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2008年12月25日

マーケティングの顧客セグメントとペルソナ

何のためのペルソナを作るのか?
ペルソナを作ることがゴールではないのは、当然として、では、ゴールは何なのか。そのゴールに対してペルソナにどのような役割を担わせようとしているのか。

ユーザー理解のため、ユーザー視点でデザインをするため。それではまだ答えとしては曖昧です。
ペルソナは別の万能ツールではありませんので、ユーザーのあらゆる面を理解したり、デザインするために必要な情報のすべてを教えてくれるわけではありません。何を知りたいのか? その焦点が絞れていないとぼんやりぼやけた役に立たないペルソナができてしまうでしょう。

マーケティングセグメントとペルソナ

混同されがちなのがいわゆるマーケティングセグメントとペルソナです。あるいは今度はしていないけれど、両方に期待する役割をペルソナだけにまとめて担わせようと考えるケースもあります。気持ちはわかりますけど、それはむずかしいし、間違いを引き起こす要因になってしまうことは注意を促しておきましょう。

売れる仕組みをつくるためのマーケティングのための市場あるいは顧客のセグメントと、ユーザーがより使いやすいようインタラクションをデザインするためのユーザーモデルであるペルソナ。明らかに2つの分類はその目的が違います。一方は買ってもらうため、一方は使いやすくするため。分類の目的が違えば、人間のどの部分に注目して分類を行うのかという視点もとうぜん変わってきます

経験的なところからいえば、ある製品カテゴリー(例えば、携帯電話、例えば、オンラインバンキング)に対してかっこよいスタイルのデザインを求める人びとは必ずしも、その製品に対する理解のレベルが一致しているわけではありません。製品利用に関するリテラシーが高く誰に教えられることもなくマニュアルを見るでもなく、使っていくなかでほぼすべての機能を使えるなる人もいれば、見た目のかっこよさだけに惹かれているだけで、ほとんどの機能を使えない人、どちらもいます。
ユーザビリティ的な視点でセグメントを行うとすると両者はまったく別のユーザーグループで、したがって2つのペルソナとして別々にモデル化する必要があります。
でも、マーケティング的な観点からいえば、もしかすると見た目のデザインの良さで商品訴求を行うのなら、両者は同じ顧客セグメントに入るでしょう。

好み・嗜好と利用者の役割・ゴール

人がどういうものを好むかと、その人がどれだけ製品利用のための知識・リテラシーを持っているかには、そもそも相関する関係はないと思います。あるいは、使いやすさにはその人がどんな役割を持っていて、どんな仕事のために製品を使うのか、具体的にはどんな成果(ゴール)を求めるのかといったことに深いかかわりがあることは「道具の用途は生活や仕事のなかに埋め込まれている」で書きましたが、その役割-仕事-ゴールは、その人の好みとは何の相関関係もありません。ペルソナは本来的にはインタラクションデザインにつかうツールですので、とうぜん、利用者の役割・ゴールにフォーカスします。

もしマーケティングがその製品の機能-成果にフォーカスした訴求を行うのであれば、もしかするとユーザビリティ的な視点でのセグメントと一致することもあるかもしれません。そうではなく、製品の感性的な面にフォーカスして、そもそもの商品企画やマーケティングコミュニケーションを考えるのであれば、製品の使い勝手にフォーカスしたペルソナのセグメントと、マーケティング的な顧客セグメントが一致する理由はありませんし、現実に一致する可能性は低いと思ったほうがいいと思います。

ペルソナという手法を生み出したアラン・クーパー自身、こう書いています。

市場の量的な調査と市場セグメントの分割は、製品を売るためには非常に役立つが、人々が実際に製品をどのように使うかについては大して重要な情報を与えてはくれない。特に、振る舞いが複雑な製品ではそれが顕著になる。

こういうことがあるので、何のためにペルソナを作るのかが不明瞭だったり、マーケティング目的と製品のユーザビリティ向上の目的を両方担う役目をペルソナに与えようとすると、ペルソナそのものが曖昧で、実際に利用する際に何も語ってくれないペルソナ、間違ったことを語るペルソナができてしまうのです。それはユーザーあるいは顧客の理解が、何にフォーカスして理解しなくてはいけないのか、何のための理解なのかがブレている証拠なのです。

何のためのペルソナを作るのか? ここはしっかり明確にしたうえでペルソナの利用を考えないと失敗の元です。気をつけましょう。

 

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2008年12月23日

白川静 漢字の世界観/松岡正剛

白川さんの本を読むということは、文字という形態により言葉をあらわす人工物の世界観・体系、あるいは、それを用いる人間の観念や行為と形態との関係を探ることを意味します。それはハーバート・A・サイモンが1967年の『システムの科学』("The Science of the Artificial")ではじめて描いたデザイン思考(Design Thinking)という概念もその領域に含んでいます。ものの形を吟味することを仕事とするデザイナーがこうした関係性について無視するのはどうしたことか?と疑念をもたずにはいられません。
人間中心設計を高らかにうたっている人でも同様で、いまの人間や社会だけを前提に、あきらかにそれ以前からのスタイルの影響を受けているものの形をあれこれいうのは視野狭窄の感があるのはこれまでも指摘してきたとおり。例えば、ヘンリー・ペトロスキーが『本棚の歴史』で描いたような、本がかつて書棚に鎖につながれていたこと、蔵書を収納する施設(図書館)は収納と採光のトレードオフ的な関係があったことなどを知らずに本のレイアウトや版面のデザインを云々いっても、明らかに何かが不足していると感じます。

デザインやってる人で、ものの歴史をちゃんと学ぼうとする人は建築のデザインを唯一の例外としてとにかく少ない。なぜ、ある特定の道具の形は類似するのか、どうしてそうなったのかを理解しないまま既存の物の形を模倣する。形の意味を解せずに、形の吟味を行っているということですから、あきれたものです。そのことは1つ前の「漢字百話/白川静」でも書いたとおりです。人とものの形の関係、社会とものの形の関係など、まったく無視して、いったい何を根拠に形態の吟味をしているのか?

