように書くのかという点が非常に重要です。まず、何を読むべきかを問われればこの一冊のように思います。

Webサイト

ユーザビリティやアクセシビリティについて書かれたリソースは山ほどあります。その一角として僕のブックマークも公開しておきます。ここからいくつか拾い読みしてみるのもよいでしょう。

この中から厳選すると、ユーザがWebサイトを使う際に何を感じ、どのように行動するのかについては一読していただきたいと思います。

上記エントリーだけでユーザの行動を全ては説明できませんが、参考にはなるかと思います。

2009年02月26日

SofBankがiPhoneの投げ売りを開始・・・ってことは、次世代iPhoneはもうすぐか?

この年の瀬をなんとか乗り越えそうな我らがSoftBank様が、大盤振る舞い!なんとiPhone 3Gの投げ売りを始めちゃいましたw

iPhone 3Gが「0円」で買えるキャンペーン、ソフトバンクモバイルが開始:モバイルチャンネル - CNET Japan

いやまあ、結構前に Apple、アメリカで値下げのニュースがあったので、予想の範疇と言えばそうかもしれませんが・・・日本でも値下げされる(しかも、2年縛りなら実質タダ!!)のは導入を迷ってた人にとっては吉報ではないでしょうか。

また、パケ放題の定額上限金も合わせて引き下げるという、既存ユーザーにも美味しい企画も同時進行!でも、なんかこう2年縛りが入ったり、何の金額がどう減って、結局いくらになるのかがまったく良くわからなくなってしまいましたw

オレと同様、頭がグチャグチャになった方は、とりあえずこことかここ見て一度整理してみてくださいw

さて一方で、既に購入した組からは怨嗟の声もw 2ちゃんのiPhone板では、賛否と非難が渦巻いていますww さすがはSoftBank、ただ賞賛されるだけのサービスなんてやるわけねーってのw

以下、2ちゃんねるの『【祝投売り】iPhone8G本体価格「0円」』から

641 : iPhone774G : sage : 2009/02/26(木) 20:42:32 (p)ID:hcHJMQ/N0(2)
2月に入ってから買った。。。
しかも人に勧めてたら、そいつが先週買った。。。。

告知出すの遅すぎだろ!せめてキャンペーンひと月前に出せや!

今年に入ってからの購入者にはキャンペーンプラン適用とかしてくれ。

660 : iPhone774G : sage : 2009/02/26(木) 21:53:29 ID:Zz2Hm9910
ちょうど20日前に契約 (´Д⊂グスン

704 : iPhone774G : sage : 2009/02/26(木) 23:21:41 (p)ID:AiCDLjka0(2)
>>693
4年も使ってたauからiPhoneに乗り換えたけど、MNPのキャリア変更時に1万円ちかく払ったぞ

既存ユーザーには、高い値段で買ってくれたお礼に、ワンセグチューナー優待販売2千円とかやって欲しいぞ>禿
(不良在庫もさばけて既存ユーザーも喜んでもらえ一石二鳥♪)

しかし、これで俄然気になってくるのが、iPhoneの次のモデル、いわゆる次世代iPhoneの発売時期です。SoftBankがさりげなく、2年縛り と途中解約に違約金(9980円)をつけるという施策を導入したってことは、間違いなくこのキャンペーン募集が終わったくらい(つまりは、6月か7月頃)に何らかの情報が発表されるんでしょう。SoftBankが、これまで途中解約違約金制度を取ってなかった事から考えても、今回の値下げに伴う端末だけ買い組を防ぐとともに、次世代機への乗り換え組からも少しでも金をふんだくろうってわけでしょうかw ずるい商売するよなぁ、SoftBank。

もともと2009年には登場すると一部で囁かれていたモノの、結構時期が近づいてくると、どうアップグレードされるのか今からwktkでたまりません。・・・と言っても、オレは今のiPhone、24回分割で買ってるから即乗り換えとか出来ないんだけどねw

