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2008年11月27日

ほぼ日手帳 2009 COUSIN(カズン)を申し込んだ

試行錯誤のあげく、やっぱりほぼ日手帳を申し込んだ。

しかも、今年から登場したCOUSIN(カズン)。
いままでのほぼ日手帳とくらべて、大きさも重さも2倍。

カバーは「マロン×ブラック」を選んだ。

2008年11月26日

2009年の手帳見直し中

手帳の使い方と課題をまとめて、2009年の手帳作戦をたてた。

現状(2008年)

・ほぼ日手帳
・メモ用の手帳

ほぼ日手帳もようやっと書き込むのになれてきた。
しかし、中長期的な視点でスケジュールを管理できなかった。

2009年

そこで、「超整理手帳」を使ってみることにした。
さらに、プロジェクト管理機能が充実した「Creator's Diary」も追加した。

2008年11月25日

愛情とは

古代においては、魂の授受が恋愛の出発点であり、根拠であったそうです。

古代の人びとにとって愛情とは何であったろうか。愛情とは、まずたがいに霊の往来が可能であることであった。それで人びとは自己の霊を相手に与え、また相手の霊をわが身によりそえるという表現をもって愛情を確かめあった。
白川静『詩経―中国の古代歌謡』

これって現代の愛情の定義よりよっぽどはっきりしてますね。w



物と愛情

では、どうやって古代の人は霊をたがいに往来させていたのか? たがいの魂の授受を行っていたのでしょう。

これが意外とはっきりしているんです。

魂の授受といっても、魂はもと形なきものである。しかし古代の人びとは魂を物によって象徴することができた。わが国では玉が魂と同音であることからも知られるように、珠は魂の象徴であった。
白川静『詩経―中国の古代歌謡』

これが真珠のような珠のこともあれば、勾玉のようなものの場合もあります。また、玉の形をした果物のような場合もあったそうです。

女性が男性に対して果物を投げ(投果)、男性がその返報として身につけた珠を返したそうです。もちろん、ただのお返しではなく、末長い愛情のしるしとしてです。とうぜん、その気持ちがなければ返答はしませんでした。

これって今でも大事な人にプレゼントをすること、大事な人からもらったものは大切にしたいと思う気持ちにも通じます。物に対して愛情に感じるというのは実はとても人間的なことなのかなと思います。

認知プロセスと愛情

また大切な人にもらったものではなく、自分で買ったものでも、物は使うことで愛着が増してきます。買った時や使っている際に何か特別なエピソードが絡めば、さらに愛着は増したりもします。

すこしまえに紹介した『工藝の道』でも柳宗悦さんがこんなことを書いています。

「手ずれ」とか、「使いこみ」とか、「なれ」とか、これがいかに器を美しくしたであろう。作りたての器は、まだ人の愛を受けておらぬ。まだ務めをも果たしておらぬ。それ故その姿はまだ充分に美しくない。

先の書評エントリーでも触れましたが、この『工藝の道』で柳宗悦さんが書いていることって実は、ドナルド・A・ノーマンが『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』のなかで書いていることに非常に近いものをもっているんですね。
例えば、上の引用部に近い言葉もすぐに見つかります。

製品のデザインは目標を誤っていることが多い。一定の仕様に添ってモノが構成され作られるが、多くのユーザーは見当違いだと気づく。購入した既製品は、かなり満足に近いところまではいっているかもしれないにしても、ニーズにピッタリくることは少ない。幸いなことに、我々は別々の品物を自由に買って、自分にとってちょうどうまく機能するようにそれらを組み合わせることもできる。自分の部屋は自分のライフスタイルに合っている。自分の持ち物が個性を反映しているのだ。

ユーザーの3つのゴール」というエントリーでも触れたとおり、ノーマンはこの『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』で、人間の認知的プロセスを3つのレベルに分けたうえで、そのプロセスそれぞれに対応したデザインスタイルが必要であることを述べています。

このうちの行動的レベルの認知プロセスが人間の日常的行動において中核をなすものであり、かつ他の2つのレベル(本能的レベル、内省的レベル)に影響を与えます。行動的レベルの認知は、特定の物とのインタラクションが重ねられればられるほど、深くなっていく性質をもっています。柳さんのいう「手ずれ」や「使いこみ」や「なれ」は、そういった行動的レベルの認知だと考えていいはずです。