そんなわけで、そろそろこの本も紹介しておこうと思いました。

最初に『初期万葉論』を読んでから、ここ2か月弱のあいだに『漢字―生い立ちとその背景』『詩経―中国の古代歌謡』、『中国の神話』、『漢字百話』、そして、梅原猛さんとの対談『呪の思想―神と人との間』と、白川静さんの本を6冊読みました。

この松岡さんによる白川静入門書を読んだのは、『初期万葉論』『漢字―生い立ちとその背景』『呪の思想―神と人との間』を読み終えて、ちょうど『詩経―中国の古代歌謡』『漢字百話』を読みはじめた頃だったと思います。松岡さんによる白川さんの入門書が出るのを知って発売日の次の日に買ったのでした。白川さんの本そのものに満足していたので、入門書の位置づけであるこの本はすごく読みたいわけではなかったのですが、そうはいっても大好きな松岡さんの本なのでやっぱり買ってしまい、さらにすぐ読んでしまいました。



入門書

感想は一言でいうと「入門書だな」と、それがまず一番。

すでに何冊か白川さんの本を読み終わったばかりで、かつ、その内容に大いに驚きと満足感を感じていた僕にとっては、ちょっと物足りなさも感じられました。白川さんの本を読んだことがない人にとって、その偉大なる知の探索の道のりを垣間見る入門の書としては申し分ないのですが、すでに入門してしまっていて、その世界にはまってしまっていた僕には、旅先で実物を前にガイドブックをみるようなものでした。本物の存在感がすごくて、きれいに撮れたガイドブックの写真はちょっと物足りなかったというか。

特に『初期万葉論』での軽皇子の安騎野の冬猟を詠んだ人麻呂の歌の解釈のすごさは実際それを読んで白川さんの本にはまったくらいですから、松岡さんがその解釈を称賛するのを読んでも、なるほど、やはりあの解釈は独創的ですごいものなんだとあらためて認識できたくらいで、いつも松岡さんの本を読んで感じる感動はちょっと薄かった。

松岡さんの本を読んで、こんな感じをもったのははじめてで、やっぱり実物に触れるのは大事だなとあらためて思ったものです。

松岡正剛から入る

そんな個人的な感想をもったこともあり、紹介するのが遅れたのですが、まだ白川静さんの本を読んだことがない人にはぜひ入門の書としておすすめしたい一冊ではあります。

『外は、良寛。』『空海の夢』など、直接、実物に触れるには、ちょっと手の届かない良寛や空海の世界に触れさせてくれ、大いに感動をもらったのが松岡さんの本でした。『山水思想―「負」の想像力』では雪舟や長谷川等伯らの山水画の魅力を、『日本数奇』では武野紹鴎、利休や織部などの茶人たちの魅力を教えてくれたのも松岡さんの本でした。気軽に手に触れられない日本が生んだ極上の文化・知を、わかりやすく、かつ、その魅力を凝縮して教えてくれるのが、松岡さんの本です。

この『白川静 漢字の世界観』にしても、僕がまだ読んでいない『白川静文字講話』や『文字遊心』『中国古代の文化』などの本の魅力を伝えてくれていて、はやく読みはじめたい気持ちにさせてくれました(実際、松岡さんの本を読みながら、これらの本をAmazonのカートに次々入れていました)。

漢字の世界観

1つ前の「漢字百話/白川静」というエントリーでも書いたように、白川さんは漢字を日本の国字として捉えていました。「日本文化史研究/内藤湖南」でも先に紹介したように松岡さんはこの本のあとがきで「を「豆腐とニガリ」と題して、内藤湖南さんの「日本にとっての支那文化は豆腐のニガリのようなものだ」という説を紹介していて、日本文化はスープ状なものとしてあった文化の原液を中国というニガリで固めて豆腐にできたという説を紹介しています。そして、この視点を白川さんの「東洋学≒日本学」という態度の元にあるものとして見ており、『詩経』と『万葉集』を同時に読むという生涯を貫いた方針の根底にあったものとして紹介してくれています。
そう。白川さんという方は単に漢字を研究したのではなく、日本を東洋において捉えるための方法として甲骨文や金文などの漢字の原点を学んだのです。その知の視野はあまりに広くて、そして、とてつもなく深い。

白川静という巨知を語ることは、まずもって「文字が放つ世界観」を覗きこむことであり、古代社会このかたの「人間の観念や行為」をあからさまにすることであるからです。
松岡正剛『白川静 漢字の世界観』

と書く、松岡さんのいつにない緊張した書きっぷりもなかなかおもしろく、それでいて、その巨知である白川さんの世界を新書一冊に見事にまとめあげる手腕はさすがだなと感心させてもくれます。

言語の「言」と「語」とはあきらかに神と人とのあいだのコミュニケーションの姿をあらわしていました。
いや、そもそも言語の本来はそういうものだったのです。「言」は神にかけて言葉をつかうことをあらわし、「語」はその言葉の力を守るようにすることをあらわしていたのです。
松岡正剛『白川静 漢字の世界観』

まさにこの言葉が白川さんの「漢字の世界観」をあらわしているものといえるでしょう。そして、その視点の古代社会このかたの「人間の観念や行為」をあからさまにすることにもつながっていましたし、ニガリである中国と豆腐である日本を考えることにもつながっていました。

そんな白川さんの世界に触れるには、唯一にして絶好の入門書がこの一冊だと思います。



関連エントリー

2008年12月23日

Webサービスにおけるショートカットキーの原則

Webサービスにおいてもデスクトップアプリケーションと変わらない使用用途のものが増えています。そこで使用頻度が上がるにつれてほしいなと思うのがショートカットキーです。

ショートカットキーのユーザビリティ

よく使うソフトウェアにショートカットキーが実装されていると嬉しいものです。何度も繰り返す作業を簡単に行うことができるようになります。

今までは使用頻度が高いソフトウェアはその多くがデスクトップアプリケーションでしたが、Gmailを始めとしてデスクトップアプリケーションと遜色ないWebサービスが多数現れるようになってきました。

ただ、デスクトップアプリケーションと違い、Webサービスにおいてはそのショートカットキーの実装方法が共通化されているわけではありません。そこで、一度現状のWebサービスを比較し、ショートカットキーの原則を作ってみようというのがこのエントリーの趣旨です。

そのために、当ブログでも紹介しましたが、はてなの人力検索で質問してみました。その回答と僕自身がよく使っているWebサービスのショートカットキーをGoogle DocsにKeyboard shortcuts of 9 webappsとしてまとめてみました(英語のWebサービスが多いです)。

以下、このまとめにおいて導き出されるショートカットキーの実装原則です。

キーの割り当て

  • 使用頻度が高いアクションに対してはアルファベット1文字で実装する。一方、そこまで使わないアクションにはCtrlやShift、Altとアルファベット1文字を併用する。
  • そのアクションの頭文字をキーに対応させる。例えば、メールを新規作成する(compose)であれば、ショートカットキーはcにするなど。
  • Enterは実行。そのWebサービスにおける最も重要(もしくは使用頻度が高い)アクションに割り当てる。
  • デスクトップアプリケーションでよく使用されているもの(Ctrl+sで保存など)はできる限りそのまま使用する。
  • ページごとにショートカットキーが変わってもよい。