スマートフォンの市場がかなり活況づいており、GoogleのAndroid端末を始め、新規参入も続々と来そうな感じなので、それなりのインパクトのあるものを出してくるか?それとも、マイナーチェンジ(容量増大とか)ぐらいで済ますのか?それによって、買う側も対応をいろいろ考えちゃいますね。まあ、こうやって悩んでる時が一番楽しいんだけどw

しかし、GIGAZINEの流出写真を見る限りでは、今回はマイナーチェンジっぽい気もしますね。それなら、オレも2年縛りでパケ代上限を下げるかなぁ。一部で囁かれているエントリーモデルは関係ない話だし、せっかくアプリが軌道に乗り始めた所だから解像度や液晶サイズの変更と言った、大幅な外観の変化もなさそう。でも実際、単純にCPUとメモリ増強だけでもかなり嬉しいけどなw

次世代iPhoneと思われる写真が流出、安価なエントリーモデルも登場か - GIGAZINE

大画面iPod Touchの年になるか、2009年:霧笛望のはぐはぐ電脳小物 - CNET Japan

とりま、わくわく&悶々しながら、どうするかはもうちょい考えます。

2009年02月26日

創ったものにて何をなさろうとしておりますか?

『へうげもの』はやっぱりいいなー。
何より織部に対する利休がいい。



たとえば、これ。

あなたは世に何を広めたいのですか?
創ったものにて何をなさろうとしておりますか?
山田芳裕『へうげもの 8服』

会心の作・染付志野茶碗を師・利休に見せた際、織部が利休にいわれたことばです。

この前の台詞で、利休は「ついにここまできたかと…」と、志野茶碗に染付をした器の風情を褒めつつ、すぐに「されど」と切り返し「あなたの全てがこの器に乗り移っているとは思えませぬ」という。
そのあとに続くのがこのことばなんですね。

織部にしてみれば、これぞと思った会心の作だったわけです。利休の教えどおり、創意に創意を尽くして創り上げたオリジナルの器です。これなら師に見せてもよいと思った作だったわけです。
もし、あなたが織部の立場だったらどうですか?

社会変革としての茶の湯

創ったもので何をなそうとするのか。
これはデザインをする上でも基本だと思うのです。

何を創るのかではなく、何を為すために創るのか。
ましてや、プロダクトデザインだとかグラフィックデザインだとか情報デザインだとかと専門領域を細分化して、互いにその枠のなかにひきこもる前に、領域横断的にデザインは何を為すべきかを問い、そのベーシックでラジカルな基礎デザイン学の地平において、利休が織部に問うた問いに答えを見いだしていかなくてはいけないはずです。

先日紹介した『生とデザイン―かたちの詩学1』で向井周太郎さんは、モダンデザインがもっていた人びとの暮らしと仕事の両面からみた社会改革を行うという理念はすでに失われ、現代では「デザインを社会的なものとして捉える視点を欠落させたまま、生活の真の豊かさの創造という課題からはあまりに遠く隔たって発展を遂げてしまっています」と指摘しています。

桃山時代の利休や織部が志した茶の湯には、そうした社会変革の面があったのだろうと、『へうげもの』を読んでいると感じます。

そして、それゆえに先の利休のことばになる。
「あなたは世に何を広めたいのですか? 創ったものにて何をなさろうとしておりますか?」と。

案ずることと行うことは違う

とはいえ、自身が会心の作だと思った器を師に見せて、それを言われた織部のほうはつらい。
もちろん、会心の作だったからこそ、利休はそう言ったのでしょうけど。

さらにそんな織部に追い打ちをかける利休のことばはこれ。

それがわからずば…
創造する意味などなく…
人々の心を打つことはないでしょう…
山田芳裕『へうげもの 8服』

社会を変革するには、まず社会を構成する人びとの心に届かなくてはなりません。人びとの心に届かない物が社会を変えていけるはずがない。生活の真の豊かさの創造という社会的課題のためには、そうした物を生み出す必要がある。

別の箇所で利休がいっていますが、どんな理想も「実現せねばただの絵に描いた餅…案ずることと行うことは違う」のであって、そのためには理念を物として見て触れられる形にする必要がある。それが本来、デザインの課題であって、単に「会心の作」を創り上げればよいというものではない。

己を見つめ直しなされ

どんなヴィジョンを社会に広めたいのか?
そして、社会において何を為すため、実現するために、何を創るのか?