ものづくりと愛情

そうした行動的レベルでの認知の変化が物への愛着へとつながっていく場合がある。

今日のユニヴァーサル・デザインは、誰でもどこでも使えるものをよしとしますが、誰でもどこでも使えるようなものは、ものと人間の交流を薄くします。使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるなら人は使いこなします。ガラスは落とすと割れるからこそ、人はていねいにあつかいます。そして、人はものに愛着を感じることになります。自転車は練習しなければ乗れません。しかしそれを達成したときの喜びは大きいものです。そうした経験こそ、人とものとの触れ合いになるのです。

「使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるなら人は使いこなします」。そうそう。これが普通のデザインであってほしい。人が価値を感じる魅力をもち、かつ丁寧に大切に使いたいと思う魅力をもっていてほしいです。

ここで内田繁さんがいう経験こそが行動的レベルでの認知に大きく関わるものです。もちろん、経験には内省的レベルに影響を与えるエピソードをあわせもつものもあるでしょう。
大事な人にプレゼントされたという経験が物への愛情をより高めることがあるのはすでに述べたとおりです。さらにプレゼントされたものを大切に使えば使うほど、物への愛着はより高まります。ただし、ここでは注意が必要です。プレゼントされたものが大切に使って味わい深くなるようなものではなく、すぐに飽きてしまうようなものだったり、使いこむことで味わいよりも汚れが目立つようなものであったりすれば、せっかくの大事な人からもらった愛情も半減してしまうのではないでしょうか。いまのものづくりはそこまで配慮されているでしょうか。

そうした物はたがいに惹かれあう男女の魂の授受には向いていません。でも、いまつくられている物の多くは買ったばかりのころは新しくてピカピカしていても使っているうちに薄汚れてきて使いたくなくなるものが多くないでしょうか?

ものづくりの場に神は宿っているか?

田中優子さんは『江戸はネットワーク』のなかで、江戸期の俳諧連句や歌舞伎などの芝居における座では必ず神棚に神を祭ったことを紹介してくれています。

連句の座が神霊の世界に根を張っていることと、芝居もまたそのような性質をもっていることとは、単なる偶然の一致ではない。おそらく、連によって成立しているほとんどのジャンルが、それぞれの神との関係で成り立っているにちがいないのだ。ちなみに、これは個々人の信仰や意識の問題ではなく、文化の枠組の問題である。

俳諧連句にしても歌舞伎にしても、元を辿れば、古代の歌謡や歌舞に通じます。それらは元々神に奉納するものとして祭祀の場で詠われ舞われたものです。江戸期に至ってもそこに神棚があるのは不思議ではありません。

それだけでなく、そうした神への祭祀は、農事やものづくりとも結びつくものだったのです。ものづくりは最初から神とともにあり、物には神や霊が宿ったのです。そうした物に自らの愛情を託し、愛する者との魂の授受の依り代として用いたのは、行動的レベルを中核に、3つのレベルの認知プロセスを通じて物と関わっている人間にとっては、とうぜんのことだったのかもしれません。

そう考えると、物と愛情、認知と愛情、ものづくりと愛情の関係に関しては、古代を生きた人々より現代に生きる僕らのほうがはるかに鈍感なのかもしれません。人の認知そのものに関しても、いまのものづくりの現場のほうが古代から近世にかけての現場よりもはるかに理解できていないんじゃないかと思ってしまいます。

いま、ものづくりの現場に神は宿っているでしょうか? 神が不在の場でつくられたものに人は愛着を感じることができるのでしょうか?

愛情、愛着の感じられない物ばかりつくるのではなく、使うことで愛着を増すような物をつくれる感覚をいまの僕らも取り戻せればいいなと思います。

   


関連エントリー

2008年11月24日

ハーモニー・アイさんからアクセシビリティに関するDVDが発売されています!