ページ、アイテム間の移動

  • kは「上へ」の移動を表すことが多い、またjは「下へ」への移動を表すことが多い。例えば、jを押すことによって、その下のメールやタスクにフォーカスされるなど。
  • 上や下への移動に加えて、横の移動(例えばタブなど)がある場合は矢印キーやShiftなどを併用する。
  • 異なるページへのリンクや何かにフォーカスさせるには、g then a(gを押してすぐにaを押す)などが直感的に分かりやすい。ちなみに、g then aはGmailの例であり、Go to AllMailの意味。

設定について

  • ショートカットキーはデフォルトではオフにしておき、ユーザによってオンにするかどうかを選んでもらう。
  • どこまでをショートカットキーでできるようにするか。全ての操作にショートカットキーを対応させるか、それともよく使うものだけをショートカットに対応させるか。
  • ショートカットキーの一覧(チートシートのようなもの)をショートカットキーで見れるようにする(例えば、helpの頭文字のhやクエスチョンの?など)もしくは、ユーザスタイルシートなども別途使用できるとよい(RTMの例

参考エントリー

2008年12月22日

漢字百話/白川静

「形のないものは本当は語ではありえない」

このことばを目にしたとき、僕は自分がどうして白川静さんの本にこんなに惹かれるのか、わかったような気がしました。人間にとっての形と意味あるいは価値。そして、その形を操る人間の日々の行為。僕はそのことにすごく関心がある。それは僕がデザインなんてものにずっとこだわっている理由とも関係しているのだろうと思います。
このことはまたあとで書くとして、まず、この本の内容に触れておくことにします。

ことばを保持する形

カナやローマ字は文字だろうかと白川さんは言います。ことばを記すのが文字なら、それはことばを記すものではないと言っています。本やbookはことばだけれど、ホンやhonは単に音をあらわしただけで、具体的な"本"を想起させるに足る単語性をもっていないと指摘します。ホンやhonは単語としての特定の形態をもたない、本やbookのようには。

漢字の識別の容易さは、1000分の1秒でも漢字の映像を把握できるという実験結果によっても知られているそうです。また、漢字であれば1秒間に7字把握できるともいいます。「おそらく文字記号として、これほど瞬間把握力にすぐれたものは他にあるまい」と白川さんは評しています。

さらに、白川さんは漢字を中国からの借り物として捉えるのではなく、漢字を日本の国語として捉えていて、訓のない文字は国語領域化されていないものとして次のようにいいます。

訓によってのみ漢字は国語化され、意味が把握される。訓のない字は記号にすぎない。
白川静『漢字百話』

漢字という文字は日本語において訓を与えられてはじめて、ことばになる。日本人が本という字を見て"本"を想起できるようになってはじめて、それはことばの形となるのです。

「漢字は記号というよりも、むしろ意味であり象徴である」のです。

約600年間続いた甲骨文・金文の時代

本書『漢字百話』はそのタイトル通り、100の短い話により、漢字という文字の体系からその象徴の方法、そして、その文字成立の背景として古代宗教や霊の問題、そして漢字学の問題としてある字形学、字音と字義の問題などを紹介しつつ、9章、10章では漢字が日本において国字化されていった歴史的変遷や現在(執筆時点)の漢字の問題について紹介しています。

漢字の元となった甲骨文・金文は殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)の第22代の帝といわれる武丁期から殷末、周の時代を経て、春秋前期までの約600年間、本来の形象と表記意識を失わずに伝承されたそうです。漢字は今から3000年も前に生まれ、その字形は甲骨文・金文の時代からは大きく変わっても基本的にその表意性を失わず、いまでは唯一の表意文字として現在の生活にも用いられているのです。

甲骨文・金文はなぜ字形変化が多いのか?

白川さんの本を読んでいると、甲骨文・金文で書かれた文字が以下のように複数の字形で示されていることが多く、中にはこれが同じ文字なのか?と疑問に思うことも少なくありません。





これはどういうことなのかとずっと疑問をもっていたのですが、次のような白川さんの説明を読んで納得すると同時に、その意味する内容に驚きを感じました。

字形に変化の多いことは、文字としての未成熟や不安定を意味するのではなく、むしろその構造的意味が十分に理解されていることによる、自由な表出とみなされるものである。(中略)これは当時の表記者である史官たちが、文字形象の本来の意味を十分に理解し、正確に伝承していたからであって、単なる記号に終始していたのでないことを示している。
白川静『漢字百話』

ようするに、当時の文字は似顔絵などの絵に近かったということです。

例えば、「文」という字は、人型の形象の胸の部分に心をしめす図形を記した文字で、それは当時の文身(いれずみ)の儀礼を象徴したものだそうですが、その心の図形が×などになることもある。
また、「字」という文字は、先祖の廟屋に氏族員の子どもが謁見する様を示したもので、その生育の可否を祖霊に報告し承認を受ける儀礼を意味していて、そのときに幼名である字(あざ)がつけられることを示すものだそうですが、この屋根のなかに描かれる人型もさまざまです。

ただ、描かれる具体的な形は変わっても、それが人の胸に刺青をものであることや廟屋に子どもが謁見する様が理解できれば、それが「文」であり「字」であることは理解できる。それは現在の文字のように形が決まっているものよりも、似顔絵などの絵に近いといえるのではないかと思います。形態の同一性が厳しく求められる記号というよりも、文字を構成する形態素それぞれが本来のものを想起させればよいという意味で、「むしろ意味であり象徴である」と考えられます。

形と意味

また、そのような字形変化を許す甲骨文・金文は、別の意味では物そのものに近いといえるのではないでしょうか。すべての物に近いというより、人間がつくりだす意味をもった人工物に。

例えば、急須はその形がまったく同じではなくても、それが急須であると認識されるのに必要な形態素を満たしていれば、どれも急須です。それほど長い歴史をもたないノートPCでさえ、それがノートPCと認められる要素を満たせばノートPCであるし、仮にその機能面ではすべてノートPCたる要素を満たしていても、それがノートPCとして認識されるに足る形態をもたなくては、人がそれをノートPCだと認めるかどうかは怪しいのではないでしょうか。

