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2009年02月22日

デザインと読解力(文章に書かれたこと/書かれていないことを読み解く)

小学生の頃、国語の授業で教科書に載っている話を読んで、そこに出てくる登場人物が「何故そう思ったのか」とか「どうして、そんなことをしたのか」などという質問をよくされた。テストでもそういう問題があったが、それって意味あるの?と感じていたものだ。

でも、最近、それって実は重要だったんだなということに気がつきました。
それって文章に書かれた状況を俯瞰しながら登場人物の行動とその背景にあるものを構造的に理解するということなのだから。



そう。それはデザイン思考でも「利用状況の把握」という点では欠かせないスキルです。デザインサーベイを行う際には5W1Hで利用状況を捉え明記するという作業が必要になる。

誰が、いつ、どこで、何を、どのように行ったのか?
また、それは何故そうしたのか?

特に何故そうしたのかという問いは行動とその背景にあるものの菅家精を俯瞰的に包括的に捉える上で大事な問いであり、デザインを考えるうえでも欠かせない問いです。

あるべき生活世界の形成するためのステップ

基礎デザイン学的にも、デザインを「あるべき生活世界の形成である」と捉えれば、具体的な物を作りだす前の段階として、そもそも人びとが生きる生活世界をつかまえる力が不可欠となります。

デザインが、人間の生命、生存の基盤や安全、日々の生活・暮し方・ライフスタイル、生き方や仕事や社会的役割などを含めた生きる方法、生きていく上での人々の関係性やコミュニケーション、生きる場としての社会形成を含めた、人の誕生から死までの生のプロセス全体に対して、あるべき生活世界を形成することだとすれば、特定のデザインプロジェクトを実践するためには、特定の生のプロセスに関して少なくとも次のステップが必要でしょう。

  1. 特定の生のプロセスについて現状を把握する
  2. 特定の生のプロセスに関するあるべき姿を想像する
  3. あるべき姿と現状のギャップを抽出する
  4. ギャップを埋めるための具体的な方法を検討し実現に向けた計画を作成する

ISO13407:人間中心設計プロセス」の各段階との関係性も含めて、図にすると、こんな感じ。



このステップにおいて、最初の「特定の生のプロセスについて現状を把握する」際には、デザインサーベイによって、特定の生のプロセスについての人びとの行動やそれが行われる環境・状況の理解という作業が行われることになる。

要素の抽出と要素の関係性の把握

その際、デザインに関わるすべてのメンバーがすべての調査に関わるということは非現実的だから、必ず人びとの暮らす現状を記録した調査データに触れることになるでしょう。
ビデオによる記録をみるという場合もあると思いますが、多くは文章で書かれた記録から、人びとの暮らしの現状を理解するということになる。

その文章を読む際にそこに記述の形で登場する人びとの行った言動に対して「何故そう思ったのか」、「どうして、そんなことをしたのか」ということを積極的に問い、読み説く力がなければ、デザインの基礎の最初のステップから躓くことになる。躓いてもかまわないのですが、躓いたまま、そのまま起き上がれず、なんとなく次のステップに移ってしまえば、あとの作業はグダグダになることは避けられません。

  • 誰が、いつ、どこで、何を、どのように行ったのか? をまずは把握した上で、(要素の抽出)
  • それが、何故そういう形で行われたのか? と問うことが必要です。(要素間の関係性の俯瞰的視点での整理)

こうした2段階のステップで、調査結果として文章による記述の形に落とされた人びとの暮らしの現状から、人びとの行為とその状況、そして行為と状況の関係性を読み解く必要があるのです。

その関係性を理解すれば、どの要素をどう変化させれば、人びとの生のプロセスにどんな変化をもたらすことができるかが予測できるようになる。それがデザインの最初のステップだと思います。

ワークモデル分析とKJ法

僕はそのデザインサーベイの結果の分析作業を、ワークモデル分析KJ法を用いて行っています。

  • 個別の対象者を分析する際には、ワークモデル分析を用い、
  • 何かしらの類似をもとにグループ化した複数の対象者を分析する際には、KJ法を用いる、

といった使い分けをしています。
たいていはワークモデル分析で個別の分析を行った上で、分析によって見えてきた対象者間の類似をもとに対象者をグループ化し、そのグループごとにKJ法による統合的な行動モデルの分析を行います。


ワークモデル分析:文章に記述された人間の行動を読み取り図式化


便宜的に行動モデルの分析と書いていますが、実際は、行動そのものだけに着目するわけではなくて、行動の結果として生じた感情や、行動が行われる背景となる物理的な環境や社会的・経済的・精神的な状況といったものを分析の対象にします。

ワークモデル分析でも、KJ法でも、手元にあるデータから5W1Hの視点で俯瞰的に行動の状況を整理し、さらにそれを構造化することで、データとしては記述されていない行動の背景を「何故?」「どうして?」の問いを重ねながら考察していきます。


KJ法:複数の人の情報を統合する形で共通している行動のモデルを分析


自分の読解力に問題はないかと自問する

こうした意味で、読解力というのはデザインをする上での基礎体力的なものだと感じています。

ただ、こういう作業ができない人が意外に多いんですね。昨日の「ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」の参加者でも何人かいたのかなと思います。

例えば、文章の読解力だけでなくて、他人が口頭で話した言葉の理解力でもおなじです。昨日のワークショップでも、他人が口頭でシナリオを読んでくれているのに、その内容をKJ法に使うポストイットに要約して記述することができない人がいました。しかも要約できない自分を問題にするのではなく「もっと整理して読んでくれ」という。それは違いますと注意しました。他人の話を要約できないあなたに問題がある、と。グループ作業なのですから役割分担が大事です。ひとりが完全な受け身になってしまえば分担にならず、他の人の負担が増えます。
昨日も書きましたが、作業をていねいに自らの力で行うことをそれぞれのメンバーが重視することが、グループワークの成功の条件です。いっしょに作業するメンバーと自分との関係性=役割分担をうまくできない人に、人と物の関係性をつくりだすデザインという活動ができるわけがありません(相性などの組み合わせが原因でうまくいかないケースもあるので一概にはいえないんですけどね)。

他人が話すことばや文章で書かれた内容を要約できないという人は、もしかすると普段から本を読むのでも、そもそも構造的に整理された文章ばかりを読んでいるのかもしれません。あらかじめ要約された文章なら読めるが、小説のような文章で書かれると構造がつかめず要約もできない。さらに抽象的な文章になるとお手上げ。それを本のせいにする。他人の話を聞く場合でも理解できないのは相手がわかりやすく話さないせいにするのかもしれません。
そうじゃないでしょ、と。それは間違いなく自身の読解力の問題です。ことばで表現された内容を、頭のなかで構造化して理解する力が身についていないのです。そういう自分をまずちゃんと見つめて認めなくてはいけません。

いまの段階でできないことはすこしも悪いことではありません。
悪いのは、問題を他人のせいにしてしまい、自分の問題を認めないがために、将来的にもそれができるようになる道を自ら閉ざしてしまうことです。

デザインの基礎力としての読解力を鍛える

文章や口頭での話の読解や把握ができない人のなかにもいくつかタイプ分けができます。

慣れていなくてできない人。これは慣れてもらえばいいので問題はありません。
やる気がなくてできない人。、これはまぁ、そういうスタンスであればどうしようもありません。
問題なのは、いちおやる気があるのに、そもそもの読解力に原因があってできない人がいることです。これはもう一回、小学校の国語の授業からやり直してもらったほうがいいかなと感じることもある。これは厭味で書いているのではなく、本当に小学生の授業でやったのと同じ訓練を大人としてやる必要があると感じるからです。むしろ、大人にこそ読解力の訓練は必要で、それを子供のころだけの学習にしてしまうのは、人の成長を線形的なものと考える間違った成長史観があるからかもしれません。

でも、実際問題、大人なので小学生の授業に出るということはできませんし、他人が力を貸してどうこうしてあげられるという話でもありません。結局のところ、本人が自主的にいろんな本を読みながら、登場人物は「何故そう思ったのか」とか「どうして、そんなことをしたのか」といったことを読み解く訓練を行うしかないと思います。本気で訓練しようとしたら、本を読みながら、そこに書かれた内容をワークモデル分析してみてもいいと思います。

もちろん、読解力不足にも程度の問題があって、まったくできない人、多少はできる人、問題なくできる人というのがある。さらに自己認識と実際のギャップもあって、できてないのにできてるつもりの人、できないと不安に思ってるけど意外にできる人もいます。

そんな感じで自己認識もかなりあてにならないところがあるので、自分はまあまあできてるかなと思ってる人でも、やっぱり読解力は日々鍛えて方がよいかなと思ったりしています。

  

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2009年02月22日

内省する力(第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ1日目)

昨日は第2回目となる「ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」の講師をしてきました。



内容的には前回同様ですので、どんなことをやっているかは以下エントリーを参照。

前回開催のご報告


みんなで手を動かしながら考える

僕はこのワークショップの目的を「デザインの方法を使って、人と物のあるべき関係性を実現する方法を学んでいただく」ことだと考えています。

デザインの方法についてはここではあらためて述べませんが、そのうちの1つは「みんなで手を動かしながら考える」ことです。それは今回のワークショップの基盤となっている『ペルソナ作って、それからどうするの?』にも繰り返し書いています。

つまり、それは自分たちで描いたもの、作業しているものから感じられることから直接推論を働かせながら、アイデアや思考を重層的に構成していくやり方です。そこでは作業過程が思考過程になる。
具体的には、インタープリテーション・セッションによるワークモデル分析やその結果を統合するKJ法という方法を、今回は採用しています。

描くことで考える

ワークモデル分析では、ユーザー調査の結果をシナリオの形にまとめたユーザー行動情報を読み解き、フローモデル(ユーザーとそれに影響を与える人や物とのコミュニケーション・情報の流れを記述)やシーケンスモデル(ユーザーが行動を行う手順、情報の入手の順番を時系列に記述)などのモデルを描きながら、ユーザーの行動が行われる文脈を構造的に、俯瞰的に把握する作業・思考を行います。

つまり、以下の作業が必要になる。

  • シナリオからユーザーが行った行動を抽出する
  • 抽出した行動を紙の上に記述する
  • 記述した各行動要素の関係性を図式化の方法を用いて表現する
  • 表現した関係性がユーザーの行動の状況を反映できているかを検討する
  • 表現された関係性から「なぜユーザーはそうした行動を行うか?」を自問しながら、隠れた関係性を推論していく

こうした作業・思考を限られた時間内に、てきぱきとチームで役割分担しながら協力し合ってやっていく。

内省する力

その際、最低限必要なのは次のことです。

  • 迷うよりもとにかく情報を抽出し紙の上に配置する(失敗したら書き直せばいい)
  • 他人がみて読めるよう、認識できるよう、ていねいに描く(絵的にうまい必要はないが、きれいに描く)
  • 遠慮しないで自分の考えをはっきり表現し、他人の考えにも積極的に耳を傾ける(それがつまり役割分担)