NPO法人ハーモニー・アイさんから『ユーザー視点のWebサイトづくり』というDVDが発売されます。今、当ブログのフッターに貼り付けているバナーがまさにそれですね。

NPO法人ハーモニー・アイの理事長の馬塲さんには一度お会いしたことがあり、アクセシビリティ×NPOという橋渡しをする先駆者としてすごいなーといつも感激しています。本物のWebアクセシビリティー・セミナー「知ってる・やってるつもりになっていませんか?」などですね。

仕様や規格も大事なのですが、個人的にはもっとユーザの言動をどのようにデザインプロセスに取り込んでいくのかという点について興味があるところなので、障害を持つユーザのユーザビリティテストなどはものすごく関心がある分野であったりします。

書籍やセミナーではないので、会社として買っておいていろんな人と共有することもできるのかもしれませんし、個人で購入していただいてもよいのかもしれません。とにもかくにも見ておいて損はないと思います。ちなみに、11月30日日曜日までに予約していただいた方には、通常価格7,500円が5,500円になるとのことです。

2008年11月22日

老いてなおマッケンローは雄々しい

バンダナ、そして腕を突き上げる姿。
すっかり年はとったけど、その雄々しさは変わらない。
彼のサーブを見て、サウスポーが美しいことを知った。

勝負を楽しむどころか、気合いの入りまくった表情に楽しい気分になる。

関連サイト
ジョン・マッケンロー - Wikipedia

2008年11月22日

疑うためにはまずは信じないと

いったんは信じてみないと疑うこともできませんよ。

白川静本人のスゴさは認めるけど、その業績すべてを妄信するのは危険。今から業績再評価が始まるんじゃない?

わからなくはないですが、でも、本当に業績再評価がはじまると思うなら、まず自分が率先してはじめなきゃいけないと思うんです。業績再評価を他人任せにしていても、いつまで経っても埒はあかないと思います(それはあとで説明)。

自分で再評価をはじめるには、最初から疑ってかかるよりはとりあえずその人が言っていることをまずはそのまま理解して、信じてみて、その上で自分でどこがおかしいかを考えていくのが正解なんじゃないかと僕は思います。
なので、最近の白川静さん関連エントリーは僕なりの「業績再評価」でもある。基本、僕のスタンスはとりあえずその人の言うことに従う。そして、それを信じていろいろ展開するなかで、矛盾が出はじめたら、それがその人の論の限界かどうかをあらためて問う。そうやって検証したほうが自分に納得がいく評価になると思うからです。

他人事じゃない。結局はどこかの時点で自分自身で評価しないといけない

結局、他人の評価を待っていても、それが役に立つかどうかはかなりあやしいと思うんですね。

というのも、仮に誰かが白川さんの業績を再評価したとしますよね。じゃあ、その評価自体が信じるに足るかはいったい誰が評価するのでしょうか。そう考えると、結局、どこかの時点で自分自身が評価を下さないといけないときがまわってくるんです。もちろん、そのためには評価を行えるだけの準備が自分自身にできていないといけません。であれば、僕なら最初から他人の評価を待つより、同時に自分でも評価の準備をはじめます。そのほうが手っ取り早いので。

それとも、最後まで自分自身での評価は回避して、多数決的におおぜいの意見を集約して、それで判断しますか?

寄合と呼ばれる村の会議は、全員一致の結論に達するまで何日も話し合ったことが、歴史や民俗学の資料でわかっている。多数決という方法は村にとっては、どうしても全員一致の意見に達することのできないときに取られた「いたしかたない方法」であって、決してほめられる事態ではないのである。

多数決というのはある意味では自分の力で判断することができない人たちが集まった場合の「いたしかたない方法」だと考えたほうがいいと思います。やはり白川静さん自身がそうしたように自分が疑問に感じることがあれば自分自身で何年もかけてじっくりその問題を問うべきなんだと思います。

絶対の真理はない。すべてその時点で一番うまい説明でしかない

それから、そもそも信じる信じないという場合に、なにか絶対的な真理みたいなものを想定してしまってはいけません。現在、ある問題をもっとも状況をうまく説明できるものをとりあえず真理と呼ぶのであって、ある説明を再評価しなくてはいけないのは、それが疑わしいからじゃなくて、まさにそれが現在の真理だからです。そして、やはり、その真理を疑うためには、それを信じたうえで、それ以上にうまい説明がありうるかを問わなくてはいけないのでしょう。