このようなことに目を向けると、最初に紹介した「形のないものは本当は語ではありえない」という言葉がまた違って感じられるようになります。

本書でも問題とされているように、漢字はもはや当初の象徴性を失い、それ自体は記号化されたものとなっています。器や突、類といった字に見られる「大」という形は本来「犬」と書くものであり、それらの字がすべて古代の犬牲の儀礼と関係あったことに由来するのですが、そのような本来の象徴性を失った現代においては、点があることに有意性を見出せません。
ただ、本来の象徴性を失っても、本は"本"を象徴しますが、ホンやhonはそうではない。表意的な文字ではない英語のbookにしても同様です。ことばは形と結びついて意味を有する。それは人工物がその価値をアフォードするのと大きく違いはないのではないか。そして、もちろん、それは人間の形の認識、意味の認識の性向によるものに違いありません。

ものの形を決めるということ

1つ前の「冬休みの読書におすすめする16冊の本」では、おすすめの本の紹介をしつつ、歴史上いろんなものが発明されてきたことをそれとなく紹介しておきました。

僕はいまデザインに関わる仕事をしていますが、ここしばらくずっと考えているのは、いまのように個人としてのデザイナーがものの形を決めるというのはとても特殊なことではないかということです。ヘンリー・ペトロスキー柳宗悦さんのように、ものの形を個人の創意ではなく歴史的・社会的創意としてみるほうが正しいのではないかと思うのです。甲骨文・金文がそうであったようにです。そのなかで個人のデザイナーが行う創意というのは、甲骨文・金文における象徴性を損なわない範囲での字形表現の工夫なのではないかという気がしています。

では、そのとき、いま、ものをデザインする現場において、象徴性を損なわない範囲、あるいは別の言い方をすればアフォーダンスを損なわない範囲というのを、現在のデザイナーが古代の甲骨文・金文の表記者であった史官たちのように本来の意味を十分に理解し、正確に伝承できているか。これは当然ながら非常にあやしいでしょう。
いま、ものの形をデザインするといった場合、この部分をもうすこしちゃんと考えていかなくてはいけないのではと思っています。そのあたりを考えるうえで、白川さんの本は僕にとって非常に参考になる資料なのです。



関連エントリー

2008年12月21日

冬休みの読書におすすめする16冊の本

今年もあとすこしですね。今年もいろんな楽しい本に出会えて幸せです。その中から何冊かをご紹介。冬休みの読書の本選びの参考にでもしていただければ。おそらくここで紹介する本は、他のブログのおすすめとはかぶらないでしょうし。

では、さっそく。
(文中の書籍名にあるリンクはそれぞれ本ブログでの書評へのリンクです)

古代社会の構想力

最初に紹介するのは、上田篤さんの『庭と日本人』、土橋寛さんの『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』、そして、白川静さんの『漢字―生い立ちとその背景』『初期万葉論』の4冊。この4冊に共通するのが、古代の祭祀社会におけるマナイズム、言霊や甲骨文、古代歌謡に託した呪的力の考察を通じて、現代の演繹的発想が力をもつ確実性の世界とは異質な、不確実性に彩られた世界に生きる人びとの構想力を探っている点でしょう。



『庭と日本人』では東洋における庭とは太陽祭祀などをはじめ神と遊ぶための儀礼の場であり、かつて日本の家屋には「ハレの出入口」と「ケの出入口」というように出入口を2つをもち、その一方の「ハレの出入口」は神が出入りする入り口として庭のほうに設けられていたことなど、庭と古代から日本人が抱いていた呪的な発想との関係を紹介してくれています。

『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』では、宗教が超自然的な存在としての神・仏の力に頼って、間接的に願望を遂げようとする行為であるのに対して、それ以前にあった呪術は人間が自然物や他者を直接的にコントロールすることによって、願望を遂げようとする行為であったことに注目し、『万葉集』にみられる花見・山見や草摘みの歌に古代の呪的儀礼のおもかげを見ます。

これは『初期万葉論』での古代歌謡の見方とも共通するもので、白川さんをこの『万葉集』にみられる呪的なものをおなじ古代歌謡である中国の『詩経』と比較しながら論じます。その古代の人びとの呪的な発想力を文字に見出しているのが『漢字―生い立ちとその背景』であり、文字の発生時に生まれた文字のほとんどが様々な祭祀における呪的な行為を示しているものであることを解き明かしています。

庭、歌、文字という、いまもその形を現在に伝えているものの形が古代人の呪的な構想力から生まれていることを知ったのは、この1年の一番の収穫でした。もちろん、古代人の構想力が生みだしたものには、ことばそのもの、神話や民話などの物語の構造もあります。これらはもはやその呪能が忘れ去られたものであっても、いまだに人間の思考や生活に欠かせないものであることが驚くべきところです。極端なことをいえば、古代にあって生み出されたこれらのものの形以上のものを、それ以降、人間が生み出せたかどうかは大いに疑問です。

   

中世の創造性

続いて紹介するのは、西岡常一さんの『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』、松岡正剛さんの『空海の夢』『山水思想―「負」の想像力』、内藤湖南さんの『日本文化史研究』の4冊です。この4冊が対象にするのは、先の古代からすれば時代が下った中世。内藤湖南さんの『日本文化史研究』に関しては、古代から近世までを扱っていますが、僕が注目するのはそのなかでも中世の歴史を扱った箇所なのでここで紹介しています。



『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』は、ほぼ同時期に読んだ『ふすま 文化のランドスケープ』と同じく本来ものづくりがもっていた自然や人に対する敬虔さに驚かされました。そして、自然に敬虔に学ぶことでものづくりのクオリティが今よりもずっと高かったということに。それがあったからこそ、柳宗悦さんが『工藝の道』などを通じて示された民藝運動に関しても理解することができました。呪的な発想は忘れてもものづくりにおいては自然に対する敬意を失っていなかったのが中世だったのだと思います。

とはいえ、呪的なものは宗教にとって代わられた。そのなかで書かれた文字やそれによって蓄積可能になった知といかに相対するかを真剣に考えたのが、仏教であったことが『空海の夢』を読むとわかります。物部氏などと同様に、古代の祭祀を司る氏族で、オーラル・コミュニケーションの時代において古言(ふること)を司る力をもっていた古代豪族・佐伯氏の出身であった空海。卓越した書の力をもち、多くの文献を読み耽った空海が、「坐る」という方法により、直立歩行で自由になった手を結びなおし、両眼をあえて半眼のソフトアイにして、繰り返し経を唱えることで自由な発話・思考から離れることで、進化を抑制しようとしていた仏教に身を投じ、自らそれをインテグレートしようとした試みは非常に興味深かったです。