この最低限必要な前提条件がクリアされないと、「みんなで手を動かしながら考える」というグループワークは成り立ちません。
なかでも大事にしてほしいのは「ていねいに描くこと」です。描くことで自分自身の理解にも、いっしょに作業をするチームのメンバーの理解にもつなげることを重視するのがこの方法です。つまり、ていねいに描くというのは、自分自身を、そして、いっしょに作業するメンバーを大事にすることにほかなりません。デザインする人間として、そこは一番大事にしてほしいなと感じます。


もっと丁寧に描きましょう。丁寧に描くことで見えるものがあります。



異なる内容の情報をエリアに分けたり色を使って強調したり丁寧な表現です。


表現しないと前に進まない。作業も思考も。
また自分たちで表現した内容を内省的に評価できなくては、そもそもデザインになっていません。

ていねいに描けているか、書くスピードは制限時間内に仕事をするのに適したものか、書きだした要素にモレはないか、表現したものはユーザーの行動の状況をちゃんと描き出せているか。そうした内省が直観的に働かないようではデザインになりません。手が動かないデザイン、表現されたものを評価できないデザインというのはない。

情報を動かすことで、情報に訊く

これはワークモデル分析だけでなく、KJ法でも同様です。
KJ法は既存の枠組みにデータをはめ込むことではありません。与えられた情報からその全体像を理解するのに適切な枠組みを発見していくことです。

ですから、手順としては、最初に大きな分類をして細分化していくのではなく、似た要素を小さなグループにしてそれにラベルをつけ、次にそのラベル同士の類似によって小さなグループを中くらいのグループに、そしてさらに大きなグループに固めるという小から大へのアプローチをします。

このグループ化と作業過程でつけられるラベルに意味がある。
グループ化ができたら、今度はグループ間の関係性を決める。線でつなぎ、その線の意味を考える。そうするうちに全体像が見えてくる。ユーザーが何にこだわり何を重視しているのか、何が問題であり何がゴールなのか。そうした行動全体の構造がみえた状態を表現できたかを内省することが大事です。

頭のなかで迷うのではなく、手を動かしながら情報の配置を変えることで、情報そのものに訊ねることを重視する。頭で分類するのではなく、直観的な類似を重視して似ているものをとにかくグループ化し、それにラベルをつけてみる。ラベルをつけることで元の情報が別のものに変換される。それが解釈です。その解釈を繰り返し積み上げるなかで発想が生まれてくる。

「手探り」という方法

最初から存在する既存の枠組みのなかにあてはめようとするから手が動かない。だって、その枠組みが見えていないのだから。
でも、本当は見えていないのではなく、そんな枠組みなんてない。ないものを追いかけるから手が動かない。

そうではなく、「手探り」という方法の有効さをもっと知ってほしい。手探りでその手の感触から何かを見出していく感覚を大事にしてもらいたい。類似のグループ化、ラベル付けということを繰り返していれば枠組みなんて自然に見えてくるのです。直観と内省を働かせて作業を進めることに身を任せることを学んでもらえれば、と思います。

そういった作業を自然にできるよう身につけること。すくなくとも、その感覚を体験してもらうこと。そして、何よりそのことを楽しんでもらうこと。それが今回のワークショップのゴールです。

この頃は真贋についての論議がはやっていて、時には、本物と贋物の写真を、御丁寧に並べて見せたりする。が、骨董という煩悩の世界は、そんな単純な考えでわり切れるものではない。自ら手を汚したことのない門外漢が、単なるのぞき趣味を満足させているにすぎない。

この白洲正子さんのことばを考えてみてほしい。骨董ではなくデザインでもおなじです。「自ら手を汚したことのない門外漢」になって単なるのぞき趣味であってほしくはありません。自らの手を汚すことで世の中的な常識の枠組に頼らない真贋を自分の直観で感じとる力を身につけてほしいと思うのです。だって、しょせんは人の世は煩悩の世界なのですから。煩悩を知らず、「あるべき生活世界の形成」などはできっこないのです。

うまく描く方法、答えを見つけるコツがあるわけではないんですね。
ていねいに自分たちの感性を最大限に外に開きながら目の前の情報やいっしょに作業する人の声に耳を傾けながら感じたものを形にしていく。その手探りの作業の先に、うまい表現も答えがあるのです。

参加者のブログ

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2009年02月20日

基礎デザイン学

こういう捉え方、好きだな。

私は、デザインは「あるべき生活世界の形成である」という問題提起をたえず繰り返してきました。(中略)デザインという行為は、基本的に、人間の生命や、生存の基盤と安全、日々の生活やくらし方、生き方や生きる方法、生きていくうえでの人々の関係やコミュニケーションや社会形成などにおよぶ、人の誕生から死までの生のプロセス全体と、生命の源泉としての自然環境や、生命あるものとの共生関係を包容する「あるべき生活世界の形成である」に広く深くかかわるものだといえます。
向井周太郎「デザインの意味の転換と形成」『生とデザイン―かたちの詩学1』

1953年に「芸術と技術の統一」というバウハウスの理念を引き継ぐ形で、バウハウス出身のマックス・ビルが初代校長となって設立されたウルム造形大学で学んだ向井周太郎さんは、社会的改革という理念を失い単なる商業デザインに堕した近代デザインに対して「デザインの終焉」が叫ばれた時代である1967年に、多摩美術大学に「デザインに携わる全く新しい型の職業人の育成をめざす」学科として、基礎デザイン学科を創設しています。

向井さんは「個々のデザイン現象に直接対応していく従来のデザイナー養成とは別に、デザインに関する高度な基礎理論と造形能力を身につけた、デザインにおいて新たに開発すべき諸問題を追求しうる能力をもつ計画者(プランナー)、デザイン研究者、教育者、評論家等の育成を目標とする」のが「基礎デザイン学」だとしています。

トランスディシプリナリーな構想としての基礎デザイン学

1998年に書かれた「基礎デザイン学会設立趣旨」をみると、この学問が視野に入れた領域が驚くほど広いことがわかります。

「基礎デザイン学」科では、設立にさいして、デザインの問題やその実践的な方法論の展開について、基本的なデザイン専門科目のほかに、哲学、文化人類学、社会学、心理学、論理学などリベラルアーツとの積極的な連携を推進するとともに、まったく新しい特色として、次のような学問や方法論との連関においても積極的に探究していくことが可能なカリキュラムを編成しました。たとえば、記号論、デザイン史、技術史、インフォメーション美学、サイバネティックス、形態学、色彩学、視覚方法論、表示方法論、エルゴノミィックス、メカニズム論、映像工学、トポロジー、言語学、音声学、コミュニケーション論、文体論、経済学特論、社会学特論などを挙げることができます。

人びとの生活文化をつくる仕事であるデザインには、物事を包括的にとらえる視点が必要とされ、それゆえ、こうした幅広い分野にまたがる領域横断的なフィールド設定になるのも納得がいく。もちろん、ひとりでこんな幅広い領域をカバーできる人はそうそういませんから(それこそ松岡正剛さんレベルの読書量が必要ではないか、と)、とうぜん、協働作業が前提となり、それゆえ領域横断的なコミュニケーション力が求められる。また、本人自身が類稀なるトランスディシプリナリーな才能をもつバーバラ・M・スタフォード女史が語ったように、そこでは領域を超えたつながりを生み出すアナロジカルな発想法も重要になってきます。

自ら持たぬものと結合したいという人間の欲望がうむアナロジー(analogy)は、とめどない揺動を特徴とする情熱的なプロセスでもある。身体にしろ、感情にしろ、精神的なものであれ、知的なものであれ、何かが欠けているという知覚があって、その空隙を埋める近似の類比物への探索が始められる。

領域横断はある意味僕自身が得意とすることでもあり、このブログでも常にさまざまな方面への好奇心をもつことの必要性を訴えてきたわけですが、不勉強ゆえに、すでに「基礎デザイン学」としてこうした構想が立てられていたことを知りませんでした。まったくの不覚だと感じる反面、こういうものがすでに存在していたことを嬉しく思います。

ポストデザインとしての基礎デザイン学

向井さんは1960年代の「デザインの終焉宣告」を経て、ポストデザインのデザインと呼べるようなラジカルな新しいデザインの認識が必要であると捉えています(「デザインの終焉」についての事情はひとつ前の「デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション」を参照)。その具体的なプロジェクトが「基礎デザイン学」なんですね。このポストデザインのデザインとしての基礎デザイン学が目指すものこそが冒頭の新しい生活世界の理念と形成です。

今日の情報社会といわれるマルチメディアなどの新たな技術革命のなかで、この新たな世紀の生活世界はどうあるべきか、生産と消費のシステムはどうあるべきか、私たちはいかに「共生」の思想を展開すべきか、新しい次元で、再びデザインの改革性、その新たな変換の理念が求められているといえます。
向井周太郎「デザインの意味の転換と形成」『生とデザイン―かたちの詩学1』

まさにおっしゃるとおり。僕はぜんぜん別の方向から文化の再生が現在のデザインの課題と捉えていたわけですが、まさにいま自分たちがどう生きるのかということを組み立てなおすことが必要だと思います。それにはデザイン思考というアプローチが必要なはずです。

デザインが「あるべき生活世界の形成である」ためには、すくなくとも「あるべき生活世界」の理念を構想する力とその理念の実現にむかって具体的な物事を形成する力の2つが必要となります。その力の習得が基礎デザイン学における教育や研究の課題だといえるのでしょう。

惜しむらくは、この基礎デザイン学の理念や目標があまりに社会浸透度が低いことでしょうか。
この理念が共有されないことは本当に残念なことだと思うので、微力ながら今後しばらくはこの理念と「基礎デザイン学」という名称の普及に助力していこうと思いました。

  

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2009年02月19日

デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション

前に『ふすま―文化のランドスケープ』を紹介した向井周太郎の『生とデザイン―かたちの詩学1』に収録されている「モダン・デザイン」という論考は、モダンデザインと言語、文化、機能と形といったものの関係を考えるうえで、読んでいて「なるほど」と思ったので、おすそわけ程度に。
詳しくは各自、本をお読みになり、それぞれが思考を積み重ねてみてください。

アルファベットと西欧合理精神

まず、向井さんは「モダン・デザインの思想は西欧の歴史そのものの固有性に内在する」という、当たり前ながら忘れられている問題をきちんと捉えることの重要を指摘しています。

前に柏木博さんの本を紹介した際にも書いたことですが、モダンデザインには地域や民族、階級などに縛られずに人びとが自由にものを選べるようにするユニバーサル・デザインを理想としました。しかし、当然、それはモダンデザインを推進した西欧の「当時のそれら先進国が直面した近代化の普遍的な問題と深く関連しているのですから、この二重性をあらためて読み直さなければならない」と向井さんが指摘するように、モダンデザインは理想として普遍を標榜しながらも、一方で西欧固有の問題と深く結び付くものであったという矛盾を抱えていることを見落としてはなりません。