古代ギリシャではこのポエジーの語源であるポイエーシスは広く創造や制作を意味して、世界を創造する行為、世界形成を表わすものでした。
私は、デザインとは、本来そのポイエーシスというような意味での詩的営為であるような世界でありたいと思うのです。

世界形成、社会変革のポイエーシスとしての詩的営為であるデザイン。

まぁ、社会といっても他人事ではなく自分も含む社会ですね。まずは自分がどう生き、どう暮らし、自分の生命をどう扱うかなんでしょうね。
だって、自分のこともちゃんと考えられないのに他人を含む社会のことがちゃんとできるわけがない。むしろ、いまのデザインは自分も使いたくないような物をつくってるんじゃないかと、そんな気がします。

自分の生命、自分の暮らし、自分の生き方に合った物とは何か? まずは、そこをきちんと見つめ直していくことがいまのデザインの課題なのではないかと思います。
余計なものを削ぎ落とし、それでいて実現しようというヴィジョンにおいては自由に遊びをもって。

利休も織部に言っています。

己を見つめ直しなされ
見つめて…削いで…最後に残ったものこそ…
古織好みとして真のわび数奇が扉を開きましょう
山田芳裕『へうげもの 8服』

と。

さて、この続きはマンガで。

  

関連エントリー

2009年02月25日

生とデザイン―かたちの詩学1/向井周太郎

「僕にとって向井周太郎の思想からデザインの端緒を学べたことはこの上ない幸運であった」と原研哉さんは本書の解説にあたる文章で書いています。

原研哉さんは本書の著者・向井周太郎さんが創設した武蔵野美術大学の基礎デザイン学科で大学と大学院の6年間を学んでいます。

この本を読むと、僕が原さんのことばを読んで感じるものがあったものの原像が、すでに師である向井さんのことばとしてここに書かれているのに気がつきます。

例えば、阿部雅世さんとの対談『なぜデザインなのか。』のなかで、原さんは、直立二足歩行をはじめた人間が「空いた手で棍棒を持つのは自然だけれども、たとえば川に行けば、2つの手を合わせて水をすくって飲んだはず」といい、「棍棒」と「器」に道具の2つの始原をみていますが、この考え方もすでに向井さんのなかにも見出せます。

機械は、無の有用性を使いはたし、空隙をうめつくすことで高密化へと向かって発展をとげていくのであり、空虚な空間ゆえに意味をもつ器さえメカネの振舞いに従属する包装と化していく。
向井周太郎「椅子の夢想、夢想の椅子」『生とデザイン―かたちの詩学1』

向井さんは、無の道具、有の道具と言い方をしていて、前者に器、後者にやじりや斧をあげています。
その上で現代の機械社会は有の道具が無の道具の領域を侵犯すると同時に、「メカネの価値観においては、無や空虚な空間そのものの生の価値が見失われ、いわばデッド・スペース(死んでいる空間)はすべて使いはたすという思想を生みだしていく」と指摘しています。東京ではどんな小さな空地でさえもコンクリートを敷かれた駐車場に変えられる。すべてが人間にとっての有に変換されるが、一方でコンクリートの下に生の多様性は均一化されて失われます。