それを問う方法は2つ。
もっと他にうまい説明をしてる人を探すか、自分自身がそれ以上のうまい説明を考え出すかです。
いずれにしても、どちらがうまい説明かを検証するためには疑う対象をまず理解する必要があるのはいうまでもありません。何かを疑い、その疑いの正しさを証明しようとすれば、やはり一度は自分自身で疑う対象を、腹のなかに飲み込んでみるしかないんですね。

「罪を憎んで人を憎まず」のスタンス

あと、もう1点。たとえ、何かの論を疑う場合でも「罪を憎んで人を憎まず」のスタンスが必要だと思うんです。別に論のどこかに間違いがあったことが明らかになったとしても、その人自体の仕事を全部否定したり、ましてやその人自体を否定する必要なんてどこにもないのですから。
安易に、疑う単位を人にしてしまうのはよくなくて、あくまでその人が実際に言った、書いた論を対象に批評の目を向けなくてはアンフェアです。それに人に対する好き嫌いと、論の正しい正しくないを評価する視点はちゃんと分けて捉えられる力をもたないといけないですしね。

先の例であれば、白川静という人を疑っても仕方がなく、白川静さんの論を疑い検証しなくては意味がないでしょう。そうではなく何十年も一心に研究を続けた方に向かって「今から業績再評価が始まるんじゃない?」なんて他人任せにたった一言言い放つのはあまりに非礼です。仮に論が間違ってもその仕事に傾けた情熱、努力は称賛に値するし、決して真似できないような凄みを感じさせるものですから。

その意味では、冒頭のコメントを書いた方にも別に敵意とかをもってるわけじゃないんです。とにかく、そういう風なスタンスで臨んでしまうともったいないと感じたんです。
あの発言で済ませてしまうには、あまりに白川静さんの学は偉大すぎるものだと思うし、そう言ってしませてしまうより騙されるつもりで読んでみても損はないと思ったから申し訳ないですが例としてあげさせてもらいました(そういうことなので、お気を悪くなさないでくださいね)。もちろん、白川静さんに限った話じゃなくて、もっと一般的に考えても、すでにある学問に対して最初から信用に足るかどうかと疑ってかかって、誰かが評価してくれるのを待つというのはもったいないと思うんです(まぁ、本当に興味がもてないのだったら、それはそれで仕方ないので無視するのはアリ)。

今ある仮説を疑う際の3つの注意点

そして、わざわざここでこれを書いたのは何も白川静さんを擁護したかったからでもありません。だって、別に僕がそんなことするまでもなく白川静のすごさはいまのところ認めざるをえないと思いますから。

そうではなく、これを書いた理由は、ここまで挙げたように以下の3つは大事なことだなと思ったからです。

  • 評価を他人任せにすることはできない。結局はどこかの時点で自分自身で評価しないといけないときがくる
  • 絶対の真理はない。すべてその時点で一番うまい説明でしかないと捉えないと大きく間違う可能性がある
  • 何かの論を疑う場合も、「罪を憎んで人を憎まず」のスタンスが大事

明らかな嘘や間違いは別として、いったんは他人の論は騙されたと思って興味を示した方が結局は自分を磨くのには役に立つと思います。そのくらいの授業料は払わないと何の勉強にもならないのかな、と。

焦らず、じっくり、自分の直観と頭と体をつかった労力を信じてみることが、他人を疑うことより大事だということは、まさに白川静さんや先日紹介した『いまなぜ白洲正子なのか』の白洲正子さんから学べることです。

   

関連エントリー

2008年11月22日

インクルーシブデザインワークショップ終了しました。

11月19日水曜日、インクルーシブデザインワークショップが無事終了しました。当日の雰囲気はto-Rの西畑さんリクリのブログで上げてくれています

また、当日の内容等については参加していただいた皆さんの感想やレポートがリクリのトラックバックに集まっていますので、そちらもご参照ください。後日、その時に使用したスライドなどは公開したいと思っています。