そのいくつかの問題を向井さんは指摘しているのですが、そのひとつに言語-アルファベットの問題がある。それはデリック・ドゥ・ケルコフが『ポストメディア論―結合知に向けて』で指摘していた問題でもあって、26文字の操作で成立する、文脈からの高い自律性とそれゆえの合理性を有した言語をもつ西欧の合理精神の問題です。
向井さんは西欧のアルファベットが、絵画言語としての「遠近法」、音楽言語としての「五線記譜法」など諸芸術の固有の芸術言語を生み出していくことにも着目する。それぞれの芸術言語がそれぞれの芸術領域を分節していく。

当たり前のことですけど、このアルファベットを記号体系として用いる西欧の合理精神は、現在のITや情報デザインに分野にも大きく影響を与えているはずです。HTMLや各種のプログラミング言語であれ、著しく文脈依存性の低い自律性をもったアルファベットの記号体系の延長線上にある。それは漢字仮名交じり、さらにはアルファベットも交る世界でも稀有な言語体系をもつ日本的思考とはまったく別の世界観であることをもう一度しっかり見つめ直す必要があるでしょう。
漢字仮名交じりの言語をもつ日本語の文章からは、文脈依存性と象徴性の高さをもつがゆえに、そこからは匂いや肌触りなども伝わってくる(もちろん、その感受性をもち、自らの感覚に敏感かつ意識的である人であればですが)。機械のメカニカルな合理性はうまない代わりに、自然と人間、マクロとミクロが重なり合うような思想がそこからは芽生えてくる。
そうした言語体系をもつ文化の特質をITや情報デザインの分野に取り入れていく必要がいまの日本にはあるのではないかと感じます。それには白川静さんの漢字研究や杉浦康平さんの文字意匠の研究なども大いに参照しなくてはならないでしょう(まぁ、こう書いても、誰もそれを本気でやろうとしないでしょうけどね)。

モダンデザインと西欧近代の問題

ちょっと脱線しました。アルファベットの記号体系に基づく西欧に話を戻します。
西欧では、諸芸術領域それぞれで独自の芸術言語を創出することで、各領域の分節を可能にしたという話でした。

ただ、そうした領域の分節がモダンデザインが生まれた時代に解体していく。例えば、カンディンスキーの絵画においては点や線や色によって構成された画面が音楽や詩に接近するなどの動きがみられる。

モダン・デザインが成立する背景として生じた西欧近代の諸芸術の革命とは、実はそのようにして自律をとげたそれぞれの芸術固有の伝統的な記号(言語)体系の解体作業にほかならないということができます。
向井周太郎「モダン・デザイン」『生とデザイン―かたちの詩学1』

アルファベット26文字という表記体系は、機械の部品のようにも思えると同時に、その言語の部品かを生み出した知の体系が同時に自然科学や機械を生み出す合理精神につながっている。ただ、その合理精神が高山宏さんなどがしきりに指摘するように、近代においてはそれまでの文化における物と記号の関係がゆらぎ、それを再構成する必要に直面した。さらには機械生産による無名性(アノニマス)を全面に帯びた物が大量生産され、物からは人間性が剥奪されていく。そこにモリスらのアーツアンドクラフト運動なども生起してきて、それがバウハウスなどのモダンデザインの流れにつながっていく。それが向井さんがいう西欧の「先進国が直面した近代化の普遍的な問題」です。

そうした問題に対し、西欧では技術と芸術がそれぞれの反対の方向を目指すことになる。

技術が外なる自然を対象化することで、人間身体を外在化させ道具や機械を生みだし中心化していったのに対して、芸術は人間の内なる自然としての内面性あるいは生の再体験への方向(混沌とした周縁)に向かったといえるのです。
向井周太郎「モダン・デザイン」『生とデザイン―かたちの詩学1』

中心化へ向かう技術と周縁に向かう芸術。バウハウスの運動が理念として掲げた「芸術と技術の統一」は、この2つの矛盾を弁証法的に昇華するものとして捉える必要があることを向井さんは指摘してくれています。これはなるほどです。

フォルムとファンクション

もうひとつのモダン・デザインの問題として、そうした西欧近代が直面した問題の解決の側面でもあるモダン・デザインがそれとは別の問題を抱えていたはずの異文化の領域にも、ユニバーサル・デザインの理念とともに広がったということがあるでしょう。

例えば、機能主義の有名なテーゼ「形態は機能に従う」にしても、一方では日本にも柳宗悦さんがいうような「用の美(用とは共に物心への用である)」という類似した考え方がある。ただ、その双方が同じかというと必ずしもそうではない。

日本にもたとえば、民芸運動のなかで〈用即美〉ということがいわれました。器のような形あるいは構造そのもの自体が機能である原初的な道具は、固有の素材と技と結びついた文化の性状があるにもかかわらず、その形の特質ゆえに形と機能が合一であるように映ります。西欧においても、このような原初的な道具の合一性をもとめました。それは生物の有機体に近似して映ずるからです。
向井周太郎「モダン・デザイン」『生とデザイン―かたちの詩学1』

ここで向井さんが指摘しているように、形と機能は実はなんら直接的な関係をもつものではない。「形態は機能に従う」といっても、本来、それはその地域の文化における固有の素材や技、そして、その文化における生活の歴史を介してしか、形と用はつながらない。個々の文化の恣意性を排除して機能と形態のつながりは見いだせないにもかかわらず、モダン・デザインはユニバーサル・デザインと機能主義という矛盾する理念を追いかけてしまった感があるのです。

機能と形の関係性を常に変化させる文化のダイナミズム

機能が決まれば形が決まるということがいえないことを証明したのはまさにモダンデザインそのもので、いまも多くのプロダクトは内部的な機能とは無関係な外観をまとっています。であれば、そうしたインダストリアル・デザインの方法論を極端に推し進めたマーケティング的発想のアメリカデザインの影響を強く受けている日本の商業デザインの分野において、デザインが外観のお化粧直しをすることとして認識されているのもなんら不思議はないでしょう。

人間同士の交流にしても、人とものとの関係にしても、それらが相互にしたしかう触れあう接点というのは、本来、表面や外形、あるいは外側に立ち現れる知覚可能な現象を介してなのです。歴史をふりかえってみると、文化というのは常にそういう仕方で、ある形なり形式が生みだされ、そこへいろいろと意味が凝縮してきたのではないでしょうか。そしてそれが逆に因習を生みだしてくる。それをまた変形したり解体したりする。現代の表象への関心は、また他方急速な技術の進歩と物の変遷のスピードと物の豊富さ過剰に対する一つの疎外からくる大衆の反撃と見ることも可能です。
向井周太郎「モダン・デザイン」『生とデザイン―かたちの詩学1』

「現代の表象への関心は~」云々はおいておいたとしても、形や形式が意味を生成し、意味は因習を生み、さらにそれを変形・解体する動きが生じるという風に、文化をダイナミックなものとして捉える視点は非常に大事なものだと思います。

物の形と機能、機能と用、さらには価値と利用行動などを静的な点ととらえて利用者のニーズなり利用の状況をわかったつもりになってデザインしてしまうことが多い。いや、デザインに関することのみならず、人間の知識や思考、価値観、行動などと物や環境など外界との関係性を固定した関係性として捉えようとしてしまいがちな人が多い。
ただし、実際にはそれらのどれもが何一つとして他との関係において静止した状態にあることはない。関係性は常に変化しているのであって、それらは静的な点として捉えるのではなく動的な線として捉えなくてはいけない。言い換えればそれは情報として固定した形で外から眺めるのではなく、常に情報化し続ける行為としてそれに参加する必要があるのです。

フォルムとファンクション、形と用をつなぐ文化という視点を欠かさないこと

そうはいってもデザインとは関係性を固定化することでもある。ただ、その際には変化する文化の文脈のなかにおいて、そのワンシーンを切り取って固定化することをしないとそもそもおかしなことになるというか、人びとに受け入れてもらえない。文化の文脈の流れのなかで、意味と因習、そして形態や機能との関係を意識的に解体し変形・再構成することがデザインにはもとめられる。

ただ、もちろん、変形・解体といっても、文化における物と人との諸々の関係性はすべてが意識の上で行われているのではなく、エドワード・ホールが『かくれた次元』などでプロクセミックスの問題としても語ったように、そもそも意識下にあって隠されているものもあるのですから、変形や解体が容易に可能なものばかりではなかったりもします。そこがデザインのむずかしいところで、モダンデザインがはまった罠でもあるのでしょう。

いずれにしても、現在のような文化という視点を欠いた思考からは、バウハウスが理念として掲げた「芸術と技術の統一」された物さえ生まれてこないでしょう。フォルムとファンクション、形と用をつなぐ文化という視点を欠けば、常にデザインとは機能や人びとの用とは切り離されたお化粧直しの価値しかもたないはずです。

そろそろ、このあたりのことをきちんと反省していく必要が日本のデザイン界にはあると思うんですけどね。まぁ、デザインをサラリーをもらうためだけにやってるのであれば無縁の話なんでしょうけど。

  

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2009年02月16日

日本のたくみ/白洲正子

白洲正子さんは生前、銀座で染織工芸の店を営んでいたことがある。

それで染物や織物の作家・職人とも縁があった。
織物職人の田島隆夫さんとも柳悦博さん(柳宗悦さんの甥)の紹介で出会っている。面白い職人がいるといって紹介されたそうだ。そこで白洲さんは田島さんに「むつかしい注文を出してみた」そうだ。昔の織物のような「ざんぐりした味わい」を織物が欲しいといって、何枚かの古い布を渡して帰したのだそうだ。

田島さんは黙って白洲さんの注文を聞いていたそうだが、しばらく経つと織物を持ってきたそうだ。「織物は着てみないとわからない」と白洲さんはいう。そうしないと欠点がわからず、客に対しても責任がもてないという。田島さんが持ってきた織物も白洲さんは実際に着てみたそうだ。

着てみると着心地がよかった。見た目にも美しかった。ただ、しばらくすると欠点がわかってきた。味に重きをおきすぎたがゆえに、腰がなく頼りなく感じられてきたのだそうだ。
それで田島さんに「きものとしては不完全である」と注意したという。またしても田島さんは黙ってそれを聞き、また、しばらくすると新しい織物を持ってきたそうだ。

そういう付き合いが二十数年も続いたそうだ。そのあいだに田島さんは「小気味よい程成長して行き、今や押しも押されぬ一流の職人に育った」のだそうだ。



僕は、デザインをする人にはこの白洲さんのような力が必要だと思うのです。

「ざんぐりした味わい」など、自分が求めているものを明確に職人に伝え、「織物は着てみないとわからない」と正しく物を評価する目と客に対する責任を持ち、かつ、出来が悪いものに対しては「きものとしては不完全である」とはっきり判断できること。これができないといったい何をデザインしているのかわからない。
逆に、そのデザイナーの注文を実際の物にするのは職人の仕事なんだと思います。

デザイナーと職人

このデザイナーと職人の役割分担がどうも誤解されている感がある。

デザイナーが職人の領分に入り込んでしまっている一方で、本来、デザイナーがやるべきこと―注文を出すこと、評価すること、客に対して責任をもつこと、ダメなものはきちんと職人に注意すること―ができなくなっているのではないでしょうか。