一方、さらに時代は下って鎌倉・室町になると、中国の技術を学んだ日本の文化にも変化が訪れます。内藤湖南さんが『日本文化史研究』で、日本にはもともと文化のもとになるようなものがスープ状にあったのだけど、それをにがりのように豆腐として固めるには、中国文化という存在が必要だったとしつつ、日本文化の独立は応仁の乱以降に見たのは最近紹介したばかりです。そんな日本文化にとって重要な室町期の研究があまり進んでいないと述べるのは『山水思想―「負」の想像力』における松岡さんで、まさにこの本では山水画という中国の発祥の絵画あるいはその背後にある思想が室町期以降に日本化され、「負」の想像力、引き算の発想に変換されていく様を見事に描いていて、僕がいままで読んだ松岡さんの本のなかでも一番好きな一冊です。

   

世界と通じた江戸

さてさて、さらに時代が下って、日本では江戸時代。江戸といえば鎖国のイメージがあると思いますが、田中優子さんの『江戸の想像力 18世紀のメディアと表象』、タイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』、高山宏さんの『表象の芸術工学』、そして、バーバラ・M・スタフォードの『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』の4冊を読むと、いかに日本における江戸期が世界とつながっていたかということに驚かされます。



『江戸の想像力 18世紀のメディアと表象』が平賀源内や上田秋成が活躍し、『解体新書』が書かれ/描かれ、東錦絵と呼ばれる多色摺りのカラー版画が生まれ、鈴木春信の贋作浮世絵師だった鈴木春重が西洋のエッチング技法を学び最初の銅版画師・司馬江漢となった田沼意次治世下による重商主義の時代を描けば、『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』はそのすぐあとの松平定信が老中筆頭となり質素倹約を旨とした寛政の改革が行われた時代を描いています。そのいずれもが交通の発展、近代化の波によっておしよせる世界の脅威に対する反応として、文化にも色濃くその影響を浮かび上がらせた様を詳しく紹介してくれている様がおもしろい。平賀源内と田沼意次が海外との貿易で日本の銀が流出するのを止めようと海外貿易に値する国産品の開発を推し進めようと重商主義をしいたのに対し、そのあとの時代は海外との交通により次第に曖昧になりはじめた日本(=天下)というもののイメージを再び確固たるものとしようとして行われた視覚的復古主義の試みがいまなお日本のイメージとして流通しうる日本ブランドの創生に成功した点などは非常に興味深い。

そんな国家の境界をまたいだ交通がさかんになり、次第にビジネスが世界をまたいで軍事力とともに海を渡るのは、とうぜん日本だけの話ではない世界的な規模での話であり、と同時に各国が自らのイメージを再生産しなくてはいけなくなり、それと同時に言語やイメージの再整理、百科事典化が必要になったのも、この近代初期に世界同時的に起こったことだと見ているのが、高山宏さんの『表象の芸術工学』。英国王立協会などによる普遍言語の研究、アルファベット順の記述が採用されたエンサイクロペディアの出版、そして、松岡さんが『知の編集工学』で「ジャーナリズム」「株式会社、保険システム、保険会社」「政党」「広告」「クラブ、秘密結社」などの発明の温床となったとしたコーヒーハウスの登場など、江戸が独自に新たな仕組みの創出に励んでいると同時に、世界でも同様に言葉とイメージによる壮大な新システムの編集的創出が行われていたことを、高山さんはもう一冊の別の著書『近代文化史入門 超英文学講義』といっしょに紹介してくれています。

そんな言葉とイメージによる百科事典的な博物学の時代の思考法に着目したのが『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で、現代のテキスト中心の分析的で演繹的な思考・発想の限界を超えるものとして、イメージのもつ力を再認識させる新・人文学の境地を切り開いて、これもかなり興味深かった。バーバラ・M・スタフォードに関しては『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』も続けて読みましたが、これもまた非常に刺激的な一冊で、そこに言及してはいませんが、江戸の表象的思考に通じる発想法が感じられました。

   

近代はどう歩んだか、現代はどこへ向かうか

最後に近現代に関する4冊を。デリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』、柏木博『20世紀はどのようにデザインされたか』、佐治晴夫さんと松岡正剛さんの対談集『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』、川村二郎さんの『いまなぜ白洲正子なのか』です。いずれの本も、ここで紹介した古代から中世、近世を経て、近代がいかなる冒険を行ったか、そして、それ以前と切断を行い、それによっていかに現代の問題が生じているかを考え上で参考になります。



『ポストメディア論―結合知に向けて』は、白川静さんの著作とは別の観点から言葉というものを考えるのに参考になる一冊です。文字とお金の誕生が期を一にしているという話も興味深い。あるいはバーバラ・M・スタフォードのイメージ学や『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』で紹介したようなイコノロジーなんかとあわせて考えてみてもおもしろい一冊でした。また、「アルファベットの思考態度の主たる特徴は、「遠近法」の発明である」といった主張は、遠近法とはまったく別の風景画を生み出した東洋の思想と比較する意味で、先にも紹介した松岡さんの『山水思想―「負」の想像力』などと読み比べてもおもしろい一冊です。

また、20世紀を振り返る意味では、近代デザインの歴史を考察した『20世紀はどのようにデザインされたか』や、佐治晴夫さんと松岡正剛さんによる対話が奇跡的なオーケストレーションを生み出している『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』も文句なしでおすすめです。<私たちは「物を見る」ということについては、カメラから胃カメラまで技術は発達しましたが、どうもそれをもう一度、「経験資源」として自分の内側にフィードバックするという能力が衰えてしまっているんです>なんていう松岡さんのことばは、ケルコフやスタフォードの本や白川静さんらが描いた古代社会の話とつなげて読むとちょっとおそろしい気もします。おなじく佐治晴夫さんが養老孟司さんと対談している『「わかる」ことは「かわる」こと』もおすすめしておきます。

そして、最後にあげる一冊は『いまなぜ白洲正子なのか』。本当は白洲正子さん自身の著作『かくれ里』『お能・老木の花』をピックアップしてもよかったのですが、著者の川村二郎さんに対して「あんたねえ、好きなことを何でもいいから1つ、井戸を掘るつもりで、とことんやるといいよ。途中で諦めちゃあ、ダメよ、わかる?」と勧めた白洲正子さんの生涯を知ってもらいたいなと思ったので、この本を紹介することにしました。

   

といった感じで、今年読んでおもしろかった16冊をご紹介。
これらの本を通じて、現在もなお人間にとって重要なツールである、ことば、文字、歌、物語、庭、お金、宗教、風景、ジャーナリズム、株式会社、百科事典、日本というイメージなどがどの歴史的時点で生まれてきたのかということを感じ、その意味を知ってもらえればな、と思います。それを知ることで、今とは違った視野の広さを手に入れらることができ、自由な発想ができるようになると思うので。