というわけで、今回は運営者としてインクルWSに関わったわけですので、その側からの感想や裏話などを。

運営の感想

  • そもそもインクルWSを開催したいと思ったのはインクルーシブデザインワークショップに行ってきたよ!のエントリーをご参照。逆算すると、ちょうど4ヶ月間このワークショップのために動いていた。
  • 僕が主に担当していたのは京都大学のインクルーシブデザインユニットさんとのさまざまな調整や話し合い。
  • 開催にあたって最も大きな課題だったのが日程の問題。インクルーシブデザインワークショップは原則として毎月19日に開催されているため、ほかのWeb系のセミナーのように土日に開催するというのが難しかった。
  • その次が会場の問題。いくつかの市民会館等も候補にあったのですが、最終的にはデジタルハリウッド大阪校に会場を貸してもらうことに。しかし、会場はau以外の携帯電話の電波がつながらないという環境。テーマが携帯電話なのに電波つながらないってどういうこと?みたいな話し合いはあった。
  • リクリメンバーを中心にいろんな人にいろんなことを手伝ってもらった。実施日程、会場、告知サイト、携帯モック、プレスリリース、懇親会会場、ファシリテーター、会場作りなどなどなど。特に何度かSkypeで複数名が集まって話し合いを持てたのは非常に大きかった。感謝。
  • 企業系セミナーではないので、できる限り多くの人たちを運営者側として巻き込んでしまうこと。サービスを受ける側と与える側に分かれてしまっては残念(この点はもっと次回でも生かしたい)

インクルーシブデザインやアクセシビリティ

  • 今回は携帯電話。次回こそはWebサイトで、というのはみんなから言われた気さえする。やる?てか、僕以外でもよいのでは?
  • ただ、何か特定のプロダクト(例えば、A社のWebサイトなど)を具体的に改善するためにインクルWSを開催するのは違うかもしれない。インクルWSはあくまプロダクトをリードユーザ(障害者や高齢者など)と協力してデザインするというそのプロセスそのものに重きを置いているから。インクルーシブデザインユニットの塩瀬先生もおっしゃっていたが、もしプロダクトの改善に主軸を置くのであれば、ペーパープロトタイプなどの手法も混ぜ込んでもよいかもしれない。
  • デザイナーと障害者が出会う機会を提供すること。できれば協同作業ができること。アクセシビリティの書籍を読むよりも、セミナーに出席するよりも生の声が一番大事。

こんなところでしょうか。もう少しアクセシビリティについて思うこともあるのですが、それは今後のエントリーで徐々にでも。インクルーシブデザインユニットの皆さん、リードユーザの皆さん、ファシリテーターの皆さん、運営者の皆さん、そして参加者の皆さん、ありがとうございました、お疲れ様でした。

2008年11月21日

いまなぜ白川静なのか

最近、白川静さんの本を読んで紹介しているのですが、どうも人気がないようです。
僕の紹介の仕方がつまらなそうに思わせてしまうのか、自分とは関係のない分野の話と決め込んでしまっている人が多いからなのか、あるいは、すでに皆さん読まれているからかわかりませんが、理由はどうあれ、まだ白川静さんに触れたことがない人はぜひどれでもいいので一冊読んでみることをおすすめします。



どれがいいか迷う人は『漢字―生い立ちとその背景』から読まれることをおすすめします。
この本に関しては、いま半分ほど読んだ『白川静 漢字の世界観』で、松岡正剛さんがこんな風に書いています。

文字のひとつずつを解明するだけでなく、文字がそのような形や音という根拠をもたざるをえなかった古代社会の祈りや恐怖や欲望や期待を解明することと、文字それぞれがことごとく不即不離になっているのです。その連携的な解読の中核に漢字マザーの発見がいくつもあったのです。そこが白川学のすごいところであり、私が1970年の『漢字』に衝撃をうけたところでした。
松岡正剛『白川静 漢字の世界観』

そう。白川学は「すごい」んです。僕など、まだ3冊しか読んでないので、すでに書いた書評以上のことはいまの時点ではいえませんが、漢字の研究を通じて古代の中国および日本の祭祀、習俗、歌謡などの世界を浮かび上がらせてくれるのを読んでいると、その知の世界にどんどんのめりこんでいきます。

白川静という巨知を語ること

先の本の冒頭近くで松岡さんは「うまく話せるかどうか、とてもおぼつかない」とめずらしく慎重になっています。というのも松岡さんは「白川静という巨知を語ること」は、以下のことに値すると捉えてるからです。