著名なデザイナーである奥山清行さんも『伝統の逆襲』で「職人ならではの大きな特徴は、生産しながら開発していけるという能力だが、その点を理解する人がいない」と書いていますが、物を作りながら物そのものの魅力を高めていく技を身に着けている職人に対し、デザインというのはどこまでいっても頭のなかのイメージをいかにヴィヴィッドにしていくかという作業であり、そうしたスキルにおいて長けているのがデザイナーであるはずです。

デザインという仕事に必要なのは、人が暮らす生活における動きのなかで、そこに必要だがいまだ存在してはいない物について、人と物との関係性においてどれだけそれを明確にイメージすることができるかだと思います。その頭のなかに人と物との関係性をヴィヴィッドにイメージできるスキルに長けたデザイナーが実際のものづくりに手を出しても、それを磨き上げることはできませんし、そんなことよりももっとやるべきことがあります。

デザイナーは物そのものをいかに魅力的に仕上げるかは職人のたくみの技にまかせるほかない。工業製品であれば機械による生産に委ねるしかないのといっしょです。
ただ、機械生産とは違い、職人には「生産しながら開発していける」力が備わっている。そこに物がさらによくなる可能性が大いに残っている。
その物をさらによくする手業を備えた「日本のたくみ」を訪ね歩いて、その技をデザイナー=ディレクター的な視点で鋭く観察して捉えたのが、この白洲正子さんの『日本のたくみ』という一冊です。

日本のたくみ

ここで紹介されている職人は、すでに紹介した田島さんのほかに、草木染めの志村ふくみさん、焼物の福森雅武さん、立花作家の川瀬敏郎さん、月心寺でおいしい精進料理をふるまう村瀬明道尼など、名の知れた職人さんもいれば、名前を隠して登場する方もいます。それから、京都で市原平兵衞商店という箸屋を営み、白洲さん同様、職人に対するディレクター、プロデューサー的な役目を勤める市原平兵衞さんなども紹介されています。



まず最初に登場する扇職人の中村清兄さんの話がおもしろい。
放浪癖のある中村さんは通常の扇作りを「これはパン絵だ」という。パン絵。すなわりパンを食うための絵です。そんな風にいうのは、中村さんには白木の檜扇を作れる手業があるからです。檜扇は、骨に紙を張る通常の扇とは違い、文字通り、透き通るような薄さの檜だけでつくった扇です。
中村さんは「もともと扇はあそびである」という。扇絵はけっして真ん中に描いてはならず、歌や俳句を書けるぐらいの余地を残しておかなくてはいけないという。そうやって人に弄ばれて捨てられるのが扇なのだそうだ。あそんで捨てられるからこそ、扇は隅から隅まで軽く涼しく清らかでないといけないという。

草木染めの志村ふくみさんの話もおもしろい。
志村さんも最初は化学染料も使っていたのだそうだ。ただ併用しているうちに両者の違いがはっきり見えてきたという。「化学染料を用いた作品には、何か異質な感じがあり、植物染料の方は自然と同じ次元にある。人間の血に通うものがある」ことに開眼したという。
さらに同じ草木でも切る時期があることも知ったそうだ。

たとえば桜は花の咲く前、二月頃に切るのが一番いい。花へ行く紅の色素が、幹の中にたくわえられるからで、木工の黒田辰秋氏にも、そういう話を聞いた覚えがある。またたとえば刈安は、鮮やかな黄の染料であるが、穂の出る直前、お盆のころに刈る。桜や梅と同じように、穂に出る色が茎の中に用意されるからで、その時期を逸すると、ぼやけた色に染まってしまう。
白洲正子『日本のたくみ』

んー、これなんかまさに「自然の力にあやかる」で書いたことですよね。物をつくることを知るというのはこういうことなのだろうと思う。物を作りながら物を知っていく。それはことばにできる知であるよりも、もっと繊細で感覚的な知であることも多いのだろう。

人と物をつなぐデザイナーの本来の仕事

この本では石工や木工の職人も紹介されていますが、彼らがみな道具そのものを自分でつくっているのもそういう繊細な感覚を手の延長である道具にも必要としているからなのでしょう。

「道具は人間が造ることができるけれども、砥石は天然のものだから、造るわけには行かないからだ」
白洲正子『日本のたくみ』

というのは、「なぜ職人が道具より砥石を大切にするのか」という白洲さんの問いに対する、木工職人の黒田乾吉さんの答えです。

ただ、こうしたたくみの技をもった職人も、人びとの生活文化が変わったことで物はよくても用途そのものがなくなってしまい、職を失っていくこともあります。職人のなかにも人びとのニーズにあわせて作るものを変えていける器用な人もいますが、そうでない人も多い。

焼物の福森雅武さんなどは「ふるいものを模倣することがいやなので、現代の生活に合った日常雑器を造りたいのであろう」と白洲さんが評価しているとおり、時代の変化のなかでも生き残っていける感覚を持ち合わせた職人なのでしょう。でも、やはりそうではない人もいて、名前をあかさずに登場している白木の杓子の職人などはまさに土産物の杓子に押されて職を失いかけていたりもします。

僕はそこにこそ、人と物をつなぐデザイナーの本来の仕事があるのだと思います。よい腕をもった職人を活かすために、人と物の関係を整理し直して再構成してあげる。あるいはそれあ職人の腕を生かすことではなく、技術を活かすための再構成でもいい。そうしたプロデュース、ディレクションの仕事が本来デザインをする人に求められる一番大事な仕事であるはずです。

目利きの力=物を観る力

ただ、本来、そういう役目を担うデザイナーがその職務を忘れ、人が望むものを明確に職人に対して注文することができず、また、できた品物の善し悪しを利用する人の視点で厳しく評価する目を失い、さらにそのことによって客=利用者への責務をないがしろにしてしまうような傾向があります。

自分に見る目がなければ、それを作り手である職人に的確に指示することもできないでしょうし、できたものを厳しく評価することもできないでしょう。
僕が最近、目利きの力=物を観る力を養う必要があることを繰り返しているのも、それゆえです。それには白洲さんがいつも書いているように、自分で選んで失敗して時には痛い目をみることで学んでいくということが必要なのでしょう。いつも他人の評価ばかりで物を選んだり、無難な選択ばかりしていては、自分の目を養うことなんてできるはずもないのだから。

もちろん、それは職人によるものづくりではなく、機械生産のものづくりでもいっしょです。いや、職人のような手業で物のよさを創造的に引き出してくれる余地がない機械生産ではなおさらデザイナーの人の要求を知り、それを物の品質へと落とし込むスキルにかかってくるものは大きいはずです。だからこそ、僕らはもっと自分の「観る力」を日々養う努力をする必要がある。

それにしても、白洲正子さんという方の目利きの力には、その著書を読む度、いつも驚かされます。そして、その度に自分ももっと精進しないという気になる。

白洲さんの本は僕にとってそういう栄養補給の役割も担ってくれています。



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2009年02月16日

第3回情報デザインフォーラム:参加者募集

久しぶりに情報デザインフォーラムに関する告知です。



3月27日(金)に、第3回情報デザインフォーラムが以下のとおり、開催されます。
今回はアップルでユーザーインタフェースデザインの研究や実践をされた増井俊之さんの講演があります。

増井俊之の「界面潮流」http://wiredvision.jp/blog/masui/

タイトル
第3回情報デザインフォーラム- インタラクションデザインの未来
主催
情報デザインフォーラム、千葉工業大学ユーザーエクスペリエンスデザイン研究室
場所
千葉工業大学津田沼キャンパス(JR津田沼駅より徒歩3分)7号館1階
日時
3月27日(金)16:30-20:00
定員
60名(先着順)
参加費
2000円(学生は無料)
内容
  • 16:30-18:00 基調講演、増井俊之氏(元アップルコンピューター)
    「インタラクションデザインの未来(仮)」
  • 18:00-18:30 パネルディスカッション
    増井俊之氏と情報デザインフォーラムのメンバーによるパネルディスカッション
  • 18:40-20:00 オープンディスカッション
    パネル発表と参加者によるディスカッション

ご興味のある方は、こちらのページからお申込みください。

 

2009年02月16日

キャプションをオンラインに根付かせるために。(日本語訳)

Webアクセシビリティというものは今やよく知られるようになった。また、Webアプリケーションもかなりアクセシブルになってきている。徐々にWebアプリケーションのアクセシビリティも一般的になりつつある。よくやったものだ。

しかし、仕様がはじめて求めてからほぼ10年間、オンラインキャプションはほとんど浸透していない。たぶんこの状況は政府の規制によって変わっていくだろう。

政府の規制とは思いも寄らなかっただろうか。仮にそうなったとしても、ほとんどオールドメディアがいない自由主義者の場所だとWebを見るだろうか。驚かないでほしい。規制はすぐそこまで来ている。その上、その規制がオープンな標準技術を用いるのであれば、その動きを支援するべきだ。

キャプションは必要だ。ただし、現実的には…。

A List Apartを読んでいれば、聴覚障害や難聴のユーザのためにWebアクセシビリティの仕様がマルチメディアにキャプションをつけるように求めていることを知っていると思う。WCAG1(またはsamurai correction)、WCAG2Section 508、全て同じだ。オンラインのビデオにキャプションを付けねばならない。

いくつかの仕様においては音声転写でも構わないとしているが、短くシンプルなビデオ以外は使いものにならない。ほかの仕様では手話も認めているものもあるが、"Deafness and the User Experience"(訳者注:日本語訳)にもかかわらず、マイノリティーの中のマイノリティーに対してしかアクセシブルにすることができない

クローズドキャプションは解決ではなく問題なのだ。

オンラインキャプション。インターネットプロトコルによって届けられる全てのもの、iPodにダウンロードされたものも含め、これをオンラインキャプションと定義づけてみよう。しかし、オンラインキャプションなるものはほとんど存在していないとクローズドキャプションの陣営は主張している。言い換えれば、キャプションを自分でつけなければならないからだ。これは、みんなのために1つのチャンネルが働くというテレビ放送の時代からの失敗の遺産である。これが放送業者の意図の裏に隠されたキャプションの理由なのだ。

しかし、放送業者のクローズドキャプションがオンラインの世界でもうまくいくという証拠は全くない。オンラインの世界ではみんなが自分の好きなようにさまざまな種類のビデオを選べるからだ。耳がよく聞こえる人たちからキャプションを隠すためにクローズドキャプションは存在するのであって、キャプションを必要としたり、オフにしたことがない人たちにキャプションを提供するためではないのだ。

Closecaptioningはそれなりにはよく知られている(訳者注:今までの言葉がクローズドキャプション、こちらはクローズキャプショニング)。5年以上キャプションに携わっている人たちは何らかの形でクローズドキャプションに携わったことがあるはずだ。それから、オンラインビデオのためのいくつかのクローズドキャプションの仕組みを活気付けるために、この仕事に従事する人たちは全力で試行錯誤している。みんな、よく知られているものだ。

4つの有名なオンラインビデオの種類(QuickTime、Windows Media、RealPlayer、それらを全部食べてしまったFlash) は1つ・複数・普通はいくつかの方法でクローズドキャプションを技術的にサポートしている。そのため、どのビデオフォーマットもそれぞれ特有のクローズドキャプションを必要とする。もしBBCのようなビデオをiPlayerやほかのプラットフォームのためのフォーマットに変換するとして、これを考えてみよう。手持ちのキャプションのフォーマットも変換する必要があるだろう。簡単に聞こえただろうか?「なぜなら単なるテキストだから」。しかし、そう簡単ではないのだ。