この向井さんの有と無の道具に、原さんの棍棒と器のイメージは重なってくる。ほかにもこの本を読んでいると、そうしたイメージの重なりが実に多く見つかります。

だからといって、僕はそれを原さんのオリジナリティを否定するものだとは思わない。むしろ、僕はオリジナリティなんてものが嫌いだし、向井さんと原さんのことばの重なりも、昨日の「型と形」で書いたような師から弟子への型の継承とみます。型の継承にはかならず「ゆらぎ」が見いだせるように、向井さんと原さんのあいだにも「ゆらぎ」がある。その「ゆらぎ」のほうがオリジナリティなんかよりいまやよっぽど重要なものとなっていると感じます。

型を受け継ぐ

向井さん自身、ゆらぎを孕んだ型をその師から継承しているように感じます。

ひとつには『ふすま―文化のランドスケープ』の共著者に位置づけされている、父であり腕のよい表具師であった向井一太郎さんの型を。
そして、もうひとつには、この本ではたびたび言及されるバウハウス的なモダンデザインというプロジェクトであり、直接的にはすでに「基礎デザイン学」というエントリーで紹介したように、自身が学んだ、バウハウス出身のマックス・ビルが初代校長をつとめたウルム造形大学のデザイン教育の理念の型を。

向井さん自身は、そのウルム造形大学が継承したバウハウスの理念を次のようにまとめています。

その理念は、近代化のなかでそれぞれが互いに孤立し具体的な生活世界とのきずなを失った芸術活動を、再び〈建築〉という生の営み全体の場へ向けて結集し、その目標のもとに諸芸術と職人的手工作など一切の造形活動の総合化を再建しようという理想の提起であった。
向井周太郎「バウハウス」『生とデザイン―かたちの詩学1』

そうした理念を有したバウハウスは一般的な意味の学校とは異なり、「ひとつの新しい時代の工匠たちの社会共同体」であったし、「教えるものと学ぶものとの関係もマイスター(親方)とレーアリング(徒弟)との共同作業を志向していた」のだと向井さんは書いています。

こうした親方と徒弟の共同作業をバウハウスにきちんと見出すことができたのも、向井さん自身が『ふすま―文化のランドスケープ』で、父・一太郎さんが「職人を育成する側の考え方にも同じことがいえます。弟子として若い人を雇っても、立派な職人に育てようとする考える家が少なくなったことです。単に手が足りないのを補うためなんです」と語っているような、単に人手不足を補うのとは違った関係性のなかにある師弟関係を重視する家で育ったこととも無関係ではないのでしょう。

教育の場のリデザイン

単に形式知化された知識を学ぶのではなく、そうしたことばにならない型を受け継ぐためには、教育の在り方そのものを一から見直していかないといけません。それは学校という場だけの話ではなく、仕事場としての企業でもそうでしょうし、暮らしの場である家庭にもいえることだと思います。

向井さんは、デザインを「あるべき生活世界の形成である」と捉えています。その場合の「生」とは「いのち(生命)」「くらし(生活)「生きかた(人生)」を含む、生の全体性です。

そのような生の全体性を相手にし、具体的に「あるべき生活世界」の理念を提示し実現する活動をデザインととらえ、そのための教育・研究に関する学問を基礎デザイン学としてカリキュラム化した。原さんもそこで学んでいる。

そこではおそらくバウハウスでも重視された手による作業が重視されたのでしょう。

手によって作業過程全体をとらえることは、対象全体と直接に触れ合う身体経験であり、前言語的な形態知による統合的把握であるといってよい。それは生命的把握だともいいかえられよう。
向井周太郎「バウハウス」『生とデザイン―かたちの詩学1』

前言語的な把握。僕は人間には「わかる力」と「感じる力」があると考えています。現代はどうも前者の知識に偏りがちですが、最近のほとんどのエントリーがその問題を扱っているとおりで、後者の身体的把握の力ももう一度見直していかなくてはいけないと感じています。

そして、後者の力を学ぶ場の必要性をすごく感じている。それがデザインの基礎力であり、生きていく上での基盤をなし、同時にその基盤を形成していくものとなるのだから。

本来あるべき教育の場とは、時代の理念を標榜し自治と自由にもとづく創造的な研究共同体であり、ひとつの形成のプロセスであり、新たな意味発生の現場である。そうして、それは文明の質を問う文化の形成装置であって、生成するひとつの世界なのだ。
向井周太郎「バウハウス」『生とデザイン―かたちの詩学1』