来年もまたおもしろい本に出会えるといいなと思います。

2008年12月21日

ありきたりなシナリオからはありきたりなデザインしかできない

結構前に書いた「ペルソナで「普通のユーザー」をつくろうとしてはいけない」というエントリーに、levaさんからこんなコメントが。

調査データ分析・統合方法を知識レベルでも経験レベルでもまだまだ理解が足りてないがために、この指摘はずっしり来るなぁ。ありきたりなユーザ理解からはありきたりなシナリオしか描けないわけで

これをちゃんと受け止められるだけ、levaさんは筋がいいと思います。だって、僕自身、いまだにこの点に関しては毎回苦労しますから。毎回迷って、そのたびに頭を整理するためにこんなメモを書いたりします。



迷っていいんです。逆に、迷うことを嫌うのがいけないんです。
わからないこと、むずかしいことに気づいて、それをどうにかしようと問題視するのは筋がいいと思います。だって、そういう探究心がなければ、どこかで「ありきたり」にはまって、そこで終わりなわけですから。
ペルソナとかシナリオってやり方がわからないことを問題視する人が多いんですけど、それは関心を示す方向がそもそも間違っているんです。問題視すべきはやり方とかじゃなくて、利用者の理解をできるかどうかです。やり方はあくまで手段であって、求めるべきは結果のほう。その点、levaさんのコメントは的を外してないんですね。

ありきたりなシナリオからはありきたりなデザインしかできない

About Face 3 インタラクションデザインの極意/アラン・クーパーほか」で書いたとおり、シナリオを書くのはデザインの要件を抽出したり、デザインの形態や振る舞いを検討するために書くわけですから、ありきたりなシナリオを書いてしまえば、ありきたりなデザインができてしまうというわけ。もちろん、この「ありきたり」がいい意味での無難だが押さえるべきところはちゃんと押さえているというような意味での「ありきたり」ならよいのですが、大抵はほかとおなじように「ありきたりな」ユーザビリティ上の問題を抱え、「ありきたり」なくらい利用者のニーズを把握できておらず、「ありきたり」すぎて利用者の感性に訴えかける要素をもたないデザインになってしまうので困ります。

これは何度も繰り返し指摘していることですが、そういう結果になってしまうのであれば、何もわざわざ余計な手間をかけて調査をしたり、ペルソナというユーザーモデルを使ってユーザー理解を行ったり、利用シーンをシナリオに起こしたりといった作業を行わなくても、いままで通り、何の根拠もなくいきなり情報の構造化やそれを視覚化する作業に入ってしまったほうがよっぽど効率的です。

抽象レベルでの検討は苦手?

ただし、それはペルソナやシナリオを用いた上流レベルの検討が無駄という話ではありません。どういうわけか、日本のデザインの現場では、抽象レベルの検討が苦手なのか、それを避けてすぐに具体的なレベルの話にもっていきたがる。それで上流工程での検討があやふやなまま、下流での作業がはじまってしまう。実際は、上流工程の話って、抽象的な話をしてるわけじゃなくて、利用者側の話をしてるだけなんですけどね。

これまた「iPhoneへの道は一日にしてならず」に対するコメントで、stj064さんが書いてくれてましたが、「今の現場で難しいのは、グランドデザインがないことに疑問を持たずに走り出してしまう国民性が存在するということ。隣国なのにこうも違うのかと。」というくらい、利用者側の利用シーンを想像することが必要なグランドデザインのレベルの検討が行われないという状況が発生してしまっています。なんでこうもわかりにくいものに対するアレルギーがあるのかと不思議に思います。一見、わかりにくくブラックボックスになってしまっているところにこそ、イノベーションの鍵は隠れていることが多いはずなのにね。これじゃあ、日本にはデザイン思考(design thinking)なんて根付きませんね。自分たちの立場とは異なる利用者の世界に足を踏み入れるのを避け、自分たちの当たり前の世界に閉じこもったまま、それが無難なやり方だと思いこんでいては、今はよくても未来がないということにどうして気がつけないのか。そういう構想力の欠如に非常に危機感をおぼえます。これは若い世代もそうかもしれないけど、どっちかというと僕の歳前後またはそれ以上のオジサンの世代ね。考えたり努力して勉強したりするのがヤになっちゃったなら、エラそうにふんぞりかえってないで若い世代に道を譲りなさいって思います。

日々の生活のなかで、どれだけ人間に関心を向けられるかが重要

さて、そういったわからなさへの拒否感を捨て、「ありきたり」なペルソナやシナリオができてしまうのを避け、本当の意味で人間中心設計のアプローチを有効なものにするためには、やっぱり人間一般や個々の利用者に対する想像力を養わないといけないんだと思います。単に人間中心設計のプロセスでデザインを行うときだけ、それを心がけてもなかなか上達しません。
それよりも普段の生活で、いかに人間のこと、社会のこと、歴史のこと、人間が暮らす環境のことについて好奇心と疑問をもって日々を過ごしているかが問われます。人間中心設計の方法だけを学んでもダメで、それ以上に日々の過ごし方、行動・頭の使い方のほうがやっぱり大事なんですね。

ありきたりを避けるには、自分の頭のなかの思い込み、当たり前に頼るのをやめる必要がある。また、さらに避けるべきは他人の当たり前、世の中の常識ばかりを当てにすることでしょう。自分の当たり前で、他人であるユーザーを想定するのではなく、自ら積極的にユーザーの世界にある理解不能な面に入り込んでいかないといけません。なんでユーザーはこんなことをするのか? なんでユーザーはこんなことがわからないのか? です。
自分が理解できる世界に安住するのではなく、自分がわからない、理解できない世界に日々積極的に足を踏みこむ努力をしていかない限り、想像力を養うことはできないと思います。「わかること。それはガイドブックも道案内もない冒険の旅で書いたとおり。ペルソナやシナリオを書くなかで、わかっていることを再確認して安心するのではなく、今までわからなかったことに出会って自分自身がそれまでとは違うものになることからしか、本当の意味で「ありきたり」でないものの創造はできないはずです。

そういう普段の生活での積極的な好奇心や問題意識の中から、ありきたりでない本当に利用者の核心をつかんだユーザーモデルであるペルソナを作れるようになったり、ありきたりな利用シーンではなく利用者の本当の生活のなかでの問題をつかんだシナリオを想像できるようになるんだと思います。
これに関してはいつまでたっても、日々精進が大切だと思います。



関連エントリー

2008年12月20日

About Face 3 インタラクションデザインの極意/アラン・クーパーほか

ゴールダイレクテッドデザインと名づけられた、ペルソナ、シナリオを用いたインタラクションデザインの手法を詳しく紹介する一冊。すでに何度かほかのエントリーで紹介してきましたが、あらためて。