  • Unicode文字のエンコーディングに頼ることはできない。システム自体のエンコーディングを優先するようになっているかもしれない。もしくは、テキストファイルのエンコーディングに頼るかもしれない。単に1つの宣言だけではよくないかもしれない。ベストを願うばかりだ。
  • キャプションの位置はいつも同じわけではない。はたまたプラットフォームを越えていくつかの方法でサポートされているかもしれない。(例えば、RealPlayerではキャプションが右揃えをしない。)なぜキャプションの位置が揃わないのか、今の僕たちには分からない。(イギリスのキャプショナーはすべてのキャプションを画面下の中央ででほとんど合わせる。)色についても位置と同じようにサポートされているわけではない。
  • フォントもキャプションでどこだってバラバラだ。しかし、モノスペースのフォント(例えば、アナログTVのキャプションシステム)を採用しているキャプションのソースはプロポーショナルなフォントに変換したときに、認識できないような形に壊れてしまう。Arialのようなあまり先端的ではないフォントであってもだ。(キャプションの先頭にいくつもの小さな空白文字を入力して、キャプションを中央寄せにしたことはあるだろうか?これらのスペースは崩壊の原因になる。)

オンラインビデオのクローズドキャプションは2つまたはそれ以上の数のファイルを原則的に要求する。ビデオファイル、キャプションファイル、そしてその2つのファイルを関連させるためのファイルがたぶん三つ目だ。離婚しないような本当に幸せな核家族かとそのファイルを見て自問するのだろうか?

プレーヤーはどうだろうか?みんなはキャプションのオンやオフにどうやってやっているのだろう?マウスでしか操作できないのだが、YouTubeのテクニック(下を見てほしい)は悪くはない。(一般的には忘れられている)UAAGや一般常識に反するようなこのインターフェースは正確には不完全であり、アクセシブルでもなく、テストもされていないデザインであって、すべてのプレーヤーに期待できるようなものではない。

今まで述べたきたことがオンラインビデオのクローズドキャプションに対する問題の一部である。しかし、キャプションの問題を指摘するふりをしている人たちはこの道を大急ぎで走っていく。一般的なアプローチにおいてクローズドキャプションはオンラインビデオではうまくいかないと私は何年も言っている。このことを伝えるのが私だけになって、みんなが私の言っていることにうんざりしたとしても、それが正しかったことがいずれは分かるはずだ。

代替策はないのだろうか。オープンキャプション、みんなが見えるキャプションだ。キャプションされたビデオとキャプションが入っていないビデオ、2つのファイルを用意する。1つを選び、作業できる。タイポグラフィの問題はより重要になる。動画を検索できるようにするための外部ファイルを用意する。しかし、オープンキャプションはそこで正しく、面倒もなくうまくいく。

ボランタリーなアプローチ

これまでオンラインキャプションは厳密には自主的なものだった。では、どうすればオンラインキャプションはうまくいくようになるだろうか?あまりうまくいっていないのだ。オンラインキャプションは事実上存在しておらず、問題を改善するための唯一の試みがうまくいっていない。

もちろん、GoogleのYouTubeがキャプションをサポートすることを表明したという喜ばしいニュースもある。私たちはみなこのニュースに拍手喝采を送っている。しかし、事実、YouTubeが改善されることで、キャプションと字幕の混乱は揺るぎないものになってしまった。YouTubeが作った説明用ビデオはキャプションと字幕をまぜこぜにして、正確に区別しようとしていない。(また、手話を使えない人に対して手話をアクセシブルにする方法は字幕を入れることだけだとこのビデオは宣伝してしまっている。視覚障害者は手話が見えないし、字幕も読めないのだ。)

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実際にはYouTubeのプレゼンテーションフォーマットは字幕を下の中央にタイトルをつける、典型的に2行が限度だ。(でも、たまに4行でも表示される)そして、タイポグラフィがあまりに考慮されていない数多くのケースの1つでもある。白色のHelvetica、もしくはArialで黒色のマスクが読めることを期待するしかない。

今と昔を結ぶGoogleビデオのキャプションのサポートについてのYouTubeのアナウンスも十分ではない。(2006年に出たAOLからのアナウンスをみんなが忘れてしまっているようになるのではないか)1年経ってGoogle Videoでキャプションがつけられたのはまだたった100の動画だ。そのうちのいくつかは単なる字幕であり、キャプションではない。これはいかなる基準で評価したとしても失敗である。キャプションは検索できるとYouTubeのキャプションのページにははっきりと書かれているが、キャプションがついたすべてのビデオをYouTube上で検索できない。だから、本当はいくつのビデオがあるかを知っている人はいるのだろうか。十中八九、そんな人はいないだろう。

キャプションを検索できるという仕掛けは重要だ。まず、アクセシビリティのためにGoogleはキャプションを追加した。しかし、本当の理由はビデオを検索可能なものにすることなのだ。Google Videoとしては時間を記した音声転写をアップしてほしい。すると、限られたスピーチを認識するサービスをこれとは別にローンチできる。私もすべてを検索できるようになってほしいが、もう少し誠実さがあってもよいのではないか。聴覚障害者を助けるためではなく、ビジネス上の理由でGoogleはそのほとんどを行動している。(そして、今、Googleはみんなのためにキャプションを機械翻訳すらしてくれようとしている。機械翻訳はほかのどこでも同じよにうにうまくはいかないだろう。)

YouTubeのアナウンスで5000のフリーなキャプションのビデオを持つSubPLYやこの分野におけるほかのスタートアップ(DotSUBTubeCaptionなど)をいくつかの理由のためにTechCrunchは後援した。TechCrunchのアナウンスで取り上げられたスタートアップは現実的な字幕のためであるが、これもまた混乱であった。そして、そしてその結果も大したことはなかった。右上のボタンのせいで読みにくい2つのキャプションが挿入されるだけだ。

f:id:aratako0:20090217022728p:image

自主的なクローズドキャプションのシステムの多様性をGoogleは改善もした。もちろんうまくいっていないし、今までもうまくいったこともない。

法的なアプローチ

オンラインビデオにキャプションを求めるような法律や規制が可決されるかもしれない。

  • 将来予測できる範囲では米国では何も変わらないだろう。障害を持つアメリカ人法(最近改正された)に対する規制は、映画館やスタジアムにおけるキャプションを含むことまで広げられるかもしれない。しかし、そこまでだ。オンラインのアクセシビリティに広げるための草案(PDF)がまさしくこのことなのだ。法律である。
  • カナダでは、あまり知られていないが、CRTCによって2008年11月に放送の規制における重要な公聴会が開催された。その場では、なぜ放送業者のWebサイトがW3Cに準拠されていないのかを立証するように指摘している。これは意味があることになり得る。ただし、オンラインビデオにキャプションがつけられるだろうということは確実だ。ほかの議論もされている、オンラインキャプションを求めるいろいろな議論があった。これは始まりであろう。だから、CRTCが放送を規制するために強化されるような法律はインターネットに適用されない。しかし、別の公聴会が開かれたあと、それは変わるかもしれない。
  • しかし、カナダの機関(Charter of Rights and Freedoms)やCanadian Human Rights Actはおそらくほかの法律制定から取って代わってしまう。要するに、差別から自由になる障害者の権利は信頼に値する切り札なのだが、当てにならない。インターネットは規制できないし、するべきでもない。
  • さらに、オンタリオ州における規制は大企業やグローバル企業がやっていビジネスを全てキャプションするように無意識に求めてしまうかもしれない。
  • オーストラリアでは、遅れに遅れて上院がキャプションに対する調査を進めているかもしれないし、進めていないかもしれないが、上院の審議文書では明確にオンラインキャプションを求めている。全ての番組をちゃんとキャプションしていなかった見返りとして、オーストラリアのテレビ放送業者に課せられていた起訴の期限切れのあとというタイミングが出来すぎている。3つのうちの1つが起こるだろう。何も起こらない、新しい法律、キャプションに対する見返りとしてのほかの権利免除。

カナダやオーストラリアのケースは重要だ。一度どちらか、またはどちらもの民主主義国家がオンラインキャプションを求めれば、ドミノのように一気に倒れる。アメリカでもその影響はあるだろうが、もちろんMotion Picture Association of AmericaやNational Association of Broadcastersはどのキャプションの要求とも争うだろう。しかし、カナダやオーストラリアもまた英語を話すので、そのキャプションを求める声はアメリカでも聞こえるようになるだろう。カナダやオーストラリアではキャプション付きのビデオを提供し、アメリカでは同じビデオをキャプションなしで提供するのは実際には不可能になる。最初にたった一つビデオを手に入れている。それがクローズドキャプションに取り組んだ理由だ。

誰が標準を書いているのか。

オンラインビデオの標準化に関する全体の問題をどのように解決しようとしているのか。答えは、その解決のプロセスから何かを得られる組織が新しい標準化の指令をすることによって、である。

はじめに技術がある。その同意という問題がある。大まかに言うと、オンラインキャプションに対する技術的な標準は解決している。十分なドキュメントはないし標準もまた質がよくないかもしれないが、確立されてはいる。

それより問題なのは方法論である。あなたはどれくらい正確にキャプションを作れるだろうか。30年間、この問題は意見が分かれ、何も生み出してこなかった。私にはちょっとした固定観念がある。いくつかの家族経営のキャプショナーはその場に応じて何とかやっている。その反対側で、委員会における無意味な対立するイデオロギーというのもあるのだが、どちらも事実には基づいていない。

致命的に難しいのだ。私の時でさえ、馬鹿馬鹿しいアイディアを完全にぬぐい去るために、尻ぬぐいをするための3フィートもの参考資料や調査報告を持っていた。しかし、結局は誰もキャプションの方法を知らないのだ。その代わり、みんな、自分のやり方が一番だと主張する。本質的に、聴覚障害者に対するビデオアクセシビリティは意見に基づいている。しばしば下手な正当化をされ、仮に正当化されたとしても、熱烈に歓迎される。こんな状況全てが広い意味でキャプションサックスという理由なのだ。