分析的な言語によって「わかる」をいくら増やしたところで文化の形成には結びつきません。それは製造することはできても生成することはできないのだから。

詩的なことば

ことばで記述できるもの、デジタルに表現可能なものでは型の継承はできません。いま必要なのは、適切な「ゆらぎ」を有した型の継承による、類似者の再帰、多様さの生成がおこるしくみなのではないでしょうか。

この本は「かたちの詩学」と題されています。

ただ、現在は、形が詩を奪われた時代です。
昨日の「型と形」でも書いたように、型を原像としてそこに「ち(霊)」が吹き込まれることで生成する形が失われ、魂のないデジタルな構造だけが反復的に複製され続けています。「デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション」でも紹介したように向井さんは、モダンデザインの歴史はいつしかバウハウスの理念を忘れ、そこで生みだされた手法だけを用いて商業主義に走ったために、文化的な多様性、生命的多様性を破壊し、そのあげくに自ら単なる製品のお化粧直しの座に出したことを指摘しています。
もはやデザインはわかりやすい欲求を喚起するだけの「メカネの振舞いに従属する包装」と化してしまっています。

それはデザインによって生みだされた物だけのことではありません。ことばについても同じことがいえると思います。ことばもまた単なるわかりやすさだけが重視され、文化的多様性や詩的な多義性が排除されてしまっている。

でも、僕は、理解しやすいよう記述されたことばだけでなく、ときには、ゆらぎや多義性をもった詩的なことばもあってよいと思います。もちろん、それは教育の場である、学校や職場や家庭においてもです。詩的なことばからしか学びとれない型というのがあるのだから。

そうした詩的なことばが人から人へ重ね連ねられていくところに、かつてのおもかげうつろう日本という方法が再び立ち上がってくるのではないかと思うから。



関連エントリー

2009年02月24日

日本の“政治”に関する空気を変えたい→「政ゆ会」の結成!

ここんとこ、ヲタクなエントリーが続いていたので、ちょいと真面目な話をしようと思う。ってか、そろそろカミングアウトしとかないとアレな気がしてきたのでw

タイトルだけ見ると、「ぱんちらすは頭が狂ったのか?」と思われてもしょうがないと思うが、実はマジに表題の団体というかグループを立ち上げた。場所はここだ。

【政ゆ会】政治とかをゆるく語る名無しさん達の会【せいゆ会】

立ち上げてから1年近く経つものの、まだようやく形がおぼろげになってきた段階でしかない。でもまあ、いろんな人の協力も得ながら、なんとか軌道に乗りそうになってきたので、改めてそもそも思いや事の経緯を記しておこうと思う。

一番最初のきっかけは、去年の4月26日の長野だった。このブログでも書いたが、Free Tibet!を合い言葉に巻き起こったムーブメントは、これまでのネット発の運動に新たな1ページを付け加えた。その後の毎日変態新聞騒動国籍法改正騒動でも見られたように、ネット発のムーブメントが「ネットの中だけ」で終わることなく、現実の社会に対して何らかのアクションを起こすようになったのだ。これはネット社会と現実社会が、明確に別々のものとして分離されていた10年ほど前では考えられなかった事態だと思う。逆に言えば、それだけネットというものが一般的になり、社会の中に溶け込んできたということでもあるのかもしれない。

でだ。
かの日長野に行ってからというもの、オレは、ようやく芽吹いたこの火をどうすれば消さずに大きな動きにしていくことが出来るだろうかと悶々と考え続けていた。当初はこのスレ(2chで新たな政党を作る)を中心になんか出来ないかと画策したのだが、政党を作るということに対するハードルは非常に高く、余りにも現実離れし過ぎた目標であることから断念せざるを得なかった。また、過去の経緯(実は2ちゃん発の政党というのは過去にも現在にも存在していて、そしてうまくいっていない)を振り返って見ても、この選択肢が正しいとは思えなかった。