  • 「文字が放つ世界観」を覗きこむこと
  • 古代社会このかた「人間の観念や行為」をあからさまにすること
  • 中国と日本をつなぐ「東洋思想の根底」をそうとうに深くめぐること
  • 白川さんの研究人生そのものに貫通していた「気概と方法」に手や声や体をもって直截にふれること

まさにこれこそが「いまなぜ白川静なのか」と題したエントリーを書こうと思った理由に通じることですし、さらには「いまなぜ白川静なのか」そのものの答えだともいえると思っています。

難解にして、深甚

「白川さんの著作も白川さんの漢字世界観も、正直いって難解です。いや、深甚です」と松岡さんはいいます。けれど、続けて「その難解でありながらも深甚であるところがたまらなく魅力的で、かつそのように漢字のもつ世界観のことや、東洋の言語思想や日本の文字文化について語る白川静がほぼ一世紀にわたってありえたということが、最も白川的であることのメッセージだと私は思う」とも書いてらっしゃいます。

これはまさにそのとおりだと感じます。白川さんの本には難解でありながらもじっくり読むことで魅力を感じる深さがあるのを感じます。その世界にどんどんのめり込ませてくれる魅力があります。

にもかかわらず、この数十年の日本に決定していたのは、そのように「白川的であろう」とすることでした。
何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題なのです。ですから、白川さんの本を読む、あるいはその研究を辿るということは、私たちにほぼ陥没して欠落してしまっているであろう「アジアの根本にひそむ深甚な世界観」にじかにふれるということであって、ということは、そのような白川的世界観を読むには難解な印象などものともせずに、白川さん同様に「東洋学≒日本学」に立ち向かってみるということなのです。
松岡正剛『白川静 漢字の世界観』

「何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題」。本当にこれはどうにかしてほしいし、どうにかしないといけないと思います。わかりやすさがダメだというのではなく、わかるやすくなければ興味を示せない姿勢が問題だと思うのです。難解なものに腰を据えてじっくり関わっていこうという姿勢がとれないということが。

二相ではなく不二

僕の印象でいうと、アジアの世界観にふれるのが難解かつ深甚にならざるをえないのが、それが西洋のような還元主義や唯物的で分析的な思考をもたず、かつ、その結果生じてしまう要素がバラバラになって異分野間の連絡が通じないような事態に陥ることも回避できるような、統一的な視点をもっているからだと思っています。柳宗悦さんが『工藝の道』で書かれた言葉を引けば「二相ではなく不二」としてみる感覚が東洋に共通する感覚としてあり、そのややこしい不二という立場をとるからこそ難解にもなるし、深甚でもいられるのではないか、と。

ジョン・ノイバウアーが『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』で描いてみせたような、ルルスの“解読の術”、ライプニッツの“数学的知の体系”を経て、シュレーゲルやノヴァーリス、マラルメに連なる西洋的な結合術(アルス・コンビナトリア)とは別の、不二による統合的な思想が東洋には元来存在していたのだと感じ、それこそが白川静さんが研究していた
「東洋学≒日本学」の先にあるものではないかと想像しているのです。そして、それはバラバラの情報を統合することができずに右往左往しているいまだからこそ必要な知ではないかと思うのです。

東洋的な結合の術に向けて

その意味では、最近紹介したばかりで同じく「結合術」をサブタイトルに含んだデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を読んだときの関心ともつながりますし、これも前に紹介済みのバーバラ・M・スタフォードが『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で取り上げているような問題(『ヴィジュアル・アナロジー』では「ライプニッツの存在論は美学と合して、個を、個を
超えるものとハイパーリンクするところの、還元せず繋げるひとつの巨大プログラムを形づくっている」といった言及もある)にもつながっていきます。

そういう観点から、白川静さんの本は、特に情報デザイン、インタラクションデザインに関わる仕事をしている人にはぜひ読んでほしいと思っています。これがいまのインタラクティブ製品の問題を解決するための突破口に将来的につながっていく/つなげていかなくてはいけないはずのものであるから。西洋の物真似をがんばっても下手くそにしかできないくらいなら、東洋的な方法を生みだしてそこで勝負していかないとだめだろうと思うんです。そのためにもぜひ。