今もなお誰が標準を描いているのか。

  • カナダではCRTCが何とか形を作った。Canadian Association of Broadcasters(CAB)と交渉をして、カナダ人のキャプションのためにもう1つの標準と呼ばれるものを作った。完全に秘密裏で。著者たちはキャプションの専門家ではない。(何人かは聴覚障害者である。ただ、そのことが問題かのように、キャプションの標準に失敗した著者も1人入っている)その標準はユーザテストもされないだろう。これは、CABが以前挑戦(PDF)し、散々な結果を招いたものと同じようなことだ。2008年11月の公聴会までに全体のことは実行されないだろう。
  • 行間を読むと、CRTCは放送業者、たぶんネットの事業者にもに強制し、規制することを主張する産業によって書かれたような標準を使うように計画している。自主規制の産業は2008年の最大の物語の1つだ。ニュースはCRTCに届き損ねたらしい。自主規制は大型融資においてと同じようにキャプションにもよく働くだろう。違いはどれくらいのお金が動くかくらいだ。
  • アメリカでは、Google、Yahoo、AOLやMicrosoftがインターネットのキャプションのフォーラムの設立を表明した。そのアナウンスをブログで読んだ人もいるだろう。ブログ以外で読んだかもしれない。この事実のようにWGBHと4つの会社が共同することを訴えているが、WGBHはプロジェクトを本来運営するのだろうか。
  • WGBHはボストンの公共放送局だ。WGBHはアメリカのテレビでもっとも早くオープンキャプションをし、30年間ずっとキャプションもしている。私は心から応援していた(1970年代にWGBHにタイプライターで打った手紙を送っていた)、そしてその作業工程に何度も訪れたこともある。しかし、WGBHのメインのキャプション業務を閉鎖するという特にそのバカらしい決定は私の自信を揺るがした。WGBHは封切の映画のキャプションのための技術に投資した、そしてオンラインキャプションで多くの仕事を成し遂げた。CABのようにWGBHは秘密裏に動いた。そしてその道はすべてWGBHにつながっている。
    • 利害関係を調整し、AOLのアクセシビリティマネジャーは以前WGBHで働いていたことがある。だから、このフォーラムはWGBHの生粋の業務なのである。公式のURLのInternetCCForum.orgでさえ、WGBHにリダイレクトされるのだ。そして、Mozillaがそのキャプションの問題の解決策を探している場所はどこだろうか?もちろん、WGBHだ。
    • 非営利のWGBHはキャプションマーケットでは活発的な競合なのだ。これはお金の問題だということだ。例えば、シンプソンのテレビをアメリカかカナダで見るとすると、それはWGBHのキャプションを見ているということなのだ。偶然の一致ではないが、YouTubeが提案したキャプションのサービス提供者のリストの一番目がWGBHである。
    • WGBHはYouTubeでは動いておらず、PDAにおけるキャプションの調査のために(航空機と)すでにアメリカ連邦の交付金を手に入れている。最近のニュースレターでは、フォントやほかのトピックの好みのためのユーザテストというテーマが扱われていた。HDTVのフォントにおける平均以下の調査を発表した組織と同じなので、PDAユーザがArialやCourierのどちらかを問われることを私は少し期待している。

どのようにすれば全部うまくいくのだろうか?キャプションのように複雑なコミュニケーションメディアのための標準を策定するのが秘密裏に行われてよいのだろうか?私はそうは思わない。

法律の出番

放送業者やインターネットの巨人たちは内部で完結させることを選ぶ。もしそれが難しければ、自分たちが予測できる結末を望むものだ。彼らは失敗だと証明されるような脆弱なシステムを望んでおり、その間に自分たちで解決してしまおうとしているように見える。

キャプションの量を増やすたった1つの効果的な方法は現実的には兆しが見えている。その方法は現実に勝ちを掴むために法的な力を使うことだ。それ以外はうまくいっていない。

キャプションはオンラインアクセシビリティの月面における巨大な噴火口だ。Webアクセシビリティをサポートし、アクセシビリティとは視覚障害者だけのものではないのであれば、オンラインキャプションをサポートする必要がある。たぶんほかにもやるべきことはあるだろうが、今それを話すことはない。

単なる公正さやWebはアクセシブルになり得るという技術的事実を超え、オンラインコンテンツをアクセシブルにするという本質的な理由がある。それは障害を持つ人たちが権利を持っており、その権利を真実だと証明することに必要な基準にも賛同する必要がある。多くの国で放送業者はすでに規制されており、キャプションを提供しなければならない。映画館のオペレーターも少しはやっているところもある。

本質的に、私たちがアクセシブルにするものは動く画像、つまりフィルムやテレビ、ビデオだ。スクリーンキャストのようなほかのものかもしれない。しかし、根本において配信方法は問題ではないべきだ。

聴覚障害を持つ人がキャプションと共にテレビやビデオを見る権利があるとする、その人はキャプションがついたオンラインビデオも見る権利があるということだ。自発的なアプローチでビデオをアクセシブルにすれば利用可能というわけではないのだ。法律や権利規制は必要でもあり、不可避でもある。あなたはそれらを支持するべきなのだ。

この状況がインターネット全体に対する規制のドアを開くことになるだろうか。たぶんそうはならない。もしくは少なくともみんなが心配するような事態ではないだろう。存在する法的な制約の中ではまだ何を公開してもよいのだ(インターネットは既に規制されている)。単にいくつか、もしくは全てのビデオをキャプションしなければならないということなのだ。もう一度言う。私はあなたにこれを支持してほしい。

勝ち負けのお金を持つ関係者だけでいつの間にか秘密裏に技術的仕様もキャプションの方法も決定されるべきではない。産業界による既成事実がまかり通ってしまう前に、「標準」に基礎を置いたキャプションを法的に作ることが解決策の1つである。オンラインアクセシビリティの政府の規制は標準に準拠したオープンな形に基づくべきだ。

もし、これでダメなら代替策はあるだろうか?ほかにまともにできそうなことは?

実行しよう

  • CRTCのヒアリングのページのアクセシビリティについてコメントを送ろう(それがどのようなものかを指摘するとさらによい。このコンタクトリストにメールを送ってみよう、Sylvie Bouffardへ。もしくはメインのコンタクトフォームを使おう。)2008年の冬前にやっておくともっとよいのだが、このプロセスは早くても2009年1月12日までは決定されないだろう。
  • もし以下のことに賛同してくれるのでれば、少なくともオンラインビデオのいくつかの種類はキャプションされるべきだという考えをCRTCに伝えよう。その上でキャプションはオープンな標準に基づいた方法で作られたものであること。
  • 私や私の研究プロジェクトのOpen & Closed Projectを明確に支持してほしいとは頼まない。30年以上のような長い期間、大打撃を与えようとする放送業者によって書かれた標準などは考えていないとCRTCに伝えてほしい。もちろん、それを信じてくれればだ。そしてほかの何かを信じるのであれば、代わりにこう言おう。一歩進むためにはカナダにいるべきではない。
  • 独立したアクセシビリティ・アドボカシーグループのMedia Access Australiaはオーストラリアの審議文章へネットで素早くレス(PDF)を送ってくれた。このステップはオーストラリアの住民たちにとってかなり大きな意味をなす。
  • 今、ここにとても重要なことがある。もし誰かが訴訟すると、アメリカで起こるかもしれないことだ。障害を持つアメリカ人法においていくつかのコンテンツプロバイダーに対して、キャプションされていないビデオの数は差別ではないかと1人か複数の聴覚障害者に訴訟させる必要がある(できれば集団訴訟で)。
  • 少なくとも、異なる形式の表現のために(テレビやホームビデオなど)前もってキャプションされた動くオンラインの画像もキャプションされるべきだという事例にされるべきだ。
  • 失敗を運命づけられていると考えるべきではない。神ではなくお金持ちの会社に異を唱えているだけなのだ。有名スタジオはDVDキャプションにおける集団訴訟に対して和解した(素晴らしい和解でもないが、何もしないよりははるかにマシだ)。そしてAppleはアクセシビリティを改善した。現実的に政府や視覚障害者のグループからの訴訟を避けたのだ。

動くときだ。

自発的なオンラインキャプションはうまくいっていないし、今後もうまくいくことはないだろう。オンラインにキャプションを持ち込む唯一の方法は、それを義務にすることだ。そしてキャプションははじめからいくつかの産業が牛耳っているのではなく、オープンに開発された標準に従ってなされるべきものである。

訳者より一言

アクセシビリティを学ぶ人であれば、ビデオにキャプションをつけないとならないというガイドラインをどこかで一度は見たことがあるはずです。僕もその一人ですが、そういうビデオを実際に見たことがある人、そしてつけたことがある人は皆無なのはないでしょうか。

また、当記事でも触れているボランタリーな仕組みに頼ってどこまでうまくいくのかという問題はあります(そういえば日本の一部のアニメが字幕付きでYouTubeなどで流出してることありますけど、海外で販売されていないようなタイトルは誰かがボランタリーにやってるんですかね)。

訳しながらいろいろと考えてみたんですけど、確かに政府の規制+オープンな環境における標準の仕様の議論という以外に解決策が思いつかず。うーん、でもその仕組みって果たしてちゃんと動くんだろうかと疑問に思ったり。

にしてもちゃんと読みたかった記事だから後悔はしていないですけど、長すぎ+予備知識の量が半端じゃない...疲れた。

2009年02月15日

松岡正剛さんの本に関するブックリスト

松岡正剛さんの本も結構な数を読んできたので、このあたりで一度まとめてみてもいいかなと思ったのでさっそく。

現時点で読んだのが今日紹介する14冊。
とりあえずこの14冊をブックリストとしてまとめておきますが、松岡さんの本のよいところは、それ自体が様々な本への扉を開いてくれるブックリストとしても機能する点だと感じます。
僕自身、松岡さんの本を読んで興味をもつようになった本は数多くあります。どのくらい多いかというと、興味をもっても読むのが追いつかないくらい、様々な方面に対する好奇心の目を開いてくれます。

何より日本を見つめるさまざまな視点を教わったことが大きい。
いまの僕らはあまりに日本を知らなさすぎます。無知であり狭い視野しかもたないがゆえに、形骸化した観念のみで日本を想像してしまいます。自ら日本をつまらなく退屈なものとして想像してしまう。でも、実際の日本は松岡さんがその編集工学的手法を駆使して紐解いてくれるように、多様な魅力をもった豊かなイメージをもっとものです。

そんな日本の多様で魅力あるイメージを紹介してくれる松岡さんの様々な本をここでまとめておこうか、と。

※書名のリンク先は当ブログの書評エントリーです。

方法日本

松岡さんは日本を主題(テーマ)としてみるのではなく、方法としてみます。日本の方法ではなく、日本という方法です。和歌や俳句、能や文人画、禅庭や数寄屋造りなどにみられるような省略が利いた「静かな日本」「和魂」のスタイルがある一方で、歌舞伎や日光東照宮の装飾や、辻が花染めや織部焼、祭りの山車や神輿のような華麗で過剰な「賑やかな日本」「荒魂」のスタイルが同居する。どちらか一方のみをよしとするのではなく、両方とも抱え込んで、和漢や和洋を巧みにアワセ、漢字仮名交じり文字を使い、カレーライスやたらこスパゲティを生み出しながら、多重で多層にイメージを重積していく、重ね合わせていく。それが方法日本であり、日本という方法です。そうした方法日本のおもかげを松岡さんは様々な著書で、さまざまなものをテーマにして描きだしてくれています。ここでは次の5冊を紹介しておきます。