「政治への無関心」だとか「若者の政治離れ」とか言われて久しいが、問題の本質は何なのだろうか。本当に、単純に興味も関心もないだけなのだろうか?自分たちの未来に直接関係のあることなのに?それほど無目的で生きる屍みたいなヤツしか、この国には残ってないのだろうか?しかし、前述のFreeTibetのようなムーブメントを経験した身からすると、オレ達にそういうエネルギーや興味・関心が欠けているという訳ではないと率直に思う。じゃあ、それが健全に成長したり大きな動きになるのを阻害してるのは一体何なのだろう・・・

繰り返される議論の中で見えてきたのは、政治参加や社会参加の周囲に漂う「関わらない方が良いもの」という暗黙の意識だった。そしてまた、いざ参加したいと思っても方法も手段も何も知らない・知らされていない自分たちの無力さでもあった。そう、不思議なことにオレ達は、自分の生きる国や社会を動かしていくためのルールも、アクセスの方法も、参加の仕方も、関わり方すらもまったく教わらずにこれまで生きてきたのだ。

敢えて言わせていただきたいが、これはオレ達若い世代が、バカで無知で無関心だったからという理由では、決してない。もちろん、そういった面も一部はあるだろうけれども、それよりももっと大きな圧力「そういう事は知らなくて良いものだ」という空気のようなものがこの国全体を覆っているからに他ならないと思うのだ。

よくこの国で言われるオレの大嫌いな言葉に、「お上の言うことには逆らうな」というヤツがある。この言葉が、この空気のようなものを見事に表現していると思う。政治はお上(お殿様)がやるものであって庶民は口を出すべきでない・・・庶民は慎ましく日々の生活のことだけ考えていればよい・・・そんな考えが、多くの人の頭の中になんとなくあって、それらが結果として大きな圧力に繋がっている。そして、そこにいわゆるプロ市民や職業右翼の方々の派手な活動が加わり、ますます政治や社会運動を遠く、危険なものにしていく。このスパイラルに、オレ達はきれいすっぽりハマって来てしまったのではないだろうか。

だから、まず何よりも重要なのは、このスパイラルから脱却し、自分たちの国のこと・社会のことを、自分たち自身で考え始めることではないだろうかとオレは思う。それはまた、多くの議論や罵倒や挫折を繰り返す中で絶えずオレの頭の中に残っていたものでもある。そのために、少しの労力で良いからオレ自身がまず一歩を踏み出してみようとした訳だ。MIAUに参加したこともそうだし、この「政ゆ会」が無くなりそうになった時に主催を買って出た(言い出しっぺの一人ってのもあるがw)のもそういう訳だったりするのだ。

そして、踏み出してみたら意外と道は続いていた。多くの友人や協力者とも出会えた。それらは、現時点でオレを支えている数少ない希望の光の一つに他ならない。だから、これからもオレの出来る限りのことをちょっとだけ頑張りながらやっていこうと思う。それがもしかしたら、オレに課せられた使命みたいなものなのかもしれない・・・こう書くと大げさだけどなw

最後に一つだけ。「政ゆ会」はあくまで、議論のPFにしか過ぎない。オレがなんかしらの思想を持ち、集団をリードしていくような、そんな団体ではない。ただ芽生えた火を消さないための、健全に成長していくためきっかけの一つでしかない。だからどんな意見も人も受け入れるし、歓迎する。そこで試行錯誤を繰り返す中で、この日本を覆うなんとも言えない“重苦しい空気”を打ち破っていけたら・・・今はそう考えています。

2009年02月24日

型と形

日本では古来、型が重視されてきました。芸能、武道などにおいては特に。
僕はこの「型」がいまひとつわからなかった。



でも、これを読んではじめて納得がいったんです。

「根源の形象」と「個々の形象」との関係は日本語で古来「かた」と「かたち」の区別によって言い表されている。
向井周太郎「原像の崩壊」『デザインの原像―かたちの詩学2』