本書によれば、インタラクションデザインという用語が使いはじめられたのは、本書の第2版からだそうです。初版では単にソフトウェアデザインと呼んでいたと書かれています。ユーザーインターフェイスデザインという用語もあるが、より広い範囲を対象にするため、インタラクションデザインという用語を使っているそうです。より広い範囲とは、形態、機能、内容、動作が複雑に絡み合っている状態を指しています。特に動的な要素であり、利用者との相互作用である機能と動作といった振る舞いの動的な要素をいかに形態や内容といった他の要素と統合してデザインするかということを重視して、ゴールダイレクテッドデザインというインタラクションデザインの方法が紹介されていると考えればよいでしょう。

ゴールダイレクテッドデザイン

本書で紹介されているゴールダイレクテッドデザインのプロセスはおおよそ次のようなステップから成り立っています。



  • 調査
    • プロジェクト定義(目的、目標の決定)
    • 物的調査(既存製品・仕事の見直し)
    • 関係者インタビュー(製品の可能性と制約の理解)
    • ユーザー調査(観察&インタビュー)
  • モデリング
    • ペルソナ
    • その他のモデル(ワークフロー、環境、人工物)
  • 要件確定
    • コンテキストシナリオ
    • 要件仕様
  • フレームワークの設定
    • 情報や機能のビジュアル要素(オブジェクト)の定義
    • フレームワーク(オブジェクトの関係、概念のグループ化、フロー、ストーリーボードなど)
    • キーパス・シナリオ(主要なパスの詳細なインタラクションの記述)、チェックシナリオ(主要なパス以外のインタラクションのチェック用のシナリオ)
  • デザインの精緻化
    • 詳細デザイン(見かけ、インターフェイス、振る舞いなどの精緻化)
  • 開発サポート
    • デザイン変更(新しい制約条件や締切への対応)

基本的には、利用状況の把握、要件の抽出、設計による解決案の作成、デザイン案の要求への適合性を評価する人間中心設計プロセスをより具体化して、現場での作業レベルにまで落とし込んだものとして見てよいでしょう。

特徴的なのは、ペルソナというユーザーモデルを使うこと、各段階でコンテキストシナリオやキーパス・シナリオと呼ばれる利用者と製品のあいだのインタラクションを物語風に記述したシナリオを用いて、製品の要件の洗い出しや、具体的なデザイン案の形態や振る舞いを検証する形をとっていることでしょう。

シナリオをベースにしたデザイン

利用者と製品のあいだで複雑なインタラクションが発生するインタラクティブな製品が増えてくるはずの市場環境を考えると、デザインの現場では今後ますます、このシナリオ思考が必要になってくるのではないでしょうか。

利用者の目的やゴール、利用する際の優先事項(作業効率やわかりやすさ、楽しさ、など)を考慮した上で、実際に利用者が製品を利用するシーンを思い浮かべながら書いたシナリオ。さらに利用者が製品を操作する細かい手順・インタラクションを記述したシナリオ。前者はコンテキストシナリオといい、後者をキーパス・シナリオと呼びます。こうしたシナリオを使って利用者が実際に製品を使う流れのなかで製品が備えておくべき要件、具体的な形態や振る舞いをデザインしていく。シナリオをベースにメンバーあいだでデザインコンセプトの共有がなされ、適切な議論が行われる。こうしたデザインのやり方が今後ますます必要になってくるのではないかと思います。

シナリオを書くためには、人びとの暮らしや仕事のなかでの行動に対する想像力が必要です。もちろん、それには人びとの暮らしや仕事に関心をもてないといけません。暮らしや仕事のなかで人びとがどんな役割を演じ、何をなさねばならない役目を担っているのか、その役目を果たすために人はどんな作業をどのように行い、どんなアウトプットを求めているのか、また、その作業をどんな気持ちで行っているかに関心をもち、理解に努めるところからシナリオ化の作業ははじまります。

人びとの暮らしや仕事を理解するために実際に現場に行って観察やインタビューをするのは大事なことです。でも、それ自体は手段であって目的ではありません。目的はあくまで人びとの暮らしや仕事に役立つものをデザインすることにあるのですから。その意味ではシナリオを書くのも、最終的なデザインを生み出すためのプロセスの一部です。
よく何を観察してよいかわからない、どんなシナリオを書いていいかわからないという声も聞きますが、たぶん、そういう疑問をもつ方はそもそもデザインする姿勢が間違っているのだと思います。人びとの役に立つものはどのような形態、どのような振る舞いをするべきかを自分自身で考えようとすれば、自分が何を観察によって理解すべきか、何をシナリオという形式で定義すべきかは自ずと見えてくるものです。少なくとも、実現すべきビジョンがあって、そのためにデザイン作業を行うなかで実際に観察やシナリオ作成を行ってみれば、何を知る必要があるか、何を記述する必要があるかは作業のなかで見えてきます。それでも、やり方がわからないというなら、本書を読むべきです(あるいは、こちら)。

要件、要素、分類と構造化、そして、視覚化・振る舞いの検討へ」でももうすこし詳しく紹介しましたが、ペルソナを作成したあとのコンテキストシナリオ以降のデザイン作業は次のようなステップで行っていきます。

  • コンテキストシナリオ
  • 要件の定義
  • 要素のリスト化
  • 要素の分類(情報の組織化)
  • 要素・要素群の階層構造化(情報の構造化)
  • UIフレームワークの検討(情報構造の視覚化・具体化)
  • キーパスシナリオ、チェックシナリオを用いたインタラクションの検討

シナリオを用いるのは、要件をリストアップするためであり、その要件を要素に変換するためであり、データ要素と機能要素を階層構造化し関係性を定義するためであり、それに基づき画面構成や画面遷移を検討するためであり、操作による振る舞いを検討するためです。このステップが適切に行われていないと「無数に並んだ福袋からいかに必要なものを見つけてもらえるようにするか?」で書いたような問題が生じてしまいます。そうしたデザイン作業をメンバーが同じものをみて検討できるようにするツールがペルソナであり、シナリオです。このあたりまでは拙著『ペルソナ作って、それからどうするの?』でも詳しく述べていますが、本書の優れている点は、さらにそのあとの具体的なUIのデザインやインタラクションのデザインのヴィジュアル面や振る舞いのディテール的な面に関してもきちんと押さえているところです。