日本という方法―おもかげ・うつろいの文化
アワセ・キソイ・ソロイという日本的な編集方法、創作方法に「日本という方法」を見出しながら、和歌や茶の湯、神話や仏教、そして政治や経済のシステムなどのなかにも「日本という方法」が駆使された日本のおもかげ・うつろいを探っていく一冊。東アジアの片隅に南北に長い列島として華々しく移り変わる四季のある自然環境をもった国が歴史的に蓄積してきた「日本という方法」を浮かび上がらせる。
連塾・方法日本1 神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く
2003年7月の第1回からの連塾で濃密な講義を収録した一冊。「方法日本」を各回のテーマに即して熱く語る松岡さんのライブ感のある講義の模様が文字を通しても伝わってくる。最初の3回を収録した一冊ではサブタイトルにもあるように神と日本、仏教と日本のアワセがいかに「方法日本」を形作り、それが現在の日本の基盤をなしているかが熱く語られます。「日本によって日本を破り、日本によって日本を掬うということが求められている」。松岡さんはここで、日本人自身が日本についての説明をもっと深め、もっと研ぎ澄ますことが必要だと説いています。この本は、その説明を各自が考えるためのガイドブックとしては最適。
山水思想―「負」の想像力
「ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」。この1970年に亡くなった日本画家・横山操の最期の言葉を出発点として、中国で生まれた山水が日本の山水に変化していく様に「日本という方法」を浮かび上がらせる。風景論として山水画を見、単に風景の問題を山水画のみの問題としてではなく、和歌での景色の選びかたや詠みかたや、禅庭の作庭とも結びつけている。<もしわれわれが「方法」を見失っているというなら、われわれは「山水という方法」の中にいたのだということを思い出すべきではないか>。山水というひとつの主題にフォーカスすることで、「方法日本」のディテールにぐっと踏み込んだ一冊です。
花鳥風月の科学
「山」「道」「神」「風」「鳥」「花」「仏」「時」「夢」「月」を日本文化を彩る10の主題として捉えながら、日本という方法をマルチメディアな情報システム的な視点から探っていく一冊。10の主題にひとつずつ焦点を充てていくことで、花鳥風月という漠然とした風物や現象にはダイナミックな動向があり、花鳥風月の科学にも不思議がいっぱいあって、科学の側でもうまく解明できていないばかりか、科学者の目にもどこか花鳥風月のもつ物語性のようなものが要求されていて、それは科学とはいえ自然の前の人間の受け止め方のシステムにも問題をおくべきであり、これからの科学は「情報」をとりあつかうべきで、それには情報の概念を大幅に広げなくてはならないということを示唆していきます。
日本数奇
世阿弥のつくった複式夢幻能や利休が大成した茶の湯は、マルチメディアな情報システムだった。祭りや芸能は「中・奥・辺」の構造をたくみにシミュレーションするシステムのひとつだ。縄文の縦櫛が弥生の横櫛に変わっていったのもよく見れば「眼の編集」ともいうべき文化的な編集のプロセスがあった。梅や桜、唐草や咋鳥などの文様や意匠の系譜、神社の空間や仏壇のしつらえ、利休や織部などの茶の湯の文化の仕掛け人、和算や江戸の人口知能、日本の歴史上にあらわれた様々な数寄の試みを通して見えてくる「日本という方法」に焦点をあてた一冊。


  
 

世界と日本

松岡さんによる「日本という方法」の探索の試みは単に日本にのみ着目して行われているのではありません。世界の動向のなかに日本の動向を関係づけて探っていくという試みも数多くなされています。そういった視点で書かれた代表的なものがこの3冊です。



17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義
もともとは帝塚山学院大学・人間文化学部向けに行われた講義を再編集して収録された一冊。世界と日本の「人間文化」という視点から5回の講義によって俯瞰していく。「日本」を世界から孤立した島国として捉えるのではなく、世界的なつながりのなかで、その動向を探っていく。その守備範囲は古代の神話の世界から宗教が芽生えた時代を経て、おおよそ中世前期までにわたります。その範囲での世界と日本の歩みが、人間は生物であり、生物とは生命であり、生命とは情報であるという基盤の上に語られていきます。
誰も知らない 世界と日本のまちがい
『17歳のための世界と日本の見方』の続編的な一冊。従って、その守備範囲は中世後期から近世、そして、近代にいたります。エリザベス女王は織田信長の一才年上なんて形で、世界と日本をつなげてみます。エリザベス女王も信長もおなじく自国の外にその力が及ぶ範囲を広げようとした人ですよね。そこにはネーション・ステートの問題と資本主義の問題が背景として横たわっている。それを語る本書のタイトルに「世界と日本のまちがい」とつけられているんです。これもぜひ読んでほしい一冊です。
フラジャイル 弱さからの出発
この一冊で松岡さんは、弱点、欠陥、不足など、従来は「強さ」の陰に追いやられてきた弱々しくフラジャイルなものに焦点をあてる。「民主的であれということ、泣きごとを言わないこと、戦いは正々堂々とすること、付和雷同しないこと、個性を磨くこと、男は黙ってサッポロビールを飲むこと」、従来、僕らが教わってきた美徳には、弱さに着目した視点が欠けています。それは網野史学が見出した中世の職能民の自由や南北朝期を経た社会的構造の大変換にともない、それらが賤視・差別化されていく様を見事に隠してしまった結果ともとれます。ただ、それは決して日本だけのことではない。強さによって弱さを排除すること、差別化することで、世界は現在のシステムを稼働させることを可能にしている。ただし、それは必ずしもうまく機能しておらず、現在さまざまな問題を露呈している。「もはや大声によるプロパガンダを拒否し、あて小さな声に耳を傾ける時期が来ているようにおもわれる」という松岡さんの結びのことばにあらためて耳を傾ける必要がある。


  

ことば・文字

編集工学的な方法を用いて、「日本という方法」、そして生物である人間にとっての情報を常に視野にいれた松岡さんの思考において、ことばや文字というもののもつ意味は大きい。ここでは白川静、良寛、空海という日本の歴史上、ことばや文字に対して大きな貢献を果たした3人を扱った3冊を取りあげておきます。



白川静 漢字の世界観
白川静さんの学問の世界をわかりやすく新書にまとめた一冊。松岡さんは白川静さんの学問に目を向けることは<「文字が放つ世界観」を覗きこむことであり、古代社会このかたの「人間の観念や行為」をあからさまにすること>だという。これは白川さんの本を実際に何冊か読んだ僕自身、すごく納得することばです。文字を扱うのに「人間の観念や行為」から切り離して考えることはできません。また、そうした観念や行為が育つ社会の構造やその変化に目を向けずにおくことはできません。なぜ古代においてのみ文字の創出が可能で現実化したのか。なぜ、いまそれは不可能なのか。そのことを考える上でも非常に参考になる一冊です。
外は、良寛。
江戸末期、もはや禅などの仏教も力を失った時代に、禅僧として生きた良寛。「良寛は書くことで、書くことを捨てている人です」と松岡正剛さんはいいます。ことばも書くという運動も消えていくが、書は残る。禅では不立文字のことばもある。何かを知るということは何かを忘れる、捨象するということ。西洋ではその矛盾を弁証法において止揚するが、日本においては矛盾を止揚することなく、矛盾は矛盾のまま、その極を消していく。そこに松岡さんは「日本という方法」をみる。江戸末期において良寛は、万葉集や古今和歌集の時代をみている。そして、それは近代に入って日本文化から消えて行ったものです。<良寛は「はかなさ」を超えたわけではない。むしろ「はか」の有り様そのままを遊んでみせた。あったりなかったり、出たり入ったりするその「はか」に遊んでみせた>。万葉集や古今和歌集が消えた現在をただはかなく思うだけでなく、良寛のようにその「はか」を遊んでみせる方法を生み出すことが必要かもしれません。
空海の夢
空海を通して東アジアの動向を探る。この『空海の夢』はそんな大きな一冊です。<「坐る」とは東洋の恐ろしい発見だった><右脳に直観、左脳に方法をもって・・・><空海の構想には遠慮がなさすぎたのだとおもう。日本人はたとえそれが真実であれ、あまりにあけすけに「構想の全体」が提示されることを容認したがらない>。空海という天才が編んだ東アジアの巨大な思想、そして、曼荼羅というイメージには、まさに様々な「日本という方法」「日本的編集方法」が躍っている。古代の祭祀を司る氏族であり、文字のない時代に古言(ふること)を司る力をもっていた佐伯氏の出身である空海が、挑んだことば・文字、そして、イマジナリーな世界。それはひとつの「日本という方法」の極点でした。その歩みがこの一冊で見事に紐解かれています。


  

編集工学

松岡さんといえば「編集工学」。ただ、松岡さん自身が「編集工学」について語った書はそれほど多くありません。



知の編集工学
情報が情報を呼ぶ。情報は情報を誘導する。そして、情報はひとりでいられない。情報はそれ自体、編集へと人びとを誘います。そんな情報の性質に目を向けながら、編集とは何か、それがこれまでの人間の歴史において何を編み出してきたかを紹介してくれる一冊。情報、編集が生みだしたものは大きい。例えば、<コーヒーハウスや茶の湯は、経済と文化をひとつにしたことにめざましい特徴がある>と、ここでも世界と日本の動向を関係づけながら、情報があふれた場であるコーヒーハウスという場でかつてジャーナリズム、政党、株式会社、広告、クラブが生まれ、それが現在も稼動するシステムのモジュールとして生きていることにも着目します。ほかの著作とはすこし違った視点から松岡さんの思考を眺められる一冊です。




対談・講義集

対談における松岡さんは、単著とは違った面を見せてくれます。ここではそんな異分野の方との対談と講義集を紹介しておきましょう。



二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑
理論物理学者の佐治晴夫さんとの対談集。視界にはいるものがすべて輪郭をあいまいにしていくトワイライトの世界で、ここでは文学や科学、仏教や工学が混じり合って溶け合って、普段とは異なる表情を見せてくれ、それがとても面白い。宇宙のはじまり、生命の進化、意識の謎から、恋愛や感性のトキメキ、数学の美しさや失望の香ばしさなど、実に幅広い話題を佐治さんと松岡さんの二人による絶妙なオーケストレーションで1つに紡いでいく様は実に魅力あるものです。
脳と日本人
茂木健一郎さんとの対談集。ここで展開される、二人のことばのキャッチボールは実におもしろい。例えば、茂木さんが「現代人は足腰が弱い気がする」といえば、松岡さんは「彼岸に行く足腰がたりない」と応える。おなじ科学者との対談でも佐治さんの対談とはまた違った、人間の思考や感情や知覚を含めた情報システム的な視点で語られることが多い。もちろん、ここでも能における物真似(物学)や浄土と穢土の関係、もどきやうつしなどの日本という方法と生物や組織におけるライトサイズなどの関係など、松岡さんが「日本という方法」を探る視点を見出せます。
デザイン12の扉―内田繁 松岡正剛が開く
松岡さんとインテリアデザイナーの内田繁さんがホスト役となり、養老孟司さん、日比野克彦さん、樂吉左衛門さん、柏木博さん、田中一光さんらを招いて2000年に行われた桑沢デザイン塾特別講座「デザインの21世紀」の講義を書き下ろしたもの。<量に向かうことは、質の変化に克明につき合うことを意味します。そうした経験が、できた瞬間に茶碗を壊すかどうかといった判断力につながるはず>、<個を越えるには、現代では<量>も必要です。トヨタ、ギャップ、ユニクロ等は膨大な量を出しますが、個人でも量を質に変えてゆける方法論を持てるはず>ということばは、デザインやものづくりを考えるうえで示唆的です。