そうか。型は「おもかげ」なんだな、と。

おもかげとしての型

梅の季節です。うちの盆栽の梅はまだ咲きませんが、近所の家の梅は白梅、紅梅ともきれいに咲いている。それは盆栽の梅ではなく、庭に植えられた梅の木です。

僕の家の盆栽の梅も、近所の家の庭の梅も、僕は同じ「梅」として認識している。たとえ、花を咲かせていなくても、梅の木と桜の木を間違えることはない。梅の木には、梅の木のおもかげがある。もちろん、梅の花ならその姿だけでなく、その香りにも梅のおもかげをもっています。

しかし、実際には僕のうちの盆栽の梅と、近所の家の庭の梅ではまったく違う形をしている。まず大きさからしてぜんぜん違います。なのに、僕は両者を梅として認識することができる。桜ではなく梅として。

梅だけではなく、じゃがいもはじゃがいもとして、玉ねぎは玉ねぎとして、そのおもかげを通して僕らは個別の際に惑わされることなく類を認識することができます。

同じことが人間の顔を認識する際でもいえる。僕らは2人の異なる知人の顔を見分けることができる。顔の向きがどちらを向いていようと、数年合わずにいて相手が年を重ねたとしても、その人の顔を見分けることができる。もしかしたら、その人の両親に会っても、あぁ、確かにご両親だと感じることができるかもしれない。そこには知人のおもかげがあるから。

でも、このおもかげというのは決して要素には還元できません。目がAという形をしていて、鼻がBという形状をしているという、個別の要素の特徴の積み重ねがおもかげになるわけではない。そこには言語ではうまく言い表せない類似がある。

型とはこのおもかげなんだと思います。

類似者の再帰

世阿弥が観阿弥の口述を記録し編集した芸能論『風姿花伝』では、この型を学ぶことが重視されています。それは「物学条条」の章で語られる。物学はものまねです。学(まな)ぶはもともと真似(まね)ぶだったといわれています。

能は、物学によって、女にもなり老人にもなり、修羅にも神にも鬼にもなる。そこに花が生まれる。『風姿花伝』は俗に「花伝書」というくらいで能の花について伝えることがコンセプトです。

その能の花は物学の稽古によって咲く。稽古、すなわち、古(いにしえ)を稽(かむがへ)ることです。「稽古照今」という熟語もある。古を考え今に照らす。これはデザインにも通じることだと僕は捉えています。温故知新でもいいですが、古を知らずして、なぜ今をつくれるのかと思う。

ところで、能でもそうなのでしょうが、芸能の稽古においては師の舞姿や謡い方などを真似て、その型を体得していきます。
けれど、よく考えれば、師の舞も謡いも決して完全に同じものを反復できているわけではありません。梅の木が一本一本違うのと同様に、舞も謡いもその都度わずかながら変化するはずです。それでも弟子はそこに師の舞、謡いの型=おもかげを見、それを体得していく。

われわれはその都度かならずしも同一ではない師の表出する形象を不断の反復と接触とによってひとつの形として肌を通じて肉体の奥深くに体得していくのである。
向井周太郎「原像の崩壊」『デザインの原像―かたちの詩学2』

向井さんはそれは機械生産やデジタルなコピーの「同一者の反復的な回帰」に対して、「類似者の再帰」と呼んでいます。
オリジナルがあってそれをコピーするというよりは、真似て類似の形を再帰させることで、そこに型を感じさせる。松岡正剛さんが『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』で日本という方法を一途で多様と呼んだのもそれを踏まえるとよくわかります。

型と形

ここで最初の「型」と「形」の話に戻りましょう。

向井さんは「形」ということばの「ち」を「いのち」や「いかづち(雷)」「をろち(蛇)」の「ち」同様の、自然の激しい根源的な力をしめす古語としての「ち(霊)」ではないかという説をとります。「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」などと詠われる際の、神にかかる枕詞である「ちはやぶる」の「ち」も同根です。