デザインの精緻化

「Part 3 インタラクションのディティールのデザイン」がそれにあたります。

  • Chapter15 検索:データをもっと簡単に手に入れるために
  • Chapter16 アンドゥを理解する
  • Chapter17 ファイルとセーブを考え直す
  • Chapter18 データ入力の改良
  • Chapter19 ポイント、選択、直接操作
  • Chapter20 ウィンドウの振る舞い
  • Chapter21 コントロール
  • Chapter22 メニュー
  • Chapter23 ツールバー
  • Chapter24 ダイアログ
  • Chapter25 エラー、警告、確認
  • Chapter26 異なるニーズに対応するデザイン

といった章立てで、デザインのディテールの精緻化をどのような点に注意して、何を考えて行えばよいかが示されています。こうしたディテールの検討ができるように、その前の段階でシナリオによる要件抽出、キーパス・シナリオ、チェックシナリオ、そして、スケッチによるUIフレームワークといった3つの異なる視点を使って様々な角度からUIの形態や振る舞いを検討していく。いうなればプロトタイプを認知的ウォークスルーのような手法を用いつつ、フォームブレスト的に検討する作業が、ディテールの精緻化の前に置かれているのです。
ペルソナというユーザーモデルのところでも、詳しくは述べられていませんが、Contextual Designのワークモデル分析な考え方も取り入れられていて、似たようなテーマの本を書かせてもらった僕からしても、こんなによくまとまった本はないなという感想です。

インタラクションデザインの4つのP

この本のあとがきにこんなことが書かれています。

私たちは、ゴールダイレクテッドメソッドの構成要素を4つのPだと考えている。すなわち、プロセス(過程)、パターン、プリンシプル(原則)、プラクティス(実践)だ。
アラン・クーパーほか『About Face 3 インタラクションデザインの極意』

そして、本書では最初の3つのPを扱ってきたが、実践に関してはこのあとがきにすこし記述するにとどめています。

そのなかでこんな記述があります。

ユーザーのニーズに合致した製品を世に送り出すためには、非常に多くの人々の苦労を慎重に調整することが必要になる。私たちが経験から学んだことによれば、インタラクションデザイナとして力を発揮するためには、製品に四方八方からかかってくるさまざまな力の間でバランスをとるための責任のかなりの部分を自ら担うつもりにならなければならない。
アラン・クーパーほか『About Face 3 インタラクションデザインの極意』

と。昨日の「感謝の気持ちと他人の目」を書いた理由もまさにこれだし、拙著『ペルソナ作って~』で「みんなで手を動かしながら考える」を最重要テーマとし、その実践方法の記述に多くを割いたのも、これが理由です。プロセス、パターン、原則は個人でも学ぶことができます。しかし、実践となると、そうはいきません。異なるスキル、異なる考え、異なる利害関係をもった者同士が、おなじ目的(ユーザーのニーズに合致した製品を世に送り出す)のために協働しなくてはなりません。ここが日本のデザインの現場ではうまくいっていないことが多い。ひとつにはデザインを単なる視覚表現だと狭く捉えてしまう誤解と、もうひとつには異なる環境で仕事をしている人との協力し合って仕事をすることの苦手さが理由としてあるでしょう。ただ、そんなことを理由としてあげるだけで、その理由の排除に努力しないのだとしたら、いつまでたってもまともなインタラクションがデザインされた製品は生まれてきません。

この本で、個人的なスキルを向上するためのプロセス、パターン、原則の3つのPについて学びつつ、残りの1つのPである実践がどうすればうまくできるかを考えるのもよいのではないでしょうか。
組み込みソフトやウェブなど、インタラクティブな製品・サービスの企画やデザインに関わっている方は、ぜひ年末年始の休みにでも読むことをおすすめします。読んで得することはいっぱいあっても損はないと思いますよ。拙著『ペルソナ作って、それからどうするの?』を読んでくださった方には特におすすめします。



関連エントリー

2008年12月20日

感謝の気持ちと他人の目

ここ数ヶ月間忙しい日々が続いていましたが、この1週間が終わってようやく峠を越えたようです。精神的にもかなり緊張した状態がずっと続いていましたが、やっとほっとした気持ちです。これからほったらかしにしてしまっていた執筆作業もはじめようか、と。関係者の皆さん、お待たせしていてすみません。

そういえば、さっき浅野先生のブログにおもしろいことが書いてあるのを見つけました。

この夏あたりからブログを始めた連中が息切れしてきたようである。ブログの更新というのは、手間よりも常に自分の行動や思考を他人の目でみているかだと思う。

「常に自分の行動や思考を他人の目でみているか」。納得です。
この数カ月、余裕のない中でもなんとかブログを書き続けたのって、まさにこういう視点が僕自身にもあるからです。逆に忙しくて気持ちの余裕がないときだからこそ、自分の思考を客観視できるようアウトプットしておくことで自分のバランスを保っておこうという気持ちが強かった。忙しい分、内容はいつもに比べてアレでしたが、それでも息切れしないためには逆に走り続けるほうがラクだと思うんです。

現代は面倒を避けすぎています。面倒なことはまた、それをやると気持ちのいいことでもあります。面倒を避けると、気持ちよさも少し失います。

外から自分を見つめられる目を置くというのは、まぁ手間がかかるといえばそうだし、面倒といえば面倒なんですが、なんだかんだいっても結局ラクできるものです。まぁ、これは実際にやってる人にしか伝わらないかな。

「感謝の気持ちと他人の目」の続き

2008年12月18日

無数に並んだ福袋からいかに必要なものを見つけてもらえるようにするか?

それ、正解。

タッチパネルが使いにくいのには原理的な理由があって、それは何となく、ボタンの位置も機能もプログラマブルに変わるってとこにあるんじゃないかと思っている

UIにおいて重要なのはそこ。あるべきところにあるべきものがないと人は混乱しやすい。また、そこにあるものが何かがフタを開けてみないとわからないようでは困ってしまう。プレビュー機能が意味をもつのもそういう点。

「無数に並んだ福袋からいかに必要なものを見つけてもらえるようにするか?」の続き

2008年12月18日

NIKEiD Blazer「REALCITY.」クリスマスイブに何が起こるのか気になる



2008年12月24日 INTO THE CITY というキーワードがあるだけで、今のこと何のこっちゃわからないNIKEiD Blazer「REALCITY.」のティザーサイト。
線のみで描かれた街の背景の上に、これまた線だけで描かれたNIKEのシューズがプカプカ浮いてるデザインが印象的です。

クリスマスイブの日に何が起こるのでしょうか?こういうサイトを見ると、ついつい探ってしまうのです。

気に入ったのが、ブログパーツタグのコピーの仕方。ちょっとかっこいいです。


しかしやたら長いな。

REALCITY.|NIKEiD Blazer
http://nike.jp/nike_id/blazer/

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