  

以上がこれまで僕が読んだ松岡さんの本。今後も新しく読み終えた本はここに追加していこうか、と。

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2009年02月14日

自然の力にあやかる

梅の季節です。



うちの梅はまだ咲きません。咲くまでにはもうすこし時間がかかりそうです。

梅の盆栽をいただいてから1年経ちました。それをきっかけに、うちにもこの1年でいろんな植物が増えました。
日々、水をやったり世話しながら見ていると、植物の変化ってほんとに面白い。冬を越してこの季節になると梅のつぼみは膨らんでくるし、初夏にはきれいな色の若葉が芽吹きます。5月から夏くらいまではどんどん枝葉を伸ばして成長する。山もみじは秋になれば色づきます。小さな鉢でもちゃんと季節を感じさせてくれます。

そんな植物の面白さと人間はどう付き合うか。付き合ってきたのか。

植物の力

白洲正子さんはこんな風にいいます。

人間に自分に合った家が必要なように、花にも落着く場所が必要で、今の生け花がよくないのは、器のことをちっとも考えていないからね。(中略)人間が摘み取って、器に入れて、部屋に飾って、はじめて花に本当の命が吹き込まれるのだと思う。
白洲正子「"ほんもの"とは何か」『白洲正子"ほんもの"の生活』

また、法隆寺、薬師寺の棟梁であった西岡常一さんはこんな風にいう。

技術というもんは、自然の法則を人間の力で征服しようちゅうものですわな。私らの言うのは、技術やなしに技法ですわ。自然の生命の法則のまま活かして使うという考え方や。だから技術といわず技法というんや。

植物の力というのは切り取ったからといって急に失われるわけではない。古い木造建築をみればわかるように、何百年も場合によっては千年以上も呼吸をしながら建物を支えます。
先日、宮島に行ったときも厳島神社に後白河上皇の時代のものといわれるこんな古木が残っていました。



たとえ伐られたとしても、人間よりもはるかに長い年月を生き長らえる木の力。そして、単に生き長らえるだけでなく、年月を刻んで味わいも増していきます。こんな素材はいくら科学が発達したとはいっても人工的には作れません。

自然の力にあやかる

木だけではないでしょう。竹にしても、石や土にしても、自然の素材のもつ特色を人工的に生み出すことはできません。人間にできるのは、その特色にあやかるくらいです。

ただ、その力にあやかることで人工的に作られた道具や建物などが素材の特色を生かした美をまとうことも可能になる。

美しい材を用いるということは、やがて自然の美しさを讃えているに外なりません。平に削ったりあるいはそれを磨いたりすることは、要するに自然の有つ美しさを、いやが上にも冴えさすためであります。(中略)一つの品物を作るということは、自然の恵みを記録しているようなものであります。

物を作ることで自然のもつ魅力をさらに磨き、それを大事に用いることで自然の恵みを物理的にも精神的にも記録・記憶する。
割り箸を使い捨てたり、紙を無駄に使ったりという生活は、あらためる必要があるかもしれませんが、自然のもつ魅力を活かした物で生活に豊かさ・味わいを与えられるなら、それは生活文化を大事に作り上げていく上でも、もうすこし見直してもいいことだと思います。

緑は石油に匹敵する財産

「デザインとは生活文化をつくる仕事」だと定義する阿部雅世さんもこんな風に言っている。

阿部 世界的に見たら、水を撒かなくてもこれだけ緑が生えてくるというのは、石油に匹敵するくらいの財産なんですけれど、そこに気づかずに、岩肌丸出しの国から高い値段で大理石を買って、それを玄関とかトイレ周りに貼っている(笑)。(中略)この日本の湿気と緑を、もっと財産として認識したデザインが都市空間の中に生れてきてもいいのではないか、と思うんです。

これは日本ほど緑が豊かではないヨーロッパでデザインの仕事をしている阿部さんだからこそ気づいたことなのかもしれませんね。普通に日本に暮らしていると、自分たちに身近な木々が財産であるということを忘れてしまいます。

民藝の時代であれば手に入る素材はそれこそ身近にあるものだったから、自然とその財産をうまく用いていたのでしょう。
ただ、ここ最近、民藝の話を書いてきましたが、何もそれは民藝があふれていた時代の暮らしに戻ろうとかそういうつもりで書いているわけじゃないんですね。いや、実際、戻ろうとしたって戻れない。
そうじゃなく、日本の環境に適していて、かつ日本の財産でもある素材をうまく使ったものづくりを今の時代にあった形で見直し再構成して自分たちの生活に織り込んでいく。それと同時にそれを日本発で世界にも提案していけばよいのだと思うんです。

それはきっとこれまでもグローバル市場で展開してきたような大手メーカーの仕事ではないでしょう。もうすこし規模も小さく、職人の技とテクノロジーをうまくミックスさせたものづくりができるくらいの小回りがきく規模の企業なんだろうと予想します。自然素材を用いるといっても、かつての民藝のようなものである必要はまったくありません。現代のテクノロジー、なんなら、ITも組み込んでもいいでしょう(とはいっても、単に木でできたマウスを作りましたじゃ、あまりにセンスがないですけど)。

レッドオーシャンを抜け出す道

『なぜデザインなのか。』のなかでは、原研哉さんも、マーケティングによって掘り起こされただらしない欲望によって欲しい物を消費していく文化よりも、デザインによって覚醒された生活の方が確実に社会を豊かにし、そのことに早く気がついた経済文化圏が次の時代をリードしていくんじゃないかといっています。それができる財産を日本は持っていて、歴史的にもそれを魅力的にみせる「技法」を培ってきたわけです。
それなのに、世界のどこでも実現できることを特徴とするテクノロジーの土俵で市場を争うレッドオーシャンな戦いばかりをしている。決して、それがなくなればいいなんて思いませんし、それはそれで重要なことも多々あるのですが、一方で、日本だからできる素材と技を用いたブルーオーシャンでの戦いももうすこし仕掛けていく必要もあるのだろうと思っています。

このあいだ、ある会社のオフィスにお邪魔した際、木材をうまく使った空間で、こんな空間で仕事ができたら気持ちいいだろうなと感じました。そういう提案はいまからでもいくらでもできるはずです。今の時代にあった形で自然の力にあやかったものづくりを見直すといったところに、経済的にも文化的にもレッドオーシャンを抜け出す道があるのではないかと思います。

   

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2009年02月13日

「知る力」よりも「観る力」

『手仕事の日本』を紹介した昨日のエントリーでは、ひとつ紹介し忘れた一文があったことに気づきました。

それは次のような一文です。

吾々はもっと日本を見直さねばなりません。それも具体的な形のあるものを通して、日本の姿を見守らねばなりません。そうしてこのことはやがて吾々に正しい自信を呼び醒ましてくれるでありましょう。

物を通して日本の姿を見る。物が人びとの生活を反映する。昨日紹介したなかにも「一国の文化はその国民の日々の生活に最もよく反映されます」との一文がありました。
すこし前に「自分の好みを知るということが結局自分を知ることなんだと思う」というエントリーも書きましたが、物の好みを知ることが自分自身を知ることであるように、物を見ることそのものが日本の文化の有り様を理解することになるのでしょう。

物そのものへ自らの感性を通じて直接ぶつかることが大事

けれど、実際はこれほど多くの物が生活のなかにあふれているにも関わらず、ほとんどの人が自分の生活を取り囲む物にちゃんと目を向けていないのではないかと感じます。
物をじかに見る目を持たず、他人の評価やマーケティング情報を介してしか物を知ることができなくなっている。自分の眼で見て、自分で使って評価するということができなくなっている。知識ばかりに頼って、自分自身の生活そのものを織り成す物にきちんと目を向け、そこから何かを感じとろうとしていません。

柳宗悦さんの別の本『茶と美』にも次のような一文があります。

私が特に注意を促したいのは、美を対象とする限りは、「こと」の側から論じるよりも、「もの」にじかに触れることがいかに緊要であるかということ、次には「知る力」よりも「観る力」がいかに一層重要な決定力を有つかということである。
柳宗悦『茶と美』

「こと」を論じるよりも「もの」に触れる。「知る」よりも「観る」ことを大事にする。
これは僕自身、最近すごく感じていることでもありました。触れること、観ることを通じた感受性や直観の力を養うことの重要性は「頭で考えるのではなく、身体で直観する」や「感受性と行動力」などのエントリーでも書いてきたとおり。何かしらのメディアを通した情報にではなく、物そのものへ自らの感性を通じて直接ぶつかってみることが大事です。

知る前に観る

また、それは「生活のなかで養われる物を見る眼」でも書いたとおりで、その物を見る眼は、実際に生活のなかで大事に愛着をもって物を使うことでさらに磨かれていくものだと感じています。

「手ずれ」とか、「使いこみ」とか、「なれ」とか、これがいかに器を美しくしたであろう。作りたての器は、まだ人の愛を受けておらぬ。まだ務めをも果たしておらぬ。それ故その姿はまだ充分に美しくない。

使うことで見る目は養われ、使い捨てを前提にするのではなく長く用いられることを前提に作られた良き品物であれば使われることで物自体が魅力を増していくでしょう(「どうせ持つなら長く使えるものを」参照)。

「美を観る」ことは「美を知る」前に行われなければならない。
柳宗悦『茶と美』

知る前に観る。まさにそうだと思います。出来合いの情報から知るのではなく、自分が観て触れるなかで感じたことを情報化していくことを大事にしなくてはいけません。

「わからない」ことを恐れて感じることを回避してしまいがち

しかし、いまではこれが逆になっています。観るよりも前に知ろうとする人が多い。下手をすれば知るだけで満足してしまい、実際に観ない人もいる。「わからない」ことを恐れて自分で感じることを避けてしまいがちです。

そうした中で物が見失われていく。生活が見失われる。自分自身や日本という国やその文化が見失われてしまう。血の通った感情はそれらから切り離され、血の通わぬ言葉だけが、物や生活や自分自身や日本や文化のうわべを飾るようになる。

「デザインとは生活文化をつくる仕事」。いや、デザイン云々だけの話ではないでしょう。自分たち自身の感性や生活や文化そのものがただの情報と化してしまっているのだから。

物を生活から切り離して見ても仕方がない。美は「用の美」であって常にそれは実用とつながっていて、そうであるがゆえに文化に反映される。物が生活をつくり、生活が文化をつくる。そのためには僕らひとりひとりがこだわりをもって物に対峙する目を養う必要があるはずです。

仕事のため、金のためだけに物を作っているようではお話になりません。金でしか物を評価できないとしたら、もはや人間というより機械です。そこから抜け出すためには、日々の生活をどう過ごすかということから見直していくしかありません。自分たちの生活を、自分自身の文化を、自分の目の前にある物を評価するのになぜ自分の目よりも他人の知識に頼るのでしょう。僕はいま意識的に「知る力」よりも「観る力」を大事にする必要があるのではないでしょうか。

  

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