おもかげ、そして、母型としての「型」に、自然の根源的な力=霊を宿したものが「形」というわけです。おもかげが霊を宿せば個体となる。それゆえ、型=根源の形象、形=個々の形象という区別となるわけです。

『デザイン12の扉―』という本では、利休の茶碗をつくったことで知られる楽焼=長次郎の15代目となる樂吉左衛門さんがこんな風にいっています。

身体に根差した具体性が抽象の度合を深めると、最後は型に至るのではないか。そんなふうに私は思います。それは、日本型の普遍化とも言えますが、その意味構造は逆に無化され、型だけが残るといったプロセスを経るのが、西欧の知の普遍化とは大いに異なるように思います。

共通の意味を重視する西洋に対して、日本は共通のおもかげを重視してきた。僕はそのことが手仕事の重視やその発展にも通じていたのではないかと感じます。手仕事であれば、その都度、違う形が生まれてくる。ただ、それは「類似者の再帰」であって、僕らはそれを同じものとして認識する。ただ、そのなかでも個別の差異にもこだわるから、茶人があまたの雑器から後に大名物ともなる一品を選びとることもある。

同一者の反復的な回帰

それが機械生産になると「類似者の再帰」ではなく「同一者の反復的な回帰」となる。オリジナルとコピーという関係や、デジタルであればもはやオリジナルという概念さえも消失した同一者の反復だけになる。
そこにはおもかげとしての型もなければ、「ち(霊)」を宿した形もない。向井さんは喪失した型や形に対して、それを「構造」と呼ぶ。

そのような形象のもつ濃密な意味は決して言語的には明示できない。数学という言語をもってしてもその近似の構造には接近できるが、濃密な意味を包含するその多義性は失われ形象そのものが失われてしまう。したがって近似の構造と類似の形象とは本質的にちがうのであるが、近代化とはこの近似の構造の侵略という近代知の暴力によってこの言語的に明示できない「ゆらぐ形象」が生の形が解体されてゆく過程のことなのである。
向井周太郎「原像の崩壊」『デザインの原像―かたちの詩学2』

生の形象は、近代化によって類似の再帰から、数学的な近似的構造の反復に置き換えられ、その形象自体を喪失する。そこでは「知る力」が「観る力」にとって代わるし、模様を生む力も衰えていく。何より多義性、多様さというものが失われ、世界の形象が単調でつまらないもので埋め尽くされていくと思うのです。そうした世界で僕らはいかに感受性を日々鍛え挙げていくことができるのか。

デザインのリデザイン

ただ、モダンデザインが現代のようなおもかげを喪失した構造の世界を意図して目指したかというとそうではないことが、向井さんの2冊に分冊された『かたちの詩学』という本を読むとわかる。モダンデザインの代表として語られるバウハウスでさえも手仕事=クラフトマンシップを最も重視しており、その理念において「芸術と技術の統合」を目指したのだから。

だが、その理念が失われ、モダンデザインが生みだした技術だけがまさに「ち(霊)」を失った状態で反復される。おもかげは失われ、すべてが物差しで測れるような価値しかもたない構造となる。その世界ではなかなか、ちはやぶる神にお目にかかることはない。
いまやデザインは形象を欠き、濃密な意味からは遠く離れた近似構造だけを反復しているし、自分が形に関する仕事をしていると信じているデザイナー自身さえもがそこにすでに形象が失われていることに気付かずにいる。なんという感覚の麻痺なのでしょう。

バウハウスがもっていた理念を継承し、すでに終焉したデザインそのものを、現在においてリデザインしようとしているのが向井さんが創設した基礎デザイン学なのだろうと感じます。
失った形象への感覚を取り戻すためにも、僕らはデザインの基礎力についてもう一度考えるべき時期なのではないでしょうか。

   

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