もちろん、それ以外の人でも言葉や文字、人間の思考や行為、そして社会におけるあり方などについて興味を持っている方にはおすすめです。とにかく読めば衝撃をうけるはずですので。

僕自身はいまは松岡さんの本と並行して、白川さんの『詩経―中国の古代歌謡』を読んでいますが、何を読むか迷っている方は先にも書いたとおり『漢字―生い立ちとその背景』をおすすめします。
ただ、やっぱり難解なのはちょっとと思う方は、はじめての白川学入門書として書かれた松岡さんの『白川静 漢字の世界観』から読むか、梅原猛さんとの対談形式なので読みやすい『呪の思想―神と人との間』から読まれてみてはいかがでしょうか。

   

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2008年11月20日

第5回「月刊インタラ塾」でプレゼンします。



2008年11月26日(水)18:30〜アップルストア銀座で開催される、ピクルス主催の「月刊インタラ塾」にファイブミニッツプレゼンゲストとして出演します。

詳細はこちら↓
第5回「広告営業力 - 風とバラッド/ワイデン+ケネディ編」

メインゲストは「風とバラッド」の戸練直木さんと「ワイデン+ケネディトウキョウ」の松永有子さん。すごいひとたちに紛れ込んでひとりだけ肩書きがおかしい人がいます。ごめんなさい。

今回は「皮肉屋流自分マーケティング」というタイトルで、新しいプロモーション活動についてお話したいと思います。

月刊インタラ塾
第5回「広告営業力 - 風とバラッド/ワイデン+ケネディ編」

開催日:2008年 11月26日(水)
時間:開始 18:30 〜 終了20:00(開場18:00)
場所:Apple Store 銀座 3F
参加料:無料

[メインゲスト]
戸練 直木
風とバラッド株式会社/アカウントプランナー
kazepro/代表取締役
松永 有子
Wieden+Kennedy Tokyo
アカウントスーパーバイザー

[ファイブミニッツプレゼンゲスト]
トミモトリエ(皮肉屋)
鈴木拓生(株式会社リクルートメディアテクノロジーラボ)
長澤龍(株式会社ハドソン 宣伝本部宣伝部 マーケティンググループ)

月刊インタラ塾
http://intarajyuku.net/

2008年11月19日

足りないのは思慮深さ

これはごもっとも。

一般に、インタラクティブな製品が私たちを苛立たせるのは、機能が足りないからではなく、思慮深く振る舞わないからだ。
アラン・クーパー『About Face 3 インタラクションデザインの極意』

アラン・クーパーはそう書いたうえで、「思慮深い製品の特徴」として以下の項目をあげています。

  • ユーザーに対して関心を示す
  • ユーザーに対して敬意経緯を払う
  • 先が見える
  • 常識を働かせる
  • 人のニーズを予測する
  • 用意周到だ
  • 自分の個人的な問題で他人に負担をかけない
  • ユーザーに必要な情報を提供する
  • 洞察力がある
  • 自信を持っている
  • あまり質問をしない
  • 穏便にエラーを収める
  • ルールを曲げるべきときを知っている
  • 責任を取る

いつも同じパソコンを使ってるのに、どうして違うサイトで買い物したり、何かを申し込むたびに、毎回名前や住所を入力しなきゃいけないの(いい加減覚えてよ)。
いつまで経っても僕の好みややりたいことをわかってくれないのはどうして?
保存しますか?って、そりゃ編集したんだから保存するよね、常識的には。
なんで一回アプリを終了したらアンドゥ(戻す)できなくなるの?
しつこく確認メッセージ出すけど、それ、僕の問題じゃなく君の問題だよね。

まったく気がきかないったらありゃしない。
もしこんな店員がいたらどうよ?って考えると、いかにインタラクティブシステムが要求するコミュニケーションが思慮に欠けるかということです。

昔、矢野さんが、人間中心設計の必要性を説明するのに友達へのプレゼントを考える例を挙げていました。
でも、特別の日に何をプレゼントするかを考えることも大事かもしれませんが、普段から相手のことを考えて自分の振る舞いを見直すことのほうがそれ以上に大事なんですよね。



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